かつては、神秘的なセレスヴェイル湖の美しさと、植物に富んだ環境から、観光地として人気を博していた街。
現在は往時ほどの活気こそないが、寂然とした空気は、むしろ街が持つ本来の名に相応しい――『静かに咲く花《サイレント・ブルーム》』。
年々さらに数を僅かにしていく観光客を相手に、住民たちは細々と昔ながらの暮らしを続けている。
この言葉を、兄に届けることができるかどうか、それすら今は判らない。
未来は、まるで目の前を塗り潰す真っ白な霧の中のようだから。
だが、遺しておくことにした。
自分が「皆と違う」ことは、物心ついたころから、当然の現実だった。
鏡に映すまでもなく、理解できること。
ただ貴方の前に居るときだけ、それは意味のないことになった。
単なる「弟」という存在になれる。その時間が、どんなに救いだったか。
貴方の中に、僕の姿はどう映っていたのだろう。一度、話してみたかった。
兄さん。
不器用に、ずっと守ろうとしてくれた貴方のことを、今も考えている。
今はただ、もう一度お前の声を聴きたい。
沈黙を追い払うように、いつも言葉を尽くしていたお前に甘えて、ろくに伝えたい想いも伝えずに来たのだと、手遅れになって気付いた。
必要な言葉だけを、などと、本当に必要なものも選べない怠惰の弁解をして。
お前がくれた信頼に見合うほど、お前を十分に理解できていたのだろうか。
勇敢で、賢明で、正しいと思えば自分を他人の糧にすることすら厭わない、その姿が理解できず怖かった。
与えられた言葉に従うだけでなく、自分の在り方に向き合っていた存在が、お前だったのか。
我が弟。
この手に残っているのは、お前を取り戻したいという願いだけだ。
このあたりにある湖が、結婚の名所でさ。
水蒸気かなんかのせいで霧が多いんだけど、真っ白に覆われた景色がキレーだってんで。
純白って言えば、結婚にぴったりだろ? だから式場なんか建てて割と流行ってたわけ。
だけど神秘的も度が過ぎると気味が悪いってことか、そのうち怪談になってさ。
霧の湖で式を挙げると、神様が花嫁を取りに来るぞって。
そんで、女を取られないためのお呪い《おまじない》も流行りだした。
しかじかの祈祷をした護符の糸で、花嫁の指と指輪を結んでおくのさ。
さてとある敬虔な男が居て、拝み屋にしっかり金払って、きちんとお呪いをして式に臨んだ。
ところが……コツゼン! 霧の中でちょっと目を離した一瞬、花嫁は消えちまった。
可哀想な花婿は昼夜なく探して回ったけど、桟橋の上に糸を結んだ指輪だけがコロンと転がってた。
どうやら指輪にだけ糸を結んで、左手の薬指に結ぶのを忘れていたらしい。
指輪じゃなくて、花嫁を縛らなきゃ意味ねえよなあ?
「――指輪じゃなくて、花嫁を縛らなきゃ意味ねえよなあ?」
弟と共に、片田舎の町を後にして一週間。助手席にだらりと身を投げだした友人ヴェセルは、とりとめなく暇潰しの怪談を披露している。運転の交代を申し出てくれる気配はなさそうだが、そんなことはどうでもいい。ピアスの気懸かりは後部座席にあった。
「寒いか?」
バックミラー越しに低く問うと、緊張した様子で窓の外を見詰めていた弟の眼が、ふわりとこちらを向いた。兄の鋭い金の眼光が、弟の白銀の瞳に射し込む。成長しきらない若木のような肩に、無造作に着せられたサイズの合わない分厚い革の上着は、ピアスのものだ。
着の身着の儘。だが、あのまま町に弟を置いておくことは、絶対にできなかった。
「……すぐに落ち着ける場所を探す」
「このへんなんにもないからなあ。湿気もキツくって……」
ピアスの言葉にヴェセルの欠伸混じりの声が重なったとき。それに、一切の前兆はなかった。
フロントガラスが、突如として白く塗り潰された。完全なホワイトアウト。液体のように濃密な、霧。
息を呑むピアスの視界の片隅、ヴェセルがダッシュボードに身を伏せる姿が、辛うじて映る。
空白の時間は、おそらく数分もなかった。ピアスが目眩を払い落としたとき、車は脱線して路端の草叢の只中で止まっていた。
「うゎなんだこれ、マジの怪奇現象かよ……」
顔を押さえて身を起こすヴェセルの呻き声を聞く暇もあらばこそ、弾かれたように振り返った後部座席には――脱ぎ捨てられたように、黒い革の塊だけが残されていた。
(霧の中でちょっと目を離した一瞬――指輪だけがコロンと転がってた)
思考もなく、ピアスは運転席の扉を開いて、足を踏み出した。一寸先も見通せない乳白色の水底を導く轍のような、古びた道路の上を……
サイレント・ブルームの周縁に位置する老朽化した駅。
ペンキの色も褪せて、ささくれた木造の駅舎は、はるか昔ならば観光客を温かみを以て出迎えていたのだろう。
ホームの壁面に敷き詰められた、目を惹きつける大きなモザイクタイルアート。
埃を被って、あちこち欠けてはいるが、鮮やかな色彩の名残をまだ偲ぶことができる。
片隅の銘文に、「神が白き光芒を注ぎ、花が楽園の扉を開く」と記されている。
ミルガーデン駅にお立ち寄りの際は、是非タイルアートを御覧ください!
