0 第二章第四節「正義」
「このまま我がMILの手となり足となり、この停滞した世界を清く正しいモノにするか。それとも今ここでリセットされ、完全なる傀儡となるか」
____選びたまえ
静寂。息を一つ吐くことさえ躊躇われる。告げられたそれはあまりにも壮大で無慈悲だった。
最初に動いたのは空の半分を覆った黒色。透き通るもう片方の瞳はどこか希望に満ち溢れ、双骨を引き摺って轟音を立てながらコンクリートを踏みしめた。立ち止まった先はヘストの横。隣に向かって端麗な造形を歪めると、デウィットはすぐさま立ち尽くす死刑囚たちに向き直った。
「……善人が善人として生きられる世界が欲しいと思わないか?」
「この世界に蔓延る悪人のせいで、善良な市民が今こうして死刑囚としてそこに立っている。なあ、そんなの不公平だと思わないか。…正直者が馬鹿を見る、そんな言葉を正当化させることが本当に正しいのか?」
「俺が、善人を幸せにする世界を作ろう。俺と、幸せな世界を作ろう。もう二度と善人を苦しませないと約束しよう。だから、おいで」
両手を広げる。まるで世界の汚れを何も知らない無垢な子供のように、キラキラと。輝く瞳で姿形を捉えながら、一人ずつ、善人の名を紡いだ。
ベアル。その先は、天使を思わせる白色に。
ヴァン。その先は、感情で濁らせた金の瞳に。
桜子。その先は、電子機器で顔を覆った少女に。
ユハニ。その先は、薄く開いた口から覗く鋭利に。
エリス。その先は、橙で表情を彩った女性に。
それが噛み合ったのは、たった一人。マリアは呆然とデウィットを見つめる。
名を呼びあげられた者たちは三者三様の反応を見せる。その中でも顔を青くしたユハニの状態は一層酷く、裏切られたと言わんばかりの絶望を露わにし、その体を恐怖に震わせていた。
そんな空気を壊すように、ふわりと揺れる鮮やかな紅赤がにこりと笑みを作る目元を撫でる。
「世界とかどーでもいいけど、私はもっともっと楽しみたいからそっちに行くね!」
誘われるようにマドレーヌが視線を向けた先、楽しそうな色葉は足を止めない。周囲の惨状などなかったことにするような笑顔を浮かべ、ステップを踏むような軽快な足取りで、彼女もまたへストの隣へと並んだ。
それをキッカケとして、今度はベアルが動く。濁った目が捉えるのはへストの姿。まるで今までが嘘のようにベアルは易々と口角を上げ、乙宮の隣へと並ぶ。正面から見える笑顔が乙宮のものと掛け離れていることは、誰がどう見ても明らかだ。
ふと、ルカと目が合う。瞬間、ベアルの表情は急速に無と帰した。否、無と呼ぶには纏う雰囲気が変わりすぎている。それはまるで、深淵から姿を覗かせる暗闇。ただ言われるがままに従い、行動する純真なその人間は既にどこにもいないのだと知らしめるような、歪んだ憎悪だった。
ルカは思わず踏み出した足を止める。自分に敵意を向けた相棒に、信じられないとでも言うように目を丸くさせた。しかしその動揺を表に出し続けられるほど素直ではないルカはすぐさま感情を飲み込み、涼しげな表情でへストの側へ近寄る。少し距離は離れているが、仲間であると主張するには十分だろう。
そんな中桜子は自身がどう行動すべきかを考えあぐねていた。ヘストに盲信するほど己の意思を持ち得ていない訳でなく、けれどその心臓に絡み付いた仄かな恋心がヘストに執心し、離反することを許してくれない。体は自然とヘストの方を向く。
……少し、様子を見るだけだ。話を聞いて、彼の考えを聞くだけ。
自分にそう言い聞かせ、桜子は一歩、一歩と歩み始めた。
