存在根拠である神(との関係)を喜べ!(Ⅱ)

自分は毎朝7時前に、厳寒の中を110ccの古いカブバイクで1時間かけて仕事の現場まで出て行っておりますが、それでも出発時がだいぶ明るくなってきたのでよくなりましたが、まだ薄暗い頃は非常に不安な精神状態で、途方もない闇の中へと突入してゆくような気分で滅入っていたわけです。そんな心細い心境ではなにか励みになるものはないか、支えになるものはないか、と思ったものです。結局、自分には聖書のことばしかないようです。それも特に、ここに掲げたような、神が萬物の存在根拠であることを示す箇所です。大げさですが、通勤途中などで事故って死ぬとしても、これまでの人生が全くの無意味(=虚無)ではなかったと思えることって、やはり神から造られた万物の中に自分もあったということでしょう(もっともこの「万物」には人間を含めないものとして解する方が筋の通る場合もあります。例:使徒17:24~25「世界とその中のあらゆる物とを造り給ひし神は、天地の主にましませば、手にて造れる宮に住み給はず。みづから凡ての人に生命と息と萬の物とを與へ給へば、物に乏しき所あるが如く、人の手にて事ふることを要し給はず。」しかし自分は常に「万物・萬(の)物」は当然、自分も含まれる全被造物であると解します)。さいです、さいです。存在根拠が神であるというだけのことなら、万物平等であってそこには何らの優劣も差別もありません。「これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。」(マタイ5:45)とあるとおり、「惡しき者」と「善き者」との区別はありますが、因果応報が法則として成り立たない現実においては人の評価としての善悪すなわち善人(義人)と悪人との区別などは相対的であって誰がどれと固定的に言えるようなものではなく流動的であり、すくなくとも自分が自分を「善き者」と己惚れている人は「善き者」ではありません。いずれにせよ、神は人が「惡しき」時にも「善き」時にも等しく生命の恵みを与えて下さるのです。それで万物の中でも人間の中には、唯一の違いはあります。それは創造主なる神に感謝できるか否か、そして神の存在を心から喜べるかどうかです。感謝はおのずと喜びになり生きる力となります。それが「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(ネヘミヤ8:10)ということでしょう。これはむしろ自分を惡人だと自覚し謙虚にされている者にこそ起こるのです。マタイ10:28「身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」においても、「身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者」(=神)をおそれることができる者はルターやキルケゴールや親鸞聖人の如く悪人自覚・罪人自覚を持って絶望的になって救いを求めている者のみです。「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著『希望の原理』青土社 p93)と言われているとおり、個人の自我問題を軽視しては社会問題の解決などあり得ません。言うまでもなく犯罪は八木誠一氏の言われる「単なる自我」から生じるのです。自我に執着すればするほど不安が募るのです。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もありで、捨て身になる覚悟で小さな成功体験を積み重ねてゆくことが自信につながります。自信なしには強く生きてゆくことはできません。そして自信は自力だけでは得られません。むしろ他力によってこそ確固たる自信を持つことができます。脳内的にはセロトニンの分泌促進が重要になります。朝陽を浴びての散歩が有効ですが、自分の場合、バイク通勤で朝陽を浴びることになります。栄養管理は妻の料理にまかせきっています。