0 「存在(の源)」としての聖書の「神・創造主」 みんなに公開

出エジプト記3:14「神がモーセに言われるのに『わたしはあらんとしてある者である』。また言われた、『イスラエルの子らにこう言いなさい、「『わたしはある者』がわたしを君たちのもとに遣わされた」と』。」(関根正雄著『新訳 旧約聖書』教文館)
「アガペー」(神の愛)とは人間の愛情とは異質ですよね?でも「愛」と訳したのでおかしなことになりますよね?人間の愛情では「敵」を愛することなんてできませんから。イエスは理想主義者だったのか?そうでないとするならイエスが言った「アガペー」なり「アガパオー」とギリシャ語訳された言葉は(イエスがヘブライ語で言ったのかアラム語で言ったのかはともかく…)「愛」と訳すと誤解を招きますよね?私は存在肯定(他者肯定)だと思います。聖書が示す「神」はモーセに対して「エフイェ」(〘私は〙ある、いる、なる)という者であると言われましたが、これって「神」は自ら存在の根源という意味で創造主として物語られ、一人一人の存在を肯定しておられるということだと思います。だから我々は敵対する相手を感情としては憎み嫌ってもその存在は肯定して然りだということです。つまり十戒にあるとおり殺してはならないってことです。そして自己嫌悪に陥って自分自身と敵対しても、感情は忌み嫌おうが存在肯定・存在承認により自死は否定されるのです。
奥田知志牧師は、説教2021年2月21日 ヨハネによる福音書2章23~25節「残念ですがイエスは人を信じていません 信じる、愛する、つながる について」https://m.youtube.com/watch?v=Tlz-ef0y0hU&lc=UgzE_ipaRk02mmOeXqZ4AaABAg
に於いて、愛敵はハードルが高いということで少しハードルを下げる別の見方として「インマヌエル」の救いの約束に注目し、「共にいる」ということ、嫌いな相手であっても関係を切らず一緒にいるということだと言われていますが、この考え方も存在肯定・存在承認という私の解釈と通じ合うものがあると思われます。私見では、聖書の救いが「インマヌエル」(God with us)であるのは、そもそも神が「エフイェ」(I am)だからです。
「野呂はこの書物でのわれわれの立場のような神理解に批判的であって、『神は人格的な一存在であって一向に差し支えない。神は存在そのものではない』(傍点原文)と言う。その神が二元論的に悪と不条理に対決し、人間を救いに導き、神を信ずる人間は歴史創作的に自分の宿命を成就すると言う。」(「一存在」の3文字、「存在そのもの」の6文字、計9文字に傍点あり。引用元は、野呂芳男著『神と希望』日本基督教団出版局、1980年、116頁。)この野呂氏の二元論的神観においては「絶対」は哲学の概念であって神学には適さないとして否定されます。すなわち野呂氏の神学において物語られる「神」は「有限」的で「相対」的な存在者ということになります。これでは現実的な信仰対象たり得ません。もちろん「絶対が相対の中にあるというのは、絶対が絶対でありうるのはそのような在り方に於てのみであって、相対から切り離されると、絶対は相対にあい対したもの、即ち相対になってしまうからである」(小田垣雅也著前掲書p216~217)という理屈はわかります。要するに「神」は啓示なしにはなんとも言えない…というか、人間には不可知であって啓示によっても形容はし難く、八木誠一氏が指摘しておられるとおり「人格(的)」にせよ「絶対(的)」にせよ比喩でしかないのです。「存在」もまた然り。聖書が示す「神」が「絶対」とか「存在」という概念とか観念と同義であるというわけがないことは言わずもがなです。ましてや「三位一体」なんて一つの形而上学的思弁的解釈にすぎません。決して中川牧師が言うような聖書にある概念だと決めつけることもできないのです。それも解釈にすぎないからです。ただしだからと言って「人格(的存在)」ですとも言い切れない、ただ啓示が「主イエス・キリストの父」であるということに於いて「人格的存在」と云われますが、そもそも「父」というのは言うまでもなく比喩です。だから「神」については訳語も含めてどこまでいっても定まらないのです。それが「神は霊である」ということでしょう。でも聖書が示しているとおり得体が知れないというわけではありません。モーセに対して「ある、なる」と(「エフイェ」とヘブライ語で言われたかどうかは知りませんが)言われているからです。
「神が『人格的な一存在』であると人間が定義することはできないというわれわれの主張をここではくり返さないが、神が人間に対向した一人格として居るのでなければ人間は希望をもって不条理に満ちた歴史を生きてゆけないという理解は、人間の現状に対して或る種の説得性と合理性を持ってはいるが、しかしその神は必要から要請された一種の『機械仕掛けの神』に他ならない。神に対する信頼は、本来は罪と義、悪と善の区別を超えたものである。」(「人間が」の3文字に傍点。引用元は、小田垣雅也著『哲学的神学』創文社、1983年、161頁)
聖書の「神」は新約聖書では「霊」とか「愛」とか「光」とか言われていますが、第一義的には「有る、在る」だと思われます。創造主は有らしめる作為者のみならず御自身が「有る、在る」者であり、その源なのです。
