0 「唯一の真の神であるあなた」(= 創造的空)の自己対象化(啓示)としての「三位一体」 みんなに公開

聖書で物語られている神は、人間が邪悪化したことで創造を悔いて洪水を起こしていたり(創世記6~8章)、万軍の主…いくさの神として怒りに燃えて敵を殲滅したり、計画を思い直したり(ヨナ書)、サタンを用いて人間の信仰を試したり(ヨブ記)、また、妬む神(出エジプト記20:5)とも言われているからです。完全無欠ならそのようなことはないでせう。
従って、聖書で物語られている神、そしてその神を、哲学的神観の影響も受けながら解釈して、使徒信条やニカイア信条などで、三位一体など独特の神観を立ててきたキリスト教の神は、真の意味で「絶対神」とは言えません。相対的な面、有限な面・・・欠点もあり、使徒信条などで告白されている「全能」という言葉も、文字通り完全無欠といった意味ではなく、あくまで賛美の表現なのです。すなわち人格神と云われますが擬人化されて描かれているので、人間的な存在なのです。
しかし!です。聖書に物語られ、ユダヤ教やキリスト教で教義とされている「神」は、あくまでも「啓示」によって自分を人間に対して表現したのであって、元々の「神」は真に絶対の存在です。それは人間が対象として認識することのできない「霊」であり、宗教哲学では「空」とか「絶対無」とか「絶対無限の開け」などと云われています。
その「霊」なる非対象の「神」は、自己啓示し自己対象化すなわち自己相対化することによって人間の認識し得る存在として対象化され、聖書に描かれ物語られているのであり、さらにそれが解釈されてユダヤ・キリスト教の神になっているわけです。その非対象の「霊」なる「神」こそ、完全無欠の絶対神です。自由主義キリスト教は、聖書およびキリスト教の相対的かつ有限なる(父・子・聖霊の)三位一体の神を礼拝することを通して、その背後に啓示元であり元来の絶対神を信じ仰ぐ宗教です。ここで重要なことは、「霊」なる非対象の「神」(…「創造的空」と呼ぶ )の自己対象化したものは聖書に物語られている「神」(…相対的人格的存在)であるとは言えるが、所謂、正統的キリスト教の「神」である…ということではない!ということ。そうでないと、「空」とかいったことが思考停止となり、教義の盲信につながってしまうから…。瞑想は自己洗脳ではないのだ!信条・教義の「神」としては、相対的には「ウェストミンスター信仰基準」に示された絶対的主権者としての「神」観をキリスト教神観の中では第一とはするものの、それもあくまで聖書解釈の産物であるので絶対視するものではないし、特に「三位一体」神論については、御子イエス・キリストを御父と全く同一の意味で「神」と呼ぶことは拒否する。 ではどのような意味で私はイエスを「神」だと言って賛美するのか?それは卑賤の極みを生きた…ケノーシスに対して。「子は親を映す鏡」といった感じで、唯一父神がいかなるお方かを自ら映現するような生き方に対して。
※あとの内容を読めばわかるけど、「唯一の真の神であるあなた」(ヨハネ17:3 / 岩波版 小林稔訳 ※改訂新版では「真」に「まこと」とルビが付された)ゆうのも聖書で語られている以上、原事実やのうて現実。つまり、<「唯一の真の神であるあなた」(=創造的空)>という表記はまちがいで、イコールは誤記だす。ということは、真実の「絶対」(=「相対」と相対しない「絶対」)が「(創造的)空」であり、それが啓示において自己対象化したものが(…このようにはじめから人格的というか擬人的に表現せざるを得ない面があります)聖書に示された「神」であり、その解釈として「三位一体」という教義が出来とるんやから、「唯一の真の神であるあなた」すなわちイエスの父なる神も、その三位一体の一位格であるから自己対象化されたものであって、対象化される以前の自己ではない。ということで、このタイトル…<「唯一の真の神であるあなた」(= 創造的空)の自己対象化(啓示)としての「三位一体」>ゆうのは正確ではない。それでもそこは敢えて簡略化して表現しました。
カール・バルトの神学は「神の言葉の神学」とも云われ、キリスト論的集中かなんか知らんけど、ロゴス・キリスト偏重の神学や。わてのような立場のもんからしたら、西田幾多郎はんが「君主的神」と批判した神観を捨てて(翻訳も悪いとは思うけど…)「神の人間性」とか言い出した時点でバルト神学はОUT!や。そんなアホなこと言う神学はわてにとっては神秘主義思想と同じく百害あって一利なしのクズ同然だす。
さて、わてが知ってた人の旧約聖書学関係の本で「真実の言葉を求めて」などという題もあるように、特にプロテスタントのキリスト教では「言葉」偏重で、教会は説教偏重の傾向が指摘されますが、自分は「言葉」は所詮「事の端」であり道具にすぎないと思うので偏重なんてことはなく、同じ「ダーバール」なら人生においては「言葉」やら観念を超えて、(救いの)「出来事」の実体験の方に関心を向けて然りやと思うし、出来事は良くも悪くも他者との関係であって孤独では話にならんし、聖書が示す「神」への信仰を徹底究明すれば非対象の「空」となり、非対象やから「空」という言葉でも言えない、坐禅の如くただ黙って体感するしかない「出来事」として現実たれりと思うので、「神の言葉の神学」ゆうよりかは、「神の出来事の神学」ゆう方がず~っと素敵…素敵やと思うてます。合掌
わが宗教的実存は、絶対的有にあって絶対的に無化される体験とでもいうか…なあ…。それにしても正統派とか福音派の諸君が後生大事に言うてはる「三位一体」ゆうのも、それ自体が永遠不変の真実ゆうことでなし、「三」とか「一」という数字で言うてるのはもちろん比喩やで、比喩。わかってます?「霊」は数えられへんって。そもそも聖書には「父と子と聖霊」はあってもその相互関係について哲学的な規定など無いんやさけ、後代の教父らが当時の哲学概念とか使うてやな、聖書解釈として思弁しよったんが教会会議で権威付けられて、今でも基本信条とされてるけど、ニカコン信条では「同一」はあっても「同等」は言われてへんからな、わしゃ御子従属説とっとります。立教大でキリスト教を教えてはった日基教団所属の野呂芳男牧師もこう言うてはりますよ。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回)
新約聖書に御子従属説の根拠があることは、日本の福音主義教会の創設者とも言える植村正久牧師が、「彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり」(『植村正久とその時代』第5巻. 教文館 p370~371)と言っていることからも察せられるでせう。さらに今の時代でも、元・西南学院大学神学部教授で、日本のパウロ研究の第一人者とも云われる青野太潮先生の、「われわれはいったい何をそんなに恐れているのだろうか。いったい何にそんなにおびえているのだろうか。使徒信条の内容は決して新約聖書の使信を正確に伝えているわけではないと言うことが、それほどに恐ろしいことなのか。三位一体の神というとらえ方の萌芽は新約聖書の中にあるにはあるが、その後の教会史において確立されたような理解は新約聖書の中にはまだないと言うことが、それほど忌避すべきことなのか。とくにパウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。」(『「十字架の神学」の展開』新教出版社 p5)、「こうした箇所にふれるとき、われわれはただただ正統主義的な『キリスト論的集中』といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような『神中心主義』をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような『神中心主義』の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。」(前掲書p61)、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~論文「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)
