気が付けば自身の姿が変わっていた。それまで健人が身に付けていたTシャツもジーンズも、左手のブレスレット以外は青と黒を基調とした衣装ーー自身のデジタル画で描いていたそれとなり、運動神経のなかった身体は、瞬時に敵からの攻撃を往なし、捌いていく。
「なんだよ、これ…なんでこれが…」
相対する敵は、この夜道にあって影を思わせる程の暗い体色をした怪物。その身に包帯を思わせるボロ切れを纏い、健人にその拳を繰り出してくる。それを躱し、防ぎ、避ける。どういうわけか、相手より飛んでくる攻撃を見抜くことができ、携えた剣を反射的にそこへ構えることが出来た。
「どうなってんだ、俺」
怪物は先程まで自身を害さんと襲いかかっていたが、今や状況は逆転していた。現在の健人には、怪物の身を剣で刺突し、切り払うビジョンさえ見える。しかしこの直前まで、一応は普通の人間として生活していた。
故に、抵抗の上であってもそんな覚悟はできていない。健人は叫びと共に怪物を蹴り飛ばし、すぐにその場から跳び退って逃げ出した。胸中にあるのは、ただ状況に対する恐怖だけだった。
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目が覚めるとそこは自宅アパート、自身の部屋のベッドの上。朧気な意識が現実に戻っていく中、眠る直前の記憶を想起しようとするが、思い出せない。思い浮かぶのは、超常的な怪物に襲われ、強大な力による変身。まるでテレビの特撮かのような非日常だった。
「俺も、いよいよか?」
趣味が高じるあまり、遂に現実と非現実の境界が失くなってきたか、或いは遂に精神をやられてしまったか。そんな思いに独り言ちつつ目を覚ます。しかし流石に夢だろうと捉え、枕元にあるスマートフォンを開くと、そこには通知が一件入っていた。
現在の時刻は4月21日の午前5時53分。そして通知を開けば、メールを昨日の深夜0時17分に受信している。内容を見れば、"あなたは誰?何があったの?"とだけ記されており、迷惑メールの類いであるとすぐに察したが、直後に一瞬手が止まった。そこに表示された差出人のアドレスが、見たことない文字で表記されていたのである。どういうことだよ、これ…不安と気味の悪さが、背筋を走った。
意味がわからない。その手の人間の新しい手口だろうか。そんな思いがない交ぜのまま、健人はこの奇妙な迷惑メールを削除した。
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例のごとく気怠い一日を過ごしていた。掛ける情熱も意思も希薄なまま、ただ机に座すだけの英道大学での講義の時間。やたらと店長から指導を受ける、場末のアンティークショップーー安場佐田でのバイト。口をついて出てくる無意味な謝罪。辛うじて繋ぐ平穏を維持するだけの生活。友人である桧山初樹と学食で飯をつまみながら、冗談として笑いを交え、くだを巻くようにして彼に話を聞いてもらうのが、花森健人の数少ない楽しみだった。
「ていうか、マジで言ってること怠いんだよな、あの店長。こないだだって商品の配置がなってないってーー」
「そういう人っているよな、重箱の隅つつくみたいな」
「そうそう、重箱なんてああいうとこじゃ売り物だろ?つついてんじゃねえよ、みたいな」
希望、或いはやるべきことというものも、あるにはあった。それは、自身の追ってきた”美しいもの”、その姿を表現すべく、あるデジタル画を描くこと。青と黒を基調とした衣装を着たその人物の姿は、幼い頃から憧れた特撮ヒーロー番組の延長ではある。やがて掲げながら腐敗した”正義の味方”、”優しい人”などという夢の残滓をくべ、それを描き上げる。それが花森健人という命を続ける、ささやかな目的の一つであった。そしてそんな苦虫を噛み潰したような日常が、ただ続くと思っていたーー。
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影の怪物は、先の夜から朝憬市(あかりし)を彷徨っていた。"獲物"からの予想だにしない反撃を受けたことが、怪物をそうさせていた。より強い力を持ち、奴を狩る。その衝動が怪物を突き動した。そんな怪物の前に、ふと香るは人間の絶望の匂い。主より与えられた"印"が疼く。その対象となったのは、虚ろな目をしたまま、俯いて歩くサラリーマンの男性だった。街角から彼を追い、裏路地にて包帯で絡めとる。悲痛な叫びを上げる男の、絶望に染まった命を食めば、そこから溢れた怨嗟の念が、怪物を奮わせた。
"想定外、落とし穴、ミスばかり…怒鳴り付けられるのが俺の人生か?俺の人生が失敗とでも言うのか!?"
暗く染まった羞恥心と、人に、社会に叱責され続けてきた自我、怒りと苦痛に満ちたその声は、それを取り込んだ怪物を"深化"させる。
"そんなの俺ばかりじゃないよなぁ…皆ここまで堕ちてみろよ、ええ!?"
