0 道具の幸せは使い潰されること

「伊織。一つ、どうしても聞きたいことがあってだな……」
 ある日、正雪はとても遠慮がちに、むしろこちらが謝りたくなってしまうほどおどおどしながら、そっと尋ねてきた。
その態度に、できるだけ柔らかく返す。
「そう遠慮せずともいい。それで、どうした?」
 俺のその様に正雪は幾ばくか緊張を解いてくれて、意を決した。
「では……その、どうして私と子供を儲けようとしないのだ?」
──────────
 盈月の儀も終幕に入った。アーチャー、アサシン、逸れのバーサーカーが倒れたことで、鄭とドロテアと太夫が儀から降りることとなったからだ。今日は特に戦いに関して収穫は得られなかったが、明日に備えてそろそろ床に入るか、という時分の時である。
「宮本伊織、起きているかぁ!! 惰眠に耽けているならば疾く目覚めよ!!」
 外から喧しい声が響いてきた。幽霊長屋とはいえ夜分に大声で人を呼び出し、相手の事情なぞ歯牙にも掛けず、尊大な口調で出迎えるのが当然だ、むしろ訪ねてやって来て感謝せよ、という態度。そんな人物に心当たりなど、特徴的な声質も合わさって一人しか居ない。
「…こんな夜分に、どうした若旦那」
「む、この速さは起きていたか伊織。流石は我の認めた臣よ、心得ているようだな」
 戸を開ければ想像通りの貴人が居た。外は暗いし明かりも点いていないのであまり様子は解らないのだが、どうしてかこの御仁は輝いているように思えた。魂が黄金とでも云えばいいのか? ともかくよく見えないのに存在感が有り余っている。
 と、一種の感心を覚えていると、背中から不機嫌を一切隠さないセイバーの声が飛んでくる。
「夜に、しかも自分から訪ねてくるとは珍しいこともあったものだなワカダンナ。そして帰れ」
「こちらの雑種は弁えていないようだな。灸を据えて欲しいのか?」
 いつも通り険悪となってしまった雰囲気をいつも通りなんとか宥めようと試みる。
「セイバー、抑えてくれ。若旦那自ら足を運んできたのだ。重要な話がきっとあるのだろう」
「そうだ。伊織にのみ用がある。しばしこれを借りるぞセイバー」
 それを聞くや否や、寝転がっていたセイバーが飛び起きて俺の隣に無理矢理割り込んできた。
「それは駄目だワカダンナ! いくらきみが盈月に興味がないとはいえ、協力関係のないサーヴァントと自分のマスターを二人きりに出来るものか! イオリが危険だ!」
「阿呆か貴様。我はよく働く臣下を無碍にはせぬ。それが王の役目よ」
「だったら夜に訪ねてくるな!」
「我は巴比倫弐屋の店主。昼間は多忙を極めるのだ。…全く血気で浅慮な雑種よな。己がマスターを見習え」
「王が店主をするものか! 筋が通っていなーい! かーえーれーー!」
 その後断固拒否するセイバーをなんとか鎮め、どうにか長屋の外に若旦那と二人きりになることが出来た。
「しかしここでいいのか若旦那?セイバーには秘密の話があるのだろうが、こんなに長屋に近いのなら聞き耳を立てられている筈だぞ」
「王を舐めるな雑種。防音の宝具はすでに展開しておる。セイバーには語句の一つすら聞き取れまい」
 若旦那の諸国漫遊の誘いを断るために戦った際、湯水の如く宝具を射出する様には驚いたが、武具以外の宝具もあるのか。裁定者という唯一無二のクラスといい、つくづく底の知れないサーヴァントだ。
「で、要件だが。これを下賜してやる。手を出せ」
 そう云って金に輝かせながら空間を俺の胸辺りで歪ませると、そこから何か出てきた。慌てて手を出し受け取る。
「これは…」
「若返りの霊薬だ。生前採取する際には実に手間取ったが、貴様はその苦労に見合う道化ぶりであった。我にはどうせ必要のない物でもあるし、故にくれてやる。王の寛大に咽び泣くがいい!」
 そうしてフハハハと常通りの高笑いに繋げた若旦那だが、俺には全く話が見えてこない。
「若返り…? 俺はこれを必要とするような齢ではない。なのに何故?」
「貴様自身には必要あるまい。だが、いずれそれに縋り付かなくてはならぬ事態が起ころう。なので先回りしてやったのよ」
「は、はぁ……?」
「いつでも取り出せるよう、それは常に懐に忍ばせておけ。瓶は我がウルクの民が作った至高の逸品、そして防御の加護も付けておいた。貴様が地面に叩きつけられた程度では割れぬ」
「そのような物を、俺が受け取って良いのか?」
 そう告げると、若旦那はあからさまにむすくれた。
「王は臣下を無碍にせぬと云ったであろう。謙遜は結構だが、過ぎれば我への不忠となるぞ」
「そ、そうだな。非礼を詫び、また貴殿の好意に感謝する」
 それでよい!、と目の前の御仁の機嫌は忽ち直った。付き合いもそれなりになると扱いも解ってくるものだ。
「今しか渡す機会もない故な。それでこんな見窄らしい場に足を運んでやったのだ。…ああ、本来宝具とは持ち主の英霊が消えれば同時に無くなるものだが、その対策もしてある。
 ……うむ、我ながら完璧なる立ち回り! 再度礼賛せよ!」
「そ、そうなのか。御気遣い、痛み入る」
「苦しゅうない!」
 まだまだ話は見えてこないが、恐らく若旦那はこれ以上事情を説明する気などないと予測出来る。なので追求は諦め、取り敢えず礼を云っておいた。
「ところで宮本伊織」
 己の気は済みすぐ帰路に着くであろうと思ったが、意外にも若旦那は話を続けてきた。
 こちらに近付いたと思えば、随と顔(かんばせ)を俺に寄せて来る。彼の奇行自体には慣れたが、新たなるそれに面食らっていると、彼は告げる。
「我を殺す算段は付いたか?」
 声を潜め悪戯話を楽しむ子供のような、いっそ無邪気な面持ちで。
「────ッ!」
 息が詰まった。
 なぜ?
 …何故(なにゆえ)?
 ──いつから気付いたのだ?
「そんなもの、初対面時に決まっておろう。王を殺すために値踏みをするなぞ、あまりに不敬且つ恐れ知らずな雑種が居ると、思わず首を落としそうになったわ」
 いつの間にか元の位置におり、態度も常通りの堂々たるものに若旦那は戻っていた。
 頬に一筋の汗が伝う。何故疑問を口にしていないのに答えられる。そも一目見ただけで人の本質が何故見える。
「エイキチとミヨに感謝せよ。あの童共が我の飴細工を賞賛した直後で機嫌が良かった故、見逃してやったのだ」
 裁定者は解りやすく皮肉を込めて、粘つくような笑みと発音をする。
「殺すつもりの人間に救われるとは、あまりに未熟な剣鬼よなぁ?」
 この感情はなんだ? 神仏が如き慧眼への恐れ? あの殺すという発言が本心であったことへの驚愕?
 ──それとも、かつてないほどの強敵に気付けたことへの歓喜?