といった言葉は、わてにとっては不滅の金字塔や。日本のキリスト教界の主流から出ちゃってる人・・・いかに元々一流の新約聖書学者ないしは神学者として権威者ではあっても、そもそも無教会系ということもあるけど、神学というより宗教哲学の方にかなり入ってしまっている八木誠一氏などの発言よりも、日本のプロテスタント・キリスト教の主流であるバプ連の神学校の教授を長年務めて、日本の新約聖書学会では重鎮であられる青野太潮氏の発言の方が、クリスチャンとしての自分にとってははるかに大きな意味があるわけなんだす。
ところでそもそも聖書はそんなんではないで、愛やで。神の愛やで~。論争なんかなじまへんで~~~ って言うあんたは何ものか。愛、愛、言うとるけど、神の愛(アガペー)ゆうもんをほんまにわかってもの言うてるんかあ。神の愛ってそんなに甘いもんかえ?ちゃうやろ!あんたが個人的に体験したことがすべてやないんやから、安易に一般化して言うのはやめよし。ましてや愛敵なんか非現実すぎて、けっして一般化して言うたらあかんこと。
パレスチナがガンジーのように非暴力ならイスラエルはお手上げや…とたまたま1人のユダヤ人が言うたってだけで普遍化して言うた大治とかいう記者のように、ファンタジーをまことしやかに喧伝する左翼の連中、そんなんに同調してるお花畑頭の妄想クリスチャンよ、Adiós.
「キリスト教は『愛の宗教』だというふうに言われて、甘いことずくめととられるならば、大変な誤解です。そうして、『審き』というのは頑固なものであって、いわゆる融通の出来るものではないのです。日本的特質の中で『融通無碍』ということもいわれます。(中略)『融通無碍』というのは仏教の非常に深い教理なのです。『天衣無縫』などとつながるようなものです。縫い目がないということは、『無碍』という言葉ともつながります。『融通』されて妨げがないということです。しかし、融通不可能な頑固さというものも考えられるのです。>(北森嘉蔵著『日本人と聖書』教文館 p50~51)
キリスト教は「愛の宗教」と言えるとしても、聖書は「愛の教典」とは言えへんと思う。人間は愛だけでは生きられへん。鳩のような素直な心だけやのうて蛇のような狡猾な知恵も必要や。この世は性善説では通らない不条理があるさけ。それもまた神の定めの内やけど…。人間はイエスであれ誰であれ、けっして美化したり絶対化してはならない!イエスだけを無原罪の人間だと例外者扱いするんは彼が信者の模範的モデルになっとるからやけど、彼の最大の特徴はケノーシスやさけ、英雄にはなりまへんよ。神の子や…神や…言うてもな、父なる神の「神」とは意味が違うて、あくまで無的超越者であって有的超越者ちゃうんよ。同質とか言うんは形而上学的思弁っちゅうもんで、信仰生活にはどうでもええことよ。
>聖書では、「わたしたちは地上では仮住まいをしている」と言っています。いわば借家住まいをしているというのです。なぜなら私たちの本当の住む家は、この地上にはないのです。わたしたちの住むべき家は、この地上ではなく天上に備えてあるのです。そこが、わたしたちがやがて帰るべき「マイホーム」なのです。(~地上での仮の宿 (Ⅰペテロ1:13~21)http://tomisatochristchurch-baptist.net )
・・・仮住まいかなんか知らんけど、ペトロが何を言っていようと…生まれて何十年か知らんけど、自分が恩恵を受けて来た祖国である日本に対して、何らの愛着も責任も感じないとは言えないでせう?だいたいクリスチャンの、特に牧師とか神学教師なんてやっとるもんの中には昔から西洋かぶれの和魂なし人間がぎょうさんいてる。日本語で考えるより英語で考える方が早い…みたいなことぬかすもんもおって、そんなんが日本でリベラル左翼知識人づらして外国人に参政権を…みたいなこと言うてるんかと思うとめっちゃ嘔吐ですわ。わては個々の外国人には好感を持つことも当然あるけど、クリスチャンである前に一人の日本人であり、一人の日本人である前に、聖書にもとづく一神教徒だす。そのことと言動とは矛盾してまへん。内村はんの「2つのJ」は、Japan のJと JesusのJやけど、わてのは、JapanのJと JehovaのJだす。
(以上、飲酒による余計な前置き。いずれ削除するかも…すでにかなり書き改めました。)
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聖書から示される神観について「絶対」ゆうことが何より重要になるのは何故かと言えば、それはやな、人間の自我を苦しめるものが「思い込み」による囚われだからです。その「思い込み」を端的に言えば相対の絶対化、偶像であり、この世では絶対の面をかぶった相対的なものが猛威をふるっていることが往々にしてあるからです。その点では、神を「超越者」とか「究極者」とみなすだけでは不十分なのです。そのような実際的動機から自分が観念的に志向する「神」信仰は、「超絶主義」(hyper absolutism)と自称しているが、これは既成の思想である「超絶主義」(transcendentalism)とは異なります。直観を重視する点など共通点も少しはありますが、自分の場合はあくまで一神教を突き詰めるかたちでの「全一者」としての汎在神論的立場であるのに対して、あちらは汎神論的傾向が指摘されます。「絶対」という概念について、小田垣雅也氏が『哲学的神学』(創文社)の中で、「諸々の絶対的宗教の『首長』は、絶対なる神的真理に帰属しているという意味で絶対的である。しかしそれらはそれぞれ歴史の個別性であるという意味では相対的である。(中略)絶対性が人間にとって真に絶対でありうるのは、そのような相対的具体性の中に於てのみなのである。もしそのような相対的具体性ということを離れた別の場所に、即ち抽象性の中に絶対性を求める場合、直ちに絶対に関する観念論的独断が到来することになる。」(p205)だとか、「要するにキリスト教の絶対性は、絶対性に対する理由づけが消滅した所にのみありうる。絶対そのものは、人間にとって観念の中にしかない。真の絶対は相対の中にのみあるのである。元来、人間が或る行動とか立場を決める場合、それを決めるに当っては理由がある。(中略)理由などは消え去るが故に、われわれは人を愛し、美しさに見とれるのである。生きるのに理由などはない。真実とはそういうものだ。信仰も同じである。(中略)ただ絶対性に理由や証拠などはないということを言っているだけである。そのことを求めることが所詮無理だったのである。理由がないからこそ絶対は絶対でありうる。」(p215~216)などと述べているような主旨とは少し違います。ここでは文脈としてキリスト教の絶対性ということが論じられていますが、引用の主眼としてはそこが問題ではありません。キリスト教という一個の宗教が相対的であることはわかりきった話であって、小田垣氏も結論として「要するにキリスト教の絶対性は相対性の中にこそある。」(p216)云々と述べておられます。また、小田垣氏の言葉で自分も共感することはあり、「宗教を安易に相対化するとしたら、それは宗教というものそのものの否定に連なるし、何よりも信仰の絶対性、排他性を理解していない。