メリトイテスの経歴
本稿では、メリトイテスの経歴を述べる。ただし、述べ方にも色々あるだろう。そこで、本稿では、第一に彼女の経歴の要約を記す。そして、その次に彼女の身に起こった出来事を(大まかながら)彼女たちの標準的な民衆暦を使用して記述する事とする。
ここで、簡単に古代エジプトの暦の説明をしておこう。まず彼らの暦には、増水期(アケト)と播種期(ペレト)と収穫期(シェムウ)の三つの季節がある。これらの各々に4つの月があり、合計12ヶ月。そして、収穫期の最後の12月の後に5日を付加日とした365日で一年となる。このとき、一月は30日ぴったりで、この30日は10日ごとに一週間3週間で構成されている。だから、その表記は「〇〇期 第〇〇月 第○週 ○日目」とした[1]。
だが、これだけだといったい何年の事なのか分からない。そこで、本稿ではこれを表す為に、「王の治世何年」といった具合に王名を含む元号を併せて用いる。実際こうした元号は古代エジプトの祭礼暦において使用され、王が即位した日から数えられた即位名がそのまま元号として使用されたそうである[2]。
【経歴の要約】
ウセルマアトラー・セテプエンラー王[3] の治世の66年に生誕。バエンラー・メリネチェル王 [4]没後に最終人類史(安全な場所)に退避しようとして失敗。TOKYOエゼキエル戦争に流れ着いてしまう。そこで、大天使サリエルに憑依合体を仕掛けられるも、辛うじて撃退。再度最終人類史へと退避を試み、これに成功。最終人類史に到着する。
【大まかな経歴】
王の治世の66年、収穫期の第4月第3週7日
メリの国[5] のシェマウ地方、ウネト州の都市クムヌ[6] にある自宅、つまり堀を巡らした広い敷地内に、床面レベルを地面からやや立ち上げて立てられ、周囲に附属施設として穀物倉庫や調理場、家畜小屋、使用人の住まい、井戸、庭園、池、礼拝堂などを備えた感じの邸宅で誕生[7]。
王の治世の1年、増水期の第1月第3週7日[8]
増水期の第1月第2週の9日の頃に、王がペル・ラメセス[9]で即位したと聞く[10]。マアトが再確立されて嬉しい。皆そう言っていた。
王の治世の2年
ケミィト[11]を読み始める。アメンエムハト王[12]の時代の言葉で書かれている書簡の挨拶文とか、墓の碑文に使われる決まり文句なんかの例文が色々乗っていた[13]。
王の治世の3年
シヌヘの物語[14] にはまる。暗唱できたのが嬉しいのか、日々の会話に引用が交じる。同年代の大半の子供から煙たがられる。あいつ何言っているのかわかんねーよ、もうあいつと遊ぶのよそうぜ。
王の治世の4年、播種期の第2月の第1週8日
川辺で遊んでいるとき、友達ができる。ただ、その友達は自分より学習が進んでいた。それで、友達に古い碑文[15] が読めないのか、と煽られる。怒りの学習開始。序に、日常語[16]の読み書きも学んでおく。
王の治世の5年、収穫期の第3月第3週3日
収穫期の第3月第1週3日頃、王が国に侵入してきたチェヘヌウ人との戦いで勝利したそうだ[17] 。エヌマ・エリシュ[18] を読む。何も関係ない気もするけれど、なんとなく。あと、友達がエヌマ・エリシュの引用を繰り出してきて、それを知らないとわかった途端嘲笑ってきたのが気に食わなかった。だから、あいつ友達いないのよ [19]。
王の治世の6年
王宮が不穏。王のその身体の息子[20] とメッスイさん[21] を中心に何か起こりそう。王が地平線に昇っていないうちは何も起きないだろうけれども……。
王の治世の7年
何も起きていない。杞憂だったみたい。
王の治世の8年
父がいなくなった。
王の治世の9年
なにもなかった。
王の治世の10年、播種期の第1月第2週1日 [22]
今年の増水期の第4月第3週3日の頃(つまりはセケルさまの道を用意する頃)と聞いたが、神がその地平線に昇った。両国の王バエンラー・メリネチェルは、天に上げられ、日輪と一つになった。神の肉体はかれをつくった者の中に吸収された。王都は沈黙の、人々の心は悲しみのうちにあり、2つの大門は閉じられたままとなった。延臣たちは膝に頭をつけて蹲り、人々は嘆き悲しんだ。
王の治世の1年、播種期の第2月第1週3日から第3月第1週10日の間
播種期の第1月第3週9日から第3月第1週6日の間[23]に、ウセルケペルウラー・セテプエンラーは、その正義を証明し、天へと召され、太陽円盤と一体となった。彼を作った神の体が、彼とひとつになった。次の夜明けが訪れると、太陽円盤は昇り、空は明るくなった。両国の王ウセルケペルウラー・セテプエンラーが父の王座に昇った。
でも、あれ……?皆から聞く即位日がばらばら……?それ以外にも、なんだか日付が……いえ、精度の問題のはずよ。でも、もしかしたらって事もあるし、神殿[24]に報告しなきゃ。
王の治世の1年、収穫期の第3月
大変な事態になった。侵略が始まったのだ。兄たちが戦いに向かうなか、私もそこに立っていて、彼らが敵について話すときその声を聞いていた。私はそばにいた。一方で、私の心は乱れ、私の腕は広げられ、手足全体に震えが落ちていた。その震えを抑えながら、ほとんど咄嗟に、自分で隠れ場所を探すため、ただちにその場を離れた。一番上の兄には見つかってしまったけれども、それはだいたい上手くいって、逃避行が始まった。
王の治世の??年、収穫期の第4月?
