『"マスターリース"って知ってるか?』
都内某所にひっそりと拠を構えるバーの中。
一人の男が氷をカラン、と慣らす。
『ま~た"マスター"エージェントのお出ましか。どうせUGNがチャチャっと──』
『おっと、そういうわけにはいかないらしいぜ?』
『────は?』
酔っ払いに絡まれたエージェントは、静かにつまみを口に放り込んだ。そして素早くそれを飲み込み、続きを話せと言わんばかりに肩を寄せた。
『そいつは小さい。捻れば一発K.Oのガキだ。』
『赤子の手をひねるみたいに言うじゃないか…だがそれだけじゃないんだろう?』
『ま、そうだな……"その手を捻れたら"とでも言ってみようか。』
両者の間に生まれた微妙な静けさは、マスターが差し出してきた
追加のカクテルドリンクによって破られた。エージェントは杯を掲げ、感謝の意を示してそれを一気にあおった。
『はぁ…………あんたの話には具体性ってもんがない。』
『ほう?』
『もうちょっとないのか?別に真っ向から否定したいわけじゃないが……どうにもガキを一人おだてているようにしか聞こえないもんでな。』
『興味を持ってくれた、ということか。いいだろう、与太話を続けようじゃないか。』
『……マスターエージェントにはジジイからガキまでピンキリだ。』
『まあ、それくらいは。何なら私兵一人がマスターエージェント格って扱われるくらいだ、その格も山から谷まであるだろう。』
『ああ……じゃあさっき言った"マスターリース"はどこらへんだと思う?』
『うーん…そいつの年齢は?』
『今が確か14だ。』
『…………随分と若いな。実力相応に見るなら中の上くらいか?』
『それが……建設中のUGN支部を単騎で殲滅したとかなんとか。』
『…………』
『どこだったか、覚えちゃいないが…』
『最近で破壊されたのは白浜市の方だったか?』
『ああ、あの治安が並みのスラムより悪いところか。』
『流石にUGNも手を焼いてるが、日本支部から離れた関西地区にあまり人は送れないってことで……最低限の人員を使い潰してるみたいだぜ?』
『はぁ……そんなことしても無駄だって分かってるはずなのにな。』
『だがその無駄を希望につなげる為に啖呵切ってやってるわけだ。難儀な連中だぜ。』
ーーー
『……その"マスターリース"はどんな奴なんだ?』
『興味が湧いたのか?』
『コホン……UGNの支部一つ、たかが設立中とはいえ殲滅する実力は認めざるを得ない。』
『まあ、それにとどまらず……白浜市にUGNが介入した途端潰していたようだが。』
『……UGNを嫌悪しているのか?』
『理由はいろいろあるだろうな。UGNに大事なものを奪われたとか、あるいは普通に都市開発を嫌ってるだけの反抗期かもしれないが……』
『……』
『ま、"マスターリース"が王サマやってるのが今の白浜市だ。会いたいんだったら、このバーに通うといい。稀に年にカサ増したガキが来る。そいつが……"マスターリース"さ。』
『……』
男は、グラスを握りしめながら来る日も来る日も見知らぬ待ち人を探していた。
"マスターリース"と呼ばれる人物────"マスターレイス"も同様に少年少女が多かったのを覚えているが、どれほどのものか、この目で確かめてみたかったのがひとつ。そしてあわよくば、この手で仕留められたら……などという淡い希望を抱いていた。
"査察部第四課"として生きるこの男には、冴えない成績が付きまとっていた。同僚は次々成果を挙げ、気づけば"特例"としてUGNの立派な狂犬になっていた。隣にいたはずの友人の邁進、そして物理的にも精神的にも離れる距離、速くなる鼓動、増す一方の焦燥。
"マスターエージェント"一人を狩ったという戦績は、査察部以前に多くのエージェントからの眼差しが冷ややかなものから温かく激しいものになるであろうというのは明白であった。子ども一人を差し出さねば自分を保っていられない己の気恥ずかしさと居たたまれなさをなんとか押し殺しながら、今日もカウンターで待っていた。
『マスター、いつものを。』
やや高い声。フードを被った怪しげな人物は店に入って開口一番言い放った。マスターも何も言わないまま、静かにドリンクを用意する。氷を割る音に合わせたような足取りで歩き、静かに自分の隣に腰かけた。
『……』
『……』
絶妙な空気を割るように、マスターはドリンクを置く。少し礼をしたそいつはフードを思いっきり取り払った。ふわりと舞う金髪。凛々しく美しい緑柱石のような瞳。それを幾度か瞬かせ、静かにドリンクをあおった。
