「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」(マタイ10:28)
「身を殺」す人間のニュースは毎日流れています。私にとって私自身を含めて、人間はたいがい恐ろしい生き物です。対人関係のストレスは身心を苦しめます。だからすこやかに生きてゆくためには、その「身を殺」す人間関係を相対化し得るものが必要になります。それが「身」だけではなく「靈魂」をも「ゲヘナにて滅し得る者」すなわち絶対者であり、その絶対者と自分自身との関係になります。しかし多くの日本人は、聖書が示す神について「愛」だと言われていることだけは知っており、その偏った知識が福音理解の邪魔をするのです。すなわち聖書において神の愛は神の怒りと不可分であり、だからこそ罪の裁きによる赦しの福音が現実の救いとして語られ得るということの無理解としてです。その点では信者ではなくても、さすがに哲学者はちがいます。たとえば三木清氏は、自著『人生論ノート』の「怒について」で、冒頭からキリスト教の神観について鋭い洞察を語っておられます。
「Ira Dei(神の怒)、―― キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。」
そして結論的には、「愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。」と、本質的な事柄を指摘しておられます。その三木氏の批判を受けるかのように「神の怒り」について「眞劍に語らうとする」神学者ということで、三木氏の京大哲学科の後輩に当たり『神の痛みの神学』を書いた北森嘉蔵氏が述べておられます。以下、北森嘉蔵著『哲学と神』(日本之薔薇出版社) p148~150より。
※この先、北森氏の言葉に限らず、このレポートでの引用文の太字はすべて私記になります。
「神は愛である(ヨハネ第一書四・一六)がゆえに、敵としての人間は神の愛の外に脱落している。神の愛は人間の反逆敵対によって破れている。この神の愛にとって人間はいかにしても包むべからざる者である。(中略)このような人間に対して神の愛は、神の怒りとなる。神の怒りは、人間の反逆敵対によって破られた神の愛である。イエス・キリストの福音は、このような徹底的なる他者としての人間を徹底的に包む神の愛である。(中略)イエス・キリストの十字架こそ神の痛みである。神の痛みとは、神の怒りの固有性を徹底的に認めて、しかもこれを貫き突破せる神の愛である。(中略)キリストの十字架はあくまで痛みという質をもてる矛盾である。痛みとは、怒りと愛との自己同一性である。いかにしても罪人に怒りをくだすべき神が、しかもこの罪人を愛する時、その怒りと愛との矛盾的自己同一が神の痛みである。痛みをして痛みたらしめるのは、怒りの固有性である。怒りが固有性をもたなくなれば、愛の一元主義があるのみで、痛みは消失する。キリストの十字架においては、神の愛が神の怒りを負ったのである。神の愛が神の怒りを負ってこれに撃たれたという事が、神の痛みである。福音を定義して、神が他者たる人間のために徹底的に責任を負うことである、となしたのも、その責任を負うという言葉の背後には、神の愛が神の怒りを負うという事が意味されていたのである。神の怒りとは、人間の罪に対して人間の責任を問う神の意志にほかならないからである。」
北森氏は、私見では日本人に特徴的な「愛の一元主義」といわれる思想を剔抉し、聖書が明示している「神の怒り」との緊張関係において独自に「神の痛み」を説いたのです。
「『十字架』というのは単なる寛容ではないのです。厳しさというものが位置を持っているわけです。例えば、旧約聖書では、『神の怒り』とか『審き』というのが大変に強調されているのです。(中略)新約聖書にも、『神の審き』ということは決してなくなってはいないのです。キリスト教は『愛の宗教』だというふうに言われて、甘いことずくめととられるならば、大変な誤解です。そうして、『審き』というのは頑固なものであって、いわゆる融通の出来るものではないのです。日本的特質の中で『融通無碍』ということもいわれます。(中略)『融通無碍』というのは仏教の非常に深い教理なのです。(中略)しかし、融通不可能な頑固さというものも考えられるのです。」(北森嘉蔵著『日本人と聖書』教文館 p50~51)という指摘からも日本的宗教性に「愛の一元主義」的な傾向が「融通無碍」的にあり、それが日本人の遠藤周作氏や井上洋治神父の宗教思想への共感を招いたとも見られます。特に旧約の怒りの神と新約の愛の神という単純な聖書理解です。私見では「愛の一元主義」は「キリスト一神主義」につながります。
「イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。イエスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。何度も言うように、イエスが説いたのは、そういう神ではなく愛する神、許す神であったのです。神は、何を過去にしていても、最後に、本当におれは悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。」(遠藤周作著『私にとって神とは』光文社)このような教説こそ、遠藤氏の『沈黙』によって問題とされたキリスト教土着化において日本人の心を根腐れ沼地にする思想であると思われます。
無教会を創立した内村鑑三氏の弟子であり指導者でもあった矢内原忠雄氏は「帝大聖書研究会終講の辞」において、「人類歴史に於ける悲惨事の反覆を見て、神の審判の最後の目的が救にあることを忘れてはならない。」と語っています。
聖書が示す神については「愛」だけではなく「怒り」をも語らなければならないのですが、多くの牧師は会衆受けする説教を志向するので「神の怒り」は後退し隠れてしまいます。その意味で北森氏の以下のメッセージは重要だと思います。
「神が神であることは、怒りにおいてこそ示される。怒ることなき神は、真実ではない。怒りなき神は、つねに人間と同意する神である。しかして人間とつねに同意する神こそ、偶像にほかならない。怒りによってこそ神が生ける神であることが示される。」(北森嘉蔵著『救済の論理』教文館 p34)
私見では聖書の中で最も「神の愛」と「神の怒り」とが融合している言葉は、「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり。我これに報いん』とあり。」(ロマ12:19)です。北森氏が言われる「神が神であることは、怒りにおいてこそ示される」ということに、私は文学的な意味で、すなわち形而上学的ではなく信仰告白的表現としての意味で、「神の絶対性」ということを感得するのです。この「神の神であること」⇒「神の怒り」⇒「神の絶対性」といった観念連合は、日本人キリスト者の最もなじめぬ事として否定するところでしょう。
神も仏も人間にとっては苦しい時に頼ることのできる、救ってくれる存在であることに意味があるわけで、いくら絶対であってもそれがなんなの?ってことになるでしょう。たしかに救済宗教なので、神さまは人を救ってこそ神さまなのです。しかしそれは認識の順序と存在の順序の違いのようなことで、まず神は人のために存在するわけではなく、神は神ご自身として存在します。そして天地創造においてそのように神話として、物語る神として自己啓示されたというところからその神話が始まり、そこに人間にとっての歴史や世界観が生じてくるわけです。神話と現実世界とは不可分です。つまり創造神話なしに現実世界の意味は無いのです。聖書の神話を否定することは、現実世界を無意味とする、あるいは哲学青年をして「不可解!」と叫ばしめるニヒリズムの深淵に陥るだけです。コヘレトが現実世界を「空(hebel)」と観ながらも人生の労苦に意義を見出し得たのはほかでもなく創造神信仰があったからです。そう、人間の啓示認識ないしは信知における対神関係の意義は、自分の存在根拠を得られるということです。神義論に陥る信者たちはその点が弱いのです。いかに不条理とか理不尽としか言えないような現実世界の様相であっても、根本において神の存在が自分たちの存在根拠として人生に意味を与えてくれているのです。但し、それがハイパー・カルヴィニズムの…つまり「ウェストミンスター信仰基準」における(…とは言え、袴田康裕氏の論文「ウェストミンスター信仰告白の信仰論」では「ウェストミンスター信仰告白」の母体であるスコットランド神学の主流は「穏健カルヴァン主義」であって、<「高い」「極端な」カルヴァン主義だとされるのは誤解 である>と言われている。それなら「聖定」どころか「予定」説もろくに認めない日本基督教団や日本キリスト教会の改革・長老教会の神学的立場は「穏健」どころかカルヴァン主義とも言えないのではなかろうか?日本キリスト改革派教会の吉岡繁牧師によると、日本初のプロテスタント教会であり公会主義の日本基督公会の神学的根拠は、1837年にアメリカ長老教会が旧と新に分裂した新の方⦅ニュースクール⦆だったそうな。~ 木下裕也著『岡田稔の神学』一麦出版社 0213.pdf))「聖定(Decree)」信仰(救拯的信仰⦅Saving Faith⦆…ウェストミンスター信仰告白第14章参照。)までいかなければ、人は苦難に遭うたびに不条理だの理不尽だのと言っては神の義を疑い、あげくの果てには信仰心さえ失い(社会改革に賭けるにしても神信仰にもとづいて謙虚さを維持できなければ挫折したり逆に体制化したりするのが前例)、運勢というフィクションに翻弄され、世俗的価値観による相対が絶対化された偶像に支配され隷従させられるのです。そのような虚しい生涯をこそ地獄と言わずして何と言おうか!
< 不公平で残酷であることに人は耐えられません。ですから、人間は、自分の生きていく不安や恐怖から救ってくれる力を必要とするのではないでしょうか。たとえば、無実の罪で三日後に処刑されることが決まっている人間がいるとします。それはその人間にとっては、決して納得のいかない現実でしょう。しかしそれでも、その人は、何とか納得する言葉をさがさずにはいられないはずです。それは人として、当然の行為です。それによって、苦しみから逃れることができるのですから。その人には、たとえば首を斬られて処刑される、という恐怖がひとつある。しかも「不公平に」殺される、というもうひとつの苦しみがある。死への恐怖と、運命を納得できないという二重の苦しみです。そうしたなかで、たったひとつの救いとなるものは、神とか仏とか、そういったものに頼るしかないのかもしれません。自分の死は不公平な死ではなく、たとえば神から愛されての死なのだと考え、納得することができるとすれば、確かに救われると思います。それはきわめて現実的な判断だと言えるでしょう。本当に神のような「絶対者」が存在するかどうかは、本当は二義的な問題です。ただ、痛みが少ないほうがいい。死への不安と、運命への怒りというふたつの苦しみ。そのなかで極限まで精神が消耗している。それでも、もし「神に愛されて死ぬのだ」と自分で思えるとしたら、そして少しでも痛みが減るとすれば、それは十分意義があるのではないか、と宗教の立場では考えるのではないかと思います。絶対者を意識することによって、自分の背負った重荷の重量が減ることはありません。目的地までの距離が近づくこともありません。信仰をもったからといって、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもありえません。でも、痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力があたえられるとしたら、その価値はあるのではないか、と私は思うのです。もし、この宗教を信じれば荷物が軽くなり、距離も近くなる、と説く宗教があったとしたら、それは似非宗教ではないか、という気さえします。>(五木寛之著『自力と他力』ちくま文庫 p63~65)
五木氏は、仏教および「他力」について次のように述べておられます。「 じつのところ、私は『教え』としての仏教にはほとんど関心がありません。ただ感覚としての仏教というのは、非常に大事に思っています。」(『人生の覚悟』講談社文庫 p123)「私は仏教の教義として他力と言っているわけではありません。」(同上 p129)そして、<「結局、最後のところは、やはり < 他力 > ということなんだろう」と、最近、深夜に目覚めて、しばしばそう思うことがあります。眠れないままにあれこれ考えるのですが、やはりいきつくところはこの、他力、というその一点なのです。>(『他力』講談社文庫 p15)。
聖書においても「神の力」・「キリストの力」・「聖霊の力」が「(絶対)他力」と言えます。
(「それは、あなたがたの信仰が人間の知恵によるものではなく、むしろ神の力によるものとなるためであった。」(コリント第一2:5 岩波版 青野訳)
「それ」とは、弱さや恐れの中でのパウロの聖霊による宣教。人は神の言葉によって生きるが、神の国は言葉の内ではなく力の内にある。パウロは福音も(ローマ1:16)キリストをも「神の力」だと言いました(1:18 , 23~24)。人は恐れや不安の中で、言葉や観念よりも力の体験によってこそ救われる。信仰は人知ではなく神の絶対他力によるのです。
私の言う「絶対神信仰治療」というのは、上記引用の五木氏の考え方と近いです。但し、あくまでも「絶対者」の存在を確信していなければ効果はありません。信仰があるからこそ、「痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力があたえられる」希望が生じるのです。これが「信仰」とまで言えるものではあく、あくまで理論上の仮説としての神(=偶像)であり「絶対者」であるのだとしたら、とてもそのような現実的な力をあたえることはできないでしょう。そこに聖書に対する信頼・信用がかかっています。それは長い歴史の中で多くの人々の生きた信仰生活の指針となってきたという「権威」に由来するものなのです。だから実際に聖書が示す生ける神によって力を与えられて生きてきた人々の証し(経験談)を聴くことが信仰生活には有効なのです。その意味においてユダヤ教とキリスト教という宗教およびその組織が歴史的媒介としての役割を担っているのです。個人的・実存的な聖書的神信仰と言っても、その聖書は教会の教典であり正典として成立している以上、その教典としての読み方を無視してはあり得ない。全解釈(信条・教理)を受け入れられないにしても、参照はしなければなりません。聖書は神認識の根拠であってないという二重性の問題があります。
「聖書は証言であり、神認識の媒介であって根拠ではないことが明瞭にならない限り、換言すれば、直接聖書に依存しない神認識の可能と現実が示されない限り、聖書を根拠としてその上に立つ教会は危殆に瀕するのである。神認識とは、聖書的観念の単なる受容ではなく、存在の根本にかかわる事実の認識と納得でなくてはならないのだ。」(滝沢克己、八木誠一編著『神はどこで見出されるか』三一書房 p48)
信仰共同体であるキリスト教会は上記のようには考えません。当然のことです。滝沢氏や八木氏といった宗教哲学的思考ではなく、あくまでも聖書的・神学的思考において聖書は誤りなき神のことばであり神の啓示認識の根拠とされています(私の立場は中庸です)。その共同体的「信仰」(πίστις / 「信ずる」πιστευω)について無教会の量義治氏は、「認識論的事態」(=意識の事柄)ではなく「存在論的事態」(=存在の事柄)だと言っておられます(量義治著『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』⦅ネスコ/文藝春秋⦆参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集Ⅰ,Ⅱ』⦅関根正雄記念キリスト教講演会準備会⦆参照)。信仰が「存在の事柄」であるという意味は、信仰において自覚される対神関係が、自分の意識レベルだけではなく睡眠ないしは重度障害の無意識的レベルにおいても他力的に持続されているということです(詩篇3:5、4:8)。しかし通常の生活において信仰は意識・認識の作用を媒介するのです。信仰と対神関係との区別が明確ではないと思われます。量氏がM・ブーバーの「はじめに関係あり」を前提として「絶対者なくして人間はなく、人間なくして絶対者もない」と言われる(『無信仰の信仰』p43)ことは聖書的には誤りです。人間なくして存在し得ない絶対者なら絶対者ではなく相対者です。聖書的には「はじめに関係あり」ではなく「はじめに創造主あり」なのです。神と人との関係は神の側から与えられたものであり、それが「不可逆」ということです。青野太潮氏は、その「ピスティス」について、「『信実』と訳したいが、まだ日本語として熟していない。」と述べておられます(『新約聖書Ⅳ パウロ書簡』〔岩波書店〕p11注八)。私は「信仰」と「信実」と両方とも「ピスティス」の訳語として必要かなと思います。信仰は対神関係における人の意識活動の面であり、信実は神の賜物としての実体性を表わします(< 11 救いに至る信仰が、神の賜物であることを教えている聖書の個所はどこか。―― エペソ二8、使徒一一18、その他である。12 「信仰は神の賜物である」といわれている意味は何か。―― その意味は、(中略)神は聖霊の働きによって、恵みのうちに人間の心を変えられて、彼らがキリストを救い主として信じることができるように、又、喜んで信じるようにされるということである。>⦅ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮 編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』 聖恵授産所出版部 p256⦆)。たとえば「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34他)という言葉は、信仰そのものに救いの力が宿っていると解されます。また、「わたしたちは信実でなくても、彼は常に信実であられる」(テモテ第二 2:13)という言葉は、「我信ず、信仰なき我を助け給へ」(マルコ9 : 24)と同様の事情を語っていると思います。即ち、絶対他力の賜物としてのピスティスということです。聖書は人間の「信」が「不信」と背中合わせ(というか二重性?)であることを教えています。しかしその「仰」ぎ見る先に「神」という確かな実体があるからこそ、この「信」は救いにつながるのです。ちなみに信仰についての、パスカル流の「賭け」論やキルケゴールの「飛躍」論などは方便的であるし、他力的である以上に自力的なので好みません。
前述の矢内原忠雄氏は、「絶対最高唯一」と言うふうに「絶対」を「最高」とか「唯一」と区別して、聖書が示す神の特徴を表す用語としています。
「神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」(矢内原氏の論文「日本精神への反省」)
さらに、「神観の純化」について語っておられます。
「日本の行くべき道は平和国家であり、平和国家の道は道理への信頼、神への信仰です。従って平和を確立するためには、日本はその哲学を清め、その神観を高くしなければなりません。日本の哲学は論理のもてあそび、概念のられつ、無内容な論述と議論であってはなりません。それは国家の苦しみを苦しみ、人間の悩みを共に悩みながら、しかし敗戦に挫けず、貧しさに屈せず、国家と人間の生きた理想をつかみ出し、理想に生きるためには死をも怖れない真理愛に燃えるものでなければなりません。今日のごとく日本人の神観が整理と高揚を必要とする時はありません。神は人より峻別されなければならず、汎神論的信仰は人格的唯一神の信仰に純化されなければなりません。政治の貧困は思索の貧困に基づき、思索の貧困は神観の貧困に基づきます。日本人の神観を高く、深く、純にしなければ、日本の民主主義化も徹底せず、平和国家の理念に対しても忠実かつ真摯であり得ないでしょう。
どうすれば日本人の神観を高める事が出来るでしょうか。私をして率直に言わせてください。それは日本人がキリストの福音を受け入れる外に道はないのです。 ・・・ キリストの福音こそ平和人を創造し、平和国家を創造し、平和世界を創造する力だからです。」矢内原忠雄の「日々のかて」
このように矢内原氏は、日本人がキリスト教を受容して「正しき神観」を獲得することによってのみ、敗戦国の日本を復興できると考えていたそうです。彼は宗教に公益性があって然りと考えていたのでしょう。私見では着目すべき矢内原氏の思想的独自性は、キリスト教について共同体と直結する「神の国」論に没入することなく、あくまで「神」論に専心しているということです。その理由として特に天皇問題があったことは確かですが、社会主義的傾向の強い知識人クリスチャンはユートピア的神の国思想に関心を持つ傾向があった中で、この点はとても重要だと思います。
「…神と人の区別がなされていない日本人の神観では、人を神として崇める危険性が存在するからである。実際に、天皇が現人神として崇められていた当時においては、その危険性が表れていたのは明らかであった。矢内原は、この危険性を克服するには、絶対者かつ人格者である神、つまりキリスト教の神を受け容れなければならないと主張する。日本人の神観の危険性を克服するには、キリスト教を冷遇していた、これまでの日本の態度を改め、『正しき信仰正しき神観をもつべき』であるというのである。」(菊川美代子さんの論文「天皇観と戦争批判の相関関係――矢内原忠雄を中心にして――」より)。
1937(昭和12)年に文部省が第一刷を発行した『國體の本義』では、天皇を「現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絕對神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」云々とわざわざ断っているので、逆に言えばこの時点で日本社会の中に「絶対者としての神という観念」がある程度は普及しており、一部の人々の中で天皇のイメージがそういうものとして受けとめられていたことが窺われます。というか天皇を絶対的存在として奉ることによって国家の体制を整えようとする勢力があったので、それを内外の知識人あたりから一神教的神観の模倣だと批判されることを憂慮した役人たちが事前に弁解したってことでしょう。旧約聖書学者の深津容伸氏は、「明治憲法もキリスト教 の神を、天皇に置き換えて制定されたため、以後天皇は絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが) として信仰されるようになったのである。キリスト教信仰を省いてキリスト教文化を受け入れることを内村は欺瞞として批判しているわけであるが、これが今日に至るまで、日本人がキリスト教に接する傾向であるといえる。」(「日本人とキリスト教」ja)、「内村鑑三は教育論を展開する中で、西欧の教育論の根幹となっている神を天皇に 置き換えている欺瞞性に気づき、批判を加えており、こうした姿勢が日本の堕落の根本にある としている。 憲法で日本政府は天皇を神(西欧世界と同じく絶対神)とすることを鮮明としており、翌年 の教育勅語の精神にもつながっている。こうした日本の一連の流れへの反発が内村鑑三の根底 にもともとあって、教育勅語を巡る不敬事件が起こったとも言える。」(「日本人とキリスト教: 国家主義体制下のキリスト教主義学校」ja)と述べておられます。
そして当の天皇御自身はそのような西洋的神観によって神格化されることを迷惑だと思っておられたことが、「又現神(=現人神)の問題であるが、本庄だったか、宇佐美(興屋)だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云った事がある。」(『昭和天皇独白録』文春文庫)とのお言葉からわかります。戦後に、天皇の所謂「人間宣言」があって、天皇が纏わされていた虚飾のヴェールが剥がれ落ち、日本の大多数の庶民にとって「神」といえば自然物との区別も曖昧な相対的な存在ということに戻ったわけで、それが本来の日本人の神感覚でしょう。
< この日、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発表する。この詔書は一般的には天皇の゛人間宣言゛と理解されているものだ。現人神であった天皇が人間天皇であることを宣言し、ここから敗戦日本の復興が始まる。そうした物語の起点となる詔書である。その際、詔書の次の部分が引用されることになるだろう。「朕ト爾等国民トノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以ッテ現人神トシ、且日本国民以ッテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
天皇自らが天皇を現御神=現人神とすることは架空なる観念に基づくものであるとし、天皇=現人神であることを明確に否定している。そのようにマスメディアは報じ、そうしたマスメディアの報道を介して、この詔書は゛天皇の人間宣言゛として、以後理解されていくことになる。そこから、一九四六年一月一日以前の天皇は神であり、わが国の近代は天皇を神として戴く明治維新によって始まったのだという理解を招き寄せることになってしまう。こうした理解に立脚すると、現人神としての天皇の位置は明治維新の王政復古の大号令に始まり、一八八九年(明治二十二年)の大日本帝国憲法の発令によって不動のものになるという゛歴史゛を紡ぎ出すことになる。>
昭和天皇「人間宣言」の死角―現人神と皇孫の間に(旧稿) - 文徒アーカイブス
そして平成の時代に至るまで、キリスト教の「絶対者としての神の存在という観念」などは日本社会に浸透し得なかったと思います。漫画家の小林よしのり氏は、『天皇論 平成29年増補改訂版』の中で、大東亜戦争の戦時中も日本の庶民の多くは、天皇を絶対者的意味としての「神」などとは思っていなかった旨を述べておられます。それこそ洗脳といえるような軍国教育を受けた人たち以外は、絶対的な意味で天皇を神だと、絶対者だとは思っていなかったことでしょう。そもそも「絶対者」といった観念があったかどうか…?でも社会現象としては、昭和天皇は天照大御神の子孫として絶対的な権威を付与されており、それが日本のエリートたちが外国人との交流を通して受けたであろう、キリスト教の絶対者神観の影響なしには出てこない発想だったとは言えるでしょう。参考として、正木晃氏による「宮沢賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか」という講演の中で、正木氏個人の見解ということではなく、よく指摘されることとして「戦前の天皇制というものはある意味でキリスト教を真似たんだろう……国家神道というのは実は神道の形をとったキリスト教だという説がある」と言っておられます。その上で正木氏もそういった部分は抜きがたくある……それだけで国家神道を説明することは不可能だが、そういった傾向がなかったとはとても言えないということを述べておられます。
関連して以下、小室直樹氏の著書からの引用します。
< 天皇は神である。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。これが、天皇イデオロギーの教義(ドグマ)。この教義が復活した。復活することによって、天皇は「真の神」となった。カルケドン信条における「真の神」のごとき神となった。これぞまさしき、キリスト教的神である。イエス・キリストは「真の人」であり、「真の神」である。(中略)キリストは神であるかどうかをめぐっては、熾烈な論争が繰り返された。この論争の重要さは、強調されすぎることはない。キリスト教を理解するためにも、キリスト教を補助線とする天皇教を理解するためにも。(中略)イエスは、復活によって、真の人、真の神になった。死んで、また復活。これが、キリスト教の根本教義。(中略)神としての天皇の死と復活の過程も、これと同型。「天皇は神である」とする古代以来の天皇イデオロギーは承久の乱で死んだ。そして、崎門(きもん)の学を中心とする論争過程を通じて幕末に復活する。子の死と復活の過程を通じて、天皇の神格は確立された。真の人、真の神として。人間の肉体をもった神として。現人神(あらひとがみ)として。キリスト教的な神として。>(小室直樹著『天皇の原理』文藝春秋 p298~309)
< 明治政府がやろうとしたのは、キリスト教の代替物としての宗教を作ることにありました。ヨーロッパがキリスト教の力によってデモクラシー国家になったように、日本は独自の宗教をもってデモクラシー国家になる。そのために行なわれたのが、天皇の神格化です。史上、どこの国が近代化のために宗教を作ろうと考えたでしょう。こんな国はどこにもありません。その意味では、明治の日本がやったことは空前絶後です。しかし、もし明治日本が天皇を神格化せずに、単に制度や法律だけを輸入して近代化しようとしたら、どんな結果になったか。それは考えるまでもない。大失敗に終わったでしょう。(中略)さて、明治政府は天皇を神格化し、新しい宗教を作ったと言いましたが、この新宗教は「天皇教」と呼ばれるべきでしょう。戦後の歴史観では、しばしば「戦前の日本は国家神道であった」と言われますが、天皇教と国家神道はまったく別物です。神道とは本来、自然崇拝の原始的な信仰です。大木や山、あるいは巨岩の中に「八百万の神」が宿っていると考えるのが神道です。天皇教は、建国神話以来の神道がベースになってはいます。しかし、天皇教は神道とはちっとも似ていない。古くから伝わる神道のどこをどうひっくり返しても、* キリスト教におけるイエスのように天皇が現人神であるという結論にはなりません。伝統的な神道の考えに従えば、天皇は皇祖神である天照大神直系の子孫であらせられても、現人神ではない。天皇とは、皇祖神のいわば * 斎主であって、それ以上のものではないのです。
*キリスト教におけるイエス 紀元325年に開かれたニケア公会議で採択された「ニケア信条」では、イエスは神にして人、人にして神であるとされた。まさにイエスは現人神なのである。
*斎主 「神道の祭に際し、主となって奉仕する者」(集英社『国語辞典』第2版)
ですから、戦前の日本を支配していたのは「国家神道」であるという言い方は、どう考えてもおかしい。天皇教を国家神道とは呼べないということは、明治維新になって古くからある神社は、ほとんど政府の手によって破壊されている事実からも明らかです。(中略)では、その天皇教の教義とは何か。その主な柱は2つです。1つは先ほども述べた「天皇は現人神にして、絶対である」という教義です。この教義から「天皇の前の平等」という考えが生まれてくる。もう1つの重要な柱は「日本は神国である」という思想です。>(小室直樹著『日本人のための憲法原論』集英社インターナショナル p387~390)…「天皇とは、皇祖神のいわば * 斎主であって、それ以上のものではない」という小室氏の指摘に対しては、しかし「天皇は皇祖神である天照大神直系の子孫であらせられ」るということは「現人神」と呼べるかどうかはともかくとしても「天子様」とは呼ばれたのであって、何ほどか神格的なもの…超人性みたいなイメージはあったのではないか?との疑問は生じます。以下、参照記事を引用します。
< 「天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にてこの世の始めより日本の主にましまし、神様の御位正一位など国々にあるもみな天子様よりお許し遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民もみな天子様のものにて日本国の父母にましますのだ」 人民は天子様とは何者なのか知らない(上様・公方様、将軍様は知っている)ので、政府は正一位稲荷大明神・神様も天子様が任命すると教えて、その尊さを教えてやらなければならなかった。これらの告諭の、日本は天照大神が開いた国で、大神の子孫が天子様として代々日本を治め、“一尺の地も一人の民もみな天子様のものだ”という趣旨は、明治元年10月の、「京都府下人民告諭大意」にも、おおいに力説強調されている。こうして政治的君主としての天皇よりも、神様の子孫である天子様という宗教的・神的権威に対する信仰的な畏敬と恭順がつくりだされ、それと一体のものとして神道を国教化していこうとしたのである。>(函館市史および合併旧町村史(資料グループ) 恵山町史(目録) 恵山町史 (4)天皇の神格化(テキスト)【(4)天皇の神格化】 )
