2 「従属的三一神信仰」の再発見 みんなに公開

御子従属説にも御子を天使のような被造物とみなす立場もあれば、私のように御子の神性を認めたうえでの立場もあります。後者の立場での御子従属説は十分に聖書的根拠があり、けっして異端であると断じることは許されません。すでに「キリスト教」という名称からして、すでに従属的関係を表しています。「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。すなわち、「イエス・キリスト」とは、イエスは油を注がれた者であるということです。                                     「聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。」油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは? (~gotquestions.org)                                             「キリスト教」とは、イエスという人物が「キリスト」すなわち「油を注がれた者」であるという信仰を告白する宗教です。そして、イエスに「油を注いだ者」は「父なる神・エホバ」以外の何者でもありません。ところで、油を注ぐ者が油を注がれた者より上位であることは明らかです。だから「キリスト教」と言う場合、その「キリスト」にはすでに、油を注ぐ「神」の存在とイエスご自身との人格的かつ従属的関係が前提とされているのです。
私は、プロテスタント教会に属する一信徒であり、聖書にもとづいてイエス・キリストを「主、神」の本質を有つお方として信じ告白しますが、いわゆる「創造主」であるとは信じません。青野太潮先生の論文で、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおりです。http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/203/h-n62v1-p37-76-aon.pdf?sequence=1&isAllowed=y
また、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」とさえ指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書とパウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。                   イエスはユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。
無からの天地創造は父と子と聖霊の三位一体なる神のみわざでありますが、「創造主」はあくまでも御父のみです。しかし伝統的には御子も造り主だと信じられています。その根拠とされるヨハネによる福音書1章3節やコリント第一の手紙8章6節やコロサイ人への手紙1章16節における前置詞「διά / ディア」の解釈については後述します。 
また、三位一体論で言われる三位格間の「同等」ということについても否定的な見方を持っています。聖書でこの点に関連すると見られているのはヨハネ福音書5章18節の  πατέρα ἴδιον ἔλεγεν τὸν θεόν ἴσον ἑαυτὸν ποιῶν τῷ θεῷ (神を自分の父と呼んで自分を神と等しくした)における「等しい、同等の」(イソス)〔<「同等」(イソテース)〕です。しかし、ヨハネ研究で著名な某聖書学者によると、「5,18 と 10,33 に ユダヤ人たちが出てきて、イエスは『神を自分の父だと言い、自分自身を神と等しいと言 っている』と論難しているのは、正にヨハネとその仲間たちが日頃目の前のユダヤ教徒た ちから浴びせられている批判そのものなのです。たしかに全体が殺される前のイエスの時 代に行われた問答として描かれていますが、実際にはヨハネの現在において日々繰り返さ れているユダヤ教徒との論争が持ち込まれているのです。その二つのレベルを読み分ける ことが重要」とのことで、「ヨハネは 歴史的に生前のイエスが実際に自分を神とするような発言をしたと客観的に報告している わけでは」ない、とのことです。つまり、主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたことは事実であっても、その意味が「自分を神と等しくした」というのは、ユダヤ人たちの誤った解釈であり思い込みなのであって、実際は主イエスは神と同質ではあられたが、神と等しいということをご自分の方から人々に言っておられたという意味ではない、そのように読むのは間違いということです。たとえば口語訳は、この「自分を神と等しくした」ということを実際に主イエスご自身がなさったと解して、つまり主イエスが「神を自分の父と呼んで」いたのは「自分を神と等しく」していたことなのだ…と受けとめて、「自分を神と等しいものとされた」…「した」ではなく「された」と敬語を用いて訳しています。新共同訳や新改訳2017ともなると、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」と、「自分」にも「御・ご」をつけて「等しいものとされた」、「等しくされた」と、敬語で訳しています(新改訳第三版は「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」)。岩波版の小林稔訳では「自身を神と等しいものにし、神を自らの父とまで言っていた」となっています。いずれにせよ、ここで主イエスが父なる神と「等しい」と言われていることと、三位一体論で(…基本信条では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはなく、アタナシオス信条にはある、)御父と御子との関係が「同等」であると言われていることとは、直接的な関係はありません。ましてや、新約聖書において父なる神と主イエスとの関係が主従的であることを示す聖句が多く、同等的関係を示す聖句を圧倒的に上回っていることについては、たとえばアタナシオス信条にある「神性については父と等しく、人性については父に劣る。」ということを都合よく用いて、主従的(ないしは従属的)関係は主イエスの「人性」について言われているのであって「神性」について言われているのではない…などと都合のよい説明がなされることがあるが、信徒は聖書を読む場合、必ずしもこれは「神性」について書かれてあり、これは「人性」について書かれてある・・・などと区別しながら読むわけではないし、記者の方もそのような認識をもって書いたわけではないと思います。
話は変わりますが、キリスト教における聖書にもとづく神信仰…人格神信仰は、神の擬人化に陥りやすいので、人格神と非人格神との中間的な(…半人格神とでも言うような)信仰の在り方でないと実際的ではありません。八木誠一氏の言われる人格主義的場所論の立場とも少し違うようです。また、「創造」といった場合にアウグスティヌス以来の「外」(extra)からの創造では飽き足らず「継続的創造」だとか、「撤退」だの「収縮」だとかいったカバラ神秘主義的概念を用いて形而上学的思弁を弄するような説には関心ありません。創造主なる神すなわち主イエス・キリストの御父こそ「唯一の真の神」(岩波版 小林稔訳 ヨハネ17:3)なのです。
「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(量義治著『宗教哲学入門』p108~109)
その意味で私の聖書にもとづく神信仰は「従属的三一神信仰」ということになります。これは、正統主義的キリスト教の立場から見れば、古代教会時代に異端とされたオリゲネス的従属説に近いとみなされるかどうかはわかりませんが、御父と御子との神性同質を認めた上での従属的関係なら、自分としては聖書を素朴に読んでありだと思います。
「正統の観念そのものが時とともに変わらざるをえない。もしキリスト教徒の大多数が処女降誕を否認するようになれば――否認する信者の数は殖えつつある――否認することが『正統』になるだろう。この点は教会史が証明済みだ、と言うこともできよう。ある時代が正統とみなすものを別の時代は異端と定める。その逆も真である。たとえば偉大なキリスト教思想家の一人オリゲネス(一八五 ― 二五〇)の教えは多くの点で驚くべく独創的であり、かれの生前には正統と認められていたが、四、五、六世紀には激烈な論争をひき起こした。かれの教義のいくつかは、アレクサンドリア、キュプロス、エルサレムの教会会議で、また(これは異論のあるところだが)五五三年のコンスタンティノポリス公会議でも異端の宣告を受けた。ここから、知識の進みが今日よりずっとゆっくりしていた、今から一四〇〇年前に正統の根拠が変化したのであるなら、われわれをとりまく宇宙について毎週のように新しい情報が伝えられる今日、正統の根拠が変わってはいけない理由があるのか、という疑問が生じる。」(D. クリスティ=マレイ著 、野村美紀子訳『異端の歴史』⦅A History of Heresy⦆〔教文館〕p15)
「オリゲネスの神学において(中略)主な欠点は次のとおりである。
一 オリゲネスは子が父と同じ本質を持っているということを正しく認めているが、父なる神について言われているすべての属性、たとえば全知などが子にも同じようにあてはまるかどうかに関して、時として疑いを示し、また、父が『神性の泉』である故に持っている優位を過度に強調するのである。 
二 オリゲネスは、父と子について論ずる時に、まだ、『対他性 relatio 』という概念を用いておらず、したがって父と子の一致をも、また子が父の本質から誕生することと被造物が無から創造されることとの相違をも十分に説明することができない。彼はこの相違を説明するためには、次の四点を指摘している。すなわち、(一)子と聖霊のみが永遠であり、すべての被造物は時間的始まりを持っている。(二)子のみが不変的・実体的に善であり、被造物はその善性を失いうるものとして自由に保有しているにすぎない。(三)子のみが父ひとりから生まれるものであり、すべての他のものは子を通して父から出るものである。(四)子のみが父の善性のすべてを持ち、被造物はいずれも部分的にのみその善性にあずかっており、父のみ旨のすべてを果たすことができない。以上の四点は正しいとはいえ、父と子のユニークな関係の問題を十分に解決しているとはいえない。したがって、オリゲネスの後にも父と子の関係に関する神学になお多くの解決すべき問題が残されていた。そこで、神の子キリストに対する信仰の理解について、四世紀の初めに大きな危機が起こった。それは、アレイオス(アリウス)が引き起こした運動であった。」(P. ネメシェギ著『父と子と聖霊 ―三位一体論― 』(南窓社)p125~126)
「子のみが父の善性のすべてを持ち」云々と言われているのは、善性は本来的に御父が所有しておられたことを示します。御子イエスはマルコ福音書10:17以下の箇所で、ご自分を「善い先生」(以下、岩波版 佐藤研訳)と呼びかけた「富める男」に対して、18「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」と言われて、神の属性である善性を「神お一人」(ここでは御父を指す)に帰して栄光を讃えています。その御子のありさまを受けとめる以上、我々も御父にこそ「善い」(ἀγαθός / アガソス)という神としてのご性質を拝し賛美して然りでしょう。ここにも御父と御子の従属的関係が表わされています。
「オリゲネスは、神の独り子の永遠の誕生、先在のキリストの魂を神と肉体の結び目として神人が生まれたことを論じ、いわゆる『本体論・存在論的キリスト論』を展開し、以上でみたキリスト教の諸相[エピノイア]を通して、いわゆる機能論的なキリスト論を展開しているが、その根底にはギリシア哲学からのロゴス概念の借用がある。それは、キリストの多くの機能の総括的な理解を可能にしたが、子なる神を父なる神の下位に置く従属説的傾向に陥る可能性を含んでいた。オリゲネスは神の像の神学並びに父と子の意思の完全な一致をもってそれを超克しようと試みる。(中略)キリストを信じる者、聖なる者、聖書を霊的に理解する者、完成の域に達した者の内には、実際に現実の力としてロゴスである神の子キリストが存在するのであるが、キリストを知らない者、信じない者、文字にとらわれている者、まだ完成の域に達していない者の内には潜在的な力として存在するのである。こうして、人はロゴスの様々な相[エピノイア]によって導かれ、その内にキリストが形造られ、御子の像と同じ形にされていく――ロゴスは神の子らの原型――のである。これを成し遂げるのは人の内に宿る『キリストの霊』である。そして、完成の域に達した者には、その人の心に、聖霊によって神の愛が注がれ、その豊饒な愛によって神の本性にあずかるものとされる。この愛によってのみ、人はもはや罪を犯し得なくなるのである。こうして、人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」
(小高毅著『オリゲネス』〔清水書院/新装版 人と思想 113〕p117~118)
「私はあく迄も『祈禱論』を中心として、之に爾餘の著書からの言葉を参酌することによって、祈禱の問題についてのオリゲネスの立場及び思想を学ぶことにしたいと思ふ。そこで此の書について先づ一言しなければならないが、この書はラテン譯によらずギリシア原文の儘で今日まで保存されて来た一事を感謝を以て特筆しなければならない。何故それがラテン譯にならなかったか、それは恐らく其の中に於ける若干の思想が後世に異端的と映じた故であらうと云はれてゐる。例へば、その第十五章に、祈りは父なる神にのみ捧げらるべきもので、御子に對して捧げらるるべきものでないと教へてゐるが、是は後の完成せる正統主義の三一神論から見れば明かに異端である。(中略)オリゲネスの著者の多くはルフィヌスの、正統主義的に補足せられた飜譯を通じてのみ傳はってゐるので、之によってはオリゲネス思想の眞相を捉へることが困難な場合が多いからである。(中略)
『祈禱』(プロセウケー)に至っては、キリストにさへも献げらるべきものではなく、たゞ『萬象の神また父』にのみ献げらるべきものである。何故なら、キリスト御自身も亦この神に對してプロセウケーを捧げたまうたのである。又彼自ら、『祈ることを我らに教へ給へ』との請に對して弟子たちに教へたまうた祈りは『天に在す我らの父よ』との祈りであって、己に對するプロセウケーではない。何故であるか。それは御子は御父とその本質を異にしてゐる故に(中略)御父にさゝぐべきプロセウケーを同時に御子に捧げることは出来ないからである。かゝる御子従位論が後世異端の烙印を押されて、それがオリゲネスの著書に非常な禍を齎したことは既に述べた通りである。」※「…同時に御子に捧げることは出来ない」理由として注に書かれているのは、「一、それは祈禱の對象を複数にすることであり、その事はそれ自體として不適當である(中略)。二、聖書にかかる類例を見出し得ない。」。(有賀鐵太郎著『オリゲネス研究』⦅全國書房 昭和21年12月20日発行⦆p49~50、70~71、133)