待ち合わせにもぴったりのフォトスポットです。
深い藍色の湖に、月光を浴びて咲き乱れる蓮は、街のシンボル。
月光が降り注いで白い霧となり、蓮の花を潤して咲かせるのだと、古くから伝えられています。
ヴェセル「車の中で話しただろ? 霧の湖では、神様が嫁を取りに来るって話。『白い光を注ぎ、花が扉を開く』。……まあ、そういうことだな」(含み笑い)
ミルガーデン駅構内に設けられた、ささやかな観光案内所。
土産物や日用品を陳列した雑多な棚と、印刷物を配るための窓口が並んでいる。
観光客は、ここでちょっとした小腹を満たすものや旅先で使えるものを揃えることができるだろう。
案内所の看板は、元は鮮やかだった濃いネイビーの地に、目も覚めるようなレモン色の大文字で、「サイレント・ブルームへようこそ!!」と呼び掛けている。
デザインはいささか以上に野暮なものだが、今や街にのしかかる霧の中、朧気に浮かび上がる目印《ランドマーク》としての長所を発揮していた。
オーランドは棚から蓮の実の瓶詰を取り、気のない目で消費期限を一瞥すると、比較的新しいと言える数個を選り分けて、床に置いた鞄に放り込んだ。
(物資を調達できる当ては、他にもある。敢えて重量物を集める必要もないか)
元より鞄も薄手で軽量なものだ。ファスナーを閉じて立ち上がった、そのとき、霧に曇ったガラス扉を押し開けて、二人の長身の影が現れた。
「あれ、人いるじゃん。……店員? じゃないよな」
やや細身のほう――ヴェセルが、売店内には浮いた白衣姿のオーランドを見留めて、声を上げる。
「私はオーランド。この街で医者を務めている。
君たちもお気付きのようだが、些か異常事態でね。過疎の傾向はあったが、この霧が発生してからというもの、全く住民を目撃していない。
まずは現象の範囲を観測するために、街の終端部、つまりここへやってきた」
「ついでに、持ち主の居ない商品を拝借してるわけか。避難もせずに籠城するつもり? 他の住民はとっくにそうしたのかもよ」
「その場合、移動手段が問題だね。外の視界で車の運転は自殺行為だろう。
……加えて、私にも役割というものが一応はあるのでね」
遭遇した唯一の住民にして医者は、印象と声に似付かわしい理路整然とした口調で、そう語った。
オーランドのような人物でさえ、何も目ぼしい発見をできていない事実は、自然の脅威の域とも考えがたい霧の厄介さを物語るように感じられた。
「――弟を探している」
無言のまま店内とオーランドに鋭い眼光を向けていたピアスが、出し抜けに口を開いた。
離れて立ってもなお見上げるほどの体躯へ、オーランドは観察するかのような視線を返す。
「残念ながら、見知らぬ人間も見知った住民も、このところ目撃していない。先程述べた通りね。
……しかし、注意を払うことは可能だろう。風貌を教えて頂けるかね?」
逡巡するかのように押し黙るピアスを、ちらりと一瞥して、ヴェセルが手早く操作した携帯電話の画面を差し出す。
のどかな陽を浴びる農村を背景に、シヴァルの横顔を捉えた写真である。
標準のカメラとアプリで撮影しただけの画像だが、中性的な輪郭と、記憶に残る白々とした銀の瞳は、程よい光の下ではっきりと映し取られていた。
「……育ちの良さそうな少年だ。心配なことだろうね」
思慮に耽るように、やや穏やかな響きを伴ったオーランドの声音にも、ピアスの応えはなく、眉を顰めて写真を凝視するばかりだ。
「連絡は困難だが、もし見掛けたら診療所に案内して君たちを待とう。万一、探索が捗々しくなければ、好きなタイミングで立ち寄りたまえ。
セントミル・クリニックだ。住所は――ああ、そこの観光マップを一つ持っていくと良いだろう」