< なぜヨーロッパで憲法による政治が可能だったのかというと、それはキリスト教という確たる宗教が背景にあったから可能だったのだと、伊藤博文らは気がついた。立憲国家体制を作るには、キリスト教のような強力な一神教信仰化体制を導入するのが必要である。しかし、仏教も儒教も、決して一神教ではなく、強い求心力たりえない、全く無力の存在であった。ヨーロッパのようにキリスト教もない。そこで考え出されたのが、天皇教という強力な一神教なのである。>(小室直樹著『日本人のための宗教原論』徳間書店 p380~381)
繰り返しになりますが、矢内原氏は日本人のキリスト教徒として画期的な発言として、「絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質」であると述べたのでした。矢内原氏のイエスの神観は次のとおりです。
<「父なる神」、之が人格神としての神の性格である。而して神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、智慧と勇気とを賦与したる根本である。イエスの敵は神との活ける交りを欠いたが故に、彼等の神観は形式的であり、概念的であり、化石したる公式主義的把握となった。之に反しイエスは神を父と信じたが故に、自由無礙なる新鮮なる生命力、行動力が、彼の神観より泉み出たのである。>(矢内原忠雄『全集』第6巻 p220~221)
ここで矢内原氏の「三位一体」についての考え方をみておきます。およそキリスト教の神論・神観について語る以上、「三位一体」という教理を抜きにしてはあり得ませんし、矢内原氏が「絶対最高唯一」を神の本質であると言われる場合も、その「神」はあくまでも「三位一体」であることが大前提であるわけで、それは無教会主義キリスト教の創始者である内村鑑三氏に由来するものでもあります。そこで矢内原氏の三位一体論の要旨は次の言葉に集約されます。
「三一神観は人の要請によつて造り出された神観ではなく、神の本質に関する神御自身の啓示に基く神観である。神学教義としての三位一体論は、聖書に現れたる啓示の体系化に外ならない。」(「全集、第9」岩波書店 p338~339)
ここで「三一神観」という用語と「三位一体論」という用語が、対照的に置かれているように私には見えます。私は、「三一神観」が「神御自身の啓示に基く神観である」ことは認め得るとしても、キリスト教では三位「同等」の三一神観であり、私の場合は三位「従属」の三一神観という相違があります。矢内原氏の「三一神観」は当然前者であって、従属説は異端として斥ける立場であると思われます。仮にその三位「同等」が御父の自己限定であると解し得るとしても、聖書を虚心坦懐に読めば多くの人が後者に…すなわち父子従属に共感することになると私は確信します。だからこそ改革派にも「職的従属」などという説が見られるのでしょう。しかしこの「職務的従属」においては、能力・権威・栄光などを「同等」とみなすわけなので、御父が絶対主権者ではないということになります。
なお、この点については矢内原忠雄氏が、同じく正統神学の代表的指導者とされるギリシャ教父のアタナシウスとラテン教父のアウグスチヌスとの違いとして次のように述べておられます。
< 「父は我よりも大なり」(一四の二八)(中略)アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、「父は我よりも大なり」といふ事は、「我は父より出でたり」といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。>(『矢内原忠雄全集 第九巻』⦅岩波書店⦆p345~346)と述べておられ、この「能力、権威、栄光等」の大小優劣は否定しながらも、「生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係」の表現としての大小は認めるという立場が、前述の改革派神学における「職的従属」と同義であると思われます。しかし、聖書が全巻をもって示すことは御父(エホバ、ヤハウェ)こそが創造主であり唯一の絶対主権者ということなので、御子との主従関係における「職務的従属」と「本質的従属」という便宜的区別は聖書を素直に読むかぎり立たないと思われます。私見では、「真に神」であると同時に「真に人」でもある…、すなわち相対性とか有限性を、人性において受動的にもつ御子が、絶対・無限の自己限定において能動的にもつ御父と、「同等」であるという道理はいかにしても立ち得ないのです。ヨハネ福音書5:19「子は父のなし給ふことを見て行ふほかは、自ら何事をも爲し得ず、父のなし給ふことは子もまた同じく爲すなり。」といった言葉は明らかに御子の御父に対する従属(とでも言うしかない)関係を示しており、その「従属」には「職務的」とか「本質的」とかいった区別は無用であって、「従属」はあくまでも「従属」にすぎないのです。
ここで水垣 渉 氏の次の言葉を引用しておきます。
< 厳密にいえば、三一神観と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。>(水垣氏の論文「キリスト論の思想的射程 —古代キリスト教を中心として― )*1-20_mizugaki.pdf
…ということで、歴史的には、「三一論」~「三一神論」~「三位一体論」という関係になるようです。上記引用の矢内原氏の三位一体論についての考察は、矢内原氏の他の文言と照合すれば、水垣氏が指摘しておられるような意味で「三一」と「三位一体」とを区別しているわけではないと思えるので、前述で私は、「三一神観」という用語と「三位一体論」という用語が対照的に置かれているように見えると言ってはいますが、自分の希望としては矢内原氏がそのような意味で区別しておられたならよかったのに…という思いを表わしたにすぎません。実際は両方は同義で用いられているのではないかと思います。矢内原氏のアタナシウス説に関する説明にもアリウス説と部分的であれ通底し得るような従属的表現があるので、それが事実ならよかったと思われる反面、当時の文献資料的情報量を考慮すれば、難点があるようにも思われます。この点はアタナシウス研究者の関川泰寛氏への私の質問メールに対する御教示も参考にして思うところです。
歴史的にみれば、いわゆる正統的キリスト教が成立したのは、ニカイア信条の制定(AD325)をもって…と言えるとするなら、そこで決まった御子イエスが御父エホバと「ホモウシオス」(同実体・同質)であるという二位一体の教義は、後のコンスタンティノポリス信条(AD381)における聖霊の神格化をまって三位一体の教義の誕生ということになりましたが、それは聖書が示す「三一」の一つの解釈的立場にすぎないってことです。私は、「三一」の神の、一つの、すなわち相対的な解釈としての「三位一体」の神は認めるし、それが御父と御子と聖霊とを「同等」・「同質」とする教理も、絶対神の自己対象化における物語として、すなわち絶対神の自己限定の結果として受けとめることは出来ます。ただ、自分自身が望ましいと思われる物語は、同じく「三一」の神の解釈としてであれ、あくまで御霊の御父と御子に対する、また、御子の御父に対する「従属」です。青野太潮氏も次のように述べておられます。「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)
すくなくとも「三位一体」における「位(格)」(ヒュポスタシスυπόστασις、プロソーポンπρόσωπον/ペルソナpersona)と「(実 or 本)体」(ウーシアοὐσίᾱ/スブスタンチアsubstantia・エッセンチアessentia)というのは、聖書が神に関して明示してはいない、あくまでも正統派による解釈であり、この点は野呂芳男氏も、<私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。>(野呂芳男氏の講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回)と述べておられるとおりです。野呂氏は位格については言及しておられませんが、これも現代において「人格」と訳されることは誤解を招くといった問題があります。だから私は「三一神」という表現にとどめます。「三一神」は聖書が示す聖書的神観として私自身、認めるところです。これなしに「絶対神」を説くことはそれこそ神学を逸脱した宗教哲学ないしは形而上学の過ぎた神論ということになります。ただし、「三一神」と言っても「父」に対して「神」と告白する場合と「子」や「聖霊」に対して「神」と告白する場合とでは意味が異なります。前者は主語的・実体的事実として、後者は述語的・賛美的比喩としてです。前者の「神」は特殊・個別概念であり唯一の存在。固有名エホバを持つ存在であるのに対して、後者の「神」は一般概念・普通名詞としてのそれです。いずれにしてもイエスを「神」と呼ぶこと自体、自分の場合は後者としてもありません。従って「三一神」信仰は自分にとって聖書から導き出される神観だと認めるものではありますが、生活とつながるものではありません。自分自身はイエスを「キリスト=メシヤ」とは告白できますが唯一神信仰に立つ以上、「神=エホバ」とは告白できないからです。佐藤研氏は御著書『禅キリスト教の誕生』(岩波書店)において、<「キリスト論」とは一般に、イエスを何者と理解するか、という言辞のことである。伝統的理解によれば、イエスを「キリスト」すなわち「メシア」(救世主ほどの意)と告白するのがキリスト教である。その際のイエスは、四世紀以来、「神であり、人である」存在として理解されてきた。(中略)イエスをアプリオリに、質的に異なった絶対者扱いする視点は崩壊することになるであろう。>(p21)と述べておられますが、果たしてどうなるのでしょうか?
自分が神話の中で将来、崩壊してほしいのは記紀神話の次に聖書のキリスト神話です。逆に崩壊せずに生き続けてほしいのが聖書の創造神話です。この神話こそ関根清三氏も指摘しておられるとおり、人間の存在根拠を絶対的リアリティーとして表現し伝えていると思うからです。創造主エホバへの信仰さえあれば、キリスト信仰がなくても人は生きることができると思います。すくなくとも自分はそうです。神の子・キリストは神と人との仲介者であり道として唯一の真理なのです。それは神話の存在であって、歴史的存在であるナザレのイエスとは区別されなければなりません。神話のキリストはロゴスであって、ことばによる神の創造・啓示の媒体なのです。
ちなみに八木誠一氏によると野呂芳男氏は、「神(キリスト、聖霊)の内在を語る言葉には理解も関心もなかった」(『福音と世界』⦅2010..9⦆所収「野呂芳男氏の神学――前記を中心として」46頁)ということで、野呂氏の実存論的神学は「人格神の神観を保持し続けた人格主義的神学」であり、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』東大出版会 p18)と述べておられます。まさに野呂氏にせよ北森氏にせよ、昔の教義学者、組織神学者には、汎神論アレルギーがあるからか人格主義であり、特に野呂氏の場合はその人格神観なしは神の擬人化の必然として神義論的思弁に陥ったものと思われます。二度の世界大戦を経験した現代の神学の底流にあるのはA・カミュが提起したような不条理問題に対する伝統的な神の不受苦・不死の否定としての神義論です。北森氏は神の受苦と死を十字架の神学のキリスト論から展開しています。両者とも他宗教との対話には消極的であり、彼らが所属した日本基督教団の教会などは、聖書的教理の中でも「臨在」という言葉は礼拝でも盛んに言われてきましたが「遍在」という言葉はめったに言われず、教団の神学とも言えるバルト神学は形而上学的思弁的要素の薄い神学だからというわけもないでしょうが、臨在と在天との矛盾は説教などで問題とされることもなく、そもそも本格的な教理的説教は稀有だったから、そういうことは教会現場で語られるべき事柄ではないといった牧師たちの思い込みもあったのかどうかはわかりませんが、リベラル派ではなおさら、神学部・神学校の教理学習においても汎在神論・万有在神論などは神学的概念ではなく宗教哲学ないしは形而上学的概念ということで聖書に関係なしとされ、まともに取り上げられてこなかったのではないでしょうか?野呂氏が指摘したように、日本の神学の代表的地位に君臨してきた北森嘉蔵氏の神学における包括的ロジックでは「遍在」が無視されることになり、それによって神の有限化・相対化という非聖書的神観が露呈しているのです。日本人の特性みたいなものを神学に活かそうとすれば自ずとそういうことになるのは予測されることでした。
ところで、矢内原氏は次のようにも述べておられます。「ヨブの抱きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。」・・・これっって「神」は観念であるということで神観とか神論を軽視し、キリスト教はその抽象的観念としての「神」がイエスという「人」として受肉し具体化したところに意味があるのだからキリスト論とか和解論の方に意味がある…みたいな言い方をする立場に対して喝!を入れる言葉だと思います。
教団教会の神学者においても、北森嘉蔵氏は「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社p74)とか、「絶対性は相対性をも自己のうちに含むことによって、真に絶対性となる」(北森嘉蔵著『神と人間』現代文芸社p16)と述べています。
「日本人に多く見られる多神教的,汎神論的思想は『絶対者』の欠如の現れである。」(永野孝典氏の論文「なぜ日本人はキリストの救いからもれるのか ―― 日本人の価値観とキリスト教の精神 ――」の「要旨」)BS00220L100.pdf (bukkyo-u.ac.jp)
まさにこの指摘のとおりであって、日本人にはまだまだ絶対者神観を受容できない者が多いので、キリスト教徒になる人の信仰形態もイエス中心主義的な傾向が強かったりするわけです。特にその背景には遠藤周作氏の宗教小説による悪影響があるように察せられます。特に代表作『沈黙』の中で、フェレイラという神父が語る人間と隔絶した普遍的な神こそが日本人には理解不能なる絶対者神観なのです。問題は、遠藤氏がエッセイ『私にとって神とは』(光文社)で述べている主人公ロドリゴ神父にとってのイエス・神(=はたらき)と、フェレイラ神父が語る絶対・普遍神との違いです。遠藤氏にとっての神は、量義治氏が言っておられるところの「自我の内に吸収され解消される」神だと思います。ロドリゴ神父の中で生きてその人生を通して雄弁に語っておられた神・イエス…この御父と御子の二位格の区別が曖昧であることからして自分にはなじめません。自分には同じく転向宣教師のフェレイラが日本人の神観についてけっこうボロクソに言った、「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間とは同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」という、彼にとっての基督教の神…トマス神学の神…人間とは全く隔絶し人間を超えた神観の方が自分には合います。
日本人がなじむ「神」というのは客観的な存在ではなく、小田垣雅也氏が言っておられる <「対象」ではなくて「それを生きるもの」であり、その意味で人格的であるほかはない >もの…「絶対無」…「生きられ得るもの」(みずき教会説教「復活について」)であり、そのような「神」(というより「仏」)は、量氏の言われる「人間の外に存在する絶対的実在」ではないし、もちろん「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」すなわち「自我を超越するもの」でもない何か…ということになります。その反対が絶対神Godということになります。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(量義治著『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p108~109)
兼子盾夫氏の論文「井上洋治師と遠藤周作の『日本人のキリスト教』を求めて ―― 福音の文化的開花・文化的受肉の観点から―― 」では以下のことが書かれています。
「E・ピレインス師は、著書『出会いと対話からの宣教と福音化』オリエンス宗教研究所第11章「文化的受肉」163頁の中で、日本人キリスト者がキリスト教の神を受容するとき、神という神道の概念(西欧的な神よりもより内在的な文脈の中で使われる)を用いることによって、西欧の行き過ぎた超越的神観を正していると述べる。つまり日本人キリスト者の神は神道的な八百万の神々ではないのだが、同時にそれは余りにも超越的外在的な西欧の父なる神でもない。」
また、井上洋治司祭は、論文「『個の神学』から『場の神学』へ。」において「まず第一に『唯一神論』であるが、 創造主と被造物、 神と人との間の 絶対的な断絶と神の超越性・絶対他者性を強調するあまり、 西欧神学には、 どうしても神を自分の外にある実体として、 即ち対象 (object) としてとらえる傾向が強かったように思う」と述べておられます。
私はむしろ日本人キリスト者はもっと「超越的外在的な」神観を堅持し、西欧神学のように「神を自分の外にある実体として、即ち対象(object)としてとらえる傾向」を強めてほしいと思います。そうでないと神と人との区別が曖昧で、個人に対して言うような偶像的「神」観念の悪しき影響を受けたり、無用な神義論的問いにとらわれたり、神理解が民主化してしまうからです。北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」のような有限的神観による神学ではイエスさま中心主義の人神信仰から脱せられません。
「日本においては、汎神論的地盤の上で、人間や自然が神とされ、人間の欲望の反映としての偶像がおびただしく造られ、礼拝されている。この倒錯した精神状態で生が行われているのである。すなわち、神なき生の実験が世界到る所で行われているのである。人類の危機の根源はここにあるのである。このような状況の中で、神の言葉である聖書の言に人類はもう一度耳を傾けるべきである。聖書の言を信じ受けいれ、これを正しく理解しようとして苦闘したカルヴァンの神観を今日もう一度学んでみることも意義なしとはしないであろう。」(『現代における神の問題』創文社 所収「聖定の神」。p77)
現代の理論的に先進的な神学者たちにおいては、「『神の死の神学』を経て現在、 キリスト教神学はもはや、『自同者』の弁証の学であることはできない。」(梅澤弓子さんの論文「実体主義から『事』へ 現代神学の枠組みに関する一考察」)といった問題意識があり、同論文によると、西田幾多郎氏によれば「そもそも『この世界』の『 外 』に何らかの『基体的なるもの』『実体的何物か』をたてるのは、 『形而上学的独断』に 過ぎない、 とされる」( 「論理と数理」、『哲学論文集 第六』、 西田幾多郎全集第十一巻、 岩波書店、 1965 年)とのことです。このような「実体主義」とは別の神論として、以下のとおり「万有在神論」が語られるわけです。
「単に超越的に自己満足的なる神は真の神ではなかろう。(中略)何処までも超越的なると共に何処までも内在的、 何処までも内在的なると共に何処までも超越的なる神こそ、 真に弁証法的なる神であらう。 真の絶対と云ふことができる。 神は愛から世界を創造したと云ふが、 神の絶対愛とは、 神の絶対的自己否定として神に本質的なものでなければならない、 opus ad extraではない。 私の云ふ所は、 万有神教的ではなくして、 寧 、 万有在神論的 Panentheismとも云ふべきであらう。」(西田幾多郎氏の論文「場所的論理と 宗教的世界観」)
そもそもこの論文によれば、西田氏は、「『キリスト教的』 な 『絶対的主体』としての『神』は、 『主語的に考へられた最高の実体たるにすぎない』と指摘し、 世界を離れた超越的次元に、 世界を基礎づける 超越的実体としての『神』をたてる立場を批判する」とのことで、ウェストミンスター信仰基準で示されている「神」…聖定者としての「神」などはまさに、西田氏からすれば「超越的実体」ということになるのでしょう。
ところで、日本のプロテスタント教会の神学思想史において聖書主義福音信仰の立場から、イエス・キリストを「神」と告白することに反対して北森嘉蔵氏と討論した信徒伝道者の医師・小田切信男氏の言葉を引用します。
「私は日本においては一人の平信徒・伝道者として折々伝道上の証詞を致しますが、たまたまYMCA目的条文の中に、あたかも、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教であるといったような意味の条文を発見し、非常に問題を感じたのであります。日本の古い習慣から致しますと、優れた天皇とか英雄、将軍、あるいは聖人らは、死んだ後には、しばしば『神』として尊敬され、神社に祭られるものであります。それゆえ、もし歴史の人イエス・キリストを、あるいは甦ったのちのイエス・キリストを、『神』であると申しますと、日本的習慣からは、『活き神様』の思想にも近いものと考えられたり、(中略)このようなことは日本の宣教上からは大変問題であると存じます。(中略)聖書には、歴史の『人』を神とよぶ思想(活き神様)のないように、神が肉体をとって『歴史の人』となるという思想もまたないのであります。なぜなら『肉体を持つ神』というような神観は、ユダヤ的、キリスト教的神観にはないからであります。もし、そのような『神』があれば、その神は当然死に終る運命を持つわけであり、かかる『死ぬ神』といった『神』は異教の神ではあっても、決してキリスト教の『神』ではないのであります。」 (小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』紀伊國屋書店 p143~144/「神、人となれり」ということの否定については同書の31~32、124、134~135、161、344、358頁なども参照。)
小田切氏は、昭和28年に上梓第三書となる『福音から見た神と人』(ともしび社)を著し、「YMCA目的一部改正についての意見を同盟に提出するまでは、『神、人となれり』ということを聖書の教えとして認めていました。しかしその誤りに気づいて意見を訂正したのです(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト) ― 北森嘉蔵教授との討論を兼ねて ―』待辰堂書店 p4~5参照)。
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
その小田切氏と親交があり、牧師として葬儀の司式もされた野呂芳男氏の場合は、「神」について「絶対」を言うのは哲学であって神学ではないと論じておられ、その結果、聖書に示された「神」をプロセス神学と同様に有限なる存在にしてしまっています。しかもその動機が、「史上,絶対的な全知・全能の神がしばしば専制政治に利用され,民衆を弾圧する道具に使われてきたことを考えますと,多元が多元のままで,そこに愛による-時代によってその形が独創的に変化して造られる-調和形成を目指す多元論のほうが,キリスト教という愛の宗教には相応しいと思うのです。アウシュヴィッツなどの強制収容所におけるユダヤ人虐殺,中国などにおける日本軍による虐殺事件,広鳥や長埼への原爆投下,東京下町の大空襲などを体験した私たちにとっては,もしも神が全知であり全能であるならば,何故にそれらの出来事を阻止できなかったのか,分からないのです。」(野呂芳男氏のエッセイ「神学研究四十五年 ――最終講義 1991年1月17日 於 立教大学チャぺル――」の「4 多元論へ」)などといった神義論的思弁的な事柄であることを見ると、呆れて思わず首を傾げたくなります。
「北森神学にもっとも近いモルトマンでさえ、(佐藤氏も書かれているように)痛みを神の本質のうちに持ち込まないという点で北森神学とは異なっていると野呂氏は見ている。ところで、この野呂氏の主張は、『有限の神』という主張とも微妙に関わっている。一見、苦しむ神を批判することは、神の全能という主張からなされるように見える。神が苦しむのなら神の全能に制限が加えられるのは容易に想像できるからである。しかしながら、野呂氏の場合は逆に神は有限であるという立場なのある。氏は、北森嘉蔵がある時期に「有限の神」という思想に接近したと書いているが、野呂氏はそれを非難しているのではなく、北森氏がさらにその考えを展開させなかったことを残念だと言っているのだ(野呂芳男著『神と希望』日基教団出版局 238頁)。
「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在――自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(北森嘉蔵著『日本基督教団 信仰告白解説 増補改訂版』日基教団出版局p59)
この神の全能の「抑制」というのは、神の「自己限定」と言い換えることも可能でしょう。これは神が自主的になされることなので、あくまで全能とは矛盾しません。この冊子における問題点は、神の全能と矛盾することを北森氏が以下のとおり、人間の堕罪との関係で述べていることです。
「かくして人間の堕罪は二つの破綻をもたらしました。第一に、神の全能が貫かれ得なくなったこと、第二に、もし神の全能を貫こうとすれば、人間は死なねばならず、これは人間を生かそうとする神の愛と矛盾して来ること。『全能なる父なる神』がそれだけでは完結しえない真理であるというのは、このことをいうのであります。『全能の父なる神』の真理は、御子イエス・キリストの真理によってのみ完結され貫徹されうるのであります。すでに述べましたように、父なる神(創造秩序)の真理がキリスト論(和解秩序)のうちに包まれて成り立つというのは、このことを意味したのであります。」云々(p61~62)
このようなことであるなら、そもそも神は「全能」とは言えません。北森氏の神観が「有限の神」に近づいたという野呂芳男氏の指摘の通りです。すなわち北森氏は、「人間の堕罪が起こったということは、実質的な意味において、神の全能が否定に直面したことを意味します。神の意志は人間においてだけは貫徹され得なかったからです。人間は神の意志を否定したのであります。罪は、神の全能を否定するものであるからこそ、まさに罪なのです。」云々と言いますが(p60~61)、「人間に自由を与えるために神の全能が抑制された」から「全能の父なる神」だけではダメで、子なる神のキリストが必要になるというのは「形式的」なことで「実質的」ではなく「実質的」なことは堕罪問題である…といった北森氏独特のロジックは、そもそも父なる神が全能と愛という相矛盾するものを抱えておられることを説いているかのような印象を与えるのです。
しかし聖書が示す創造主なる「神」は同時に「聖定」の主でもあられ、アダムとエバの堕罪のこともお見通しなのです。それによって全能が制限されるようなことではなく、堕罪の出来事は、所謂「許容聖定」という「神」の自己限定において起こったものであり、これも全能の内なのです。そのことを顧みない北森説はアポリアに陥るのであり、始めから破綻しているわけです。つまりどうしても「神」の有限性や相対性を認める方向にゆかざるを得ないという構造的欠陥が生じるからです。
< この「有限の神」という主張も、不条理の時代である20世紀における弁神論の問題からまさに出てきている。神が全能であるなら、この世の悪もまた神の一部であるということになってしまう。野呂神学は神の全能を捨てても、神が悪を含むという立場を拒否するのだ。神は愛を本質とする。だからこそ希望となりうるというのである。この主張は、究極的につきつめていけば、二元論の枠組みを受け入れるということを意味し、グノーシス主義やカタリ派の主張を取り入れることになる。>(webサイト「屋根裏部屋の思考」http://okegawax.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_97a2.html )
これでは本末転倒であり、「神」を有限化するような神学よりは、「神」を絶対化する哲学の方がよほど聖書的であると思います。
ちなみに荒井献氏の神観もティリッヒあたりの影響があるようですが、次のように述べておられます。
「私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、イエスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」pdf_christ_140705.pdf (keisen.ac.jp)
『イエスとその時代』(岩波新書)では、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきもの」と述べられているとおり、いわゆる「機能神」として非人格化されていると言えるでしょう。寺園喜基氏の私信での表現を借りて言えば、これは「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」ということになります。荒井氏の指摘で重要なことは、クリスチャンが神について「絶対」を言う時は、あくまで信仰告白としてであり、形而上学的・客観的な意味で言うわけではない…ということです。但し、私にとって神の救いのはたらきは、荒井氏の言われる「自己相対化の視座」にとどまるものではありません。「自己」だけを相対化するような「神」では救いを与えてはくれないのです。それって精神的に余裕ある知識人に多くみられる性善説を前提とする人間観ないしは神観ではないかと思うのですが、私見では何よりも「自己」を迷信やマスメディアなどの情報による世俗的価値観などの影響としての優劣比較の自我作用によって自己を呪縛している「偶像」をこそ相対化して、その悪しき勢力から解放してくれるはたらきが実現されなければなりません。
小川圭治氏によると、「絶対的な神」が用語として用いられるのはアンセルムスからでだそうですが(『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』新教出版社 p69~70)、小川氏自身は同じ一神論でも「三一的一神論」と「排他的、絶対主義的一神論」とを分けています。自分の場合は後者の方に近いということになるのでしょう。
無教会派に対して教会派の中の教会派とも言える改革派教会において、神の絶対性はどのように言われているかを問い求めると、結局、ローマ・カトリック教会の「存在の類比」(analogia entis)による「自然神学」に真っ向から反対して「自然啓示・一般啓示」を否定し、キリストによる「特別啓示」のみを聖書が示す神認識の啓示と認めるという過ちを犯したバルト神学のことや、そのバルトとは違って「自然啓示・一般啓示」は認めつつ「自然神学」は否定した改革派神学の話につながりますが、これについてはこのレポートの最後の方で引用を含めて詳しく見ることにし、ここでは割愛します。
ところで旧約聖書学者の並木浩一氏は、「人格神」を信じる理由の一つとして、「神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶこと。これがわたしにとっての礼拝の意味です。慰め主であり、賛美をゆるされる方をわたしは必要とします。」と述べておられます。その一方で並木氏は、神の「絶対」性を否定しておられるのです。
「この人間の尊厳の感覚と神の尊厳、神が神であること、これははっきりと車の両輪として関係づけられている。これが大事なポイントです。ですから神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではないのです。神の主権の主張と人間の尊厳の主張とが常に車の両輪としてはたらいている。神の立場を主張することが、人間を虫けらのごとく扱うことを許すとすれば、これ以上にひどい間違いはありません。(中略)たしかに、神と人間とは違います。一方は創造者、一方は被創造者です。人間を神格化することはできません。それにも拘わらず、神が神でありたもうことを語るということは、神が神でありたもうがゆえに人間、一人の人間が神によって大事にされていることを語ることになるのです。これが聖書の根本のメッセージです。」(並木浩一著『旧約聖書の基本的感覚』デジタル版 p36)kyuuyaku_namiki.pdf