「彼が『父』と『子』との差別、及び御子の従位を強調した事のために、後世の神学者たちはオリゲネスが御子を被造者と呼んだ事を彼の異端を非難する一つの理由としたのである。何故なら之こそは方にアレイオス(アリウス)の所説であったからである。然しオリゲネスのロゴス論の本質的性格はその永遠生誕説に於て見出さるべきものであって、御子被造説をその核心と見做すことは誤である。ケッチャウの原文並びにバッタワスの英譯(三一四頁)を見よ。」(同上 p508)
「オリゲネスの思想の根本にはプラトン主義的二元論(この世界の成り立ちを【可視的・時間的世界】と【不可視的・非時間的(永遠の)世界】と二つに区別して論じる考え方)があり、それを土台にして御子の生誕を考察し、御父による御子の生誕を不可視的・非時間的(永遠の)世界での出来事として論じました。そうすることによって、例えばユスティノスのキリスト論に見られるような、御子がお生まれになる前には御子は存在しなかった、という従属説的な理解の問題の克服を図り(永遠の世界での御子の誕生においては、誕生の前に存在しなかったという時間的な思考は当てはまらないから)、それによって御子の神性を強調しようとしました。ですからこの点を見るならば、オリゲネスは御父と御子の神性の同質性の理解に近づく議論を展開した人だと言えます。 しかし他方でオリゲネスは、二元論的な思考を創造のみわざにおいてもあてはめて、可視的・時間的世界で神に創造された被造物は、それに先立って永遠の世界において肉体を持たない魂として神に創造された、と主張しました(この被造物の永遠性の主張もまた、オリゲネスが異端宣告される理由の一つになっています。ちなみにオリゲネスがそう主張した意図は、被造物を神格化したかったからではありません。神が創造することによって創造者になられたのではなく、神は永遠に変わることのない創造者なのだと主張したいためでした。神が永遠の創造者である以上、被造物も時間を越えて存在し続けるはずだ、と考えたのです)。こうして御子の生誕の永遠性だけではなく、被造物の創造の永遠性を主張したために、後代になって御子と被造物の本性における区別があいまいであることが問題視され、そのために従属説的だと判断されました。」(~某牧師への質問の返答)
私は職業神学者ではないので曲解や誤解もあると思いますが、このまま話を進めさせて頂きます。ニカイア信条の「(主は)独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」といった信仰の思想的背景には、「パンタ・レイ」(万物流転)のヘラクレイトスにまで遡る生成・変化の思想があったとも云われています。直接的には新・プラトン主義の創始者と云われるプロティノスの思想の影響で、運動の視点から神についても考察されたのであり、御父を本源として御子、聖霊が生成し発出する三位一体論もそのような観点で捉えないと見当違いになるのでしょう。まさしく聖書が示す神の存在は現代神学のE・ユンゲルが言うように生成においてあるのです。但し、唯一の真の神である御父だけは本源なので、その生成・変化の運動に巻き込まれることはありません。そこが御父と御子や聖霊との根本的な違いです。
「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(Ⅰコリント8:6岩波版 青野太潮訳.ローマ11:36参照)とあるとおり、御父は生む者・本源者であり、御子は生まれる者、聖霊は御父から御子を介して発出する者です。これは、御父と御子と聖霊との主従関係を前提とするものであり、その場合の「従」とは、創造主と被造物との関係におけるそれではなく、本源者と生成者との関係におけるそれです。これはアタナシウスも認めるところであったと認識しています。或る正教会の司祭によると、以下のとおりです(私信なので許可を得ないと名前は出せません)。
< アタナシウスの言っているのは、あくまでも「神・父」と「神・子」の関係性を説明しているのであって、「神・子」は「神・父」から(永遠に)「生まれた」のであるから、「神・子」の源は「神・父」にある、という意味だととらえられます。「神性」という面では、父も子も聖神(聖霊)も、何ら優劣の差はありません。西方のキリスト教では、アウグスティヌスを重視すぎるようです。「御父と御子との関係が、・・・西方のアウグスティヌス側で完全に同等なものとされた」とおっしゃってますが、同等なのは、「神性」であって「関係」ではありません。しかし、西のキリスト教では「関係」までもが同等と認識されているのでしょう。ですから、ヨーロッパのキリスト教では三位のヒュポスタシスの区別をあまり言わない傾向にあると言えます。>・・・「関係」は「神性」と対置せず、御父と御子との「関係」が「同等」か「従属」(的)か…という判断なので、後述のように御父と御子との関係における神としての「同質」すなわち神性の「同等」を認めたうえでの「従属」は「職務的従属」と言われ、「力と栄光」についても御父と御子は「同等」だと言うのですから、実際は「従属」関係とは言えないような関係です。私は「同質」を認めたうえでも「力と栄光」については「従属」的な関係にあるという立場です。しかし東方教会であれ西方教会であれ、正統であることを自認する教会においては「力と栄光」も御父と御子とは完全に「同等」なのです。後に引用する矢内原氏の文言にあるとおり、御父と御子との関係において大小の区別があるとしてもそれは生む者と生まれる者との違いにすぎず、「能力、権威、栄光等の大小」には当たらない…というのが東西の教会に共通した正統的見方であるとは思いますが、私は「大小」を言う以上、「能力、権威、栄光等」についても御父が御子より上であると信じます。これが私の「従属的三一神信仰」の再発見なのです。 後で引用する『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントのコリント第一3:22~23の注解の中で、「キリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」とあるとおり、御父が唯一の真の神として「力と栄光」において御子に優ることは、終末に明らかにされることです。御子の「力と栄光」はあくまで終末に至るまでの間に御父から預けられた、言わば借り物なのです。父と子という親子の比喩を神とイエスの関係に適用しているわけですが、親子関係が上下関係であるわけがないと思われる人は少なくないでしょう。その是非は私にはわかりませんが、youtubeで加藤諦三氏の最終講義を聴いていたら、親子関係が上下関係であると述べておられました。
とにかく、同じく正統路線であっても、ギリシャ教父とラテン教父とは違いがあり、それが東方の正教と西方のカトリックやプロテスタントとの教理的違いになっているようです。西方教会の三一神論の基本になり図式化すれば三角形になりましたが、東方教会では直線的であり、それがフィリオクェ論争で明らかになりました。以下、引用。
「アタナシウスは尚ほ『父は子よりも大なり』との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。」「『父は我よりも大なり』(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。アウグスチヌスによれば、『父は我よりも大なり』といふ事は、『我は父より出でたり』といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。」(『矢内原忠雄全集 第九巻』〔岩波書店〕~「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〔P338~〕、「三 子なる神」の2〔P345~〕)
但し、この矢内原氏のアタナシウス説についての理解は必ずしも信用できません。と言うのは当時は教理研究の資料は限られていただろうし、以下の北森嘉蔵氏のアタナシウス説についての理解と相反する内容だからです。
「アタナシウスによって、受肉者キリストと神の本質との関係は明確化されたのでありますが、しかしアタナシウスの神学は問題がないわけではありません。それはどういうことかと言いますと、アタナシウスは父なる神と子なる神との同質という面を強調するあまり、父なる神と子なる神との区別という面が、いささか弱いという点であります。(中略)アタナシウスは、アリウスを相手としていたので、いささか反動的でありました。アリウスは、『父なる神と神の子イエスとはまったく区別される存在であり、神の子は端的に神の外にあるだけだ』と主張したので、これを防ぐために、アタナシウスの主張はいきおい、『父なる神と神の子キリストとは同一であり、神の子は神の内にあるのだ』という面だけが、一方的に強調されたことはまぬかれないのであります。したがってアリウスを防ぐ反動として、いささかアリウスと逆のあやまりの立場に近づいたと言えます。この逆の立場が、父神受苦説であり、またの名はサベリウス Sabellius主義であります。そこでたとえば、ラインホルト・ゼーベルク(R.Seeberg)のような教理史家は、『アタナシウスの神学を徹底していくと、サベリウス主義になるかもしれない』というようなことを申しております。つまり、ここではサベリウス主義ないし父神受苦説という異端が、正統的神学の代表者たるアタナシウスと紙一重のところで接触しているという大変興味深い現象を見るのであります。しかし、これは興味深いけれども危険ですから、私たちはアタナシウスにしたがいながら、しかもサベリウス主義ないし父神受苦説と断然違う立場を堅持しなければなりません。それは、子なる神が父なる神と本質を同じくして、神の本質の内にありながら、しかも父なる神の外にあり、いわゆる『融通不可能な固有性』をもって父なる神と区別されるペルソナであるということであります。」(『神学入門』新教出版社 p52~55)
ところで、前掲の矢内原氏の論文の最後のところ、「能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない」ということは、改革派の神学でも御父と御子が「神」として「同質」であることの結果として言われているようです。
「三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、『本質において同一であり、力と栄光において同等』(the same in substance,and equal in power and glory)。」(webサイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「モートン・H・スミス「組織神学‐その紹介と解説‐」⦅作成中⦆の「第10章:三位一体の教理」の「Ⅳ.三位一体の区別」)minoru.la.coocan.jp/morton10.html  しかしそれなら、三位格の間にはいかなる意味においても従属関係(…という表現が不適切なら他に何と言えばよいか…とにかく上下的関係)は無いのか…?と言えばそうではなく「職務的」には従属関係が認められています。「本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はない。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。」(同上「解説」)・・・この「職務的従属」といった観念は、聖書を素直に読む限り御父と御子との従属(的)な関係は否定できないが一方では異端とされている「従属」説と混同されてはならないということで、「従属」に「職務的」と「本質的」とを区別した神学的方便です。三位一体の「経綸的」には従属を認め、「本体論的」には従属を認めず「同等」とするような理屈も私は聖書的根拠なしとみなします。私は「職務的」であれ何であれ、要は御父に対する御子の「従属」が信仰告白に含まれて然りだと思います。
「職務」と言うのは要するに類比においては「役割」ということですが、人間社会で役割というものは無条件に与えられるわけではなく、1つの役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけです。逆に言えば、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。
ヨハネ福音書14:7でイエスは弟子たちに対して、「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」と述べ、続く8節以下でピリポの問いに対して同様のことを述べているが、これはよく実体論的に解され、イエスの身体を見たことが神の存在を見たことであるかのように言われる。しかしそういう解釈こそイエスを偶像化することだろう。「ピリポ、我かく久しく汝らと偕に居りしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ傳14:9)・・・「子は親を映す鏡」という諺があるが、福音書を読んで御子の言葉と業を見聞する者は、聖霊によって御父(神)を間接的にイメージできる。間接的という意味は、御子イエスの御父(神)に対する従順な姿を感得することによって、これに応じて聖霊を送り力を与える御父が逆照射的にイメージされるという意味。これは偶像に非ず。イエスを見て「神」として拝することこそ偶像崇拝なり‼その後の、10、11節「我の父に居り、父の我に居給ふ」、「我は父にをり、父は我に居給ふ」ということを存在論というか形而上学的な解釈の絶対化で「ペリコレーシス」(相互内在・相互浸透)などと主張して他を認めない立場の愚かさには呆れるばかりです。これは単に、御父と御子との親密な関係性を表現していると受けとめればよいだけのこと。ニカイア・コンスタンティノポリス(ニケア・コンスタンチノープル)信条では、主イエスは「すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」(日基教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)とあり、「同質」とは言われても「同等」とは言われておりません。それはそうでしょう、いくら信条というものが論理的には矛盾したものであるにせよ、信仰告白であり信者の生活現場である教会に関わっているので、所詮は神学者の思弁的作文とは言え、あまり無茶はできません。「~より / from」( ἐκ / エク)と言われている以上、御子は御父と「同等」であるわけがなく、なんらかの意味で「下」であり「小」であり、即ちパウロが「ヒュポタッソー」(原形)を用いて明示しているとおり「従属」です。しかも一方で御父は、「唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と賛美せられ、御子についての「すべてのものはこの方によって造られました」の意味は、その造った主体は御父であり、御子は「この方によって」(δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο で、「よって」と訳されてる「ディア」という前置詞の意味は要するに媒介)なので、御子は創造主ではなく媒介者ということで、御父こそ創造主にして全能なる神であられることが明らかにされています。その点でオリゲネス的従属説を採る私でさえ、ニカ・コン信条はエキュメニカルな信条であると尊重するわけです。