サラリーマンだった男の絶望の感情は、怪物をアリジゴクと思わせる姿に変えた。程なく夜の虚空に響く異様な物音に、近くにいた者もそちらを窺い見に来るも、しかし既にそこには何者も居なかった。
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4月24日の夕方、健人は桧山初樹と共に大学のゼミに提出するレポートを作っていた。
「学科長も怠いレポート書かせるよりさ、学生自身の勉強時間を確保してくれねえかな」
「言って花っち、机着けるのか?」
「痛いとこつくな…ハッサン」
内容は"近年の精神保健福祉の現場に於ける個別支援技術についての考察"とあるが、健人は自分で考えて書く気など微塵もなく、文献からそれらしいところを切り貼りし、尤もらしい文句を並べて提出するーー所謂コピーアンドペーストをしていた。一方初樹は真面目に情報と自身の考えを擦り合わせて書いている。健人はそんな初樹の姿勢を尊敬し、また羨望していた。しかしーー。
「俺は才能無いのわかってるからな」
「才能なんて俺だってわからないぜ、花っち」
「いや、ハッサンはよく取り組むし、俺みたいにくだを巻くような奴の話も丁寧に聞いて、丁寧に返してくれるじゃん」
「それは…」
「それ、俺から言わせれば才能だよ。少なくとも分かってる面してる連中より、よっぽどな」
微笑みながらそれだけ告げると、健人はまた名ばかりのレポート作りの作業に戻った。
それから2時間後、作業を終えた頃には、英道大学は校門を閉める直前。時間は午後7時30分を回っていた。それから飯でも共にどうかと二人で話していたとある路地で、事は起きた。
そこに居たのはアリジゴクを思わせる姿をした、異形の怪物だった。
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背景には車が走る街の夜道があったが、自分達の前には確かに異形の存在がいる。日常と非日常が交錯する異様な光景に、健人は戦慄した。一度目ならともかく、二度も出くわした以上、最早ごまかしようはない。あの怪物は夢じゃなかったーー。
「花っち、あれって…」
「俺もよく分からない。多分ヤバいくらいしか」
こちらを見やる初樹に、伝えられるのはそのくらいだった。そうしている間にアリジゴクはこちらに襲いかからんと間合いを詰める。
「花っち、逃げろ…俺が引き付けるから」
「ハッサン、何言ってんだ!」
「俺はちょっと、やることがある」
ここに来て初樹が突飛なことを言い出したことに、健人は面食らった。冗談じゃない。アレが夢じゃなかったなら、怪物は人を襲う。だというなら自分も初樹も危険だ。アレが夢じゃなかったならーー。
「置いていけるかよ!ハッサン!」
「いいから行け!」
そこにアリジゴクが地面のアスファルトを砂に変えて陥没させ、二人をそこに引きずり込んで捕えんとする。更に駆け出して距離を詰め、その身を切り捌かんと、鋏を思わせる二股の刃を振り下ろしてきた。だけど、アレが夢じゃなかったならーー。抵抗の術は、ある。その時、健人のブレスレットが光を発した。次の瞬間、アリジゴクの繰り出した刃の攻撃を、健人はその剣を以て防いでみせた。
「花っち…!」
初樹がこちらを見ているのに気付きつつ、健人自身も理解する。自身の身が、今一度変化したことにーー。
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「…なんなんだよ、お前ら!」
アリジゴクが鍔迫り合いになりながら、姿の変わった健人は大声で言った。初樹はその光景に圧倒されていた。
「こんなことが…」
「ハッサン!早く下がれ、危ない!」
「…でも、足が!」
健人の強い語気に我を取り戻し、初樹はそこから下がるべく足を上げようとこそするも、砂になった地に掬われた足はそこから動かない。
「クソっ!」
また初樹に意識を割いた健人の虚を突き、アリジゴクの刃が彼の剣を弾き飛ばす。そしてそのまま健人を切りつけた。
「しまった!うあぁっ!」
健人の叫びが辺りに響くも、周囲には彼ら以外誰もいない。絶体絶命の中アリジゴクからの攻撃は続く。だが後ろの初樹がこの刃を受ければ、一溜りもない。物理的にも、状況としても、退くわけにはいかなかった。
「もういい、花っち!やめてくれ!」
しかしアリジゴクが強く猛り、一際刃を大きく振り上げたその時ーー。弾き飛ばされていた筈の健人の剣が、アリジゴクの身に深々と突き立てられていた。
状況に思考が追い付かないアリジゴクが、自身に突き立てられた剣を見る。確かに剣は弾き飛ばされていたが、先の一瞬、左手のブレスレットの光が明滅すると共に剣は健人の元に戻ってきていた。健人は怒りと共にアリジゴクの身を切り裂かんとそのまま剣を振り下す。そこに相手を害する覚悟を問う余裕など、最早なかった。同時に響いたアリジゴクの痛みの叫びが、健人の聴覚を不快に震わせる。だがそれと同時に、初樹と自身を捕えていた地面の砂の力が緩んだ。
「ハッサン!行くぞ!」
健人はアリジゴクにもう一太刀浴びせ、またその身を蹴り上げると、その向上した筋力で初樹の身体を引き上げる。初樹は一瞬アリジゴクを見やるも、健人の手に引かれると二人でそのまま走り出した。
しかしアリジゴクもまた、その人間離れした身体能力で健人たちを追う。初樹は普通の人間である以上、彼を連れて逃げきることはできなかった。その刃は尚も二人を狙い、そして迫り来る。健人の剣が初樹と位置を入れ換わってそれを防ぐも、足場はまた砂となり、二人をそこに引きずり込もうと足から絡めとっていった。
「またかよっ!!」
先の意趣返しか、アリジゴクの刃による刺突が健人に迫る。また初樹が強く叫ぶ声が、健人には聞こえた。
「花っち!!」
しかし、健人は左手のブレスレットを素早く突き出して構えた。その中心には青白い光の奔流が渦を巻き、盾を形成して二股の刃を防ぐ。
「失せろ、クソッタレがぁ!!」
それだけではなかった。光の奔流ーーその力はいとも簡単に、刃を、その構成を砕き、崩壊させていく。そしてその力は、アリジゴクという魔と堕ちた者もまた滅ぼしていった。
その断末魔は、確かに夜の闇を震わせるも、程なく消えた。後に残ったのは、途方もない事態に取り残された二人の青年だけだった。