ここで「神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではない」と並木氏が言われていることは私見では当然と言えば当然です。と言うのは聖書以前(…そもそも「以前」と「以後」という区別など出来ない無時間=永遠)において本来の神が「すべて」であり「絶対」だったのであり、その形而上的次元から神の自己限定(=啓示)によって対象化されたのが聖書の物語(=神話)だからです。神は聖書において物語られることによって創造主としての人格神となり自己対象化したのです。そして終末に至って神はキリストをも従えて「すべてにおいてすべてとなる」…すなわち本来の絶対・無限なる形而上的神へと復活する、それが私にとっての神話ということになります。
<「絶対」という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の「絶対」を指示する言葉を見出すことができません。問題となるのは「神の唯一性」(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは「人間の業と思いを完全に超えた」という意味であると説明できますね。人間が神に対して取るべき態度は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)です。神を絶対者と見なすなどということはどこにも記されていません。新約聖書でも事情は同じでしょう。「絶対」は抽象的な哲学概念だと私は理解しています。「絶対矛盾の自己同一」なんかその典型ですね。これ以上のことは、私には言えません。>(私信)
そして並木氏は私信の別の所で、人格神観は神の擬人化と不可分である旨も述べておられます。
「絶対」は用語としては聖書に見られませんが、事柄としてはどうでしょうか?福音派の中川健一牧師は、聖書に「三位一体」という言葉はないが概念はある…と言っておられます。私はこれに同意はしませんが、そのロジックは真似して、聖書に「絶対」という言葉はないが概念はある…と言いたい気持ちはあります。私見では、次に引用する並木氏の御著書『人が孤独になるとき 説教・講演・奨励集』(新教出版社)の中の「2 遠くの神ではないのか」の一節がまさに賛美告白の表現としての神の「絶対」性を物語っているのではないかと思います。
「神はヨブに対して神の神たることを貫かれましたが、エレミヤの場合もそうでした。エレミヤの激しい抗議と嘆きにもかかわらず、神は彼と妥協することはありませんでした。神はエレミヤにとって遠い神としてのご自身のありかたを貫き通したのです。神は彼の抗議を適当に聞き入れるようなことをしません。そこで彼は傷つき破れます。神は神であり、彼は人であるという事実があいまいにされることはありませんでした。彼は人間として破れましたが、しかし彼が破れても神は神でいたまいます。神は神でいたもうことによってエレミヤに対する真実を貫いたのです。神がエレミヤと妥協しない神であればこそ、彼は再びこの神に立ち返ることができました。彼は破れましたが、この神を唯一の頼みとすることができたのです。そのとき遠い神が同時に近い神となりました。神が人に対して遠い神であることを貫かないとしたら、エレミヤのように破れ傷ついた人は、神に本当の信頼を寄せることができるでしょうか。」(p32)
前に引用したとおり、並木氏は「神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。」と述べておられます。その「相対化」は、賛美の対象である「神」が絶対だからこそなし得ることではないでしょうか?というか、絶対なる神でなければ、人は賛美しようなどとは思わないのではないでしょうか?私の場合はそうです。絶対神(の啓示された人格神)との関係(…絶対に関係は無いから…)は自分をあらゆる不条理に対して俯瞰的に見ることのできる足場を与えてくれるのです。それがこの世のあらゆる偶像(=絶対化された相対的事物)を見抜く力にもなり、絶対神への賛美の気持ちが湧いてきます。
そして、旧約聖書で神の「絶対」性が物語られているという主旨のことを、並木氏と同じ旧約聖書学者の関根清三氏が述べておられます。以下、引用。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』中公新書 p77~80)
たしかに古代イスラエル人の頭脳には「絶対」に相当するような概念はなかっただろうし、ここで関根氏が言われている「リアリティ」にしても、どこまで我々が感得し得る「絶対的根拠」としてのそれと通じるものかはわかりません。旧約聖書(申命記6:4 他)には神について「唯一」(エハード)という言葉があるから「絶対」と同じような意味で読みとれるのではないか?という意見もありますが、この「唯一」は「神」一般の中の唯一という意味ではなく、「エホバ/ヤハウェ」が唯一という意味でありそうです。
<「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、拝一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教的だからである >(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房p271~276)
この「拝一神教的な意味」という点では、元・農伝神学校校長で日基教団牧師の旧約聖書学者・高柳富夫氏も次のように述べておられます。 「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教や自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」(~『農村伝道神学校学報』第165号に掲載の「神とは何か」)
多神教や自然宗教にまで配慮する必要が宗教的にどこまであるのかは知りませんが、現代社会において唯一神信仰は実際にこの拝一神教的形態をとることになると思います。誤解をおそれず端的に言えば、唯一神信仰については絶対主義であり、唯一神教については相対主義ということです。信仰・礼拝の対象としての「神」は、実存的レベルだからかけがえないものであり相対化はできませんが、その信仰の社会的実現としての宗教における「神」は、他の宗教における神仏と並記され同列視されることを拒んでは対立せざるを得ないので、平和な関係を築くべく外的相対性は受け入れて協調しなければなりません。例えば職場で他宗教の信者と協力しなければ仕事にならないという場合には、拝一神教的スタンスで対応する以外に共存の道がないことは実験済みです。
いずれにせよ、聖書における「絶対」という概念の有無については、科学的には並木氏の言われる方が正しいのでしょうが、信仰的にはやはり関根氏の方に共感することになります。すくなくとも私は、北森氏や野呂氏などが物語る有限で相対的な神に対しては賛美しようとは思えません。子なる神キリストと共に痛み、死にさえするような父なる神に対しては、賛美の気持ちより虚しさを感じます。なぜならそのような人間的な神…、E・ユンゲルなどの現代神学者が言う「生成」する神では、自分たちの「存在」根拠という感じが稀薄なので、罪とか死といった根源的な問題に対する解決を与えられるとは思えないからです。
< 三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。>(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社)
現代神学は世界大戦の経験を踏まえて云々とか云われて、私見では広義の神義論(=弁神論)ではないかなと思います。具体的には「三一論的『十字架の神学』という立場」(北森嘉蔵著『自乗された神』日本之薔薇出版社 p158)であり、北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』日本之薔薇出版社 p222)ということです。これは人間による神の相対化・有限化にほかなりません。「人間として死にうる神」だなんて「神」の名に値しません。「神の死の神学」などは神殺しの神学であり、フォイエルバッハの逆真理として、(特に現代の)神学の正体は人間学なのです。北森氏の「神の痛みの神学」は御父が御子と共苦するところに福音の根があるようですが、ハイパー・カルヴィニズムにおいては、「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(ヴォス師前掲書 p152)ということになります。なお、前に引用したとおり、袴田康裕氏などは、ウェストミンスター信仰告白を「穏健カルヴァン主義」だと述べています。しかし私は、ハイパー・カルヴィニズムとしてみています。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(野呂芳男氏の論文「今日における神観の一問題」)
ところで、北森嘉蔵氏は次のように述べています。
「いわゆる近代主義(Modernismus)もしくは自由主義神学(liberal theology)(中略)その特質は直接的な神関係の主張にあります。これは『異なる福音』でなくてなんでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙において戦ったのは、キリストの死をむなしくする立場に対してでありました。しかるに近代主義神学では、キリストの死による仲保媒介なくしても神人関係が成り立つ、というのですから、『異なる福音』と言わざるをえません。さてこのような直接性の立場が次第に徹底すると、神が人間の中に内在するという『内在主義』となり、これが主観主義、心理主義等となり、また神が人間歴史の中に内在化するという形では、歴史主義ともなって行くわけです。一言にして言えば『人間の内なる神』の立場であります。さて、バルトは近代神学を訂正すべくあらわれたと言いますが、そのさい彼の訂正が第一義的に向けられた点は、このような『内在主義』に対してでありました。従ってバルトは『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いたのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p24)※関連記事として、小川圭治氏の著書『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』(新教出版社)の、「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)参照。
以下は小川氏前掲書より、「状況内における神の問題」(p4~)と、「無神論」と「神の絶対的超越性の要求」との関係についての箇所(p168~)と、ユンゲルの「生成する神」は「人間として死にうる神」であるという箇所(p192~)と、「神の内在化による人間の絶対化」(p315~)と、バルトの「新しい神概念」(p319~)の引用。
< 無神論が反宗教と同義に考えられるようになったのは、十八世紀の啓蒙思想の中で最初に公然と無神論をとなえたといわれるP・T・ドルバックの『自然の体系』(一七七〇年)以来であろう。この十七、八世紀の無神論の背後には、理性主義にもとづく機械論的人間観があった。それはさらに、理性的人間の自己絶対化に支えられている。「人間がキリスト教の神であり、人間学がキリスト教神学の秘密である」とのL・フォイエルバッハの『キリスト教の本質』(一八四一年)のテーゼは、実証主義としてのかぎりでは、このような啓蒙思想の一つの究極的な表現だと言えるであろう。しかしフォイエルバッハのこのテーゼは、やがて確立される社会科学的無神論と結びつくとき、のちに論じるように近代主義的意識そのものに対する根本的な問いとしての意義をも担うことになる。ここで「状況としての無神論」という場合の無神論は、ただ直感的に神や宗教を否定するだけの無神論ではなくて、そのような無神論の背後にある、近代的人間の自己絶対化の究極の運命として引き出される「神の殺害者たち」の出現を告げる、F・ニーチェの『よろこばしい知識』(一八八二年)以下の無神論である。それが状況を表すということの意味を、さしあたり次のように考えておきたい。われわれはもはや、神が物一般の実存性の根拠としての第一実体であると、素直に考えられるような中世的な形而上学の世界に住んでいるわけではない。(中略)ニーチェの神の死の宣告は、批判主義が主張したように、事物としての神の存在を否定しただけにとどまらず、理念としての非対象的な神の実在をも含めて、一切の神の実在の否定を意図するものであった。十八世紀的人間の自己絶対化は、神を排除することによってではなく、逆に神を理念としての人間理性の中に内在化させることによって遂行されたのである。したがって理念としての神が死んだとなると、この近代的人間の自己絶対化も崩壊するわけで、そこにヨーロッパの、そしてやがては世界の運命となるはずのニヒリズムが到来する。「状況としての無神論」として差し当たって考えておきたいのは、このようなニーチェ的要因である。マルクス主義の宗教批判は、主として社会的集団または組織としての教会の果した保守的役割の批判を内容とするものだが、近代的人間の個としての自己絶対化を否定し、近代主義そのものを別な面から根本的に批判する点で、宗教批判の無神論としては理念としての神の死を主張するニーチェの無神論と相対応する面があると言えるであろう。しかしわれわれが「状況としての無神論」というとき、状況はこのようなニーチェ的無神論にはとどまっていないように思われる。ニーチェの「神の死の宣告」は、二千年にわたってヨーロッパ文化を支えてきた絶対的価値の崩壊を意味したから、そこからは、それではそれに代わる価値は何か、あるいはそもそも絶対的な価値とは何かという深刻な問いが提起される。このような問いは、のちにも述べるようにキリスト教神学にとってすらも積極的な問いとなりうるものであった。またハイデッガーのように、そこから存在とは何かという根本的な問いを問い直すことも可能であった。しかし今日の社会を支配しはじめている価値相対化の意識は、ニーチェ的意識を出発点としながら、今日の世界の政治、社会、文化のあらゆる面における、多元化、多極化、多様化という急激な変化を背景として、出発点のそれとは異質的なものになりつつあるのではないか。それは一面では、ヨーロッパ、または西欧の文化の絶対的優位性の意識の崩壊を意味するとともに、他面、世界各地の文化がそれぞれ固有の価値をもつとの自覚につながる積極的側面をもつ。近代主義的キリスト教の絶対性の意識は、西欧文化の絶対的優位性と表裏一体になって成立していたから、そういう形での神の絶対性の確信は、世界的、歴史的認識の側から崩れて行くわけである。つまり世界の世界性というものが、このような多極化、多元化という形でわれわれの眼前に姿をあらわしはじめたのである。このような世界的規模での多元化現象は、広汎な価値相対化の意識を生み出しつつある。そういう形で世界の世界性が、世界の側から巨大津波によるように崩壊して行くのである。最近のアメリカにおける「神の死の神学」は、このような新しい無神論的な状況を反映したものといえるであろう。この神学は、第二次世界大戦後のヨーロッパの思想的状況をふまえながら、二十世紀後半のポストモダンなアメリカ社会の変遷を背景として成立している。(中略)D・ヘンリッヒは、『存在論的神証明』(一九六〇年)で、近代における神の存在の証明の歴史を丹念に辿ったあと、次の三つの条件が存在するところでは、いつでも「神存在論」(Ontotheologie)が成立しうると結論する。(1)原理、または第一原因が問われなければならない時。(2)本質と現存在、原理と実在の間の存在論的差別を前提しなければならない時。(3)本質が、現存在と区別された上で、即自且対自的に規定されたものと考えられる時。はたしてこの三つの条件は、今日の価値相対化の意識の下では、もはやどれも成立しにくくなったのだろうか。またそのような広汎な価値相対化の意識の下で、神の問題を問うことは無意味なのであろうか。(中略)一九一〇年代から二〇年代にかけてのヨーロッパの神学の課題は、先に述べたニーチェにおいてもっとも典型的な形をとった無神論と、マルクス主義の宗教批判とを状況の提起する問いとしてとらえ、神学そのものにおける近代主義をいかにして克服するかにあった。(中略)無神論が決定的な無神論として成立するためには、神の絶対的超越性の要求が明確に定立していなければならないというのが、差し当たってわれわれが到達した地点であった。つまりここでは、真の神を神とすることが必要なのである。それを神論の側から言えば、この真の神の絶対的超越性の要求を、もっとも決定的な仕方で具現するのは、人格的独一神である。このような独一神信仰が確立せず、融通無碍な多神論や汎神論が支配するところでは、決定的無神論は成立しないのである。しかしそれでは、絶対的超越性の要求を具現する人格的独一神信仰が、どのようにして決定的無神論に反転するのであろうか。(中略)P・ティリッヒは、多神論の類型を検討することによって、多神論といえども神論である以上、何らかの形で絶対的超越性の要求、彼の用語で言えば「究極的関心」、あるいは「究極性の要求」を持たざるをえないことを明らかにした。すなわち「普遍主義的多神論」は(中略)普遍性の背後にあるマナの「実体的統一性」が多神論を裏切って、一神論への傾斜を示している。「神話的多神論」は(中略)最高主宰神の設定という形で、一神論への傾斜を示している。「二元論的多神論」は(中略)二神の一方を善とし、他方を悪とするところに、独一神への傾斜が明確に現れている。このように神は神である以上、神論は、絶対的超越性への要求を回避することはできない。ヘブライ・キリスト教の思想史が、もっとも典型的に示しているように、神の絶対的超越性の要求が人格的独一神を成立せしめるのである。しかしこのような人格的独一神論は、ステレオ・タイプの一神論としてはじめから存在し、ゆるぎのない確固たる存在を続けて行くのであろうか。神の絶対的超越性の要求が、このようなものとして存立するならば、その裏面に無神論が成立する余地はなかったであろう。ティリッヒはさらに、一神論が抱えるこのような問題性を、一神論の類型の検討によって示している。すなわち「独裁的一神論」は、多神論の神々の闘争を克服し、神の絶対的超越性を確立する一神論であるが、その独裁は反逆を呼び起こし、天使礼拝、聖人信仰などの形で多神論への逆行が生じる。「神秘主義的一神論」は(中略)その神秘的体験は、新たな多神性への門戸を開く。「排他的一神論」は、もっとも徹底した独一神論であるが、その排他性のみを強調すると、神概念は具体性を喪失し、その間隙に、かえって体験的多神性が入り込む結果となる。このように、一神論そのものが担っている自己矛盾、あるいは一神論自体が予期しない間隙に、無神論の成立する根拠がひそんでいると考えられる。(中略)ギリシアにおける神概念は、そこから直ちにティリッヒの言うように、ペルシア宗教的二元論をへて一神論へとは展開しない。(中略)その次に来るのは、自然哲学による神概念の抽象概念化の時代である。(中略)この抽象概念への超越の動きは、神話的多神論における人型論の相対性を越えて神概念の絶対的超越性を求めるものであった。それは、人格的独一神への超越の方向とはまったく違った方向への超越の可能性であった。神を形而上学的抽象概念としてとらえ、神概念の絶対的超越性の要求を明確化しようという考え方は、その後の西欧の思想史においても、あるいはインド思想においても、さまざまな形で現われてきた。今ここで無神論のテーマとの関連で重要なのは、西欧の近代における理性の自律の追求と結合した新しい方向である。(中略)近代形而上学の神は、啓蒙主義の楽観主義的な、直接的無神論に対して、神の絶対的超越性を純粋な理念の世界に確保しようとする思想上の試みなのである。その基本的背景はまったく違ってはいるが、神に関する絶対的超越性の要求を貫徹するという点では、ギリシアの自然哲学の神(アルケー)や、神秘主義的一神論の否定辞で表現された神と同じ方向にある。それにもかかわらず、スピノザの汎神論的な理念の神は、無神論だと批判された。また、カント、フィヒテの道徳形而上学の神も、無神論闘争を引き起こした。これらの近代形而上学の神が無神論であると判断したのは、当時の保守的な正統主義の神学であったが、はたして謂われのない非難であったのだろうか。(中略)ヘーゲルは(中略)近代形而上学における神の内在化によって、啓蒙主義の一方的な無神論をも克服するとともに、理性は信仰を自己の領域内に内在化し、勝利を収めたというのである。つまり「哲学者の神」、近代形而上学の神の成立である。(中略)「神の死」のテーマは、無神論の問題としてよりは、三一神論の枠内で論じられるべきだと考えられるので、ここではこのテーマに関して、この論文の細部を論じることはできない。(中略)ヘーゲルにとっては(中略)近代形而上学においては、神あるいは信仰は、あの二元論的な反省哲学の「絶対的な対立構造に制約された理性が、そこからは理性自身が閉め出されてしまう、自分よりもより高いものを認識することになるので・・・・・理性にとっては空虚なもの」になってしまうと言うのである。ここには、当時の保守的な正統主義教会が恐れたのとは違った次元における無神論の可能性が、姿を現していると言えるであろう。ヘーゲル自身は、それを予感しているかのように『信仰と知』の末尾において、これらの反省哲学の非徹底なところを突破するためには、この「絶対的対立構造」において現れる抽象的絶対者としての神そのものの死、つまり「思弁的聖金曜日」が必要だと述べている。その意味は、反省哲学の抽象的な絶対者としての神が、受難と死を経たのちに、はじめて真の理想主義哲学に基づいた思弁哲学の神が、現実的なものとして復活するというのであろう。そこから、人間として受肉した神の死と復活という三一神論のテーマが展開するのである。(中略)『教会教義学』Ⅰ/1において、歴史の中で、人間に対してなされる神の行為の三一論的構造が、内在的三一論に対する経綸的三一論の優位において成り立つことを、伝統的教義学における相互関入論と固有分与論の相関によって論じた。ここに示された三一論のダイナミックスを、E・ユンゲルは、「神の存在は生成においてある」というテーゼでとらえた。神は、ただ高く超越するだけの存在ではない。神の側から、神のイニシアティブにおいて、歴史の中に、人間として生成する神である。このように「生成する神」は、「人間として死にうる神」であるという。したがって、「神の生成」という出来事の究極的表現は、「十字架にかけられた神の死」であるという。そこから、J・モルトマンによって提起された「十字架にかけられた者」をめぐる論議が生まれてくるのである。ユンゲルはさらに、この「生成する神」の現実を、「神の存在は、その到来にある」とのテーゼで表した。(中略)バルトは、この現実を「神の人間性」とも言った。絶対的超越神が、歴史的現実において、自己を、自己の優先権において、人間に示すこと、それが「神の人間性」である。三一神論として教義学が論じてきた事柄を、現代のわれわれは、このような問題状況においてとらえうると考える。(中略)ヨーロッパ中世の形而上学においては、神と人間と自然(世界)の三理念を頂点として存在の全体が考えられてきた(三二六頁図参照)。この三理念は、キリスト教神学の基盤の上で次のような調和的関係を形成した。三理念の中心である神が人間と自然を創造し、支配する。「神のかたち」(imago Dei)の保証として「理性を賦与された動物」(略)である人間は、この理性によって神に創造された自然を認識し、理解し、享受し、利用できる。中世の思想的原理を確立したA・アウグスティヌスは、この正三角形の調和を、神による、人間と世界の「無からの創造」(略)は「神の証明」(略)による人間の自然認識と言い表した。(中略)このようにして形成された人間中心主義の考え方、すなわち〈神の内在化による人間の自己絶対化〉の姿勢を、ここでは「近代主観主義」と呼びたいと思う。この人間の知性の絶対化による近代主観主義の立場に思想的表現を与えたのがドイツ理想主義の哲学である。(中略)G・W・F・ヘーゲルの「絶対精神」において完結を見るのである。バルトは、このヘーゲルの哲学は「最高の謙虚さであることによる最高の巨人主義(略)である」といった。「人間の自己信頼が、そのままもっとも信実な神信頼になる」立場だという。近代主観主義における、〈神の内在化による人間の自己絶対化〉の姿勢は、ここに究極の形をとったと言えるであろう。(中略)〈神の内在化による人間の自己絶対化〉という原理に立つ近代主観主義は、ドイツ・ロマン主義にも受けつがれ、さらにC・シュミットの「政治的ロマン主義」(略)となってナチ・ドイツのファシズム形成の背景となった。(中略)バルト神学がその後の展開の中でひたすら追求したのは、このような絶対主義的一神論の神を突破して、近代主観主義の枠を越えた新しい神概念を神学的に叙述することであった。彼が『教会教義学』のⅣ巻『和解論』において提示しようとしたのは、このような新しい神概念であった。キリストの出来事において人間と和解する神は、あの近代主義の神が抽象的、排他的な絶対的超越者として人間と世界から超越するのとは反対に、本来人間と世界を超越した「高み]にある神自身が、その高みの座を棄てて自らを卑下し(略)、人間と世界の直中に到来し(略)、地上に歴史的出来事として現れ(略)、人間となる(Werden)神である。ユンゲルは、この神の現実を「神の存在はその生成の中にある」というテーゼにまとめた。(中略)神の側から人間に語りかけ、人間と世界に到来(または来迎)し、その人間と世界を愛する神は、派遣する父なる神と、派遣によって到来する子なる神と、派遣されて愛し続ける聖霊なる神との三にして一なる「三一論」の神でなければならない。近代主義の抽象的、排他的、非人間的な一神論の神概念を突破、転換して、ここに示された新しい神概念は、『和解論』の「現実的、歴史的、具体的、包括的な三一論」の神である。J・モルトマンは、あの抽象的、排他的、非現実的な近代主義的超越神の根本的性格を「非受苦性原理」(略)、「受苦不能性」(略)などの語で表した。その背後には、バルトの『和解論』における「死ぬことが出来る神」「受苦可能な神」の論述がある。この和解の神は、人間となったからこそ死ぬことができ、苦悩、苦痛を共にする「同伴者」として歩むことができる。この「包括的三一論」の神が、近代主観主義を突破して、近代自然神学のエートスおよびパラダイムと対決する原点となりうる神である。>
以下、小川氏の論文「神概念の転換——E・ユンゲルのバルト解釈を手がかりとして——」より引用。jcs_6_306.pdf (kyoto-u.ac.jp)
<人間精神に内在化された神は、人間の自己絶対化の完成と保持に奉仕せしめられる。F・ニーチェが『神の死』を宣告したのは、このような形で真の絶対的超越性を制約され、やがてはそれをまったく喪失して行った近代主観主義の神に対してである。その結果、この『神の死』を越えて、真に生ける神、真の絶対的超越神が復活するか、あるいは死んだままでニヒリストの手によって埋葬されるかという可能性がのこされる。さきにユンゲルが、有神論と無神論、形而上学とニヒリズムの対立が、『そこに人間の現われる余地のない高み』として実体化され、さらに理念として内在化された神概念という一つの基盤から、それを軸とした反転によって生じるといったのは、まさにこのような事態であったと考えられる。その上で、この有神論と無神論の排他的、非生産的二者択一の彼方に、このディレンマまたは矛盾対立を越えた新しい神概念の発見、または生ける神への神概念の転換が可能かという問いが提起されているのである。それは別の面からいえば、先に述べたように、絶対的超越性のみを一方的に追求し、超越ということそのものの意味も失われるような抽象的超越性に転落するのではなく、神の真の絶対的超越性が具体的、現実的に確保される可能性があるかという問いである。この課題に答えうるためには、この真の絶対的超越性を確保した神が、その自らの優先権において(人間理性の要請によってではなく)、自らを、歴史的現実において(理念の世界においてではなく)、具体的に一人の実在の人間において(たんなる観念や実体としてではなく)示すのでなくてはならない。つまり神の啓示の出来事が、一つの具体的な歴史上の出来事として生起し、一人の実在の人間において示されなければならない。すなわち、真の神性を確保した神が人間性を獲得しなければならないのである。この神の第二の本質的要素を、ここでは神の歴史的現実性とよびたい。ユンゲルは、その最初のバルト神学との対論の書『神の存在は生成においてある——カール・バルトにおける神の存在についての責任的論述——一つのパラフレーズ』において、すでにこのような神概念の転換を、『教会教義学』Ⅰ、Ⅱの三一論的神観の中に見出そうとしている。ユンゲルはここでは、神の存在、とくにその存在の対象性をめぐるH・ブラウンとH・ゴルヴィッツァーとの対論に含まれる問題点から出発する。つまり『教会教義学』Ⅱ/1、12ページ以下の『神の対象性』の解釈をめぐって議論が展開する。ブラウンがブルトマン学派の実存論的解釈の方法に従って、神を『たんに与えられたもの』とする『客観化的思考』(ein objektivierendes Denken)を批判することは理解できる。それは、先に述べたように、有神論であれ無神論であれ、神を実体として措定する態度に対する批判である。しかしゴルヴィッツァーも指摘するように、バルトの『神の対象的存在』の主張は、『対立して・立つもの』(Gegen-Stehendes)としての神の絶対的超越性、神の神性を回復し、一切の内在化、実体化を拒否することを目ざすものである。したがってゴルヴィッツァーは、『非客観化』(Ent-Objektivierung)と『非対象化』(Entgegen-standlichung)とを区別することを提案し、『非客観化』の主張は正しいが、それがただちに神の存在の対象性、その絶対的超越性を否定する『非対象化』にまで拡大されることは誤りであるという。それはさきに述べた本論文の問題との関連においていえば、神概念の本質的要素としての神の絶対的超越性が抽象的超越性へと転落することを回避しつつ、真の絶対的超越性を確保するという課題に対応する論点である。ユンゲルは、ゴルヴィッツァーがこの課題の遂行を、『存る=命題』(Ist-Satz)の必然性と不適格性の弁証法的対置という形で、いわば論理的手続によって進めようとするのを批判する。むしろバルトが『教会教義学』1/1において行ったように神の行為の三一論的構造の解明によって進めるべきだと主張する。つまりユンゲルによれば、バルトにとって、絶対的超越性を本質的要素とする神が歴史的現実性において自らを示すことは、まさに三一論的な神理解の問題であるという。したがって『神の存在は生成においてある』というユンゲルの書物の表題の示すテーゼは、神の存在を客観化、実体化から解放し、歴史において生きて働く神として神を理解することを目ざしている。『神学的に《生成》といわれるものは、存在論的、根源的には三一論的範疇として理解されるべきであり、そこでは神はその現臨を、自らにとって異質な未来に向って進むために過去として自らのあとにするのではなく、むしろ三一論的躍動性(die trinitarische Lebendigkeit)において《不可分に原初と持続と終局であり、その本質において同時にすべてである》(K・バルト『教会教義学』Ⅱ/1)』という。『生成』とは、ユンゲルにおいては、生ける神の歴史的現実性をあらわす範疇なのである。したがって『その存在が生成においてある神は、人間として死ぬことができる』ともいう。ここに『十字架にかけられた者の神学』への歩みが、すでに踏み出されている。このような『神の存在の具体性』は、バルトの神論においては、伝統的な三一論における三つの位格の『相互関入論』(Perichoreselehre)と『固有分与論』(Appropriationslehre)との対論によって展開されているとユンゲルは考える。>※バルトの啓示認識の問題については、最後に引用します。
