なぜ人間は生きているのか。これは昔から人類が探しているテーマです。多くの哲学者と宗教者がその答えを探してきました。でもこれまで人類ははっきりした答えを見つけられてきませんでした。ですから、たとえ人が家族や仕事やお金や物で満たされていても、心の中に物足りない感覚があります。では、人間の究極の生きる意味はあるのでしょうか。あるとしたら答えは何でしょうか。考察していきたいと思います。
もしすべての物つまり宇宙、銀河、太陽、地球 、生物、そして人間が、すべて偶然に発生したのなら、私たちは偶然に存在しているのであり、存在意義は ありません。
それにもかかわらず、私たちは家族や社会のために生きて、自分の生きる意味を見いだそうとしています。でも私たちすべては偶然発生した"物"なので、たとえ生きる意味を考え出したとしても、それは空論です。本当は生きる意味などありません。宇宙の中のすべての物の存在意義はありません。
しかし、宇宙や生物に関する研究をしていくと、それらが偶然に発生することなど絶対不可能であることを理解できます。解説します。
私達の宇宙は絶妙な物理定数の上に存在しています。例えば4つの物理学的力、つまり重力、電磁気力、強い核力、弱い核力によってこの宇宙は成り立っています。電磁気力と重力についてはよく知られています。強い核力は原子核を1つにまとめているもので、弱い核力は放射性崩壊を制御し太陽の熱核反応にも影響を与えている力です。
これらの力は宇宙内のすべての物体に影響を及ぼします。それらは極めて精密に定まっており、絶妙なバランスを保っています
これらの力の他にも、宇宙には多くの定数があります。陽子と電子の電荷値、陽子と中性子の重さ、光の速度、ヒッグス場の値など、多数の値がすべて超絶妙に調整されています。これらの値のどれか1つがほんのわずかでも今と違っていたら、宇宙は存在できません。恒星も美しい地球も生物も存在できないでしょう。これらのすべてがたまたまうまい具合に完璧な値になることは絶対不可能なことです。
物理学者のポール・デーヴィスは,そうした宇宙内の法則と状態をたくさんの調節つまみになぞらえて,「宇宙を生命の満ちるところとするためには,幾つものつまみをきわめて精密に調整しなければならない」と述べました。
ケンブリッジ大学の物理学者であったジョン・ポーキンホーンは次のような結論に達しました。「我々が目にする宇宙が生み出されるには自然法則が信じがたいほど微妙に調整されなければならないことを理解すると,宇宙はたまたま生じたのではないことは疑いない」
生物を構成しているのは細胞です。細胞の仕組みは1つの工場に例えられるほど複雑です。
都市を守る城壁のように、細胞膜は周囲に潜む危険から内部を守っています。とはいえ、細胞膜は酸素などの極小分子を出入りさせて細胞が“呼吸”できるようになっています。でも危険性のある分子はブロックし,許可なく進入させることはありません。必要な分子を細胞外へ流出させることもありません。細胞膜には特別なタンパク質分子が埋め込まれており,出入口と警備員の役目を果たしているのです。
細胞の内部は,養分や塩分などを豊かに含んだ水様液で満たされています。細胞は,そうした成分を原料にして必要な製品を作り出します。無計画な生産ではありません。生産効率の高い工場のように,決められた手順とスケジュールに従って,何千もの化学反応を操作するのです。
工場の作業工程が中枢コンピュータープログラムによって制御されるのと同じように,細胞の働きの多くはコンピュータープログラムつまりDNAとして知られる暗号によって制御されています。リボソームはDNAから,どのタンパク質をどのように作るかに関する詳細な設計図のコピーを受け取ります。
完成したタンパク質はそれぞれに“荷札”が付いていて,必要とされる場所に確実に運ばれます。毎分何千ものタンパク質が作られては運び出されますが,すべてが正しい場所に届きます。
このように、細胞内では様々な要素が助け合いながら生命活動を維持しています。興味深いこととして、タンパク質を作るにはDNAが必要ですが,DNAを作るにはタンパク質が必要です。他のタンパク質も細胞がなければ生成できませんが,細胞はタンパク質がなければ生成できません。同時発生することは不可能なのです。