 …考えるまでもない。その全てだ。
「最後に忠告だ」
 その声一つで、空気が張り詰める。
 殺す云々は楽しげな様子で伝えてきたが、こちらは違う。普段の尊大な振る舞いとはまるで異なり、声を低めて睨め付けてきた。すべてを見たと云いたげな、賢者の如し気を纏いつつ脅されている。
「道具の喜びは持ち主に使い潰されることだ。もしアレが道具として真に立ち返った場合、それを踏まえた上で全てを愛してやれ」
 アレとはなんだ? 愛すとは何を? …愛なぞ、欠けた俺には縁遠い単語だ。
「人間が道具の純粋さに報いるためには、その程度しか出来ぬ」
 その言の葉には単純な警告ではなく、何処の誰かに謝罪する意図が含まれているように見えた。由はふと声が沈んだからだ。気の所為かもしれないが。
「では王としての役割はこれまでだ。精々終焉まで我を楽しませよ、伊織」
 しかし彼の王に似合わぬ愁う(うれう)様は須臾に終わった。そうして今度こそ満足したのか、若旦那は一方的に告げると去って行ってしまった。
 ふと、渡された瓶に視線を落とす。若返りの薬など与太話にしか聞こえないが、彼が云うと本当にそのような効能があるような気がしてならない。そして常に持ち歩けとも云われた。ともかく、彼の指示には従おう。そう思いながら長屋に戻った。その後、一人取り残されていたセイバーには予想通り愚痴愚痴文句を云われた。
──────────
「光、だ………」
 その呟きに咄嗟に振り返る。盈月の器はセイバーによって壊され、キャスターによる固有結界も消え去り、一瞬惚けていたが、その鈴のような音に現実に呼び戻された。
「正雪!」
 岩に身を預ける彼女に駆け寄る。身の状態は見た目だけで判別出来る。既に死に体だ。
「正雪、逝くな! 待ってくれ、待っ……」
 そこで、はたと懐の妙な重みに気が付く。それからの行動は獣の本能が如く速かった。加護があると云う瓶の蓋を可能な限り早く開けるため、刀に全霊の力を込めて斬り、躊躇なくその中身を己の口に含み、そのまま正雪の下顎を抑えることで口を無理矢理開かせた。
「…?」
 意識が朦朧としている正雪はその全てをぼんやりと眺めていたが、次の瞬間にはさしもの彼女でも目を見開いた。
「…ッ! ………!」
 重体なので呻く程度の抵抗しか彼女には出来ないが、それでもこんな仕打ちを受けることは心底吐き気がするだろう。だが止まれない。己の罪の意識も、今後彼女に疎まれ続けようとも、全てこの処置の前には些事だ。
 そうして若旦那から受け取った若返りの霊薬を口移しで飲ませ終わる。すると先程の死の香りは何処吹く風、正雪の生気は緩やかながらも確実に戻ってきていた。
「正雪! 嗚呼良かった…! 本当に、本当に良かった…………」
 一仕事終え、地面に手を付いてへたり込む。そんな俺に正雪はそっと、窺うように声を掛けて来た。
「伊織、泣いているのか……?」
「は……?」
 指摘され、試しに頬に触れてみると、確かに涙が流れていた。ついでに瓶の切り口から直接口に含んだせいで、唇が切れて血が流れていることにも気付く。すると先程は押し留めていた罪悪感がごうごうと己の内を支配した。
「すまない正雪…! 仕方のないこととはいえ、貴殿の口を穢してしまった……。瓶が大き過ぎて貴殿の口には入り切らなそうなのでやむを得ずこんな手段を……。
 …嗚呼、俺の血も唇に付いてしまって。待ってくれ、直ぐに清めるための水と布を持ってくる」
 そうして立ち上がった俺に対し、正雪は慌てたように声を掛ける。
「だ、大丈夫だ伊織殿! それよりも状況を教えてくれ。どういう由なのか解らぬが、体の調子がみるみる良くなっているのだが……」
 その言葉に心が落ち着く。そうか、やはり若旦那の言は眉唾ではなく真のものだったのか。流石は溢るる王気を持つ方だ。
「それは若旦那…浅草に居た逸れの裁定者から譲り受けた若返りの霊薬を飲ませたからだ。それで良くなって…うん? 若返りという話だが、正雪の体は一向に若返らないな」
「ああ、それは私がホムンクルスだからだ。私は造られた時からこの姿だから、見た目は変わらぬ。しかし中身の方は急速に時が遡っていることが解るぞ」
 その言葉に、心が晴れやかになるのを感じた。
「そうか…。これなら、正雪も人並みの寿命を得ることが出来たな……」
 何度目かの「ああ良かった」を胸の内で感じつつ、改めて歩き出す。
「え…? 待ってくれ伊織殿?! 何処へ行く?」
「? 先程も云ったが、水と布を取りに行く」
「それは要らないと云ったであろう! 傷も生来の能力で塞がりつつあるし、貴殿にこれ以上の迷惑は掛けられぬ」
 妙に慌ただしいというか、普段の正雪からはかけ離れた様子に疑問を感じつつ、返答する。
「迷惑であるものか。むしろ迷惑を掛けたのはこちらの方だ。死にかけの貴殿を戦いに連れ立ってしまったし、そもそもこんな瀕死の状態になる前からあの霊薬を飲ませておけば良かったのだ。そうすればあんな辱めも受けずに済んだというのに」
「辱め……?」
 ぽつりと口にした途端、正雪は顔をさっと赤らめた。
 …今までの人間観察の経験から解る。これは怒りで顔を紅潮させているな。
「い、いや別に、辱めを受けたとは思って……いない」
「俺に気を遣う必要はない。遠慮せず詰ったり刀で斬り付ければいい。殺しても勿論構わぬ」
「命の恩人に誰がそんな真似をするか! だからあれは辱めだと感じていないと云っているだろう! …ただ必要だからその処置をしただけなのだろう?」
 正雪の主張に首を傾げる。好いてもいない男に口を寄せられるなど、女子が忌避する行動の一つではないのか。
「…いや、正雪ならばそうか。清廉なる貴殿なら、俺の行動も嫌悪感なく受け止めてくれるか。ありがとう、正雪」
 そうして頭を下げると、ますます正雪が慌て出した。
「だから何故そうなる?! 礼を云うのは命を救われたこちらだというのに…」
「俺はただ裁定者から薬を貰い受けただけで、真の恩人は彼の方だ。礼を云うのなら浅草の巴比倫弐屋へ行くといい。盈月の器が壊れた以上、まだ現界しているのかは解らぬが」
「そ、そうか…。な、ならば伊織ど………伊織!」
「ど、どうした正雪?」
 いつになく真剣な様子で声を張る彼女にやや面食らう。
「わ、私と共に裁定者殿へ礼を云いに行かないか……?」
 今度は打って変わって声を鎮めながら、目線をやや俺からずらし、また頬を少し赤らめながら正雪はそう提案してきた。提案自体は願ってもいないことだが、疑問が二つある。先ず何故正雪はこのような態度を取っているのか。師匠の弟子であり今は浪人である俺には、女人を観察する機会が極端に少なかったせいで推測が出来ない。そしてもう一つの疑問は、何故俺はこうも彼女からの提案に喜びを感じているのか。欠けた人間なりに剣以外にも喜び自体は感じもしていたが、此度は度を超えている。それこそ強者と死合えた時と同じような。
 結局、何もよく解らないまま正雪と二人で浅草に行くことになった。セイバーを加えた三人でないのは、とても残念だったが。

「む、無事帰参したか伊織。此度の大立ち回り、実に見事であったぞ!」
 浅草の巴比倫弐屋に行くと、意外というか意外でもないというか、ともかく若旦那は未だ現世に留まっていた。
「特に竜の足を斬った後、己の刀にセイバーを乗せて飛ばしたのは中々に盛り上がったぞ。……ふむ、これ以上の褒美はやらんと決めていたが、飴くらいは良いか。持って行け」
 そう云うと若旦那は店の棚から自分を象った例の飴細工を俺と正雪に渡し、いや押し付けてきた。俺は慣れているので礼を云いつつ素直に受け取ったが、正雪は固まっていた。
「い、いや受け取ることは出来ぬ裁定者殿。聞けば、伊織殿に若返りの霊薬を授けたのは貴殿であるとか。そのような御仁から更に施しをされる由は……」
「由はあるとも。我は我の望むままに振る舞う。そのために貴様は黙って王からの恩恵に与れば良い」
 そう告げた若旦那の顔に驚く。普段の尊大な態度は鳴りを潜め、慈しむ様にやや柔和に笑んでいたからだ。あくまで想像上で掘った英雄像の微笑みに近いそれに、そんな表情も出来たのかと若干背筋が凍った。
「伊織。貴様、今不敬な思考を巡らせてはいなかったか?」
「いや、そのようなことは。それより若旦那。俺に霊薬を下賜してくださって、本当に助かった。貴殿の慧眼と宝具には目を見張るばかりだ」
 俺に続いて正雪も礼を云う。
「私からも御礼申し上げる裁定者殿。貴殿のお陰で、この身は生を繋ぐことが出来た」
「うむ! 末代まで我からの恩寵を語り継ぐがよい! そしてショウセツとやら、さっさと受け取らんか」
 若旦那から催促された正雪は未だ困惑を隠せない表情で飴を受け取った。恐らく自分を救った方の人柄の実態が、想像とかけ離れ過ぎていて事態を飲み込めないのだろう。その様子に、ふと笑みを零してしまった。……何故零したのだろうか?
