霹天の弓 ー1章ー【第2話】Ver.2.1

その時、私は歩み出した。引き返すことのできない道を———

七色の光の中から薄紅の羽衣を纏った心羽の姿が現れるとともに、止まっていた時が動き出す。振り上げられた怪物———影魔の爪。それをいなすように心羽の左腕が翳される。それと同時に突き出されるように放たれた右腕の掌底。その一陣の衝撃が、眼前の敵を確かに捉え、不意を突く形で一撃を与えた。どうなってる⁉心羽、遥香、広夢———その場にいた誰もがその光景に目を疑う。先の瞬間まで無力に打ちひしがれ、理不尽な暴力にさらされそうになっていた少女が、あまりに急激に姿を変化させ、理不尽に反抗する力を行使している。彼らが知っている現実において、基本的にあり得ないものだったその事象は、絶体絶命のこの状況において、驚愕に値するものだった。心羽が遥香と広夢を見やると、遥香が見開いた瞳を心羽に向け、言葉を発する。
「こっちゃん…なの?」
「うん、私も何が何だか…」
心羽にも状況が飲みこめない。自分があんな怪物を吹き飛ばせるなんて…「でも大丈夫」やることはさっき決めた。〝やりたい(守りたい)ようにやる(守る)だけ〟だ。心羽はその場にへたり込んでしまっていた遥香の手を取り、助け起こす。
「私もよくわからないけど、あいつは私を狙ってるみたい」
心羽のその言葉に、遥香も広夢も目を見開く。
「どういうこと⁉こっちゃん」
「そういう〝声〟が聞こえたの。二人とも離れてて!」
遥香の問いにそう返すと心羽は、身を起こした影魔の方を見据える。こちらを睨みつける影魔の眼光は鋭く光り、向けられる敵意に心羽は戦慄するも、二人を守るために退かぬ意思をその眼に込める。
「こっちゃん…」
「大丈夫、信じて」
心羽の異様な様子に揺さぶられる思いを隠せない遥香だったが、心羽はそんな遥香を見遣り、言った。遥香の紫の瞳は戸惑いに揺れながらも、そんな心羽の赤い瞳を真っ直ぐ見つめる。
「離れてって…君はどうするんだ⁉」
広夢がそう問うた瞬間、影魔が心羽たちのもとに突撃してくる。
瞬間、心羽の脳裏にあるイメージが浮かんだ。そのイメージの通りに、彼女は左手を胸から左肩の方へ、虚空を切り払うように勢いよく振りかざす。そうして弧を描くように結ばれた炎の軌跡が、弓の形に形成されると、火の粉が舞う中、心羽は両手でその弓を握った。柄の部分を振るい、影魔から放たれる爪の一閃を受け止める。
「やるだけやってみます!早く離れて!」
「…くそっ!」
ハットで隠れて、その表情の全てうかがい知ることはできないが、団員を守ることのできない悔しさを、広夢が声と表情に滲ませる。遥香の心中も、迫りくる恐怖と、それを親友の献身に背負わせた安堵、そして戸惑いに支配される。親友と自分たちの危機的状況に、遥香の脚は竦む。しかし広夢が遥香の手をひいて走り出した。それが広夢の判断。状況を見てもそれが最善なのは間違いない。でもこれでいいの?このまま、こっちゃんが危険な思いをするところから逃げるなんて…そうして考える間にも本能的な恐怖が身体を疾走し、脚は動き続ける。しかし、心羽が戦う数メートル先へ離れたところで、遥香の抗う意思が、その脚を強引に足を止めた。
「遥香…」
そうして一呼吸し、自身の手を引く広夢に、彼女はその強い意志をはっきり告げる。
このまま逃げて、いいわけない。こっちゃんが戦っているのに…なら、なら私は…
「…離れてるしかできなくても、私、せめてこっちゃんを見てます!」
その言葉を受けて、広夢もそれ以上逃げるのをやめる。遥香を連れて逃げるのが、最善なのは間違いない。だけど、心羽があそこまで僕らのために、或いは二人が互いのために、自分の精一杯を張っている。なら…男の僕が逃げるわけにはいかないじゃないか。
「…わかった。女の子が、大切な仲間が頑張ってるんだよな…」
遥香と広夢は互いに頷き、そうして心羽の方を向き直って見つめる。それが、二人なりの覚悟だった。

