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水に棲む

軽いプラスチックの盆に朝食を乗せて、浴室のドアの外から声をかける。おーい、という三井の声に、ぱしゃん、と水の音がして、それからはぁい、と間延びした返事があった。ドアを開けると、湿った空気が流れてきて、水の匂いがした。ちいさな窓からは朝の白い光が差し込んで、狭い浴室は奇妙に明るい。三井はお盆片手に、浴槽の中身に話しかける。
「朝飯、食うだろ」
「うん、ありがと」
 風呂に浸かった宮城は、盆を受け取ると水の上に浮かべて、トーストをかじり始める。湯船に落としてくれるなよ、と思いながら、三井はそれを見守る。濡れた手で食べるトーストはあんまりおいしくないだろうに、宮城は特に気にしていないようだった。
 ここ数日、宮城は風呂場に棲んでいる。
 元々風呂好きの男ではあったけれど、そういうのじゃない。寝るのも起きるのも湯船の中だ。最初の日、いつまでたっても風呂場から出てこない宮城を見に行ったら、浴槽のふちに腕をかけてすやすやと眠っていた。三井はあわてて宮城を起こしたけれど、本人はきもちよく眠っていたところを起こされて鬱陶しげに眉を寄せるばかりだった。その後も宮城が風呂場から出てくる気配はなく、溺れるんじゃないかとか、ふやけてしまうんじゃないかとか、いろいろ心配はあったけれど、本人がそうしたいと言うから好きにさせている。ふたりで暮らす家を選ぶとき、広い浴槽の部屋を選んだが、そうは言っても浴槽だ。居心地は大して良くないだろうに、宮城は気持ち良さそうに湯船に浸かっている。
 コーヒーの入ったマグカップを片手に、三井はちいさなバスチェアに座って脚を組む。風呂場でコーヒーを飲むなんてへんな感じだけれど、ここ数日ですっかり慣れてしまった。奇妙に明るいバスルームで、湯船に浸かりながらパンをかじる恋人を眺めながら飲むコーヒー。この世にこれより妙ちきりんな味のするコーヒーなんてありっこない。それでも、三井は浴室で飲むコーヒーが嫌いではなかった。
 湯船から手が伸びてきたので、三井はマグカップを渡してやる。宮城は濡れた手で慎重にマグカップを包むように持って、ふうふう吹いてからコーヒーをすすった。
「湯、冷めてねえ?」
 水面に人差し指を突っ込んで三井が尋ねると、宮城はん、とうなずいた。
「さっき追い焚きしたから、いい感じ」
 湯船の中は人肌よりちょっとあったかいくらいの、曖昧な温度をしている。三井は熱い湯船にさっと浸かるのが好きだけれど、宮城はこんなにずっと入っているのだから、このくらいの温度がちょうどいいのだろう。三井は宮城の手からマグカップを取り上げて、浴槽のへりに置いた。それから、宮城の手を取って注意深く眺める。
「水かきとか、生えてねえ?」
 ひっくり返したり握ったりして手を観察する三井に、宮城は生えねーよ、と笑う。三井も笑って、それから思い立って手の甲にキスをしてみる。肌は湿っていて、くちびるに水気が残った。宮城は恥ずかしがるように手を湯船に引っ込めてしまう。ぱしゃ、と湯が跳ねる音がした。
 宮城が湯船に棲み着くようになったのは、シーズンが終わってまとまった休みができてからのことだった。三井は宮城とは違うチームに所属しているので、このあとは自分のチームの練習に行かなくてはならない。自分のいないあいだ、宮城がこうやって水に浸かって過ごしているのかどうかは知る由もない。けれど、きっとこうやって浴槽に浸かっているのだろうと思った。湯の中で、ゆらゆらと揺れる宮城の体を見る。よく日に灼けた、筋肉質な宮城の体。何度も触れて、抱いたこともあるその裸体は、朝の光に満ちた浴室で見ると、おかしな具合に清らかだった。
 給湯器のパネルに表示された時刻を見て、三井はやべ、と腰を浮かせる。そろそろ家を出ないと間に合わない。湯船から空になったトレイを回収して、オレもう行くわ、と三井は言う。宮城はゆるゆると手を振った。いってらっしゃい。
「ふやけんなよ」
「ふやけねーよ」
 ばしゃ、と湯で顔を洗った宮城は、楽しそうに湯船から三井を見上げた。