75歳まで生きるのが当面の目標です。生活費は赤字で貯金取り崩しになりますが、なんとか少ないとは言え年金をもらえる65歳までは耐え難きを耐え忍び難きを忍び、あとは軽いパートで余生を過ごしたいです。なんとか夫婦二人暮らしで黒字で終われるだけの老後資金はあるつもりです。信仰が個人主義的過ぎて倫理が欠けているとの御批判もあろうかとは思います。確かに自分は生活保守主義的な人間になっていますが、信徒にとって最大の隣人愛の実践は証しではないかと思います。自分の神との関係を実際的な証しを通して伝えてゆくこと、個人伝道…これはとても貴重な体験談であり、私自身もそういったことを見聞きして有意義に思えます。心が、魂が霊的に満たされるからです。自分は宗教の要旨は個人変革であって社会変革ではないと確信します。なにかしら人権問題に首とか手足とか突っ込むことだけが自分の十字架を担ってイエスに従うことではないと思います。むしろ「課題の分離」(…これは日本ではアドラーの考えだと云われてきたけど実はそうではないことが知られるようになりました)ではないけど、宗教的・絶対的・究極的次元の事柄と、政治的・相対的・究極以前的次元の事柄とが混同されている場合があるので、それを分離して、宗教の課題と政治・社会活動の課題とを区別する必要があります。まして況や、フェミニスト神学などのように女性の社会問題に関連させて聖書的神観を変えたり、無神論などを必要以上に気にかけて「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(北森嘉蔵著『今日の神学』日本之薔薇出版社 p222)などということで神を有限化したり、いわゆる神殺しの神学を唱えたりして、人間の主権・人権を尊重するのはよいですがそれがために行き過ぎて創造主なる神の絶対主権を相対化するようなことは本末転倒でしょう。ある神学者は創造の秩序を言い出すと差別につながる旨のことを言われましたが、これなどはまさにそういう現代神学の偏向した傾向を反映していると思われます。特に社会的マイノリティーの個人の実存的問題は社会問題に吸収して解消されやすいので、そこは冷静に課題分離して整理しないと、現代の特に所謂リベラル派のキリスト教会が直面している非福音的な混沌たる状況に陥ってしまいます。執行草舟氏が「三島由紀夫生誕100年のつどい」での講演で、ヒューマニズムは「神を失ったキリスト教が生み出した思想」であると述べておられましたが、なぜキリスト教が神を失ったか…伝統的な神観を否定し去ることになったのか…と言えば、私見ではその根底にあるものは神義論です。二度の世界大戦を経験し、その後、諸々の人権問題において不条理な現実を訴える声が過剰になり、神の正義を問う人間主義的思想が、結果的に神の主権を否定して人間にとって都合のよい解放の神という偶像をつくりあげたのです。ところで、実用主義といえばW・ジェームズのプラグマティズムですが、「プラグマティックな宗教観」によるとジェームズは、「個別的な救済は、ジェイムズのプログラムでは個人の主観にとどまらず、客観世界をも変えていく」すなわち「個人が高度に宗教的な境地にあるなら、彼は宗教的な態度を示し、宗教的な行為を行うであろう。行為の変化は主観的なものではなく、客観的な事実として現れる。それは必然的に現実世界を変化させていく。」とのことです。それにしても、そんなに大げさに言うこともないだろうってな感じです。何よりも「高度に宗教的な行為」という表現にひっかかるのです。その「高度」に価値を置くなら、結局、宗教は民衆のものではなくエリートのものになります。私見では宗教は、個々人にとって生きる力になればいいのであって、主観的(とは言っても共同性は生じ得る)でいいのです。なにも世界を変える必要なんかありません!それは宗教ではなく政治のやるべき事であり課題を分離する必要があります。そうでないと結局、信仰の本質にかかわる神観の民主化という罪を誘発します。