信仰は必ず絶対的排他的である。何故ならそれは生と死を賭けた事柄だからである。」(p189)といったことは、従来、けっして少なくないだろうと感じられてきた…「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」(~ 一休『骸骨』)に象徴される日本人が好きな万教帰一的感覚やいわゆる宗教多元論を批判し得る点でも意義深いとは思います。そして「絶対」という概念の自己矛盾を思えば、「絶対が相対の中にあるということは、絶対が相対化されるということではない。(中略)絶対が相対の中にあるというのは、絶対が絶対でありうるのはそのような在り方に於てのみであって、相対から切り離されると、絶対は相対にあい対したもの、即ち相対になってしまうからである。(中略)絶対が否定されることによってのみ、絶対はその否定の中に臨在する。」(p216~217)ということも当然、理解はできるのです。だから一神教も実際的には自分なりの言い方では相対的絶対主義の「拝一神教」になると思われます。しかし、小田垣氏は他の著書やエッセイ等も読めば明らかなとおり、論理的な潔癖症とでも言いますか、要するに考え過ぎだと感じます。< わたしはこれまで、ヨーロッパにおけるキリスト教文化の圧倒性に戸惑っていたふしがあるが、普遍は唯一の中にあると考えることによって、つまり唯一を普遍だと考えることによって、それは「信仰」としてのイエス・キリスト信仰が(宗教哲学的にではなく)わかったように思うのだ。それは神の啓示には、その時間化・歴史化・対象化の次元も必要だということだ。そのことを、信仰の観念化が救うのである。バルトのキリスト中心主義も、普遍は唯一の中にあるという、信仰の論理によって理解されるべきではないか。>(~小田垣雅也氏のみずき教会説教「インマヌエル」)といったことはわかるのですが、< そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ』(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。>云々は、八木誠一氏から「はたらき」(としての「神」)を表している旨を教えてもらわなければ、意味がよくわかりませんでした。ところで、自分にとって宗教の絶対性ということが言えるとしたら、それはキリスト教についてではなく、その教典である聖書の内容について言い得ることでせう。私がここで問題とするのは、「真に絶対でありうるのは、そのような相対的具体性の中に於てのみ」であるということの是非であり、「絶対に関する観念論的独断」の是非ということであり、「絶対そのものは、人間にとって観念の中にしかない。真の絶対は相対の中にのみあるのである。」ということの是非であり、「理由がないからこそ絶対は絶対でありうる」ということの是非なのです。自分にとって聖書が示す「神」は、真に「絶対」(=「相対」と相対する「絶対」ではなく、真の意味での「絶対」)なる「霊」が自己啓示において自己対象化…自己相対化…という自己限定をしたものであることは、あくまでも直観的にしか言えませんが、これを前提とするならば、このような「神」はやはり「実体」はあってなきが如しで、あくまで実体を求めるならスピノザの思想に行き着きます。「神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。」(~國分功一郎氏、「スピノザの考える『神』とは | NHKテキストビュー」)真に絶対なる「神」は、スピノザにおいては唯一の無限実体ということになりますが、当然、「空」であると考えることもできます。無教会派指導者であられた量義治氏は、著書『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)において、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べて独自の三一論解釈を展開しています。                      佐藤研氏の『禅キリスト教の誕生』(岩波書店)に於ては、すべては「空」であり、「神」は「カラッポ」と言われています。以下、神観について述べられた箇所から抜き書きします。< まず、「神」に対する観念が新たにならざるを得ないであろう。自己をはじめとして一切が「空」だということは、その次元からは自他の区別は見えず、したがって自己に対して「質的な絶対他者」としてのみ「神」を定立する神学は支持されなくなることを意味する。それだけでなく、「神」を自己から離れた実体として想定する思考自体が放棄されるであろう。禅体験からする限り、「カラッポ」はあらゆる相対を絶しており、ほかに何か別物があるのではないことはアプリオリな明白さである。そこからほとんど必然的に、「神」とは「カラッポ」の世界につけられた別名であると理解されるに至るであろう。事実、ヨーロッパの見性体験者の中には、自らの体験を言語化するのに、「私は神と出会った」等の表現をする者が少なくない。この点からして、以前キリスト教神秘主義が標榜していた——そして異端視されていた——「神秘なる一致」(unio mystica)は改めて評価され、さらにまた深化されよう。つまり、神秘の世界で初めて神と一つになるというのではなく、本来的に「ゼロ」である事実においてそもそも不可分に「一致」しているのである。また、正統派教会から「異端」とされたグノーシス派における、至高者と自己との本質的一致という救済テーゼも、あらためて評価されうるであろう(もちろんグノーシス主義は、この世界の徹底的に否定的な評価においては、禅とは根本的に異なるが)。しかし誤解を避けるために強調するならば、この一体性は「ゼロ」すなわち「カラッポ」という本来相において成立しているものであって、現象の世界でも実体的に「神」と一つになったということでは全くない。この種の「二元性」は見落とすことができない。この点を曲解すると、自分がいわゆる「現人神」でもあるかのような、恐るべき妄想・傲慢に陥る。逆に、「空」の本来的事実が分かれば分かるほど、現象の世界でそれに沿って「カラッポ」になっていない日常の自分のあり方が鮮明に見え、慙愧に堪えないはずである。なお、ここで一つ、この「空」にして「ゼロの世界」は、「人格」なのかという質問が生じるであろう。キリスト教の神は「人格神」とされているからである。まず言えることは、「カラッポ」の世界自体からするならば、どちらでもない。そもそも人格・非人格の区別が立たない世界だということである。しかしこの世界が現象の世界と不可分に展開していく時は、一切を貫過する無限の愛として、慈悲として、感得される。「空」の世界は、別の言い方をすれば、無限の慈愛のエネルギーの世界である。この方面からすれば、「愛」は優れて人格的なものであるから、「空」は「人格」としても把握されるであろう。そしてこの「愛」と一体の自己が見えても —— 先にも述べたごとく―― その「愛」に従って完全には生きていない現象の日常の自分が、同時に逆射影的に浮かび上がるのであって、決しておめでたいだけの認識では終わり得ないのである。とにかくも、座禅の体験知がキリスト教内部で展開すれば、ある「絶対人格」がどこか特別なところに実体として存在しており、それが人間を支配・制御しているというような観念的発想は、放棄されざるを得ないであろう。その代わり、「神」をわれわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギーとして見るような理解が発生するであろうと思われる。