最後に動きを見せたのは、その様子に視線を右往左往させていた夜空。マドレーヌの袖を握りしめていたヴァンは彼女とヘストを交互に見比べ、“みんな”が待つ方へと袖を引っ張った。
「マドレーヌちゃん、いこう?」
マドレーヌは動かない。その表情は曇ったままでヴァンの方を向いてもいない。逡巡しているのがありありと伝わる様子に、彼は少しばかり不安に駆られて袖を握る手に力を入れる。
やがて、優しく顔があげられる。マドレーヌは服の袖を握るヴァンの手に、自身の手をゆっくりと重ねた。それに安堵したような表情を作った彼は、彼女の手を握る。
しかし、その手を解いたのは紛れもないマドレーヌだった。
なんで、と言いたげなヴァンに、マドレーヌは困ったような表情を作った。
「……ごめんね、ヴァンちゃん。私はいけない」
「どうして?ねえ、いこうよ」
眉尻を下げる彼に、ただ一言だけを紡ぐ。いつもの明るい姿はなく、浮かない顔でありながらも愛しい人に笑顔を向ける彼女は、
「だって……私は、正義のヒーローだから」
もう言うことはないと言わんばかりに、ヴァンから一歩距離をとる。
彼はそれでもなおマドレーヌに訴えかけたが、むしろ彼女の方も説得にかかり埒が明かない。痴話喧嘩にしては天秤にかけられるものが重く、可愛らしさの欠片も見当たらなかった。
言葉に詰まったヴァンが僅かに俯いて、そして悲しげに背を向けた。遠くなる二人の距離。確かに寄り添い合っていたはずの心も、寒そうに震えるようだった。
「賢明な判断だな」
自身の周りに集まった六人を見渡し、残りのメンバーに顔を向ける。
「では、残りの君たちは用済みだ。これまでの蓄積が無に帰すのは少々惜しくもあるがリセットするしかないな」
拳銃が向けられる。その正確さは先程全員が目にしたばかりだ。緊張が走る。張り詰めた空気の中で様々な思考が飛び交って絡み合う。
「……と言いたいところだが、残念なことにキミ達のほとんどはもうリセットができない。」
ふ、とどこか残念そうに呟くと腕を下ろす。しかし安堵など訪れない。
「否、正確に言えばリセット自体はできる。しかし脳とは実に繊細なものでね、一度のリセットでかなり負荷がかかる。故に既にリセットされたことのあるキミ達に行うとその負荷に耐えきれず脳が焼き切れる。運が良ければ耐えるかもしれないが……間違いなく今まで蓄積された全ての記憶は消し飛ぶだろう。わざわざ凝った演出までして集めた折角の戦力を失うのは少々痛手だが…」
___それもまぁ、仕方あるまい。
そんな呟きと共に鳴らされる指。
視線の先____黒と赤の彼女はその黄金を恐怖に染める。
「…い、嫌っ、いやッ」
引き攣った声と、逃げるように一歩後退した足は以前の姿からは想像もつかない。
「あぁ可哀想に。キミは他の者がリセットされる様を見ていただろうに、"前回のように"素直に此方に来ていれば良かったものを…。小猫、どうだ?初めてのリセットは」
向けられた紫の視線。それが、かつて彼女を搾取してきた人間達の視線と重なる。
全てから逃げて、逃げて逃げて辿りついたこの場所でさえ、何一つ今までと変わらない。逃げられない。逃げた先にだって何もない。
だから諦めたの。一番私らしくない選択をしたの。自分を曲げてまで生きることにしがみついたの。意味がないと知っていても、もう一人で走り続けるのは疲れてしまったから。
ユハニが人を殺す姿だって一番近くで見ていた。『相棒』なんかじゃない。私が、私が生かさねばと思っただけなんだ。陽の当たる世界での、先生としての優しい姿を知っていたのに、私はあの人が人殺しとなるのを許容してしまった。自分が助かりたいがために、彼に人を殺させた。裏切ったのだ。私はあの人に助けてもらったのに、恩を仇で返してしまった。