「これは人間学的、人間中心主義的出発点からはじまった道の究極であって、その道をさらに進むと、〈神〉という言葉なしに新約聖書の内容を述べることもできるという点にまで達する。すなわちここでは、神の存在は、その非対象性を通じて人間の実存の中に解消されたのである。もちろんブルトマンは、この点まで同行することはしない。しかしブルトマンの神学の中には、ここまで行ってはならないという明確な歯止めはない。」(小川氏前掲書p120)
関連して、以下、北森氏前掲書より引用。
< ブルトマンについては一つだけ指摘されなければならない重大な問題があります。さきほど私が、正しい神学は、どこまでも神と人間との関係を問題にすると申しましたが、ブルトマンにおいては、いささかこの関係が解体されて、神の側までをも人間主体の側に吸収する傾向をもつに至っております。救いたもう側としてのキリストの論すなわちキリスト論と、救われる側の人間の論としての実存論的な救済論とが、相即されねばなりません。しかるに、ブルトマンの場合には、いささか救済論がキリスト論を吸収するという傾向をもっています。これは、先ほど申しました正しい神学のあり方からはずれる危険を示しております。バルトの神学が、どちらかというと客観的なキリスト論の優位を強調するあまり、主体的な救済論に妥当な位置を与えないことへの反動のあまり、ブルトマンは逆にキリスト論を救済論に吸収する傾向をもっております。だから、キリストの事実は、あたかも人間実存の変革への象徴にすぎないかのようにさえ取られるのであります。>(p66~68)
ところで、北森嘉蔵著『対話の神学』(教文館)によると、鈴木大拙氏の以下の指摘があるとのこと。
<「西洋的な」キリスト教が神と人間とを「対立」させることは、「相対立」するかぎり神を「相対的」なものにしてしまい、真の宗教的「絶対性」を逸すると同時に、二元対立の「分別知」へ傾かしめ、ひいては政治的な「分割統治」の植民地主義をさえ生むに至るとまで批判される。(鈴木大拙『東洋文化の根底にあるもの』、朝日新聞、昭和三十三年十二月二十二日号)。>
北森氏は、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と言っておられますが(北森嘉蔵著『神学入門』新教新書 p74)、「人間に対立する神」が理論的には「絶対者」ではあり得ないのだから、矛盾したことを言っておられるわけです。バルトが『人間の内なる神』に対抗して、『人間に対立する神』を説いた…ということ自体は、私は共感します。自分は「神」を「内」よりも「外」へ、つまり「内在」より「超越」へ、自分よりも小なるイメージではなく大いなるイメージで観想するからです。しかし、バルト神学はいわゆるキリスト論的集中であり、イエス・キリストにおける「神の人間化」といったことを説いているので、とてもとても「神」を超絶的に語っているとは思えません。
< 真の絶対とは、此の如き意味に於て、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神と云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。(「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郎全集第十一巻、岩波書店、三九六-三九八ページ)「絶対の無なるが故に絶対の有」晦渋にして難解である。精細に読解しなければならない。「対象的にあるものに対するとならば、それは相対的である、絶対ではない」と言う。ここで、「それ」とは、前後の文脈からして、「絶対」のことである。したがって、ここで言われていることは、絶対が対象的にあるものに対するとするならば、そのような絶対は実は相対であって絶対ではない、ということである。それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって絶対の有であるのである」と。ここは、前半はさして難解ではないが、後半はきわめて晦渋難解である。(中略)西田において、絶対が絶対の無であること、そのことがまさに絶対が絶対の有であることなのである。絶対は「絶対の無なるが故に絶対の有」なのである。絶対者としての「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである」。この「絶対の無なるが故に絶対の有」という表現は、もっと簡潔に、「絶対の無にして有」というようにも言い換えられている。西田の神観は、神は、「絶対の無にして絶対の有」、または「絶対無即絶対有」である、というものである、と言うことができるであろう。 世界としての絶対者 西田によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(上掲書四〇〇ページ)。一なる絶対有は直ちに自己否定によって多としての世界となる。つまり絶対者は絶対者として絶対有なのではなくて、世界として絶対有なのである。西田の絶対無即絶対有とは絶対無即世界ということであり、それは端的に言えば、「空即是色」ということである。西田においては絶対有は絶対有としての意義は認められていないのである。>(量氏前掲書 p224~228)
西田幾多郎の思想において自分が最も興味深いのは「万有在神論」です。
「ハーツホーンが言う意味の汎在神論はこのような事情であろうと理解される。それは神を世界の創造者であり世界を超越する者であると考えて、その結果、世界への神の内在を否定する有神論ではないし、世界と神を同一視し、神を世界に遍在すると考える汎神論でもないという意味で汎在神論である。汎在神論の神は、永遠不変であると同時に時間的流転的であり、超越的であると同時に内在的であり、世界に含まれると同時に世界を含んだ至高の人格的存在者であると言う。(中略)それに対して西田幾多郎は汎在神論を別様に理解している。(中略)神は絶対無である。この絶対無が他のもろもろの個物をあらしめ、それ故にまたそれは絶対の有でもある。このような意味で神は万物の創造者であり、被造物としての世界は神に依存する。また逆に、被造物としての世界があるから神がある。そして西田が言う汎在神論(西田の訳では万有在神論)とはこのような事情を指している。神は絶対無として、すべてのものがそれによって在らしめられるという意味で、すべてのものは神の中にあるのである。」(小田垣雅也著『知られざる神に』(創文社 p131)…この箇所に限ってみれば(小田垣氏の西田哲学への理解を信用するとしてではあるが…)、西田哲学では「万有」が「神」に「内在」しているということであって、「神」が「万有」に「内在」しているという論ではありません。そして自分もその方が聖書的だと思います。重要なことは創造主と被造物との「不可逆」の関係性であり、ホワイトヘッドの「世界が神に内在しているということが真であるのは、神が世界に内在していると言うことが真であるのと同じである。」とか「神は世界を超越していると言うことが真であるのは、世界は神を超越していると言うことが真であるのと同じである。」(p142)といった命題は非聖書的ということになるでしょう。
汎神論(pantheism)と汎在神論(panentheism)の違いを小田垣雅也氏は以下のように説明しています。
「汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。」(説教「インマヌエル」)http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0609.html 「人間の思考の対象にはならない」ような神は、聖書が示す活ける神にはならないので、本来は非対象なる神が御自ら「啓示」によって自己対象化された…と物語る「再神話化」が必要になってくるわけです。関根正雄氏は旧約学者の立場から次のように述べておられます。
「旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。モーセの召命の時の神の顕現、これはやがてイスラエルが神の山でモーセを仲介として神と出会うが、その時のいわば前ぶれである。」(『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』講談社学術文庫 p87 )※「越えている」は「超えている」と書くべきだったと思います。とにかく、「神」が万物に「内在」しつつも「超越」性を失わないということが「汎神論」と区別される「汎在神論」の特徴でしょう。
ところでハーツホーンは、下記のとおりハートショーンと読まれもするそうですが、彼の思想的欠陥は喜田川信氏の指摘のとおり、汎神論と汎在神論との区別が曖昧であることです。
<かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)。もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(Pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。(中略)時間にしても、時間と空間が被造物の存在形式であるならば、神は時間を創ったというより神御自身が時間の中にあると言ってよいであろう。>(喜田川信著『神・キリスト・悪』新教出版社 p20)…こうして「汎在神論」とか「万有在神論」についてみていると、結局、自分の場合はやはり八木誠一氏の「創造的空」ということに帰する気がしてきますが、それさえもよくよくは理解し得ていません。八木誠一氏が「絶対」は「普遍」を含む旨を書いた論文もあります(シンポジウムでの発題「仏教とキリスト教の場合」_pdf (jst.go.jp) )。
ところで量氏と同じく無教会系の関根清三氏は、「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」(関根清三著『倫理の探索』中公新書 p133)と言っておられますが、御尊父はさすがに慎重で以下のとおり。
< しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(関根正雄著『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』 講談社学術文庫 p133~134)
神理解が哲学的になり過ぎると教会的説教にはならない…福音宣教にはならない…信仰生活になってこないのでダメです。量氏や関根(清)氏だけではなく小田垣氏も無教会的だから、説教と言っても哲学的傾向が生じやすいのでしょう。これに対して教会的説教者の代表とも言える高倉徳太郎牧師は、以下のとおり。
「造られたものの存在の意義は創造主なる神を礼拝するためにある。人生の究極目的は 神を知り、神を楽しみ、神を崇め神に服従し奉仕するにある」と述べています(高倉徳太郎『全集 5』193頁)。神への服従とか奉仕はキリスト教ではよく言われることでせうが、「神を楽しむ」(fruitio Dei)というのは教会で耳にすることはあまりないと思います。この言葉、アウグスティヌスあたりに由来するようですが、あるカルヴァン研究者が「厳格な高倉が『神を楽しみ』と言う表現を用いていることは注目に値する。」と述べているように、神を楽しむ…すなわち神との関係を楽しむというのは不謹慎な感じも受けるのでしょうが、それくらい信者の信仰生活においては重要なことなのです。説教という働きは、まさに会衆個々人に、これまでの1週間の歩みにおける対神関係の楽しみに気づかせることであり、また、これからの1週間の歩みにおける対神関係の楽しみを期待させることでもあると思います。そして「神を楽しむ」という場合の「神」は「絶対者」であって然りです。絶対なる神との関係だからこそ、人は心からその関係を楽しむことができるのです。その楽しみびが私にとっての救いにほかなりません。
「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし(主を喜ぶことはあなたがたの力です)」(ネヘミヤ8:10 文語訳 / 口語訳)
創造主との関係を楽しみ喜ぶことが「力の源」(新共同訳)です。
「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(量氏前掲書p236)
「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109)
現代の神学においては、「自我の内に吸収され解消される」ような神も説かれています。たとえば、下記引用の旧約聖書学者・高柳富夫牧師の文言です。М・ブーバーの「我と汝」における「汝を失った神学」と言えるかも知れません。 「神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエスが神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」
ところで私にとって絶対神との関係は、人との関係を相対化する力の源となります。それが私にとっての救いの第一義です。神は存在そのことで救いのはたらきとなるのです。
「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著『希望の原理』青土社 p93)
その救いの内実は精神の安定です。社会生活における自己防衛であるとも言えます。人生、利己に徹することにおいて利他に通じ得る場合もあるのです。普通に考えるなら、隣人という名の他人のために行動するといった余裕ある精神状態までもってゆくこと自体、救われないと無理です。もちろん、クリスチャンたるもの、「己をすて、己が十字架を負ひて」イエスに従うことが究極の課題です。それこそが「己が生命を救」うことになるからです(マルコ福音書8:34)。しかしそれを自力で出来るようなら、そもそも入信してはいません。罪人に福音が与えられているのは、十字架を負う生き方が結果として他力によって実現されるからです。宮澤賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)といった思いは、自分のような煩悩具足の凡夫の中の凡夫のような人間には出てこないわけです。それどころかキレイゴトにさえ感じます。原罪を持つ人間の現実においては、いわゆる「シャーデンフロイデ」の心理に現れているように、まずは自分(たち)の幸福がある程度感じられていてこそ、その余裕によって他人の幸福を願い得るのではないでしょうか?いきなり世界人類の幸福を祈るところからは始まらないのではないかと思うわけです。その点で中野信子さんがどちらかと言うと性悪説の方をとるという御意見には共感します。そのような罪人であっても、せめて身内には配慮できるだけのメンタルヘルスであるためには、セロトニン分泌など中野さん専門の脳科学的な面から現実の他力救済は始まっています。なにも劇的で目立つ出来事ばかりが神の救いだというわけではなく、むしろ日常生活の細かいところでこそ救いが体験されて然りです。その意味では、神(のはたらき)は細部に宿ると言えるでしょう(「神は細部に宿る」とは建築家の言葉らしいから、存在論的意味ではなく、「細部」とは作品の細部であり、「ディティールへのこだわりが作品の本質を決める」といった意味らしいので、この「神は細部に宿る」を神論的・存在論的に解して言う人の方が愚かということになります)。その救いの体験の証しが、同様の問題を抱えている他人にとって参考になることもあるわけです。人は神関係だけで生き得るわけではなく、…というより神関係にあるということは同時に人間関係にあるということだからです。
<「神関係と人間関係の相即
ここで神関係とは人間の神との関係のことであり、人間関係とは人間の人間との関係のことである。前者は絶対的関係であり、後者は相対的関係である。前者が絶対的関係であるのは、この関係が神の人間との関係の応答としての人間の神との関係であるからである。このように、人間の神関係は神の人間関係に対するアナロギア(類比)なのである。いずれにせよ、人間の神関係と人間の人間関係という二つの関係は相即するものである。ブーバーは人間的な我―汝の関係の奥にというか、延長戦上にというか、神的な我―汝の関係を予感している。すなわち、我と人間的な汝(du)との関係の奥に、我と神的な汝(Du)との関係がある、と言うのである。キルケゴールはもっと直截的に、人間関係の中間規定として神関係がある、と言うのである。すなわち、人間と人間との真の関係は、人間と神との関係をその真の関係の中間規定としてもっている、と言うのである。わたしが神関係と人間関係とは相即するものである、と言うとき、一方の関係は他方の関係なしにはありえない、ということである。すなわち、人間関係なしには神関係はなく、また、神関係なしには人間関係はないのである。二つの関係は一つの関係であり、また、一つの関係は二つの関係なのである。言い換えれば、神関係と人間関係とは不一不二なる関係なのである。聖書は次のように述べている。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(中略)
(『ヨハネの手紙Ⅰ』四章一九ー二一節)
関係内存在
人間存在はすでに神関係と人間関係の内にあるのであるこれは現象学的な事実である。(中略)人間存在は関係内存在である、というのは、わたしの哲学の根本的前提である。わたしはあえてこれを論証しようとは思わない。いろいろ説明することはできても、そもそも論証できる性質のものではない。それぞれの哲学にはその哲学固有の直覚的な前提といったものがあるのである。デカルトの『コギト・エルゴ・スム』しかり、(中略)関係内存在ということの内で、神関係に関しても、わたしは人間の神関係よりも、神の人間関係のほうが根源的である、と解している。前者は後者に対する応答なのである。すでにわたしは、自己の宗教的意識ないしは宗教的体験に基づいて語り出していることを自覚している。」(量氏前掲書 p169~171)……ここで言われている「神関係と人間関係とは相即するものである」という量氏の考え方は、神学的には誤りです。量氏は同じくキリスト教系の宗教哲学者として瀧澤克己氏から学ぶことはあったとは思いますが、「神関係」と「人間関係」とは「不可分」であり「不可同」であると同時に「不可逆」である、ということになります。聖書が示す神は自存者であり、無から有を創造した全能者なのですから、論理的に言って被造物である人間同士の関係がなければ、その人間との関係を持ち得ないような相対的な実在者ではあり得ません。すなわちエバなしにアダムとだけの関係もあり得たのですが、そこは人は独りではよくないとの御旨から人間関係が生じたわけです。そもそも人間なしにでも、もっと言えば被造物なし(…創造主としては存在しなかった)としても、神は神として存し得たのです。従って神が創造主であり、人間にとって霊の父であり給うことはそれ自体が恩寵…恵みなのです。
神関係が人間関係と根本的に異なる点は、これは量氏は言及していないし、気づいていなかったのかも知れませんが、神関係は人間側の状態に関係なく他力的に継続されるが、人間関係は一方の人の状態如何では関係自体が失われるということです。人間関係は一方の人が一方の人を忘れてしまった場合、よほど親しい間柄でもなければ意味がなくなり失われてしまいます。しかし神関係は人が意識を失っていても支えられて継続するのです(詩篇3:6など)。
ところで、脳外科医の浅野孝雄氏がETV「こころの時代~宗教・人生~」の「心とは何か 脳科学が解き明かすブッダの世界観」という番組の中で言われた「人間ね、苦しい時の神頼みといいますけれども、一定のもの、変わらないものを人間は必要としているのです。現実生活の必要あるいは自分の心の安定のためには実体…恒久不変な何かを人間は必要としているんです。」というお言葉のとおりで、私自身も「実体…恒久不変な何か」を必要とし、それを聖書が示す「神」であると信じているわけです。なぜ、よりによって聖書なの?と言われるとしたら、それは「自己限定」であり、ありていに言えば「縁」あるいは「定め」とでも答えるしかありません。しかし聖書を「非神話化」するだけではなく、上村静氏が言われるように「再神話化」をしなければ信仰は成り立ちません。自分にとっても神の物語を創作するのです。信仰ないしは神学とはそのような創造的な営為です。その枠組みとして聖書が与えられています。自分にとっての創作神話物語は、まず「神」は本来「絶対」として「非対象」的に存在したということです。無教会指導者の矢内原忠雄氏が本居宣長批判の文脈で神観について「絶対」性を強調しておられますが、理屈を言えば厳密な意味で「絶対」ということは創造主としてあり得ないわけで、理論的にはスピノザの非人格的神(即自然)のような外部を持たない…無限なる非対象の全一者ということになるわけです。すべては「神」の中にあるという汎在神論です。このあたりが私にとっての「再神話化」の中心部分になります。すなわち、唯一の無限実体であるスピノザの非人格的神が、自己限定し自己対象化(=人格化)して創造主なる人格神として自らを啓示することにおいて、聖書が示す父と子と聖霊の三一の神が物語られてくるのです。すなわち「エホバ」とか「ヤハウェ」といった名で呼ばれる創造と摂理の「主・神」です。聖定 ( >予定)の「主・神」でもあります。その「主・神」は聖書の神話においては変幻自在で、およそ絶対だとか唯一無限の実体などと言えるようなものではなく、有形・有限で威厳も風格もなく落ち着きがありません。そもそもが霊であるとは言え、聖書の神話では擬人化されて物語られているために、自分にとってはあまりに頼りないのです。絶対者などとはほど遠い、人間のような相対・限定者のイメージです。モーセ物語では「エフイェ」などという変わった名(?)を告げますが、出エジプトでは「雲の柱、火の柱」といったメタファーはまだしも、アブラハム物語ともなると姿を現し、天使との区別が曖昧です。
< アブラハムに現れた3人の天使は「神意のメッセンジャー」としての「神の使い」で、旧約の表象世界では、被造者的な「み使い」と「神」との間が曖昧です。「流動的」と言うのがよいでしょう。そこで、変幻自在に、「み使い」として現れたり、「神」として意味づけられたりする。アブラハム物語はまさにその揺らぎを示しています。神の権威で対話する「使い」は神としか言いようがないので、アブラハムとの対話を終えて、ソドムに赴くときには、「み使い」は2人に減る。19:15では「み使いたち」がロトに呼びかける。しかし、ロトはこのみ使いたちに語りかけるときには、「あなた」と、単数扱いに変化する。21では、この2人の使いは「わたしは」と、1人称で語り出し、ツォアルを「滅ぼさない」という。まさに処罰を下す、1人なる神として行動する。聖書の読み手がファンダメンタルな人ほど、神と被造者(み使い)のどちらかをはっきりさせたいという、合理主義的な欲望を働かせます。神の自由と書き手の想像力を重んじましょう。>(並木氏私信)
聖書の神話において、「神=ヤハウェ」は「天から降りる」お方でもあります(創11:5、18:21、出3:8、19:11,18,20、34:5、民11:17,25、12:5参照)。落ち着きがないとはまさにこのことです。降りてこなくたってよさそうなものを、創造主が人間になって地上に来ちゃってどうするの…?って感じです。岩波版聖書の出エジプト記3:8「わたしは降りて来た」の注には、「サマリヤ五書では『わたしは降りよう』と、これからの行為。『ヤハウェが降りてくる』はヤハウィストがよく使う(中略)。この表現は、神と人間の間の隔たりを前提にしながら、それを神が埋めることを意味する。それに対し、神が語り終えた後で『上って行く』(創17:22、35:13どちらも祭司文書)という表現は、両者間の隔たりの大きさを強調する。」とあります。また、「いずれも非祭司文書的で、古典的四資料仮説でヤハウィストとされる部分に多い。」とも言われています(民数記11:17「わたしは降りて行って」の注)。本多峰子さんによると「ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪とみなされていない」とのこと(「ヤハウィストの神:旧約聖書のはじめの神観」参照。念のために、最初におことわりしていたとおり、引用文中の太字はこのレポートの作成者である私によるものです)。そういうことですから、本来は絶対かつ無限である「神」のイメージは、信仰対象としてはあくまでも人格神とは言え、あまりに人間的なイメージで想い描くことは無理であり、半分は非人格的に…すなわちスピノザの「神即自然」のようなスケールで、宇宙全体…この現実世界全体…って感じで対象とする以外にはないでしょう。最終末は、「神がすべてのものにおいてすべてとなる」(コリント第一15:28)から汎在神論的全包一者的神観になります。いずれにせよ聖書の神話は、私見ではスピノザの非対象なる「神」の存在を前提として成立し得るのであり、所謂「哲学者の神」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(~パスカル「覚え書(=「メモリアル」)」⦅1654⦆、形而上学的神観と神学的神観、この両者は分離できません。
「絶対」という概念について、小田垣雅也氏が『哲学的神学』(創文社)の中で、「諸々の絶対的宗教の『首長』は、絶対なる神的真理に帰属しているという意味で絶対的である。しかしそれらはそれぞれ歴史の個別性であるという意味では相対的である。(中略)絶対性が人間にとって真に絶対でありうるのは、そのような相対的具体性の中に於てのみなのである。もしそのような相対的具体性ということを離れた別の場所に、即ち抽象性の中に絶対性を求める場合、直ちに絶対に関する観念論的独断が到来することになる。」(p205)だとか、「要するにキリスト教の絶対性は、絶対性に対する理由づけが消滅した所にのみありうる。絶対そのものは、人間にとって観念の中にしかない。真の絶対は相対の中にのみあるのである。元来、人間が或る行動とか立場を決める場合、それを決めるに当っては理由がある。(中略)理由などは消え去るが故に、われわれは人を愛し、美しさに見とれるのである。生きるのに理由などはない。真実とはそういうものだ。信仰も同じである。(中略)ただ絶対性に理由や証拠などはないということを言っているだけである。そのことを求めることが所詮無理だったのである。理由がないからこそ絶対は絶対でありうる。」(p215~216)などと述べているような主旨とは少し違います。ここでは文脈としてキリスト教の絶対性ということが論じられていますが、引用の主眼としてはそこが問題ではありません。キリスト教という一個の宗教が相対的であることはわかりきった話であって、小田垣氏も結論として「要するにキリスト教の絶対性は相対性の中にこそある。」(p216)云々と述べておられます。また、小田垣氏の言葉で自分も共感することはあり、「宗教を安易に相対化するとしたら、それは宗教というものそのものの否定に連なるし、何よりも信仰の絶対性、排他性を理解していない。信仰は必ず絶対的排他的である。何故ならそれは生と死を賭けた事柄だからである。」(p189)といったことは、従来、けっして少なくないだろうと感じられてきた…「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」(~ 一休『骸骨』)に象徴される日本人が好きな万教帰一的感覚やいわゆる宗教多元論を批判し得る点でも意義深いとは思います。そして「絶対」という概念の自己矛盾を思えば、「絶対が相対の中にあるということは、絶対が相対化されるということではない。(中略)絶対が相対の中にあるというのは、絶対が絶対でありうるのはそのような在り方に於てのみであって、相対から切り離されると、絶対は相対にあい対したもの、即ち相対になってしまうからである。(中略)絶対が否定されることによってのみ、絶対はその否定の中に臨在する。」(p216~217)ということも当然、理解はできるのです。だから一神教も実際的には自分なりの言い方では相対的絶対主義の「拝一神教」になると思われます。しかし、小田垣氏は他の著書やエッセイ等も読めば明らかなとおり考え過ぎだと感じます。
< わたしはこれまで、ヨーロッパにおけるキリスト教文化の圧倒性に戸惑っていたふしがあるが、普遍は唯一の中にあると考えることによって、つまり唯一を普遍だと考えることによって、それは「信仰」としてのイエス・キリスト信仰が(宗教哲学的にではなく)わかったように思うのだ。それは神の啓示には、その時間化・歴史化・対象化の次元も必要だということだ。そのことを、信仰の観念化が救うのである。バルトのキリスト中心主義も、普遍は唯一の中にあるという、信仰の論理によって理解されるべきではないか。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「インマヌエル」)
ある程度は自分もわかるのですが、以下の文言は八木誠一氏から「はたらき」(としての「神」)を表している旨を教えてもらわなければ、意味がよくわかりませんでした。
< そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ』(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。>
ところで、自分にとって宗教の絶対性ということが言えるとしたら、それはキリスト教についてではなく、その教典である聖書の内容について言い得ることでせう。私がここで問題とするのは、「真に絶対でありうるのは、そのような相対的具体性の中に於てのみ」であるということの是非であり、「絶対に関する観念論的独断」の是非ということであり、「絶対そのものは、人間にとって観念の中にしかない。真の絶対は相対の中にのみあるのである。」ということの是非であり、「理由がないからこそ絶対は絶対でありうる」ということの是非なのです。自分にとって聖書が示す「神」は、真に「絶対」(=「相対」と相対する「絶対」ではなく、真の意味での「絶対」)なる「霊」が自己啓示において自己対象化…自己相対化…という自己限定をしたものであることは、あくまでも直観的にしか言えませんが、これを前提とするならば、このような「神」はやはり「実体」はあってなきが如しで、あくまで実体を求めるならスピノザの思想に行き着きます。
以下、國分功一郎著『はじめてのスピノザ』講談社現代新書 より引用。
< 神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている、ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。神すなわち自然は外部をもたいないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。『神』という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの『神即自然』の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。このような神の概念は、意志をもって人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。もちろんこれはおかしな話です。神を絶対者ととらえるのならば、スピノザのように考える他ないはずだからです。しかし、そのような理屈が通用するはずがありません。教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力をもっていた時代において、スピノザの考え方は人々には受け入れがたいものでした。別の言い方をすれば、それは非常に先進的であったわけです。(中略)「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に非常に近いと言うことができます。(中略)「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物がもつコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia 」であるとスピノザが考えていることです。(中略)前章で、神は無限であり外部がない。したがって、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話をしました。だからこそ神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。このことを説明するためには、神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、『実体 substantia』とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは実際に存在しているもののことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。私たちは神という実体の変状であるというのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えません。(中略)スピノザはつまり、私たち一人ひとりが『仕方』や『やり方』や『様式』だと言っているわけです。どういうことでしょうか。ポイントは変状にあります。私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状してさまざまなものになります。>(p35~87)