>(p18~20)                                     < ブルトマンの弟子たちの思索に主導された段階が過ぎ去っていった一九八〇年代から、しばしば「第三の探究」(the third quest)と呼ばれる現代に移行する。この研究運動の主たる担い手は、もはやドイツの学者ではなく、北アメリカの研究者である。(中略)これまで私たちはカルケドン信条の両性規定になぞらえて事柄を見てきたが、ここに至って、イエスはいわば一元的に「人間」になりきったと言うべきであろう。つまり、「真に人間」であることと「真に神」であることのどちらが主導であるかとか、双方の関わりがどうであるか等の問いは、この段階の研究者の視野には入らないのである。イエスに対する研究は、歴史上の一人間現象を扱うそれと全く違いがなくなった。(中略)ここに至ると、ナザレのイエスは総じて、これまでのような「神性」や、その疑似形態としての「理想的人間」の姿を喪失し、欠点も弱さも持った、しかしおそらく強度に熱狂的・パトス的な一介の「人間」として提示されていくであろう。私見によれば、この「第三の探究」の先鋭部分がやがてイエスの「人間化」を徹底させ、果ては一種の「イエス批判」にまで至るのは時間の問題でしかない。たとえば、カルケドン信条的に見れば、イエスはその「神性」のあまり、一切の「罪」を知らない存在とされてきた。しかし、イエスを真に人間として扱えば、イエスの「罪」の意識やその構造も問われるであろう。また、彼の「神の王国」のファンタジー性の批判的考察――「神の王国」は彼が考えたようには到来せず、彼は時間の把握を誤った――も登場するであろう。しかし他方――彼が何を実際に語ったか、あるいは自分を何者と見なしたかは場合によっては不明瞭であり、研究者の恣意的判断が混入せざるを得ないが――彼が当時の社会の中で没落者・被差別者たちと親しく交わり、その彼らの決定的解放をおそらく「神の王国」のヴィジョンの中に見ていた点、またそこから派生する権力批判行動のゆえに、最後は十字架という処刑方法で殺害された点は、これまで以上に鮮明に描出されるであろう。要するに、一貫してイエスの「人間」性の扱いをめぐって進展してきた聖書学のイエス研究は、その固有の「伝統の継承と発展」の結果、カルケドン信条の地平をとうとう突破する地点に至るべくして至ったと言える。そこから出てくるイエス像を、「信仰」には役立たないとして無視することは不可能ではない。しかし無視できないとしたら、これまでのキリスト教の神学的思考範疇は大幅に再定義されざるを得ないであろう。少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。そしてあらためて、歴史のイエスが拠って立ち、それゆえに死んでいったところのリアリティをいかに捉えるか――すなわち新しい「神論」――が中核的課題となるであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』岩波書店 p57~59)ちなみにこの本には、ドイツのキリスト教徒が坐禅をして神観がどのように変わったかを伝えています。最も際立ったのは「自分に対峙する『人格』としての『神』が意味を喪失した」という主旨のものであったとのこと(p145)。私はそのような神観の変化はあまり関心なく重視しません。自分だって坐禅であれ長時間の祈禱であれ、日頃やっていないことをやれば何かしら特殊な気分になり神のイメージくらいなんぼか変わっても不思議なことはないし、実際に自分自身も神観は変わってきており、擬人的イメージは以前と比べるとかなり剝ぎ取られているので、身をもってわかるからです。要は、この本でも言われている「人格か非人格か?」という二択ではなく、どの程度が人格的であるか?です。それって聖書が示す神は、どの程度は「近くの神」で、どの程度は「遠くの神」か?という問いでもあります。自分は対神関係を対人関係化しないために、擬人化に陥りやすい人格神観を制限しています。そもそも真に絶対なる神は「霊」であって人格など無いわけで(…神格はあると言えるかどうかは別として…)、人格神観というのは、あくまで神の自己対象化に伴う比喩的イメージにすぎないのです。突然ですが、ここで並木浩一氏の言葉を引用します。                                     < 「神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに『あなたは私たちの神です』と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。(中略)神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。『人称』はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに『神称』とは言いませんし、言っても意味がありません。」(『並木浩一著作集 3 旧約聖書の水脈』日本キリスト教団出版局 p208)並木氏によると、人格神観は擬人神観を避けられないとのこと(私信)。私にとっては神の人格 ,非人格の問題や遠い , 近いの問題よりも、要は自己を含む世の絶対化されやすい相対物をすべて相対化し得る「絶対他者」としての「神」が聖書が示す霊なる神であるということ。久松真一氏の場合、「絶対他者」であるブッダと、「絶対自者」である自己は、絶対的に隔絶していながら、一体化することができるのだそうですが(八木誠一氏も「絶対他者即絶対自者」および「絶対他者が絶対自者だと言うしかない」などと述べておられます⦅大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』東京大学出版会 p24~25⦆。)、そのような神秘主義的境涯には、私はまったく関心ありません。宗教哲学的思考も度過ぎると神学から離れて信徒の生活現実から遊離した虚しく無意味な戯言ということになります。そのような思想はきわめて抽象的な思弁にすぎず、小田垣雅也氏に対して私が言うところの偏執狂的「考え過ぎ」と同様で(もっとも哲学する人なんかは多かれ少なかれその傾向があるのかも知れんけど…)程々にしないといけません。そしてその程度は個々人に応じて違いもあるので、各人で判断するしかありません。野呂芳男氏が「神の死と人間」という論文の中で言っておられるとおり、「霊なる神は、人間がプライヴァシーの欲しい時には、人間の遠くに立つことのできる存在であり、近くにいて欲しい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近く立ってくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼稚な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は棄てなければならない」わけです。同じようなことが、「<書評>ハミルトン・アルタイザー著/小原信訳『神の死の神学』1969年、新教出版社、311頁」でも書かれてあります。「聖書が霊という言葉で神を表現している事情を、我々はもう一度よく考える必要がある。それは神が、人間が近くにいてほしい時には自分が自分に近いよりも、神の方が近くにいて下さること、また、神は人間が全く神からも離れて孤独になりたい時には、遠くにいて下さるということを表現している。」