ルカも眠眠も、いざとなれば自分以外の全てを犠牲にできる私が殺せないのは、ユハニだけだった。
だからせめて、真実は知らないでいてほしかった。ユハニだけじゃない。眠眠にも、桜子にも、クルスヴァイスにも。そのために全てを隠して、我慢して、守った気でいたかった。償いと呼ぶにはあまりに自分本位だと知っていても、夢を見たままで、いたかったのよ。
………もう、すべてくずれさってしまったけれど。
夢はもう終わり。急速に現実に引きずりあげられて、心と体が切り離される。嫌だ。息ができない。水面で酸素を求めているのに、入ってくるのは水ばかり。
「ごめ、...な、さ............ぁ、あああ、嫌、ごめんなさい、たすけてごめんなさい」
かすかに聞き取れる謝罪と誰かへのSOS。反面、その体は強張っている。逃げられない。
一拍。彼女の声が止まる。刹那の静寂。浸透する底無しの不安。有刺鉄線が脳を縛りあげる。よぎる姿。決壊する恐怖。痛覚があげる悲鳴。絶叫。
「ああああああああぁぁぁ!!!」
空気を割く、悲痛な叫び声が響き渡る。喉を痛めそうな苦しげな声。滴る血液にも気が付かず、強張った体は痛みに堪えるための条件反射だ。
頭を抱えて痛みに耐える姿は、外敵から身を守る子供のようだった。何度も繰り返される「たすけて」の声。どこかマフィアにいた頃を彷彿とさせる姿で、ルカの視線が揺らいだ。しかし、揺らいだ視線はすぐに瞼に閉ざされ、再度開いた瞳が揺らぐことはなかった。一連のそれに、彼女は気が付かない。
側にいた眠眠が、小さくエリスと名前を呼ぶ。声をかけたというよりも、それ以外に何ができるのだろうかといった様子だった。動くことさえままならない。助けてと呼ぶ声に、応えることができない。
いつだって彼女は強気で、例えばもし自分に姉がいたらこんな感じだったのかなと思うような人だった。暖かくて、包み込んでくれるような人だった。だからこんな姿は見たことがなくて、助けるにも助けようがなくて。
そういえば、向けられた笑顔の奥に眠眠が写っていないことに気がついたのはいつだっけ。それだけは知っていたけれど、それ以上に眠眠は、エリスのことをなんにも知らなかったのね。
やまない悲鳴が、そうだよと答えをくれた気がした。
「そういえば安定眠眠、貴様は科学には絶対的な解がある。だから信用ができる、と以前言っていたな。貴様は紀元前生まれか?それともよっぽど科学嫌いなのか…」
手元の端末を見遣りながらへストは口を開く。
それはまるで今日の天気でも話すかのように、しかし一切の感情も見えぬ平坦な声が青ざめ、動けない眠眠に向けられる。
「科学に絶対など存在しない。あるのは憶測と、それに伴った不確かな実験結果だけだ。だから我々はこうして何度も"試す"のだ」
再び顔を上げたへストその表情には誇らしさも後ろめたさもなかった。小猫の身を蝕むような悲鳴も、周りの惨状も、彼にとっては目的のための単なる過程に過ぎないのだ。
「安定眠眠、貴様は昔から何も変わっていない。ただ一つだけを信仰する盲目、最も愚かな生命体。他神を断罪する熱心な一神教徒よ、貴様はいつまで天が動いてると信じるつもりだ?」
信じ、願い、委ねる。それだけで何か変わるのだろうか。
眠眠に向けられていたはずのそれは、いつしかこの場にいる全てに向けられているようだった。
へストが杖を持ち直した。改まった行動に視線を集める。
