同著者『読む・打つ・書く』の姉妹編であり「子孫本」(p. 267)。そちらの感想で予想したように具体的な読書の技術や実践上の問題が語られているが、本書はそれだけにとどまらない。▽三中は読書という営みを部分から全体を推論するアブダクション,すなわち,自分でつけたメモやブックマークという痕跡から,なんらかのまとまりを持った議論や解釈,インターテクスチュアルな繋がりといったものを導出・生成する行為であると位置付ける。
このように断片を関係づけて全体を構成する方法は,KJマップ,佐々木健一『論文ゼミナール』(東京大学出版会,2014年)でいう「くくりあげ」,発散思考/収束思考などと根本的には似た趣旨なのかもしれない [1] が、『系統樹思考の世界』から一貫した道具立てになっているところに著者のオリジナリティが感じられる。
手持ちの知識・経験が異なれば注目する痕跡も変わるので,この推論プロセスは行う人によって(もっといえば同じ人でも読む度に)結果が異なると著者はいう。そうして生み出されたものの多様さは読書メーターに投じられた数多の感想を見てもわかるとおりである。また,自分の理解を超える難読本や意外なアイディアをくれる専門外の書物などとも偶然に出会っていく読書経験を積むことで,より豊かな読みができるようになっていくことも示されている。
それぞれ生きてきた軌跡が異なるゆえに唯一的である人間同士が,偶然に出会い,撚りあって次のラインを描いていく。そこにこそ生きることの実感があるのだとする磯野真穂による生の哲学[2] と本書の底にあるテーマは響きあっている,といえるだろう。何を隠そう,三中が読書を狩りやアブダクションと結びつけているのも磯野と同じくティム・インゴルド『ラインズ』に依拠してのことであるし。
『読む・打つ・書く』の感想で,学知や難解さ・重厚さを軽視する風潮に抗うことが,「利己的な書き手」がわざわざハウトゥを書いて世に問う動機ではないかと評者は推察した。本書ではさらに,ユニークな個人のアブダクションというアイディアを示すことで,知的なプロセスに参加する人――学者や専門家でなくても――が増やしていきたいのではないだろうか。裾野が広くなれば将来自分が読めるものが増えたり、自著や自分野によい反応が返ってきたりと、自分の利益にもなるはずだから。
よく自著への反応はチェックしておいでのようであるところからもそれがうかがえる。……ということは,この駄文もご本人の眼に入る可能性が高いのである。若干緊張はするが,下手でもなんでも unique な人間が書いたものは他の人にはかけないわけなので,ともかく投じておけば山を賑わせる枯れ木の一本にはなるだろう。