 そんな疑問なぞ誰も露知らずに、若旦那は話題を正雪に振る。
「ところでユイショウセツ」
「いかがした」
「おまえは、…………いや、やはり止めた。少なくともおまえは、これから死に逝く間際まで幸福で居られよう。ならば我に不満はない。好きに余生を過ごせ」
 その言に引っ掛かりを覚え、俺は問うた。
「余生とは随分不穏なことを云うな若旦那。貴殿の霊薬のお陰で、正雪の寿命は延びたのではないか?」
「ああ延びたとも。我はその霊薬を口にしたことはないが、それはそれとして口にしたモノの顛末は見たからな。寿命は間違いなく延びているとも」
 若旦那は寿命に関しては念を押してくる。
「つまり、裏を返せば寿命以外に何か支障を来たすと?」
「いいや? その霊薬は完璧なる一品だ。副作用なぞ欠片もない。ただ体も精神も、記憶はそのままに返るのみよ」
 若旦那は今まで俺とセイバーを振り回すことはあれど、嘘を吐いた試しは一度もない。臣は無碍にしないという信条も相まって、薬の効能は信じていいだろう。ならば薬以外の要因で正雪の身に何かが起きるのか?
「概ねそんなところだ、宮本伊織。
 まあ我としてはそちらの方が望ましい結末故、敢えて助言はしてやらぬ! 後は己が手で自らの願いを叶えるのだな!」
 そうしてフハハハハ! と、御約束事になっていた高笑いと共に、若旦那は金の砂となって消え失せた。セイバーと同じく、盈月が消えたせいで現し世から去ってしまったのだろう。
「何というか、嵐のような方だったな……」
 正雪は店主が居なくなった巴比倫弐屋を前に、そう呟いた。
「そうだな……」
 俺も素朴な気持ちで同意した。
──────────
 翌昼、カヤは騒いでいた。
「戦いが終わって、その足で揃って浅草に帰ってきて、そのまま長屋で二人一緒に寝たと! そうですか!!」
 若旦那との一件が終わった後、もう日付けが変わりそうな時分だったので、正雪には長屋に泊まってもらった。流石に神田まで帰る体力が残っていなかったようで、意外にも素直に従ってくれた。俺としては儀のような緊急事態はともかく、独り身の男の家になど泊まりたくはないだろうと居た堪れない気持ちでいっぱいだった。しかしいくら彼女が武士としても魔術師としても優れていようと、流石に気力の尽きた状態で神田まで帰るなど、何が起きるか気が気でならない。なので苦渋の決断として我が家に泊まることを提案したのだが。
「ところで正雪さん……。正雪さんから見て、兄上はどのように感じますか…?」
 そして次の日の朝、カヤは赤坂に向かう前に俺と交わした「おむすびを拵えておいてくれ」という約束を果たすため長屋へと赴いた。そして見られてしまった、俺と正雪が二人並んで寝ているところを。
 カヤは疲れているのだろうと気を遣って起こしはしなかったが、俺たちが昼に目覚めてからはこうである。
「具体的に云うとですね、祝言などは考えていただけないでしょうか……?」
「祝言?」
 正雪は純朴に復唱した。
「はい! 確かに兄上は今は浪人と身分が低いですが……。そこはそれ! 剣豪・宮本武蔵の養子且つ弟子であるという名を活かして、私が養子に行った家に仕えてもらいます! そうすればそれなりに見合う身分にはなれるかと!!」
 カヤは俺や正雪の事情なぞ放ったらかして、すでに自分の世界に入っている。
「カヤ、その辺にしておけ。正雪を困らせるな」
「でもでも兄ちゃん! こんな機会滅多にないよ! 逃しちゃ駄目だよ!」
「だからカヤ! 正雪を困らせるな! 俺と夫婦に成りたがる訳がないだろう!!」
 云って、己の声の張り上げぶりに驚いた。セイバーに恋仲だと勘違いされていた時は至って冷静に対処出来たというのに、今回は出来なかったからだ。それに限らず、カヤはよく出来た義妹だから今まで怒鳴りつける事なぞ一度もなかった。なのに今、自分はそれをした。
 今までの行動や心境も踏まえると、いつからかは解らぬが、どうにも正雪が絡むと自分はおかしくなるようになってしまったらしい。
「ご、ごめんなさい兄ちゃん……。それに正雪さんもすみません……」
 義兄が初めて声を荒げた様に、すっかりカヤは怯えてしまったようだ。
「俺こそすまない。つい感情が荒ぶってしまった……」
 本当に俺は、どうしてしまったのだろうか…?
「カヤ殿」
 拗れてしまった兄妹を前に、正雪は口を開いた。
「貴殿からの申し出は嬉しい。私は伊織殿から祝言を上げたいと云われるのならば、それに応えたい」
 心の臓が跳ねた。師匠に突然修行だと木刀で殴られた時も跳ねたが、此度は感覚がまるで違う。…人にはこんな機能も備わっていたのか?
「え、で、では……?!」
 喜びを隠し切れていないカヤを前に、正雪は悲しげな笑みを浮かべた。
「しかし私は、これから外つ国に行かねばならない。だからその申し出は受けることは出来ないのだ。すまない」
 そうだった。これまでゴタゴタと事が起き過ぎたせいですっかり忘れていたが、神秘の隠匿とやらのため、正雪はコイエット家に引き取られるのだった。
 そんな折に、聞きたくもない声が戸の向こうから響いてきた。
「宮本伊織ー? 居るかしらぁ?」
 嗚呼、来てしまった。無慈悲な人攫いが。
「カヤ、俺が戻るまで外に出るなよ」
 只ならぬ俺の気迫に頷いたカヤを見てから、敵に応答した。
「居るぞ、ドロテア殿」
 できるだけ感情を抑えながら戸を開いた。
「約束通り由井正雪を預かりに来たわ。彼女は…おや、ちょうど良いことにアナタの所に居たのね。それじゃあ…」
「断る」
 敵の数はドロテア・コイエットを含め6人。周囲にまだ潜んでいるかもしれないが、この程度ならばすぐに斬り捨てられる。
 ドロテアは一瞬目を見開いたが、すぐに無表情となった。正雪を保護という名の拉致を提案した時と同じ顔だ。
「どうして? サムライは約束を反故にするような集団なの?」
「いいや別に」
「伊織!」
 剣呑な雰囲気に正雪が飛び出してきた。律儀に戸を閉めつつ。カヤを気遣ってくれたのだろう、有り難い。
「私を庇う必要はない。私は行くとも」
 その言葉に無性に腹が立った。先は俺と祝言を上げてもよいと云ったのに、それはあまりに薄情ではないだろうか。
「ドロテア・コイエット。おまえは神秘の隠匿のため、正雪を連れて行くと云っていたな?」
「そうね」
「根源に至る…そのために神秘の隠匿をするのが魔術師であったな?」
「そうよ」
「はっきり云う。下らない」
 その言葉にドロテアは解りやすく眉根を寄せた。
「下らない、ですって? 私たちは根源に至るために全てを投げ打っているのよ。金、人材、時間、自身とその子供の命。何百年と積み上げてきたその研鑽と誇りを、下らないとアナタは吐き捨てるの?」
「ああそうとも。紅玉の書が云っていたが、根源へ至れる者なぞ居ないに等しいのだろう?なのにそれを追い縋るなぞ、下らない以外に何と称すればいいと云うのさ。ならば正雪一人を隠したところで意味など為さないだろう」
「そうね。世が神秘から離れ続けている以上、根源へ至れる人間なんて居ないことは認めるわ」
 でもね、と呟きながらこちらを見据えてきた。怜悧な目をしているが、それだけではない気がする。では何だ。
「私たちはもう、こうでしか生きられないのよ。幼少期から叩き込まれてきた教育が、魔術刻印より伝わる先祖からの悲願と呪いが、私たちを駆り立てるのよ。汝、死に至るまで忠実であれ、なんてね」
 怜悧な目はそのままに、優雅に微笑みながら目の前の魔術師は己の性を詳らかにした。それで、ああそうかと理解する。
「それが泥船であると知っていながら、降りることも造り直すことも叶わないと」
 魔術師という生き物は俺と同じなのだ。目指すものは違えど、それが辿り着けぬモノと心底理解しながら、それを追い求める以外の衝動が沸かない、出来ない。その理屈は痛いほど共感出来た。前言を撤回したい、俺は下らないと云える立場ではとてもなかったようだ。
「その上で、俺は刀を抜こう」
 鞘から抜くなど俺にとっては呼吸のようなものだが、今日だけはとても愛しい感触がした。
「伊織?!」
 それまで黙っていた正雪が声を上げる。
「案ずるな。俺は負けない」
「そうではない! 何故私をそれまでに過剰に庇う?!」
「何故だと?」
 そんなことを聞かれても困る。自分でも何故空っぽの己が、貴殿に焼けるほど執着しているのか検討も付かぬのだ。