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影魔の爪と鍔迫り合いとなる心羽の弓。しかし爪の一撃を堪えた弓もじりじりと迫る圧力は心羽に焦燥を抱かせる。対して優位性を見せる影魔は、ただ無言でその頑強な爪を以て、競り合う弓へ圧力を加え続ける。
「なんでこんなことするの…」
その凶行に対し、怒りもそうだが、なによりも「なぜ?」という思いが強く、心羽は影魔に問いただす。だがそれに対し応答はなかった。影魔はただその爪の圧を強め続ける。辛うじて迫る爪を往なしたものの、瞬時に影魔の動作は次の攻撃に移ってくる。一合、二合、三合。心羽は弓の柄でそれをどうにか躱し、防ぎ、再度往なす。そして今度はできる限り強く自身の意思を発する。
「私は争う気なんてない…こんなことやめて!」
「〝贄〟の分際で…囀るな」
撥ね付けられたその返答と共に、弓を弾き飛ばした影魔は、瞬時に身体を回転させ、その捻りを加えた尻尾と蹴りで心羽を薙ぎ払う。だがカルナの解放により向上した動体視力と身体能力で、心羽はそれを寸でのところで後方に跳んで避けた。しかし着地の際の、脚が地面に着くか否か———影魔はそのタイミングを逃さない。瞬間、爪を正面に翳したまま影魔は突っ込んでくる。心羽は弓の柄で繰り出される斬撃を防ぐも…その衝撃までは防ぎきれない。
「きゃあぁっ!」
心羽は悲鳴を上げながら遥香と広夢の前まで吹き飛ばされる。このままじゃやられちゃう…眼前の異形はその獅子の顔を微動だにすることなく、淡々と獲物を追い詰めんと迫りよる。竦み上がるこの感覚———ああ、贄とはそういうことか…これは狩り、これはきっと彼ら自身を満たすための行為、そういう習性、そして私たちは…心羽に底知れない恐怖と絶望が押し寄せる。こわい...紅い瞳は見開かれ、弓を持つ手の力が抜けていく。足が竦み、座り込んだまま立ち上がれない。影魔は更に距離を詰める。心羽は強くなる恐怖に息をのみ、そのまま後ずさりしかできず、追いつめられ...
「こっちゃん!」
後ろから響く声…はる…ちゃん…心羽は思わず振り返る。遥香が、広夢が、自分と同じように眼前の敵に震えても、それでも今この瞬間、自分を思い、ここにいてくれている。
「見てるだけだけど...目を逸らしたりしない、応援してるよ!」
遥香はそう言いながら、胸元に置いた右手を、ギュッと結んだ。
あの手の動きは...『信じてるよ』の合図。公演前の緊張してる時にも、気持ちが通じなくて喧嘩した時にも、その合図でふたりは励まされ、互いの心を結び、仲直りしてきた。
そんな遥香が、共にいてくれている。二人を巻き込むわけにはいかない...もうやるしかない。たとえ異形でも、生きているものを傷つけるのは抵抗があったけど、それも言っていられない。
守ると決めた。あの〝夢の続き〟っていうのは…少なくとも今、あの夢の光を纏った自分が思う、その〝続き〟は…この守ると決めた意思だ———体勢を立て直した心羽は反撃に転じるべく、刀を中段に構えるように、両手で弓を持ちなおした。