オーランドは、案内窓口にあるラックから、折り畳まれた地図を一枚手に取り、診療所のマークを囲む円を書き込んだ。
どんな観光地にも幾種類かある、楽しげな宣伝文が吹き出しで踊るマップ。
受け取ったそれを広げて覗き込み……オーランドが記した印とは別の所に、明らかに本来の印刷ではない赤黒い文字で、べたりと塗り付けるように……
ハニークレイドル小学校――『来てはいけない』。
~霧と蓮と結婚の町、サイレント・ブルームへようこそ~
セレスヴェイル湖の澄んだ水面を彩る、天上から降りたような蓮は、
昼は純白に透ける霧に、夜は神々しい月の光に、それぞれ抱かれて異なる顔となり、人々を魅了します。
その清らかな姿は、まさにヴェイルを身に纏った花嫁のよう。
幻想的な自然に祝福されながら、二人の運命を誓い交わしてみませんか?
この街でしか手に入らない伝統の縁結びアイテム『リングチェーン』もお忘れなく!
※模造品に御注意!正規の認定店の刻印があるか、必ず確かめてからお求め下さい。
ヴェセル「風情があるねえ」
むかしむかし、豊かな自然と湖を治める神様がおりました。
あるとき、神様の湖に清らかな一輪の蓮が蕾をつけました。
神様の楽園にさえ、かつてない素晴らしい蓮花だったので、
心を奪われた神様は、求婚せずにはいられなくなりました。
しかし、人の言葉も神の言葉も知らない蓮に、どうやって思いを伝えられるでしょうか。
神様は、月の雫を贈りました。輝く雫はまぶしく降り注ぎ、蓮をくまなく照らしました。
しかし、蓮は何も応えてくれません。
神様は、風の歌を贈りました。歌は湖をさざめく波で飾り、蓮をやさしく揺らしました。
しかし、蓮は何も応えてくれません。
神様は、霧の帳を贈りました。白い帳はしっとり葉を潤し、蓮を甘い露で満たしました。
すると、蓮はゆっくりと目を覚まし、花を開いて、神様を見詰めかえしてくれたのです。
それからというもの、霧が湖を包むたび、蓮が一つ咲くようになったとのことです。
地元で採れたと思しき、ハーブティー、ハーブソルト、ハーブポプリなどの素朴な詰め合わせ。
オーランド「この地域では薬草が豊富でね。様々な用途があるので、医者としては重宝するよ……外傷の治療に使うとしたら、やや即効性には欠けるがね」
今時は、アウトドア趣味でもない限り珍しい携帯ラジオ。ニュースを聴こうとしても、ブンブンというノイズの音が鳴るばかり。移動すると、場所により音量が増減するようだ。
オーランド「濃霧の影響か、ノイズばかりでね。何かの役に立つと思うなら、持っていっても構わんと思うよ。
……参考までに、通信機器が外部との連絡において用を果たさないことは確認済みだ。携帯電話も、インターネットも。トランシーバーも、そのラジオとほぼ同様の状態だね。
ただし、街の中へ有線で架電することは可能だ。私の診療所に架けてみたところ、留守番電話に繋がったよ。いや、実に興味深い。」
「サイレント・ブルームめぐりあるき」という題の下に、街の主な施設の位置と簡単な説明を記したマップ。
ありふれた配布用地図だが、「ハニークレイドル小学校」に異様な赤褐色の丸印と、書き込みがある――『来てはいけない』。
ガスマスクに似た顔を持つ、小人の異形。鼻も口もなく、錆び付いたスピーカーのような器官が、口元から突出している。
鼓膜を引っ掻くような、かすれた警笛音を放ち、同種を呼び寄せる性質がある。戦闘力は低い序盤の敵だが、増援に注意。
見覚えのある衣服だけが宙に浮いている、相手の姿を模し損ねた透明人間のような異形。
動作は単調だが、執拗な攻撃を加えてくる。武器を所持していない場合は、避けて通るのが賢明だろう。