「強いて云えば、そうだな……」
 己の傍らに居る、一人の女性の顔を見た。そうして思い付いた。
「貴殿が美しいからだ」
 そう云って敵の首を落とさんがため一歩踏み出した瞬間、ドロテア殿が声を上げた。
「あーもう解ったわ解ったわ! 降参するから矛を収めて頂戴!」
「お嬢様!」
 ドロテア殿の傍に居た側近であるジョパンニが不満そうに声を上げた。それに彼女は応える。
「アサシンが居ない以上、私たちに彼への勝ち目なんてないわ。 一工程(シングルアクション)の起動すら許されず私の首が落ちるわね」
「それは…確かに」
 ジョパンニの同意を聞くと、やれやれとドロテアは首を振った。
「アナタの由井正雪への感情を量り間違えた私の負けね。いいわ、コイエット家はこれ以上アナタたちに一切干渉しない。それで命乞いとしては十分かしら?」
 刀を構えたまま、問う。
「あっさりと引き下がるのだな」
「そりゃあ、次期コイエット家の当主として私の命は重いもの。誰も関心を寄せない極東の神秘の秘匿と、自分の首を天秤に掛けたら、当然首を取るわ。…さて、時計塔にはどう誤魔化そうかしらねぇ……」
 そう告げると、彼女から先程の敵意はすぐに消え去る。
「それじゃあAdieu! 末永くお幸せにねー!」
 片目を瞑ってこちらに笑顔を向けたと思ったら、さっさとドロテア殿は背を向けて歩き出してしまった。彼女の部下たちもそれに続いて行く。
 その背が完全に見えなくなってから、俺はようやく納刀をした。
「行ってしまったな……」
 正雪がぽつりと呟く。
「ああ、これで貴殿はようやく自由だ。さあ、好きに生きるといい」
 その言葉に正雪は目を見開いた。困惑しているらしい。
「何か困り事があればいつでも助力しよう。…剣を振るうくらいしか、能が無い男だが」
 そう告げても、正雪はこちらの顔を覗いたまま固まってしまっている。日ノ本に残ることが想定外過ぎて現実を飲み込み切れていないのだろうか。
「どうしたのだ正雪。やりたいことがたくさんあるのだろう? …そうだな、まずは神田に戻ってはどうだ? 貴殿を慕う塾生がたくさん居る」
「…塾を続けることが、貴殿の望みか?」
 生気の無い声で正雪はそう聞いてきた。まだ実感が無いのだろうが。
「いや違う。自由に生きて欲しいというのが俺の望みであって、塾は提案の一つに過ぎん。兎も角、貴殿の思うままに人生を過ごしてくれ」
「自由に、思うままに……」
 正雪はそう一人ごちると、俺から目線を外して俯いてしまった。なかなか心の整理が付かないらしい。まあライダーとの決裂といい、霊薬といい、日ノ本に残ることになったといい、これまで正雪にとって想定外の事態が起こり過ぎた。無理もなかろう。
 そうして二人並んで長屋の外で立ち呆けていると、おもむろに正雪が口を開いた。
「本当に、私が望むことをしていいのだな……?」
「ああ。俺もそのためには助力を惜しまないとも」
 と云って、自分の発言に自分で驚く。これは常通りの演技が混濁した言葉ではなく、本心からの思いであったからだ。一切の混じり気ない本心から紡がれた表明なぞ、自分にとってはかなり希少の筈なのだが。
「ならば伊織」
 惚けて俯いていた正雪が意を決したように体をこちらへと向け、真っ直ぐに俺の目を捉えてきた。美しい碧眼だなと、ついらしくない考えが過ぎる。
「私をあなたの所有物としてほしい。ついては、体裁としてあなたの妻となるのが最善だと思うのだが、いかがだろうか?」
 なるほど俺の妻に…。
 ───は?
「……………………は?」
 …はぁ?
「…………。
 …解った。夫婦になろう」
 そう告げた瞬間、正雪は見たこともない満面の笑みを浮かべた。花が咲くような、無垢な少女…いや、幼子のような無邪気な破顔だった。

こうして全てが謎のまま、俺と正雪の婚姻が決まった。カヤは自分事のように騒いで喜び出し、爺さんも「良かったのぉ良かったのぉ…」と繰り返すだけの、喋らなかった頃のような役立たずの本と成り果ててしまった。正雪もただ幸せそうにはにかみながら神田へ帰ってしまったし、状況に置いて行かれているのは俺だけである。
 いや勿論、正雪の願いのために助力は惜しまないと口にはしたが、みっともなかろうと俺に断る権利は一応あった筈だ。しかし俺は迷いなく了承した。了承の意を伝えるまでは時間が掛かったが、それは正雪の埒外な言を理解するまでに要した時間であって、夫婦になること自体には寸分の悩みすらなかった。しかし悩みがなかった由が解らない。アリアからの突然の妻問いの申し出は断ったというのに、正雪にはそうしなかった。何故なのだろうか……?
「そーんなの、兄ちゃんが正雪さんのことが好きなのに決まってるでしょうが! なんでそんなことすら解らないの? 変な兄ちゃん、フフッ!」
「おお第二の親として涙が止まらんぞい……市井とは違い、お家の都合が当たり前の武家で恋愛結婚が成立するなぞ……」
「爺ちゃん、泣けるの? 濡れちゃったらまずいんじゃない?」
「無論そんな機能備わっておらんわい! 物の例えじゃ例え!」
 解らなかったので正雪が一端帰った後に長屋でカヤと爺さんに聞いてみたところ、このような答えが返ってきた。
「俺が、正雪を好いている……?」
 釈然としない。欠落者である俺にそんな人らしい情動が残っていたという主張が信じられない。そんな義兄の様子にやれやれとカヤが苦笑しながら両手を腰を当てた。
「兄ちゃんはずーーっと剣一筋で、女の人なんて全然興味なかったからねぇ。だから恋とか愛とかがよく解んないんでしょ? 全く困った兄上なんだから」
「なんだその口振りは。おまえは知っているとでも?」
 上から目線の云い様に若干の苛立ちを感じながら聞いてみると、解りやすくカヤは目を泳がせた。
「え? そりゃあ、私にも気になった男の子の一人や二人くらい……って、私の話はどうでもいいの!」
「そうか。カヤもそんな年頃になったのか……」
「なんで兄ちゃんが感慨深げになってんのよ! 今は兄ちゃんと正雪さんの話が優先でしょうが!」
 そこに爺さんも続く。
「そうじゃぞ伊織。これからおまえには女人の扱い方、もとい愛し方というものを伝授しなくてはならん。でなくては折角の夫婦仲が悪くなる」
「そうだよねぇ。兄ちゃんに悪気がなくても、正雪さんを悲しませたり怒らせちゃう可能性しかないよね」
 そうして二人に結託され、女人の接し方というものを頭に叩き込まされた。始めは戸惑ったが、別に面倒臭さは微塵も感じなかった。むしろこれで正雪が喜ぶというのなら、是非傾聴したいという気分で教えを素直に伝授させてもらった。そうなると愛しているかはまだよく実感出来ないが、俺にとって正雪は特別な女人であることは間違いなさそうだった。
 そうして二人の講習が終えた後にふと過る。正雪は俺のことをどう思っているのだろうか。妻になりたいと云ってきたのは正雪自身だが、別に愛だのなんだのとそんな浮いた話で結婚を持ち出したとは限らない。そういえば俺の所有物となるための手段として妻になりたいという流れだったが、どうにも妙な言い回しである。「所有物になりたい」とはどういう心境なのだろうか。ホムンクルス特有の云い回しか何かなのだろうか。その当たりを爺さんに聞いてみると、次のように返ってきた。
「ああそれはおまえの云う通りであろうな。ホムンクルスは目的のために鋳造される人工生命ゆえ、意志はあろうと自己は道具であると捉えるものよ」
「では、正雪は単に使用者に俺を望んだだけで、愛している訳ではないと?」
 自分で云ってなんだが、胸が少し淋しくなってきた。
「んー? 儂はそうは思わんがのぉ? 正雪は道具というより人として行動しておるように見えたし、何よりおまえへの態度があからさまであったからなぁー?」
 何が面白いのか、爺さんはひょこひょこ跳ねながら揶揄いの意図が多分に含まれた発音をしてきた。
「ま、これ以上伝えるというのは野暮なものよ。直接本人に聞いてみるがよかろ」
「俺が? そんな不躾なことをして許されるのか?」
「不躾であるものか! お主らは番になるのじゃぞ! ホッホッホ!」
 駄目だ。この本はもう俺で遊ぶつもりしかなくて役立たずだ。明日、神田に訪ねて直接聞いてみよう。勝手に隣家をぶち抜いて造ってしまった工房の後始末が片付いていないが、まあ後回しでもいいだろう。

