皆さんは「神」と訳されているところのナニは一体どのように思っておられるでしょうか?矢内原忠雄氏は「ヨブ記」42:5~6の注解において、「神はヨブの苦難の原因を説明し給わず、又 神の審判が義しきことを積極的に説明し給わなかった。即ちヨブの抱きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。それは哲学的解決ではなくして宗教的解決であり、頭脳による解決ではなくして生活による解決であり、知的解決でなくして信仰的解決であった。」(矢内原忠雄「全集」13.p300)と、たいへん力強い言葉を述べておられます。しかし、遠藤周作氏の名作『沈黙』の中でフェレイラという名の宣教師のセリフに「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」という言葉があります。旧約聖書学者の深津容伸氏も「日本人とキリスト教」で指摘しておられるとおり、そもそも日本の神話には絶対的神観がなかっただろうから、私も、すくなくとも江戸時代以前の日本人には人間と隔絶した神といった神観は無縁であったと思います。だからと言って、いかに日本における「神」が人間的であるにせよ、すくなくとも筒井康隆氏の『エディプスの恋人』という小説で言われている程にひどいものとは次元を異にした全く無関係であることだけは確かですね。特に聖書が示す神はそういうものとは異質であるという一例を、旧約聖書学者の関根清三氏の次のような言葉から確認できます。以下、引用。太字は引用者の私による。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』中公新書 p77~80)
以上のとおり、「神」とはその存在を信じる者たちにとっては存在の根拠…しかも絶対的な根拠です。しかし「存在」とか「根拠」とか「絶対」とかいった表現は形而上学的であって、聖書はそのような神が自己限定による啓示において人格神として人間の認識対象となり創造主として人間との関係を始める神話を物語っています。使徒パウロは「これ凡ての物は神より出で、神によりて成り、神に歸すればなり、榮光とこしへに神にあれ。アァメン。」(ローマ11:36)、「神と稱ふるもの、或は天に或は地にありて、多くの神、おほくの主あるが如くなれど、我らには父なる唯一の神あるのみ、萬物これより出で、我らも亦これに歸す。また唯一の主イエス・キリストあるのみ、萬物これに由り、我らも亦これに由れり。」(コリント一8:5~6)と語っているとおりです。両者に共通することは、根源を意味する「~の中から」(エク)、媒体を意味する「~を通して」(ディア)、終点を意味する「~へ(と)」(エイス)…という3語です。 ここでは前者の方をパワポに書いてアップしました。原文には「出て」「成り」に当たる語はなく、彼(=神)に「向かって(いる)」と意味するところを、神に「帰する」と訳しています。同じくコリント一15:27~28にあるとおり、終末まではキリストが神の全権を任されているにせよ終末にはその全てを返上してキリストも神に服従します。そして神は「すべてのものにおいてすべてと」なられるわけですが、それって私見では要するに神が自己限定(啓示)なさる前の本来の神になるということです。そのイメージでいちばん近いのはおそらくスピノザの無限実体としての神…「神即自然」の汎神論と云われてきたそれでしょう(…自分は汎在神論的に受けとめています)。その、創造主と被造物といった関係自体が解消される絶対の中に我々個々人も解消して無になりつつ有になってゆくわけですから、その再創造的スケールを想えば、自分の死体が棺の中で焼き尽くされる恐怖なんてものは霧散するわけです。
< 八木 その可能性があるということでしょう。つまり、パウロはこの世の終末論的完成として、そういう世界を考えていた。万物の根源で絶対の超越である神がそのまま万物と一であるという矛盾的自己同一の世界です。ただ、その状態は現出してはいない。(中略)パウロ神学はプロチノスとは違って、流出説ではないけれど、当時の宗教哲学でよく用いられたのと共通の前置詞を使っている。だから、その場合には、「人格神が世界を創造した」とそう考えているには違いないけれど、しかし「エック」と「ディア」をわざわざ使い分けている。それで「すべてのものが神から出た」と言い、それから「すべてはキリストを通して成った」と言うのです。
秋月 「ディア」は “ through ” ですね。“ by ” ではなくて。
八木 ええ。「通して」です。それで、神が「すべてにおけるすべてだ」と言うのです。そうすると、これは少なくともユダヤ教的な人格神とは違ってくる。あまりよい言葉ではありませんが、存在論的な面が出てきている。(中略)現にパウロは働きの面では神と人の一を言う。人の働きは神の働きに基づくけれど、それと一である(『ピリピ人への手紙』第二章十三節)。ただ、パウロはそこをつきつめて展開してはいない。「一切に内在する一切としての神」をつきつめるとどうなるかということは、パウロは展開して語ってはいない。>(八木誠一、秋月龍珉著『親鸞とパウロ 徹底討論』青土社 p168~179)
形而上学的な事柄というのは関根清三氏が言われるとおり「独断的な言い方」でしか表現できない面があります。それはかつて瀧澤克己氏も言われたことだと思います。ある種、直観的で直覚的であり直接啓示的な面があるのだと感じます。それで自分もさらに以下、独断的に語るしだいですが・・・、聖書が示す神は啓示前に絶対・無限であり、人間を含む万物の存在根拠であって、自己限定としての啓示によりその神が創造主として物語られ始めるのです。その啓示ということからして神は意志的であり、人間から観れば人格的であるとでも言うしか言いようがないわけですが、神が御自分と似たかたちに人を造ったという神話表現を真に受けるなら、言わば神格が本来、意志的であり人格的なのです。聖書の神話においてキリストは創造主と誤解されやすいですが、「ディア」などの前置詞に注目するならキリストは創造主ではなく神の創造のわざの媒介者であることがわかります。その点で創造者であるとは言えるでしょう。