どこよここ。変な生き物までいるじゃないの。しかも、ぜんぜん安全じゃないし。さては失敗したわね?
王の治世の??年、増水期の第1月?
新宿到達。
【参考文献一覧】
文献
ウェブ
詳しくは村治笙子(2021)の54から56ページを参照。また、岡沢秋(2022)の「古代エジプト暦とエジプト祭儀」も参照。 ↩︎
村治笙子(2021)の57ページ参照。 ↩︎
ウセルマアトラー・セテプエンラー王はラメセス二世の即位名。Peter A. Clayton(1994)の146ページ参照。 ↩︎
バエンラー・メリネチェル王はメルエンプタハの即位名。Peter A. Clayton(1994)の156ページ参照。 ↩︎
メリの国はタ・メリの翻訳で、この語はメリトイテスたちが自国を呼ぶときに使用していた語である。このメリには運河や洪水という訳語もあるが、しかし何に基いてそう訳しているのか判然としない。詳しくは『古代エジプトの動物 要語の語源つれづれ』の18から19ページを参照。 ↩︎
シェマウは上エジプト、ウネトはシェマウにある15番目の州、クヌムはその州の都に当たる。松本弥(2015)の24から25,52から53ページ参照。また、この都市の位置については、岡沢秋(2014)の「主要都市データ/ヘルモポリス」も参照。 ↩︎
詳しくは、遠藤考治(2002)やSteven Snape (2015)などを参照。 ↩︎
ペル・ラメセスは当時の王都である。この注では、この王都とクヌムの位置関係を説明する。だが、その前に北から南に次の導線があることを確認しておきたい。海岸から7日でヘリオポリス、ヘリオポリスから9日でテーベ、テーベから4日でエレファンティネである。そして、この導線のなかの、海岸からヘリオポリスの間に王都が、ヘリオポリスからテーベの間にクヌムが配置しているのだ。だが、これだけでは王都とクヌムの位置関係ははっきりしてこない。そこで、ヘリオポリスとテーベの2つの視点から王都とクヌムの位置を見てみよう。まず、ヘリオポリスから北へと3.5日の位置に王都が、ヘリオポリスから南に4,5日の位置にヘルモポリスが位置しているとしよう。また、テーベから北へと12.5日の位置に王都が、4,5日の位置にクヌムが位置しているとしよう。つまり、王都とクヌムの間の距離は8日、という事になる。参考にしたのは、ヘロドトスである。彼についてはJohn B. Hare(2022)参照。 ↩︎
バエンラー・メリネチェル王の詳細な即位年は、増水期の第1月第2週9日、あるいはその日から第2月第2週3日の間、もしくは第2月第1週5から7日の間、そして第2月第1週3日から第2週3日の間など多数ある。そして、没年は10年目の増水期の第4月のどこかだと思われるが、はっきり定まっていない。こうした議論はErik Hornung, Rolf Krauss, and David A. Warburton (2006)の212ページを参照。 ↩︎
ケミィトは中期エジプト語で記述されている。これは教科書の役割を果たしていた。その内容はStephen Quirke(2000)で見ることもできる。 ↩︎
『アメンエムハト一世の教訓』におけるアメンエムハト王の言葉。つまり、現代で言うところの中期エジプト語の事。内容については杉 勇、 屋形 禎亮訳(2016)の227から230ページ参照。余談だが、アメンエムハト王は第12王朝から13王朝にかけて都合七名ほどいる。アメンエムハト王がたくさんいる事は岡沢秋(2022)の「中王国時代」を参照すれば一目瞭然である。より詳しくは、Aidan Dodson&Dyan Hilton. (2010)を参照。 ↩︎
アメンエムハト王の時代の言葉はメリトイテスの時代には既に古典語だった。彼女たちは日常語よりも古典語の読み書きを優先して学習していた。こうした当時の教育については内田(2006)でも紹介されている。また、Lazaridis ,Nikolaos(2010)やJeff Hays(2018)も有用である。 ↩︎
シヌヘの物語は中期エジプト語で記述されている。杉勇、屋形禎亮(2015)の9から27ページを参照。 ↩︎
メリトイテスが言う古い碑文とは、古エジプト語で書かれたものだ。ピラミッド・テキストなどがこれで記されている。詳しくは、塚本, 明廣(2001,2002,2003,2004, 2006,2007,2008)を参照。 ↩︎