次の日、神田にある正雪の張孔堂を訪ねてみた。
 が、様子がおかしい。塾の外で何十人か屯している塾生と思わしき集団の顔が皆一様に沈んでいる。思わず近くに居た者に事情を聞いてしまった。
「なんだおまえ?見ない顔だが……。兎も角聞いてくれ! 正雪先生が病により塾を続けられなくなってしまい、実家へと帰られると……。嗚呼…俺たちはこれから何を寄辺に生きていけば……」
 そう云うと男はぶつぶつと塞ぎ込んでしまった。
「病…?」
 そんな筈はない。正雪は霊薬により健康体そのものだ。
 何か事情があるのではないかと情報を探るべく、取り敢えず塾生に気付かれぬようひっそりと建物の中に入ってみた。すると荷物を整理している正雪を見つけた。
「ああ、伊織。どうしたのだこんなところまで」
 俺に気付くと正雪は柔らかに微笑んだ。
 …そこに一抹の違和感を覚える。素直に振る舞い過ぎて、まるで幼児退行をしているかのような。
「どうしたも何もない。病で塾を畳むことになっているが、これはどういうことだ」
「ああ、それはドロテア殿が気を回したのだ。私は外つ国に出る予定だったから、その誤魔化しとして病をでっち上げたのだ」
「ああなるほど…」
 魔術の腕と云い、市井への気遣いと云い、本当に彼女は良く出来た人物であったのだと再認識する。根源へと至る切望を下らないと称してしまったことをより深く後悔した。
「だがドロテア殿はもう貴殿から手を引いた。塾生のためにも早く再開してやれ」
 そう告げると、正雪はこてりと首を傾げた。
「? 私はあなたの物になるのだ。塾をする暇はない」
 返された内容は信じ難い内容だった。正雪は盈月に縋る程弱きを救うことを乞い願っていたのではないのか。それがこんなにも極端に方向転換するとは。
「結婚云々は本気で云っていたのか…。いやそうではなく、例え俺と夫婦になろうとも、塾は続ける手段はいくらでもあるだろう。何も俺にそんな義理立てをする必要性は…」
「塾を続けることが、あなたの望みか?」
 先日の夜と同じ質問を再度投げ掛けられた。だが、なんだこの体に粘り付く言語化出来ぬ違和感は。
「いや俺の望みは変わらない。貴殿が貴殿の思うままに生きることだ」
「そうか」
 それを聞くと、安心したと云いたげに正雪は笑みを零した。
「ならば私の望みは伊織の傍で役に立つことだ。そのためならば何でもしようとも」
「俺の、役……?訳が解らない。何故そうも俺の役になりたがる?」
 そう聞けば、正雪は然もありなんと答える。
「あなたを愛しているからだ」
 それを聞いた瞬間、心の臓が肋骨を折るような勢いで暴れ出した。紅潮してしまった顔を隠そうと片手で咄嗟に覆うが、隠し切れていないのでまるで意味がない。
 …なんだ。本当に何なのだ! 俺はいつから正雪にこんなにも振り回される人間になったというんだ……。
「なんだそんなにも顔を赤くさせて…。だがそうか、伊織は愛していると云われると嬉しいのだな。ならばこれからたくさん云うことにしよう」
 未だに全く冷静になれぬ己に、追撃で大筒のような発言をかましてきた。
「しょ、正雪?! 貴殿はこの数日で人が変わり過ぎていないか?! ほ、本当に俺と婚姻する腹積もりなのか?!」
「そうだと何度も云っているが……。もしや伊織は私と夫婦になることは厭か? ならば勿論すぐに取りやめるが…」
「い、いや待ってくれ! 厭だとは一言も云っていない! む、むしろその、う、うれ、しい………」
 最後は尻すぼみになってしまった。人として何とも情けない。満足に好意を告げられぬし、そのせいで相手を不安に思わせてしまっているし。
「嬉しいのか?」
 正雪はまた幼さを滲ませた顔で素朴に問うてきた。
「あ、ああ……。その、俺も貴殿を愛しているからな。だから幸せだ…。正直、どうにかなってしまいそうだ……」
 正雪に直球に愛していると云われ、ついに自覚してしまった。由は知らぬが、自分は正雪を愛してやまないらしい。
「あなたも私を愛してくれるのか? ああ、それは私も嬉しいな……」
 正雪は胸に手を当てはにかんだ。それを見て予感する。俺は今後一生この貴女には敵わぬのだろうと。
──────────
 こうして武家の妻を迎えるならば、婚姻する前に先ずはしっかりした稼ぎと身分がなくてはいけないということで、カヤと亡き師匠の伝手を頼って小笠原家に士官した。昔は二天一流を極めていないからと浪人生活をしていたが、剣ではなく平穏と正雪を取る人生を歩むと決めたので、あまり抵抗感はなかった。
 正雪は塾を結局畳んでしまい養家へ帰ってしまったことはとても気掛かりだった。だが彼女が「貴殿とすぐに在れぬことは残念だが、それが叶わぬならば今は実家で休みたい」と云ったので納得した。確かに長年秘めてきた誓いが打ち壊されてしまったのだ。今の彼女には休息が必要だろう。そうして十分に休まったのなら、また平らかなる世のために動けばいい。その時は当然手助けをするつもりだ。そのためにも婚姻のためにも、先ず先立つものは金だろうと精力的に武士として活動をしていると、主君である忠真様の目に留まり俺は妙に早い昇進を遂げていけた。なにせ俺一人だけで四、五十人単位の徒党だろうが瞬く間に無力化させて捕らえることが出来るのだ。今の所それ以上の集団と戦ったことはないが、百や二百程度ならまだ余裕でいけそうな気がする。本当に盈月の儀様々である。武者修行は出来たし、これからどう生きるか折り合いを付けることは出来たし、なにより正雪やセイバーに鄭とかけがえのない存在と出会えたのだから。無論、江戸の被害を顧みると起きない方が当然良かったのだが。
 他にも小笠原家の人間から気が利くだとか頭が回るだとかも高頻度で云われる。これは剣のため、人間観察をする手段として一般人に擬態し続けた賜物だろう。人間、昔身に着けた技術が何処で役立つか解らないものだとぼんやり感じた。
「いやぁ、相変わらずの剣の冴えようだったねぇ!」
 そして今日は浅草で起きた大規模な強奪騒ぎを治め終え、一人木陰に座り休憩していると助之進が声を掛けてきた。差し入れか、団子を向けてきたので礼を云って受け取る。それを見届けると、助之進も隣に座った。
「浅草中を駆け回って、一人も殺さず殆どおまえさん一人で片付けてしまうとはぁ……。伊織さんや、あんた昔から強かったが、ここの所はもはやそういう次元じゃなくないか?いつの間に剣聖みたいな強さを手に入れたのさ?」
 彼の混じり気ない称賛にやや面映ゆくなる。
「別に俺如きは剣聖なんかには程遠いさ」
 三人の師匠やセイバー、なにより湊で魅入られた真の剣聖を思い出してそう告げる。
「いやぁ、謙遜も過ぎれば嫌味になるとはこのことだね!」
「謙遜のつもりは無いのだがな」
 それよりもだ、と一呼吸置いて続ける。
「今は途絶えたとはいえ、怪異が勃発したり突然町が壊れたりしたせいで、今の江戸はかなり荒れている。このままでは食い扶持の無い者がまた強盗を繰り返すだろう。早々に立て直しと職を提供しなくてはな……」
 それを聞くと、先程までは普段と同じく陽気であった助之進が真面目な顔をし出す。
「そうだな。それはお上も最重要事項として捉えてて、俺たち同心も駆けずり回されてるっちゅうわけさ」
「お互い苦労するな」
「そうだな。こんなに忙しいとだな、アレだな」
「…吉原に遊びに行けない、か?」
 助之進が解りやすくびくついた。
「いやぁ伊織さん? あまり怒らないでいただけるとですね? いやーこればかりは男の性として致し方ないと云いますか~…ハハ!」
「別に怒ってなどいないが」
「いやいや、顔は笑ってるけど目が笑ってない!」
 苦笑しながら助之進は俺を遠ざけるように両手を振った。本当に怒ったつもりなどないが。
「でも伊織さんって昔から貼った惚れたに潔癖気味だよなぁ。いや仕事中に吉原で遊女を見てるのを怒られるのは流石に解るけどよ? でもそうじゃなくてもあんま好きそうじゃないというか…」
「そうか?」
 あまり自覚はないが、他ならぬ助之進が云うのならそうなのかもしれない。
「だ・け・ど・よ!」
 ガシ、と両肩を掴まれた。
「その伊織さんが婚姻を、しかも武家と恋愛婚をするとはなぁ! いや人生何が起きるか解らんもんだねぇ!」
 揶揄って遊ぶしかないという表情に、呆れ気味に問質す。