『……おいしい。』
『そろそろツケを払ってほしいのですが……今日も"明日にお任せ"なのですかな。』
口ぶりに反して、マスターは少し微笑みながら話す。
『ご…コホン……す、すまない。今日もその通りに。』
やや慣れないようにも見受けるその応対を見届けつつ、本当にこれが"マスターリース"なのか。しばらく目を凝らすことにした。
『……さて、今日は何をお望みですかな。』
『今日は……ゆっくりしたい気分なんだ。』
『畏まりました。』
この平穏な空気を壊す自信がない。だが、一歩踏み出してみなくては何も始まらない。
『そ、その平穏に……俺もお供していいだろうか。』
『?』
少女はこちらを振り向く。その目には疑いが見られず、少々ばかりの驚きだけが見受けられる。
『構わない。友が増えることはいいことだからな。』
『ありがとう。』
『マスター、彼の分も用意を頼めるだろうか。お代は変わらず。』
『……いや、彼女の分も俺が払おう。』
『えっ?』
『…俺も大人だ、奢ってもらうには申し訳が立たない。』
『……領収書ならこちらに。"ツケ"も込みでいいですかな?』
『あ、あぁ……』
ーーーーーーーーーー
【支払合計:115,700】
ーーーーーーーーーー
『……』
『さ、流石に全部は……』
『…………分かった、払う!!!』
『!?!?』
落ちこぼれとして生きてきたとはいえ、何も貰っていないわけではない。この使いどころに迷っていた給料の生かしどころはここしかないと、酒による酔狂と高鳴る鼓動が訴えていた。
『だが……こういうと卑怯かもしれないが、払う代わりに聞きたいことがある。』
『……』
『おぉ………わ、私に応えられるものであれば……』
『……ありがとう。』
『"マスターリース"って知っているか?』
その少女は目を見開いた。少し深呼吸し、瞬きを増やしてから……
『私が……"マスターリース"だ。』
と、言い切った。だが……お世辞にもそれが本当だとは思えなかった。心のどこかでこの純粋無垢に見える少女が恐ろしいアレだと思いたくもなかったのもあるが、長年培ってきた経験則がそれらが嘘だと告げていた。
だが、彼女が声を震わせてまでついた嘘には必ず理由があると思った。
だから……
『……君がそうだったのか。』
その理由を知りたいと思った。
『……問題でもあったか?』
『いや、ない。むしろこちらが会いたかったくらいだ。』
『そうか。私に会いたいなど……何が目的だ?』
『……噂で君のことを知ったんだ。』
『目的はない。むしろ会うのが目的だ。』
『……』
『……"目的はまだ叶っていない"けど。』
『!!』
少女はひどく目を見開いた。それには動揺、裏切られた失望……ではなく驚きだけが見られる。
『……はぁ、やっぱり嘘は苦手かも。』
『……どうして嘘を?』
『…………私なりに守りたかったの。』
『守る……"マスターリース"を?』
『うん。あの子は皆の"王様"になっているから。』
『……王様?』
『…………見せた方が早いかも。でもきょ……えっと"マスターリース"には秘密で。』
『わ、分かった。』
バーを出て彼女に連れられた先は、静かな灯台だった。形だけのものであり、中身もすっかり埃をかぶっている。そこの窓を開けた彼女は向こうを指さす。
『……"マスターリース"は、子ども達が大人にこれ以上ひどい目に逢わないように守ってくれてるの。もちろんあたしも。』
『……守る?』
『ここ、悪い大人がいっぱいいるって"マスターリース"は言ってた。あたしの友達も、知り合いも、明日起きたら……隣からいなくなってる。でもあの子は違う。ずっとあたしから離れないし、起きてもずっといてくれる。』
『……』
『……だけど、あたしの知らない子とか、知らない大人まであの子に縋ってる。王様だって、悪い人から守り続けてくれるって。あの子がそうやっていれば、あの都市にいる人達は皆守られる。"マスターリース"が見てくれているから。』
『都市そのものが"セル"のようになっているのか。』
『セル…はよく分からないけど、都市のどこにいても悪い人をあの子はやっつけるよ。』
『……』
『……本当に"マスターリース"一人で?』
『うん。ここ最近はずっと知らない人が来てばっかりだけど、誰もケガもしてないし、ひどい思いをしていないし。』
『…君は……』