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「がんばって!」遥香の声が聞こえてくる。
「戯れ言もそこまでにしておけ」
影魔が心羽を飛び越え、その魔手が、守る意思の根源たる遥香と広夢に伸びる。瞬間、遥香はその身を竦ませ、広夢はその姿を庇おうとするも、その時心羽が大きく飛びあがり、そのまま弓で影魔を叩き落とした。その背には一対の白い翼が広がり、輝きと共にはためいている。着地と共に翼の存在に気付いた心羽は、夢で見た鳥の翼を想起した。あの七色の光とは異なるが、確かに自身の背に翼が生えている。一瞬驚き、不思議な印象こそ抱いたものの、嫌な感覚はしない。どこか高揚感さえある。
わかりやすい力の発現、その変化に打ち震えているのか、それとも…その答えは後ろを振り向いた時、すぐに分かった。二人が一瞬だけ見せた安堵した表情、そしてその翼を見た遥香が、薄紫の瞳を震わせながら言った、「綺麗…」という言葉———
『違う、私やれてる…今守れたんだ。守りたい意思に、この力が…翼が応えて、〝守らせてくれたんだ〟』その思いに心羽の心中は一瞬、感激に打ち震える。
しかし、いつまでも浸っているわけにもいかない。影魔が起き上がりきっていない今が好機であるからだ。心羽の右腕に嵌められた、紅の鳥を象った小手が熱を発し、右手に炎が宿る。
「やあぁ!」
それを撃つ心羽の動作に合わせて、炎は収束し、球状の光弾となって放たれた。空気との摩擦でさらに燃え上がる炎の光弾を、影魔が辛うじて防ごうとするも、直撃した瞬間に爆発した衝撃も相まって、不安定な体制のまま、影魔が呻きながら更に後方へ吹き飛ばされる。
その隙を逃さず追撃すべく、彼女は弓を前方に掲げ、右手には火柱を携える。やがてその火は収束し、矢の形を成して対となる弓と組み合わせられる。体勢を直した影魔が、先ほどまで獲物だったはずの少女を再度視認した時には、そうして引き絞られた弓矢が放たれていた。
「ぐ…あああぁぁ!」
放たれた矢が影魔の身を炎に包む。その爆風と苦悶の絶叫、数分前までには考えられなかったことだったその光景が、心羽に驚きと恐れを同時に抱かせその身を震わせた。だがすぐに震えは、その意味を変える。次の瞬間、爆炎の中から影魔が語り掛けてきたのだ。
「…やってくれるな、羽の使者…」
まだ倒れていない…心羽たちは、炎に身を焦がし、怨嵯の声を上げる獅子の顔に戦慄する。だがその時、影魔の動きが止まった。虚空を見つめた後に顔を伏せる。そして舌打ち交じりに言い放った。
「所詮は使い走りか…この場はここまでだ。」
「えっ?」
「我が名はジャヌス、この炎の礼は必ずさせてもらおう…」
それだけ言い残し、影魔———ジャヌスは、夕焼けの影にその身を溶け込ませ消えていった。

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どういうことかはわからない。何が起きているのかも。急にカルナとか影魔とか聞かされても…でもそんな不明瞭な状況のまま、あんな立ち回りをしてしまう自分がいて、もう何が何だか…だけど…心羽の薄紅の羽衣が消え、元々の服装に戻る。その脚から力が抜け、そのまま崩れ落ちてしまうも、その身を支える手があった。ふらつく意識の中、その手に目を見やる心羽だが、すぐに誰の手かわかった。駆けよってくれた遥香の手だ。
「ありがとう」
その淡い紫の瞳に、安堵と感謝を精一杯込めて、遥香は言った。そんな遥香の手に心羽は自分の手を重ねる。心羽はその時の遥香の言ってくれた言葉と、その手の温みを忘れたくないと強く願う。
「私こそ、ありがとね」
広夢も心羽のもとに駆け寄る。
「大丈夫か?」
心配を声に滲ませて、くしゃくしゃの顔で広夢が言った。
何が何だかだけど…だからこそ、今はこの熱だけ持っていよう。守れたんだ。この熱は、守れたことの証明。届いた手の温み…だから…心羽は口元に微笑を湛えて「怖かったぁ」と告げる。その表情とは裏腹の言葉に、三人とも少しだけ笑った。

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「広夢さん、他の皆さんは逃げられたんですか?」
先の戦闘を終えてから、少し休んだ心羽が広夢に問う。
「ああ、なんとかね…あの非常事態の鐘が鳴ってすぐに、逃げてきた人が知らせてくれたから。そうしてすぐに皆を、砦の方に向かわせた。」
「そっか、それならよかったぁ」
遥香が安堵に胸を撫で下ろし、その後「あっ…」と呟いて続ける。
「てことは、皆さんや逃げていった人たちが、兵団の人達に状況を伝えてるかもしれないですね」
ルクスカーデンの各市街に点在している砦には、国防と警察機構を担う兵士が常駐している。ここから北東に抜け、三番街に出て少し下るとある砦がそうだった。そこから広夢の話に則ってそう推察した遥香の話に〝待った〟がかかる。
「…あのジャヌスって怪物が、砦の方に行った可能性…ないか?」
「えっ」
万が一の可能性を想起した広夢に、遥香が驚きと疑いを抱くも、その可能性に心羽が自身の思うところを述べた。
「きっと皆の方は無事だと思います。あの影魔…ジャヌスは私を狙ってたみたいだし」
その言葉に、広夢と遥香は顔を見合わせ、心羽に問いただす。もう、そうしないわけにもいかない。
「さっきもそれ、言ってたね。それに、その〝影魔〟っていうのはあいつのこと?」
「うん」
切り出した遥香に心羽が応えた。続けて広夢が問う。
「…心羽、何があったんだ?」
「…〝声〟が聞こえたんです。あれは、影魔っていって私を狙ってきたって…」

