恋とはこういうものかしら

娘の宿題を見てやりながらふと、辞書を開いたことがある。
 調べた言葉はとても広い意味を含んでいるので、該当の項目もなんだか説明がぼんやりとして、結局それはどういう事なのかよくわからなかった。……ような、気がする。
 言葉ではすぐに説明できる。しかし気がついた時には途方もない大きさにまで膨れあがっていたこの不定形の、ひどく息苦しくもやもやとして、そのくせ時折胸をかきむしりたくなるほど切なくもさせる、この、『何か得体の知れないもの』が、果たしてそれに該当するのか。それがわからない。まったく確信が持てなかった。
 恐らく、該当しているのだろうとは思う。思うのだが、本当に? という疑念がいつまでも消えない。もしこれがただの勘違いで、まったく別の執着だったり何だりした時はどうしたらよいのか。何があろうがいくらでも言い繕って誤魔化せるはず、という諜報員としての己の力量に心底疑問を抱くくらいには、これが別のものだった時のことを思うと、大層いたたまれなかった。
 算数のドリルを解いていたはずの娘が、むう、と唇を尖らせながら見上げている。
「……どうした」
「ちち、もやもやいっぱい」
 行儀悪くリビングのカーペットへじかに座り込んだ、ロイドの膝の上。最近の娘の流行りはそこに陣取っての宿題の時間だ。こどもらしい、あまりにも予測不可能の動きのせいで喉元や顎に時々手痛い頭突きをくらうのが問題だが、娘のほうも涙目になっている事がほとんどなのでそれで良しとしている。いやまったく良くはないものの、なんとなく溜飲が下がったような気分になるのだ。
「もやもや? 解き方がわからない所でもあるのか」
「ちがう。ちちまとはずれ。もやもやはちちのほう」
 大きな瞳を瞬かせて、アーニャはむいっともう一度唇を突き出す。
「まとはずれ、って。何がだ」
「……ちち、じなんとけんかしたらなかなおりしろっていう。ははとけんかしたのに、ちち、なかなおりしないのか」
「ヨルさんと喧嘩なんかしてない」
「はは、ずっとげんきない」
 この、時折異様に鋭いところを突いてくるちいさなこどもの視線から逃れるように、ボンドの様子が気になったふりをしてリビングの隅を見やった。真っ白い飼い犬はふすふすと暢気に鼻を鳴らして午睡の真っ最中である。
「……まあ、それは……確かに」
「ちちなんとかしろ」
 何故だろう、このちいさなこどもに、らしくもない失態を叱られていると感じてしまうのは。
「なんとかしてみる」
 ヨルの様子がおかしいのは事実なので、アーニャには神妙に首肯しておいた。とは言っても彼女の様子がおかしいのは半分以上、いや原因の大半がロイドのほうにあるため別に誉められたことではない。

数日前の夕食後、決してこれ以上の関係に発展するようなことはないと言外に彼女から明言された形になり、どうしても反論しなければという思いに駆られて結局、ロイドは失敗した。しかしながら殴られてキッチン奥の壁まで吹き飛ばされずに済んだぶん、いつだったか強かに蹴り上げられた夜より遙かに運がいいと思うべきだろう。
 掠め取るような口付けを思い出してつい、口元へ指先が伸びた。互いにいい大人同士のものとは到底思えない、ただ触れ合わせただけも同然のもの。お堅いイーデンの学生カップルだって、あれよりはもっとましなキスをするはずだ。恐らくは。
「――、さ――」
 特段入念に手入れしていないにも関わらず、しっとりとして暖かく、とても柔らかかったことを覚えている。直後に事態を把握し顔を真っ赤にしてあわあわと震えていたことも。
「……、さん、」
 あれはもう衝動に任せた賭けに近い行為だったと、そうロイドは理解している。この行為が原因でヨルが自分に幻滅し関係が破綻するようなら、フォージャー家はそこで終了。でもそうはならなかったら、――。
「――イド、さ――」  
 ……ならなかったら? ならなかったら、どうするつもりなのだろう。