八木誠一氏曰く、「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、また、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)と述べておられます。このように、御父と御子との間には「究極者」と「究極的なるもの」との区別があるのです。「相関的」とは相対的ということでもあり、その意味では御子は相対性を持つ、この点で創造主なる御父と決定的に区別されるのです。
また、御子が被造物かどうかについては、コロサイ1:15の「プロートトコス」の解釈で分かれる議論であり、いずれかを絶対化することはできません(エホバの証人さんは被造物説… http://biblia.holy.jp/51-col-1-15.html )。繰り返しになって恐縮ですが、ニカ・コン信条における「父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」という、その「~より」と言われていること自体が、広い意味では従位・下位にあることを示しています。にもかかわらず、この関係は本質的ではなく職務的であるといった詭弁を弄して三位格の「同等」に固執するのが正統主義者なのです。私はこのようなドグマティズムには屈せず御父絶対の揺るがぬ確信があります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁に陥り、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、私はいちおう、同じ唯一神教といってもユダヤ教やイスラム教のような単神論的唯一神教と、キリスト教の三一神論的唯一神教とを区別すべきだと言うのですが、それ以上は思弁に思弁を重ねることになりますので(…それもまた自分のような者の精神安定にとっては、一利にはなるのだが…)、ヨハネス・G・ヴォスが『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版局)で述べているように(編・訳は玉木鎮牧師)、「聖なる無知を告白」するという頌栄的態度へと聖霊によって導かれるのです。とにかく、矢内原氏はアウグスティヌスで三位一体論が完成との見解ですが、自分はアタナシウスで完成したと見る方がより聖書的であるとの見解です。というか、矢内原氏のアタナシウスやアウグスチヌスに対する理解が、時代的制約による資料不足のため誤解もあると思うので、矢内原氏がどう言われたかに関わらず、とにかく私は聖書と、青野太潮氏その他有力な解釈者の見解を参考にして、従属的三一神信仰・従属説的三一神論の立場を堅持するのです。古典的三一論に固執して従属説的な見方をまったく認めない正統主義的立場の人は、従属説的な立場は「合理的」だから受け入れやすいといった旨のことを言って揶揄しがちだが、「非合理ゆえにわれ信ず」というような考えを絶対化する方がよほどおかしいのであって、合理的であること自体は何ら問題ではない。問題は、その主張が聖書的か否かであり、それは選択肢が1つだとは限らない。解は複数あり得るのだから、正統主義的に1つに固定する理由は無いのです。
ところで、おもな教父たちの父子関係についての考えが要約されている論文があるので引用します(尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)。
「三位一体論に関して、アウグスティヌスの見解では、神性は三位格の共通の源泉であるが、彼以前の他の教父達は、神性は父にのみあり、他の二位格はそこから派生したとする。即ち、後者では父が子の原因であり、三位格は非対称的である。これに対して前者では、三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。それではアウグスティヌスで は、共通の源泉たる神性は三位格と並ぶ第四の位格なのであろうか。いな、そうではない。神性は共通の源泉として共通の基体であるが、三位格に超越したり、それらの根底にあって先行するも のではなく、神性は永遠から三位格に区別されている。つまり、 父と子とは異なるがその本質〈神性〉は異ならない。神性即三 位格、三位格即神性である。一つの本質にして、同時に三つの位格〈神格〉である。三位格を離れて、それらの基体としての神性 が存在するわけではない。これに対して、テリトリアヌスやバシレイオス等の見解では基体は父であり、父はそれ自体生ぜず、子を生ましめ、子は生ましめられるだけの因果関係にある。 ここで基体とは三位格の本質、つまり神性を意味するが、この場合、各位格は個体でもなく、種でもなく、個体と種との結合としての個体的種と呼ばれる。それは、各位格は無体的にして現実的な区別された存在であるからである。(そして無体的、非物質 的存在は個体ではなく、種に属する。三位格は個体的種の違いで ある。即ち、単に名前だけではなく、個体的種として現実的存在である。)アウグスティヌスは三位格を共通に統一する本質たる神性に対しては類と種の概念を使わず、むしろ基体のカテゴリーを適用する。というのは、三神論に陥るのを避けるためである。オリゲネスによれば、神とロゴスとは現実的存在である。各位格は永遠から特定の個体的存在、第一のウーシアである。(この点で、経綸において顕現したとするテルトリアヌスと異なる。) ウーシア、ヒポケイメノン、およびヒポスタシスにおいて、子は父とは異なる。各位格は単なる個体ではなく、個体的種であり、 その共通の統一は種的類である。それは種と類の結合を意味し、 第二のウーシアである。つまり、父と子とは異なった個体的種であり、それらの統一は共通のウーシアとしての種的類にある。父と子との同一本質〈ホモウーシオス〉は、ここにおいていわれる。 父と子とは、ヒポスタシスとしては相異なるが、第二のウーシアにおいては同じである。父は源泉として、そこから神性は多様なレベルで下降・派生する。被造物にとっては、父とロゴスとの原関係は永遠であり、ロゴスは時間的初めがなく、永遠に発生している。神の像としてのロゴスが存在しなかった時はなかった。また不可思議の神から見れば、ロゴスは被造物であり、他のすべて被造物の原型として父からの発出の最初の子である。子は不生とともに生でもある。 父は絶対的な神であるが(The God)、 ロゴスは絶対的には神ではない(God)。ロゴスは種的類において父と本質的に同一でありながらも、派生的神、第二の神として、より低いレベルにおり、従属的で、父と被造物との媒介者である。換言すれば、キリストの媒介なくしては、父へ祈ってはならない。 つまり、子を廃止しない立場である。子は父の為すことを為すことにおいて、その意志も同一である。」
ここで御子キリストを「第二の神」とする従属説が述べられていますが、オリゲネスが異端とされたのはその死後のことであり、生前の彼は第一級の神学者でした。ちなみに某牧師によると、「現代では多くの神学者たちが、オリゲネスを異端としたのは間違いだったと認めている」し「オリゲネスの神学から多くのことを学んでいる」そうです。但しそれは、まだ三位一体論が発展していない時代の思想家だから…ということであり、従属説自体を擁護するものではなくその逆です。アリウスとは違って、御父と御子との、神としての同(一本)質性を認めたうえでの従属説というのは(…それが論理的に成り立ち得るかどうかの神学的議論はさておいて…)、異端とするほどに聖書から逸脱した考えであるとは言えないというのが、すくなくとも中立的、穏健的立場を志向する神学者たちに共通した見解ではないのでしょうか?
「アタナシオスは、神性は異なったレベルに存在するというオリゲネスの主張に反対する。神の本質は父と子において同一であり、 低次の存在秩序に伝達されたり拡張されたりするのではない。ただ子は生まれたものとしては父とは異なるが、神としては同一である。究極的根源としての父は時間的に子に先行しているわけで はなく、子は不生の父とともに永遠である。子は父の神性の形相 〈顕現〉であり、子は完全な神である。子によらずしては、父は何事も為さない。また子は父の意志により生じたのではなく、本質によって生じたのである。」(尾崎誠氏前掲論文より)1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org) 
ここで言われている、「子によらずしては、父は何事も為さない」ということよりも本質的であり深層であるのは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19) ということではないのでしょうか?                                 ところで、キリスト教の「三位一体」神信仰は、日本基督教団信仰告白にあるように「唯一神」教という前提のもとで「同等」を言うのでしょうが、「唯一」(エハド)については「複合的独一性」とか「一つのうちにおける多様性」であるとかいった説を見聞きしたことがあります。これはまさに、「唯一の神」と「父なる神、子なる神、聖霊なる神」との矛盾をクリアーしようとする、私見では不確かな言語学的試みとでも言えるでしょう(Edmund J. Fortman 『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』、創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体  - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ (hatenablog.jp)他参照)。しかし矛盾は矛盾のままでよいのではないでしょうか?「唯一」(エハド)本来の歴史的意味はけっして「三位一体」の「三位」とは関係ありませんが、関係づけるのが神学的解釈であり、それなしにキリスト教の教義は成立しないわけです。しかし、その解釈は教会が「正統」と決めたロジックでないと認めないということが誤りなのであり、そういう正統主義的態度は批判され改革されて然りです。ともかく、三つの位格を人格に喩える以上、論理的に「三位」は「三神」であり、その(父と子と聖霊の)「神」が同一本質を持つという意味で「一体」なのです(…「三神一質」)。それが「唯一」の神であるということを、私の場合は無理にこじつけず、旧約的唯一神教(=単一神教)と新約的唯一神教(=三一神教)とを貫く「唯一」とは、拝一神教的「一」・・・つまり自分(たち)にとって聖書が示す神のみが礼拝されるべき真の神…という意味でよいと思っています。他人はまた違う意味で受けとめればよいでしょう。
水垣渉氏の論文「キリスト論の思想的射程 ― 古代キリスト教を中心にして―」によると、< 厳密にいえば、三一神論と三位一体論とは区別しなければならない。三位一体論は、三一神論の一つの立場である。(中略)本来なら、宗教史的現象として最も広くは「三一論」、キリスト教においてやや限定して「三一神論」、その内容の正統教義的表現として「三位一体論」と使い分けることが望ましいが、実際には難しいであろう。」ということで、歴史的には、「三一論」>「三一神論」>「三位一体論」という関係になるそうです。
日本のプロテスタント教会には、私見では「キリスト止まり」とも言える、カール・バルトの神学的影響によると思われる過剰な「キリスト中心主義」的傾向があります。その傾向は、例えば1989年に出された「日本キリスト者宣言」なるものに顕著です。
「私たちが、あくまでもキリストの主権のもとに、キリストを中心としながら、歴史と世界の中に生き、また他者と共に生きる以外に、私たちの信仰の証しと告白の道はない。そのようなキリスト中心の信仰から、私たちは、天皇代替りによってあらためられた元号なるものを、主権在民に反する天皇中心の独善的、排他的、閉鎖的な国家主義的歴史観、世界観の残滓として、受けいれることができない。」
ここには、イエス・キリストの父なる神への信仰がまったく考慮されていません。御父が後退して御子ばかりが前面に出されるキリスト中心主義を「キリスト止まり」と言わずして何と言うのでしょうか?
ペトロ・ネメシェギ神父は『父と子と聖霊―三位一体論』(南窓社)の中で、「現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも、古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う。」と述べており、また、D・クリスティ=マレイも『異端の歴史』(教文館)の中で、「今日のキリスト教徒も多くは自分でも知らずにモドゥス的モナルキア主義者なのである。」と同様のことを述べていますが、その「唯位」(モナルキア)なる神こそがキリストであり、父と子と聖霊の三一神が「子」なるキリストのみに集約されてしまうという傾向です。「モドゥス的モナルキア主義」とは様態単一神論であり、「父神受苦説」と言われ、サベリウス主義と呼ばれています。それはともかく、旧約聖書も正典とし、新約聖書の前提としている以上、キリスト教も原則的に「父」なる神が中心であり、究極的には第一コリント15:28のとおり、三一神は御父に集約されないと啓示にそぐわないのでは…?というのが私見です。そしてこの「三一」というのは三つの位格が一体であると言われますが、「一体」という訳が誤解のもとであり、いかにも一心同体というような意味にとられやすいですがそうではなく、「同一本質」の「一」ですから、三位格があくまでも神の本質を共有しているという意味です。その三位格は個別的な自存性とか人格的固有性などが言われ、ひいては「三つの別な自己意識」などと言い出すに至っては何をかいわんやであって、これが「三人格」でなくて何?ってことです。
「三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っていることを意味します。宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです。」(~サイト「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」の「ウェストミンスター信仰告白解説」の「第2章 神について、また聖三位一体について」の「第3節 三位一体の神」)
三神論的傾向を避けるために用語は「位格 Person」を避けて「存在様式 Seinsweise」としたというバルトの神学系統などでは三位格と三人格とを混同しないとは思いますが、ウェストミンスター信仰基準では三位格は三人格(…この場合の「人格」は心理学的意味の person)なのです。