「—— 現今、多くの人々がいわゆる『民主的な神』の存在を信じたいという。この神概念によると神は御自身の栄光のためではなく、その被造物の大多数の便宜と、できるだけ多くのものの最大の便宜のために、働き存在となってしまう。(中略)聖書によれば、被造物(人間を含む)の幸福は主要なことがらではなく、神の栄光をあらわすことの副産物にすぎないのである。」(ヨハネス・G・ヴォス 著、玉木鎮 編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)p81)

敢えて言えば、神は客体的に実在している必要はないのです。神を客観的に論じ合うから不毛な論争に陥るわけで、特に一神教的宗教は、拝一神教的実存主義宗教として、積極的相対主義としての立場を維持して然りです。

実際問題として、永遠の命を得るにはどうすればよいかを問うてきた青年に対して自分の持ち物を売り払って貧しい人たちに施すことをすすめるようなまねは自分にはできないし、する必要も感じません。そんなことは現代社会を生きる者にとって自殺行為にも値します。むしろそういうのは偽善的慈善に陥る危険があるので、私はいくら批判されようとなにされようとかかわりません。イエスは「まことに人」であって神でもなければ天使でもありません。あくまで古代のユダヤ人であり(…史的イエス研究は特に大貫隆氏の著書である『イエスという経験』⦅岩波書店⦆がひじょ―――に参考になります)、彼の言葉には普遍的に適用できる言葉もあれば、時代的制約により特殊な状況でしか通用しない言葉もあります。愛敵の教えなど新律法のような倫理的な言葉などが特にそうです。私見ではイエスは単なるユダヤ教改革者であるだけではなく、ある種の神秘家です。だから自分と父なる神とが一体であるかのような発言もしています(ヨハネ10:30、14:9~11)。しかしそれを存在論的に受けとめると誤解となります。いわゆる神秘体験にも「不可分・不可同・不可逆」という秩序があります。聖書的救済は団体的救済である旨を言った神学者がいましたが、最小単位は個人です。各人が行ないに応じて裁かれるのです。問題はその「行ない」の意味です。自分はそれを目立った活動よりもむしろ人知れずになされることだと思うのです。たとえば自分でも気づかないうちにそういう流れになるのですが、自分よりも高齢の人の話し相手になることです。これは今の高齢化社会において重要な奉仕です。誰でも簡単にできるようで実は自分のような聞き上手な人間でないと困難です。この点では自信があります。自分は聖書的神信仰はある種の心理療法ないしは霊魂療法だと思います。救いの本当の意味はそこにあります。すなわち認知行動療法によって鬱状態が軽減されるように、神信仰によってもそうなるのです。さらには霊魂の領域にまで癒しの恵みが与えられます。どうやって?それが「絶対神との関係によるストレッサー該当者との関係の相対化」ということ。そして「切り替え」です。認知(行動)療法の提唱者であるアーロン・T・ベック博士に師事して日本における認知(行動)療法の第一人者と言われる精神科医の大野裕先生は、「こころの力を高めるためには、自分のなかに、『もう一歩引いたところから見ている自分』を育てることが大切だ」と書いておられますが(『こころの自然治癒力』講談社 p183)、私見ではそれって対人関係における「敵」(=ストレッサー)との状況を俯瞰して捉え直すということであり、それは対神関係を前提としてこそ「一歩引いて見ている自分」を育てることが出来て、それが「絶対」他者なる神との関係による「相対の絶対化」である偶像としての「敵」との関係を相対化するということなのですが、そうやって打たれ強い自分になって生きることができるのだと思うのです。ちなみに脳科学者の中野信子さんは、「性善説というのは、確かに美しいのですが、善き人がその美しさの陰で犠牲になってしまう構造であることを忘れるべきではありません。そもそも、性善説等でいうところの『善悪』も、実はその基準は極めて恣意的であり、その時の社会的背景等の状況を鋭敏に反映して、コロコロと変わってしまいやすいのです。」(中野信子「この残酷な現実に、果たして性善説だけで対峙していけるか」めざましmedia)と述べておられます。https://mezamashi.media/article/15124870

宗教は個人の精神および霊魂の問題の取り組みから社会の問題の取り組みという方向をとります。ただし社会の問題といっても意見が対立してイデオロギーの戦いと化しているよう主題は政治家にゆだねるべきだと考えます。だから教会ぐるみで社会問題ないしは政治問題に関与している教会もありますが、こういうのを私は宗教団体とは思いません。「救済は単に個人の救済ではなくて、人類の救済、さらに宇宙の救済でなければならない。宇宙の救済なくして人類の救済はなく、人類の救済なくして個人の救済はない」(『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p197)といった美しい言葉は宮澤賢治にこれと同様の有名な言葉もあるとおり、誰でも感銘を受けることではありますが、焦点の置き方が違うだけであって、逆もまた真なりと言えます。むしろコヘレトが問題としたような「空」(ヘベル)に対しては個から類へという方向性をとって然りです。つまり自死にもつながるような実存的な問題などは個々人の心理療法を軽視して、いきなり人類の救済なんてことにはなりません。そして私見では、神信仰ほど有効な心理療法は無いのです。それも唯一神に対する信仰です。誠意ある1対1の人格的関係です。                                          「『しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出(い)で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による』。」(岩波版新約聖書⦅青野太潮⦆訳)

注によりますと、「初代教会の賛美歌と思われる」とのことです。私個人は、イエスに対して賛美告白として言われている「主」というのは「神」と同義とは認めません。せいぜい「神的なもの」とでもいいましょうか、旧約における「主」とは区別しています。ですから、イエス・キリストを父なる神と同じ意味で「神」とか「主」と呼ぶような信仰は持っておりません。要は天国に行けるなら、永遠の命を得られるなら、とにかく救ってくれるのであれば、神であろうとキリストであろうとどっちでもよいとか、キリスト教なんだからキリストが神であればその他の子細はどうでもいい…とかいったいい加減な考えのクリスチャンも日本人には少なくないと思いますが、私は対象が重要だと考えます。救いの意味、永遠の命の解釈は人によって違いがあって然りですが、私の場合は信仰対象と不可分であり、御父こそ唯一の真の神であると信じる私は、その御父の実在と、自分が人格的関係を与えられていることが救いになります。