スピノザの考える「神」とは - NHKテキストビュー|BOOKSTAND (webdoku.jp)
神の「無限性」は改革派教義学では「不流通属性」に位置付けられますが、「無限性」と「遍在性」は不可分です。そして「遍在性」が「三位一体」の正当化に使われたという話は興味深いが、トリニタリアンの主張にせよ、ソッツィーニの反論にせよ、どれだけ説得力があるかが問題です。
「中世以来、神は三種類の仕方で場所的に遍在(omnipraesentia)すると理解されていた。知識による遍在、力による遍在、本質による遍在である。知識による遍在とは、神があらゆる場所の出来事を知っているということである。力による遍在とは、神の摂理が全世界に及ぶということである。最後に本質による遍在とは、読んで字のごとく、神の本質がいたるところにあるということであった。これら三種の遍在をすべて認めるのが、カトリック、プロテスタントを問わず、正統的な解釈であった。本質による遍在は、神の無限性(inifinitas)と不可分であった。神が無限であるとは場所についてもいえ、その際には神には広大性(immensitas)が備わるとされた。広大であるとは、いかなる場所によっても制限されていないということである。だからこそ、神はあらゆる場所に、一度に、その全体(全本質、全実体)でもって存在することができるのであった。遍在の教義が初期近代に争点になった理由の一つは、異端者ファウスト・ソッツィーニにあった。彼が異端とされたのは、三位一体を否定したからである。まさにこの否定を行うなかで、ソッツィーニは神の本質による遍在を否定したのである。その主張は、『キリスト教縮約教義』Christianae religionis brevissima institutio(ラクフ、1618 年)にまとまった形で見ることができる。ソッツィーニはまず、遍在の教義が導入されたのは、三位一体を正当化するためだったと指摘する。三位一体の教義によれば、神の本質は一つであるのにたいして、位格は複数ある。これはあるものが一つであると同時に複数であるということであり、明白な矛盾である。この矛盾を回避するため、三位一体を支持する者たちは、神の無限性と広大性に訴えてきたのだとソッツィーニはいう。神の本質が広大だからこそ、一つのものでありながら、三つの位格に宿ることができるというわけだ。しかしソッツィーニによれば、これが「まったくもって無駄であるのは、誰の目にも明らかである」。もしこの議論が有効であるならば、「神の広大性は必然的に真である事柄を、偽にもできてしまうことになり、事物の必然的な本性そのものが改変されることになるだろう。これには小さからぬ矛盾が伴い、さらにいえば甚だしい不合理と不可能であるのは明白である。こうして理性(ratio)によって、三位一体は否定される。」(坂本邦暢氏の論文「有限な神と無限の空間 ̶ウォルスティウスとゴルラエウス」https://researchmap.jp/kuni_sakamoto/published_papers/19610623/attachment_file.pdf )
「アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、世界の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも『外』を持ったのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限定となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。しかし事実、神の外を考える次のような一つの可能性がある。すなわち、創造に先立つ神の自己限定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神御自身の『外の』世界を創造するためには、無限なる神は前もって有限性に対して、御自身の中の場所を明け渡したに相違ない。神のこのような御自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかけることのできる場所を明け渡す。全能と遍在の神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する」(モルトマン著『創造における神』新教出版社 p135~136)
このような語りこそまさに「再神話化」ということでしょう。
「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在 —— 自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(北森嘉蔵著『日本基督教団信仰告白解説 』増補改訂版 / 日基教団出版局 p59頁以下) 前者では「創造に先立つ神の自己限定」という表現が、後者では神の「抑制」という表現が見られます。また、大木英夫氏も次のとおり述べておられます。「神認識とは、対象化されない神がみずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」(『人類の知的遺産 72 バルト』講談社 p228~229)
上記引用のモルトマンの文言で、神に「外」があることと矛盾するとした神の「遍在」ですが、聖書が示す創造主なる神は同時に「在天」の御父であり「在地」ではないのです。下記引用のとおり、野呂芳男氏が北森嘉蔵氏の神学における外のものを内に包む「神」は遍在し得ないという点を衝いておられますが、北森神学の「神」だけではなく、聖書が物語る人間に対向した人格神はそもそも遍在などあり得ないのです。
「教授によれば、神の諸属性は改めてキリストの出来事、神の痛みから解釈されねばならない。神の痛みは、神の外 (extra)にあるものを神が包むことなのであり、神に対する人間の反逆や罪は神の外 、すなわち、神の全能・全知・遍在の外にあるものなのである。そういう外の性格をもつものこそが、神の痛みによって包まれるものなのである。もしもこの外なる性格が人間の罪から失われるとすると、神の痛みから真剣さが失われてしまう。北森教授がここで展開した神の有限性は、全く人間の罪とそれに対する神の救いとに絞られたものであるが、しかし、とにかくここには、伝統的な教理の中で説かれた神の全能・全知・遍在の否定が見られる。」(野呂芳男氏の論文「今日における神観の一問題」)
野呂氏は広い意味では北森氏の三一神論も父神受苦説に入ってまうと指摘してます(父神受苦説=天父受難説。様態論の異端であり、サベリウス主義では、「子なる神が十字架にかけられたとき父もまた十字架にかけられ死なれたとの主張」(山本和編『現代における神の問題』創文社 所収喜田川信氏の論文「三位一体の一考察」p129)。正統的キリスト教の元祖とも言えるアタナシウスは、北森嘉蔵牧師によって「アタナシウスの神学においてはこの『外』の契機がいささか不明瞭であり、『父神受苦説』ないしサベリウス主義への傾向をもっていた事は、教理史家の指摘するところである(中略)。これ一方では、アタナシウスがアリウスを相手としたために生じた反動であり、他方、アタナシウスが十字架の真理より出発せずして受肉から出発したための抽象性である。」と言われている(北森嘉蔵著『今日の神学』p34)。その指摘した北森牧師自身の神学も、テルトゥリアヌスによれば「父神受苦説」に当たると野呂牧師から指摘されているのだから、神学などは何が正統で何が異端かなんて明確な線引きは困難ってことでしょう。 「北森教授はご自分の立場は、父なる神ではなく子なる神が犠牲の死の苦しみを休験するのだから父神受苦説ではないと言われる。成程これは父神受苦説をどのように定義するかに依存することではあるけれども、少くともテルトリアヌスによれば、北森教授の立場も父神受苦説に含まれてしまう。」(野呂芳男氏の論文「今日における神観の一問題」) 十字架刑で殺されたイエスは父なる神と同一であったとするのだから神殺しの思想ということになる。それが野呂牧師をして北森牧師の神観が「有限の神」に接近したと指摘せしめた所以です。「少くともある時期に、北森教授は、われわれが通称で 有限の神 (a finite God)と呼ぶものに接近されたが、もしも今日この時期の思想が開花しておれば、歴史の中に神の摂理的な知恵や力が予想できなかった事柄、神といえどもどうしようもない事柄が生起し得ることとなり、そのために神が痛み苦しむということがあり得る訳である。」(野呂氏、前掲論文) そしてその関連で前述のとおり「遍在」の否定ということが出てきます。すなわち野呂牧師は、北森神学が「遍在」の教理に反することを指摘しており、私もこの点は北森神学の組織神学としての最大の欠陥であると思います。アウグスティヌスの「神」も外部を持つという点では絶対でもなければ遍在もしない神でした。しかしそれは聖書が神を創造主として最初っから人格的・対象的存在として物語りはじめているからであって、聖書では本来の絶対・無限の非対象的な神から物語ることはできなかったからです。なぜなら古代イスラエル人の思考形態がそのような形而上学的なものではなかったからです。私見では、ヘブライ的思考を有賀鐵太郎氏の「ハヤトロギア」その他の思想、特に出エジプト記3章14節の אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה をめぐる言説のように何かいわくありげであるかのように特別視したり神秘化したりする必要など全く無いと言えます。古代イスラエル人の思考も当時のヘブライ語という言語も、救済史におけるイエスラエルの選びにおいて、神の摂理のもとで用いられていることに違いはありませんが、ムハンマドのクルアーンにおけるアラビア語でもあるまいし、何ら霊的な権威とか認め得るものではなく、むしろ現代人からみれば古代ギリシャ人の言語や哲学的思考との比ではない、ある意味、稚拙であることは、時制が曖昧で完了と未完了で表され、主語は動詞の接辞で表されるといったことにも感じられます。
ところで、北森神学を批判した野呂神学も「有限の神」を語り、神観については(哲学的)「絶対」ではなく「究極」を語る非全能神観の立場ゆえにしょせん同じ穴のムジナであり、その分、神学的信用は落ちます。
たしかに「天地の造り主、全能の父なる神」は、その全能を抑制なさり啓示において歴史的現実に働く神として自己限定なさいました。だからこそ聖書に物語られて私たちの認識の対象になっているわけです。創造主は御父のみであり、青野太潮先生の論文で、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。(中略)『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである」(「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおり、御子は創造主ではありません。これはギリシャ語「διά(ディア)」に注目することによって言えることです。コリント第一8:6やコロサイ書1:16で、御子「によって」(共同訳、新共同訳、口語訳、新改訳)造られたと訳されているので、御子が創造主かとカン違いされますが、この「~によって」と訳された前置詞は、英語では by ではなくthroughに相当し、要するに御子は創造の媒介者・仲介者であり創造主とは区別されます(ヨハネ1:3「彼を通して」⦅対訳 川端由喜男訳⦆、同「彼を介して」⦅岩波版 小林稔訳⦆、ヘブル1:2「彼を介して」⦅岩波版 小林稔訳⦆。ヨハネ福音書序文における「ロゴス」について『NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書』⦅松田伊作⦆では、「このロゴスは創造の仲介者ではあっても、それ自身創造者なのではない。」⦅p34⦆とあります。私自身は、「創造の仲介者」も「創造者」ではあるが「創造主」ではないという理解ですが、それはともかく、ここで重要なことは「この讃歌が本当に歌っているのは、初めに二つの神的実体ないし位格が相添うて、しかも一方が他方の上位にあって、存在した、ということなのである。」⦅p34⦆と、同等な面だけではなく従属的な関係も匂わされていることです。このように「キリスト」も「イエス」も「創造の(神的)仲介者」⦅p34~36⦆と言われ、「ヘレニズムの広く流布した媒介者思想」⦅p33⦆との関連が示唆されています)。コロサイ1:16、18などから明らかなことは、御子はたしかに被造物より先に存在していたお方ではあるけど(ヨハネ福音書17:5参照)、何にせよあくまで「生まれた」お方であるということ。御子が生まれたお方であるということは、御子を生んだお方が先在しておられたということ。それは造り主なる御父以外にはあり得ません。ちなみにコロサイ1:16では「御子にあって」(協会口語訳、新改訳)、「御子において」(共同訳、新共同訳、岩波版 保坂高殿訳)の「~にあって、~において」が「ἐν(エン)」で、「御子のために」(共同訳、新共同訳、協会口語訳、新改訳)、「御子に向けて」(岩波版 保坂高殿訳)の「~のために、~に向けて」が「εἰς(エイス)」になっています。万物の創造が「御子のために、御子に向けて」であるなら、創造主が御子ではなく御父のみである方が筋が通ります。御子は創造主である御父にとっては仲介者であると同時に対向者であり、手段であると同時に目的なのです。
形而上学は確かに神ないし絶対者をとり扱う学であり、その点で神を対象とする神学と似てはおりますが、はっきりした区別があります。 形而上学においては、その絶対者ないしは神を人間主体との関係から切り離して、客体的に眺めるという態度をとるのに対して、神学は神をどこまでも人間主体、すなわち『私自身』との関係において考えていくという点であります。 形而上学は実体概念的でありますが、神学は人格概念的であります。(中略)聖書において示される神は、どこまでも人間にかかわりをもつ神でありまして、したがって神を考える場合には、『私自身』というものを中に引き入れて神を考えなければなりません。つまり、関係において神を考えなければなりません。神の啓示と言い、神の愛と言い、ことごとく関係概念であります。そこでイエスの神性をも形而上学に属する実体概念たる『本質』と結びつけるよりも、関係概念として考えなければなりません。関係概念は具体的に言えば『愛』であります。『イエスは神である』という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。(中略) 関係概念においてイエスの神性を考えるということは、古代から中世の神学ではきわめて困難であり、それが自覚的に明確化されたのは、プロテスタントの神学においてであります。(中略) ルターが神を考え、キリストを考える時はいつでも、『私にとっての神』、『私にとってのキリスト』というかたちをとりました。言いかえれば、キリスト論が救済論と結びついたわけであります。キリストを客体的に思索するのではなく、自己の救いと結びつけてキリストを考えるということです。 (中略)リッチルの神学の方法論は価値判断(Werturteil)と呼ばれます。価値判断とはどういうことかと言いますと、『キリストを神として告白する信仰は、キリストが私のためになしたもうたことの価値を判断して生まれる』という考え方です。キリストを客体的に、『形而上学的に』考えるのではなく、キリストが私のためになしたもうた業が、神でなければとうていできないことであった、ということから、キリストを神と告白するのであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p62~65)
ここで言われているとおり、信徒がイエス・キリストを「真に神」であると信じ告白する場合、その「神」という表現は実体論的意味ではなく、あくまで賛美の表現ということになるってことです。新約聖書の中でも、イエス・キリストが「ひとり子なる神」(ヨハネ福音書1:18)など、「神」として表現されている意味は形而上学的意味ではなく、あくまでも信仰表現・賛美告白の言葉として…であると自分が言うのはそういう意味です。
ヘブライ人はギリシャ人とちがって、人間との関係なき自存する神について形而上学的に考え語るような脳は持っていなかった、そのような関心も発想もなかったってことです。その点では神話としてはつまらないので自分で補うわけです。絶対なる非対象の神がどういうわけかは知らないけど自己相対化・自己対象化をされた…すなわちご自分を啓示なさったのだと受けとめるわけです。その啓示というのが自然を介するものとイエス・キリストを介するものとに分かれ、信仰にとっては後者が不可欠であって、諺でいえば「子は親を映す鏡」というわけです。キリスト教ではキリスト啓示をヨハネ14:9などを根拠に実体論的に解され、それゆえに子なる神として三位一体の第二位格とされますが、私にとっては肉体を持つ神などあり得ません。死後もキリストは「真に神」であると同時に「真に人」とされており、「真に人」ということは「からだ」があるわけで、だからこそ再臨の時は昇天の時と同じ姿で現れるというのです。このようなキリストに関する神話は徹底的に非神話化されて然りです。ヨハネ4:24で「神は霊」であるとイエスがサマリアの女性に言ったその「神」とはあくまで御父です。御自身は肉体を持っておられるので「霊」ではありません。仮にイエスが後の時代に言われることになる「三位一体」の第二位格である「子なる神」であったなら、生前からそのような自覚を持っておられたはずです。そして仮にイエスご自身がそのような神自覚を持っておられたなら、サマリアの女性に出会って真の礼拝について伝道なさった時、ご自分は永遠の命に至る水(聖霊)を与える救い主…「キリスト=メシア」であるとのカミングアウトでよしとはせず、自分は父なる神と同一実体にして同等である子なる神であるというところまで打ち明けなさって然りだったが、そのようにはなさらなかったのはほかでもなく、イエスご自身、神なんかではなかったからです。そもそもイエスの復活体はいかに、弟子たちの隠れ家の壁を通り抜け得たにせよ、トマスがその十字架刑痕を触って確認しようと思えばできたほど物質的…肉体的であり、それは昇天の時も変わらず、再臨の時も同様であるといわれているので、そのような目に見える姿を…からだを持つイエス・キリストが「霊」であるわけがない。「霊」とはまずもって目に見えないものであり、他の感覚器官によっても認知し得ないもの、物質の肉体とは対極であるはずです。しかしイエスの復活体は明らかに生前の肉体と連続性は認められます。
以上のように、聖書が物語っている唯一の神…創造主は御父であり、人格的で信仰の対象となる存在なので、絶対でもなければ無限でもなく、遍在などあり得ません。だから聖書が示す神について「絶対」という表現を使う場合、それはあくまでも賛美の表現であると言えます。「絶対的」と言う方が適切でしょう。
「《理解を超えた神》ヤハウィストの描く神は、時に非合理、あるいは、理不尽な選びや要求をする、理解不可能な神でもある。人間はしばしば、理解できないまま従うことを求められる。(中略)この神は、時に、理不尽さえ思われる形で、人間の理解を超えていることもある。神が人知を超えている、というのは、それゆえ善い面(人間の目から)だけに限られない。人々は、自分に与えられた(あるいは押し付けられた)運命を、『どうしてそのようなことがありえましょうか』というような、疑いと不安との混ざった気持ちで神に問いながら『お言葉どおり、この身に成りますように』と、受け入れるように求められているのである。人は、『どうしてそのようなことがありえるのか』と問いを発することを非とされない。人間は神の前でしかつめらしいやり方で従順に振舞うのではなく、むしろ自由に口を開き、問いかけをするように見える。時には神に対して怒ることさえある(顧みられなかったカインのように。しかしそれでも、彼等は神を絶対者としてより頼み従おうとするのである。ヤハウィストの描く、この神への人間の態度は、後の『ヨブ記』の理解や、さらには現代のホロコーストに直面した際のユダヤ人たちの態度を理解するためにも重要である。なぜなら、エリー・ヴィーゼルらユダヤ人は、ホロコーストに際して、ドイツやヒトラー自身に怒りをぶつけて問いかけるよりも、むしろ神に怒り、なぜ神はこのようなことを許したのか、神に問い、神を裁くことさえ使用としており、しかも、なお神を愛し、神を絶対的に信じ、従い続けようとしているからである。その、一見矛盾した態度は、ヤハウィストの神観と信仰態度とひとつなのかもしれない。」(本多峰子さんの論文「ヤハウィストの神――旧約聖書のはじめの神観」/誤記と思われる部分を私が修正)
いずれにせよ使徒パウロの言葉においては、最終的には神は本来の「絶対」に帰するのです。それがコリント第一15:28の「神が(ホ テオス)すべてに(パーシン)おいて(エン)すべてと(パンタ)なる(エー)」ということになります。「~となる」ということは、神は今は「すべて」ではないということを意味します。なぜなら、今のこの世では神は対象として自己を限定しておられるからです。しかしこの世の終末において、その限定を解かれる時が来たなら、神は本来の非対象である「すべて」に戻られるのです。
<キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七) こうして神は、「すべてにおいてすべてとなる」(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』講談社現代新書p147~148)
< 八木 (中略)パウロがそういう言い方(神は「すべてのもの」の内にある「すべて」となる)をしているということが大事なので、こういう言い方が成り立ってくるというのは、伝統的なユダヤ教とはずいぶん違うんだと思います(ヘレニズム的ユダヤ教は別です)。(中略)パウロはこの世の終末論的完成として、そういう世界を考えていた。万物の根源で絶対の超越である神がそのまま万物と一であるという矛盾的自己同一の世界です。ただ、その状態は現出してはいない。(中略)パウロ神学はプロチノスとは違って、流出説ではないけれど、当時の宗教哲学でよく用いられたのと共通の前置詞を使っている。だから、その場合には、「人格神が世界を創造した」とそう考えているには違いないけれど、しかし「エック」と「ディア」をわざわざ使い分けている。それで「すべてのものが神から出た」と言い、それから「すべてはキリストを通して成った」と言うのです。
秋月 「ディア」は “ through ” ですね。“ by ” ではなくて。
八木 ええ。「通して」です。それで、神が「すべてにおけるすべてだ」と言うのです。そうすると、これは少なくともユダヤ教的な人格神とは違ってくる。あまりよい言葉ではありませんが、存在論的な面が出てきている。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞とパウロ 徹底討論』〔青土社〕p168~179
「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。」(花岡永子「発題Ⅰキリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006)
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(Ⅰコリ15:28)
普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。>
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著『オリゲネス』清水書院⦅新装版 人と思想 113⦆p117~118)
この「すべてにおいてすべてとなる」という表現については、ストア哲学の影響を想定する人もいるようですが、その解釈はかなり幅広く許容されるべき余地があろうかと思います。自分は汎在神論・万有在神論の考え方を抜きにしては解釈できません。啓示においてこそ神の人格性が発現されたと信じる以上、自己を対象化するという、すなわち自己を限定するということなので、西田幾多郎氏の言われる「真の絶対者とは 単に自己自身の対を絶するものではない。 何処までも自己自身の中に自己否定を含み、 絶対的自己否定に対することによって、 絶対の否定印肯定的に自己自身を限定するのである。」(「場所的論理と 宗教的世界観」)と言われる、その「自己自身を限定する」ということはわかると言えばわかるのですが、神の存在性や有性や絶対性や実体性や超越性を、神の生成性や無性や相対性や作用性や内在性よりも優先することが前提です。だから自分の場合、三位一体を認めていないし(…絶対神の自己限定・自己対象化における神話・物語の一つの解釈としては認めるし、三・一自体は聖書が示す「父と子と聖霊」によるものだから抜きにはできません⇒矢内原氏と水垣氏の言葉に関する考察参照)、自己限定とかを認める以上、西田氏が批判される西洋神学の神観・神論と全く同じではありませんが、その形而上学的な絶対的・超越的実体としての面も含む有神論的神観は継承されるのです。聖書に物語られている神の観方は、そのままでは感情的で気まぐれなところもある人間的な、あまりに人間的な相対的・有限的な神に思われるかも知れません。しかし聖定の主として物語全体を聖定の教理でカバーすることによって、オセロゲームで隅を取ればその列の石がすべてひっくり返るように、感情的で気まぐれな神も、そのようにご自分のキャラを設定していた自由なクリエイター・デザイナーとしての神に観方が変わるのです。例えば、創世記6章6~7節に「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。」云々とあります。このように神が「悔いて、心を痛め」たということは、全知を含む全能性と矛盾するのではないかと感じる人はいるでしょう。この神の「悔い」ること、「心を痛め」ることもまた、聖定の内であったと信じることができます。また、ヨナ書3章10節には「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」とあり、このことを受けてヨナは、4章2節「わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていた」と言っています。この神の「思いかえし」ということもまた聖定の内であったと信じることができます。想定内ならぬ聖定内というわけです。
< 13 神が不変なる方であるならば、「神が悔いられた」とか「心を変えられた」とか聖書が述べているのは何故であるか(例 ―― ニネベの町の場合 ヨナ三10)。―― 神ご自身は常に不変であられる。一方、神の被造物は変転する。したがってその結果、被造物と神との間の関係が変わることになる。ニネベの場合、神は実はみ心を変えてはおられない。実際に変わったのはニネベの町の人々の方であった。彼らはその悪い行状から転向したのである。神は少しも心を変えてはおられなかった。何故ならば、ヨナの宣教、ニネベの人々の悪からの転向、神が「彼らの上に下そうと言われた災いを思いかえして、これをおやめになった」ことも、すべて神の本来の御計画の一部なのである。いいかえると、ヨナがニネベに到着する以前でさえも、神はニネベの人々がその行動を変えると共に、御自分の心を思いかえすことを計画し意図されていたのである。しかし、神が御計画に従って思いかえされるとき、神は実際にみ心を変えられるのではなく、被造物に対する神の御処置を変えられるにすぎないのである。>(ヴォス師前掲書 p43~44)
以上の引用は、神の属性(…「不変性」は「不流通属性」)について書かれている箇所であり、聖定について解説されている箇所ではありませんが、私見では、ここで神の御計画と言われていることは「聖定」を指します。実際、「聖定」についての解説における真理を、「神は創造された宇宙に対する全包括的な正確な計画をもっておられるという真理である」と、同じ「計画」という表現がなされており、さらに、その神の御計画がつくられたのは永遠(=天地創造の前)においてであるとされています(p56)。
似たようなことは、神の「全能」についても言われています。
< キリスト教の神が「全能の神」として定義づけられていることは、非キリスト教徒の間にも知れわたっていることであり、日本人の多くが認めていることでもある。例えば、神が存在するか否かを論争するとき、持ち出されてくるのは神の全能である。すなわち、キリスト教が主張する「全能の神」がもし本当に存在するならば、なぜ神は戦争を止めさせないのか、なぜ貧困と飢餓にあえぐ子供を救わないのかというような次第である。そしてこうした問いに持ち出される反論、護教論は、戦争や飢餓の多くは、人間の罪が作り出しているものであり、神は人間みずからがその責任において解決していくことを望んでいる、神は人間の自由意志までも奪って、ロボットのようにコントロールすることを望んでいないというものである。しかし筆者から見てこれは反論にならない。なぜなら、もし神が全能なら、戦争というような悲惨な悪をぬぐい去ることはできるはずであり、それを人間の自由意志の尊重、人間の罪の責任という名のもとに放置するということになれば、それは神の怠慢とも思えるからである。何よりも、筆者にとっての疑問は、一体「全能」という神への概念化が成り立つかどうかということである。(中略)旧約聖書では、神は自然界をコントロールする力ある存在として描かれている。有名なものでは、ノアの洪水や、出エジプトにおける紅海の渡渉(紅海を二つに分けた)こと等があげられる。しかし、その旧約聖書においてさえ、神はアダムとエバが禁断の木の実を食することを止められなかった。また、ノアの洪水の後では、洪水を起こしたことを悔いている(創世記 8 章21 節、神の後悔についてはサムエル記上 15 章 11 節にもある)。こうした箇所は少なくとも、神を「全知全能の絶対者」というようには定義づけられないことを示している。(中略)「全能者」という言葉は、ヨブ記に顕著に現れるのであるが , これはシャダイというヘブライ語を 70 人訳ギリシア語聖書(紀元前 3 世紀)がπαντοκρα´τωρ(antokratôr 全能者)という言葉に翻訳した故である。シャダイの語源がいかなるものあり、語意が何であるかについては未確定のままである。エル・シャダイは「全能の神」と訳されて、創世記に 5 回(他に、出エジプト記、詩編に 1 回づつ)出てくるのであるが、(中略)要するにはっきりしているのは、ギリシア語 70 人訳での「全能者」(すべての翻訳はこれに従うのであるが)という訳語とその原語であるエル・シャダイとはつながらないということである。(中略)以上述べてきたように、ヘブライ語旧約聖書では、神は自然界をも支配する力ある存在ではあるが、「全能者」とは定義されていない。むしろ神は人々とともに存在し、生きて働く存在なのである。水の中を通るときも、ともにあり(イザヤ書 43 章 2 節)、人々の苦難を常に自らの苦難とし(イザヤ書 63 章 9 節)、人々が悩む時、自らも悩む(同箇所、協会訳)存在なのである。このことは、神が全能者であることを否定するものではない。確かに、聖書が証しする神は絶大な力ある存在である。しかし、先にも述べたように、神の存在が定義づけられる時、まさに砂を手で握ると指の間から溢れ出してくるように、それでは把握しきれないものが溢れ出てくるのである。神の名前を動詞で表現したことは(それは民族の特質からくるものであるが)ある意味で適切な事だった。神は生きて働く人格であって、神との交わり、生活の中で知っていく存在である。結果として、神の存在は、動詞でしか表しえないのである。彼らは神を客観的に概念化し、定義づけ、全体像を把握しようなどという大それたことは考えなかった。インマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」(イザヤ書 7 章 14 節、マタイによる福音書 1 章 23 節)ということで十分であった。>https://www.jstage.jst.go.jp/article/yeiwa/7/0/7_KJ00005413459/_pdfeiwa/7/07_KJ00005413459/_pdf