杖には、何かのボタンが備え付けられていた。ボタン、というよりはスイッチだろうか。彼がそれを押そうと指をかけた瞬間、飛んできたのは停止を求める声ではなく銃弾だった。的確に弾かれた杖を奪ったのはパドラだ。途端に、全員が身につけていた拘束具が外れた。
何が起こったのか理解する前に、ぶつ、と喉を潰すような絶叫が不自然に途切れた。異変に気がついたユハニが視線をやると、小さな体が地面に激突した。嫌な倒れ方をしたのに気がついて、側に近寄るとやはりエリスの目は閉じられている。遅れて気がついた眠眠とクルスヴァイスが駆け寄った。
受け身をとっていない様子を見る限り、おそらく意識を失ってからの転倒だ。直前まで頭を抱えていたおかげか目に見える傷はない。大丈夫そうだという意味をこめて、ユハニは二人に頷いた。
そして目の前に立った、こちらへ背を向ける彼女へ視線を移す。
「……もう、」
「もううんざりよ!姉さまは帰ってこない!アンタも私も、この巫山戯たおままごとも全部!全部おしまいよ!!」
それは普通から外れてしまった一人の少女の、心の底からの叫びだった。己の過ちと共に去るのだと、その手に握られた拳銃がまっすぐヘストを捉える。誰一人として動けないほどの気迫がその場を制した。
「…兄さん。いや…ヘスト、もう終わりにしましょう。こんな夢物語が叶わないことなんてあなたが一番分かってるはずでしょう。」
問われた当の本人は相変わらず笑みを浮かべたまま。まるでこの展開すらも読んでいたかのような余裕が感じられた。
しかしそれは彼女もまた同じ。この程度予想出来ていなければ彼は、自分はここに立てていない。それでも、それでもあのまま何もせず見ていることは出来なかった。もう見ているだけは苦しかった。思わず手に力が篭もる。
……いつからだろうか。
いつの間にかこの手に馴染んでしまった黒はなんともまあ軽くて、握る度に軽く感じてしまう程戻れないところまで来てしまったのだと知らされるようで嫌だった。
でも、それも今日で最期。
きっと天使のラッパは鳴らないだろう。業は八つで収まりきるだろうか。
我々の死を喜ぶ者はいれど悲しむ者はきっといない。それだけの事をしてきた、それは自分が一番よく分かっている。
こんなことになるなんて思ってもいなかった、そんな言い訳は通じない。我々は皆等しく人殺しだ。死してなお生を求めるこの愚かさは、きっと地獄に落ちても変わらないだろう。でなければ今、この場には誰一人として立っていない。
ならば終わらせよう。神がいなければ捧げる聖譚曲も要らない。剣を置いて、羽を捥いで、果実に誓おう。
奏でよう、愚かな罪を。
捧げよう、三度目の死を。
あの日頷いてしまった愚かな私に、
正当な死に抗う愚かな君たちに、
醜く汚れきったこの世界に、
そして
かつて愛してしまった愚かなあなたに、
「Hasta la vista……次会う時はきっと地獄ね」
____終曲を。
『デウス・エクス・マキナ』
演出技法の一つ。古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法。
例えばこれがとある作家によって書かれたシナリオであれば、例えばこれが約束された未来であれば、彼女の投じた一石は絡み絡まった糸を解き、物語を終息へ導く神の一手と為り得ただろう。
あぁしかし、
____演者はデウス・エクス・マキナには成れない。
天使の祝福も、悪魔の囁きも全て匚の中。そこには非も王もなく、ただあるのは夢に描かれた夕暮れの准行だけ。
匚庭の演者が物語を創ろうだなんてなんという愚行か!
生み出されるのは歪な生と死だけだというのに!
あぁ神よ、
其の死を以て生まれ賜え!