八木誠一氏によると、「人格神」観にこだわり続けた野呂芳男氏は、「神(キリスト、聖霊)の内在を語る言葉には理解も関心もなかった」(『福音と世界』〔2010..9〕所収「野呂芳男氏の神学――前記を中心として」46頁)ということで、「人格神の神観を保持し続けた人格主義的神学」であり、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』東大出版会 p18)と述べておられるとおり、神の「超越」は言うけど「内在」はあまり言わないといった傾向は自分にもあるので、よくわかります。そして、人格神観の最大の短所は神義論に陥りやすいことです。だから自分は、人格神観はたいがいにしないといけないと思った次第です。自分にとっては、メンタルヘルスにおける「救い」として、世の偶像を相対化する真に絶対なる「神」が示されればそれでよいわけなので、並木氏とは違って人格神観は必ずしも必要ではありません。むしろ擬人化された神がいつも自分を監視しているような感じを受けるなら、そのような神は不在である方がよいということになります。
佐藤氏の「禅キリスト教」における「神論」は以下のとおり。                  < 禅キリスト教の潮流の中で最も重要な点の一つは、「神」と「人」の質的・絶対的隔絶が前提され、標榜されることがないということである。おそらくここに、将来的にも、一般的キリスト教からは最大の懸念と疑義、場合によっては敵意が示される原因が存在しよう。しかし「神」と「人」が本質的な原事実において「一つ」であるという体験知が、禅キリスト教の潮流の基本にあることは否定できるものではない。むしろ、「神」と一つでありながら、現象態の自己の罪悪性と不完全性を鮮明に意識し、最も謙虚になるという、一見矛盾した逆説的存在形態がありうるということである。これは言語論理のレベルでは鮮明不可能な事態であるが、禅の言葉で言えば、「全別」でありながら「全同」であるという、事実を最も公平に見た表現となるのである。>(『禅キリスト教の誕生』岩波書店 p210)                                          佐藤氏は、禅キリスト教におけるキリスト論にも言及しておられます。
< 「キリスト論」とは一般に、イエスを何者と理解するか、という言辞のことである。伝統的理解によれば、イエスを「キリスト」すなわち「メシア」(救世主ほどの意)と告白するのがキリスト教である。その際のイエスは、四世紀以来、「神であり、人である」存在として理解されてきた。この点は、禅の体験知とどのように呼応するであろうか。従来の観念からすれば、イエスをキリストと告白するとは、イエスをそのほかの人間とはまったく別次元の存在として定立することを意味する。しかし禅の本来相からすれば —— 「神殿」の際の観察に類似して —— イエスも「カラ」であり、自らも「カラ」であって、そこには何らの差異もない。また、「神であり、人である」というテーゼに関しては、そのうちの「神である」という側面を、イエスという存在の本来的「空」相の別表現と見、「人である」をイエスの現象的側面の表現とすれば、その限りにおいてイエスにのみ排他的に妥当するものではない。イエス以外のすべての人間にも当てはまることになる。禅の体験知からすれば、イエスと自己との本来の「ゼロ」性は、もとより明らかだからである。太郎君も「神にして人」、花子さんも「神にして人」であることになる。こうして、イエスをアプリオリに、質的に異なった絶対者扱いする視点は崩壊することになるであろう。>(前掲書 p21)
<「禅キリスト教」的傾向は、すでに言及したごとく、一方ではイエスを徹底した人間として見る、あるいは私たちの同類として見る、という方向である。つまり、イエスは独一的「神の子」等々であるとして、質的な隔絶をイエスと私たちとの間に設けることをしないのである。したがって、イエスの苦悩や罪性、弱さや過ちまで、共感の拠り所になるであろう。(中略)もっとも、イエスが人間であるということは、禅キリスト教的に言えば、さきほど「神論」の項の「人間論」の変化で述べたように、本質的に「神」との一致という原事実の中にいるということである。その意味ではイエスは確かに「神の子」なのである。つまり、私たちのすべてが「神の子」であるという意味において、彼もまた「神の子」なのである。(中略)そのように見れば、これまで幾度となく、カルケドン信条の表現 —— イエス・キリストは「真に神にして、真に人間」—— に対して批判的な言及をしてきたが、もしもこれをイエスを含めた人間存在の究極の規定とすれば、実は全く正しいことになる。(中略)つまり、カルケドン信条の誤りは、それが対象をイエスにのみ限定したことが狭隘にすぎたということである。>(前掲書 p212~213)
そして続けて「三位一体」についても語られます。
< そうであれば、いわゆる「三位一体」の教義もラディカルな再解釈が可能である。「父 — 子 — 聖霊」の中の「子」とは、普通はイエス・キリストのことであり、それ以外ではあり得ない。しかし、以上の論旨を適用すればはるかに別次元の事態が見えてこよう。ここの「父」とは、禅キリスト教の体験知で遭遇する廓然とした原事実のことであり、この「子」とはイエスを筆頭にした現象態のあらゆる人間のことであり得る。そして「聖霊」とは、その二者が摩訶不思議に一つとなって真実の神が具現するその神秘、その事実、そのエネルギーを表すであろう。般若心経が「空即是色、色即是空」と言っていることが、これと比論されるであろう。敢えて言えば、「聖霊」とは、「即」で表される事実性に対応するものである。—— もっとも、このような三位一体の再定義は、禅キリスト教の当事者たちによってもまだほとんどなされてはいない。また、このような言葉にして観念的に宣伝すべきものでもなかろう。ただし、禅キリスト教のヴェクトルがそうした方向へ向かっていることは、感知しておいてよいと思われる。>(前掲書 p213)
三位一体に関しては、矢内原忠雄氏が次のように述べておられます。
「三一神観は人の要請によつて造り出された神観ではなく、神の本質に関する神御自身の啓示に基く神観である。神学教義としての三位一体論は、聖書に現れたる啓示の体系化に外ならない。」(「全集、第9」〔岩波書店〕p338~339)
三一神観が「神御自身の啓示に基く神観である」ことは認め得るとしても、自分の場合は三位「同等」の三一神観ではなく、三位「従属」の三一神観ということになります。前者の「同等」が御父の自己限定と解するにしても、聖書を虚心坦懐に読めば後者になります。また、矢内原氏は次のようにも述べておられます。「ヨブの抱きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。」・・・これっって「神観」は観念だから意味ない…みたいな考えに喝!を入れる言葉やと思います。上記の佐藤研氏の「禅キリスト教」と似たような神観としては、八木誠一氏の「創造的空」がありますが、私見では、理論の緻密さとしては、佐藤氏は八木氏に及び得るものではないです。八木氏による『禅キリスト教の誕生』の書評はこちらのリンクから。_pdf (jst.go.jp) 
