--- Title: 誰でもという発想と社会的なコストのこと Author: hiro_y Web: 'https://mimemo.io/m/ZYrNkl1EYlQqA5E' --- 日本、基本的にはやさしい社会だと思う。勉強が得意でない子に合わせた学校授業をし、スマートフォンやパソコンを使いこなせない人でも公共のサービスを同じように受けることができる。 ユニバーサルデザインとか、そういう文脈では正しいのかもしれない。でもそれは社会の余裕あってのことで、近年その余裕が小さくなっているのであちこちに無理が出てきている。しかし安易にサポートを廃止すると今までの待遇に慣れた層から切り捨てだ、と言われるジレンマ、あるのでは。本来はそこで差がつくものだし、誰かが負担してサポートが行われているにすぎないのだけれど。 そのような部分をコスト低く効率化する方式、いろいろ出てきてはいるのだが今度はそれを自分で覚えられなかったり覚えようとしない人へのサポートがコストになる。でもそういう人たちへのサポート、いつまで続けることができるのか。 それを解決しうるのがデザインだったりテクノロジーなのだと思う。効率のよい方式をどれだけ手にとってもらえるように、使ってもらえるようにできるか。そういう視点は持っていたいと思うし、何か寄与、貢献できたらなと思う。効率化を積極的に受け入れている人たちの負担を増やさずに、全体の最適化を図っていくこと。難しいけれど、今必要なのはそういうことなのでは。