このような考え方は、聖書(…特にその中のヘブライ的思考)が、非・ギリシャ的で反・形而上学的であったという歴史的事実と神の不可知性ということであって、現代のキリスト教会が日本人に対して聖書にもとづく神観としていかに伝えてゆくか…?という積極的・建設的な議論には展開できません。私自身は方向性が逆であり、カルヴィニズム的神観をハイパーにますます強調すべきだと思います。そのうえで、ヘブライ人には希薄でギリシャ人には濃厚だった形而上学的思弁的な要素も再評価してキリスト教的神観に摂取することの必要性を感じます。しかもそれを、非・三位一体の立場で進めてゆくスタンスです。それが絶対神信仰です。「全能」ということも客観的に神をオールマイティーであると定義するというのではなく、上記の文章で否定されている信仰の賛美告白としての「(全知)全能」としてです。いかに賛美の表現であるとしても、たしかに理詰めの思弁は中途で停止するにせよ、つまり神の「全能」の意味をとことん合理的に意味づけようとする試みなどは放棄する立場ではあっても、あくまで神ご自身の能力の高さ、偉大さを信じているのでなければ、当然、賛美にもなにもならないわけだから、形而上学的思弁もある程度は必要なのです。ただ、これも度過ぎないということが肝要なのです。度過ぎると結局、否定神学となり神秘主義に陥ります。啓示はK・バルトらのようなキリスト中心主義の狭い理解には立たず、聖書全体を通して与えられているという広い理解に立ちます。minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html
アブラハムがソドム(とゴモラ)の町の人々を救済す渉する物語においては、「まさにこのことこそ、神様が待っておられ、期待しておられたことだった」という藤掛順一牧師の解説に共感できます(もちろん、この説教全体に対する同意ではありません。あくまで「是々非々」による部分的同意です)。主の憐れみを信じて - 横浜指路教会 この物語においては「主なる神様は、多くの者の罪を裁くために少数の正しい者を犠牲になさることよりも、少数の正しい者に免じて、全ての罪人をお赦しになる、そういう憐れみの神であられることが示された」ということ、すなわち啓示とその神観に焦点が置かれています。アブラハムの言動の方に焦点を置くと誤解してしまいます。この結末は神がアブラハムのもとへ訪問客として来られた前から決まっていた出来事であり、結果的にはソドムもゴモラも滅ぼされますが、一旦は50人からはじめて10人にまで及んだ一部の義人による全体への救済のチャンスが与えられたことは、よく言われるように、アブラハムの巧みな交渉術による成果というわけではありません。
このように聖定の教理が包括することによって、神の全能性は守られますが(ちなみにこの書では、神は御自身の御性質を否定することはできないとされています。問7の答の14参照⦅p44~45⦆)、そのためにはその聖定の理由について人は知的欲求を制限しなければなりません。「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあるとおり、特に聖書およびユダヤ・キリスト教の信仰対象である「神」の存在は実証的な次元の事柄ではないのですから、わからない人はいくら説明されてもわからないのです。
「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(ヴォス師前掲書 p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。およそ真理といわれるものは、特定の人々に限定されて伝えられるものだと言えます。それを不公平だの何だのと文句を言う者は、どだい宗教の啓示はわからないでしょう。ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(岸田秀著『希望の原理』青土社 p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(岸田氏前掲書p54)と述べています。思考停止をネガティブな意味で言えば、「知性の犠牲」と大差ないかも知れませんが、ここでは「聖なる無知を告白」するといったポジティブな意味で受けとめておきたいと思います。イエスも「聞く耳のある者は聞け」と言っています。縁なき衆生は度し難し…ってことです。宗教とはそういう限られた人々の共同世界です。その限られた人々には神の「啓示」がキリストを通して与えられます。そのコアの部分はおたくみたいなものです。だから無宗教の人がいるのは当然のことなのです。自分は、万人救済を安易に説く宗教の方が怪しいと思います。
量義治氏は前掲書の中で次のように述べておられます。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109)(※「宗教は自我としての人間の」の末尾の「の」は「と」に替えて読む方がわかりやすい。)
このように神を人間の外に見出そうとする背景には、ヘーゲルの「絶対精神」に完結をみる近代主観主義と云われる人間観と神観が関係しているのでしょう。
「十八世紀的人間の自己絶対化は、神を排除することによってではなく、逆に神を理念としての人間理性の中に内在化させることによって遂行されたのである。したがって理念としての神が死んだとなると、この近代的人間の自己絶対化も崩壊するわけで、そこにヨーロッパの、そしてやがては世界の運命となるはずのニヒリズムが到来する。」(小川氏前掲書 p315~「神の内在化による人間の絶化」)…所謂ドイツ・ロマン主義ないしは、C・シュミットの『政治的ロマン主義』などが、ナチ・ドイツのファシズム形成の背景となったとのこと。
量氏は、「波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられている」ので「宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。」と批判されています(p123)。私自身もユニテリアン的で、キリスト中心ではあり得ないのは、自分の場合、聖書の神話の中でも特にキリスト神話はほとんど受け入れられないので、キリスト中心となるとおのずと史的イエスになり、マルコ福音書にあるイエスの言葉を徹底するなら神信仰の宗教よりも仏教の方に近い境涯の宗教になって然りだと感じるからです。イエスにおいては自我の「滅び」と「救い」とは二重の関係です。
「自分のいのちを私と福音とのために滅ぼす者は、それを救うだろう。」(マルコ8:35 ※名詞原形→「いのち」は「プシュケー」。動詞原形→「滅ぼす」は「アポリューミ」。「救う」は「ソーゾー」)
私にとっての神信仰の宗教は、仏教においても真宗のように現状の自分のあるがままを受容される絶対他力の宗教であって然りです。自分のいのち(「プシュケー」は「息」とか「生命」だが、「魂」とか「霊魂」とも訳される)を滅ぼすといっても、その滅ぼし得る者は創造主にして絶対者なる神以外にはあり得ません(「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」⦅マタイ10:28 ※「霊魂」は「プシュケー」⦆…しかもそれはゲヘナにて…であり、救いの場ではありません)。
それでは量氏自身、絶対者としての神理解の内容は如何?ということになります。そのいちばん肝要な箇所がこちら。
「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量氏前掲書 p292~293)
さらに量氏は同書の中で「絶対者による救済」という項目のもとに、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調しています(p191)。
また、量氏は同書の中で「救済信仰の必然性」という見出しの下で次のように述べています。
「イエスが復活したというのは、信仰の事柄であって、知覚の事柄ではない。再臨にいたっては、なんの根拠もない。それに、また来る、きっと来る、と約束してゆかれたが、いまだに来ない。本当に来るのであろうか。そもそもイエスは本当に神の子なのであろうか。神が人となるということがあるのであろうか。イエスは完全に神にして完全に人である、と言う。そんなことがありうるのであろうか。疑問は尽きない。このように、新天新地の到来の問題は他の多くの問題と連関しているのである。しかしながら、新天新地の創造なくして全人類的・全宇宙的救済は不可能である。繰り返し述べてきたように、救済は苦からの救済である。苦はリアルなものである。リアルな苦はリアルな救済によってのみ救済される。体を病む者は、とくに身体障害者は体の贖われることを願わざるをえないであろう。社会苦ないしは世界苦をわが身をもって如実に体験している者は、人類の救済を願わざるをえないであろう。人間の苦しみだけではなくて、自然のうめき苦しみを共感しうる者は、全宇宙の救済を願わざるをえないであろう。このような救済を単なる神話として片づけてしまうのは、それができるのは、わが身が現に苦しんでいないからである。世界苦や宇宙苦を共感でき、そして現に実感している人ならば、新天新地の到来を願わざるをえないであろう。救済は苦の悲願なのである。救済が必然的であるということは、救済がなくてはならないものであるということである。苦がリアルであるかぎり、そのような苦からの救済がなくてはならないであろう。もしもないとするならば、苦は絶望的なものになるであろう。苦しむ者がおのが苦しみに耐えることができるとするならば、それはその苦しみになんらかの意義を認めることができるからである。言い換えれば、苦しみからの救済を信ずることができるからである。救済が苦と不可分であるように、苦は救済と不可分なのである。この不可分性が必然性にほかならないのである。」(p208~209)
「救済は生の苦からの救済である。苦は現実である。いっさいが虚構に覆われている時代にあっても、苦は現実である。苦の原因がどこにあるにせよ、苦しんでいることは現実である。苦の内容はさまざまであっても、苦そのものは虚構ではなくて現実である。そして、その苦からの救済を求めることも事実である。生は生への意志にほかならないからである。生が生であるかぎり、生を否定する苦からの救済を求めないということはない。(中略)生が苦からの救済を求めることは生の事実である。苦の現実とこの現実からの救済を求める生の事実を前にして、無神論はいかに応えるのであろうか。無神論という思想のゆえに生の事実を否定するのであろうか。それとも無神論の立場から生の事実に応えようとするのか。しかし、無神論にそれを期待することができるであろうか。なぜなら、全人的・全人類的・全宇宙的救済は、この世界においては、または現世においては、不可能なのであり、新天新地の到来または来世の存在が必要不可欠であるからである。現実の苦がなんともならないものであるとき、われわれはその苦からの救済を求めて新天新地の到来を、または来世の存在を信じざるをえないのである。信仰は必然性である。無神論は傍観的な有閑な理論にすぎない。現代に生きることはさまざまの苦の渦中に投げ込まれていることである。われわれは苦の当事者なのである。現実を正視するとき、無神論などをうそぶいている暇はない。もちろん、究極的な救済を信ずることは、他力本願にあぐらをかいて、自らはなにもしないことではない。かえっていっさいがわれわれの努力にかかっているかのように尽力するのである。人事を尽くして天命を待つのである。無神論から出てくるものは絶望と無関心である。しかし、救済を求める者は希望を抱き、努力せざるをえない。」(p229~292)
要するにイエスが神であるかどうかなどの疑問が解決されなくても、苦しみからの解放という必要に迫られれば、新天新地の創造・到来といった神話的な事柄であっても「必然」的に信じられる…ということ、これも「知性の犠牲」すなわち無批判の信じ込みであり、盲信の類ではないのでしょうか?これは大げさな言い方ではなく、自分自身の精神に対する暴力であり、自己洗脳であるとも言えます。いかにキリスト教神学が救済論先行であり、信仰は限界状況に至って理屈抜きの信頼になるとは言え、人は最終的に意識を失うまで、少しでも理性をはたらかせ続けなければならないと思います。それが人間の証明です。
「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(量氏前掲書p197)、「現代に特有な苦とはこの苦ならざる苦としての空虚である。この空虚こそ現代の原罪である。現代の宗教の課題はこのような空虚からの救済である。義認の信仰は現代のわれわれをこの空虚の原罪から解放しなければならない。そして、この解放は新天新地の到来においてのみ成就されるであろう。もはや文明はあがけばあがくほど虚構を堅くし、空虚の深淵に落ち込んでゆくであろう。このような世界を脱構築しうる者がいるとすれば、それはかつてこの世界を創造した絶対他者以外ではありえないであろう。もし創造物語が単なる神話であったとするならば、現代の救済も単なる神話でしかなく、宗教などは虚構のまた虚構と言わなければならないであろう。ここにいたって、われわれはこのなんともならない絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げうる者を信ずるか否かを問われるのである。」(p215~216)
以上の量氏の主張には、哲学者として「宗教哲学」を説きながらも、その前に宗教者…キリスト信徒たらんとのpiety……無教会開祖の内村鑑三氏などに代表される日本のプロテスタントに特徴的なピューリタン的敬虔が感じられます。ピューリタンはイギリスではカルヴィニストの別称でしたが、ウェストミンスター信仰規準の担い手であるカルヴィニストとは思想的な面で区別されて然りです。すなわち教理的思弁性を欠いた敬虔的実践主義的な立場を私はピューリタニズムと呼んでいます。すなわちピューリタンというのは、カルヴァンの神学に関しては理論の担い手ではなく運動の担い手なのです。私はそのような観点から量氏のキリスト教哲学ないしは神学には敬虔主義的傾向があると批判するのです。但し、私が聖書ないしはキリスト教に関して最も関心ある絶対神観に関しては非常に参考になる言説です。それだけに、より深く学ぶべく批判することにもなります。 「多くの場合、無神論の絶対者観は絶対者は絶対有である、というものである。たしかに、従来、西洋においては神は絶対有であると考えられてきた。無神論はこのような絶対有としての神を否定してきた。神を絶対有として主張するのが有神論であるとすれば、有神論対無神論という構図も成り立ちえよう。しかしいまや、絶対者は単なる絶対有ではなくて、同時に絶対無であることが明らかになった。絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。神が絶対有にして絶対無であるということは、絶対有なる神が絶対無において在るということである。絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもあるのである。(中略)神が絶対有にして絶対無であるということは、旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神とが同一の神であることを意味する。そして、この同一の神においては、義の審きと愛の赦しとが一つなのである。絶対有は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。我―汝の関係という人格的関係は契約と律法を介して成り立つ。契約と律法なしには我―汝の関係という人格的関係は成り立たない。そして、人格的関係のないところには責任ということも成り立たない。」(量氏前掲書 p229~293)
量氏はここで「旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神」と述べておられ、まるで遠藤周作氏の短絡的な聖書観なり神観を見るような感じを受けますが、もちろんそのようなマルキオン的立場に同意しておられたわけではないでしょう。しかし、このよう表現は大いに誤解を招くおそれがあると思います。そして繰り返しになりますが、「新天新地の到来」といった世界的終末論的救済という至上目的を掲げて、その実現のためなら創造神話やキリスト神話の如きを無批判に受容して然りであるかの如く述べておられる量義治氏の実存主義的なロジックは、高尾利数氏の言われる「知性の犠牲」を強いる「無理」…言わば「理性の犠牲」として批判されて然りではないかと思われます。それって敬虔主義的福音派とは区別される改革派の神学においては「自然理性」の犠牲ということになるのかも知れませんが、私見では「自然理性」と区別される「再生理性」に対する暴力にほかなりません。しかし量氏の思想的主旨は察せられます。救済を第一に優先して観念的信仰内容を排してゆくあり方は参考になったし、自分も救済を第一とする宗教的態度に変わりはありません。できるだけ神話に含まれている普遍的主旨を汲み取り、必要以上の否定は慎むように軌道修正しました。それにしてもやはり福音派信徒のように無批判的な聖書の読み方を信仰的敬虔と誤解して「盲信」に陥るようなことになってはいけないということは、特にカルト宗教の社会問題から示されています。そもそも自分などは敬虔と縁のない者なので、キリスト教ないしは宗教の環境下において「ただ信ぜよ」と言われても土台そうはいかないわけです。特に「三位一体」に対しては無批判ではあり得ません。「三位一体」という用語や定式自体は否定できないので(…それは異端になるから…)、解釈において違いを出すことになり、量氏の場合も哲学的なアプローチで「三位一体」の解釈をされています。
< 三位一体論における三位格は絶対有である。しかし三位一体論には論理的難点がある。それは絶対が三つもあって、しかも一である、ということである。(中略)一なる有が三なる有である、または、三なる有が一なる有である、と言うのである。そのようなことは理解できるであろうか。絶対有の立場に立つかぎり、三位一体論は支持しがたいのではなかろうか。あるいは三位一体論を保持しようとするかぎり、絶対者観を変えなければならないのではなかろうか。(中略)三位格はそれぞれ絶対有である。しかし、単に絶対有であるならば、三位一体ということはおよそ思惟不可能である。三位一体ということが成立しうるのは、各位格が単に絶対有ではないからなのである。絶対有としての各位格はいかなる場所において存在するのであろうか。もしその場所が有的であるならば、絶対有としての各位格の存立の可能性は保証されても、これら三つの絶対有が一つであるということは、とうていありえないことであろう。問題の場所は無、厳密に言えば、絶対無以外ではありえないであろう。絶対有としての各位格は絶対無の場所において存在するのである。絶対有が絶対無の場所において存在するということは、絶対有の存在性格を規定するであろう。すなわち、絶対無の場所において存在する絶対有はもはや単なる絶対有ではなくて、絶対有にして絶対無であるということになるであろう。三位一体の神は絶対有にして絶対無なる神なのである。それゆえに、三位一体ということが可能となるのである。(中略)もしも三位格が単なる絶対有であったならば、相互に対立するだけで、相互相入などありえない。というのは、絶対者はつねに一であるからである。そもそも三位格の定立自体が不可能となる。三位格が絶対有にして絶対無なるがゆえに、三位格はそれぞれ独立の位格でありつつ、同時に相互相入が可能となるのである。そして、これによって三位一体が成立しうるのである。神は絶対有にして絶対無であると考えることによってはじめて相互相入が理解可能となり、三位一体論が納得がいくように基礎づけられるのである。>(量氏前掲書p229~293)…このような量氏の「三位一体」解釈、すなわち「三位格が絶対有にして絶対無」というのは、量氏からすればペリコレーシスの教理をクリアーできるアイデアなのかも知れませんが、正統的神学の立場からすれば様態論とか三神論とかいった異端の類型を適用できるかどうかはともかく、すくなくともギリシャ定式やラテン定式に並ぶ日本定式として認められることはあり得ないでしょう。その点では、熱意はわかるが理論的には大いに疑問を感じます。そのような苦肉の解釈を施してまでも「三位一体」は維持しようとする量氏の動機を共感的に察するならば、深層心理的にはやはり異端審問の強迫神経症的傾向を伺うことができます。無教会といえども広義の福音主義キリスト教の中に属している以上、異端のレッテルだけは避けたいというわけです。そしてそのような動機が、矢内原忠雄氏ないしは塚本虎二氏など、開祖の内村鑑三氏まで遡る歴代の無教会指導者に共通しており、量氏の代ではそれでも「三位一体」を哲学的・批判的に解釈するまでになった…その意味では画期的だと言えるものの、量氏以外の…あるいは以前の無教会指導者は批判的解釈もできず、正統的定義のままに受容しなければならなかったということでしょう。そしてそれはイエスの復活に関する理解からしてそうであり、まさに「知性の犠牲」と呼ぶに適していたのです。
「イエスが死人の中から甦ったというようなことは、時空内の史実的現実としては、生起しえようはずもない。われわれの認識は有限であるとか、われわれが理解できない事象も生起しうるからという一般論を盾に、イエスの復活の時空内的現実性を最初から排除した世界観を持つことは、近代の合理主義的独断である、などということは――たとえその場合、『新しい歴史的理性』とか『死と罪責と虚無を突き破る<新しいもの>の希望の秘義的しるし』とか『神の<充満 プレーローマ >を指示する奥義』とか『史実ではない真実』とか、さまざまな神学的思弁が伴われようと――とどのつまり、護教論的意図に発した一種の循環論法であり、深いところで『不誠実』を宿し、『知性の犠牲』を強いる『無理』ではなかろうか。絶対化された観念としての『イエスの復活』に依拠した伝統的・正統的キリスト教は、そもそもそうした『無理』の上にうち立てられた巨大な観念の神殿なのであった。」
(高尾利数著『聖書を読み直すⅡ』p38~39)※「知性の犠牲」(…「知性の供犠」⦅Opfer des Intellekts⦆とも言うらしい https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25417&file_id=22&file_no=1)という表現は、新約聖書学者のR・ブルトマンが『新約聖書と神話論』(1941)において「新約聖書の世界像は神話的表象をおびており、それを信仰の名のもとに盲目的に受け入れるよう要求するのは、〈 知性の犠牲 〉を強いることである。」といった使い方をしています。
自己洗脳とさえ言えるかも知れません。まあ、キリスト教であれ何であれ、宗教には洗脳とかマインド・コントロール的要素は程度の差こそあれあるのかも知れませんが、いくら苦しいから救われたいからといっても、自分はキリスト教における「受肉」などは信じられません。人が神にはなり得ないと同様、神も人にはなり得ない(というより「ならない」)と思うし、そのような神では自分の救済願望に合わないからです。神が人になるということは相対の絶対化ならぬ絶対の相対化です。絶対にして全能なる創造主にとって自己相対化などする必要はありません。せいぜいキリスト啓示において自己対象化なさっただけです。それも実体的な意味ではなく、子は親を映す鏡…といった意味で、イエス・キリストが御子として御父に従う生き方を身をもって人々に示すことによって、御父の栄光と権威を現わされたのです。私は「真に神にして真に人」であるイエス・キリスト…などという矛盾的自己同一の人格などというものは信じません。
ついでにもう1つ、量氏の三位一体論と並んで私が疑問に思える荒井献氏の三位一体論を引用させて頂きます。両者に共通するのは、いずれも正統的三位一体論をそのまま受け入れることができない信仰的立場であるにもかかわらず、あくまで正統的路線に位置していたいがために、かなり無理な解釈と言い訳をしておられると思われることです。量氏の方はすでに見たので、今度は荒井氏の方です。
「古典的三位一体論に見出される本質ないし実体概念とか属性ないしは格位概念はもちろんそのままの形で新約聖書には存在しない。しかし新約聖書の中にやがては三位一体論として定式化される三体論的キリスト告白定式が存在することは事実である。又、『わたしを見た者は父を見たのである』とか、『わたしと父は一つである』という言葉がイエスの口を通して語られる――われわれはこれをキリスト者の信仰告白ととる――のはヨハネ福音書(一四9、一〇30、一七11、22)の特色である。それ故にわれわれは古典的三位一体論を、――大バシリウスが既にこの点を強調しているように――新約聖書にないからと言ってその意味するところを無視してしまうわけにはいかないであろう。われわれはむしろこれを、新約聖書における救われた者の信仰告白が異なった環境において繰り返された時、どうしてもその環境に通用する用語と概念を採らざるをえなかったものとして、積極的に解釈することが許されるのではなかろうか?もちろん父と子と聖霊の関係を客観的に思弁の対象とすることは意味のないことである――このことはアタナシウスが既に指摘しているところである――が、われわれにとってキリストなしには神の経綸とその賜物としての聖霊がないとすれば、われわれにとってキリストは神であり聖霊なのである。このような救済的あるいは経綸的三位一体の理解はテルトゥリアヌスやエイレナイオスからアタナシウスや大バシリウスに至るまで跡づけうるとわれわれは信ずるものである。」(『荒井献著作集 5.初期キリスト教史』岩波書店 p27)
ここで荒井氏が最も言わんとされていることは、「父と子と聖霊の関係を客観的に思弁の対象とすることは意味のないこと」だということであり、イエスの復活を史実とは認めず非神話化して解釈しておられるのですから、当然、神についても非神話化する(…と言っても神の存在自体が無くなってしまってはいけないので、可能な限り…)ことになります。それって要するに三位一体論をできるだけ非存在論・非実体論的に解釈するってことです。だから内在的三位一体論(=本体論的三位一体論)よりも経綸的三位一体論の方に重きが置かれることになります。アタナシウスなど教父の名前を出して、ご自分の説が伝統路線から逸脱していない…異端的解釈にはなっていない…ということをアッピールしておられるようですが、果たして改革派神学者などからみて正統的だと認められるかと言えば大いに疑問です。イエスの復活を史実であると認めない日基教団信徒の聖書学者が、日基改革派教会牧師の神学者と三位一体論で一致するわけがないのです。けっして正統的理解であると認められるはずはないのです。参考までに、改革派の佐々木稔牧師の解説を引用します。 「三位一体は、三つの位格(あるいは人格)の対等・同等の永遠的な内在的な愛のまじわりと関係を表す本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)と、父・子・聖霊が時間と歴史において贖いのみわざをされる観点から考えられる経綸的三位一体(the economical Trinity)に区別される。本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。」 (解説)minoru.la.coocan.jp/morton10.html
このように、「経綸的三位一体」なら「本質」ではなく「職務的」であるとは言え、父と子と聖霊の関係に「従属」を認めることができるので、荒井氏もその方がご自分の三位一体解釈に合うのでしょう。しかしそれも限界があって、いくら「経綸的」には矛盾しないと言っても、三位一体論は「内在的=本体論的」な面をスルーしてはあり得ないし、特に「ペリコレーシス」(相互内在、相互浸透)を荒井氏がいかに非神話化して解釈し得たのか、大いに疑問です。おそらくそこまでは自らふれなかったのだと思います。
「後のキリスト教では、聖霊も神的実体とされたため、キリスト教は神とキリストと聖霊を信ずる三神教になるのだが、ユダヤ教の一派であるがゆえの一神教という建前を守るため、三位一体という無理な神学を打ち立てることになる。」(上村静著『旧約聖書と新約聖書 ー「聖書」とはなにか』新教出版社 p215)
ちなみに、アタナシオス信条にある「神性については父と等しく、人性については父に劣る。」(あるいは、「神性においては、み父と等しく、人性においては、み父より小さくあられる。」アタナシウス信条 – 西日本福音ルーテル教会 )というように、キリストの神人二性一人格を都合よく説いて、父と子の主従的(ないしは従属的)関係はキリストの「人性」について言われているのであって「神性」について言われているのではない…などと言われることがあるが、信徒は聖書を読む場合、イエス・キリストに関しては必ずしも、これは「神性」について書かれてあり、これは「人性」について書かれてある・・・などと分別しながら読むわけではないし、記者の方もそのような認識をもって書いたわけではないと思います。ですから、「御子イエス・キリストは父に従属します。これは、神としての本質においての従属ではなく、職務における従属です。」などという言い方は詭弁であるとしか言えません。minoru.la.coocan.jp/kokuhakukaisetu8.html
バルトとカルヴァンないしはカルヴィニストでは、三位一体の理解に違いがある例を1つ挙げてみます。日本キリスト教会の故・蓮見和男牧師は御著書『希望と十字架 新しい組織神学的試み 第二巻 対話する神 ―三位一体論ー』(新教出版社)の中で次のように述べておられます。
「バルトは、神の唯一性に固執します。それは三位一体が、三神論になることを警戒してであります。(中略)バルトは、父・子・霊を、『人格』として表すよりも、『存在様式、存在の仕方(ザインスヴァイゼ)』という言い方の方を好みます。」(p72~73)
そして、ご自分の意見としても、「教会的な三位一体論の意味での『ペルソナ(人格、位格)』は、人格性とは直接関係ありません。したがって三位一体論は、神の中に三つの人格があると言っているのではありません。それでは三神論になります。」と言っておられます。
これに対して、カルヴィニストの立場では以下のとおりです。
「1 聖書によると、いくつの神がいますのか。――唯一の神のみ。これは聖書の一貫した教えである。 2 いくつの人格が神にあると聖書は教えているか。――三人格。父と子と聖霊である。 3 聖書が教えているこれらの事実から論理的に導き出される唯一の結論は何か。――唯一の結論は、三つの固有の人格を持たれる、ただ、ひとりの神のみがいまし、三人格の各々は真の神にいまし、他の二人格と同格であられるということである。」(ヴォス師前掲書p54~55)
蓮見氏は、「三位一体論は、神の中に三つの人格があると言っているのではありません。それでは三神論になります。」と述べておられるので、上記のヴォス師のウェストミンスター大教理問答書の講解とは別の理解ということになります。蓮見氏の考えでは、ウェストミンスター大教理問答書の「三位一体」解釈は「三神論」ってことですね。
それはともかく、聖書において御子は、御父に対して本質と職務との区別など関係なく、とにかく従属するのです。青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」と指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。
