--- Title: 朝憬への詩 第一章 1話 シーン2 Author: sagitta_luminis Web: 'https://mimemo.io/m/BV8YKG0gwg4ry91' --- 東の空から昇った朝焼けの陽により、雲の切れ間から光に照らされるルクスカーデン王国の街並み。種々の住宅、魔法公共事業による施設の数々や、様々な事業の店舗など、石材や木工を用いた大小様々の建造物が立ち並ぶ。石畳が敷かれた道路の端には木々が生い茂り、その葉は深緑に色づいている。古代都市の神秘性をそのままに、森や川といった自然と、古い城と街が調和したこの風景。それが朝焼けに染まれば、この国の有する35本の大通りに点在している、大きな鐘塔の鐘つきが、鐘を揺らしてその音を鳴らす。ルクスカーデンの人々が〝一の鐘〟と呼ぶ、その一日の始まりを告げる鐘だ。そうして朝日が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射す中、心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識はまだ少し微睡んでいるが、やがてその赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。どこかに別の場所にあった意識が、今自覚しているここは…ベッドの上。見上げた先は見慣れた自室の天井。…ああ、夢を見たんだ。漠然とした高揚感と混濁した何かがあった気はするが…内容ははっきり思い出せない。まあ、夢なんてそんなもんだよね…覚醒していくにつれてそう解釈し、心羽は一人落胆と共に息をつく。それから少しして、自宅の一階にあるリビングに向かうために身を起こそうとした次の瞬間、ふと首元に違和感を覚える。何か、首にかかっている。それに手を取り、眼前に持って見てみる。それはペンダントだった。艶のある銀の装飾と、磨かれた青い宝石の中に、七色の輝き。カーテンの木漏れ日に反射するその輝きに引き寄せられ、心羽の冷めかけていた達観に、高揚の熱がほんの少しだが宿った。彼女はふと、微笑みに口元を緩ませる。その思いを以て今度こそ身を起こした心羽は、自室の戸を開け、一階のリビングへと降りていった。  「ああ心羽、おはよう」 リビングに降りた心羽に、母の詩乃(しの)が朝の挨拶をする。詩乃も丁度今起きた様子で、ネグリジェ姿でテーブルの椅子に座り、寝起きの少しとろんとした目を手でこすっていた。 「おはよう、お母さん。明かりつけるね」 挨拶を返した心羽は、欠伸しながら頷いた詩乃の様子を受け、まだ少し暗いリビングの天井に設けてある照明の揮石を点けるため、揮石に結び付けられて垂れ下がっている紐を揺する。すると揮石を中心にリビング全体に明かりが灯った。母娘二人は照明による眩しさに目を細める。やがて眩しさに目が慣れると、詩乃は首元まである黒髪を整えながら心羽に話しかけた。 「心羽、眠れた?」 「うん、まあね」 詩乃の言葉かけに、心羽も欠伸交じりに返事する。その声はどこか間の抜けたものだった。心羽自身もそれは自覚しているが、ペンダントの存在と、それによる高揚感が脳内を占めており、それ以外のことがぼんやりとしたものに感じられた。 「寝癖ついてるよ。ほら、鏡」 母の気付きによってそのぼんやりした感覚が、一瞬現実へと引き戻される。見るとそこには、赤い髪がくしゃくしゃになった自分の顔。寝起きのぼんやりした目を鏡に寄せる様は、にらめっこのように詩乃の柔和な目には映った。 「うわっ、ホントだ…」 「はいこれ」 その一言と共に詩乃から渡されたのは〝寝癖直しの揮石〟。「ありがと!」と心羽がそれを受け取り、自分のお気に入りである、前髪が少し額にかかったショートボブをイメージしながら揮石を振れば、そこから虹色の星屑のような光が飛び出し、彼女の赤い髪をなぞれば、髪はその根元から毛先まで、踊るように独りでにかき上げられた。次第に髪が梳かれて纏まっていくと、夜の間に損なわれた滑らかさを取り戻す。そうして髪の動きが落ち着いたのを見計らい、心羽は再度鏡を見る。そこにはイメージ通りに前髪が額に掛かり、首元までふんわりとした後ろ髪が伸びた自分の顔があった。それを確認したのと同時に、手元にあった揮石がそこから消えてしまったのを感じると、「あっ、なくなっちゃった」という言葉が口をついて出る。 「あと二回分はあったはずだけど…」 詩乃の指摘に心羽は「えっ」と不意を突かれた。あーあ、このパターンか… 「寝癖ひどかったから二回分使っちゃったのかも。今日買ってくるよ」 時々寝癖に困る心羽が、気が付いたら寝癖直しの揮石を二回分使ってしまうことは、詩乃も承知していたことだった。詩乃としては後で自分もこの揮石を使おうと思っていたが、まあ、手櫛で何とかならないこともない。 「仕方ないわ…じゃあお願いね」 「うん、ごめんね」 心羽は苦笑しながらそう伝えると、台所の調味料棚から〝朝食の揮石〟の瓶を取って、詩乃に再度声を掛ける。 「…お母さん、これ使っても大丈夫?」 「もうあんまり回数ないけど、いいよ」 詩乃からの承認の言葉を受け、「はーい!」と返事を返すと、心羽は台所まで歩いていき、食器棚から大小二つの皿、ナイフとフォークを取りだす。それから調味料棚に置いてある〝朝食の揮石〟の瓶を取り、食器類と一緒にテーブルへと運ぶと、瓶から揮石を一つ手に取って、いつもの朝食としてトースト、ベーコンエッグ、芽キャベツのサラダを想像しながら、心羽は手元で揮石を振った。