「……誰からその話を聞いた?」
「ん? カヤちゃんだけど? 兄ちゃんがやっと身を固めてくれるってスゲー嬉しそうだったぜ」
 カヤめ、余計なことを…。浮いた話が好きなコイツが聞いたら面倒事になるのは確実だというのに……。
「しかし相手はセイバーさんじゃないんだろ? てっきり俺はあの子と一緒になるもんだと思っていたんだがなぁ……」
 妙な妄想をする友人にもう一度呆れつつ返答する。
「セイバーとはそういう関係ではないと何度も云っただろう」
「もしかして振られたのか?」
「だから振られる振られない以前の問題だ。セイバーにはそもそも妻が居る」
「へ、妻? 夫じゃなくて?」
 瞬間、よく解らない雰囲気が充満した。そういえば忘れていた。何処に行こうとも町中の人間は皆セイバーを女だと思っていたことを。
「妻がいるということはセイバーさんの性別は……? いやでも男であんな別嬪さんとかあり得るのか…? なら伊織さんが嘘を? …………は、もしや女同士で……?」
「おい助之進、帰ってこい」
 ブツブツと一人の世界に行ってしまった友人の肩を叩く。
「…ハッ!」
 助之進は無事帰ってこれた。
「まあなんだ、兎に角嫁さん貰えて良かったじゃねぇか! カヤちゃん曰く、とってもな美人さんなんだろ? どうやってそんな人と出会えるのさ。俺に伝授してくれ!」
 …やはり帰り切ってはいない気がする。
「知らん。強いて云えばそうだな、吉原に行くことは取り敢えずやめて死地に飛び込め。そうしたらきっと出会える」
「やっぱり怒ってるじゃねーか!」
 ダーハッハと愉快そうに笑いつつ、それまで座って隣同士で話し合っていた助之進は立ち上がった。
「じゃ、俺は後処理をしなきゃならねーから行くぜ」
「なら俺も……」
「いやいや今回の、いや今回も功労者殿の手を煩わせるにゃいかないぜ! 本当にありがとうな、伊織さん!」
 そう人懐こい笑顔を浮かべつつ、別れの挨拶代わりと片手を上げて助之進は去ってしまった。
 助之進に限らず、小笠原家に士官してからというものの、俺は人に感謝される機会が莫大的に増加した。「浅草の小笠原家に剣術無双の若者在り」と、江戸で密やかながらも噂されているらしい。浅草に限れば俺の名は相当に知れ渡ってしまった。
 主君を得るとこんなにも状況が変わるのかと、何処か他人事のように感心しつつ、一つ気付いたことがある。
 それは剣を振るい人に感謝されることは存外に嬉しいものということだ。そうして解ったのだ。何故俺が正雪を美しいと、愛おしいと感じたのかを。
 きっと、俺は「剣の道を極める」と心内で傲慢にも宣い続けながら、その隅で小さく抱えていたものがあったのだ。極めるために剣を振るうのではなく、善のために振るい喜びを得る。そんな人らしい在り方を、どこかで、気付かないうちに。剣聖である柳生但馬守宗矩が説いた活人剣のようなものだ。
 由は楽になりたかった、だろう。太平の世を拒み首を絞めて生きるより、江戸の空気に馴染みながら剣を振るう。そんなありふれていて、尚且つ善しとされる感性の方が生きやすいに決まっている。
 …そしてなにより。非人間なりに、江戸中を斬って回りたいという欲望を持つ怪物なりに、そこに混じりたいと何処か羨望していたのだ。
 俺の道は常にひとりで歩くものだったから、きっと淋しく感じていたのだろう。だからそうでない俺以外の人間に憧れながら、そんなことはないと蓋をし、意地を張り続けて知らないふりをし続けた。そういうものも含め、師匠は俺を憐れんでいたのかもしれない。
 ───だからこそ、美しいと感じたのだ。
 俺が感ずることすら出来ないほど隅に追いやっていた想いを、息をするように目指せる彼女を。
 ライダーを打ち倒した後に、自身が彼女に告げた言葉を思い出す。
“真に平らかなる世を望む貴殿の願い、俺には上手く云えないが……とても、美しく見える”
 当時は気付けなかったが、俺の正雪への想いはあそこで言葉にすることで整理され、そして確定したのだろう。きっとセイバーを美しいと感じたのも正雪と同じような理由だ。
 欠落者なりに人らしい部分も残っていたのだなと感慨に耽りながら立ち上がる。助之進は休んでおけと云ってくれたが、そういうわけにもいかない。今は疲れて善を成せる状態ではない正雪のためにも、俺が代わりにやらなくては。

…剣の渇きは未だ満たされない。人らしい振る舞いをしても、一向に息は苦しい。それでも俺は問題ない。渇いていようと、渇いたまま生きる術を俺は幸運にも手に入れられたのだから。
──────────
 そうして俺がある程度の地位と資金を手に入れたので、ようやく正雪と正式に祝言を上げることとなった。婚約が決まった後も互いが互いの家に行く通い婚のようなものや手紙のやり取りはしていたが、今日からようやく一つ屋根の下でずっと傍に居ることが出来る。何とも僥倖だ。
 婚礼の儀は筒がなく進み、いよいよ床入りとなったわけだが、正直に云って非常に気まずい。正雪は俺に会う度に愛していると伝えてくれるが、それはそれとして俺に身を預けていいと思っているのだろうか。
「なあ正雪…」
「どうした伊織」
 一つの布団に二人で寝ころびながら、そっと問うた。
「本当に、俺とその……俺に身を預けていいのか?」
「? 当たり前だ。私はあなたの所有物なのだから」
 通い婚擬きをしていた時からそうだが、正雪は自分との関係を表す際、あまり恋仲や婚約者とは口にせず、「所有物」という単語を多く使っていた。ホムンクルスの性とはここまで根深いものなのだろうか。
「俺の個人的な要望だが、これからは“所有物”ではなく“妻”と名乗ってもらいたいな。いくら人造の身とはいえ、自分をそんな風に称して欲しくはない」
 苦笑混じりに頭を撫でると、正雪はあどけなく微笑んだ。
「解った。あなたがそう望むならそうしよう」
 これもそうだ。正雪と婚約を誓い合ってから、「あなたが望むのなら」という表現を多用するようになった。これもホムンクルスの性か、それとも正雪自身がそういう質なのだろうか。兎も角、盈月の儀の頃からの印象から正雪は随分と離れた人柄となった。まあ、儀の際は最後に共闘した時以外は殺し合う関係でしかなかったわけだし、違うのは当たり前なのだろうが。
 そして床入りの時から気まずくなっていた由を罪悪感と共に伝える。
「正雪。悪いが今日はこうして添い寝をするだけでいいか? 男としては情けない話だが、正直共に在れることを実感しただけで、もう手一杯なのだ」
「そうか。解った」
 もしかしたら正雪は望んでいたのかもしれないというのに、彼女は物解り良く了承してくれた。本当に、欠けた人間たる俺には勿体ない御仁だ。
 せめてもの詫びとして、手を繋ぐ。
「ではおやすみ、正雪」
「ああおやすみ、伊織」
 緊張して普段より大分遅れてしまったが、どうにか眠りに付くことは出来た。ちなみに正雪は俺と違いすぐに寝付いていた。…ここでも肝の違いを見せつけられるとは思わなかった。

俺と正雪の夫婦生活は実に平穏そのもので、とても幸福だった。
 しかし祝言を上げてから一か月ほど経った後の朝、大事な話があるから時間を設けてほしいと、申し訳なさそうに正雪が提案してきた。夫婦の話し合いは大事だとカヤと爺さんから叩き込まれていたので、話如きで何をそう気まずそうに提案するのかと疑問が浮かぶ。しかし正雪にとってはそれほど深刻な内容なのかもしれないと思い、指摘するのは話し合いが終わってからにしようと決めた。
 そして今日の勤めと夕餉が終わり、件の時間となった。
「伊織。一つ、どうしても聞きたいことがあってだな……」
 正雪はとても遠慮がちに、むしろこちらが謝りたくなってしまうほどおどおどしながら、そっと尋ねてきた。
 その態度に、できるだけ柔らかく返す。
「そう遠慮せずともいい。それで、どうした?」
 俺のその様に正雪は幾ばくか緊張を解いてくれて、意を決した。
「では……その、どうして私と子供を儲けようとしないのだ?」
 云われて、そういえばと今更気付いた。俺たちは毎日添い寝をしているが、それはそれとして子作りは一回もしたことがない。
「あなたは私がしたいことをしてほしいと口にした。そして私が望むことはあなたの役に立つことだ」
 その言に、妙な寒気というか、ぞわりとした感触がした。この正体は何だ?
