〜2020.04.10

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じいちゃんが亡くなった。

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今85だっけ、86だっけ?いや87かもしれない。
その程度だった。でも悲しいという気持ちがとりあえずあって、ちょっとだけ安心した。

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正直いって、あまりじいちゃんとの思い出はない。

私の実家が出来たのはおそらく私が二才のときで、父さんがじいちゃんばあちゃんを連れて別の所に住んでいた時期もあったけれど、結局じいちゃんばあちゃんだけあの家に戻ってきた。離婚したのに、母方と父方の家族が、世帯は違えど同じ家に住んでいる光景は妙だったけれど、何だかんだ私は高校を出るまで一緒に住んでいた。

でも、会話した記憶はほとんどなかった。物心着く頃には何となくじいちゃんが苦手だった。私はそもそも、記憶のないうちから父さんが苦手で、父さんの父さんなんだから苦手で当たり前だったのかもしれない。
じいちゃんばあちゃんのいる三階にはわりと遊びに行っていて、ばあちゃんとはよく遊んだけれど、じいちゃんは「そこに居た」記憶しかない。
子どもとか、いかにも苦手そうな人だった。可愛がってくれていたとは思う。でもたぶんどうしていいか分からなかったんだろうな。私もそうだから、きっとこれは父譲りなんだと思う。お互いに歩み寄れないから、結局今日まで、たまに法事で会う親戚のおじいさんみたいな距離感だった。

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いつから体調悪かったんだっけ。
私の知る限り、脳梗塞を三回やった。
中学のとき、おそらく二回目のとき、深夜に救急車で運ばれたのをうっすら覚えている。
三回目は多分私が旭川にいる頃。実家にはたびたび帰っていたけど、三階に顔を出すことはまずなかった。ばあちゃんに呼ばれたときくらい。
行かないから、ますます行きづらくなった。

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大学辞めて実家に帰ってきてから、一応、顔を見せに行った。
久しぶりに見たら、知らない人みたいに弱って痩せこけていた。でも面影があるかないかも思い出せない程度には、そもそも顔をはっきりと覚えていなかった。

病院で毎日腐るほどすれ違った、この世のありとあらゆる「おじいちゃん」の集合概念の、だいたいあそこらへんがうちのじいちゃんです、みたいな感じだった。

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じいちゃんは毎日昼も夜も関係なく大声でばあちゃんの事を呼んでいた。うるさくて寝られなかった。それを怒るばあちゃんもうるさかった。父さんが来るときだけ静かなのも腹が立った。ばあちゃんが耳が悪いのをいいことに、「うるせぇよ」とかまあまあデカめの声で上の階に向かってって叫んだ。

自分も手伝えよって思った。でも出来なかった。薄情な人間だなと思って悲しくなったけど、それだけだった。

喉の筋肉めちゃくちゃ強いのか知らんけど、誤嚥とかも全然なかった。それでも日に日に弱ってはいくし、ばあちゃんも明らかに疲れていたから、どんどん家に出入りする人が増えた。週一でくる訪問医、二日に一回くるヘルパー、三日に一回くる入浴介助、それとどこの誰さんかよく分からない親戚が手伝いに来たりもした。

一階と二階には私しか居なかったけど、それでも自分の家じゃないみたいだった。毎日コソコソ支度して、コソコソ家を出て、外で勉強して、出勤して、クソみたいなオッサンと酒飲んで酔っ払って、やっぱりコソコソしながら帰ってきた。

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母さんは、旭川から戻ってきた私と入れ違いで家を出ていった。今さらなんで?と思ったけど、母さんもこれをずっと味わっていたのかと思うと納得した。
七人で住み始めた家、気づいたら三人になっていた。

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単純にうるさいとか、落ち着かないというのを別にしても、確実に死に向かっている人間が寝ている真下で生活するのは、あまり気分のいいものではない。エネルギーが吸い取られるような気持ちになった。
誰に強制された訳でもないのに、なんとなく、粛々と暮らさなければならない気持ちにさせられた。

