自分史、私

はしがき

まず初めに、私はここに、例えば、色恋沙汰やネガティヴすぎるような、同情を誘う様な出来事は、一切書かない。
理由は様々だが、あまり書くのは好きではないのだ。
今からここに、私の18年間を書き記す訳だが、私はこの自分史を通して、今一度、霞のように消えかかっている過去を振り返っていきたいと思う。

高校生

ウイルスや思想に左右され、惑う事態になっている。私もまたその一人であった。
都内の専門学校への進学が決まった私は、今以上に、この混乱の渦に巻き込まれぬ様にならなければいけない。

2019年11月22日に初めて確認されたとされるウイルス性肺炎。当時高校2年生だった私は、ちょうど、政治やニュースに関心を持ち始めていた頃だった。
国内での流行は2020年に入ってからだったため、当時は今ほど大きく報道されてはいなかったが、非常に恐怖した記憶がある。
未知のウイルスの発生、拡大はもちろん恐ろしいと感じていたが、私が当時何より恐れていたのは、不確かな情報による大衆の混乱であった。(私含め)
この様なことになる前、大体高校入学時まで一旦遡ってみる。
はっきり言うと私は自分から望んでこの学校に来たわけではなかった。当時の私はやりたい事もないまま高校入学を迎えた訳だが、まあ、ある程度楽しく過ごせれば良いだろう、といった具合だった。今現在はどうであれ、入学当初から仲の良くなった人もありがたいことに多かった。

音楽との出会い

部活動は、入学前から、軽音楽部に入部しようと決めていた。これは大きな選択だった。
ベーシストとして軽音楽部に入部した。初めて楽器を始めた。
軽音楽部での様々な出逢いは、とても良いものであった。入部当時の部長は、今現在も関わりがある。同い年の友人、バンドメンバーも出来た。
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本格的に音楽に興味を持つようになったのは高校2年生の夏頃だった。
大きなきっかけなどがあった訳では無かった。先輩のライブを観に行ったり、自分がライブをしたり、様々なライブハウスに、観る側や演る側で足を運んだ。
そういったことの積み重ねで、音楽への興味がだんだん強くなっていった。
いつからか曲を作り、いつからかギターを持った。

この高校に入学して良かったことは、間違いなく、軽音楽部に出会えた事だと思う。

中学生

中学3年生

先述の通り、やりたい事が無かった中学3年生、普通の男子。
珍しく友達もある程度いた気がする。
中学校は〇〇○市立〇〇中学校というところだ。全学年4クラスだった。
今思い返すと、中学3年生の頃は、少し反抗期があった様な気がする。
両親が発する言葉1つ1つに、私は圧迫されている様に思えた。当時、それはかなりのストレスだった。

当時の偏差値は57ほどだった。勉強は本当に嫌いであったため、偏差値ギリギリの所への挑戦は全くといっていいほど望んでおらず、偏差値40台の学校で十分だと思っていた。初めての「受験」というものは、正直希望などは一切なく、ストレスしか感じなかった。

中学2年生

そんな状況になる前、中学2年生の自分。
今以上にのうのうと生きていた気がする。

当時は進級後、少しして、野球部に転部して活動していた。
元々少年野球を1年ほどやっており、それを知っていた当時の担任(野球部の顧問)からの誘いだった。
私は2つ返事で誘いに乗った。
少年野球時代に同じチームだった人、対戦経験のあるチームに所属していた人など、中学校以前からの友人や顔見知りの人が多くいたのも、2つ返事の理由だったかもしれない。
久々にして中学校初の練習。
正直、私自身も驚くほど、全く動けなかった。
基礎的な事は、ある程度は出来たが(未熟ではあるが)、おそらく小学校高学年の子の方が上手いと思う。そのくらい酷いものだった。
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その後の練習も、久々に復帰した私にとっては、過酷なものが多かった。
その中でもなかなかまずい事が一度だけ起こった。
真夏のある日のことだった。
元々人数が少なかった私たちの学校の野球部は、隣の中学校と合同で練習や試合に臨んでいた。
ひたすら走る、その練習で、熱中症になった部員が続出した。
私もその1人だったのだが、身体があまり強くないためか、私の症状が特に重く、学校から救急車で搬送される事態になってしまった。(意識が朦朧としていたため、私自身は当時の状況はあまり覚えておらず、後から親に聞いた話による状況しか分からない)
気がつくと、私は病院のベッドに横たわっていた。
隣にはとても心配そうな母の眼差しがあった。
とりあえずその日は入院する事になった。
初めてここまで重い熱中症を経験した私には、人は案外簡単に倒れてしまうのだな、という事と、チームメイトに申し訳ない、という気持ちがあった。