「あなたが私に望んでいることはあなたの妻であることと認識していた。そして妻の役目とは家を守り、世継ぎを生むことであろう?」
 おかしい。何かがおかしい。今まで積もってきた違和感の答え合わせがされるような予感がして、本能的に逃げ出したくなってきた。
「しかしあなたは一度も世継ぎを作ろうとする気配がない。何故だ? もしや作り方を知らぬのか?」
「いやまさか。知っているとも」
「では何故? 私との子供は欲しくないと云うことか?」
「いや欲しいとも。
 …………?」
 云って、己が矛盾だらけであることに気付いた。俺は正雪を間違いなく愛している。彼女との子も儲けたいと思っている。なのに今まで一度もそのための行為をしたことがない。
「何故だ……?」
 思わず口に出してしまった。それを聞いた正雪が途端、唇を噛んで俯いてしまった。
「やはり、あなたが私に望む役は“妻”ではなかったのだな……。すまない伊織、所有者の望みを汲み取れなかった私の咎だ……」
 刹那、今までの違和感が全て繋がったような気がした。それを確かめるため、正雪に震える声で問う。
「なあ正雪……。おまえは、自分は何者であると捉えている…?」
 不思議そうに首を傾げながら、彼女は答える。
「ホムンクルスだが」
「ホムンクルスとは、どのような目的で造られる……?」
「人間の道具として造られるな」
 ………厭だ。もう聞きたくもない!
 喉が痙攣を起こして発声が出来ない。今すぐこの場から、己の罪を断罪する処刑場から逃げ出したくて堪らない。
 頭を抱え小さく震え出した俺を心配そうに正雪は覗き込んでくる。
「どうした伊織…? 体調が悪いなら話はもうやめよう。そもそもあなたにこんな手間を取らせているのは私の失態なのだから」
 その言葉を聞いて過呼吸気味になってきた。明らかに自分は尋常でないほど動揺していて、焦点が合わない。
 それでも、聞かなくてはならない。重ねた罪は清算しなくてはならない。罪人が首を落とされるのを待つような気分で、その問いを口にした。
「…正雪は、自分のことを道具だと捉えているな?」
「そうだが。……それがどうかしたか?」
 そうして、自分の首は刎ねられた。何処からか若旦那の哄笑が聞こえたような気がした。
──────────
 思えば、答えはずっと提示されていたのだ。しかし恋は盲目というやつか、あるいは認めたくなくて目を逸らし続けてきたのか。
 ……いいや違う。俺は正雪を斬りたくなかったからこそ、彼女を理解する事を放棄したのだ。
 何故塾を取り潰したのか。
 何故「所有者」という言葉を使い続けるのか。
 何故平らかなる世から、俺の望みを叶えることに願いがすり変わっているのか。
 それらは全て、由井正雪という名の「道具」が「所有者」である宮本伊織の「望みを叶えるため」であったのなら、全て説明が付く。
 若旦那は云っていた。道具の幸せは持ち主に使い潰されることだと。こうも云っていた。霊薬は記憶はそのままだが、体のみならず精神までもが若返ると。
 つまり正雪は霊薬を口にした瞬間、元の道具としての正しい精神にまで遡ってしまったせいで、己が手に入れた人間性を喪失していたのだ。
「はは …ははは………若旦那も人が悪い……」
 喉を無理矢理引き攣らせて使うせいで、痛みが生じる乾いた笑いが勝手に湧き出てくる。体だけを若返らせる霊薬はなかったのかと文句を云いたくなってきた。そのためだけに降霊術でも学んでやろうか。
 俺が焦がれてやまなかった正雪は、その細く小さな身で平らかなる世を痛ましいほどに願う、あの美しい人だ。決して道具として献身しようとするホムンクルスではない。
 俺は霊薬を飲ませたあの日、由井正雪という体は生かした。しかしなによりもたっといと感じた魂は殺してしまったのだ。残ったのは、記憶を保持した見目がそっくりなだけの道具のみ。
 つまり俺が勝手に恋愛婚と勘違いしただけで、実情は俺の独り善がりの片想いだったのだ。考えてもみればそうだ。正雪のような眩い麗人が俺ようなつまらない男に惹かれる筈もない。
 歪な笑みを徐ろに正雪へと向けた。
「なあ正雪……。貴殿はまた平らかなる世を作るつもりはないのか?」
「伊織が望むのならまたやろう」
 嗚呼、予想した通りの返答しかしてこない。
「そうではなくてだな…。俺の望みは抜きにして、正雪自身にそういう望みはないのか?」
「私自身に? ……困ったな、そういうことは考えたこともなかった」
「そうだな、難しい質問をしていることは解る。だがどうか答えて欲しい」
 正雪は俺の問いにうんうんと悩み出した。俺はその間に突発的な嗤いが止まらないものだから、正雪はその度に心配し出す。だが大丈夫だとどうにか宥めて思考に注力してもらった。
「伊織。考えが纏まった」
  そうして正雪は滔々と語り出した。
「私は鋳造者である宗意軒先生に捨てられた。その後に引き取られた養家にも上手く馴染めなかった。まだ慣れてなかった故に上手く人の振りが出来なかったし、どうしても世の歪が目に付いて、そちらばかりに気を取られていたから…」
 拳を思わず握りしめる。今までの悲惨な人生もそうだが、何よりその事に対して特に感慨げもなく告げる正雪にどうしようもない遣り切れなさを感じたから。
「盈月という邪法に縋ろうとも、平らかなる世を作るどころか江戸を荒らしてしまった」
 やはり、淡々と正雪はそれを口にする。
「つまり、私はどうしようもない欠陥品なのだ」
「そんな訳がないだろう……!」
 絞り出すように否定した。
 正しくあろうとひたむきに努力する。それが俺のような邪な考えではなく、心から善しと思えて行う事が出来る。それは美しい事だ。真の欠陥品を前にして貴殿は何を囀っているのだ。
「道具に気遣いは無用だ、伊織。現に私はまた、所有者であるあなたの望む役割を察することが出来なかった」
 困ったように正雪は微笑した。自分如きに何をそう熱くなっているのだと云いたげに。
「私は嬉しかったのだ……平らかなる世を作ろうとして、それに失敗した私を肯定してくれたあなたの言葉がとても」
 先程までは凪いでいた正雪の口調が、徐々に熱を帯びてきた。月に焦がれてやまないと訴える童のように、ただ透明に。
「それどころか壊れかけの私を助け、ドロテア殿からも引き離して、あろうことか道具である私に自由も与えてくれた」
 頬を赤らめ、所在なさげに手を握り合わせながら、正雪は喜びを訴えてくる。以前の俺なら、これを人間が人間を愛しているからこそこんなにも情熱的に伝えてくれるのだと錯覚しただろう。
「なれば、私は伊織の所有物になりたいと思ったのだ。今度こそ私は間違えない。今度こそ捨てられないように、道具としての本懐を遂げようと、そう誓ったのだ」
 だが、今は違う。正雪は道具として所有者を愛しているに過ぎない。ただ俺が、由井正雪は人間であると、勝手に思い、押し付けていただけなのだ。