DNAも超ハイテクです。最先端のmicroSDXCは0.4gで現在最高400GBしか記録できません。しかし、同じ量のDNAはなんと4000億GBの情報を記録できます。それだけではありません。驚嘆すべきことに、気の遠くなるほど複雑なDNAと細胞はそのオートメーションプログラムによって完璧な自己複製までできてしまうのです。
このように、細胞は人が造った最も複雑な精密機械工場よりも精密です。最も賢い科学者集団でも、あの小さな細胞1つ作ることもできません。
では、こんなに複雑なハイテク精密機械が、海の中でたまたま、偶然に、うまい具合にできあがるのでしょうか。
分子生物学者マイケル・デントンはこう述べました「分子生物学は,今日地上に存在するあらゆる生物体のうち最も単純なもの,すなわちバクテリアの細胞でさえ,きわめて複雑なものであることを示してきた。事実上,まさに超小型の工場をなしている。その工場には,複雑ながら絶妙に設計された,分子の機械類が幾千台も備わっている。それらの機械は,人間が組み立てるどんな機械装置よりはるかに複雑で,非生物界にこれに匹敵するものは一つもない」
緻密な宇宙が偶然に整い、とても精密なDNAや細胞がまた偶然に発生し、さらにその細胞が集まって機能する高性能の生物が偶然にできあがり、そして、パソコンより複雑な脳を持つ人間もすべて偶然に進化してできあがった。 この考えは理にかなっているのだろうか…
論理的に考えれば、ある物の造りが精密であればあるほど、それが偶然に生じる確率は少なくなります。逆にその物の作り手はとても賢いことになります。
一冊の本があるとする。人が何千年も研究し、研究すればするほど奥が深く、学べば学ぶほど自分の分かっていることが少ないことに気づく。あなたはその本の筆者にとても深い知識があることに感銘を受ける。もしある人が「この本に筆者はいないよ。この本の文字は全部、長い時間をかけて、適当に並べられたものなんだよ。それがたまたまこんなに素晴らしい作品になったんだ」と言ったなら、あなたはどう思うだろうか。
自然界は人類の教科書です。人類が持っている知識はすべて自然界から学んだもの。そしてそれを学べば学ぶほど、その中の知識が膨大で、素晴らしいことに気づきます。学べば学ぶほど自分の知っていることが表面的なことでしかないことに気づきます。ではもしある人が「この美しい宇宙も精密なDNAも細胞も生物も作者はいないよ。すべてたまたまできあがったんだ」と言ったなら、あなたはどう思いますか。
このような理由で、ますます多く科学者が進化論を否定するようになっています。(ここでいう進化論とは、生命は偶発的に発生し、それ以来徐々に発達して人間まで進化したという説、いわゆる「大進化」。「種」の中における変異や発達、いわゆる「小進化」は科学的証拠と合致している)
現在多くの科学者はインテリジェントデザイン論(ID論)を提示しています。この理論は、宇宙や生物は精密な設計と知恵の結晶であるというものです。
例えば、米国ペンシルバニア州のリーハイ大学で現在は生化学教授であるマイケル・ベーエは,こう結論しています「細胞を研究する,すなわち分子のレベルで生命を研究する幾多の努力の集積から聞こえてくるものは,『意図して設計されたものだ!』という,大きく,はっきりした,鋭い叫びである」。(参考文献「ダーウィンのブラックボックス ― 進化論に対する生化学の挑戦」)
私たちは自然界の様々なものを研究すればするほど、宇宙も地球も生物も私たち人間も偶然に発生できないことが分かってきます。かえって、それがすべて設計されて存在していることを事実は証明しているのです。
では、仮に本当にそのような存在が生物や人間を作ったのであれば、その証拠が自然界以外にもないか。ということで調べてみるべきは宗教です。各宗教には特徴があり、その中でID論 つまり一人の創造者について論じているのは主にユダヤ教 キリスト教 イスラム教で、この3つの宗教に共通して尊重されているのは 聖書です。客観的に聖書を研究してみると、一つの極めて重要な事実を知ることができます。
その事実とは『聖書は予言の本であり、歴史を調べるとそれらの予言が実現してきた』ということです。
アジア人は知らない方が多いですが、聖書には多くの予言が書かれています。イザヤ書とダニエル書にある預言は世界の将来、つまり世界の列強の興り廃りが予告されています。
メディアペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国、それ以後の世界の列強の動きが予言されています(「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」第9章参照 https://www.jw.org/finder?srcid=jwlshare&wtlocale=J&prefer=lang&pub=gm )
歴史と考古学を調べて分かったのは、ダニエル書に限らず聖書中の70ほどの予言がすべて実現してきたということです。ひとつとして外れていません。もし一つの予言でも実現しなかったなら、もうイカサマと分かりますが、聖書の予言は全部当たってきたことが歴史によって証明されています。信じがたいことです。
人間は明日起こることも分かりません。当然何百年後の世界各国のなかで起きることなど到底予告できません。そして100%当たる予言をするのは絶対不可能です。
ではなぜ聖書の予言はすべて実現しているのか。聖書のぺテロ第二1:21にはこうあります「聖書の予言はどれも人間の考えによって語られたものではなく、人が聖なる力に導かれて、神からの言葉を語ったのである」
聖書の予言は創造者によってもたらされたので、当然実現するということです。
それで、自然界の素晴らしい仕組みの他に、聖書の予言の完璧な実現が、創造者つまり「神」が存在している強力な証拠となっていることがわかります。
またこれらの予言は、聖書という本が創造者が人類に与えたメッセージであることも示しています。
それでは、聖書には創造者が人間を作った理由、つまり人間の生きる意味が書かれていないでしょうか。ありました。その答えは
『人間は他の人間と創造者の愛を 永遠に楽しむために造られた』
以下は聖書が述べている詳細な内容です。
創造者は愛と正義に満ちた神で、人間を造った時、知能、良心(正義感)、愛を楽しめる心を付与しました。 (神は動物には本能だけを与えた)
神はこのようにして、人が他の人を愛し、また愛されることを楽しめるようにして、人間に幸福を与えました。また神は人間が正義と良心に沿って生きて平安を得させたいと願っています
神は人間を楽しませるために、素晴らしい宇宙、地球、そして様々な生物を造り、美味しい物、可愛い動物、美しい自然界を造りました。また人間に視覚、聴覚、嗅覚、味覚そして触覚の五感を与え、大自然を人間が感動できるようにして、生活を楽しめるようにしました。神はこのようにして、子どもを愛する父親の様に、人間を愛していることを伝えている とのことです。聖書の使徒14:15,17には「神は天と地と海とその中のすべての物を造った。神は人間に雨や実りの季節を与え、食物と楽しさで人間の心を存分に満たして、ご自分(の存在や愛)を明らかにしてきた」とあります。
この言葉が述べる通り、神は自然界とその中の素晴らしい物を私たちに与えて、人間を愛していることを明らかにしているということです。とても重要なこととして、神は人間に自分の愛を理解させるため、霊性(=宗教心)を賦与しました。それで、動物の中で人間だけが、どの時代もどこの国でも見えない神を求めるのです。
きわめて重要なこととして、聖書によると、創造者は人間をとても愛していて、元々は人間が地上で健康と若さを保ちながら、文字通り永遠に生きて、他の人との愛や友情を深めていけるように願っていました。また良心に沿って生きて平安を得られるように,愛と正義の規律を与えました。そして人間が神の造った自然とその中のすべての素晴らしいものを観察して感動できるように、また芸術や音楽やスポーツなどの技術を磨いて楽しめるようにしたとのことです。
聖書の伝道の書3:11では『神はすべてのものを美しく造った。神が造ったそれらのものを人間が知り尽くして飽きたと言えないように。永遠を想う心を人間に与えた』ということが示されています。
(神経学者によると人間は一生の間に脳の潜在記憶容量の1%の100分の一しか使っていない。人は幸せであれば何歳になっても死を避けたいと願う。昔からずっと人は永遠に生きることを願ってきた。これらはみな人が永遠の命とそれを願う心を持つものとして造られた名残)
このように、神は人間が永遠に神の愛を感じ、神との友情を深められるように、そして他の人間との愛を深め、それを楽しんでいくことができるように人間を造ったというのです。
ではなぜ多くの人は愛を示せないのでしょうか。創造者を知らないのでしょうか。そして永遠に生きられないのでしょうか。