中学1年生

入学式。
6年間背中に背負っていた黒い箱を降ろし、少しずつ大人に近づいていくような気がしていた。
後に書くが、私を蔑ろにした人間が何人か(グループのリーダーの様な人間にくっついていた人間)中学生になるや、歩み寄ってきたのは、なかなか気味が悪かった。
中学校最初の思い出は、これだった気がする。

その後少しして、悩みが出てきた。
部活動への入部だ。
私の学校は、部活動への加入が強制されていたため、5月くらいまでに、どの部活動に加入するのか決めなくてはならなかった。
結局私は、元々絵を描く事が好きだったということもあり、美術部への入部を決めた。

しかし、環境はあまり良いものではなかった。
やる気のない部員、先輩。
私は結局、1年間で、部活動内で1枚も絵を描く事はなく、2年生になって、転部したのだった。

小学生

記憶があまりない。小学校にいた頃、私は1番何も考えずに生きていた気がする。
今思えば楽だった。それは肉体的にも精神的にもだ。
今の私は、常に何か考えてしまっている。
この頃はそれがなかった。ただ笑って(いつもではないが)
過ごしていた。

桜舞い散る季節、入学式。
期待ばっかりだった。あまり複雑な事を考える年齢でもなかったため、不安はなかった。
1年生の担任は、眼鏡の女の先生だった。いかにも厳しそうな教師といった感じだった。ただ、優しさが溢れていた先生だった。
はじめての通学路。はじめての通学班で通った道。今でもたまに通るが、本当に懐かしい。
友達も少し出来た。とても嬉しかったのを覚えている。
1年生は特に何もトラブルなく無事終えた。
そして進級、小学2年生になった。
この頃から学童に入った。友達が学童にいたというのが一番の理由だった。
親に相当頼み込んだのをいまだに覚えている。
学童でも、無事に馴染む事ができ、あっという間に小学2年生も終わりを迎えようとしていた。

しかし、未体験の出来事が襲った。

2011年 3月11日 午後2時46分。

ちょうど帰りの会をしていた時だった。
鳴り響く緊急地震速報の音とともに、大地が大きく揺れだしたのだ。
一瞬、何が起きたのか、理解できなかった。

東日本大地震。

地震の規模はマグニチュード 9.0で、日本の観測史上最大規模だった。
慌てて机の下に潜る生徒と先生。揺れが収まる気配もない中で、先生なんとかテレビをつけると。
画面に映し出されたのは、混乱するテレビ局、ニュースキャスター、激しく揺れる定点カメラの映像だった。
大変な事になっている。テレビをつけたその時、幼いながらハッキリと理解した。
その後も、分単位での余震に襲われていた。なんとか避難経路を通り、校庭へ出た。
不幸中の幸いとでもいうべきか、私の学校では怪我人は1人としていなかった。
保護者と連絡をとる先生。正直あの時、学校で1番大変だったのは先生方だった思う。
保護者が迎えに来てくれた生徒から順次帰宅していった。
私の両親もすぐに駆けつけてきてくれた。
家に帰ってからも気は休まらなかった。
鳴り響く緊急地震速報。余震も強いことが多かった。
ニュース番組では津波の様子や、分単位で画面上部に出てくる地震速報。停電していた時もあった。家族はそばに居てくれたが、私は少なからず恐怖していた。
その後も怯える生活はしばらく続いた。
昼間の計画停電もなかなか辛かった。普段はテレビを常につけているため、ああいった音のない生活は少し怖かった。
日々の生活に怯えながら、私は進級し、小学3年生になっていた。
相も変わらず学校の人とはうまくやっていた記憶がある。
公園へ友達とよく遊びに行ったりしていた。
まだまだ計画停電などは続き、被災地も復旧の目処すら立っていない頃だった。
未曾有の大災害によって、多くの人が亡くなり、更に多くの人が被害を受けた。
私はこの頃、命の儚さや、震災前のような平和な日常は、当たり前ではないという事を痛感させられていた。