「問九 神には、いくつの人格があるか。 答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮編訳)〔聖恵授産所出版部〕)
ここで言われている「力と栄光において同等」ということ、これが次の「ひとりの、まことの、永遠の神」ということを三位格全体に対して言うための言わば、辻褄合わせであって、実際は「ひとりの」ではなく「三者の」であり、「まことの、永遠の神」は御父のみとみなせば、「力と栄光において同等」と言う必要はありません。そして聖書的には、やはり創造主である御父が最も「力と栄光」を賛美されるお方なのであり、その力によって御子は復活し、その栄光をあらわすべく地上で活動されたのです。無論、合理的であることが聖書解釈の妥当性を根拠づけるものではありません。究極的には、論理的整合性などにこだわっていたのでは神学は成り立ちません。テルトゥリアヌスが言ったとは言われているものの疑われてもいる「不合理なるゆえに我信ず」といった言葉もあり、北森神学などのように詭弁に詭弁を重ねるより、説明できないことは「神秘」とか「秘義」とか言って逃げる教義学者の方はまだしも正直だとさえ言えるかもしれません。神学はそもそも人知を超えた神にかかわる言論として初めから啓示に限定され制約された神認識としての営みなのですから、前掲書の中で言われている、「聖定と人間の責任との問題を解決しようとするような、啓示の限界をこえた神秘については『聖なる無知』を告白するのが賢明であり、よいことなのである。」(p59)ということが必要になってきます。「聖なる無知」(Holy ignorance)という用語自体は、聖書的根拠としてはやはりヨブ記の特に42章3節「『一体何者か、無知であるのに、わたしの経綸をぼかすこの者』。そうです、私は認識していなかったことを語ったのです。私を超えた不思議の数々、それを私は理解してはいないのです。」(岩波版 並木浩一訳)という告白、自分の無知(ベリー・ダーアト)、無理解を認める告白が挙げられるでしょう。
「聖定と人間の責任との問題」以外の問題でも存在論的な問題…、たとえば「相互内在」(ペリコレーシス)に関してなど、考えてみても理解しづらい問題は諸分野にあるので、ある種の思考停止も脳内整理のために必要だと思います。
ちなみに岸田秀氏は、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(『希望の原理』〔青土社〕p17~18)とか、「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(前掲書p54)と述べています。
八木誠一氏は、以下のとおり指摘しておられますが、いわゆる正統的キリスト教の三位一体論においては、事実上、三者の神です、三神論なのです。この点でも一皮むけば正統と異端とを区別しきれない曖昧さがあります。
「人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。」(『イエスの宗教』p26)とか、「神を人格として表象し、さらに子なる神、聖霊なる神をも人格(ペルソナ)として表象したら、三位一体は三神論となり、両性論的キリスト論は二重人格となってしまう。人格主義的神学の用語で三位一体論とキリスト論を語ることが困難な所以である。」(『<はたらく神>の神学』p119~120)とか、「三位一体論においてもペルソナを『人格』と解する傾向が現れるのだが、この解釈では三つのペルソナが三神論になって三位一体が不可能となる傾向があるから注意が必要である。」(『回心 イエスが見つけた泉へ』p221)と指摘している。そもそもギリシャ教父なしいは東方教会の三一(至聖三者)論は何がいけなかったのか?「ギリシャ哲学の存在論的概念で表現しようとした結果、表現と実質に齟齬を来し、実体論的思考が優位に立つようになったというだけではなく、『人格主義』の一面に偏したということである。」(『<はたらく神>の神学』p4)
ヘブライ語聖書だけが教典であったユダヤ教時代までは、唯一神教であり、その「一」が「唯一絶対」の「一」の意味になるのは新約時代に入ってからであって、本来は、同じ「ヤハウェ」の名で呼ばれても多様だった状況の中で「ヤハウェはただひとり」を強調した単一的意味、そして申命記では5章で拝一神教的意味の「第一戒」を含む所謂「倫理的十戒」が語られ、その後の6章に置かれた編集段階からは、拝一神教の「一」、すなわち相対的絶対性の「一」になったのでした。いずれにしても歴史的には「唯一」の意味が、自分たち以外の共同体で信仰し礼拝されている神々の存在を客観的に否定し排除する絶対主義的な意味ではなかったことは確かです。マルコ福音書12章29 , 32節で律法学者の弁として書かれている申命記の「シェマーの祈り」における「エハド」です。しかるに私見では、キリスト教は「唯一神教」であると同時に「三一神教」と言われて然りであり、旧約時代以来、「唯一の(真の)神」は、御子を派遣した御父のみであって、派遣された御子は含まれません(ヨハネ17:3)。ですからこの唯一真神を三位一体の神であるとするのはあくまで一つの解釈にすぎません。しかも明らかにバイアスがかかった偏りある解釈です。
現代神学のガンは、「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)ではないかなと思います。北森氏の言う、「『十字架の神学』を『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(~『今日の神学』〔日本之薔薇出版社〕p222)ということが「キリスト中心主義」で福音主義的聖書理解を捻じ曲げる原因です。「十字架の神学」者とされる宗教改革者のルターにせよ、さらに遡っては使徒パウロにしろ、私見ではほかならぬイエスその人御自身からして神義論的問いを乗り越えているのです。それなのに、その「十字架の神学」を神義論的問いを前提として有限的神を立てる民主神学に利用すべく三一神論に展開するというのは邪道も邪道です。そのような思想は当然ながら非聖書的神話や神観を生み出します。北森氏の『神の痛みの神学』はその典型的な文学作品です。北森氏の自画自賛の解説は「内ー外」とか「包む」とかいった詭弁に詭弁を重ねた「十字架の神殺しの神学」にほかなりません。モルトマンその他、北森神学を高評価する思想も同類です。神は全能であり苦しむことも死ぬことも原理的には可能であってもその必要も理由も無いので、不死不受苦で然りです。
「唯一人不死性を保持し、近づくことを許さない光の中に住み、人間のうちの誰も見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配権力が〔あるように〕。アーメン。」(岩波版〔保坂高殿訳〕テモテへの第一の手紙 6:16)
「神はその御本質において自ら苦しまれることはありえない。したがって『共に苦しむ』という意味で思いやることはないのである。不注意にも神が苦しまれるということを言う人々が多い。しかしそのことは神が無限者であり、不変者であるという真理に背馳することであることを認識すべきである。」(~ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』〔聖恵授産所出版〕p152)
「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256頁)
とにかく、バルト神学などの影響で広がった「キリスト中心主義」は極端化すると、神さまはイエスだけでもOK!といった所謂「ジーザス・オンリー」の異端やカルトの「再臨のメシア」にもつながる非聖書的な信仰的立場なのです。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教を多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」( 島田裕巳著『キリスト教入門』(扶桑社新書)p103~105)
「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
「キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを『神』として 物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への 従属的地位を外す事がなかったのであります。」(小田切信男著『福音論争とキリスト論 』p145)
「キリスト中心主義」は、顕著な形は宗教改革でマルティン・ルターの「十字架の神学」の成立によってであるといちおうは考えられますが、遡れば古代教会時代にまで至るようです。その一例が3世紀末頃の話だといわれる『マルケッルスの行伝』の次の文言です。
「七月二十一日に、あなた方が皇帝の(誕生の)祝日を祝っていた時に、私はこの軍団の旗の前で、公に、はっきりと、私はキリスト教徒であってこの軍務に服することは不可能であること、私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみであることを、宣言しました。」(土井健司著『キリスト教を問いなおす』p38)
この宣言によりマルケッルスという人物は斬首刑に処せられるという話だそうです。ここで「私が仕えるのは全能の父なる神の子イエス・キリストのみである」といわれています。新約聖書の主旨からすれば逆に、「私が仕えるのはイエス・キリストの父なる全能の神」と言われて然りです。少なくともパウロ的信仰告白定式ではそうでしょう。ところがこの場合は、重点が「全能の父なる神」ではなく「神の子イエス・キリスト」の方に置かれています。前者の方に重きを置くのであれば、「神の子」という称号は無用になるのです。「イエス・キリストの父なる全能の神」とすれば、その「の」は「血縁・婚姻関係の属格」(織田昭著『新約聖書のギリシア語文法 Ⅲ』〔教友社〕p716参照)ですから、「イエス・キリスト」は自ずと「神の子」ということがわかるからです。いずれにしてもキリスト中心主義的キリスト教は今後、大変革されねばなりません。その障碍となるものが、教会・信条主義的教派であり、その諸勢力です。
<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p58~59)                             一方、荒井献氏は一方で次のようなことを述べています。
「古典的三位一体論に見出される本質ないし実体概念とか属性ないしは格位概念はもちろんそのままの形で新約聖書には存在しない。しかし新約聖書の中にやがては三位一体論として定式化される三体論的キリスト告白定式が存在することは事実である。又、『わたしを見た者は父を見たのである』とか、『わたしと父は一つである』という言葉がイエスの口を通して語られる――われわれはこれをキリスト者の信仰告白ととる――のはヨハネ福音書(一四9、一〇30、一七11、22)の特色である。それ故にわれわれは古典的三位一体論を、――大バシリウスが既にこの点を強調しているように――新約聖書にないからと言ってその意味するところを無視してしまうわけにはいかないであろう。われわれはむしろこれを、新約聖書における救われた者の信仰告白が異なった環境において繰り返された時、どうしてもその環境に通用する用語と概念を採らざるをえなかったものとして、積極的に解釈することが許されるのではなかろうか?もちろん父と子と聖霊の関係を客観的に思弁の対象とすることは意味のないことである――このことはアタナシウスが既に指摘しているところである――が、われわれにとってキリストなしには神の経綸とその賜物としての聖霊がないとすれば、われわれにとってキリストは神であり聖霊なのである。このような救済的あるいは経綸的三位一体の理解</span>はテルトゥリアヌスやエイレナイオスからアタナシウスや大バシリウスに至るまで跡づけうるとわれわれは信ずるものである。」(~『荒井献著作集 5.初期キリスト教史』岩波書店 p27) 
このように荒井氏は「三位一体」の定式は解釈によって継承できるというわけです。そしてそれを教父の名を挙げて正当化しています。ここで問われることは、「経綸的三位一体」は言われているけど「内在的(=存在的=本体論的)三位一体」は言われていないということです。こちらを「父と子と聖霊の関係を客観的に思弁の対象とすること」だと言うなら、正統派の側から見れば、まともな「三位一体の神」への信仰とはならないでしょう。
ところで、土肥昭夫氏が『日本神学史』(ヨルダン社)の中で、日本のプロテスタント教会では海老名弾正との論争により正統派の代表的人物とみなされてきた、日本基督教会の創始者である植村正久牧師について、次のような興味深い指摘をしています。
「植村はパウロがキリストを『神に劣れる者』とした、という。彼は、パウロがコリント人への第一の手紙第一一章で女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であるといい、男女の道を説いた個所をとりあげ、次のようにいう。『男女とも類を同じうすといえども、相互の関係より、区別を生じて、道相同じからざるものあり。同類にして本来平等なる人類のうちにも本末の別、従属の関係あるを妨げず。基督の神に於けるまた然なり。彼は真の神格を有し、父と一なりといえども、子たるの故を以て父に従属するところなき能わず。神子は神父を奉じ、これに受け、これに事え、これに従いて、能く子たるの道を行う。孝道これなり』(『植村正久と其の時代』5、三七○ー三七一ページ 傍点ー筆者)。植村は、この論述から、キリストが仕えられる主であると共に仕える僕であることを明らかにしようとした。その限りにおいて問題はない。しかし、彼が父なる神とキリストの関係を男女に関するパウロの倫理や儒教の孝道に類比させてしまうと、オリゲネス派の従属説(subordinationism)にみられることになる。この派はニカイア公会議(三二五)で斥けられた。ところが、植村は、使徒たちのキリスト論は大要においてニカイア信条と一致する、というのである(同上書5、三五五ページ)。」(p42~43)
植村にも異端的要素があったというのは面白いですが、世界的・歴史的にみても、テルトゥリアヌスは従属説的傾向を指摘され、アタナシウスからカール・バルトおよび北森嘉蔵牧師に至るまで様態論的傾向を指摘されている人がいます。正統と異端との差など大してないのではありませんか?現代では正統と異端の違いなどは大した問題ではなく、(島田裕巳氏は区別できないと言われる)宗教とカルトの違いが大きな問題になるのでしょう。
八木誠一氏や野呂芳男氏と親交があり北森氏とは論争して有名になった札幌独立キリスト教会所属の、医師で信徒伝道者であった小田切信男氏ですが、「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「神(御父)≒ 神の子(御子)」ということですが、たしかに、「神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」との指摘には説得力を感じます。