 決まっている。そのまま継続されるのだ。でもどうやって? 偽装の夫婦関係ではなく本物の婚姻を取り交わすつもりなのだろうか。いやまさか、そんな。そんな事があるはずが――。
「ロイドさん!」
 みっともない声をあげずに済んだだけましだったかもしれない。ぐらぐらと煮立った鍋が大きな音を立て、ロイドは反射的に一歩を退いた。床へ熱湯が跳ねる。
「大丈夫ですか!? 火傷は、」
「……大丈夫、です」
 いつから考え込んでしまっていたのか全く記憶がない。容赦なく熱湯が染みてきたミトンを先に外してから、じゅわじゅわと白い蒸気をあげているコンロの火を消した。キッチンの作業台にはパスタやサラダの準備中だったのだと思われる野菜やそのほかの諸々が並んでおり、カットボードの上には皮を剥いたシュパーゲルと小房に分けられたブロッコリーが乗っている。ここまで自失していながらよくもまあ指を切らなかったものだと変な意味で感心した。
 塩気を含んだ熱湯の匂い。鍋の大きさと湯の量から考えると、どうやら野菜類の下茹でをしようとしていた所だったらしい。自分のしていた事だというのにまったく心当たりがないのがなんとも重症だった。
 横から声をかけてきたヨルを見ると、いつものあのコートを着たままで、通勤鞄も肩にかけたまま。一日の仕事を終え帰宅したらコンロに鍋をかけたまま呆けている自分を発見し、慌てて声をかけたという事なのだろう。そのすぐ足元ではボフボフとやけに小声でボンドが鳴いていた。今日は、あのちいさなこどもが一番帰宅の遅い日である。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったのですが、火がついたままだったので」
 気遣わしげに見上げてくるヨルの表情に嘘はない。
「いえ、考え事をしてしまったボクが悪いので気にしないでください。驚いたでしょう? すみませんでした」
「床、すぐに拭きますね」
「ヨルさん、大丈夫ですから」
 雑巾でも取りにいこうとしたのか、身を翻しかけたヨルを急いで呼び止めた。呼び止められるとは思わなかったのか弾かれたように振り返る。
「え、だ、大丈夫ってそんな、ロイドさ――」
「本当に、大丈夫ですから」
 盛大に濡れた床を見回し、そして顔を上げたヨルとまともに目が合った。ばちん、と音がしたかのような錯覚すら覚える。
 顔を上げた瞬間のまま、彼女はたっぷり三秒か四秒は硬直していたかもしれない。何とも言えない沈黙の最後に、はわ、と何とも気の抜けた悲鳴とも溜め息ともつかぬ声が漏れる。いつの間にかしろい頬や耳元がじんわり赤くなっていた。
 あのちいさなこどもが帰ってくれば、彼女と話し合う時間は取りにくくなる。そう思い、濡れたままの床のことは都合よく後回しにしてロイドは半歩ヨルとの距離を詰めた。
「あの、ヨルさん」
「は、ははは、は、い」
「突然のことで驚かせたかとは思いますが、あの件は、決して気の迷いとかではないので」
 何かから身を守るように胸の前で通勤鞄を抱えたヨルが、ぴゃっと竦み上がる。一体何のことかと惚けられるほどヨルは腹芸に通じていない。本気で気付かないか何もかもすっ飛ばしてお互い忘れましょう! と無意味に元気よく宣言されるか、と考えていたロイドの想像はある意味で裏切られた形だ。
 『あの件』が一応いつの、何の話であるかはちゃんとわかっているらしい。良い傾向である。
「ええと、……あの、それは」
「ヨルさんをからかってやろうとか、そういう話でもありません。……嫌な思いをさせていたなら申し訳ありませんが」
「い、嫌な、って」
 ぷしゅうと頭から湯気があがりそうなほど顔を真っ赤にさせて、鞄を抱きしめたままヨルは動けずにいるらしい。何かにつけ色々と世間一般でよくある反応を期待できないのがヨルという女性だが、この反応は少なくとも嫌すぎたり激怒しているわけではない、ということで問題なさそうだ。とりあえずは。