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お姉ちゃんは実家に顔を出す度に、三階にも顔を出していた。分かってるのか分かってないのかわからないけど、じいちゃんと会話っぽい何かをしていた。

思い返しても私が最後にまともに話したのは高校生のときだ。顔を見たのはそれから十回もないと思う。

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年末年始には毎年みんなで集まっていた。
元々あの家に住んでいた全員、離婚した父も、居心地が悪くて出ていった母方のばあちゃんも、みんな。
私は毎年毎年嫌だった。冷静に考えて意味がわからないので。一人二人と実家を離れているのに、なんのためにまた集まっているのか?
乾杯をするギリギリまで部屋にひきこもっていた。「彩恵ちゃんは反抗期だから笑」とか言われるのが何より許せなかった。死にたかった。そんな理由な訳がない、全員頭おかしいのかな。殺そうかと思った。内実は何もかもが違うのに、形だけが永遠に繰り返されるパーティー、昭和の漫画みたいにテーブルごとひっくり返したらお母さん泣くかな。泣かないんだろうな。私が泣くんだろうな。

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一昨年の秋頃、母さんに、もうこんなの辞めようって言った。
そうだよね〜変だよね。笑
それだけで終わった。随分あっさりしていた。
壊すのって簡単だな〜と思った。自分で言い出したくせに、悲しかった。

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去年の大晦日、さすがにどこの店もやっていないから、仕方なく家で勉強したりテレビ見たりしていた。
わざわざ、ばあちゃんがせっせと料理を作って持ってきてくれた。これくらいで十分だよ、って言うのに、あれもあるよ、これもあるから、って何度も戻ってはお盆に乗せて持ってきた。
二年前まではみんなで紅白を見ていたテーブルで、腰の悪いばあちゃんが階段何往復もして運んできた料理を食べて、一人でジャニーズのカウコンみてヘラヘラ笑ってTwitterに勤しんでるわたし、鬼かな。

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一時期は、もうひと月もたないかも、と言われていたじいちゃんは結局、わたしが東京へ発つその日まで、毎日夜中に声を上げるし、おそらくそこそこご飯もたべて、変わらずに生きていた。ばあちゃんとは私が家を出る前の日に会った。たまたま階段で会っただけだけど。
何もしていない孫に二度目の入学祝いをくれた。ありがたく受けとった。申し訳ないけど、いつだってお金は大事だから。
次の日の昼過ぎ、何も言わずにこっそり家を出た。
心の中でごめんなさいをした。

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東京にきて、引越しを手伝ってくれた叔母さんと家で飲んだ。父さんの妹。
父方の人たちの中で、私が唯一まともに話せる人だった。うちの人たちは兄とか姉ばかりだったから、妹の叔母さんは何となく気が合うような気がした。元北高生だったのも多分ある。

叔母さんから、じいちゃんが誤嚥性肺炎になったと聞いた。私が家を出た次の日だった。一日早ければ顔見に行ったのにな、って一瞬思ったけど、やっぱり一日後で良かった。

ばあちゃんが彩恵のこと心配しているよ、今日もメールがきた、と言われた。心外、ではなかった。そりゃそうだ。私が夜な夜な出かけていることもおそらく知っていた。でも何も聞かない人だったし、私も最後まで何も言わなかった。

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変な夢を見た。
私には産まれたばかりの娘がいた。
赤ちゃんを抱っこしてそのまま学校に行って、教室に入った。みんな良くしてくれて、娘も静かで、私も当たり前に授業を受けていた。
家に帰って、母と今後のことを話していた。姉もいた。
彩恵なら大丈夫だよ、昼間は預けて学校行って、夜は一緒に暮らせる寮を探したから、お母さんも困ったら助けに行くし、みたいなことを言われた。なんだそれ。
どう考えても状況がシングルマザーだったから、やっぱり私の中に「お父さん」はいないのだなと思った。

