0 霹天の弓 ー1章ー 【第1話】 1節 みんなに公開

その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている良心を起こさぬように…目指す先は、この彼女たち家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が心羽の心中をざわつかせたが、両親も心羽のこの行為を理解しているし、夜着も厚手のものを羽織っている。風邪をひく心配もない。心羽は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の戸を開けた。

そこには星々がその輝きを放ち、数万光年と離れているであろう、この「ルクスカーデン」と呼ばれる地に、その光を届けていた。星々の輝きを見つめる中、心羽はひときわ美しく光を放つ七色の星を一つ見つける。その星は虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うようにその色彩を発しながらそこにあった。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。なぜこの光が子ここにあるのか…不思議さはあっても恐怖はなかった。何より、その温みある光に魅せられた心羽は、七色の星に手を伸ばす。届くはずのない手は虚空を掴むが、それでも瞬間、その輝きを手にしたように感じた彼女は思う。“この光をすべての人に見せたい“と。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。

次の瞬間、そこから大きな鳥が羽ばたいた。紅の羽毛は、その身体全体を覆い、星と同じ七色がその翼に宿ったかのように光沢を放つ。胸の部位にも星を思わせる宝石の首飾りがかかり、頭の部位には、まだ何物にも染まっていない少女の清らかさを思わせる、純白の羽飾りが付いていた。鳥は七色の翼をはためかせ、ルクスカーデン中を飛び回る。その胸の光を世界に示すように、その温みが、人々の心に安らぎと慈しみを与えますようにと———
七色の光を翼と胸に宿した鳥は、飛んでいる間、無意識ながら感じ取った。今の自分は心はそのままに、先ほどまで目前に横たわっていた、人としての有限性を超越して、時間とこの世の果て———その真実を見つけることさえできる。そんな思いと、希望に満ち満ちていた。この力の限り飛びたい。その果てまでこの心の羽を広げたい。鳥は全力で飛んだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やがて訪れる朝日の上る時間。心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識は場だ少し微睡んでいるが、朝日の光が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射し、心羽の顔を照らす。その赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。ああ、目が覚めちゃった。素敵な夢だったのにな…心羽は眉根を寄せて朝日を少しだけ睨んだ。そうして横たえていた身体を起こそうとすると、右手に何かを持っていることに気が付いた。見るとその手の中に七色のペンダントがあった。虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うような色彩のそれは、心羽を驚愕させ、その意識を完全に覚醒させる。どういうこと!? あれは夢だったんじゃ…自分のその行為が月並みなものと思いながらも、心羽は自分の頬を空いている左手でつねった。どうやら今、心羽のいるそこは夢ではないらしい。じゃあなんでこれが…その時下の階から誰かが階段で上がってくる足音が聞こえた。母の詩乃(しの)だ。心羽はふいにペンダントを自身の懐に隠し、部屋にやってくる志乃を迎えた。
「心羽、朝ご飯出来たよ」愛娘を呼ぶ優しい声が部屋に届く。「うん、着替えてすぐ行くね」心羽の口からは咄嗟にそんな言葉が出た。

夜着を着替えて一回にあるリビングに向かった心羽を待っていたのは、テーブルに置かれた朝食と、それを作った母。心羽と詩乃は互いに「おはよう」のあいさつを交わしながら、それぞれ椅子に腰かける。朝食は食パン一枚にウインナー二本、千切りのキャベツにスクランブルエッグである。詩乃が千切りキャベツをフォークで口に運びながら言った。
「心羽は今日、アレグロ?」「うん」「慣れてきた?」「まだ、ちょっとかかるかな」
「心羽は一生懸命だから、大丈夫。ちょっとくらいかかってもいいよ」
他愛のない会話の中に、母の娘への心配りが見て取れる。この〝大丈夫〟という言葉は、心羽と苦難も喜びも共有してきた詩乃が、その時々の娘の思いを汲みながらも、娘を信じる母としての覚悟と矜持を以て繰り出す、必殺の台詞であった。実際、心羽の中にスッと入ってくるこの無敵のまじないは、彼女が自身の困難を乗り越える糧として響いている。
「ありがと、お母さんの方はどう?手伝いとかいる?」
「う~ん、こっちは今日は…そんなに忙しくはないから。心羽は自分の今日をしっかりやってきなさい」
「うん…ごめんね、気を遣わせて。お父さんにも…」
進路も決めないまま学校を卒業してしまい、その後地域の音楽団であるアレグロ楽団に入る言いだした心羽に、父の明(あきら)は驚きを隠せなかった。ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーである明は、仕事に忙殺されて家族との時間こそ取れなかったが、心羽を愛している意味でも、自分の娘であるという意味でも「自慢の娘」として信頼を置いているのだ。心羽もそれはわかる一方、父から過剰に期待されている気がして、後ろめたさや不安めいた感情が内在していた。そんな娘の思いを理解してか、敢えて心羽の言葉を否定した。
「何言ってるの、お父さんはお父さん、心羽は心羽。一歩ずつでも頑張ってるのは、あなたでしょ?」
「…うん、ありがと」
心羽は少し伏せた顔をあげ、詩乃と目を合わせた。そうして互いに笑顔で応える。その母の言葉を素直に捉えたい。そして父や母、何より自分のために、自分の今日を良くしたいと心羽は思った。

朝食の後、それぞれ身支度を終えて、詩乃は朝食の後片づけを始める。心羽はトランペットをトランクに入れ、アレグロ楽団の次の講演に向けた練習を行う、ルクスカーデンの三番街へ向かった。暦は5月になったばかりで、道端の木々は生い茂り、その葉は日に照らされ深緑に色づいている。人々はのんびりと毎日の暮らしを営みながらも、それぞれが日々の仕事に精を出す。古代都市の神秘性をそのままに、森と川と城と街が調和したこの風景を作りだしているのは土木・建設業の男たち。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品まで、生み出しているのは種々の産業従事者や職人たち。治安維持・法体系から生活福祉といった、民主的かつ国民のニーズに応答した社会体系は、明のような役所の役人や公から委託された民間団体が担う。他にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる人が自身の職に対する誇りや矜持、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交う。
そんな光景を、心羽は目を細めながら見つめる。特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。自分が彼らから取り残されているような思いが彼女の中にはあった。

学校を卒業間近になると、当時の学生たちは皆、就職の悩みやそれぞれの夢をどう叶えるかを語りあったりしていた。それこそ焦った様子の学生がいたのも心羽は覚えている。だが彼女はどうにもその〝既定路線〟に乗ろうと思えなかった。教師や家族、周囲から心配され、自分でももちろん葛藤した。だが結局しばらくの間のモラトリアムとして卒業後の十六歳を過ごしている。「成績こそ優秀なのにどうして」「夢とかやりたいことないの?」そんなこと、それこそ自分でもやりたいことがないのが自己嫌悪で、どうしてそれが見つからないのか自分でもわからない。ただ先に進む不安はある。最後にはそれにさえ置いていかれてしまうのではないか…漠然として周囲と自分のずれた感覚ばかりが大きくなっていく。いけない、今できることをやっていこう。気持ちを切り替えるべく、心にそう唱えて心羽はそれまで歩いていた二番街から三番街への境を通った。

メモを更新するにはあいことばの入力が必要です

0

メモを他の人に見せる

このメモを見せたい人に、このURL(今開いているページのURLです)を教えてあげてください

コメント(0)

  • someone

  • someone