すると小皿にはトーストが、大皿にはベーコンエッグと芽キャベツのサラダが、虹色の星屑の光を伴って現れた。 「いただきます」 「はーい」 テーブルの椅子に座った心羽は、食べ始めの礼の言葉を告げると、ベーコンエッグをナイフとフォークで切り分けて口には運び、少し咀嚼した後、トーストを一口大にちぎってそこに加える。ベーコンエッグのふんわりした卵の旨味と、ベーコンエッグの塩気、トーストの香ばしさで口を満たした後、続いてサラダを一口。オーロラソースの酸味とサラダのちょっとした苦みとのアクセントを挟んで、その都度の味の変化を楽しむ。そんな心羽の様子に詩乃が言った。 「心羽が食べてるの、美味しそう」 「美味しいのは大事」 その様子を眺める詩乃からかけられる、のんびりとした言葉に、一通りの咀嚼を終えた心羽が微笑み交じりにそう応えて食事を続ける。心なしか上機嫌に見える。だが単に食べ慣れた食事が美味しいだけでここまで楽しそうというのも…そう考えた詩乃は、心羽にそれとなく聞いてみる。 「何かいいことあったの?」 「うん、今日はアレグロだからね」 心羽が8歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団は、ルクスカーデン689番通りにて15年前に結成されたオーケストラの音楽団で、楽団員は現在19名。昨今は人数こそ伸び悩んでいるが、一人ひとりの演奏のレベルが高く、よく季節のイベントなどに招待がかかる。アレグロでの演奏は心羽の心を振るわせるもので、このところの日常に少しナイーブになってしまいがちな彼女にとって、自身の思いを音楽という表現で満たせる楽しみがあった。ただ、先ほどのペンダントのことは、何故か話すことを躊躇われて伏せてしまう。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、皆にあの光を見せたい思いと、自分だけの秘密にしたい大切な思いとが同居して、落ち着いて話ができる自信がない。だから、心羽は微笑を湛えてこう続ける。 「今日は私、演奏走り気味になるかも」 朝食の後、鐘塔の鐘が再度その音をルクスカーデン十三番街に響かせる。街の人々の多くは、この〝二の鐘〟を基準に日中の活動を開始する。心羽達の家も例外ではなく、それぞれ身支度を終えて、詩乃はエプロン姿で朝の家事としての食器洗いと洗濯を始めた。心羽は白いブラウスとベージュのミニスカートに、黒いタイツとショートブーツの姿。トランペットの入ったケースを持ち、次の講演に向けた練習を行うため、自宅を出て689番通りにあるアレグロ楽団の集会所に向かう。その胸には、先のペンダントをかけて。 「それじゃ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」 出掛けに詩乃と言葉を交わして、心羽が家の玄関の戸を開けると、朝日に映える石造りの家の数々と、自分と同様そこから出てきた人々が、石畳の路の上を行き交う光景。さあ一日が始まった。心羽は一つ息をついて、人々がそれぞれ道を行きかうのに交じって歩き始める。 自宅から左、二ブロック先に位置する住宅街の小道を横切って、大通りに入った心羽の眼に、やがて入ってくるのは露店で揮石を売る商人や、移動販売の軽食屋が商品や店の仕込みをする光景。街の喫茶店では道行く人が足を止め、朝刊を読みながらコーヒーを啜る。他にもそれぞれの仕事場に向かう人々。その中には、この街の景観を作りだしている人がいるだろう。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品を生み出している人もいるだろう。それ以外にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる場を担う人が自身の職に対する誇りや、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交っているのだろう。それが段々と想像できる年齢になって、心羽がまず最初に感じた思いは、どこか物憂げな思いと、不安だった。まだ小さなころは、多様な人々の共生を感じさせるこの街並みの優しさと、その穏やかさ、この景色の美しさに魅せられていた。だがやがて成長し、変わっていく自分は、果たしていつまでその中にいられるのだろうか。この街を形作っている人たちの中に、自分は参加できるのだろうか。いつごろからか、時々そう考えるようになっていた。それを思い歩みを進めると、人々の中から、特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。全員がそうではないかもしれないが、一見、楽し気に自己実現に向かっているように見える彼らを見ると、自分が彼らから、そしてこの街から取り残されるような気がした。自分はこの景色の中に、真に属せなくなりつつある———そんな言いようのない感情から気持ちを切り替えようと少し頭を振ると、首から胸に掛かっていたペンダントに意識がいく。それを祈るように右手で握り、目を閉じて、あの星の輝きを思い返す。そうすれば、自分の中のずれ多様な感情とそのための不安が、少しだけ収まって安心できる。そんな気がした。そうして我に返ったころには、彼女の歩みはアレグロの集会所がある689番通りに差し掛かっていた。