╾───────╼
その光景はあまりに冒涜で、しかし同時に人類の叡智の結晶でもあった。
「……全く、これ一つ作り上げるのにどれほどの技術と資金を注ぎ込んだと思っている?少々おふざけが過ぎるぞ」
落ちそうになる頭を緩慢な動きで支えながらそれでもなおその口に笑みをたたえる彼はその紫を細める。とても機械で出来た体とは思えないほど自然で、欠けた首から溢れるのは血ではなく管。眩暈を覚えそうなその光景は、しかし現実であった。
「…っ、完成…してたのね」
「否、完成と言うにはあまりにも粗い。しかしどうだ?素晴らしいだろう」
誰ひとりとして付いていけないその会話。動こうにも動けないこの緊張感は一体何度目か。分が悪そうに歯を食いしばったパドラは、しかし直ぐに声を張る。
「全員ヘッドセットを取って!!」
突然のことに戸惑いを隠せない。けれどその声の真剣さ、その奥の焦りに次々と外していく。それを目の端に写しながらパドラは銃を撃つ手をとめない。
しかしそれらは全て側にいた双骨にて弾かれる。正確に急所を狙う弾丸は、しかし同時にその行き先を示していた。
「もう茶番は十分だろう。我々も成すべきことをしようではないか」
その言葉を合図に側に控えていた者達はその刃に手をかける。
ベアルがワイヤーを取り出し、色葉は笑顔でマチェットを構えた。ルカは僅かに歯を食いしばりながらも、ナイフを構える。
そんな中で、ヴァンと桜子は浮かない表情のまま動くことができなかった。自らの武器を持った状態で構えることができない。愛した人にその刃を向けることができるのか、本当にそうしてもいいのか、迷いを拭えないような顔をしていた。
それは今まさに立ち向かう彼らもまたおなじ。
パドラとマリアも武器を構える。ユハニは気を失った小猫を抱え、眠眠を後ろに下がらせた。マドレーヌはその様子を見つつ、武器を抱えてオロオロしていた。
一触即発という言葉が似合う空間に、
___その空気を壊す、けたたましい摩擦音。
振り返れば、数台の車が速度違反もいいところなスピードで迫って来ていた。戦闘の車が追われているようで、追突でもされたのか凹みや傷があった。その車はパドラやマリア達の斜め後ろで急ブレーキをかけると、運転手側のドアが開く。
「乗れ!」
現れた男性は言葉少なにそう叫ぶ。誰もがその人に見覚えはない。
しかし、ルカとベアルは見覚えのある男性に目を細めた。
パドラが「大丈夫、乗って!」と叫んで、援護するように男性が威嚇射撃を繰り返した。その隙にと言わんばかりにパドラが奪った杖をいじると、ベアルや色葉が動きを止める。否、動けないという方が正しいだろう。彼らにだけ拘束具が発動しているようだった。
それを合図に一斉に動き出す。互いに支え合い、示された道を進む。
へストの側にいた全員が動けない。はずだった。
響く銃声、なにか硬いものに当たり、弾ける音
その音に驚きよろめくユハニの背中を、誰かが支え、押した
止まらない。否、止まる暇などない。ただ目の前にある車へと足を進める。その踏み台に足をかけ、隠れるように暗闇へ身を投じる。
しかし続いて聞こえた銃声に思わず振り返る。揺れる赤のその奥、機械に隠されていた緑と目が合う。己と同じ緑の瞳。
何時だったか、その隠された瞳を見せてほしいと言ったのは。少し恥ずかしげに笑う彼女は「勇気が出たら」と言っていた。こんな形で叶うなんて誰が予想しただろうか。
その口が何かを紡ごうと開かれる。刹那________
___目に焼き付くような赤が、発砲の音が、彼らの心臓を笑顔でゆるりと撫で続けている。
かつての記憶が蘇る。暗い洞窟の奥、巨漢に持ち上げられた腕のない彼女。銃声音と、胸に散る彼岸花。思わず収めた身が乗りでる。あの時何も出来なかった自分とは違うと、見えない奈落へ足を踏み出す。しかしそれは叶わなかった。
「行って!」
思わず動きを止めてしまうほどの力強い声が、願う。胸を打たれてもなお地を踏み締め立ち続ける強さと裏腹にその願いは儚い。しかしその願いは確実に次へ紡がれた。スライドドアが世界を遮断する。エンジン音と共に違えた道を進む彼らをへストは黙って見ていた。
「さて、では我々も拠点戻るか」
「良かったのー?あのまま行かせちゃって!」
刃を構えたままの彼女はお預けを食らったことに少しむっとしつつ問いかける。それは横にいたベアルも同じようで。悪魔の名に相応しく黄金に消えない憎悪を宿らせ一点に向けた後、まるで視界から消すようにへストに身ごと向ける。