宗教においても、もちろん理性のはたらきがたいせつです。実存的事実として、自分は御子キリストの御父に対する従順ないしは謙卑(ケノーシス)の背中を見て信仰生活を歩む…という自己限定の自覚があるわけです。これも盲信の類、自己洗脳の一種かと疑えば疑えないこともないですが、疑ってもキリがないので思考停止です。聖霊によるエポケーってことです。救いの必要に迫られたら、信仰に理由など無用です。他人に説明して納得してもらう必要などありません。客観的ではなく共同的な真実になります。共同体では証しに立つにせよ、何より自分自身で確信し納得できておればそれでいいのです。人になった神なんてものは納得できませんが、神の全能において人になりうることは原理的には認め得るでせう。救いには個別的な面があります。聖書における救済史の順序としては新天新地の創造・到来以前に、イエス・キリストの再臨が待望されなければなりません。イエスの神性は切実なる終末論的救済の必要に迫られて認め得るのです。終末および新天新地の到来に必要性を感じなければ、再臨待望も生じてきません。これは私自身の「キリストの再発見」に通じます。
渡邊二郎氏は『現代人のための哲学』(放送大学教育振興会)という御著書の中で次のように述べておられます。
「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと…(p240)。
今の日本社会で若者が特定の個人に対して平気で「神」という言葉で形容する様を見るにつけ、とても絶対者的神観念が「浸透」しているとは思えませんが、ただ、以下の場合にはすくなくとも聖書的神観が日本の一般社会にもある程度は浸透しているのかな?と思わされました。それは辻典子さんのお母さんが言われた「神」です。1981年に制作された松山善三監督の『典子は、今』という映画は、サリドマイド病のために両腕がなくて生まれてきた辻典子さん御本人が主人公ですが、授業中、教師とクラスメイトの前で自分の希望について典子さんが語る場面があります。以下はそこで紹介されたお母さんの言葉です。
「これは神さまが私を試していらっしゃるんだ。私とお前がどんなふうにして世の中を生きてゆくか、それを空から見ていらっしゃるんだ。がんばろうね。」https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig(29:40あたりから)
これをお母さんは典子さんに対して笑って言われたとのこと。典子さん自身は、神さまがこんなひどいことをするはずはないと思っている旨を語ります。どちらも本心から出ていると思いますが、すくなくともお母さんが言われる「神」は、庶民の現世御利益願望に応えてあげることを主たる存在意義とするような神社の神ではなく、むしろ「霊の父」(ヘブル人への手紙12:9)として子なる信者を鍛える神に近いイメージを、「試していらっしゃる」という表現から感じました。しかも、「空から見ていらっしゃる」とはいえ冷淡な存在のようには感じられません。むしろこの母子を見守っておられるかのような父性的な印象を受けました。敬語で、しかも笑って言われているので、お母さんの神に対する言葉には恨みのようなネガティブな感じはいっさありません。むしろ度量の深い絶対的な存在としての人格神への敬意が感じられます。あくまでも神は超越的な愛なるお方であるとの信頼が、このお母さんにはあると感じさせられます。しかしお母さんは神が父親のように、愛情をあえて躾のための厳しさにかえて自分たちに対しておられるのだと娘の典子さんに示しておられるように思えます。これからの典子さんの人生には厳しい現実がつきまとうからこそ、優しい神のイメージだけでは済まされないということをお母さんはよくわかっておられるのです。だから神については敢えて試練を与えるお方として語ることによって、典子さんの対抗心を引き出し元気を与えようとされていますが、単に厳しいイメージではなく、その前提としてこの母娘を愛の視線で見守っておられる父親のようなイメージが、お母さんの言われる神には感じられるので、典子さんの障害の問題にはマイナスの意味だけではないポジティブな何かがあるといった希望が示されていると感じました。まさにこれは聖書的神観であり、昔の日本人にはなかった神観です。現代においても神道的神観が日本人の多くの庶民にとってベースとなる神観であるとしても、このように聖書的ないしはキリスト教的神イメージが一般社会の中に感じられることがあるのです。但し、遠藤周作氏や井上洋治神父によって、旧約の神と新約の神とを分けるマルキオン的聖書解釈が文学的な表現を通して日本人のキリスト教の神観に対する誤解として拡散されてしまったことは残念でした。そもそも典子さんのお母さんがなにかの宗教に入っておられたかどうかはわからないし、ましてやキリスト教に関係しておられたかどうかも知る由はありません。もしかすると宗教とは無縁の人生を送って来られたのかも知れないし、そういうことはいっさい知らないし、知る必要もないと私は思っています。しかし少なくとも言えることは、典子さんのお母さんが言っておられる「神」のイメージには、明らかに聖書に示された父性愛の豊かな神との共通性があるということです。また、若き神話学者の平藤喜久子さんが次のことを述べておられます。
< 日本の神話を知ったときに、「神なのに失敗するのか」「間違えるのか」といった感想を持つ人もいる。それは恐らく「神」という言葉の中に、キリスト教のGodのイメージも含まれているからではないだろうか。>
第1回:日本人にとって「神様」とは | nippon.com
『國體の本義』で天皇の現御神(明神)・現人神の意味に関して否定されていた「全知全能の神」としての God イメージです。これはもう一つ同書で否定されていた「絕對神」としての God イメージと相関的です。
いずれにせよ、戦後はいろんなメディアを通して聖書的ないしはキリスト教的神イメージが入っているので、その点では渡邊氏が言われるように一定の浸透なり普及は認められるでしょう。しかし一般的に言えることは、「西洋哲学が受け容れられ」たとか「キリスト教が広まっ」たとしても、実際に「絶対者としての神の存在という観念」を受容し得たその「人々」の中心は、一般大衆よりも知識人の類だったものと推察されます。つまり聖書的神観を日本人が正しく受け入れるためには、ある程度の思想的教養が素地として必要なのです。
いずれにしても渡邊氏の『現代人のための哲学』は、終わりの方で「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。」と語り(p257)、最後は、「私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」と結んでいます(p258)。多くの日本人は聖書で物語られている「神」と出会うことなく生涯を終えるのですが、だからといってクリスチャンが独善的な伝道・布教によって「神」を知らせよう…キリストの福音を伝えよう…と張り切っても空転することが少なくありません。むしろブログやSNSなども活用して冷静に、神を知る方法を伝えることが肝要です。無教会の指導者であられた矢内原忠雄氏は次のように述べておられます。
「神を知る方法は、理知的には聖書の記事に基づく神学的思索を必要とするが、実験的にはイエスの生涯と、イエスを信ずる者の生涯によって知られる。そして、それが神についての何よりも確実な具体的な知識なのである。知らなければ信ずることはできないが、しかし信ずることによって、ほんとうに自分のものとして知ることができる。神の超越性も内在性も、それだけでは人に神を認識させることはできない。人は自分の生涯の実験によってのみ、神をたしかに認識することができる。科学的真理を知る方法と同じく、宗教的真理もまた理論と実験の両者によって、確かめられるのである。ことに神が『父』なる愛の神であることは、生涯の実験を通してのみ明らかに知り得る真理である。」(矢内原忠雄著『キリスト教入門』中央公論新書 p91)
ここで重要なことは、宗教は「理知的」な面(理論)と「実験的」な面(実験)とがあって、後者の方に重きが置かれているということです。あえて比率で言えば、理論が4で実験が6といった感じでしょうか……?自分の場合は理論が8で実験が2くらいかも知れません。それでも教理好きの人間となら寝る時間も惜しんで対話を続けることができます。
矢内原氏は「ヨブ記」42:5~6の注解において、「神はヨブの苦難の原因を説明し給わず、又 神の審判が義しきことを積極的に説明し給わなかった。即ちヨブの抱きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。それは哲学的解決ではなくして宗教的解決であり、頭脳による解決ではなくして生活による解決であり、知的解決でなくして信仰的解決であった。」(矢内原忠雄「全集」13.p300)と述べています。ですから最初に戻って、「神を知る方法」に「理知的な面」(理論)と「実験的な面」(実験)とがあり、イエスの教えを知るだけではなく、それを自分の生活の中で実践しなければ意味がないということです。しかし実践に偏ってしまうのもよくないわけで、やはり理論的なこともなければなりません。それを神学と言えば言えるのでしょう。私自身はこれを神関学とでも呼んだ方がいいと思っています。「神」について学ぶというよりも「神関係」について学ぶのだからです。たしかに自分の場合は理論的な関心の方に偏ってきていると反省するのですが、一般信者は神学的なことよりも教会での親睦や行事などの活動・交流に関心が高い人が多いと思います。それが信仰の実践になっているかどうかはわかりません。聖書研究・教理学習とのバランスが大切だと思います。行動すればよいというものではないはずです。行為義認的な信仰(?)になってしまうおそれもあります。イエスやパウロが否定したはずの律法主義につながるおそれもあるでしょう。福音主義信仰というのは、結果的に言動が状況倫理に適したかたちになるのであり、はじめから意図的に倫理・道徳的に善いことをしようと企てるものではないはずです。結果が善である点では同じでも、過程における福音主義的言動と律法主義的言動との違いは歓喜の度合いであり質でしょう。それは他力的であることと自力的であることとの差異でもあります。自分は、信仰の目的は理論であれ実践であれ、神関係を楽しむことにあると確信しています。その楽しみがない信仰は福音の信仰ではないと思います。ここであらためてこの聖句を挙げておきます。ヱホバ神との関係に生きることが最高の楽しみであり活力源なのです。「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(ネヘミヤ8:10)
ヨブ記のことが出ましたので、ついでに北森嘉蔵氏のヨブ記についてのコメントを引用します。
< ヨブ記のクライマックスはこの第一六章にあると、私は考える。(中略)問いの暗黒が最も深くなったのは、最も深い答えの光がついそこまで来ていたためである。その「最も深い答え」とは、次のようなヨブの言葉である、―― 「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。わたしの友はわたしをあざける。しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように」(一六・一九 ― 二一)
これまでのヨブにとっての苦悩は、ヨブのために「保証」してくれる「証人」がどこにもいなかったということである。本来ならばそのような役割をになってくれるはずの友人たちが、逆にヨブを「あざける」ことになってしまった。しかし、友人たちのことなどはヨブにとってはまだ枝葉末節にすぎない。最大最深の問題は、神がヨブを責めさいなむ敵となりたもうたことである。神はヨブを弁護し保証する弁護士や弁護側証人としてではなく、ヨブを追及し責めさいなむ検事として現れたもうた。しかるに今やヨブは、自分のために「証人」となってくれる者のことを語り始めるのである。ヨブのために弁護し、「保証してくれる」者である。その者は「天にあり」、「高い所にある」と言う。「その者」とはいったい誰であろうか。驚くなかれ、その者は神であるとヨブは言うのである、―― 「わたしの目は神に向かって涙を注ぐ」。ここにヨブの最も深い答えがある。しかしいったい誰がこの答を予想し得たであろうか。「神」とは、これまでのヨブにとっては、検事のように、敵のように、ヨブを責めさいなむ者であった。(中略)その同じ神が今や、ヨブを弁護し保証する「証人」として現れたもうのである。そのお方にむかって、ヨブは涙のいっぱい溜った目をあげるのである。しかし、今かいま見られた驚くべき消息を完全にあらわにするのは、次のような言葉である、
「どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように」(一六・二一)
まずここで「彼」と呼ばれているのは、明白に「神」である。次に「人」と呼ばれているのはヨブのことである。そこで、この言葉は次のようになる、―― 「どうか神がわたしのために神と弁論し、わたしと友との間をさばいてくれるように」。注目すべきは、「神が神と弁論する」という言葉である。今まで神はヨブを責めさいなむ者であった。しかるに今や、神はヨブを弁護し保証する者となった。しかも、あの神とこの神とは二つの別々の神ではなくして、同一の神なのである。この消息を示すものとして、ルターの言葉にまさるものはない。ルターはイエス・キリストの十字架について、次のように述べた、―― 「ゴルゴタにおいては神が神と闘いたもうた」と(拙著『神の痛みの神学』、講談社版二三頁参照)。
(中略)「神が神と闘いたもう」というルターの言葉に最も近いのは、「神に逆らって、神へと逃れる」という言葉である。ヨブは「敵のように」なりたもうた神に逆らって、証人となりたもう神へと逃れたのである。敵のようになってヨブを責めさいなむ神から、ヨブを守り保証してくださるのは、神以外にはないのである。ヨブが涙のいっぱい溜った目をあげて仰ぐのは、神以外にはないのである。(中略)かくして、ヨブと友人たちとが弁論し合うことは、神と神とが弁論し合いたもうことを意味した。しかるに今や、神は最後には裁判長として現れて、ヨブと友人たちとの弁論をさばく位置に立ちたもうのである。これは究極的には、神と神との弁論を神がさばきたもうことを意味する。――かくして、神は検事と弁護士と裁判長との三つの役割を演じたもうのである。
ルターが言うように、キリストの十字架が「神と神との闘い」であるならば、この真理に最も近づいたのは、ヨブ記第一六章であるといわねばならない。しかし、キリストの十字架とヨブの信仰との間には、一つの決定的な相違がある。それは、キリストの十字架においては罪をめぐって神と神とが闘いたもうたのに対して、ヨブの場合には苦難をめぐって神と神とが闘いたもうたということである。ヨブには罪の問題はついに本格的には登場しなかった。ヨブは最後まで自己の義を主張してやまなかった。
(中略)ヨブ自身は自己の罪のことを本格的に問題とすることなく、ひたすら自己の苦難のことだけを問題として、自己の悲惨なすがたを描き出したけれども、実はそのすがたはヨブの罪のためにイエス・キリストが受けたもうた苦難のすがたをさし示していたのである。>(北森嘉蔵著『自乗された神』日本之薔薇出版社 p49~54)
神は敵と味方とに分かれて闘い給うのであり、「検事と弁護士と裁判長との三つの役割を演じたもう」というのですから、まさに被告人である人間にとって神は絶対者です。
ところで、神を絶対者として信仰するおもな理由は何でしょうか?それは宗教の目的が救済にあるということです。
「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(量氏前掲書p236)
その場合の「救済」とは次のようなことです。
「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(p197)
繰り返しになりますが、その場合の絶対者なる「神」とは次のような存在です。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」(p108~109)
なぜ、この文言の引用を繰り返すのかと言えば、まさに日本的神観の最大の特徴が、自我に内在し吸収され解消され得るという点にあると思うからです。たしかに西洋では、人間の外に存在する絶対的実在としての神イメージが強くなり過ぎて、西田幾多郎氏ではないですが、君主的神観とさえ言えるほどの非情なイメージになったようで、それも擬人神観よりかはマシだと自分などは思うのですが、形而上学的神観は聖書的な父親神観から遊離していることは確かでしょう。私が言うところの絶対神信仰では、絶対者といっても単に絶対君主のような支配者的・高圧的イメージではなく、むしろ聖書の「放蕩息子の父」とか「霊の父」といった愛ある訓練者的イメージが中心になります。
ところで、西洋における行き過ぎた絶対者神観といった背景もあってか、バルティアン神学者の小川圭治氏などは「絶対」なる神という観方を嫌悪し、野呂芳男氏は「絶対的なもの」(the Absolute)と「究極的なもの」(the Ultimate)とを区別し、前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うならその「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ない などと言っております(野呂芳男著『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』ぷねうま舎 p335、「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於. 立教大学チャぺル参照)。
残念ながら改革派の神学者にも「絶対」は哲学的表現ということで否定的な人がいました(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版社⦆p47参照)。ウェストミンスター信仰告白と大,小教理問答書の中でも、神について「絶対」と言われているのは「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」だけであり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しません。
「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」(ETV「こころの時代~自己相対化の大事な鍵~」)fc2.com
ここが、絶対神信仰のメンタルヘルスにおける意義としては特に重要なところであり、自分の所属集団とかその中の他者など、人間関係の現実の中で自分にストレスを加えるもの(=ストレッサー)は絶対化され偶像として脅威となるので、これを相対化するためには、自分を超えた存在を絶対化しなければならないわけです。だから、「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして」…などと観念的なことが言えるのは、この人がまだ現実に追い込まれてはいない…救いの必要に迫られてはいない…精神的に余裕ある状態にあるからだと思います。私などの場合には、「絶対的な存在としての神、その実在を信じる」以外に現実的救いはあり得ないのです!そして相対化されるべきは単なる「自己」ではなく、世俗的価値観にもとづく諸々の「偶像」であり(…たとえば、何らかの理由から自分が怨憎会苦を抱き「敵」とみなす他者)、その偶像に脅威を抱き苦しんでいる「自己」であり、その偶像との「関係」でなければなりません。
私自身は、信仰対象である神について「絶対」という言葉を用いますが、それは信仰告白の表現としてだけではなく、形而上学的にも「絶対」で「無限」で「唯一の実体」である創造神が、啓示において自己相対化…自己対象化した姿が聖書に描かれ物語られている神だと信じているからです。ある意味、聖書に示された神はストーリーテラーです。その意味で神が自己啓示として御自身を物語られた聖書はまさしく神のことばなのです。歴史的現実に関わる神は相対性をかかえて全能を制限している有限神です。それが聖書の神エホバ(ヤハウェ)であり、教義的には創造と摂理の御業をなされる聖定の主であり、父と子と聖霊の三一の神ということになります。これは本来、霊であり絶対の空であり無相なる神が自己相対化することによって生じた物語の上での有相であり実相ではありません。父とか子とか…、生まれるとか発出するとか…、そういうもの言いからして比喩なのです。
人格神信仰の場合、精神的に余裕ある人は神義論に陥りやすいし、観念的であるがゆえにへたをすると無神論にまで陥るおそれがあります。その場合、渡邊二郎氏の次の言葉は有効です。
「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』放送大学教育振興会 p226)
これはアランの「礼儀」に関する思想について書かれたものですが、宗教思想にも応用できる普遍性のある言葉だと思います。
私見では、「神」について「要(い)る」を選択することにより、論理のコペルニクス的転回が起こって、「神」が「居(い)る」から人間がそれを望み得るのだ・・・ということになり、「居(い)る」が「要(い)る」に先行するのです(私の造語で「『神』の逆転先行の論理」という)。
ところで、量義治氏は次のように述べておられます。
「神は実在するかしないか。有神論か無神論か。この二律背反は哲学的には解決できない。すなわち、思弁的にも実践的にも解決できない。いかにもカントは、有神論の正しさは思弁的には論証できないが、実践的には論証できることを示したかのように思われるが、けっしてそうではない。『 神います』というのは、人間カントの哲学以前の信仰であり、その哲学はこの信仰をロゴス化しているにすぎないのである。フォイエルバッハの無神論もその哲学的探究の結果ではなくて、前提なのである。いずれにせよ、己自身で決断しなければならない。いずれかに賭けなければならない。」(量氏前掲書 p172)
北森嘉蔵氏は次の言葉を発しておられます。
「オットーが愛用した言葉に、『絶対他者』という言葉があるわけです。これはいかにしても人間と混合されない、実在的他者ということですね。しかしわたしは、そういう人間とどうしても一緒にならないような神と伝統的な考え方は、キリスト教にとっての必要条件であるけれども、十分条件ではないと思うのです。それがなければキリスト教にならないけれども、それだけでもキリスト教にはならない。キリスト教というのは、絶対に人間と違うはずの神が人間になったということですから、人間になったという点では、隔絶ということは、乗りこえられている。しかし人間が神になったときに、それでは神も人間もなくなって、何か合金みたいなものになったかというと、そうではない。論理化すれば、二によって媒介された一とでもいったらいいかと思うのですが、そういう媒介的な思考がキリスト教の特色じゃないでしょうか。」(北森嘉蔵著『宗教を語る』UP選書 p29 )
「キリスト教というのは、絶対に人間と違うはずの神が人間になったということ」だそうです。これは「相対の絶対化」または「絶対の相対化」という愚かさの点では、日本の「人間が(死んで)神になる」という宗教と大差ないと思います。
ところで、御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ 4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」⦅P338~⦆、「三 子なる神」の2⦅P345~⦆)
この矢内原氏のアタナシウス説についての理解は必ずしも信用できません。と言うのは当時は教理研究の資料は限られていただろうし、以下の北森嘉蔵氏のアタナシウス説についての理解と相反する内容だからです。
「アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(北森嘉蔵著『神学入門』新教出版社 p52~55)
仮に、矢内原氏が言っておられるような御父と御子との関係における大小の区別があるとしても、それは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない……というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。
但し、聖書が示す神を「唯一(絶対)」だと信じるだけでは信仰生活にはならないことは、ヤコブが「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ 2:19)とシニカルに批判しているとおりです。それはあたかも自分のような観念的で行動が伴わない傾向のある人間に対する戒めのようにも感じられます。従ってその信仰は隣人愛を中心とした生活実践を伴わなければなりません。自分の場合は現実経験から性善説の隣人観を採らないので、それは理想主義的なキリスト教の教えとは合致しませんが、隣人という名の他人にも参考になる処世術になり得ます。すなわち、人間関係における自衛のための戦いとしてです。若い時の格闘技の経験が、高齢者になっても自信を深める手段として最も有効なのかも知れませんが、今さら自分はそういうわけにもいかないので、宗教的に自分の体と心と霊とを守るための戦いを考案したのです。それは主として、フィジカル面ではなくメンタル面での健康法ということになります。それが「絶対神信仰治療」と名付けた心理療法であり、セルフ治療の一種として企図したものです。その成果は「証し」を通して、自分と同じような問題を抱える隣人の救いに奉仕することができます。ではその「絶対神信仰治療」とはどのようなことなのか…ですが、前にも書いているとおり、社会生活において自分にストレスを加えるもの(=ストレッサー)は絶対化され偶像として脅威となるので、これを相対化することが当人にとって最も現実的な救済ということになります。その方法として絶対者としての神を信仰する…ということがあるわけです。一般的には、対象は必ずしも「神」と云われるものでなく「天使」でも「霊」でも「仏」でも何でも良いのですが、要は当人にとって自分を超えた存在として意識されなければならず、さらにそれを絶対化しなければならないわけです。その絶対化した超越者との関係に立つことによって、自分を苦しめるあらゆる関係を下に見て無力化することができるというわけです。卑近な例をあげれば日本という敗戦の小国が勝者である大国アメリカとの軍事同盟の後ろ盾を得て、中国や北朝鮮などの脅威に対向し得てきたようなものです。聖書の神が「万軍の主」という軍神的な面もあるのはそのようなイメージで受けとめることができます。但し現実には後ろ盾となる存在に絶対はありません。どんな大国・強国であってもしょせん人間の集まりであり人間のやる事ですから相対性を免れ得ないのです。しかし個々人の生命は絶対です。絶対である生命とおまかせできる相手は相対的存在としての人間ではあり得ません。それが上記の「自分を超えた存在=超越者」の意味です。だから再度の引用で恐縮ですが、「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」(ETV「こころの時代~自己相対化の大事な鍵~」)という言葉を発している人が、「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして」…などと観念的なことを言い得ているのは、まだ個別的限界状況に追い込まれてはいない…、現実に救いの必要に迫られてはいない…、精神的に余裕ある状態にある…、ということだからです。私のような気弱な人間は切羽詰まった心理状態に追い込まれると、「絶対的な存在としての神、その実在を信じる」以外に生きる希望は感じられなくなるのです。そして相対化されるべきは単なる「自己」ではなく、世俗的価値観にもとづく諸々の「偶像」(…たとえば、何らかの理由から自分が怨憎会苦を抱き「敵」とみなす他者との関係)に脅威を抱き苦しんでいる「自己」なのです。いわゆる知識人のエゴイズムの苦悩というような高尚な事柄ではなく、まさに原罪を抱えた個人としての苦悩が切実な問題となるのです。そしてその解決方法は具体的に言って、自分で自分の認知の仕方を変えるしかないのです。認知療法では、対人関係などでトラウマになるようないやな体験をした時に自分の中に生じる「自動思考」を省察し、これを柔軟な考え方に変えることによってストレスの衝撃を軽減しようとするそうです。「自動思考」に影響を与えるものが「スキーマ」であり(schemaで独語読みはシェーマで元々、図や図式を意味する)、そこから生じるものが「認知バイアス」(物事の解釈)です。スキーマが自分の思考傾向を形成する図式ひいては思考の元になる価値観だとすれば、その価値観から偏見(バイアス)が生じてきます。そして何かあると瞬時に脳内に生じる思いやイメージが「自動思考」であり、それが様々な感情を生んで行動へとつながるのです。性善説も性悪説も共に本人の価値観でありスキーマです。いずれも一長一短があり優劣左差はありません。要はそれが社会に適応するか否かです。自動思考を修正しても、また新たな自動思考が生まれてしまっては意味がありません。抜本的解決のためにはスキーマを変えるしかないのです。それはいかにして可能でしょうか?人それぞれだとは思いますが、自分の場合は宗教なしには考えられません。「神」という絶対者との関係を体験してこそ、スキーマであれ認知バイアスであれ、自分の心の自由を束縛しているものを相対化し無力化することによって、自分自身をラクにすることが可能になります。もちろんそれは自力によることではなく、聖霊の他力によってこそ可能となります。トラウマを生じた最悪な場面のフラッシュバックも消えてゆくのです。しかし一般的には臨床心理学が無宗教・無神論を前提とする限り、まさにその意味では現代科学と言えるのかも知れませんが、実際の効果はたかが知れているのです。やはり心をあつかう営みは、多かれ少なかれ宗教的要素を必要とします。心理療法者が無宗教・無神論であっても、最低限度の宗教に対するリスペクトは必要だと思います。人間の精神世界においては「霊」の実在を認めなければ、障害の根本的治療や問題の根本的解決には至り得ないと確信します。
以下、信仰治療という観点から以下、web上で検索される論文を参照しつつ、ウィリアム・ジェームズの思想に少しふれます。
ジェームズは、「人は心の持ち方を変えることによって人生を変えることができるということ、これは私の世代の最大の発見である。」(The greatest discovery of my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes.)と述べたそうで、当時流行していた「マインド・キュア」、すなわち精神の持ち方によって病気を克服するという一種の信仰治療運動を自身の「一度生まれの宗教」として肯定的に評価したとのことです。しかし問題であるのは「二度生まれ」の型の人であり、彼らは世界の悪の側面を知ってしまったため、安らぐことのない「病める魂」の苦悩の持ち主です。彼らが救われるためには回心による「二度目の誕生」が必要ということになるとのこと。それはともかく、ジェイムズの宗教観においては「親密さ」が決定的な要素となっているので、「神に必要な属性は絶対性よりも親密さ」ということになり、個別的宗教観には共感できる部分もありますが、なにせ「唯一絶対の神」を否定したそうです。ジェイムズは神的なものを、あくまでも個人に向き合い、その個人を救うものと考えたので、救済はあくまでも個別的に、その個人の私的な危機にふさわしい形で与えられる、いわばオーダーメイドの救済という観方をしたのだそうです。多神教的ということではなく、拝一神教的ということかとは思いますが、それなら「唯一絶対の神」と矛盾するものではありません。いずれにせよ、自分の絶対神信仰治療の参考として、ジェームズの宗教思想を学ぶ意義はありそうです。
(林研氏の学位請求論文「ウィリアム・ジェイムズの宗教思想 ―科学時代の救済論として― 」)※「VRE」は、The Varieties of Religious Experience , 1902. のこと。「PU」は、A Pluralistic Universe , 1909.