メリトイテスの時代の言葉は、新エジプト語(後期エジプト語)である。当時学校の教科書として流布されていたアニの教訓の新エジプト語訳などがその一例である。その内容については、杉勇、屋形禎亮(2015)の239から257ページを参照。 ↩︎
バエンラー・メリネチェル(メルエンプタハ)王がチェヘヌウ人(リビア人)と戦った日取りは次のURLから確認できる。小柳康子(取得日2022) ↩︎
エヌマ・エリシュはアッカド語で書かれている。ETANA(2008)においてアッカド語ではなく英語だが、その全文を読むことができる。 ↩︎
当時のエジプトと西アジアを中心とした国々の間では数多くの外交書簡が交わされていた。そして、その書簡はアッカド語で記されていたと言う。そのためか、エジプトの書記学校ではアッカド語を学ぶ事ができた。そうでなくとも、アッカド語の練習をすることができた。実際、1887年にアクエンアテンの都、テル・エル=アマルナの公文書保管庫「ファラオの書簡所」から発掘されたアマルナ文章総計350枚のうち32枚のスカラリータブレットのなかのいくつかは練習用である。詳しくは、斎藤麻里江(2022)参照。 ↩︎
王のその身体の息子はセティ二世が持つ称号の一つ。Aidan Dodson&Dyan Hilton. (2010)の邦訳の182ページを参照。 ↩︎
メッスイさんはメルエンプタハの時代のヌビア総督。セティ二世とその偉大なる妻の子。セティ二世はメルエンプタハの子供だから、メルエンプタハの孫という事になる。このあたりの細かい事情は前述のAidan Dodson&Dyan Hilton. (2010)の邦訳の176から180ページを参照。178ページには図もある。また、岡沢 秋(2021)も参考。 ↩︎
私は王の死がクヌムにいつ頃伝わったのか知らない。だが、ある程度割り出す事はできるように思う。だが、その前に確認しておかねばならない事が2つある。1つ目は、Erik Hornung, Rolf Krauss, and David A. Warburton (2006)の212ページを参照して、王の死がテーベの辺り(具体的には、デイル・エル・メディナ)に届いたのは播種期のどこかの第2週6日だった事を確認しておく事である。一番はやい播種期の1月だとすれば、彼の死は播種期の1月2週1.5日、播種期の1月2週10.5の辺りには彼女のところに届いているはずである。2つ目は、王が死んだ場所を王都としておく事である。実際当時の王は老齢であったから、それほど動かないと思う。すると、クヌムに王の死が伝わったのは、播種期の1月2週1.5日という事になる。クヌムはテーベよりも4.5日分王都に近いからである。また、これから王が何時死んだのかも割り出せる。増水期第4月第3週3.5日である。 ↩︎
ウセルケペルウラー・セテプエンラー王が即位した日。すなわち、セティ二世が即位した日。Kraussによれば、セティ二世の即位は播種期の第1の第3週9日から第3の第1週6日の間らしい。これにも諸説あり、詳しい説明はErik Hornung, Rolf Krauss, and David A. Warburton (2006)参照。また、セティ二世についてはPeter A. Clayton(1994)の156ページや岡沢 秋(2021)も参照。だが、ここでも問題がある。私は彼がどこで即位したのか知らない、という事である。そこで、私は彼がテーベで即位した事にしようと思う。というのも、彼は播種期第2月第一週10日にテーベにいたからだ。この報告は、Erik Hornung, Rolf Krauss, and David A. Warburton (2006)の212ページに記されていた。もしかしたら、第18王朝のホルエムヘブに倣ったのかもしれない。Garry J. Shaw(2012)の邦訳の64ページによれば、ホルエムヘブはテーベで戴冠したそうであるから。 ↩︎
クヌムには神殿がある。病気治癒や書記の技量を司るトト神の信仰のなかで重要な崇拝中心地、巡礼の地であったからだ。詳しくはRichard H. Wilkinson(2000)も参照。 ↩︎