「しかし、私はまた失敗して…」
 彼女が云い終える前に正雪を抱きしめた。
「伊織…?」
「失敗していない。貴殿は一度たりとも違えてなどいないさ。俺が貴殿に望んだ役は“妻”で合っているとも」
「しかし妻となった物は子を作るのが義務なのではないのか?」
 やや面食らったように正雪は確認してくる。
「すまない。それは俺の落ち度だ。貴殿に指摘されるまで、今の今まで気付けなかったんだ」
 抱く力を強め、その肩に頭を置く。
「俺は、目合わう事に嫌悪感と恐怖しか沸いてこないんだ……」
「え?」
 そうして昔話をした。とっくに死んで消えていたと思っていた幼き頃の自分、それを語ることになろうとは。
 湊町に住んでいた事。そこに山賊集団が押し入り、俺以外の全てが殺された事。そして戯れに生かされた俺は盗賊頭の酒の酌のみならず性の捌け口になっていた事。そこに剣聖がふらりと現れ、盗賊八十数人悉くを斬り捨て助けられた事。すでに空っぽになっていた俺は、そこで剣を注がれそれ以外に生きる価値を見出せなくなった剣鬼である事。その全てを語った。
「剣聖に魅入られたあの日から、俺は幼い時分の頃とは別人に生まれ変わったと思っていた。だが、どうにも捨て切れなかったことがあったのだな……」
 思い返せば己が性と云うものを忌避していた行動には、枚挙に暇がない。
 まだ師匠が存命だった頃、同じ門下生に春画を見せられた時にすぐにその場から離れた。
 セイバーが初めて吉原の地に訪れた時、観光がしたいと云われて思わず断った。
 助之進の吉原通いを過剰に非難していた。
 救命処置とは云え、口を合わせたら必ず正雪に嫌われると思い込んでいた。
「所帯を得てから気付くことになろうとはな……全く、莫迦らしい…」
 本当に俺は剣以外に興味がなかったのだなと自嘲した。剣聖は俺の全てを攫っていたと思っていたが、正雪の形見の気を揉ませる余分は置いて行ってしまったらしい。
「伊織…あなたにそのような過去が……」
 自分事のように悲しむ正雪に、微笑みながら問う。
「正雪。何故この状況に甘んじている? 俺は貴殿が見出した光などではない。ただの人殺しだよ」
 その声に応えるように正雪は俺を抱きしめ返した。
「だが、あなたは結局己の鬼を押し殺して生きているではないか。それに、道具に拒否権などない。むしろ話しにくいことを聞かせてくれて嬉しい限りだ」
 腕の中から向けてくる邪気のない満面の綻びに、心が罅割れそうになる。俺が愛した正雪ならば、夫が剣鬼であった事実に激しい拒絶感を間違いなく抱いただろう。しかし今の正雪にはそんな心なぞ、微塵も湧かない。道具なのだから。
 だからこそ確認する。
「正雪。おまえの幸せはなんだ?」
「ん? 何度も云っているだろう。あなたの役に立つことだ」
「そうか。なら、このまま俺の妻で居てくれ。世継ぎはそうだな…養子で構わぬか?」
 そうだ。塾の再開も、太平の世を作らせることも認められない。それは俺が身勝手に心を寄せてしまった人がするべきものであって、形見であるこちらがすべきことではない。
 あの月に煌めく白髪の美しさに囚われてしまったのだから、それだけはどうしても譲れないのだ。
 俺の提案に正雪は答える。
「勿論だとも。…嗚呼良かった。私は今度こそ間違えていなかったのだな……」
 そう云って正雪は愛おしげに胸に擦り寄ってきた。
“道具の喜びは持ち主に使い潰されることだ。もしアレが道具として真に立ち返った場合、それを踏まえた上で全てを愛してやれ”
 若旦那の言を思い出す。彼はこの事態を予測していたのだ。
“人間が道具の純粋さに報いるためには、その程度しか出来ぬ”
 そして彼は、きっと生前に愛した道具に報いる事が出来なかったのだろう。正雪のように、まるで意志を持つ道具に恩を返す事が出来なくて、だからこそらしくもない愁い顔をしながら伝えてきたのだ。
 由井正雪と云う人間の意志を殺したのは己だ。ならば、その贖罪を行わなくてはならない。つまり自身にしな垂れかかる、かつて恋した人の面影を持つ彼女を道具として愛し、道具として使い潰すのだ。そこに如何な欺瞞と身勝手さに満ちているのかを全て覆い隠しながら、決して誰にも悟られぬよう。
“少なくともおまえは、これから死に逝く間際まで幸福で居られよう。ならば我に不満はない”
 若旦那は正雪にそう語っていた。嗚呼口惜しい。おまえの一人勝ちだ。
 何故ならば俺が焦がれた彼岸の人は、正真正銘の空の状態から、長年多くを注ぎ込まれることで美しい玉兎へと至ったのだ。しかし今、腕に抱かれている此岸の道具は精神が戻ろうと記憶をだけは保持した状態であり、前世とも呼ぶべき昔とは置かれている環境もまるで違う。しかも残った記憶は「己は失敗作である」という強烈な印象を植え付けてしまっていた。もう二度とあの燐光のような極点へは至れまい。
 本当に、質が悪い御仁だ。これがおまえの望んだ結末だと? おまえが善しとする正雪の幸福だと?
“コイツは、己の愉しみのためならおまえの命ごとき平気で奪えるタマだぜ”
 いつだかに、クー・フーリン殿に伝えられた忠告を思い出す。寸分違わずその通りだ。所詮己が磨いた観察眼など、磨いた気になっていただけで、其の実曇りだらけだったのだ。
 ぎりぎりと歯を食いしばる。思わず手にも力を入れてしまいそうになりながらも、抱いている彼女を痛めつけないよう必死に我慢する。
 こんな状態になっているのは、体の内から初めて生じる濁流のせいだ。名は憎しみと八つ当たり。剣を極める以外で人を斬殺したいと、それも無惨な肉片になるまで斬り刻みたいと望むなぞ今生に於いて初めてだ。 
 だがもう対象は疾うに消え去った。ならば己が為せる事はもう、一つしかない。
 ───ああつまり、己が間違えたのは生まれる時代だけではない。その行い悉くを間違えていたのだ。
 腕に抱く彼女を使い潰す決意を固めながら、ふと思う。霊薬は精神までもを若返らせるわけだが、それが終了するには時間が掛かるのか、それとも即座に返ってしまうのか。つまり、霊薬を口にした後でも、俺が自分勝手に想いを寄せたあの女人はまだ生きている時間も在ったのだろうか。
「ハ────」
「伊織?」
「いいや、なんでもないとも」
 そうだ、何も問題はあるまい。なにせ今までと同じことをするだけなのだ。
 己は間違えたままであろうと、歩くのは得意な性分だった。
 欠けていようと、誤魔化し笑うのが常であった。
 そう思えば、心は凪いできた。俺が愛した人と過ごせた時間は盈月の儀という、血生臭くてほんの刹那であったが、それを寄せ集めて偲ぶだけで俺は満足だ。咎人の俺には過ぎたる幸福なのだ。
挿絵
 ──何を悔いることがあろう?

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