 そこから数瞬待って、手も脚も出ないことを確認し、さらに半歩。温度がさがってきた熱湯が足元でぴしゃんと小さく音を立てる。
「……『あれ』は、嫌でしたか」
 できるだけフラットな口調を意識してそう尋ねると、ひゃわわ、といよいよ限界が近付いてきたらしいヨルの腕の中で通勤鞄がみしみしと嫌な音をたてはじめる。通勤鞄に罪はないが、ここはしばらく我慢してもらいたい。何せヨル相手に今は正念場であるので。
「い、いい嫌、嫌と言うかあの、その」
「嫌と言うか、何です?」
「……び、びっくり、しました……」
 真っ赤な顔を俯かせてそんな事をぽしょぽしょと囁くので、つい頬が緩みそうになる。
「それはすみませんでした。今後はできる限りしないようにします」
「お、お願いしま……って、で、『できる限り』!? 『できる限り』なんですか!?」
 そこ気付くんだ、と内心思わないでもなかったが、さすがに「もう二度としません」なんて厳守しきる自信のないものを、しません、とは断言できない。堂々とした嘘つきでも節度と限度というものはある。
「はい。二度としません、とはさすがに言えないので。ご迷惑ですか」
「め……迷惑と言うかその……ええと……」
 胸に抱いた通勤鞄のストラップがみしみしと音を立てて本体から泣き別れになりかけていた。当然ヨル当人はそれに気付いていない。罪なき通勤鞄の尊い犠牲にほんのり哀悼の意を捧げつつ、さらにもう半歩を踏み込んだ。もう手を伸ばせばぎりぎり指先が届きそうな距離にヨルは立っている。
「迷惑ではなかったのなら、何だったんですか」
「それは、あの、……っい、色々! そう、色々です!!」
 返答に窮してしまったため煙に巻こうとでも考えたのか、急に勢いこんでヨルはまくし立てた。
「どきどきしましたし、まさかそんな事がとも思いましたし、ものすごくびっくりしましたし、あれからもうロイドさんのお顔を見ることさえどきどきしてしまってどうしようと思っていますし!」
 最終的には、ふんす、と鼻息荒く宣言するような口調で胸を反らされてしまう。
 恐らく彼女自身としては百点満点の百二十点くらいだったのだろう、顔に赤さは残っているが多少冷静さを取り戻したように見えた。……のだが、まあ、ロイドにしてみればどこもかしこも穴だらけの言い分である。
「……要するにどきどきしてびっくりして大変だったと」
「はい! そうです!! 本当に大変でした!! 今もわりかしそうですが!!」
「なるほど。つまり大変だったものの嫌ではなかったし迷惑でもなかったということで良いですか」
「ええ、はい!! ――………………え?」
 我が意を得たりとばかりに笑顔で力一杯首肯しておきながら、ヨルは数秒ほど沈黙し、最後にどこか愕然として見上げてきた。
「どどどどうしてそうなるんですか!?」
「どうしてって、ヨルさん嫌だとも迷惑だとも仰らないので。違いましたか? 迷惑だ、嫌だ、と言われればさすがにボクも控えますけど、どうやらそうではないようなので」
 冷静にヨルの言動の内容を要約してみせると、ぐうっと喉元を鳴らして黙り込む。そのまましばらく言葉を探しているような間があったが、結局彼女はまた耳まで赤くなって俯いてしまった。不本意だが認めざるを得ない、というあたりだろうか。
 おかしな深追いをすると手脚が出かねないなと判断し、そこから距離を詰めることはせずにおく。床を見つめているヨルの視線へ先回りするように、腰を折って顔を覗いてみた。
 何か、とても言いたいことがあるのにうまいこと言葉にならない、そんな時のあのちいさなこどもとよく似た顔をしているな、と考える。
「我ながら、やる事と言う事があとさきになって申し訳ないのですが」
 しかしそんな表情も、恐らくは悪い兆候ではないはずだと、そうロイドは推測していた。目をまともに合わせる勇気が出ないのかちらちらとこちらを盗み見るヨルの目元は険しくなく、むしろほんの少しだけ熱をはらんで潤んでいる。
