--- Title: '超多様化の時代 #駄文' Keywords: - 駄文 Author: zk33 Web: 'https://mimemo.io/m/XLx9alVWj470BJv' --- トランプ当選の時、Twitterに流れる色々な情報を見ながら、こんなことを考えていた。 https://twitter.com/zk33/status/796567466507980801 > トランプ当選の件を見ながら、格差やら何やらが進行して人々の多様性というか差異の振れ幅が大きくなればなるほど、自分の属するコミュニティの外にいる人の感情や行動の予測は難しくなりそう、みたいな事をぼんやり考えてる 考えてみると、もしかして今「**超多様化社会**」とでも言うべき社会に到達しているのではないか。そんなことを考えたりした。 今、世の中で現在進行形で起こっている様々な変化は、「価値観の多様化」につながるようなものが非常に多い。 情報化が進み、世界中の情報が共有されたり、国際化が進んだり、移民が増えれば文化的に多様性が増す。 人の寿命が伸びれば、若い人と老いた人との間では価値観のギャップが広がる。 収穫加速の法則に則って科学技術が進歩を加速すれば、知識を正しくアップデートしている人とそうでない人の間では様々な知識のギャップが大きくなる。 経済の規模が大きくなれば、最も稼ぐ人とそうじゃない人のギャップが大きくなり、お金に対する考え方やライフスタイルのギャップが広がる。 インターネットを活用している人とそうでない人との間では得る情報の差が広がり、知識のギャップが広がる。 同時に、LGBTなどを筆頭に、マイノリティ的な生き方/価値観を受け入れるムードもあり、結果として生き方、価値観、ライフスタイル、色々なものがとても幅広くなっていってるように思う。 ◇ ◇ ◇ たとえば日本で考えてみると、高度経済成長の時代というのは、「一億総中流」なんていう言葉があったように、みんなだいたい同じような人生を同じように生きていた。グラフ的に表すならこういう感じ。 ![graph1](https://mimemo.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/attachment/36f605f8-152d-441e-ad1a-93be651a621f.png) それより前の時代もだいたい似たようなものだ。身分制度によって数パターンに分かれることはあっても、国家単位で見てそこに暮らす人の生き方に大きな幅はなさそう。 一方、今の世の中、先進国は特にそうだと思うのだけど「多様化する」「多様性を受け入れる」方向で全てが進んでいる。グラフ的に描くならこうだろうか。 ![graph2](https://mimemo.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/attachment/afd8443e-e19e-4344-8c7b-80fce16a5f6f.png) 多様化は多分、エントロピーみたいなもので、広がりきって安定するまでは増大するしかない。 多様化することは、悪いことじゃない、と思う。 人それぞれ色々な向き不向きがあるように、合う暮らしは人それぞれ全く違う。都会でサバサバ暮らしたい人もいれば、しがらみの多い田舎の暮らしが肌に合う人もいるし、山の中で原始的な暮らしをしたい人だっているだろう。 多様性というのは非常に大事なものだし、よいものだと個人的には思っている。実際、どう考えたって何年も前の時代より、たくさんの人が生きやすい時代になっていると思うし。 でも、その一方で、厄介な事は確かに起こってくる。 さっきの図で考えてみると分かることなのだけど、「自分から遠い人」が増えるのだ。 誰しも身近な人、自分が属するコミュニティの事はよくわかる。自分に近いコミュニティにいる、「常識」が近い人のことは、うまく想像できるだろう。「一億総中流」の時代なら、1億人中のかなりの部分の人が「常識の通じる相手」だったはずだ。 だが、価値観が多様化し、価値観の幅が広くなっていった場合、自分から「遠い」人が増える。自分の常識が通用しない範囲が次第に大きくなっていく。 これは、ある意味では怖い。他の人の考えていることがうまく推測できなくなる。地理的にはすぐ近くに住んでいる人でも、文化も価値観もまるで違う、なんて事だって平気で起こりうる。 属する社会が多様化すればするほど、自分がすんなり理解できない人とでくわす確率は上がっていく。自分の所属するコミュニティから遠い人のことは、理解も予測も難しくなり、「常識的に考えてこうだろう」という自分にとっての常識が、通用しない場面が増えていきそうだ。 実際に、トランプが当選するっていう事も、イギリスがEU離脱を選ぶことも、**メディア側にいるインテリ層は**正しく予測できなかった。インテリ層が正しく把握できない範囲が大きくなっている、ということだったのではないか。 ◇ ◇ ◇ 世の中はまだまださらに多様化していくと思う。 今後、自分の常識の通用しない相手と出会う事もますます増えそうだ。 そういえばここ数年、「コミュニケーション能力」を要求する話が目につくが、必要なのは「空気を読む」とかそういう能力ではなく、「常識の違う人」の事をどうにか知り、理解してうまくやっていく力なのかもしれない。 また、「仲間」とか「絆」みたいな「コミュニティのど真ん中/中心」的なものがウケていたのは、価値観が多様化する中で、どこか帰属意識とか「中心」みたいなものを見つけて安心したかったのではないか、なんてことも思ったりもする。 多様化の進行と流行るものを突き合わせてみると、結構面白いものが見えてくるかもしれない。 あと、ふと疑問に思ったのだけど、こうして価値観が多様化した社会で、国家規模での民主主義みたいなコンセプトはまともに機能できるのだろうか? これほど同じ国にいる人の間で価値観の違いが大きくなっていくと、過半数を取るというのも、その結果に納得してもらうのもとても難しくなっていくように思うのだけどね…。