創造者は人類の最初の先祖アダムとイブに永遠の命を与えた際、ひとつの条件を与えました。それは、人間が創造者の定めた完璧な善悪の基準、正義に従うなら永遠に生きられる というものです (エデンの園の「善悪の知識の木」は、善悪の基準を決める創造者の権利を表していた)
この条件を与えたことは理にかなっています。なぜなら、もし悪人が永遠に生きられるなら、世界はひどい状態になるからです。では私たちの先祖はどうしたでしょうか。
本当に悲しいことに、アダムとイブは創造者の定めた法律に従いませんでした。(善悪の知識の木の実を食べた) つまり、創造者の定めた正義を捨てました。神からの独立を選んだのです。
その結果、二人は永遠に生きる権利を失ってしまいました。彼らの不完全な体の情報(聖書で「罪」と呼ばれている)が子孫に遺伝し、私たち人類すべてが永遠に生きられなくなってしまったわけです。それで、私達すべては必ず病気になり、最後には死んでいくのです。
また、人間が創造者と創造者の定めた完璧な善悪の基準を捨てたため、良心を正しく働かすことができなくなりました。その結果、人は自分の神、自分の正義を作り出し、世界は分裂しました。真の愛と正義を見失った世界で社会も家庭も混沌としています。人間は創造者の愛と人間を造った目的を知らないため、ずっと生きる意味を探し求めています。善良な人たちは世界で起きている多くの悪を見て心を痛めています。
ではなぜ神は人間の苦しみを黙って許しているのでしょうか。戦争、犯罪、虐待、災害が起きるのを見て黙っているのでしょうか。もう人間を捨てたのでしょうか。
例えで考えてみましょう。
一人の子がいるとします。その子の父親は彼を愛情深く世話していました。父親は彼が幸せに生きてほしいと願い、彼に家訓を与え、知恵を与えようとしました。ところがその子はずっと父親の言うことを聞かず、父親の善悪の規律を守ることを望まずに、自由に生きたいと願いました。それで家出をして他の家に住むようになります。
父親は彼を無理矢理に家に戻らせ、無理矢理に家訓に従わせることもできました。しかし、たとえそうしたとしても、子どもは相変わらず自由を求め、父親の言うことを聞かずに、再び家出をしたいと考えてしまうでしょう。
それで父親は、一定期間子どもが自由に生活することを許し、家訓に従わない生活の結果を彼に分からせることにしました。自由を求めて家と父を捨てて出ていったその子と彼の子孫は、人として正しいことが分からず、多くの苦しみと悩みを経験することになりました。父親も彼らの苦悩を見て、辛い思いをします。
時が過ぎ、彼らの生活はとても酷いものになりました。多くの子孫は自分の正義を相手に押し付け、互いに傷つけ合い、殺し合い、住む家を壊すまでになりました。 行き詰まりました。
そこに至り、彼らは父親の導きと知恵が必要なことをはっきりと理解します。子孫の中で正義を愛する謙遜な人は父親の家に戻り、父親の家訓を学び、その結果平安と幸福を得て生きることができるようになりました。彼らは父親に従わない結果をすでに知っているので、二度と家出して気ままに生きることはありません。父親はというと、彼らが喜んで家訓に従い幸せに生活しているのを見て幸福を感じます。
聖書は創造者のことを「人類の父親」と呼んでいます。例えの父親と同じように、子どもである人間たちを愛し、それ故に家訓のような完全な善悪の規準を人に与え、人類が幸せに生きられるようにと願いました。
しかし、例えの子どもと同じように、人類は神の教えに従わず、全く自由に生活することを望み、神から離れました。
神は無理矢理に人類を従わせることもできましたが、人間の意思を尊重し、また神から離れた結果を人類に理解させるために、人類が神から離れるのを許しました。聖書には、神の述べた一節に次のような言葉があります。「あななたちは神に仕える人と仕えなかった人の違いを目にすることになる」
この理由で、神は自分も苦しい思いをすることになっても、一定の期間人類が苦しみに遭うのを忍んでいます。
創造者を捨てた結果、地球と人類はどうなっているでしょうか。地球は創造者の完璧な制御下から外れたため災害が起きるようになりました。人間はというと、それぞれが自分の神、自分の国、自分の法律、自分の正義を作り出しました。その結果は分裂です。互いに反目し合い、奪い合い、殺し合ってきました。そして私たちは家である地球を再生不可能になるまで壊してきました。地球温暖化がもたらすようになった大災害はもはや人災です。これら多くの問題によって、数えきれないほど多くの人が苦しんでいます。冷静に世界を見る人たちは、人類が行き詰まっていることに気づいています。