ところで北森嘉蔵氏は、「『イエスは神である』という信仰告白は、神の愛という見地から今日考え直されなければなりません。イエスが神であるという信仰告白は、イエスの愛が、とうてい人間の領域に見出され得ないものであるという告白から生まれてきます。」(『神学入門』新教出版社 p62~65)と述べておられますが、この場合の「イエス」は史的イエスではなく、あくまで新約聖書に描かれた神話的イエス・キリストです。私の立場は聖書のキリスト神話を全否定するものではありませんが、いかに賛美告白とは言え、この神話的イエス像はやはり十字架刑死に至る生涯が美化されすぎていると思うので、批判的にとらえ直す必要があります。ヨハネ福音書17:3にあるとおり、唯一の真の神である御父とその御父から遣わされた御子キリストとを知ること…関係を与えられることが永遠の命であり救いなのです。だからこの箇所は、唯一の神は御父のみであり唯一の主はキリストのみである…という対照的な表現として受けとめてよいと思います。ここは無理に三位一体のドグマに合わせて解釈する必要などありません。唯一の主は唯一の神を人間に伝える媒介・仲介であり、テモテ一2:5「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波書店版新約聖書⦅保坂高殿⦆訳)とあるとおりです。神と人間との仲介者は神である必要はないのです。ただ、人間に可能かといえばそれも無理かなとは思うので、イエスは神的存在としての「主」(キュリオス)であり、その意味で「救い主」と言えるでしょう。でもそれはあくまで神話においてであって、歴史的にはイエスはひとりのユダヤ人男性であって、それ以上でも以下でもないと確信しています。そこで英訳を見てください。これはKJV(欽定訳)ですが、RSV(改訂標準訳)では、

yet for us there is one God, the Father, from whom are all things and for whom we exist, and one Lord, Jesus Christ, through whom are all things and through whom we exist.

となります。ここで自分が最大の違いであると思うのは、前置詞διά(ディア)の訳語であり、byとthroughの違いです。当然のことながら後者(RSV)の方が適切だと思うので、太字にしています。主イエス・キリストに「より」とか「よって」と訳すと、まるで我らを含む「萬物」の根源・根拠が彼であるかのように解されますが、私はそうは思わないのです。私にとって彼は媒体・仲介者であって、存在根拠とかいった意味はすべて唯一の真の神(=御父)に帰されるのです。そのことを表わすのが ἐκ(エク。母音の前では ἐξ 。=from)という前置詞であり、「~から」という源を意味します。これは御子であるイエス・キリストには使いません。使えないというべきでしょう、彼は存在の根源とか根拠ではないのですから…。εἰς (エイス)という前置詞は御子についても「~のために」といった目的を表わす前置詞として使われていますが、ここでは最終的なところが示されています。ちなみに「出で」とか「歸す」は原文には無い補訳。御子について最も特徴的に使われている前置詞は διά であり、その英訳として適している語が「~を通して(介して)」といった意味の through です。by ではありません。自分は青野太潮氏が「『障害者イエス』と『十字架の神学』」(http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/203 )の中で、「イエス・キリストは創造主なる神ではない」と貴重な指摘をしておられる聖書的根拠として、この前置詞 διά (=through)の使用ということもあると確信しているので、このbyとthroughとの違いはとても重要であり、例えば、コロサイ人への手紙1:16で「御子にあって(おいて)造られた」とか「御子によって造られた」といった表現がありますが、前者では ἔν(エン)、後者では διά が使われています。前者は英語の in に該当し、これは必ずしも御子を創造という業の主体として示さず、むしろ立会のような関与を示しています。いずれにせよ、これらの前置詞をどう解するかによって、御子(キリスト)も創造主と言われたり言われなかったりするわけですが、御子は15節で「すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(口語訳)、「あらゆる創造の〔内で〕最初の誕生者。」(岩波版、青野訳)と言われているとおり、また、17節で「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」(口語訳)、「また御子は万物に先立ち、万物は御子において存立している。」(岩波版、青野訳)と言われているとおり、被造物ではないことは確かですが、創造主は唯一の神おひとりなので、彼とは別に先在していたお方(=御父)がそうであると言えます。その創造主なる神(=御父)の創造の業に御子が関与しているという神話ですが、彼は創造主とは言えない、せいぜい創造者と呼ぶにとどまります。創造の仲介とか目的というのがコロサイ書の創造神話における御子の位置づけであると解されますので、こちらのコリント人への手紙との共通点として御子について、手段や媒介を意味する前置詞の διά が使われているということを重視するわけです。ちなみに最初のἀλλάの訳については、口語訳や文語訳では6節で訳出されず、5節の終りが「…ではあるが、」、「…なれど、」と否定の意味になっています。

END

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