私は割と夢を覚えていて、たまに記録したりもするけれど、思い出す限り子どもを産んだ夢は初めてで、妙な気持ちだった。子どもなんか大嫌いだけど、自分の娘はなんだかんだ可愛かった。

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起きた。
珍しく七時すぎに起きた。早いな、と思って、二度寝まではいかないけれどうつらうつらしていた。
スマホを見たら、父さんからLINEが来ていた。

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じいちゃんが、亡くなった。

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こんなご時世だから、葬式には行かないことになった。私も姉も、この時期に東京から札幌に、しかもじいさんばあさんばかりの葬式会場に行くのは流石にやめた方がいいとの事だった。
そうか、葬式にすら行けないのか。
結婚式を取りやめた人の話をTwitterでいくつか見た。オタ垢で繋がっている友達も取りやめたと言っていた。それでも、結婚式なんて生きていればいつかできる。でも葬式は、今日しかできない。

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コロナがなかったら、私は葬式に行ったのかな。
「行きません」とは言えないから、という理由だけで行ったかもしれない。でも、飛んで支度をして泣きながら飛行機に乗って帰るなんてことはどっちにしろ有り得ない話だった。
コロナのせいで葬式にすら行けなかった可哀想な孫の振りをして、コロナに心のどこかで感謝して生きていくのかもしれないと思うと、あまりに情けなくてしょうもなくて涙が出た。そのままじいちゃんのことを考えたら、なんとなくじいちゃんのことを思って泣いたような気分になった。

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(いま根掘り葉掘り聞くつもりはないけれど、4月9日に死んだのだとしたらあまりに縁起がよろしくないし、10日に死んだのだとしたら、私はまた10という数字を嫌いになる。)

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不謹慎だけれど、きっとこれからばあちゃんは急に弱っていくのだと思う。そういう人なので。自分のためには生きれない人、自分の親の世話にあけくれて、十余年経って今度は夫の世話をして、それも終わって、あの馬鹿でかい家にたった一人になった。

親戚の家に行くのかもしれない。というかそうしてほしい。元々は趣味の多い人だったから、これからはせめて自分のために生きてほしい。何もしてあげなかった私が言うことじゃないけど。

あの家どうするんだろうな。荷物は置いとくしにしても、庭とかどうするの?じいちゃんが倒れてからはばあちゃんが手入れしていた庭、冬囲いとかもう取ったっけ。
まあ今考えることじゃないけど。

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ばあちゃんが圧力鍋で作るカレーが好きだった。
父さんがじいちゃんの顔を見に来ているときに、ばあちゃんは必ずカレーを作って、重い鍋をもっておすそ分けに来た。そのときには私はばあちゃんと話ができるし、父さんが三階にいることを知って、いつも以上にコソコソ生活した。

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私がばあちゃんのカレーを食べることはたぶんもうない。
じいちゃんとの別れは、ばあちゃんとの別れなので。

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ごめんだけど、私はばあちゃんのメアドも知りません。

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面白いくらいバラバラになっちゃったうちの家族を、良くも悪くも、ギリギリで繋いでいたのがじいちゃんだった。じいちゃんはベッドから動けなくて、どこにも行けなくて、みんな多少なりともじいちゃんのことを気にかけていたから。それがもう無くなるんだなぁと思った。
なんだかんだ悲しいかもなと思ったけど、やっぱり私は安心したし、清々しい気持ちだった。

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こんなこと今から言うのも酷い話だけど、ばあちゃんの葬式にはちゃんと行きたい。なんていうか、けじめとして。

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家族ってなんだろう、みたいな、めちゃくちゃありふれた悩みで苦しめられた22年間だった。

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じいちゃんに挨拶をするのはいつになるのか分かりませんが、どうか安らかにおやすみください。

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85年ないし86年、若しくは87年、お疲れ様でした。

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END

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