人類が創造者の指導と完全な善悪の規準を必要としていることをはっきり理解できるようになったということです。
創造者は人類に聖書を与え、自分が存在していること、なぜ人間を造ったのか、なぜ人間は動物と違って特異な存在なのか、なぜ人間は死ぬのか、なぜ人間の苦しみを黙って忍んでいるのか、これらの疑問の答えを教えています。
また創造者は聖書という本を通してご自分の家に戻ってくるように人類に呼び掛けています。人間が聖書を通して創造者の完璧な善悪の規準を学べるように、本物の愛を示せるように、良心を訓練して満足感と平安を得られるようにと願っています。そして聖書を通して創造者を知り、創造者との良い関係を取り戻して、その大きな愛を知れるようにしているのです。神は人間が失った永遠に生きる権利を取り戻せるように、自分の「子」イエスを地球に遣わして、人間のために死ぬように取り計らいました。これは神に大きな苦しみをもたらしましたが、人間への深い愛を抱いている神はこれを行ってくれたのです。(1世紀の歴史家タキトゥスは、確かにローマ皇帝ティベリウス・カエサルの治世中にユダヤ総督ポンテオ・ピラトがイエス・キリストを処刑したことを記録している)
聖書を真剣に学び、創造者の大きな愛を知った人は、創造者の「家」に戻り、深い感動を味わっています。
とりわけ大切なこととして、聖書は創造者がご自分の家族に帰る人に素晴らしい将来を与えると予告しています。
計算できる聖書の予言を研究すると、今が人類の造った世界の末期であることが分かります。そして聖書は世界の末期の状態について予言しています。例えばイエスはその時の世界の状態についてこう予言しました。「終わりの時代には、国民は国民に敵対し、大きな地震があり、あちらこちらで食糧不足や流行病が起こる」(ルカ21:10,11)
またパウロはその時の人間の状態について予言しました「終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し、お金を愛し、自慢ばかりし、傲慢で、神や人を冒瀆し、親に従わず、感謝せず、不忠実になります。自然な愛情を持たず、人に同意しようとせず、中傷し、自制心がなく、乱暴で、人を裏切り、思い上がり、神ではなく快楽を愛します」(テモテ第二3:1-5)
これらの予言はいま全世界で成就しているでしょうか。多くの人はますます自分を過度に愛するようになっています。家族への愛という「自然の愛情」すら持てなくなりつつあります。人々は敬神の念を失い、快楽を愛するようになっています。21世紀に性道徳は無きに等しいものとなってしまいました。
イエスが予告したように世界は様々な要素で分断し敵対し合っています。統計を調べると、地震はここ数十年の間に劇的に増加しています。地球は取り返しがつかないほど破壊されています。地球温暖化の影響などで食糧不足人口は歴史上かつてないほど多くなっています。そして新型ウィルスによるパンデミックは私たちの生活を一変させたのではないでしょうか。
これらの事実は、聖書が予告していた通り、今が世界の末期であることを示しています。
しかし、聖書予言は、間もなく神が地上の状態を一変させるとも予告しています。神は人類が造った不完全な世界を終わらせて、すべての悪、不正と苦しみを除き去ります。
聖書によると、神は一つの国、一つの政府を興します。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます」ダニエル書 2:44
聖書は、創造者により設立されたこの支配体形を「天の国」と呼んでいます。(「国」「御国」と訳されている原語ギリシャ語「βασιλεία」は王が治める支配体形を意味している。「王権」という意味もある。多くの聖書翻訳はこれを「天国」と訳したため、単純に善人がみな死後天に行くという誤解が広まった。実際は、イエスと人類の中で神に選ばれた者たち(召された「聖なる者たち」)が天に復活させられ王となり(つまり「天の国」に入り)、人間として生きた経験を生かして地球と人類を優しく治める。黙示録5:9,10を参照)
イエスが「主の祈り」の中で来るよう求めるように命じたのはこの国(βασιλεία) のことした。