ちなみに、立教大学の神学教授で日本基督教団の牧師だった野呂芳男氏は次のように述べておられます。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男氏の講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回)
私は、聖書が示す「父、子、聖霊」の関係として「三一」は認めますが、「三位一体」は認めません。すなわち「三一」神信仰は聖書が示す神信仰として認めますが、「三位一体」神信仰は非聖書的であると思います。野呂氏が言っておられることに関連して、古典的三一論において用いられた哲学の「本質・実体」(ウーシア/エッセンチア、サブスタンチア)とか「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)とかいった概念・用語は、聖書が示す神・キリスト論においては認め得ないからです。その野呂氏は、下記のようなことも言っておられます。
「新約聖書のキリストは、終末の時に現れる大天使と考えた方がよいのだ。他にも天使たちが新約聖書の中には現れるが、それらの天使たちよりも特別の使命をキリストは与えられている。確かに、実存の視角から見れば、この大天使キリストもわれわれの神に向けられた視線に貫かれているのだから、後から――神によってわれわれに――贈られてきた聖霊と並んで、神・キリスト・聖霊の三位が、われわれを救う業を行って下さる点で一体の行動をとっておられるが故に、実存論的神学のキリスト論はニカイア・カルケドン信条を受け継いでいる。だが、今の私は、神・キリスト・聖霊という三位が、実存と結びつく直線だけでは満足できなくなっている。もちろん、私の『実存論的神学』は、増補・改訂されていない姿においても、キリストが神ご自身であるとは言っていない。本質的にキリストは、神の言葉であると理解している。」…一見、エホバの証人に近い印象を受けます。しかし、こんな発言をなさる人でも牧師を続けられる教会そして教団というものがあり(もっと過激で異端的な考えの人も日基教団なら、少なくとも発言の表面的には昔からいる)、こんな発言をなさる人でも教授を続けられる大学のキリスト教学科というものがある…、それが良くも悪くも現代の日本社会におけるキリスト教(のリベラル派)の実態なのです。
ところで、イエス・キリストを創造主だと主張なさるクリスチャンがおられます。信仰内容は人の自由ですが、聖書解釈としては問題があります。すなわち、この人たちは特にヨハネ福音書1章3節やコリント第一8章6節やコロサイ書1章16節のδιά 「ディア / through」を(誤解とは申しませんが)曲解しているのです。この人たちは翻訳された聖書の一言一句を「誤りなき神のことば」であると信じ込んでいるので、翻訳が曖昧だったり不適切な場合(ここでは「よって」とか「より」)は当然、誤解を生じたり偏った解釈になります。冒頭に掲げているとおり、イエスは創造主ではないことを大胆に発言しておられる新約聖書学者もおられます。下記引用。
「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏の論文「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)http://touhokuhelp.com/jp/lifesupport/08/160824-04.pdf                                             最初の方で書いたことの繰り返すになりますが、青野氏は、「パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている」と指摘しておられます(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)。もちろん「従属」と言っても、御子の神としての本質を否定して被造物とみなすアリウス的意味での「従属」説(subordination theory)ではありません。これは「異端」です。ここで言う「従属」は、あくまで御子の神としての本質を認めたうえで、御父との関係については、特にヨハネ福音書とパウロ書簡によって「従属」を認め、御父と御子との「一」(ヨハネ10:30他)は実体的同一性ではなく、派遣者と非派遣者との関係における「言」と「業」による作用的同一性であることを主張するものです。
以下は、北森嘉蔵氏の三一神論の引用です。
「アタナシウスの神学的主題は受肉者の問題であった。イエスが『人と成れる神の子』であると告白せられる時、この受肉者なる神の子と父なる神との関係が、その主題を形成した。受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。しかしアリウスにおいては、この『神の子』は父なる神と別の存在であると言うだけで、端的に父なる神の外にあるとせられる。この『外』ということが『神の子』の被造物性である。(中略)たしかに『神の子』は『神』とは別の存在である。しかし、この別の存在たるままで、彼は決して端的に『神』の外にあるのではない。『神の子』は受肉者の存在において『神』とは別の存在でありつつ、しかも決して端的に『神』の外にあるのではなく、『神』の内にある。別であってしかも内にあると言うことが、『本質を同じくする』(ホモウーシオス)という事である。『神の子』は受肉者のままで『父なる神』と本質を同じくしている。今日我々が最も重視すべき点は、受肉者のままで本質を同じくするという点である。受肉者たる限り『神の子』はあくまで『神』の外なる別の存在である。しかもこの存在は受肉者のままで神と本質を同じくしている。この点がアリウスをして決定的に躓かしめた点である。」(『今日の神学』〔日本之薔薇出版社 1984年版〕p29~31)・・・「受肉者が神そのものとしての父なる神と別の存在たることは言うまでもない。この点に関しては、アリウスもアタナシウスも同様である。」と言う点が重要。御子が神の本質を有つことを認めるか認めないかの違いであって、「神そのものとしての父なる神」と「受肉者」である御子イエス・キリストとの関係が「御父 > 御子」という、内包と被内包という一種の従属性を示していることを感じるのは私だけではないでしょう。ちなみに北森氏は、「受肉者が神の外なる存在でありつつ神と本質を同じくしたごとく、十字架もまた神の外なる出来事でありつつ、神の本質にかかわっている。この『外』の契機こそ神の痛みの神学をいわゆる『父神受苦説』(Partripassianism)から区別するのである。父神受苦説においては、受肉者ないし受苦者は『父なる神』の外なる存在ではなく、端的に神の内にある」と言っているが(北森著前掲書p32~34)、野呂芳男からみれば、北森氏の「神の痛みの神学」も広い意味では「父神受苦」説(論)になるのだと言う。
「北森教授は『父神受苦説では、十字架上で苦しみ死んだのは、父なる神自身であったとされるが、モルトマンの場合には、十字架上で苦しみ死んだのはみ子であり、み父ではない。そのみ子の死を、生きたもうみ父が痛みとして苦しみたもうのである。モルトマンの表現でいえばそれは父神受苦論 Patripassianismus ではなく、父神共苦論 Patricompassianismus である』と言っておられるが、既に検討してきたところから明らかなように、少くともテルトリアヌスによれば、モルトマンの言う父神共苦論も父神受苦論であったと言わざるを得ないであろう。」(~「今日における神観の一問題」)
野呂芳男氏によれば北森氏の神学的立場は広義の「父神受苦説」であり、また神の「内」とか「外」とか言うので「遍在」の教理にも反するという。「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書17:3 岩波版 小林稔訳)
この箇所では1節からの筋をふまえれば、「あなた=イエス・キリストを遣わされた方」こそが「唯一の真の神である」とされ、その御父と御子とを知るようになることが「永遠の命」と言われていることは明らかであるのに、ワンネスのキリスト中心主義者はこれを無理に解釈して、「唯一の真の神」とはキリストのことだと言います。また、正統主義者は後代に成立する教義を読み込んで、「唯一の真の神」は「三位一体の神」だなどと主張します。しかしどんなにこじつけても無駄であることは、内に聖霊が住む者であるならわかることです。同じヨハネ福音書が、5章24節その他で御子自身が御父との関係を派遣者と被派遣者…「遣わした」者(御父)と「遣わされた」者(御子)として証言しておられます。御子を派遣するのが「三位一体の神」ではなく御父であることはヨハネ福音書において御子が証言しておられることなのです。
「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(コリント人への第一の手紙8:6岩波版 青野太潮訳)
創造主は父なる「神」のみであってキリストは創造の「仲介者」なのです。万物はキリストが造ったのではなくキリストを通して造られたのであり、ここでの前置詞「ディア」(~によって)は媒介の意味です。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の課程』(山本書店)に於いても、この8章6節に関して「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げられています。
以下、他の関係個所を引用。
「もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネ14:28 聖書協会口語訳)・・・御子は御父に対して尊敬しておられることがこの「わたしより大きい方」という表現から示されます(『日本語対訳ギリシア新約聖書』(教文館)での川端由喜男訳では「父は/私より/もっと偉大で/ある(から)」(①ホ パテール/③ムー/②メイゾーン/④エスティン)※数字は原文の並び順。「メイゾーン」は「メガス」〔形容詞:「大きい」の比較級で、程度が「大きい」、地位・身分等が「偉い」その他〕)。この「大きい」という意味には当然、子として父を敬う自然な感情が表わされているとみることに何ら問題はありません。人間的との批判は当たりません。そもそもが聖書は神を(人格的とは言え事実上、研究者から指摘されるとおり)擬人的に比喩しているのですから…。御子であるイエスが御父であるヤハウェを敬うことは、十戒に「汝の父母を敬へ」とあるとおりです(「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」〔出エジプト記20:12〕※前半部分の岩波版 山我&木幡訳の訳は「あなたはあなたの父と母を重んじなさい。」となっており、「重んじなさい」の注は、「原語カッベードは『敬う、尊敬する』とも訳せるが、もとになっている動詞が『重くある』(カーベード)なので、こう訳した。」云々とある)。我々は御子イエスに倣い御子イエスと共に御父を尊敬するという信仰態度が促されていると言えます。御子イエスに対しては尊敬というより御父の栄光を現すための信仰実践の範としての敬愛ということで、御子イエス御自身も「わが神」と言って賛美なさる相手の御父に対する存在論的な尊敬とは意味が違うと言えます。そこに優劣をつける必要はありませんが、このような尊敬の違いを無視して、単に「同等」だと言うのは事実上、御父を後衛に退かせ御子を前衛に立てようとする御子中心主義にほかなりません。それは結局、御父よりも御子を敬っていることになり、聖書的神信仰としては誤っていると言わざるを得ません。注目すべきは、このヨハネ14:28の「より大きい(かた)」と訳された「メイゾーン」という形容詞(「大きい」とか「偉大な」を意味する「メガス」の比較級)は、第一コリント13:13でも使われており、(口語訳)「このうちで最も大いなるものは、愛である」というところで「最も大いなる(もの)」と訳されているということです。その点で、「神は愛なり」(第一ヨハネ4:8 , 16)とつながります。無論、この場合の「神」は「三位一体の神」ではなく、「父なる神」を意味します。御子より偉大であり、すなわち最も偉大なるものは御父であるということです(主イエスは、「けがれた霊」との対照ではあるが冒瀆という観点で聖霊を最上位としている⦅マルコ3:28~30、並行箇所⦆)。
ちなみに第一ヨハネという文書は仮現論的キリスト論という異端への反駁を目的として書かれたと云われていますが、ローマ・カトリック教会ではこの文書の5:7~8に関して、写本を捏造してまで三位一体の根拠にしようとしたという「コンマ・ヨハンネウム」というものがあります(詳しくは、田川建三著『書物としての新約聖書』勁草書房p417~418参照されたし)。こういう正統主義者たちに対しては、恥を知れ!って感じです。
「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 岩波版 青野太潮訳)
『岩隈直聖書講解双書 4 』(キリスト教図書出版社)では、23節「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」について、「正しい位置づけ」云々というちょっと意味不明な解説に続き、「それに更に『キリストは神のもの』という句を追加した(実際はなくてもよいもの)のは、『考えを神に迄遡らせる彼の性向(一一3、ピリ二11、ガラ一4、5等)」(キュンメル)によるもので、特別の意図があったのではあるまい。唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方(ロマ一一36)の現われで、彼によればキリストも子として神に従い給う(一五28。なお八6、ピリ二10、11等参照)。」と記している。ここでも「(実際はなくてもよいもの)」という補足的挿入句の意味が不明であり、当然のことだから言わずもがなという意味なのか、それとも岩隈氏もしょせん御子キリスト中心主義的信仰立場のゆえに、「キリストは神のもの」ということを軽視しているのか、よくはわかりませんが、とにかくパウロが「唯一神の信仰に育ち、一切を神に帰する物の考え方」は、パウロ個人の特性として自分たち信徒にとっては関係ないといった考えで述べておられるなら、これも偏った内容の記事ということになります。むしろパウロ的神中心主義的唯一神信仰を我々も学び、体得すべきだと言って然りなのです。織田昭氏の『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』(教友社)での23節「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」については、「パウロの使う例えは、時々乱暴なくらいです。パウロやアポロをやたら有難がるな。神様が君たちを所有しているのと同じに、君たちの方がパウロを所有し、君たちの方がアポロを所有していることを忘れるな。君たちの輝かしい未来と命は、十字架で死なれたキリストの中にある。死から復活されたキリストの中にある。そのキリストだけが、あなたを所有して自由にお用いになる。本当は聖なる神御自身がキリストを用いて、そのパウロなり、アポロなり、ケファなりを、道具として(「道具として」が不適切なら、「聖なる器として」)君たちに下さっているのだ。“偉い人”としてでなく、また、あてにできる“知恵者”としてでなく、神様の御意図を受け止めて、フルに利用できねば、意味はない!「人の命も、人の死も、神の賜物として大事にせよ(:22)。」云々と記しておられ、私にはこちらも意味がよくわからない面がありますが、「所有」という言葉を用いておられる点は重視されます。すなわち、我々が御子キリストに所有されるのと相似的に、御子キリストもまた御父に所有されておられるということです。
「しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(Ⅰコリ11:3)・・・御子キリストが御父の所有において限定されているということを私は「ゲッセマネの祈り」にみるのです。                             「アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給へ」(マルコ14:36 文語訳)・・・要するに「我が意」が「御意」によって限定されているわけで、ここに御子の御父に対する服従の態度が明らかに表わされているのです。
「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(Ⅰコリ15:28)・・・普通に解釈するなら、終末には神が特別啓示を中心とする自己限定を解いて、御子が御父から任されていたこの世の主権を御父に返上して三位一体関係は本源者である御父に帰一し、すべての被造物は創造主である御父の絶対主権の下に収斂されて刷新し、唯一者および全一者としての神が支配する御国が実現するということになります。「神がすべてのものにおいてすべてとなる」とは、我々被造物に対して「唯一神」である三位一体としての絶対性を示されてこられた神が、終末においては「全一神」である御父としての絶対性を示されるという解釈も成り立ちます。
NTDの15:28の注解では次のように語られています。< 神と父とは同じ一人の方である。「キリストは神と並ぶもう一人の神ではなく」、「神の名が全く聖とされ、神の国が完全に到来し、そして神の意志がこれまで天において行われたように最後には地においても行われるために生き、かつ支配するのである」(フェツァー K.Fezer)。> 
聖書に於ける唯一神教は、このように御父に対する御子の従属・従位というものが示されて然りです。「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)なのですから。
※「従わせられる」(ヒュポタゲー),「従わせられるであろう」(ヒュポタゲーセタイ),「従わせた方に」(ヒュポタクサンティ)の原形の「従う」(ヒュポタッソー)は「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(配置する)で、織田昭氏の小辞典では「(元は《 軍隊用語 》指揮下に従属させる)下位に置く,服従させる,屈服させる,従わせる」とあり、岩隈氏の辞典では「屈服(従属)させる,従わせる」とあるとおり、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられる」ということはまさに本来、御子は御父に従属する関係にあるということです。
「人の心の内に宿る『愛の霊』と『愛の御子』によって『愛の神』と結ばれた者は神と一つの霊となり、すべての人が神と一つの霊になるとき、『神がすべてにおいてすべてとなる』(Ⅰコリ一五・28)という言葉が成就されるのである。」(小高毅著前掲書p118)
ルカ福音書には「神のキリスト」という表現があります(ルカ9:20,23:35)。これも「神の」という所有,所属の意味があります。 荒井献氏は「神に従属する『神の子』」(『イエス・キリスト 上』(講談社学術文庫1467)p182)と言っておられ、「この表現には、キリストとしてのイエスが、あくまで『神の器』として神に従属するというルカ自身のキリスト論が反映している」と書いておられます(『イエス・キリスト 下』同上、p349)※「この表現」とは、ルカ福音書におけるペトロの信仰告白である「神のキリスト」です。
ちなみに、かつては荒井献氏などと肩を並べる最先端の新約聖書学者であり、のちに宗教哲学へと移行した八木誠一氏は次のように述べておられます。「新約聖書は、万物はキリストを通して成ったと考えている(ヨハネ一・三、コロサイ一・一六)。存在者はキリストに参与し、キリストは存在者の主、万物の主として、存在者と相関的に成り立っていると考えられている。とすれば、存在者と相関的である限り、キリストは究極の存在ではないのである。何故ならここで存在者は直接性において前提されているし、キリストはその『主』としてではあるが、存在者と相関的であるから。ゆえにここにキリストの父であり万物の創造者である神が考えられる必然性がある。」(日本基督論研究会編『キリスト論の研究』〔創文社〕所収〔p74〕の八木氏の論文「ヨハネ福音書のキリスト論」)、「キリストは存在者と相関的であり、存在が『どのように』あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が『ある』ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。」(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)
さらに、宗教哲学者の花岡(川村)永子博士は次のように述べておられます。「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。」云々(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )
「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 岩波版 保坂高殿訳)
以上のように思いつくままに父子従属説を支持するような聖句を挙げてみるだけでも、そういう箇所はたくさんあります。特に「同等」の三位一体論を主張する正統ゴリゴリ主義者が、正典中の正典の如く何かにつけて引用するヨハネ福音書も、その父子関係の従属性をイエス自身の言葉として明示しているのです。例えば岩波版(小林稔訳)5章19節と30節「子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば〔なんでも〕、子も同じように行なうのである。」「私は私自身からは何もできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。」・・・この両節の間には、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。」(23節)という言葉があって、言わば父子相愛関係が前提にありますが、イエス自身が再臨する終末の時をイエス自身も知らず御父のみが知っておられる(マルコ13:32/マタイ24:36)という言葉など、あまたある神中心的聖句を踏まえてみれば、その相愛関係にも父子としての一定の秩序…従属的な性格が認め得ると思われます。父子はあくまで比喩ですが啓示であって、選民社会の父子関係が神の父子関係の理解に反映することも神の御計算のうちだとみることは信仰的に可能です(旧約ではアブラハムとイサクの父子関係や、新約では「放蕩息子のたとえ」などにおける父子関係の比喩が参考になります。そこで見られる父子関係には愛情はありますが完全同等などではありません!また、信徒自身の置かれている環境での類比もあり、日本では植村などプロテスタント教会の先駆者には武家の素養としての儒教的父子関係の類比があった)。だから正統主義者が、三位一体における父子関係には従属性など全く無い…完全同等だ…などといくらいろんなこじつけをして主張してみても、私はけっして父子同質かつ従属関係(=父子同等の否定)の確信が揺らぐことはありません。何故、正統主義者が三位一体における「同等」にこだわるのか?言うまでもなくその理由は「唯一」との論理的整合性でしょう。従属では三が「同質」ではあり得ても「一」なる神ではあり得ないということです。しかし「三一」の「一」は「同質」の「一」であって「唯一」の「一」とは区別されます。旧約時代は「唯一」ですが新約時代は「三一」なのです。旧約から新約にかけて一貫している「唯一」とは主なる神の存在が他の神々の存在を排除して「唯一絶対」という意味ではなく、本来、「シェマの祈り」における「唯一」(エハド)は拝一神教を前提とするものであることが歴史的事実だとされているので(従って、神の主権の絶対性も普遍・客観的な意味の「絶対」ではなく、あくまで選民にとっての共同主観的意味での「絶対」性)、それは主なる神とイスラエルの民との実存的関係の「唯一」性なのです。だから「唯一」と「三一」は論理的に矛盾しないし、「三一」ということは三者が「同(一本)質」という意味であって、その「三一」において父子関係が「同等」ではなく「従属」関係にあるということも整合するのです。山田晶氏は『アウグスティヌス講話』で次のように語っています。
「ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考方法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。その親近性は、三つのヒュポスタシスの関係を考えるにあたって、まず御父を最も根源的なる神とし、そこから御子が生じ、御子を通して聖霊が発出するというように、父→子→聖霊と、三つのヒュポスタシスの発出の関係をいわば直線的に考える点にあらわれています。その関係はプロティノスの、一者→理性→魂という関係に似ています。もっとも、プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがありますが、それにもかかわらず、三つのヒュポスタシスのうち、御父のヒュポスタシスが最も根源的であり、したがって御父は三つのヒュポスタシスという根源のなかで、いわば『根源の根源』と考えられる点で、プロティノスの一者との共通性を現わしてきます。これに対して、御子というヒュポスタシスは、われわれが『それを通して』御父に到るべき『道』となり、聖霊は、『それにおいて』われわれがその道をすすむことのできるいわば『光』のようなものとなります。つまり、われわれは聖霊において、御子の道を通って、御父に達するという仕方で、三位一体なる神は、われわれとの関係を持つことになります。この点にも、魂から理性へ、理性から一者への上昇を説くプロティノスの哲学との共通性がみとめられます。ところで、このようにしてわれわれとかかわりを持つ三位一体なる神との関係において、われわれの究極目的は、聖霊において御子を通して、根源の根源たる御父に達することになります。(中略)東方教会において、三つのヒュポスタシスの関係が、御父→御子→聖霊というように、いわば直線的な発出の線を辿るのに対して、西方教会において、三つのペルソナの関係は、御父と御子とから聖霊が発出するというように、いわば逆三角形のかたちを取ります。」
・・・この山田氏の文言でおかしな点は特に次のところです。「プロティノスにおいては、この直線の方向は下降の方向ですが、三位一体における直線の方向は下降ではありません(それを下降と取れば、アリウス派の解釈になります)。そこに両者のちがいがあります」・・・たしかに「プロティノス」の直線と、東方教会の「至聖三者」の直線とは、「人格神」か否かという点で内容的な違いがあります。しかし両方とも「下降」的方向性はあります。すなわち御父を「本源」とか「根源の根源」と言われている以上、そこから生まれるとか発出するとかいわれる御子や御霊との関係がまったくフラットであるとして比喩されることはおかしいからです。「従属」と同様に「下降」という表現に違和感があるなら、もっと他に適した表現があるとすれば…ですが(おそらくは無い)、すくなくともある程度の勾配は認め得ると思います。そしてそのような考えがアリウス説と根本的に異なる点は、要するに御子を御父と「同(一本)質」と認めるか否かにかかっているのです。アリウスは御子を被造物としたからです。
御子は被造物ではないという理解は自分も同じです。ただキリスト教会は三位一体の教義をこの第一コリント15:28でも読み込み、教義では三位格は「同質」かつ「同等」であるということになっているので、「御子も御霊も父から出る(た)」ということについてもいっさいの順位的関係は認めません。しかし、第一コリント3:23や11:3、ヨハネ5:18~19(…18節で「自分を神と等しいものとした」というのはユダヤ人たちがイエスに対する誤解であり、これを事実として口語訳のように「自分を神と等しいものとされた」などと訳してはならない。「神を自分の父と呼」ぶことは「自分を神と等しいものと」することにはならないから。「同質」の参照聖句にさえ必ずしもなり得ないのに、ましてや「同等」の参照聖句になんぞなり得ない!)や5:22や5:43や6:27や14:28や17:3なども参照すれば、まったくの「同等」とは必ずしも言えないわけで、むしろ優劣ではないにせよ従属的関係性を認めて然りだから偉大なるオリゲネスもそうでした。 これに対して、御子と御父との一体を示すヨハネ10:30や14:9などを挙げるのが正統的立場の常ですが、これらも必ずしも御父と御子との実体的意味の一体を意味するとは言えず、むしろ後続の14:10に「言」(レーマ)と「業」(エルゴン)があるとおり、ことばとわざの意思とはたらきの一致としての一体を意味すると読めます。ここで再び、野呂芳男氏の言葉を引用します。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。」
御父と御子との関係については、「従属」という用語が適当ではないと言っても(第一コリント15:28の「ヒュポタゲー」〔従わされた〕、「ヒュポタゲーセタイ」〔従わせられるであろう〕、「トー ヒュポタクサンティ」〔従わせた方に〕の「従う」〔ヒュポタッソー〕は「服従させる、従属させる」の意味あり。第一コリント3:23でキリストは神のもの〔クリストス デ セウー〕と言われているのだから)、御子が所有する能力、権威、栄光も御父から委ねられたもので、終末にはお返しすべきレンタルもの。となれば御父の方が「大である」(メイゾーン)という意味は、観念的「同等」を許さない「大である」意味がある。
