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プライベート・ダイアリー
△月◯日
妙な感じに雨の降る、はっきりしない天気の日だった。
でもそんなことは関係ない。宮城くんが久しぶりに学校へ来たのだ。宮城くんは1年の終わりくらいにケンカだか事故だかで入院して、それから学年が上がってもしばらく学校へ来られなかった。久しぶりに教室へやってきた彼はいつも通り飄々としていて、大怪我したのなんて嘘みたいだった。怪我。宮城くんは、どのくらいの怪我を負って入院したんだろう。傷は残ったんだろうか。まだ治りきっていない、薄い偽膜の張った傷跡が、体中に残っているんだろうか。その傷跡はまだ、ぐずぐずと膿んで痛んで、彼を苛むんだろうか。夜になると痛んだりするだろうか。暗い部屋で、ひとり痛みに呻く宮城くんのことを考えた。
△月□日
今日の弁当のおかずはからあげだった。いい日だ。
宮城くんの席は僕の前だから、しばらくの間、僕の前は空席だった。でも、僕はそこが宮城くんの席であることを知っていたから、僕にとってそこは無意味な空席なんかじゃなかった。宮城くんが座るはずの席。今は誰も座っていない、宮城くんの席。そこには宮城くんの不在というものが、なによりも大きな存在感を持って座っていた。僕はよくその空間を眺めていた。前の席だったから、周りには僕が真面目に授業を受けているように見えていただろう。でも違う。僕はそこにないものを見ていたのだ。あるいは、そこにある空虚を。それはそんなに悪い時間じゃなかった。
宮城くんが登校するようになったら、僕は授業中彼の背中ばかりを見て過ごすだろう。そんなことを考えて、僕は宮城くんの席を見ていた。今僕は、好きなだけ彼の背中を見ていることができる。すこし猫背気味で、あんまり真面目に授業を聞いていないせいでよく頭が落ちている。たとえば出席番号順に生徒を当てる古典の先生の授業のとき、宮城くんが当てられそうになったら、居眠りする彼をそっと起こしてあげられたらどんなにいいだろう。彼は眠そうに目をしばたかせて、それからはにかんで起きるだろうか。僕にすこしだけ感謝したりするだろうか。
□月◯日
中間テストの結果がいまいちだったので、塾に通わないといけないかもしれない。期末でどれだけ巻き返せるかが問題だ。
僕の成績が落ちたのは、きっと授業中、宮城くんのことばかり見ているせいだ。宮城くんは授業中、つまらなそうに窓の外を見ていて、僕はそんな宮城くんを見ている。宮城くんが見ている景色よりも、景色を見ている宮城くんを見ていたいからだ。
テストの結果が悪いのは宮城くんもおなじで、どうやら赤点をたくさん取ったみたいだった。ちょっとヤバい点数の答案用紙を、安田くんと見せっこして笑う宮城くんを見て、僕はあてもなく空想にふける。僕も点数いまいちだったと答案を見せたら、宮城くんが乱暴だけれど親愛のこもった仕草で、僕の肩に腕を回してくれる想像だ。きっと彼が使っている整髪料の香りがするだろう。首筋に顔を寄せたらいつも付けている香水の匂いがして、僕はそれを気付かれないように思い切り吸い込む。なんだよおまえも赤点か、と僕をからかう宮城くんが噛んでいたミントガムのすうっとした匂いが、ちいさな歯が並んだ口から甘く香るのだ。それはとてもいい想像だと思った。
□月✕日
昔から通っている歯医者に行った。歯医者って、どうしてああいう匂いがするんだろう。嗅いだだけで奥歯のあたりが痛くなるような気がする。
ちょうど入れ替わりだったから彼は知らないだろうけど、いつもの歯医者で宮城くんを見かけた。虫歯でもできたのかと思って、歯科衛生士の人に聞いてみたら、差し歯を入れているからそのメンテナンスなのだという。すこし前に宮城くんは顔を腫らしていたから、そのときに歯を折ったのかもしれない。
歯。折れた宮城くんの歯は、いったいどこに行ったんだろう。もしかしたら飲み込んでしまったかもしれない。でも、もしまだどこかにあるのなら、ぜひ欲しいなと思った。宮城くんの歯。もし手に入ったら、うちにあるきれいな紅茶の缶に入れて、そっと僕の部屋の机の引き出しにしまっておく。たまに取り出して、振ってからからという音を楽しむかもしれない。舐めてみたら、どんな味がするだろう。しばらく眺めて大事にして、いつか飲み込んでしまうかもしれない。そうしたら、宮城くんは僕の一部になる。それってとても素敵なことだ。僕が宮城くんの一部になることはできないんだから、宮城くんが僕の一部になるしかない。こういうのを、論理的帰結というのかもしれない。
□月△日
宮城くんが彩子ちゃんのことを好きなのは有名だったし、僕はそんな宮城くんを見ているのが嫌いじゃなかった。いつもと違う顔をしている宮城くんは新鮮だったし、叶わない恋の切なさというのは、僕だってちょっと分かる。でも、それは駄目だ。
移動教室で渡り廊下を歩いていたとき、宮城くんが僕のすこし前を歩いていた。前から背の高い3年がやってきて、宮城くんに声をかけた。ついこのあいだまで不良の頭をやっていたやつで、僕は思わず目が合わないように頭を下げた。バスケ部に復帰したとかいうけれど、不良は不良だ。怖いし、僕は暴力が好きじゃない。
ちらりと視線を上げると、そいつは宮城くんに親しげに声をかけて、ぐしゃりと頭を撫でた。きっちりとセットされた髪に触られて、宮城くんは怒ったような声を上げてそいつの腕を振り払った。それから、甘えるみたいな顔で笑って、じゃーね、三井サン、また部活で、と言った。その声の温度! そんな声を、彩子ちゃん以外に向けるだなんて! 宮城くん、きみも僕とおなじように、届かない相手にずっと恋い焦がれていると思っていたのに。
許せない、と思った。宮城くんの髪に触れたそいつも、そいつに恋する宮城くんも。
彩子ちゃんなら許せた。彩子ちゃんに恋する宮城くんはかわいかったから。でも、あいつに恋する宮城くんを、僕は許すことができない。憎らしさすら覚える。
でも、どれだけ憎かったとして、僕にいったい何ができるだろう。宮城くんは、きっと僕の名前も知らない。顔も覚えていない。僕らはおなじ景色を見ることも叶わないのに、いったい何が。
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