しかしこのような神話自体が教義化されて現代においてもそのまま客観的事実であるかの如く無理に信じさせようとすることが愚かであり、そのような無理強いはしていないと教会は嘯くでしょうが、歴史の上では正統主義による異端弾圧という、それこそ客観的事実があるわけです。キリスト教という名称だからキリストが神であるというわけではなく、聖書の神話においてもキリストは神にこの世の全権を委託されてはいるものの、預言者・王・祭司の三職を通して神と人とを仲介しています。すなわち「子は親を映す鏡」として、キリストが神に対する姿をみれば神の偉大さが反射的にわかるのです。要するに神は存在することに意義があるのです。なぜなら神の存在が我々の存在根拠だからです。だからいわゆる神義論は無用であり不毛なのです。救いには願い事としての祈りも不要です。聖書の宗教は神社の宗教のような御利益目的ではないからです。自分自身に出たところがあり帰るところがあるということが救いであって、キリスト教を含めて世の宗教を垣間見ると、それ以上に何を求めるのか…?と言いたい気分になります。人生が与えられていることが恵みであり幸いなのであって、その境遇やら社会状況などがどんなに不条理に感じられても、神の存在が自分にとっていかに喜びかを思えば虚無感に襲われることもないので自死の欲求が生じることなく、救いの意味もおのずとわかってくるのです。そしてそのような瞑想と省察を経て自分にとっての神観が成立していてこそ、「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし(主を喜ぶことはあなたがたの力です)」(ネヘミヤ8:10 文語訳 / 口語訳)といった聖句にも共感し得るのであって、いくら聖書からなにがしか感応する言葉を挙げて並べたところで、なぜその言葉に感応するのかが自覚されていなければ意味は無いのです。すなわち、たとえば神が共におられるという主旨の聖句(創世記28:15他)が励みになるという人がおられますが、その共におられる神がどのようなお方だから励みになるのかをよく自覚しておられるならよいですが、なんとなく…といった曖昧な神観も日本人の場合には多々あるような気がします。特に日本人信徒には、遠藤周作氏や井上洋治司祭の著書に代表されるように、神観が愛とかゆるしとか人間にとって都合のよい甘い面に偏っていて(…それが人権イデオロギーによって聖書が悪用され、神の主権がおろそかにされている現状がある)、裁きとか怒りなどの面が後退してバランスを欠く傾向があるので、倫理的な内容の聖句はなおさら要注意ではあります。それでもその人なりの信仰生活が成り立っているならそれはそれでその人の自由勝手であり、べつによいと言えばよいのですが、その人がいざ逆境に陥った場合などは、曖昧な神観では生き抜く力が出てこないということもあるわけで、なるべく平時からしっかりとした神観を有って神との関係を心から喜んで生活していたいものですね…という話です。そうすれば不毛な神義論的思弁に陥ることも避けられます。
ところで五木寛之氏は、「絶対者を意識することによって、自分の背負った重荷の重量が減ることはありません。目的地までの距離が近づくこともありません。信仰をもったからといって、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもありえません。でも、痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力があたえられるとしたら、その価値はあるのではないか、と私は思うのです。」と述べておられます(『自力と他力』ちくま文庫 p65)。つまり、救済宗教においては神の絶対性という属性自体も救いのための媒体にすぎないのです。絶対は絶対者と言う人格的存在であってはじめて救いに結びつきます。旧約聖書学者の並木浩一氏は「神がすべてで、神は絶対なのだ、という言い方は決して聖書的ではない」(『旧約聖書の基本的感覚』日本ナザレン教団 出版委員会)と言われる一方で「人格神」を信じる理由の一つとして、「神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。」と述べておられます(『人が孤独になるとき』新教出版社)。私見ではこの「相対化することができ」る理由は、「神賛美」の「神」が実は、並木氏が「決して聖書的ではない」と否定しておられる「絶対」性を有しているからであることは明らかです。絶対であられる真の神によってしかこの世の絶対的な偶像を相対化することはできないからです。ましてやそれがかけがえのない個人の尊厳にかかわる人格的・精神的な事柄であるとなればなおさらです。しかし聖書には確かに神が絶対であるといった直接的な表現はありません。それもそのはず、上記のとおり神は自己限定(啓示)以後には(…無時間・永遠において「前」も「後」も無いが便宜的に時制をあてはめるとして…)対象化されたのだから絶対ではなく、聖書の神話で物語られているとおり、むしろ擬人的に描かれているとおり有限かつ相対的な存在なのです。その意味ではイエスという人間になって死ぬこともあり得るわけですが、それはあくまでも神話ですからそのまま史実であるかの如く真に受けとるわけにはいきません。そこにキリスト教の信条・教義に対する批判の意図があるわけです。現代の信仰共同体においては神話に彩られた信条や教義などは程々にして、信徒に対して押しつけるようなことは控えて然りです。信条は究極的にはあくまで救いの最小単位である信徒個々人が主体的に担うべき事柄です。そのうえで参考にするものとして教会の信条・教義があり、また、それに対する批判的な学説等もあるわけです。最後に量義治氏の次の2つの言葉を引用して終わります。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。」( 『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p108~109)
「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。(中略)しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(同上、p236)