練習からの帰り道、スーパーに寄った三井は、青果コーナーで目に止まった苺を買った。赤くて、つやつやしていて、とてもおいしそうに見えた。小ぶりで形の揃ったやつと、大ぶりでごつごつしたのが並んでいて、三井は大きい方を選んだ。そっちのがおいしそうだったので。
 家に帰ると、部屋の中は真っ暗で、宮城が居るはずの浴室もやっぱり暗かった。時折ぱしゃ、と水の揺れる音がして、宮城がそこに居ることを知る。電気を点けてドアを開けると、浴槽のふちに脚を引っ掛けた宮城は、朝と大して変わらない様子で水に浸かっていた。緩慢に首が三井の方へ向けられて、おかえり、と声をかけられる。ただいま、と返して、三井はスーパーで買ってきた苺を出して見せる。
「苺買ってきた。食う?」
「いーね、食う食う」
 うれしそうに言う宮城に、おっけ、とうなずいた三井は、キッチンからボウルを取ってきて、そこへ氷を放り込む。それから風呂場へ戻って、蛇口から水を出してボウルに入れた。つめたい氷水の中に、買ってきたばかりの苺を浮かべる。その様子を、宮城は湯船の中から楽しげに見ている。
 水の中にいる宮城は、あんまり食べない。今日も朝、バターを塗ったトーストを2枚食べたきりで、三井が留守にしているあいだに何か食べた気配はない。自発的に何か食べたいと言うこともなく、三井が声を掛けて、用意されたものを食べるだけだ。スポーツマンがそれでいいのかと思わなくもないけれど、宮城の体は何も変わらない。水の中では、そういうことになっているのかもしれない。
 つめたく冷えた氷水の中で、苺はその赤さを増した気がする。風呂場のオレンジ色のぼんやりしたライトに照らされて、つぶつぶの表皮がつやつやと光る。緑のヘタをむしって、苺をつまみ上げると、湯船のへりに腕を乗せ、そこへ顎を乗っけた宮城はかぱりと口を開いた。口元に持っていってやると、苺にかじりつく。ぐじゅり、と果汁があふれる。宮城が食べるのを見ていたら、三井もむしょうに苺が食べたくなって、宮城の歯型がついたそれを口に放り込んだ。冷えていて、甘い。つめたい水に指を突っ込んで、苺のヘタを取り、宮城の口へ運ぶ。そのたび、宮城は従順に口を開けた。濡れた苺が触れたくちびるから、つ、と水が垂れ落ちる。水滴はそのまま湯船に落ちて、浴槽の湯と混ざりあってわからなくなってしまった。
「キスしていいか?」
 バスチェアに座った三井がそういうと、宮城はいーよ、と目を閉じる。宮城のくちびるはつめたくて、苺の甘酸っぱい匂いと味がした。湯船に手を差し入れると、人肌くらいのぬるい水に触れる。直接触っている訳ではないのに、宮城の体と繋がっているような、不思議な心持ちがした。

水の中に棲んでいる宮城と違って、三井は夕飯が食べたいので、冷凍しておいたカレーを温めて食べることにした。ひとりで食べるのは味気ないので、カレーを山盛りにした皿を持って浴室のドアを開けた。カレーの匂いを漂わせてやってきた三井に、宮城は若干迷惑そうな顔をしたけれど、出ていけとは言わなかった。
「食う?」
「んーん、いい」
 カレーのスプーンを差し出して聞いてみたけれど、宮城は興味なさげに返事して、ぱしゃりと水を跳ねさせた。べつにどうしても食べさせたい訳ではなかったので、三井は大人しくスプーンを銜える。
 湯船の中で、宮城の体が揺れている。立てた脚の膝頭が、照明を受けてぬるりと光る。オレンジの光の中で、宮城の肌が濡れている。肌を伝う雫のひとつひとつが、三井の目を惹いてやまない。それを舐め取りたいな、と思いながら、三井はカレーを口に運ぶ。
「やっぱ食えよ。ひと口でいいから」
 やっぱり宮城にカレーを食べさせよう。そう思って、三井はスプーンを宮城に差し出した。宮城はちょっと億劫そうな顔をしたけれど、湯船から首を伸ばして、口を開けた。そこへスプーンをすべりこませて、三井は満足する。もぐもぐと頬を動かす宮城のくちびるが、カレーの油分でてらりと光る。どうしてだかたまらなくなって、三井は宮城にキスをした。ぬるついたくちびるが合わさって、香辛料の匂いがした。宮城が喉の奥で笑う。頬を包んで、舌を突っ込んで、髪に手を差し入れて、ぐしゃぐしゃにするようなキスをした。くちびるを離すと、宮城は頬を赤らめて、やりすぎ、と囁いた。その感じがとてもよかったので、もう一度頬に吸い付いてから、三井はカレー皿を持って浴室を出た。宮城が浴槽から水を鉄砲みたいにして発射したので、背中が濡れたけれど、そんなことは全然構わなかった。

翌朝、三井が起きると、リビングではテレビが点いていて、宮城がダイニングテーブルの椅子に片足を乗っけて行儀悪く座っていた。パンを焼いた香ばしい匂いがしていて、宮城は目玉焼きを乗せた食パンをかじっているところだった。
「もういいのか?」
「うん。もういい」
「ふやけてねえ?」
「ふやけてねーよ」
 三井が尋ねると、宮城はちょっと笑って答えた。上半身には何も着ておらず、スウェットの下だけ履いて、タオルを肩からぶら下げた宮城の髪はまだ濡れている。ぽたぽたと雫を落とす髪を一筋すくって、三井は宮城の髪をタオルで拭いてやった。タオルの下から、楽しそうな笑い声が聞こえる。タオルを扱う三井の腕を掴もうと伸びてきた宮城の手は、もうすっかり乾いていた。


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