他の者も少なからず思ったようで、その視線を一身に受けたへストは相変わらずどこか上機嫌な笑みを浮かべたまま口を開く。
「構わない。これも予測済みだ。それにただ一方的な力で世界を変えるよりも因縁の相手がいた方が物語も盛り上がるだろう?さぁ行こう、その手を血に染めし者達よ」
「やがて英雄となる、人殺し達よ」
╾───────╼
………視界が狭まっていく。
世界を彩っていた全てが手からこぼれ落ちていく。
遠ざかっていく黒とその中の色達に思いを馳せる。
アパタイト、マラカイト、ターコイズ、エメラルド、ルビー、アンバー、それから
………グリーントルマリン。
何時からだったか、この胸のうちに溢れる想いは。
何処からだったか、この間違いを否定できなくなったのは。
でもこの想いも、罪も全てお終いにすると決めた。
決して誇れるものではない。やり残したことも沢山ある。
そっと握りしめていた拳銃から手を離す。心の剣は折れてしまった。
自由に空を飛べることすら出来ないくせにその宙に夢を見た。捥いだ羽は戻らない。
甘い汁は同時に己を蝕む毒となり枷となった。含んだ果実は吐き出せない。
それでも、それでも……この身に宿る炎を収めることで誰かを支える道が現れるなら、
パンドラの匚に蓋をして、夢現な世界に瞼を閉じて。
そうして一人の少女は最後に笑みを浮かべた。
╾───────╼
「どういうことか説明してくれるよな」
最初に沈黙を切り裂いたのはマリアだった。その表情は歪み、拳は強く握りしめられていた。
「……そうだね、君達には知る権利がある。しかしここでは無理だ。」
「…無理って、どうして?」
マドレーヌが口を開く。いつも自信で溢れていたその瞳はどこか不安そうに揺れていた。男性がちらりとマドレーヌ、それからこねこに一瞬視線を向ける。
「…………盗聴されている可能性があるからだ」
「あいつのことだ、ドローンを寄越している可能性もある。撒くまでもうしばらく待ってくれたまえ」
…だがそうだな、これだけ伝えておこう。
ガラスの先、ライトに照らされた暗い路地に目をやりながら口を開く。その感情は読み取れない。
「君らの記憶を消したのは彼の目的遂行のための実験なんだよ。パドラ・ラハム・アプシオを甦らせるための、な」
それから、と口にするも何かを耐えるように一度、口をとざす。相変わらずその顔からは表情が読み取れない。しかし、しかしどこか悲しみに耐えているようにも見えた。
「君たちの世話をしていた子の名は……ピュラー・ラハム・エティサク。パドラの妹だ」
╾───────╼
「︎︎ 」
おぼえている
覚えている。憶えている。溺れている。沒れている。…… 否、
おぼれている
……。
_____何に?
濁流が己を飲み込み深く沒れ、溺れ、俯角を憶れ、
覚める。
あぁなんと、居心地の悪い。
外にも内にも『要らないもの』が溢れてやまない。早く、はやく行かねば。
「ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ︎︎__________」
赫が彼を鬩たてる。
╾───────╼
「一旦そっちの車に乗り換えようか」
明かり一つない、人の手が入ってない雑草の中、キャンピングカーが2台止まっており、その傍らに体格の良い男性が一人。その男を目に入れた瞬間、マリアが目を見開いて声を荒げた。