この国が全地球を治める時、地上に国境はなくなります。戦争もなくなります。美しい自然が回復された地球で人類は平和と安全と繁栄を享受すると予告されています。病気になることはなく,どんな疾患もありません。創造者がもともと人間を造った時の予定通り、人間は若返り、再び老化することなく、永遠に生きることになります。
以下は聖書の予言です:
詩篇46:9「神は地上の全ての場所で戦いを終わらせる」
詩篇72:7 「正しい人たちは幸せに暮らし,平和が行き渡る。月がなくなる時までも」
詩篇37:9-11 「悪を行う人は取り除かれるが,希望を抱いてヤハウェを待つ人は地上に住み続ける。ほんのもう少しすれば悪人はいなくなる。彼らがいた場所を見ても,もういない。しかし,温厚な人は地上に住み続け,豊かな平和をこの上なく喜ぶ」(ヤハウェは創造者の名前。「ハレルヤ」の「ヤ」はヤハウェの短縮形。「ヤハウェを賛美せよ」という意味)
イザヤ35:5,6 「その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。荒野に水が湧き出て,砂漠平原に川が流れる」
イザヤ33:24 「「私は病気だ」と言う住民はいなくなる」
ヨブ33:25 「肉体を若い頃よりも元気にし,活力にあふれた若い日々に戻そう」
詩篇37:29 「正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす」
啓示21:3,4 「神は人々と共に住み,人々は神の民となります。神が人々と共にいるようになるのです。神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです」
もう一点、特筆すべきことがあります。
聖書は、創造者が亡くなった無数の人を忘れていないと述べています。いにしえから今に至るまで多くの人が創造者を知らずに一生を終えました。ある人は苦しい生涯を送りました。しかし聖書によると、神は地球を楽園に変える時、彼らを人間として復活させます。復活とは、再び造られることを意味します。死んで存在しなくなった人たちの情報は、神により完璧に記憶されていて、神はその記憶に基づいて死者を再び造り直し、命を与え、その人は地球で再び生きることになります。
使徒24:15「義者と不義者との復活がある」
この聖句の「義者」とは生前神に仕えた人です。「不義者」とは生前神を知らなかったために神に仕えられなかった多くの人のことです。神は「裁きの時」に彼らを復活させます。神は彼らに神の善悪の規準を教え、彼らがどうするかを裁きます (ここでの「裁き」は罪に定めることではなくジャッジするという意味) もし人が神に従うなら、上記に述べた生活を送ることができます。これは、私たちは亡くなった家族や友人や先祖に再び会い、彼らと共に永遠に生きることができるということです。
これらの予言がのべる通り、創造者の善悪の規準に従う人には、完全さを取り戻した地球で永遠に生き、生活を楽しむ権利が与えられます。
人類はすでに神に従わない結末を知っているので、地上で神への反抗は二度と起きません。創造者を認めるすべての人は創造者の善悪の規準を守り行い、人を愛し、正義を愛します。地上は永遠に平和な所となるでしょう。
聖書の多くの予言はこれまですべて実現してきました。一つの予言も外れていません。全て完璧に成就してきました。ですから、これらの予言も必ず実現すると信じることができます。
まとめると、客観的な科学研究と聖書研究は以下のことを明らかにしています
-現代科学が発見した、自然すべてにみられる精緻な設計は、創造者が存在していることを明らかにしている。聖書の予言の完璧な実現は、聖書が創造者からのメッセージであることを明らかにしている。聖書によると、創造者は愛と正義の神。愛に基づいて人類を造り、私たちに幸せな永遠の生活を与えたいと願っている。神は私たちに宇宙と地球を与えたが、それは私たちがそれらの素晴らしいものを永遠に楽しみ、驚き、感動させるため。創造者の定めた愛と正義のおきてに従う人は、神の王国(神の政府)が統治する地球で永遠に生きる。色々な学問、生物、科学、数学を学び続ける。運動能力を伸ばし、芸術や音楽の技術を研き続ける。地球の様々な場所に旅行し見聞を深める。そして多くの人と友になり愛を広げていく-
近い将来、創造者は私たちに若さを回復させ、永遠に生きさせ、正義に満ちた世界で本当の愛を楽しむようにしてくれます。