「み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。」
https://adventist.jp/この教会について/信仰の大要/父なる神/
御父と御子との関係を上下優劣のようなニュアンスを避けていろいろ言ってみたところで、要は「同等」ではないということです。そこには何らかの身分的地位の秩序があります。役割と言ったって職位的で上下関係は出ます。だから繰り返しで恐縮ですが、「本源」である御父が御子および御霊との直線的関係において全く勾配が無いなどということは比喩として言えませんので、その点では東方教会の「至聖三者」の直線関係の理解も問題となるでしょう。
私は、訪問先の教会で日曜学校教師のおじさんの話しを聞いていましたら、キリストが神からすべてを託されて、とにかくキリストがすべてのすべてであるかのようなことを言われました。おそらくこのCS教師の頭には、キリストの高挙(エペソ1:20~21、ピリピ2:9~11)及び全権授与(マタイ28:18)は入っていたのかも知れないが神帰一(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6、15:28)は入っていなかったのでしょう。たしかに神はキリストに全権委任されました。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 」(エペソ1:20~22 聖書協会口語訳)
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 」(ピリピ2:9 同上)
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 」(マタイ28:18 同上)
しかしそれは終末までです。終末はイエス・キリストの再臨によって来るのですが、その時は誰も知らない、天使も御子イエス自身さえも知らず、ただ御父なる神のみが知っておられる(マルコ13:32、マタイ24:36)と言われているところに、まさに御子の御父に対する「従」たることが明示されています。
「次に終りがある。その時、キリストは、王国を神すなわち父に渡し、〔また〕その時、〔神は〕すべての君〔侯〕たちと、すべての権威と権力とを壊滅させるのである。というのも、キリストは、神がすべての敵をキリストの足下におく時まで、〔王国を〕支配することになっているからである。」(コリント人への第一の手紙15:24~25 岩波版 青野太潮訳)
キリストは終末において神に御国を渡します(パラディドー)。ピリピ書での「主イエス・キリスト」告白も「父なる神の栄光のため」なのです。従って「きたるべき世」でのキリストの上位も、あくまでも(父なる)神に及ぶものではありません。そこには御父と御子、神と神の子との主従関係の秩序が横たわっているのです。
この点を明らかにしているのが『NTD新約聖書注解』のH.D.ヴェントラントです。コリント第一 3:22~23の注解の中で次のように述べています。
「集会は、万物に対する支配を自分の手に持つのではない。むしろ集会自体がキリストの所有である。ただキリストから、キリストを通してのみ集会はこの世を支配し、死に勝つということが言われうる。(中略)さらにこの自由と拘束の相互関係は、キリストの神に対する関係についても同じく言われる。キリストは集会の主(一二3以下)であり、世界の主(ピリ二9以下、コロ一15以下、二15)であるが、彼がこの力を持ち、かつキリストとしてありたもうことは、ただ神によって神のためにのみである。いまやパウロの思想の力一杯の高揚は、集会のものであって同時にキリストのものであるすべての力と栄光が、その究極の根拠たる神に帰せられることにより、ここに初めてその終着点を見出すのである。」(p77~78)
「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。神と世界とを、打眺むべく目の前の平面に並べ置き、さて両者の関係聯関がいかに表象せらるべきか描き出さるべきかを問うは、もはや宗教の仕事ではない。仮りにそれを解答を与え得る問題と――神の超越性を考慮せずに――看做したとしても、人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(波多野精一著『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と云います。考え過ぎはメンタルヘルスにとってよくありません。程々なら精神安定に益する教理的思弁ですが、内在の聖霊によって程々のとことで判断停止(エポケー)して心を落ち着かせることが肝要です。
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(追記)
上記のとおり、私は、聖書における御父と御子との関係について歴史的・経綸的には、本質的意味としてではなく職務的意味としてであれ「従属」を認める立場ですが、結果的に自分は『ウェストミンスター信仰基準』における三位一体に関する教説に同意するのであり、そこに矛盾が無いとしたらそれは、御父の自己限定における御子との「同等」であると解するからです。これは自分で「神の『同等』の自己限定」と呼ぶことです。「三位格は同等であり、父は子よりも偉大であるのではない。ただ父と子との同等性は父によって引き起こされたところに、父のより偉大さがあるとする。」(~尾崎誠氏の論文「パトリスティック神学と田辺元のキリスト論」)という表現も、感覚的には無関係とは言えないでしょう。
1992_19_hikaku_09_ozaki.pdf (jacp.org)
某牧師の返答には、「聖書が職務的な意味で御父に御子が従っておられることはその通りで、おっしゃるように御父と御子の神性の同質性(ホモウーシオス)を曖昧にしてしまう意味での従属説が問題だと考えています。」という文言があり、これにより自分は御子を御父と「同質」であるとする考えと、御子が御父に「従属」するという考えとは両立し得ないのかも…と思うようになりましたが、類比的に考えることにより「従属」と「同質」とは矛盾しないことを確信し、自分としては引き続き、御父と御子とは本質的な意味で主従関係にあるのだが、御父の自己限定によって職務的な意味での主従関係にとどまり、本質的には「同等」とされているのだ…という解釈に立ちます。しかし「職務的」な意味での「従属」とは言え、「職務」にはそれなりの権威があるので、自分としては「従属」が本質的であるかどうかより、御父の本来的主権・権威が御子や聖霊に優ることが重要なのです。御子に対してもあくまで本来は御父が持っておられるこの世での主権・権威の委譲なのですから…。
あくまで御子が御父に主権を返す終末までの言わば仮相(仮の宿・幕屋/Ⅱペト1:13~14)であって、真相(神の国)は、最終的に御子が御父に服従し御父がすべてのものにあってすべとなられることによって終末に顕現するのだ…という見方です。
職務的従属を認める人は、それは本質的意味の従属とは違って御父と御子との間に優劣は無いということで軽く考えておられますが、私は本質的意味の従属であろうとなかろうと、職務的従属もあくまで従属なので、それ相応の権威の違いは認めざるを得ない…まったく対等ということにはならない…という点を必要以上に強調することにより、実質的には本質的従属と同様の…つまり御父と御子との間に優劣をつけるほどの上下関係として、この職務的従属ということを対外的には主張したいと思います。もちろん、本質的従属を言わないということは、あくまで異端とならない範囲内で…ということです。そしてそのうえで、改革派教会が採用しているウェストミンスター信仰基準に従います。救済論的観点においては、現実の信仰生活ではどこかの教派・教会に属さないといけないからです。それで創造主の絶対的主権を強調している改革派の教会に属す選択をしました。「従属」と「同質」や「同等」や「唯一」との関係の問答は、そのための教理的調整になります。公式に認められている「職務的」意味での御子「従属」を、類比的思考において、「職務」に応じた「権威」を伴う事柄として重視し強調すること…それが、自分の「創造主帰一」の立場における新しい立脚点となりました。
コロサイ1:16、18などから明らかなことは、御子はたしかに被造物より先に存在していたお方ではあるけど(ヨハネ福音書17:5参照)、何にせよあくまで「生まれた」お方であるということ。御子が生まれたお方であるということは、御子を生んだお方が先在しておられたということ。それは造り主なる御父以外にはあり得ません。そしてそこから言えることは、1:16の「御子によって造られ」たという「~によって」(ディア)はこの場合、御子が造り主であることを意味せず、媒介的役割を果たしたことを意味する。そのように解する方が天地創造を造り主の自己目的とすることにはならず、「御子のために」ということと意味が通じる。                                                「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。たしかに認識論的には、『神』を『神』のままで認識することは誰にもできない以上、『イエス・キリストにおける神』を『神』とするとしか、キリスト教信仰は言うことができない。しかし、『イエス・キリストにおける神』を語りたいのであれば、まずはそのイエス自身が、『神』を、しかも『創造主』なる『神』を、どう語り、また、その『神』によって自分がどう生かされていると語ったのか、を問わなければならないはずである。『十字架のキリスト論』の前に、生前のイエスが語り、そしてそのイエス自らがその方によって生かされた、そのような『神』が、まず『存在』しているはずなのである。つまり、存在論的には、『キリスト』が『神』に先行しているわけでは決してないのである。」(~青野太潮氏の論文 <「障害者イエス」と「十字架の神学」>)
h-n62v1-p37-76-aon.pdf (seinan-gu.ac.jp)
(参考)2019/09/15青野太潮西南大名誉教授講演 – 日本バプテスト連盟 泉バプテスト教会 (izumi-baptist.org)
キリスト教はユダヤ教から単一神的意味の一神教を引き継いだわけではなく、同じ一神教でも実体的一ではなく関係的一の意味で、すなわち父と子と聖霊の各位格は相互関係においてのみ個別に存し得るという一体性の意味で「唯一の神」と言われるのであると思う。それは解釈においてであり、聖書では「唯一」が単一的意味の唯一で言われている(例:ヨハネ福音書17:3)。それは新約聖書において「神」と書かれている場合、普通は御父のことを指すことと対応している。
正統的立場においても、聖書において御父と御子との関係には、特にヨハネ福音書5~6章を読めば明らかに主従的区別があるわけなので(その他、マタイ24:36、マルコ10:18、ヨハネ14:28、17:1~8他参照)関係が自分としては職務的意味での従属関係という意味をさらに重くして(すくなくとも佐々木稔氏がご自分のサイトで書いておられるよりもはるかに重い意味として)、唯一の真の神である創造主としての御父の権威を強調し、御子中心主義を糺す方向へ行くことは、ケノーシスの姿勢を終始一貫しておられる御子の「信仰の導き手・完成者」(ヘブル12:2)としての生き方に従うことでもあり、自分にとって聖霊の導きによる起死回生的な新生面の開けであると言えます。とにかく御父と御子とを単に「同等」とする見方は必ずしも聖書に合うとは言えないことには確かな自信があるのです。
私見では、本来というか原事実的には、本源者である御父と生成者である御子との関係は、世の終末における御子の服従(コリント第一15:28)に象徴的に示されているとおり「同等」ではないのだけれど、絶対創造主の聖定は自己限定としての啓示を中心としており、御子キリストに世の主権を委ねられるがゆえにアガペーをもって「同等」になられたのだ…といった受け入れ方です。無からの天地創造は三位一体のみわざではありますが、「創造主」は御父のみです。本源・絶対の非対象たる創造主はアガペーにおいて絶対性に固執しようとはなさらず、すなわち御自身を唯一絶対化せず、御子と聖霊との関係における御父として…歴史的にはイスラエルの神ヤハウェとして、ひいてはイエスとその弟子たちの父なる神として自己相対化(=自己対象化)なさり、神学的には人格的存在として擬人化を許容するほどまで自己限定することによって、人間に対して啓示なさったのだと考えます。このように私自身、正典的聖書解釈から「従属的三一神信仰」の徒たるを標榜しながら、あくまでも改革派信仰の徒として基本信条に根差すウェストミンスター信仰基準に則って自己矛盾なしと言い得るためのキーワードが創造主の「自己限定」です。もちろんこの用語は西田哲学からの影響も否めません。ご参考までに、解説文から引用します。
「対象化されないもの、形象化されないものは、『無』という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。」絶対無の自己限定:西田幾多郎の思想 (hix05.com)
イエスはユダヤ人だったのに、白人画家はイエスを白人化させて描くことが常でした。偶像イエス同好会の諸君が「大好き」だなどと言っている史的イエスならぬ私的イエス…想像のイエスは美しく想い描かれますが、イザヤ書53章2節で「われらが見るべきうるはしき容なく うつくしき貌はなく われらがしたふべき艶色なし」と言われているとおりで、そちらが実在のイエスに近い。彼が神の子キリストであると信じ告白された主旨は、彼自身が神として拝され讃美されることにあるのではなく、彼は神の形のうちにあったが神と等しくあることを固守すべきもの或いは奪い取るべきものとはみなさず、むしろ彼は己自身を無にして(ケノーシス)十字架の死に至るまでも神に従順であられた…、それゆえに神は彼を高挙して主の御名を与え礼拝すべきものとされたわけなので、イエスを「神」と言い礼拝する意味は逆説的であり、父なる神の場合とは区別されて然りなのです。同じく「神」と言ってもイエスを「神」という場合はイエスが神に従属せし「人」として徹底し、信徒の模範を示したことにより、イエスを礼拝する場合もイエス自身が神を信仰し礼拝する者として徹底なさったことによるのです。イエスを栄光の主として高く挙げるのは神であって人間であってはなりません。  イエスの使命は「子は親を映す鏡」とも言われるやうに、彼にとっての唯一にして偉大なる父である神を、彼自身の言葉と業を通してわれらに証しする啓示者にして仲介者たることにありました。繰り返しますが彼が「主」として高く崇められるのは彼が人として徹底的に神に服従して生きたことによるのであり、彼は「無」となることによって、言わば裏方に徹して、オモテ舞台で「神」として礼拝され讃美される対象を父として示しているのです。その彼の従順なる信仰にもとづく福音の教えを正しく受けとめるには、逆説的な対応が求められます。それが十字架の神学に現れています。🙏😅😸