「…ッおま、え!パドッ……ピュラーの腕飛ばした!なんで生きてんだ!」
初め、何のことかと首を傾げていた男は納得したようにあっけらかんとして答えた。
「……それは、多分俺の兄だろう。」
マドレーヌがどういうことかと尋ねると、運転席から出てきた男性が言葉を繋げた。
「彼と彼のお兄さんは私の村の者でね、ヘストの陰謀を暴くために協力してくれてたんだ。聞きたいことはまだまだあるだろうがいつ見つかるかも分からない。早く乗ろう」
後から説明があるだろう物言いに、逃亡する死刑囚達がしぶしぶ乗り込んでいく。ユハニが未だ意識のないエリスを抱えて乗り込むと、後ろにいたマドレーヌが「あれ?」と声をあげた。
「クルちゃんはどこ………?置いていけないよ!」
「後で私の遣いのものを出すから、とにかく今は乗りなさい」
後ろ髪を引かれる思いで、彼女は車に乗り込んだ。
___果たして、彼らが置いていったのは『誰』なのだろうか。
╾───────╼
カツ、と靴の音が響く。へストはその音を鳴らした人物を見つめ、微笑を携えた。
「おかえり、ヴィラル」
その姿を認め、へストの側にいたデウィットが目を見開く。
深い黒と対照的な金。そして底のない赤が、二人の姿を視界に収めた。かつて再会した時のような、屈託のない笑みは何処にもない。
だがへストはそれを気にすることもなく話を進める。
「いい時に帰ってきたね、少し手伝ってくれ」
その言葉と同時に、どこかで機械音がした。
____ふと、身体から意識が離れていく気がした。
そんなはずはない。現に視覚も聴覚も、ありとあらゆる受容器は正常に情報を受け取り、神経を介して電気信号を脳へと届けている。しかし何だこの感覚は。まるで体が乗っ取られたかのような、自分が自分ではなくなる感覚。
それは目の前のクルスヴァイス__否、ヴィラルも同じようだった。何処か不安そうにヘストの顔を見る。どうしてこっちを見ない?……ああ。少し、苛立つ。
「ふむ、初期移行は概ね順調だな。では始めてくれ」
タブレットで何かを操作しながらヘストが告げる。
その言葉を合図に俺はヴィラルの首を絞めた。
……
…………
………………
……俺は、何を、している?
「…ッあ"、うッ…で、ぃ"」
ヴィラルは、なぜ、抵抗しない?
酸素を求めはくはくと動く口、強ばり痙攣する身体、しかしその自由な腕が己を止める気配はない。
『あか』と目が合う。
その瞳は恐怖に染まっていた。その顔はまるで、今まで殺してきた悪人のようで___違う、ヴィラルは家族で、俺は、
しかし思いに反して力は強まるばかり。嫌だというのに意識はただ一点を捉え、布の軋む音まで聞こえてきそうなほどに静寂。
「ふむ…やはりまだ完全な力を出すには至らないか。」
そんな声が意識の外から聞こえる。しかしその言葉を理解するには至らない。目の前の光景から目が離せない。ミシミシと軋む音は幻聴か、目に映る景色は幻か。
否、ヘッドセットは外れている。なら何故、なぜ──────
「一時停止、だ。両者のバイタルを確認の後処理に移れ」
全身から力が抜ける、と同時にピピッと鳴る機械音。そのままふらりと2歩3歩下がり座り込む。未だに起きたことが信じられなくて、ぼんやりと目の前で咳き込むヴィラルを眺めた。