 そんな風にロイドを、いや黄昏を見てくる目には正直いくらでも見覚えはあった。数え上げればきりがない程度に。そしてそんな視線にいちいち心を揺らがせている暇はなかったし、実際揺れたことだってついぞなかった。
 しかしどうだろう、ヨルに限っては。彼女だけは。
「ヨルさんが好きなんです」
 まだコートに包まれたままの肩が小さく震える。
 手脚はまだ出ない。通勤鞄の本体から千切れてしまったストラップがぱたりと音を立てて床に落ちた。
「偽装結婚なのだから、約束が違う、という事であればこれきりにします。でも、そうではないのなら」
 怯えるような、でも怯えてなどはいない、そんな赤い瞳がゆるゆるとこちらへ向けられる。
 うまく仕向けて、上手にあやして。ありとあらゆる手管で標的の歓心を買い興味を惹き、自分にその目を向かせてきたことなど数限りなくあった。手の平の上でいいように踊らせることなど、何も難しくないと思ったことすらある。
「少しくらいは自惚れてもいいんでしょうか」
 策など弄さず、ただむきだしのままの言葉を賭けの盤上へ乗せられるほどには、もう青くはない。しかし今この時だけは一切合切なにも持たぬままでなければ、そうでなければ、と思っていたのも事実だった。果たして彼女は、どう答えるだろう。わからない。ただ、恐らく最悪の結末だけは避けられるはずだと、そう心のどこかの片隅に残った狡猾な諜報員の計算が告げてはいた。
 うろうろと何度も目のやり場に迷い、三度ほどぎゅっと強く閉じて、ようやくヨルは意を決したように口を開く。
「……わ、私、これまでどなたかとお付き合いする、という事を一度もしたことがなくて」
 聞いたことはないが、それは知っている。正確には、そうだろうな、と随分前から確信していた。
「そういうわけで、その、同じ気持ちをお返しできるか、お返しできているのか、自分でも全然わかりません」
 それはそうだろうな、と納得する。何しろ当のロイドでさえ同じことが言えるのだから。いつもより少し早い口調で言い切り、ロルはどこか切実ささえにじむ表情で軽く身を乗り出してくる。
「……そ、それでもよろしければ、」
 ――ぐう。
 何とも表現しがたい、ひどく長閑な腹の虫の声が、くしゃくしゃになった通勤鞄の下から聞こえた。赤い顔からものすごい勢いで血の気が引いて青くなり、次いで急激に戻ってきて真っ赤になる。
 食い意地が張っていると言うなかれ、彼女は一日の勤務を終えて帰宅したばかり。しかも運の悪いことに、目の前のキッチンでは今晩の夕食の支度の真っ最中だ。旬のシュパーゲルだってカットボードの上に載せられたまま、今か今かと調理を待っている。
「す、すすみません本当に私ときたら……!!」
「いえ、もうそういう時間ですからね。アーニャが帰ってきたらすぐ食べられるようにします」
 真っ赤になって恥じ入るヨルを宥め、まだ着たままのコートの肩を、早く着替えるようにと送り出す。そそくさと自室に逃げていく背中を見送ってから、さて、と水浸しのままのキッチンに向き直った。
 もやもやいっぱい、と指摘してきたちいさなこどもの声音を思い出す。娘から下された仲直りミッションはこれで達成されただろうか。アーニャの言う所の『もやもやいっぱい』はさておき、どうにもこうにも一筋縄ではいかない長期の別の問題が持ち上がってしまった気もしないでもない。しかし、まあ、お互い胸の中に抱えているものが何なのかよくわかっていないよりも多少は、ましだろう。
 濡れた床を手早く始末し、下茹でに入る所だった材料を集めコンロに火をつける。ほどなく煮立ってきた鍋をながめ、ふ、と溜め息を落とすように小さく笑った。
 人の心の機微などとうの昔に知り尽くしたとばかり思っていたが、まだまだ研鑽が足らないらしい。何せ現在進行形で、恋という何とも厄介なものの形を把握しようと一杯一杯なのだから。

(終)

END

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