一般的には「愛(アガペー)」が聖書に示された神の本質として第一義的に云われますが、「ある(エフイェ)」との関連で言えば、「神は愛なり」の愛は情としての「愛」ではなく、敵であろうとその存在は認め、暴力をもって排除しようとするのではなく対話によって共存をはかるということでしょう。敵対者も自分と同じく被造物であり、創造主によって生かされ有らしめられていることを思えば、どんなに憎むべき自分の家族への加害者であっても殺傷による存在消滅をもって復讐することは不信仰ということになります。復讐するは存在源である我(神)にお任せするしかありません。神が存在そのものだという場合、それはスピノザの「神即自然」の「汎神論」(Pantheism)に近くなるかのようでありますが、小田垣雅也氏によると「汎神論」の「神即自然」は対象とのことで、汎在神論(Panentheism)の「神」は対象ではないとのことなので(小田垣雅也著前掲書24頁)、「絶対」の代名詞である「神」は後者ということになります。
創造神が「ある」ということは静止的な意味ではなく「なる」という動的・生成的意味が含まれているので、それが啓示としての「主イエス・キリストの父」(子は親を映す鏡)につながりますが、このような神の聖霊に導かれるなら、自分自身の存在を肯定し自暴自棄に陥ることなく絶望はありません。そして、いかに敵対する相手であっても、愛情は持てませんが相手の存在を無視するようないじめ、ましてや相手の存在を否定する暴力行為に出ることはありえません。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、「神」が自分の存在の根拠であり同時に帰するところ、人生の始め(アルファ)であり終わり(オメガ)。
Ⅰコリ8:6の前半部は、新改訳では「すべてものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」、口語訳では「万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。」、新共同訳は「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」。後半部は、岩波版(青野訳)は「その方によって万物は成り、われらもその方による。」、新改訳は「すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」、口語訳は「万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。」、新共同訳は「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」と訳し、(存在せしめているのはキリストではなく神ヤハウェであるのに、この区別をなくして)「キリスト=神」にしてしまっている。この点は日本語対訳ギリシア語新約聖書も同じで「ディア」の訳を「よって」の後で括弧内に「存在する」と補っている。ここで「主による」というのはキリストを媒介してという意味であろう。「ディア」には手段や媒介の意味がある。決してキリストが存在の根拠であるという意味には解せない。以下、引用文中の太字は自分による。
<キリストは究極的ではあるけれども、なお最終の究極者そのものではない。それは存在者が「どのように」あるかの根拠であって、存在者が「ある」ことそのことの根源ではない。そして存在者の「存在」の根源、すなわちあらゆる有の創造者は神なのである。だから新約聖書ではキリストだけではなく、神が語られ、神が創造者なのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p135)
<存在するものの「存在」の根源、つまり有の創造者は神なのである。そして存在するものが「どのようにあるか」はロゴスによって定められる。だから、「すべてのものは、(神によって)、ロゴスを通じて、成った」といわれる(ヨハネ一・三)のである。>(同、p138)
<キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。>(同、p147)
M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いては、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴が「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています(p23)。また『新共同訳新約聖書注解Ⅱ』(高橋敬基)や『新共同訳新約聖書略解』(松永晋一)は(いずれも日基教団出版局)、当該個所について「父なる唯一の神は万物の起源であり終極なのである。これに対し主は万物の(創造の)仲保者として捉えられている。」(注解p94~95)、「創造の仲保者としてのキリストの宇宙論的役割と、人間の救いの仲保者としてのキリストの救済論的役割を示す。」(略解p456)と、共にキリストを「仲介者」または「仲保者」であることが強調されており、神の根源的創造の役割と、キリストの仲保的創造の役割とを区別しています。これは『NTD新約聖書注解7 コリント人への手紙』の当該個所の注解と軌を一にしているので参照したのかも知れません。

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