この中で八木氏は一定の評価を下しつつも、佐藤氏の論考に欠けている事柄として、< 神と人の「一」について。この表現は厳密ではない。」(中略)個人またはモノがそのまま神だということではない。この区別を明確にしないと人間神格化と謗られる。(中略)神はロゴス/キリストに内在しながらこれを超えている。基督教の神は人間の「究極の自己」でありつつ、同時に「絶対の他者」である。つまり単なる自覚の内容ではなく、信仰の対象でもある。>云々と述べておられます。私にとって、「相対」と相対しない真の「絶対」は対象ではないし語り得ないですが(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」とは云われますが…)、自分の場合は沈黙するわけにもいかず、別の表現では「創造的空」とか「無限の開け」とでも言うしかありません。そもそも「空」は「色」と相対するのかどうかは知りませんが、実体の有無などという執着自体を超えているのです。「神」に「実体」が無ければ信仰できない…といった、その執着が迷いなのかも知れませんが、いずれにせよ小田垣氏のように「観念論的独断」を避けようなどとは思いません。滝沢克己氏が「独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」と述べたと云われているように、宗教的実存というのは結局、神をどうみるかに始まって独断的なことは自ずと生じると思うし、それで他人様に迷惑をかけないのであれば、いっこうに問題ないと思います。ということで、土井健司氏は次のように述べています。
< 神が唯一絶対であれば、そもそもその神は何かの「神」としては認知されないはずです。「神」として認知するためには、別の神との比較が必要となるからです。その意味で、一神教と多神教とを比較するということ自体が、一神教を見誤っていると言えます。なぜなら一神教は、そのような比較を絶するものだからです。(中略)神が唯一であれば、その神は「何か」として捉えることはできません。つまり唯一の神は、見えないのです。一神教は排他的に一人の神しか見ないのではなく、その神は唯一であるので見えないのです。「排他的に」と言うことができるのは、複数の「神」の中から一つを選び、それを絶対視する場合に限られます。後述するようにそれは、拝一神教ではあっても、一神教ではありません。なぜなら一神教においては、そもそも複数の神が存在してはいないからです。>(『キリスト教を問いなおす』ちくま新書p119~120)・・・引用はしませんが、この箇所で土井氏は大きなカン違いをしておられます。すなわち、イスラエルの民は十戒の第三戒の遵守により本来の「神の名」を忘れてしまったということと、一神教の神に名が無いということとは全く別のことなのにこれを混同して、旧約聖書が示す「神」には名が無いかのように述べています。しかし旧約聖書を普通に読めば、イスラエルの民がどれだけ「神の名」を重視していたかということがわかります(詩篇だけみても、7:18、8:2,10、9:11、20:8、83:17、102:22、113:1、124:8…多数)。「エホバ」はもちろん「ヤハウェ」でさえ本来の発音かどうかはわかりませんが、だからといって神の名が無いということにはなりません。要は子音の神聖4文字(テトラグラマトン)が示されている限り、それをどう発音しようとも神の名はあるのです。標準的には「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」でよいと思います。「名は体を現わす」と云われるとおり聖書が示す神には実体があるのです。ちなみに木田献一氏の著書『神の名と人間の主体』(教文館)の内容には歴史を軽視したファンタジーのような、ナンセンスとしか言えないメッセージがあります。すなわち、エリヤがホレブで聞いた「静かにささやく声」が「エフイエ」だったとか、「ヤハウェ」が「ある」を意味する動詞「ハーヤー」の使役形で「あらしめる」を意味するという決めつけ、そして極めつけは「エフイエ」(わたしはある)という神の名の呼びかけによって「わたしはある」という主体性が目覚めさせられる云々といった話です。「ある」は「なる」とも訳し換え得るのであり、その場合は果して主体性の目覚めということに結びつくのかも疑問です。木田氏の前掲書はおせじにも旧約聖書学の専門書とは言えません。ja (jst.go.jp)
ところで、「創造的空」の立場では、絶対と相対という対立をも超えられるし、そもそも「意味」と「無意味」との相対でさえ超えられるのです。その「創造的空」の自己限定としての啓示によって「意味」ある世界が開けたわけで、このことを抜きに「空」を論じると「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ということになると思います。佐藤研氏の「カラッポ」神観も私見では過ぎてます。神秘主義への共感などは聖書的キリスト教信仰の頽落と言っても過言ではありません。やはり聖書が示す神には「実体」が問われるし、「意味」はあくまで「有」でなければならない。それが信仰生活であり人生というものであり、神が「絶対」であることは形而上学的な意味であるよりも、信仰告白・賛美表現としての意味であり、そこは何故なしです!そこで絶対なる神の実体を形而上学的に問えば、論理的に「絶対」なるものは「無限」で外部を持たないということ、遍在ということになり、自ずとスピノザの唯一の(無限)実体ということになるし、しかもスピノザの思想についてよく云われる「汎神論」ではなく、「汎在神論=万有在神論」における「超越即内在」(…滝沢氏の言うように「不可分」だけではなく「不可同、不可逆」であり超越が内在に優先する)の「神」ということになるし、実存的な方向性ならコヘレト的神観が聖書的には最も望ましくなる。聖書が示す神が人格的存在であることは否めないが、その擬人的な面は限りなく小さいことが望ましいです。                                   自分にとって、キリスト教においてイエス・キリストを(三位一体の第二位格である御子として)「神」という場合と、その父を「神」という場合とでは、同じ「神」でも意味が違ってきます。前者はあくまで信仰による賛美の告白であり頌栄の表現にすぎませんが(ヨハネ福音書1:1、20:28  ※1:1については冠詞の有無は関係ない。)、後者は真実を言い当てた表現ということになります。イエス自身が父を「わが神」と言っています(ヨハネ福音書20:17)。新約聖書においてイエス・キリストを創造者であるとする箇所も(コロサイ1:16、コリント第一8:6)前者と同じく賛美の表現であり、ヨハネ1:1とも共通して「ディア」という前置詞に示されるとおり媒介・手段的意味であって目的を意味しません。以上のことを敢えてわかりやすくするために大胆に言い換えれば、イエス・キリストを「神」とか「創造者」だというのは誉め言葉であり、超偉大である旨を表わすための比喩であって、イエス・キリストの父を天地の造り主である「神」というのはそのまんまの事実だ…ということです。だから使徒パウロは「神」と「キリスト」とを峻別して手紙を書いているし、一度としてイエス・キリストを「神」と言ってはいないわけです。それどころか、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)との指摘もあります。日本でパウロ研究の第一人者とも云われる新約聖書学者がここまで公言しているわけですから、私の如き一介の信徒が、神の子キリストの、父なる神に対する従属関係を言ったところで誰も異端者だとか異教徒だとか言って批判する意味は無いのです。「神の子」は「神の」というのだから「神」に含まれるのだろうと一応は言えるでせうが、「の子」という分、ふつうに「神」という場合の「神」とは違って一段下の「神」といったイメージを与えます。絶対者とか全能者という意味としては、ナザレ出身のイエスいうユダヤ人男性はどこまで行っても「神」ではありません。なぜなら絶対なるものは人間の身体などとは無縁なる存在だと確信するからです。昔の信条における「真に神、真に人」といった表現は、言わば絶対矛盾の自己同一的な話であり形而上学的思弁であって、自分が賛美をもって告白するには極めて相応しくない表現です。