そのまま時は過ぎ、なんだかんだであっという間に小学4年生になっていた。
この頃から犬を飼い始めた。犬の可愛さに惚れ込んだ私が、頼み込んだ結果だった。茨城県のブリーダーの方から飼ったのは、小さなトイプードルだった。
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ノリで「モコ」と名付けた。特に何の捻りもない。可愛いから付けた。
世話は家族全員でする事になった。初めてのペットに、私は興奮していた。
それからしばらくして、少しヒヤッとした事が起こった。
公園で友達と遊んでいた時だった。
午後3時頃だったか、突然緊急地震速報のアラームが響き渡ったのだ。
その後すぐ、少し強い揺れが襲った。
私がその時1番に心配になったのは、私自身でも一緒にいた友達でもなく、「モコ」のことだった。
急いで家に帰った。心配でならなかった。恐る恐る玄関のドアを開けた。そこにはテレビに向かう父と元気に走り回るモコの姿があった。本当に安心した。
地震速報が鳴った瞬間から、家に着くまで気が気でなかったと、父に話したら少し笑われてしまった。
その後に「優しいんだな」と一言。これは少し嬉しかった。
特に褒められたいと思っていたわけでもなかったので余計に嬉しかったのだ。

小学5年生になってからは、付き合う友達が変わってきていた。それまで決して話す事のなかった人と話したりもした。
そのまま小学6年生。ここら辺は特にこれといった特別な出来事はない。
卒業も、特に悲しいなどはなかった。義務教育なのもあると思うが、勉強が嫌いな私は、まだ勉強するのかと、そのくらいにしか思っていなかった。

出生、保育園、成長

今でも時々顔を見せるのが、通っていた中学校のすぐそばにある保育園だ。私はここに4〜5年預けられていた。
1年ごとにここに書き記せるほど、記憶は鮮明ではないため、箇条書きの様な形になるかもしれない。ご理解いただきたく思う。
入園当初の事はほぼ覚えていない。昼寝の時間に家族ごっこをしたり、保育園全体でお店屋ごっこや、すぐそばのちょっとした溝川でザリガニ釣りをしたり(自分はその溝川に何故かバランスを崩し転倒して落ちてしまった。)他にも様々なことをしていた。
室内の滑り台がとても楽しくて、許可が降りている時はずっと滑っていた記憶がある。
帰りを待つ時は友達とブロックで遊んだりおままごとをしていた。
この頃は身体も弱くよく病院のお世話になっていた。
これは後から両親に聞いた話なのだが、本当にこのまま死ぬのではないか、という不安さえあったという。
心も弱かったのか、はたまた寂しかったのか、当時の心境はあまり覚えていないが、園内で何度も何度も泣いた記憶もある。
時には鼻血を出しながら泣いていた。意味がわからない。
出生は埼玉県〇〇市、g数などは詳しくはわからないが、元気に生まれたそうだ。
これが私の、人生の始まりだ。

あとがき

以上が私の自分史。
全てではないが、これが「私」が辿った人生である。
普段、こういうものを書く機会というのはないため、とても新鮮だった。振り返ってみると、色恋沙汰やネガティヴな出来事を抜きにして、ここまで書けるとは、正直思っていなかったため、私自身驚いている。
周りの人のサポートなしでは、ここまで生きてこれなかったと思う。
両親、親族、友人、その他にも関わってくださる全ての方に感謝をしながら、今日も、これからも、生きていきたいと思う。

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END

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