「───────ッ、ぁ…?」
喉を抑えて口を開閉している。しかしその喉から音が発せられることは無い。思わず立ち上がり近寄る。その手には馴染んだ双骨が握られていた。
_________あれ?
己の腕が、握られた刃がヴィラルを狙う。拒むように反射的に腕を引く。上手く動かない。狂った切先が、その腕を飛ばす。赤黒い血が辺りに飛び散る。
一度切り落とされた腕が再び、地に落ちる。ぼとり、まるで己の過ちを聞かせるかのように静寂を切り裂いて鼓膜を揺らす。
そしてそのまま、刃は中心を穿つ。
「ヴィラル、キミはもう用済みだ。」
へストの声が辺りに響く。理解が追いついていないのだろうか、ヴィラルは己を見、そしてへストを見やる。その口が、目が、『せんせい、どうして』と訴える。
応えるように、しかしどこか煩わしそうに、へストの目がヴィラルを射抜く。隠してる心の奥底まで見透かすような紫が細まる。
「もう一度言おうか。もう、キミは」
「要らない」
機械音、肉体の支配権が戻ってくるような感覚。
咳き込むように血を吐き出し力の抜けたヴィラルの体を、デウィットは未だ違和感の残る体で抱きとめた。だらりとヴィラルの腕が落ちる。どんなに掻き抱いても急速に熱を失っていく身体。潰れた喉。先のない腕。
これで正しいのだと心で言い聞かせながらも心臓は早鐘を打つ。嫌な汗が滲み、ヴィラルを失う恐怖に涙が溢れては止まらない。
「ヴィ、ラル、ヴィラル、ヴィラル……目を、開けてくれ、ヴィラル、ヴィラル…」
拠り所を失った子供のように情けない声をあげ、ヴィラルを求める。その生気を失った虚ろな赤は二度と俺を見つめなかった。
これが、本当に俺が望んだ結末?
俺の中で人間は『善』か『悪』か、そのどちらかしか存在しない。ヴィラルはまごうことない悪だ。身勝手な感情で正常を殺す、異常。排除しなければ、憎まなければいけない存在に違いない。
だと言うのに、どうしてそれを失っただけでこんなにも上手く息が吸えない?思考がぐるりと渦巻いて、なにが正しいのかすらわからなくなる。
俺は“自分の意思”でヴィラルを殺したかった?せめて苦しまず、穏やかにその命を終わらせてやりたかった?
……俺が、『悪』に情をかけてやるつもりだった?
ふと、いつか自身が口にした言葉が脳裏を過ぎる。
____そうか。家族だから。弟だから。……好きだから、こんなにも苦しいのか。
俺に救いを、願いを与えてくれた『マリア』に告げた言葉の意味を、今更になって噛み締める。
知らなかった。好意という感情が自身をこれほどまで傷つけるなど。
知りたくなかった。声を出すことができない程の悲哀など。死んでしまいそうになる程の喪失感など。
悪を制したはずの俺自身への憎悪など、知りたくなかった。
家族を守るために抱いた信念が、果たしてこんな結末を生むと誰が想像した?
善人が簡単に悪人へと変わってしまうと知っていながら、俺はヴィラルの側から離れ、いとも容易く黒へと染めてしまった。
離すまいと抱きしめる力を強める。その一滴すら零すまいと、強く、強く、つよく。
しかし見慣れた『あか』は『くろ』へと色を変え、形を変え、己の元から離れていく。視界の端に移る黒に染った手がこちらに差し伸べられている。届く距離にあるはずなのに、二度と届かない。
ああ____善を、家族を、大切な存在を守りたいと言っておきながら。俺はミアもヴィラルも、誰一人として守れてはいないじゃないか。
守りたかった。好意を持つ全てを、守りたかった。ただそれだけなのに、俺は、俺は、おれは、
____どこで間違えた?
╾───────╼
…
………
……………
水の中にいるような感覚だ。
視界は暗く、音はくぐもってよく分からない。
身体から力が抜け、意識は徐々に飽和していく。
『キミはもう要らない』
…違う、要らないのはアイツで、俺は、おれは
『︎︎ 』
…要らないのは……俺じゃない…
『︎︎ 』
……俺は……………おれ、は…
『 』
……なぁ、クルスヴァイス。どっちが要らなかったんだろうな。
もう、上手く思考できない。かつて川に落ちた時のような冷たさが足元からゆっくりと、しかし確実に侵食していく。クラシックの優しい音色がどこからか聞こえた気がした。
………あぁ、
死にたくないな。
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