「真に神」であるという意味は自分にとって「絶対」ということであり、「真に人」であるという意味は自分にとって「相対」ということだからです。「絶対」なるものと「相対」なるものとは、一つの人格として同一ではあり得ません。< 作用的一が「まことに神・まことに人」(両性論的キリスト論)である所以が了解される。これは実体論的に考えてはならない。この一は、作用論的に考えなければ成立しない。実際「まことに」(vere)は副詞であるから、「まことに神・まことに人」は作用論的に語られているのであって、神も人も動名詞的である。>(『イエスの宗教』岩波書店 p26)                              自分の信仰の対象はあくまで「天地の造り主、全能の父なる神」であって「そのひとり子、主イエス・キリスト」ではありません。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネ福音書17:3)という言葉を素直にとれば、「永遠の命」とは「唯一の真の神 =イエスの父(なる神)≠ イエス・キリスト=父から遣わされた者」ということを知ることだということになります。この場合、「唯一の真の神」とは、そのような言い方も含めて聖書で描かれている神として自己対象化、自己相対化、自己限定しておられる言わば「(創造的)空」です。この「空」は対象化されないから、自ら啓示として相対化しなければ人間の世界史からかけ離れているということです。イエス・キリストは「道」です。神と人との中間者です。「それ神は唯一なり、また神と人との間の中保も唯一にして、人なるキリスト・イエス是なり。」(テモテ第一2:5) イエス・キリストは人間と父なる神とを結びつけるかけがえのない「道」として尊いという意味で「唯一の主」と讃えられ(コリント第一8:6)、「命」であり「真理」でもある(ヨハネ福音書14:6)と云われるのです。我々はキリストという「道」を通って神に向かうのです。ちなみに聖霊は信仰の場です。我々は聖霊のはたらきのうちに在って御子を通して御父に対して信仰するのです。イエス・キリストは、我々をご自分に正対させるかたちではなく、ご自分は信仰の導き手であり完成者として(ヘブル12:2)、「霊の父」(ヘブル12:9)に服従する生き方の模範となられたのです。私たちはイエス・キリストという、聖所の垂れ幕を介して至聖所の「神」との関係へと進むのですが(ヘブル10:19~20 ※19の「トーン・ハギオーン」は「聖所」だけではなく「至聖所」という意味もある⦅~織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館 p4⦆。)、問題はいわゆる「キリスト止まり」になってしまって、目的の「神」に至っていないのではないか?ということです。「イェスさまがいちばん」はけっこうですが、信仰の対象が「神」にとってかわって「イエスさま」になりさがってしまっているのは情緒主義的信仰の露呈というわけでせうか?故・井上洋治師は、「ほんとうの神学は有の神学ではなく、無の神学であるべきはずです。有の神学は、神を対象とし、それについて考えようとするものであるかぎり、どうしても神話性を抜けきることはできないでしょう。」と述べています(『イエスのまなざし 日本人とキリスト教』〔日基教団出版〕p86)。
しかし、神学という営み自体、考えることなのですから意識の対象が伴います。神話性ということも必ずしも悪いことではないと思います。創造主は御父のみであり、青野太潮先生の論文で、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおり、御子は創造主ではありません。これはギリシャ語「ディア」(英語の through に相当)に注目することによって言えることです。「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』講談社現代新書 p255~256)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教を多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」(島田裕巳著『キリスト教入門』扶桑社新書 p103~105)
イエス・キリストはあくまで霊の父に対する信仰生活を歩み、弟子たちはその姿を背後から見て信仰を養われたのです。子が父をおしのけるようにして前面に出てくるといった必然性は、聖書およびキリスト教においてはあり得ません。「キリスト教」という名称の由来は「クリスティアノイ」(キリストに属する者たち」(使徒11:26)かどうかは知りませんが、たぶんそうでせう。これは「キリスト」が信仰の眼目ということを意味せず、他宗教とは異なる特殊な事柄…すなわち神と人間との中間者・仲介者・救い主(キリスト)がナザレ出身の「イエス」であるという信仰告白(マルコ8:29)によるものだと思います。言わば「子は親を映す鏡」のたとえの如く弟子たちがイエス(と父との関係)を「見た」のであり(これは「ホラオー」であり、「看る」と訳された「セオーレオー」との違いに注意。また、9:35~38の場面では、イエスが自身を3人称で言う「彼=人の子」を盲人が「見ている」と言っており、この「見る」には霊的認識といった意味が込められている)、ピリポがイエスから「私を見てきた人は、父を見てきたのである」(ヨハネ福音書14:9)、これはイエスのそれまでの言葉とわざ…振舞いを弟子として立ち合い目撃してきた…という意味です。なので、「私」(イエス・キリスト)と「父」(なる神)との実体論的同一を意味しているわけではありません。我々にとってイエス・キリストがどんな姿かたちであったかなんてどうでもよいことです。画像に描かれた白人のイケメンであるイエスを聖書に証言されたイエス・キリストとしてイメージするのはナンセンスの極みであり、ましてや女性信者でそんなイエスさまを白馬の王子さまのように恋愛対象の如く想い描いている人がいるとすれば、それってもはや信仰と言うにも値しないでせう。すくなくとも史的イエスはユダヤ人男性であるのだから、一般の画像にあるような白人風の容姿とは違うはずです。無論、信仰対象である「神」は「霊」でありますから、姿かたちへの関心など無用です。私は聖書的神観として、「三位一体」というより父と子と聖霊の「三一」を信じますが、ヨハネ福音書14:10~11などに萌芽的なものを察せられないこともない所謂「ペリコレーシス」(相互内在、相互浸透)に関してはもちろん存在論的解釈は採りません。それはヨハネ福音書の10:30や14:9などについても同様で、これは不可分性の強調とみます。
<『ヨハネによる福音書』(10:30)にある「私と私の父とは一つである」というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。>(野呂芳男氏の講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回)
<キリストは究極的ではあるけれども、なお最終の究極者そのものではない。それは存在者が「どのように」あるかの根拠であって、存在者が「ある」ことそのことの根源ではない。そして存在者の「存在」の根源、すなわちあらゆる有の創造者は神なのである。だから新約聖書ではキリストだけではなく、神が語られ、神が創造者なのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』講談社現代新書 p135)
<キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。(中略)ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Ⅰコリント一五・二六~二七) こうして神は、「すべてにおいてすべてとなる」(Ⅰコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Ⅰテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。>(前掲書 p147~148)
< 神とキリストと聖霊の関係をパウロがどう考えているか、一言しておく必要があるかも知れない。パウロによれば神は究極の主体であり、それゆえ一切の存在の究極の根柢でもある。これは「一切は神に由来する」(Ⅰコリ八6)とも表現される。するとキリストはまず神の行為の仲介者なのである。「一切はキリストを通して」なのである(Ⅰコリ八6)。キリストを通して、神の人類救済の業がなされたのである。すなわち内容面からみれば、「キリスト」とは神の行為の内容だと言える。神の義を立て、人を救い、生かすものである。神は人を救う働きの主体であり、キリストはその内容なのである。(中略)新約聖書の中では三位一体論は、神・キリスト・聖霊の三位がその本質においてひとつであり、超越者のあり方においては三であるというような、定式的表現を得てはいない。ただ信徒への祝福の形で「主なるイエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりとがあなた方すべてとともにあるように」(Ⅱコリ一三13)と述べられているだけである。>(『パウロ』清水書院 p190~191)
「三位一体」という言葉が出てきたのでついでに書いておきます。中川健一牧師の動画の中で、「三位一体の構造改革」という言葉について「構造改革に人格があるのか」などと言っておられますが、これは比喩として言われているので的を外しています。また、聖書に「三位一体」という言葉はないが概念が啓示されていると言っています。

                                  
しかし私はそうは思いません。あくまでも聖書の解釈だと思います。真に絶対なる「霊」…非対象の「神」が啓示において自己対象化したものが聖書で物語られている「神」であり、そのキリスト教による解釈として「三位一体」が言われているわけで、「三位一体の神」とは自己対象化し自己相対化された神だと思います。                                          <新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその「主」としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。>(論文「ヨハネ福音書のキリスト論」~『キリスト論の研究』〔創文社〕p74)
「神を知る方法は、理知的には聖書の記事に基づく神学的思索を必要とするが、実験的にはイエスの生涯と、イエスを信ずる者の生涯によって知られる。そして、それが神についての何よりも確実な具体的な知識なのである。」(~矢内原忠雄)と云われ、また、「神はヨブの苦難の原因を説明し給わず、又神の審判が義しきことを積極的に説明し給わなかった。即ちヨブの抱きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。」(~矢内原忠雄)と云われています。この最後の、「問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活きた解決であって、人生の推進力たり得るものである。」という言葉こそ、高級官僚とか東大総長としての矢内原忠雄氏ではなくて、あくまでも無教会指導者の矢内原忠雄氏の面目躍如って感じかな?また、ウィリアム・ジェームズに関しては以下のような文言が目に止まりました。<ジェイムズの宗教論で特徴的なのはその徹底した個人主義であるが、それは個別の救済という形式を見出すことになった。ジェイムズによれば、宗教はその定義で「孤独のなかで」と前提される。これは宗教の社会性を無視しているというジェイムズへの批判とも関係づけられるかもしれない。しかし逆に言えば人は社会的に孤独であっても、潜在意識の向こうに他者を見出し、救われることができるのである。このことは人間の「宗教によって救われる能力」の大きな価値を示していると言えるだろう。>(~林研氏の学位請求論文「ウィリアム・ジェイムズの宗教思想 ―科学時代の救済論として― 」)上記の中で、「人は社会的に孤独であっても、潜在意識の向こうに他者を見い出し、救われることができる」ということは、対神関係を楽しみ、そこに慰めを与えられるという意味にもとれます。アウグスティヌスが言ったとされる「神を楽しむこと」(fruitio Dei)という言葉に関して、北森嘉蔵氏は次のように述べています。
「『健全なる神秘主義』が確保されるためには、一方神秘主義に固有なる『神を楽しむこと』がそのところを与えられると同時に、他方この性格に付着する問題性が完全に解決されねばならぬ。(中略)『神を楽しむこと』に内含むされる自己の喜びや楽しみや幸福もそれ自体としてはこの自己追求的罪にほかならない。しかるに神の痛みはかかる罪を徹底的に赦さんとし給う神の御心である。(中略)この神の愛は神の痛みの領域をも突き抜け、神の痛みをも忘れるほどにひたすらなる愛である。(中略)神の痛みに基礎づけられし愛は、神の痛みの真相としてひたすらに我々を愛し、我々が自己を憎むことをさえももはや要求しないほどになるのである。(中略)ここでは神は我々に対して彼御自身をば楽しみの対象として与えたもう程に我々を愛し給うのである。『神を楽しむ』神秘主義が成立するのはここにおいてである。(中略)神の痛みは『神を楽しむこと』に付着する我々の罪を赦しつつ、そのためにこそ痛みつつ、我々に対して自己を楽しみの対象として与えるのである。このことに応じて我々自身は、かくまで我々を愛し給う神の御心のかたじけなさに咽びつつ、『神を楽しむ』瞬間にも『自己を憎む』ことを忘れることはないのである。(中略)ここに始めて『神を楽しむ』神秘主義は、『健全なる神秘主義』となり得るのである。」(『哲学と神』日本之薔薇出版社 p55~56)
神秘主義は健全であれ何であれわては好かんけど、旧約聖書学者の並木浩一氏は「人格神」を信じる理由の一つとして、「・・・神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶこと。これがわたしにとっての礼拝の意味です。慰め主であり、賛美をゆるされる方をわたしは必要とします。」と言うてはって、何をするでもなし、対神関係を楽しむこと、神を信仰すること自体が、メンタルヘルス的にはきわめて有効な信仰治療であり、実践であることがわかります。なんにせよ、我々クリスチャンにとってはキリスト教のドグマやのうて、あくまでも聖書を信じるんだす。
「聖書は神に関して我らに教える書ではなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。聖書において我らに迫り来る神は絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。」(高倉徳太郎著『福音的基督教』第1講第3節)

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