《言いながら、心羽の中で〝自分が二人を、皆を巻き込んだのか?〟という疑念が生じ、赤い瞳が震える。
「でもこっちゃんは私たちを守ってくれた!」
即座にそれを一蹴せんと、遥香が強く言葉を発した。広夢もすぐにそれに頷き、その言葉に続く。
「大丈夫、続けて」
「その〝声〟に、このペンダントに触れて力を…カルナを解放してって言われて…私、二人を…皆を守りたいと思って触れたら…ああなったんです」
二人に感謝するとともに、勇気をもらったような思いになって、心羽は話を続ける。
「じゃあ、こっちゃん…〝すてら〟で話してくれた夢の話って…」
「うん、このペンダント…今朝、夢から覚めたら持ってたの。あの夢が、関係してるんだと思う。〝声〟もそう思わせること、言ってたから」
そうして話し終えると、戦闘で疲弊したためか、それとも単に話し疲れたのか、心羽は大きく息をつく。しばらく三人とも考え込み、沈黙する。そうして…やがて話を総括すべく広夢が切り出した。》

「天啓、みたいなものかもね。もしかしたら無関係ではないと思う。でも何より、心羽…ありがとう」
「広夢さん…」
広夢が自分を思うとともに、感謝の念を、その誠実な言葉で紡いでくれたことが、心羽にはとても尊いことだと感じられた。
「とにかく、明日の練習はこれじゃできない。僕は、アレグロの皆の安否確認と状況把握に、これから役場に行く」
「えっ、これからですか?」
遥香が言うや否や、その時夕焼けに紅く染まる空に、「六の鐘」が響いた。普段なら人々は皆、勤めを終えて帰り始める時間である。
「少しでも情報が多い方がいいからね。安心して。まだ心羽のことは言わない」
広夢のその言葉に、心羽は目を細め、お礼にペコリと会釈する。顔をあげた心羽と、遥香の目が合うと、彼女の口からある提案が飛び出した。
「ねえ!明日その力、カルナだっけ…調べてみない?どういうものかはっきりさせようよ」
親友からのその言葉に、とうとう心羽の顔が微笑む。
「それ、私が言おうとしてたのに~。やっぱり考えてること一緒だね」
高揚する思いのままに、その微笑を湛えた言葉は、心羽本人も驚くほどするりと零れた。

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ルクスカーデン三番街の傍、人気のないとある路地裏。宵闇の影に文字通り溶け込ませたジャヌスの身が、足元からゆらゆらと起き上がる。先ほど受けた命により撤退したが、合流するポイントはここだったはずだ。彼は先の命の主の気配を探る。
「戦闘の素人にああも簡単に押されるなんて…それでも旧文明で脅威とされた存在なの?」
先の戦闘の様を揶揄する言葉と共に現れたのは、ソプラノボイスの黒フードの女。
「目的は果たしたはずだ。羽の使者…そのカルナの覚醒と、スペックの把握」
対してジャヌスはぶっきらぼうに返す。
「…確かに、よくやってくれた。問題はここから。こうしてルクスカーデンの人間には、異形の怪物の存在が認識された。」
状況の整理もあってかソプラノは説明口調で語るが、ジャヌスは意に介さぬ体でそれに返答する。
「あとは使者の存在か」
「刈り取ってばかりだと、刈られる方も疲れちゃうからね。というわけで次にあなたにお願いしたいのは———」
「使者となる者の探索」
ジャヌスが矢継ぎ早に返答する。それを受けて無粋だといわんばかりにソプラノは「…正解、じゃあよろしく」とだけ結んだ。
「…ふん、とんだ茶番だ」
「もう一度、あの洞穴にぶち込まれたい?」
ジャヌスもソプラノも、その声落ち着き払ったように聴こえても、明らかに怒気を孕んでいた。その情動を、互いに堪えるようにして話を続ける。
「そう逸るな、利害は一致しているのだから」
「…そうね、でも貪るカルナはほどほどになさい」
こんな面倒な手合いの相手などそもそも自分には向かない。皮肉にも互いに思いは一致していた。なぜ彼はこ自分にんな役回りなどなどさせているのか…ソプラノもジャヌスも、そんな思いのまま互いに踵を返し、路地裏から出ていった。

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END

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