『あたしは嬉しいよ。何もしなくても平穏に生きられる。悪い人はやっつけちゃったし、悪い人もあの子に全部任せちゃった。まるで"おうさま"みたい。』
そう呟く少女は、ひどく辛そうな顔をしていた。先ほどまでの天真爛漫さ、無垢さは何処へ行ったのか。まるで痛みに悶える人のように、毒を飲み、苦しみ続けるように。やがて静かに外を眺める少女は、肩を震わせた。
『……京花は、あたしの友達なのに。みんな京花のこと大事にしてなかったのに。』
『……』
『みんな……ッ、みんなひどいよぉ…ずるいよ……、ぐすっ、うぅ…』
雨に打たれるように。か弱い小雨は静かに部屋中に響いていた。傍にいる友人が離れて行き、やがて強い人になり、そして守り続けられる。それらのありがたみと同時に申し訳なさ、情けなさ、悔しさがあることは否めない。
自分は静かにそれらを見つめるしかなかった。せめて、その痛みを理解したかった。共鳴したかった。
『……ずっと、堪えていたのか。』
『……うっ…、ううん、痛くなった時には…ここで、見てたの。」
少女は腕で涙を擦りながら、自分に窓の外を見るように手招く。
窓の外……かなり離れた港の近くでは、一人の少女が大勢に囲まれていた。何が起きているのかは分からないが、賛美でもしているのだろうか。少女はただ会釈をして歩き去るだけであったが。
『……あれが"マスターリース"?』
『うん…………あなたが探してるのは、合ってるよ。』
『…………』
『……俺が聞いた"マスターリース"は、邪魔を切り捨てる残忍な人物だと伺っていた。』
『……そういうわけでもないらしい。』
『うん。』
『京花はずっと優しいよ。でも、あれが京花の望んだ姿なのかはあたしにも分からないかな。本当はあたしみたいに髪を伸ばして、こんな服を着て、穏やかに過ごしたいと思う。』
『そうなのか?』
『そうじゃないとあたしの髪を苦しそうに切らないと思うもの。』
『……優しいんだな、君は。』
『……こんなんだったら、全部壊れちゃえばいいのに。』
ぽつりぽつりと話す中、少女は小さくつぶやいた。自分はその真意を、"つい"聞いてしまった。
『というと?』
『みんな"マスターリース"に縋ってるだけ。FHにもUGNにも支配されない、圧政者のいない空間で自由に生きたいだけ。京花がいなくなっちゃったら、皆また"元通りの日常"に帰るのに。』
『……』
『…………あなた、UGNの人だよね?』
『……明かしていなかったのに、よく分かったな。』
『だってこれ持ってたんだもの。』
少女はブラックノートを両手で見せる。
『ダメだよ、ちゃんと仕舞わないと。』
『なっ………!!』
『………怒らないで、ちゃんと返すから。』
少女はノートを両手で差し出す。それを片手で受けと────────ろうとするのだが、ノートがびくとも動かない。
『あの、お嬢さん?手を離してもらえると……』
『うん、離すよ。ズルいけど、交換条件。』
『………』
『"お兄さん"もさっきしたから、お返し。ね?』
『…………ハハ、これは一本取られた。何をしたらいい?』
『あたしを、楽にしてほしいの。』
『京花はあの人達に使われてばっかりじゃ嫌なの。"あたしが"嫌なの。』
『だからあたしは"願い(エゴ)"を貫き通す。これがあたしの思う愛。』
『………』
『あたし、すっかり悪い子だから。』
『"マスターリース"の"ダブルクロス"になるし、あの白浜市にある偽りの平和もぶっ壊しちゃうの。』
『えへへ、かなりワルでしょ?』
『…………何が…』
『…何が君を…君を、そうさせるんだ?』
『……なんだろうね。あたしにもよく分かんない。』
『あたしね、ずっと守ってもらってばっかりだったから。』
『だけど…………この世界以外も知ってほしいから。』
『大人たちはみんなあたしに色んな事を教えてくれた。甘いものから苦いものまでいっぱい。夢はもう、京花にた~っくさん託したから。』
『本当はあたしもその隣にいたいし、一緒に笑っていたいけど。だけど多分、こうでもしないと動かないから。』
『精一杯考えたの。名付けて、"京花を自由にする大作戦"!!』
『何も知らなかった"お兄さん"だからこそできること。どう?』
『……あたしの"お願い"、叶えてくれるよね?』
俺は、その緑色の蝶々から目が離せないままでいる。
首は、重力に従い静かに下ろされた。
『花冠の花になりたい。』
『そうすればずっと一緒だから。切れないものだから。』