ここで、前述で予告したとおり、カール・バルトの啓示観に関する改革派神学者・ベルクーワの見解についての解説を参考資料として引用します。
「カール・バルトをはじめとする弁証法神学者たちは、キリストだけが啓示である、人間はキリストにおいてだけ神を知るという、いわゆるキリスト論的集中(Christ-concentration)啓示観をとても強く主張した。神の啓示はキリスト以外にない、キリストだけだと強く主張し、キリスト以外の一切の啓示を認めないが、その主張が正しいかどうか、ベルクーワは検証する。そして、結論的に言えば、バルトをはじめとする人々のキリストにしか啓示がないと言うのは行き過ぎで、神の啓示はキリスト出現以前の旧約時代の預言を通してもあったので、とても受け入れられない。キリストだけに啓示があると主張すると、キリスト出現以前の旧約聖書において、あるいは、旧約時代の啓示がなかったことになってしまうが、そんなことはない。神はヘブライ1:1、2前半で語られているように、旧約時代の昔に、いろいろな方法で先祖たちに啓示していたのである。したがって、バルトをはじめとする人々のキリスト以外に啓示がないというのは、聖書に即していないという結論となる。とても説得的でよい。(中略)ベルクーワはキリスト論集中の啓示理解について、どのように考えるのかを見よう、バルトは、1927年に書いた『神学序論』(プロレゴメナ)において、イエス・キリストは、『神の啓示の現実的出来事であって、イエス・キリストは単に神の啓示でなくて、神御自身であり、それによって、神が歴史化した啓示である』と語って、イエス・キリストだけが啓示であることを強く主張した。(中略)バルトにとっても自然と歴史における神の啓示活動はないし、また、さらに、旧約時代における神の啓示あり得ないことになる。すなわち、歴史において一回的に受肉した御言葉以外には、他のいかなる真の啓示もあり得ないというのが、キリスト一元的啓示概念(Christmonistic conception of revelation)になるわけである。そこで、同じキリスト一元的啓示観に立つエミール・ブルンナーも、次のように言う。(中略)イエス・キリストだけが啓示であるので、イエス・キリストが出現しない旧約時代は預言者がいても、真の啓示がないという考えである。旧約時代は、啓示の影の時代である。すなわち、バルトもブルンナーも、歴史上に一回的に出現したイエス・キリストは、受肉による和解と考えるので、和解はイエス・キリストだけにしかない。旧約預言者には、受肉による和解のわざはできないので、旧約時代には啓示がないことになるし、啓示がイエス・キリスト以外にも多数な仕方で与えられたことを否定する。(中略)ベルクーワは彼らの考えはおかしいと言う。何故なら、聖書は、イエス・キリスト以外にも啓示があることを自由に語っているからである。聖書はキリスト以外にも多様なかたちで、神の啓示がなされた歴史、すなわち、旧約時代を語っているからである。そこで、ベルクーワは、ヘブライ1:1、2を根拠にして、キリスト以外にも、すなわち、旧約時代に啓示があったことを語る。(中略)ヘブライ1:1、2は、『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』である。ここは、啓示の歴史的進展、そして、啓示の完結、頂点が語られている。(中略)ヘブライ1:1、2は、明白に旧約時代から神の啓示があったことを語っている。イエス・キリストにおいて完結し、頂点に達したことを教えている。したがって、イエス・キリストだけが啓示であるという考え方は誤りで、自分勝手な考えになる。(中略)ヘブライ1:1、2だけでなく、旧約聖書を見ると、聖霊による啓示があったことがわかる。たとえば、サムエル下23:2で、『主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。』と言っていることからも、旧約時代に啓示があったことが十分わかる。また、ペトロ一1:11(中略)キリストの霊、すなわち、聖霊が旧約時代の預言者たちを通して、啓示していたことがはっきりわかる。すなわち、旧約時代時代には啓示が幾らでもあったのである。したがって、イエス・キリストにだけ啓示があるというのは成立しない。」
※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ベルクーワ教義学の紹介と解説 Theology of Berkouwer 『教義学研究シリーズ』(全14巻)の「ベルクーワ神学の紹介と解説」の「5.ベルクーワの著作の紹介」の「第5章 キリストの啓示は排他的か」より。minoru.la.coocan.jp/berkuwergeneralrevelation5.html < 私たちもオランダ改革派のH・バービンクに倣って聖書はキリスト証言と考えます(『まじわり』九月号拙論参照)。それ故、バルトも私たち改革派もどちらも聖書はキリスト証言と言います。しかし、同じ言い方をしても両者は意味が大きく違います。私たちが聖書はキリスト証言と言う時に私たちは当然のこととして聖書は霊感の故にそのまま、直接的に神の言葉であり、啓示であると考えています。しかしバルトは違うのです。彼は聖書はそのまま、直接的に、即座に神の言葉、啓示ではなく、受肉した神、イエス・キリストだけが神の言葉であり、啓示であると考え、聖書は神の言葉、啓示であるキリストについての人間的文書とするものです。勿論、私たち改革派も聖書が人によって書かれた文書であることは十分に認めます。しかし、聖霊の霊感によって与えられたので、聖書がそのまま、直接的に、即座に神の言葉であり、啓示であることを確信して今日まで来たのです。いずれにしても、こうしてバルトは聖書と啓示(神の言葉)を区別するのです。バルトが、聖書と啓示(神の言葉)を区別する誤りをしたことについては、改革派神学者のクラース・ルーニアの『カール・バルトの聖書についての教理』(1962年)において詳述されています。(中略)さて、ではバルトはどうして啓示はイエス・キリストだけであると考えたのでしょうか。実はそれにはドイツの教会闘争と言われる当時のドイツの神学の状況と深い関わりがあったのです。ドイツの教会の中にはヒットラーに率いられるナチスの出現に、ドイツ民族を救済する神の意志、神の啓示を見て、ナチスを翼賛していくドイツ・キリスト者が生じてきました。そこでバルトはこのドイツ・キリスト者の神学と対決するために、神の啓示はキリストだけに現われており、ドイツ民族の法や歴史には在り得ないことを強く主張したのでした。彼はこの根源的確信に立って1934年に6項目から成る『バルメン宣言』を書きました。そしてその第一項目には神の啓示はキリストだけであるとの彼の根本的確信が明白に表わされております。(中略)『聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉(啓示)である。教会がその宣教(説教)の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらにほかの出来事や力、現象や、真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければ ならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける』。こうしてバルトは現実の戦いの中で神の啓示はキリストだけであることを声高らかに宣言したのでした。私たちもバルトがキリストの教会のために最大限の努力をしたことは十分に評価したいと思います。しかし、そのような大きな理由があったにせよ、神の言葉(啓示)はキリストだけであるとして、聖書がそのまま啓示であること、文書化された啓示であることを認めなかったことは重大な誤りと言わねばなりません。改革派の神学者たちも、バルトの偉大な神学的貢献は認めつつも、次々とこの点を批判し始めたのでした。>
※以上、サイト「佐々木 稔 キリスト教全集 説教と神学」の「聖書の権威Ⅲ ―聖書の内容であるキリストとの関連で―」の「3.バルトの場合」の「(3) 聖書観 」より。minoru.la.coocan.jp/ksseishonokenibarth.html ここでの引用で特に私が重要であると感じる箇所は、言うまでもなく、なぜバルトが「聖書と啓示(神の言葉)」を区別し、イエス・キリストだけを「啓示」とするという過誤をおかしたのか?その極端な考え方に至った理由は何か?ということであり、それが「ドイツ・キリスト者」の神学ひいてはナチズムとの対決にあったということです。実にその点がバルト神学の最大の魅力でもあり、同時に最大の欠点でもあるということなのです。バルト神学が日本の神学者や牧師に広く浸透するにとどまらず、一般の思想家の中にも影響を及ぼし得た最たる理由は、バルト神学が単なる机上の空論のような言説ではなく、第二次大戦下におけるドイツのナチス・ヒットラー政権との対決におけるバルメルン宣言の起草といった歴史的事実とその功績に裏打ちされた生きた思想であったということは言うまでもありませんが、それがプロテスタントの中でもピューリタンの影響によって敬虔的傾向が強かった日本の福音主義教会におけるキリスト中心の信仰的立場にとっては絶妙な共感を喚起されたのでしょう。しかし単なる敬虔主義ではなく、信条・教理を重視する改革派教会などは、その神学の欠陥を冷静に観察し得たというわけです。その点は、バルト自身が改革派の流れに立っていたことを思うと皮肉な感じもして感慨深くもあります。ところで私は、バルトが自然(一般)啓示を斥けてキリスト特別啓示に一元化したこと自体は、神認識の点では共感できる面もあります。特に自分の場合は日本の多神教的汎神論の自然神観ないしは霊性感覚との対決を神学的思索の背景としているので、バルトがナチズムとの対決と反動から、カトリックの自然神学のベースになっている自然(一般)啓示を否定した主旨には賛同できるのです。しかし同時に自分は、佐藤研氏が下記の引用文で述べておられる「実体」としての「イエス=神」という信仰命題は完全に否定しておりますので、その点ではバルト神学において神の啓示を実体論的な見地からイエス・キリストに一元化する思考がなされていたとするなら、これにも真向から反対しなければなりません。しかもバルトの場合、啓示の分析から三位一体論を基礎づけたという面もあり、啓示の主体=神、啓示そのもの=キリスト、啓示が露わになること=聖霊というふうに言ったとのこと(八木誠一、秋月龍珉著『キリスト教の誕生 徹底討論』青土社 p151~152)。
「少なくとも、イエスを全能の神の『実体』として把握し、そのキリスト論への『信仰』を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)『私を通らずして父のもとに至る者はいない』(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。」(佐藤 研 著『禅キリスト教の誕生』岩波書店 p58~59)
私自身、佐藤氏と同じくイエスを実体として神であると認めることはできませんが、バルトが神認識の唯一の可能性としての啓示をイエス・キリストに特化し限定した動機には共感できます。それくらい神は本来、人間にとって不可知であり、ブーバーが「はじめに関係ありき」と言ったように生得的な神関係にある人々…イエスの「神の支配」の福音に縁ある人々…救われるべき聖徒として定められている人たちだけが、キリスト啓示の範囲内で神認識を可能とされているわけです。そして自分が仮にその聖徒の一人だったとすれば、かかるキリスト啓示はイエスを実体として神とみなすことではなく、つまりヨハネ福音書10:30とか14:9~11などは存在論的ではなく、イエスが神秘主義的に体験した父なる神との親密な関係性を表現したものであり、そのイエスと父なる神との「一」は八木誠一氏の言われる「実体的一」ではなく「作用的一」である…ということになります。「子は親を映す鏡」という諺があるとおり、イエスの父なる神に対する従順な生き様を福音書を通してみることにより、そのイエスの態度に現れたイエスの信仰とその対象のイメージが自分たちにとっては父なる神のイメージを形成します。従って、フォイエルバッハなどの言う投影…すなわち人格神観を偶像崇拝とみなすようなことは(…たしかに神の擬人化には注意が必要ですが)、まったく見当違いであると言えます。
現代は人権尊重が度を過ぎてイデオロギーとなって先鋭化し、それがキリスト教神学にも多大な影響を及ぼしています。憲法上は主権在民ではあっても、人間の主権は神の主権の絶対性のもとで相対化されるのです。ところが現代はその反対に、人権が絶対化されて神の主権が相対化され、「有限の神」だの十字架刑で「死にうる神」…「神の死」などといったことが云われています。
< 神の摂理の目的について、現今ひろくゆきわたっている誤った考え方は何か。
――現今、多くの人々がいわゆる「民主的な神」の存在を信じたいという。この神概念によると神は御自身の栄光のためではなく、その被造物の大多数の便宜と、できるだけ多くのものの最大の便宜のために、働く存在となってしまう。
「民主的な神」という考えをどのように考えるべきであるか。
――(1)この考えは聖書に啓示されている教理に反する。(2)これは偶像礼拝である。すなわち、礼拝の対象として人間の像に造りあげた神をあがめている。(3)「神の栄光は被造物一般の幸いを含んでいる」という真理を見落としている。個々の被造物の幸いではなく被造物一般の幸いである。
今日一般に支配的である非有神論的観点は、被造物とくに人間の幸福を一切のものの目的にしてしまっている。聖書の有神論的観点は、これに反して神の栄光をすべての被造物の目的にしている。聖書によれば、被造物(人間を含む)の幸福は主要なことがらではなく、神の栄光をあらわすことの副産物にすぎないのである。>(ヴォス師前掲書p80~81./p12~14参照)※「神は霊である」と「神は愛である」の意味については同書p40~41、118を参照。
このような過剰なる民主主義による相対の絶対化は、本来の絶対者である神を偶像化することにもなります。
< 神人合一のような「神の内在的方面」では人間中心主義から脱却できないと高倉は主張する。そもそも高倉の理解によれば、神と人間とは圧倒的に断絶しているので、贖罪抜きに内在はありえない。一方で、神と人間との境界を曖昧にすることは、人間に都合のよい、優し<救ってくれる神、イエスのイメージを抱くことにもつながると高倉は考える。それでは罪認識が曖昧となり、贖罪の意味が薄れてしまう。人間が罪人であるにもかかわらず、独り子を十字架につけてまで人間の罪を贖おうとした神の愛の重みがわからなくなってしまう。イエスの言われる父なる神とは、ただやさしいセンチメンタルな愛をもつ神という意味ではない。赦罪の父は、罪人をさばいで悔い改めしめるただ「義しき父」である (55 頁)。生まれながらの宗教心をもってしては、我らは神を真に父と呼び得ない、ただ主の十字架によって罪赦されて神を心より天の父と呼び得るのである (56-57頁)。さらに高倉は、近代的なキリスト教理解がイエスを人間としてとらえる結果、キリスト教の文化化が進むと批判する。循環的に、ますますキリスト教が人間中心的になっていくのである。イエスを単に預言者の一人、完全なる人と見て、その教訓にのみ重きをおいたり、彼をただ最高の道徳理想とみなしたり、彼の宗教意識に力をいれてこれに参ずることをキリスト教の中心問題のごとくに考えたりしては、その予想するキリスト教は単なる倫理教になるか、または高尚な文化的宗教の程度になるか、もしくは神秘主義の一種になってしまう (62頁)。イエスを道徳理想とみなす、というのが具体的にいかなる立場を指すのかは不明であるが、社会的キリスト教の立場が含まれている可能性も考えられる。愛を実践するためには贖罪体験が不可欠であると主張する高倉にとって、社会的キリスト教もまた批判の対象である。米国輸入のいわゆる社会的福音を説くキリスト教がいかに浅簿な功利的なものであるかは申すまでもあるまい (17頁)。高倉の批判する「社会的福音」が、たとえば賀川豊彦の取り組み等を念頭においたものであるのか、はっきりとはわからない。1920年代という時代背景を考えると、社会主義思想と呼応するようなキリスト教社会運動に対する警戒があるとも推測できるが、高倉は固有の人名に言及していない。高倉によれば、いわゆる社会的キリスト教には「キリスト教の本質とは神の独り子イエス・キリストにおいて、神と交わること」「これを浅く解して、イエスの説いた教訓を実行することが、キリスト教の中心であると考える者がある」。その結果、「全力をあげて神を愛し、隣人を愛することがキリスト教であるとなす」のだが、「これがキリスト教であるならば、キリスト教は単なる道徳教になってしまう」(135 頁)。先にも見た通り、神による贖罪の恩寵を体験していない人間は、神を愛し人を愛することはできないというのが高倉の人間観なのである。>岩野祐介氏の論文 Kyoto University Research Information Repository: 高倉徳太郎の『福音的キリスト教』と自由主義神学批判 (kyoto-u.ac.jp)
私見では現代の日本の福音主義教会において高倉徳太郎牧師のような本格派の教理的説教者として稀有な存在であられる川島隆一牧師は言われます、
<「十字架のキリストを拒否する者たちは、現代の教会にも見られます。社会福音派です。社会福音派のロマンチックで進化論的な神の国の考えは「……十字架、復活などの全面的な否定」なのです。彼らの神は、人間の理想的属性を具現化した愛と憐れみという存在です。そのような風潮の中で、イエスに関する伝統的な救済論的な理解、いわゆる贖罪信仰は消え去さり、「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」のです。>バビロンの流れのほとり ホスティア−2 「闇に輝く光」
< 痛恨に耐えないのは、現代の教会が直面している最も深刻な問題の一つ、「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」ことは、聖書批評学が新約聖書に対して重い問いをつきつけているところから発生していることです。キリストの十字架による罪の贖いを不必要な神学の一片として、同情的イエスに取って代わってしまった社会福音派は言います。
「罪の意識が去ったのではなく、その形を変えているだけである。私たちは、社会的罪に対して、より敏感であるために、個人的罪に対して、多少は鈍感になっているだけであり、個人の悔い改めの代わりに、公けの良心的罪責を負っているのだ」と。公けの良心的罪責は、神の国の最も重要な義にあずかる赦しを求めないで、社会の改良や改革を追求するというのです。
私たちが今、現に生きている世界は、産業革命以後の、科学・技術文明の時代です。ヤスパースは『歴史の起源と目標』で、科学・技術の時代を、「精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降」にあると言いました。現代ほど、人間の社会的な苦難が広範囲にわたっている時代は、歴史上かつてなかったように思います。虚無、憎悪、破壊意志、そして貧困、病気、犯罪等による社会的混乱が、かつてないほどの規模で広がっているのです。前例のないくらいの規模で、人間が他の人間の犠牲になっているのです。世界の多くの国々において、周縁に追いやられたグループが積極的に、否、受動的にさえ社会に参加する道は閉ざされています。人間同士の関係は崩壊の一途をたどっているのです。キリスト者として、これらの全てに変化をもたらすことが、救いを伝えることに他なりません。しかし、最終的な救いは、たとえキリスト者の手であろうとも、人間の手によって、つまり政治的、経済的、社会的にもたらされるものではないのです。キルケゴールは、政治的なものの物の見方と、宗教的なものの物の見方は、その出発点や最終目標において、天と地ほども違うと言います。〈人間−平等〉を、最後の帰結まで一貫して考え抜くこと、あるいは実現することは、いかなる政治にもできたためしはないし、いかなる政治にもできることではなく、いかなる世俗性にもできたためしはないし、いかなる世俗性にもできることではない、と。ただ宗教的なもののみが永遠性の助けをかりて、〈人間−平等〉を、最後の最後まで徹底的に遂行できるのであり、それゆえにまた……宗教的なものが真の〈人間性〉なのである、と。「メシアはこういう苦しみを経て、栄光に入るはずではなかったのか。」この言葉から明らかなように、キリスト教の終末論的な救いのビジョンは、歴史において現実化することはないのです。ヘブライ人への手紙の著者はそれを次のように語りました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです!」ヘブライ人への手紙の著者は、神がアブラハムに約束された土地約束とは「天の故郷」であるとしたのです。そしてヘブライ人への手紙の著者はこの後13章で、この天の故郷は、一つの祭壇、十字架のキリストにおいて実現したと語るのです。然り、救いは、改良や改革を追求することによってではなく神の国の最も重要な義にあずかる赦しを求める悔い改めと個人的な信仰の献身、天の故郷への熱望を他にして、やって来ないのです。言い換えますと、「教会の宣教活動」の主要な目的は、単に教会の数を増やすこと、あるいは魂を救うことではあり得ないのです。それはむしろ、ミッシオ・デイ、神が人間の罪を贖うため御子を遣わされた宣教に仕えることでなければならないのです。つまり、世にありながら世に対して神を表わし、神を指し示し、そしてエピファニー(顕現)の絶えることのない祝宴の中で、世の人々の目の前に、十字架につけられた神の御子の姿で掲げるのです。>バビロンの流れのほとり 「政治と宗教」
「3 神がすべての人類を罪と悲惨の中に滅びるままにしておかれなかったのは何故か。―― それは唯、神の愛といつくしみの故である。神は人類の中のいかなる者をも救うという義務は全くもっておられない。しかし神の愛といつくしみの故に、ある者を選び救いに与らせることをのぞみ、計画されたのである。 4 神が罪と悲惨の状態から救い出されるのは、人類の中のどのような者たちか。―― 神は選民すなわち神が永遠のうちに、救いと永遠の生命を受けつぐ者として選んでおられた人々を救われるのである。 5 神は選民のみを救って、他の人類をみすごしにされるのは不公平であり、不正ではないか。―― そうではない。神はいかなる者にも救いを提供する義務を負うてはおられないから、不公平でも不正でもない。すべての人類は神に対して罪を犯した。そしてすべての権利を失っている。神は彼らに対してさばき以外の何事も負うてはおられない。神がある者を救いに選びたもうとき、これは義務の問題ではなく、全く自由な賜物である。確かに神がある者を救いに選び、他の者をみすごしにされることは平等ではない。しかしそれは決して不公正ではない。なぜならば、神は御自身に対して罪を犯した者たちの中のだれをも救う義務はないからである。」(ヴォス師前掲書 p121 )
「福音を聞いたことがない人々を神が定罪されるならば、神は人類をとりあつかうのに不公平であるということにならないか。
―― たしかに不公平になる。すなわち神はその主権に従って他の人々には与えたまわぬものをある人々に与えられるのである。同じことが神が健康や知性や繁栄やその他の人生の祝福を与えて下さることについてもいえる。神はその摂理によって他の人々にはお与えにならぬものをある人々にはお与えになるのである。たしかに不公平である。神はすべての人々を同じようにはとりあつかわれないのである。神はある者を他の者よりよくとりあつかわれるのである。聖書はまさにそのように教えている。しかし、これは不公正ではない。何故なら神はだれにも祝福を与える義務を負うてはおられないからである。神が行動される理由が何であるにしても、それは救いを受ける人間の性質や正義に基づくものではないのである。選ばれた者が罪から救われて、生命へ入るのは、純粋に受けるに価しない恵みによるのである。」(p216)
「6 悪人たちは審判の日に、自分たちが不公平にとり扱われると感じるだろうか。
―― 決して感じない。彼らが神に対していささかの愛ももたず、又、神のめぐみについて、すこしも感謝を持っていないとしても、彼らは自分の良心をもって、神がその正義にしたがって、自分たちを厳密にとり扱って下さったことを知るのである。審判の日には、神の完全な正義が最終的に、すべての被造物の前に確立される。そして、すべてのものが神は義しいと告白するのである。神は不正だと神を非難しつつ、自分の生涯を送った人々も、自分の心の中で、神は義しいということと、自分たちが悪いということとを認識するにいたるのである。」(p345~346)
私は以下の、芳賀力氏の論文「福音としての神の人格 一 擬人法は稚拙な神表現か 一」におけるドロテー・ゼレの神観(~未翻訳の著書『代理』。副題は「神の死後の神学の一章」)に対する(…ひいては、私見では川島隆一牧師の言われる「社会福音派」に対する)批判に賛辞を惜しまない。
< ゼ レ にとって神はもはや直接的なあり方では現存しない 。伝統的な有神論の神が死んだ後の時代にあって、神はむしろ偉大なる隠匿(lnkognito)の形で、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人」(マタイ25:40)において存在する。 一人の人間が他者のために存在し他者を代理しているところに、他者のために存在し他者を代理する神が存在する。人格的な神とは、この世において他者のために存在し他者を代理する人間的な行為に付けられた暗号である)。しかし、そうなると神は、隣人関係における人格的な行為や出来事の別名にすぎなくなる。超越的な神が結局は対人関係の中に解消されてしまう。キリストも、代理するという愛の行為の記号でしかなくなる。福音としての新約聖書の使信(ケリュグマ)も、キリストの出来事にではなく、キリストの出来事に重点が置かれ、(引用者の注:前の方の「キリストの出来事」の「キリスト」の4文字に傍点あり、後の方の「キリストの出来事」の「出来事」の3文字に傍点あり) キリストがケリュグマの内容であるというのではなく、キリスト抜きにも実現可能なケリュグマだけが重要となるに至る。イエスはただこの本来的実存の成立に寄与した歴史上の一人物にすぎなくなる。人格主義的な神理解をあまりに人間学の方向に引き寄せて展開しようとすると、こうした極端な過ちに陥ってしまう 。そのような神理解は結局、神学の人間学への解消であり、フォイエルバッハの宗教批判のまさに的中するところとなる 。宗教とはフォイエルバッハによれば、人間がその有限の自己を無限のスクリーンに投影しようとする行為であり、神論とは人間論の別名に他ならず、そこでは神が自分の形にかたどって人間を創造しているのではなく、人間が自分の形にかたどって神を創造しているという逆転が起こっているのである。>(福音としての 神の人格)