そして、私たちは神の子どもとして、永遠に神の考えを学び、創造者がどんな神か、未来に何をするのかを知っていくことができるでしょう。神のことを知れば知るほど、神との友情を深めることができます。私たちは神を知ることにより、与えられた霊性を満足させ、深い安心感を得ることができるでしょう。
これらこそ、神が人間を造った目的、つまり「生きる意味」なのです。
現在、ある国際組織がこれらの創造者の考えを全人類に伝えています。彼らは150年以上、科学、歴史、宗教史を細かく研究し、聖書を徹底的に調べてきました。そして宇宙には創造者が存在し、聖書という本を通して人類にこれらの真理を告げているということを発見しました。
彼らは客観的にキリスト教の歴史を調べ、キリスト教会が聖書の純粋な教えから逸れてきたことに注目しました。宗教改革以来、多くの人は聖書にたち戻ろうとしてきたましたが、多くの伝統キリスト教会はいまだ、偶像の使用、クリスマスなど異教由来の行事、政治との関わり等において聖書の教えに戻ってはいません。長年過って聖書の教えだと信じられているは三位一体の教義です。聖書は三位一体(み父とみ子と聖霊が全く対等の神であるという教義)について教えていません。むしろ、イエスが「唯一まことの神」と呼ばれたみ父である神ヤハウェ(יהוה)が、み子イエスと聖霊を用いて働かれると教えています。聖書は神とイエスは天で別個の存在であり、イエスはみ父に服するとはっきり書かれています(例:コリントの信徒への手紙一 15:24-25, 27-28 新共同訳「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」)
キリスト教史を調べるとすぐに分かるように、三位一体の源はエジプトの宗教です。エドワード・ギボン著,「キリスト教の歴史」の序文には,こう記されています。「もし異教思想がキリスト教によって征服されたのであれば,キリスト教は異教思想によって腐敗させられたということも同様に真実である。初期クリスチャンの純粋な理神論は…ローマ教会により,三位一体という不可解な教義に変えられた。エジプト人により考案され,プラトンによって理想化された,異教の教義の多くが,信ずるに値するものとして保たれた」
この結果ほとんど全てのキリスト教派は三位一体の教義を教え、人々は正確に神を知ることができなくなりました。その他にもクリスマス、イースターなどの多くの異教由来の教えを取り込んでしまい、その結果キリスト教会の教えは混乱しています。
これらのことを伝えている国際組織の以前の名称は「国際聖書研究者」でしたが、神の名を人類に伝える目的で今の名称「エホバ(ヤハウェ)の証人」に改名しています。彼らは多くの伝統キリスト教会から異端とみなされていますが、実際にはキリスト教の歴史と聖書を研究し、一世紀の原始クリスチャンの純粋な信仰を復興しようとしていることで知られています。「彼らの信じていることはすべて聖書に基づいている。彼らは聖書の権威を当然のものとみなし,ほとんどすべての信条を聖句を使って証明する。聖書が伝統に完全に取って代わる」ー「宗教百科事典」
彼らは全世界で活動し、神の名を伝え、主の祈りでイエスがまず祈るように教えた「み名があがめられる」よう助けています。世界の少数民族を含む全人類が本当の生きる意味を知り、創造者のもとに帰り、神の家族となり、永遠の命を得られるよう真剣に努力しています。この終わりの時代に神の御国の福音を全世界で伝えています(マタイ24:14)そして神のもとに帰ってきた人たちは、真の神との友情を楽しみ、愛に満ちた世界的な兄弟関係を楽しんでいます。彼らの公式サイトは1000以上の言語で見ることができ、この数は世界のすべてのウェブサイトの中で突出した驚異的な数です。(https://globalbydesign.com/2019/11/04/1000-languages-the-worlds-most-multilingual-website/ )
これらのことが事実なら、私たちにとって不都合でしょうか。少しそう感じるとしても無理はありません。でも真実かどうか調べてみる価値があるのではないでしょうか。その答えは決して不都合な真実ではなく、感動的な真実なのです。
この混乱した世界で生まれ、食べ、働き、遊び、子を育て、老いて、死ぬ それが人間の本当の生きる目的ではありません。
人間には本当の生きる意味があります。
どうぞ確かめてください