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コメント(20)

  • someone

  • someone

  • noah noah

    私は新共同訳、口語訳、新世界訳、リビング、ALIVEなどアプリでいろんな訳を比べて使っています。(新世界訳のみ神のみ名がたくさん載ってますが英語のASVやWEBもみ名を使ってますね) yhwhist2023 様JWの資料もよく読んでくださってるのですね。とても嬉しいです。啓示の書の予言の解釈は確かに受け入れにくい部分もあるかもしれませんね。予言は実現してからしか正確には分からないこともありますからね…

  • 教理(聖書解釈)が分かれるような話は避けて、話題を慎重に選べば、対話は可能ではあるのでしょう。それにしても一般のクリスチャンとは読んでいる聖書が違いますね。その点は支障ないんでしょうね。新世界訳はオンラインで読めるので便利です。例えば、信仰をはたらかせるという言い方など参考になりました。JW公式サイトから「目ざめよ!」、「ものみの塔」の記事もよく読んで参考にしていました。ただ、(預言ではなく)予言の話とかになると、自分の場合はついてゆけなくなったりしました。💦

  • noah noah

    全く聞く耳をもたれないのであれば語る意味がないですよね… そのオプチャは聖書の言葉を大切にしている人が多く、聞いて考えてくださるので、語るのは楽しいです🎵

  • 恐縮です。御指摘のヨハネ福音書17:3「唯一まことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストについて知ること」について、オプチャの参加者の理解が一致しているなら何の問題も心配もいらないのですが、正統的立場の人はどうしてもこの聖句を後の時代に成立した教義を読み込んで解釈し、「唯一のまことの神」は御父のことではなく、三位一体の神を指すと主張してゆずりませんし、ひどい場合は「唯一のまことの神と」の「~と」と訳されている καὶ 「カイ」を、ここは「すなわち」と読むべきだと言って、「唯一のまことの神」は「イエス・キリスト」なんだと主張することもあります。そんなわけないじゃんと言っても通じない人たちなので、正直、対話しても時間と労力の無駄を感じてしまいます。

  • noah noah

    yhwhist2023 様はとても謙虚でいらっしゃいますね。正直に過去のことまで教えてくださり感謝いたします。私もそのオプチャでは言葉に気を付けるようにしています。やはり多くの方にとっては三位一体が信仰の柱となっていますので。。でもやはり御子が神に祈られたように「唯一まことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストについて知ること」こそ、本物のクリスチャンになるためには必要だと思いますし、みなさんみ言葉を愛する方々ですから、なんとか、少しでも聖書そのものの真理を見つけて欲しいという思いで参加しています。でも当然私の解釈も完全ではないですし、分からないことも多いですが、自分の知識と解釈の範囲で自分の見つけた真珠をお分かちできればとの思いです… そうですよね、、みなさんに「教える」のではなく、自分の信念を聖書からお分かちする というスタンスであれば 自分も相手もストレスは少ないと思います。yhwhist2023 様に無理強いすることは申し訳ないですのでこれ以上は申しませんが、、いつか見学だけでも来てくだされば嬉しいです(^-^)

  • 互いに尊重されるなら平和的なんでしょうね。自分も普通のキリスト教を尊重しないわけではないし、だからいちおう改革派に身を置いています。ただ、正直申しますと、自分が過去に参加していた某サイトで、ある人から批判というより誤解されてしまい、しかも不快感を与える表現だったので、それに自分が反応したために不毛な論争に陥ったことがありました。最後はけなし合いみたいになって、宗教者にあるまじき醜態をさらしてしまい、とても恥ずかしく反省させられた苦い経験があるので(そのサイトは参加者の多くが常に感情的で論争的な態度でのぞんでいますが、私はそこで元JWの人との交流も得ました)、また、意見交換のような場に入ったら、再現することになりはしないかと不安に思っていたのです。いわゆるトラウマってやつですかね。とにかく初めから自分が他人に対して啓発するというような上から目線の態度で入ってゆけばガツンとやられるのは仕方ないですが、それに反応してしまう自分がいけないのですね。本当に自分が信じることに確信を持っているなら、誤解されたからといっていちいち反応しなければいいわけです。まあ、軽く、そうではないよ…とまでは返しても、それでも反論してくる相手はスルーすればいいだけなのに、そうできず弁証しようとするところに、自分がまだ信仰内容の確信に至っていないという弱点がさらけ出されるわけです。確信を得ているなら、他人から少々批判されても、それによって自分の信仰が微動だにすることはないので、感情的な反応は生じないはずですから。まだ確信まで至っていない人が、批判されるとすぐにカッとなって反撃しちゃうんですよね。あさましいことです。自分は聖書に記された多くの言葉から、そしてその解釈の有力な事例から、キリスト教のいわゆる正統派が異端視してきた父子従属の信仰については、御子自身の「父は我よりも大なり」(ヨハネ福音書14:28)に代表される聖書の言葉にもとづいて、父子関係を従属的(…という表現が不適当だと言う人には別の表現を用いてもよいが、要は非対等という意味)に理解し言い表わすことはおかしなことだとは思わないし、むしろ父子関係がまったくの「同等」だと言う方が聖書に合っていないと感じるだけです。聖書を素直に読めば、誰でも父子関係が完全に同等だなんて思わないでしょう。だってヨハネ福音書が特に強調しているように、御父は派遣者で御子は被派遣者なのですから、それだけで父子関係にはすでにある種の勾配があります。それは単に役割の違いにすぎない…と言うのは正統派の言い分であり、御子被造物説のアリウス系の立場に対してはともかく、御子も神であることを認める立場に対しては必ずしも通用しないと思います。私はオリゲネスについてもアタナシウスと同様で詳しいことは知りませんが、表面的に見る限りでは受肉を認めている以上、他の思想についてはいざ知らず、三位一体理解に限ってなら異端とまで言う程のことはないのでは…?との疑問を否めません。それに正統派の言い分にも問題はあり、人間との類比で言えば、役割というものも無条件に与えられるわけではなく、ある役割は、それに相応しい実力を持つ者に対して与えられるわけですから、その役割を担うだけの実力を欠く者には与えられないはずです。ということは、御父は御子から、同じ神でも「大」なる存在だと言われるだけの実力を持っておられるということです。万物を聖定し創造と摂理の主という役割を担っておられるのは、それに相応しい力・権威・栄光を持っておられるということ、御父こそが三一神を絶対的な主権者たらしめる実力者であられるということを意味する…と、私はそのように確信しています。この御父絶対の確信は揺るがない自信はあります。それは聖霊による確信なので微動だにしないのですが、そうなると御子を相対的存在とみなすことにもつながるのではないか?とか三神論になるのではないか?とか…、それ以上の議論を続けるとますます思弁になり、さらには詭弁に変わるおそれも出てくるので、ある程度までは確信を持って言えることも、論理をつきつめ体系的に考えてゆくと、そもそもが人知の限界を超える神秘の事柄なので言論は必ず壁にぶつかり、へたをすると深い穴に落ち込んでしまいます。そうならないためには、こういった議論は程々に、コヘレトの言葉にあるとおり、多言を弄するは空しきことであるを自覚し、過ぎたるは猶及ばざるが如しの諺通り控えめにして、自分のブログやmimemoやnoteに公開するにとどめ、noahさんのように教理では共感し合える人と時々交信し合う程度がメンタルヘルスにおいては賢明かな…などと思う次第です。また、長文になってしまいましたが、これもまた、自分の弱さを露呈しているのではないかと思います。不尽

  • noah noah

    そのオプチャは、聖書の言葉から真理を探求するという方針ですので、私のようなエホバの証人でも聖書理解を自由に語らせていただけています。色んな聖書解釈の方がおられ、ご自分の理解を発言されていますが、皆さん互いに尊重しながら聞いていますので、yhwhist2023 様の聖書理解によって皆さんが少しでも啓発されたらと…

  • 参加するのはいいですが、自分はあくまでも父子従属的信仰の立場なので普通のクリスチャンとは話が合わないでしょう。教理的な話だけなら、自分はエホバの証人の信者さんの方がクリスチャンよりも話が合うと思います。教理的な話題だけでいいなら、エホバの証人の信者さんが交流する場の方が自分は居心地よさそうです。

  • noah noah

    yhwhist2023 様 たくさんの親身なアドバイス、心より感謝いたします… 陰ながらの応援どうぞよろしくお願い致しますm(__)m ところで、従属説についての多大なる考察に改めて感心しています。何卒、、オープンチャットへのご参加お願いしたく存じますm(__)m

  • いちばん下のリンク先abemaニュースみてください。この「エホバの証人」の現役信者さんはまともだと思います。愛する我が子に輸血拒否させるよう組織から言われてそれはちがうと…人権侵害だと思えたってことはちゃんと理性がはたらいていたわけです。子どもの笑顔に救われたと言っておられます。一般市民と共感できる信者さんです。こういう人を知ると「エホバの証人」さんがカルトでなくなることに希望を持てます。でもおそらく監督・長老格の人たちにはこういう人って少ないかいないのでしょうね?下のリンクのabemaニュースで松本記者の取材に応じた現役幹部(長老)の人はすごいです(※見出しではなく、httpからの部分をクリックしてください)。幹部しかログインできないサイトまで教えちゃってますし、内部文書も提出してくれちゃってます。こういう内部告発が進んで、noahさんたちもまさに「めざめよ!」ということに成ることを私は期待しています。父子従属のように聖書解釈とかはかなり共感できるところがあるからです。福音派の中にもリベラル派の中にも正統主義的な立場の人たちは聖書を振りかざして自分たちの考えを絶対化しようとしますが、そういう勢力に対抗してキリスト教を内部から変えてゆくために神学的なこともやっているので、noahさんがおっしゃることはすべて同意できずとも理解は不可能ではないです。しかしかなりハマっておられるので老婆心ながらコメントを繰り返し差し上げてしまうのです。でも聞く耳を持っておられることが希望になっています。自分がそちらのような信仰というか固い信念を持った場合にはnoahさんのような対応になることは想像できないこともないからです。「とにかくできるだけ多くの医師に受け入れていただくために啓蒙活動はしておりますので」・・・私たち一般大衆には耳目にふれてきませんが、そちらの出版物でされているのなら進展の速度は遅いし、失礼ですが読まない人は読まないので頓挫する恐れはあります。当然、noahさんなどはわかっておられることではありますが、迷信とか言われるので、それならどうして…?と思うことは、やはり啓蒙啓発活動のやり方が地味なのではないですか?という、私など部外者のくせに余計なお世話だと言われそうな小言です。すみません。でも、無輸血手術を可能とする考えの医師がそんなにおられるのなら、もっと多くの大衆の耳目にふれるように大手メディアに取り上げられるようにしなければ、いつまでたっても現状のままで、「エホバの証人」さんは待機状態でしょう。いわゆる統治体ですか…そちらの組織の中枢には本気で無輸血の医療技術が選択肢となることを推進する意志があるのか否かは知りませんが、「エホバの証人」信者が輸血の必要があるような場合だけ宗教上の理由ということで無輸血でやる…といった特別扱いは日本社会では無理なので、無輸血でやるんならそれが一般患者にとっても選択肢になり得る医療技術にならなければダメだから、そうなるためにはかなりハードル高いです。もっともっとアグレッシブにいかなきゃ何の進展も望めません。そうでなくてもいろんな団体が自分たちの要望を実現すべくロビー活動みたいなことを地方でも中央でも政治家に対して行っているので、消極的なところはどんどん後回しにされてゆくだけです。下にリンクを貼りましたが、日本維新の会の梅村議員のような有能な政治家を敵にまわしたのではどうしようもありません。これに対抗し得る高い能力を持つ政治家や弁護士…やはりまず法律家です!そういう有力者を「エホバの証人」支持者として味方につけることは、それはもう至難も至難のわざですが、組織をあげてそれくらいの努力をしなければ、noahさんが望まれるような社会はいつまでたっても来ないでしょう。こういう論文も出ている、こういう支持者もいる…といくら口だけでいろいろ言っていても現実的な意味はありません。日本基督教団には「エホバの証人」を脱会した牧師がカルト問題で活発に活動されています。彼は「エホバの証人」がカルトであると明言しておられます。youtubeを見ると、目につくだけでもいくつか「エホバの証人」さんに関する解説動画がありますが、こういった主流教会のクリスチャン側の解説の中に間違いだと思われる内容があるのでしたら、そういったことをどんどん指摘して糺してゆく活動も必要ではないでしょうか?教義論争は不毛なので避けるというスタンスであることは存じており、それはそれで賢明かも知れませんが、発信者が影響力を持っている場合には、誤解されているなら解いておくほうが賢明かと思います。沈黙は必ずしも金ならず…というのが神学や教学を要する宗教の世界でもあるのでしょう。お金を使わないと何も始まらないのが日本のような資本主義社会です。今はITの時代なのですから、著名な医師や学者が、論文でもSNSでもいいから発信発言してメディアの注目を惹くようにして講演活動やyoutubeなどの動画配信も利用してでも世間の関心を集めることが肝要でしょう。そのためにはお金も惜しまずに使わなければなりません。統治体かなにかよく知りませんが、組織中枢の人たちにそれだけの度量がありますか?長老か監督か知らないですが、一般企業であれ宗教団体であれ、社会にある以上、現実的にはどこの組織も同様であって、時代遅れの硬い頭の人間は退場してもらわないと時代についてゆけません。時代に取り残されてしまって社会的に何も成し遂げられません。釈迦に説法のような言い方かも知れませんが、いかなる思想信条であれ社会の中で活動を推進するにはそれなりの方法論…この世の知恵が必要であり、信仰的大望を果たすには鳩の素直さだけでなく蛇の賢さも活用するのが現実的かつ実践的な信仰というものだと思います。私は改革派教会の信徒なので「聖定」という教理を聖書の教えであると信じています。なにか煽っているかのようですが、そうではなく、輸血拒否を「エホバの証人」さんはやめそうにないので、だったらその信念を社会に通して自分たち否定側の大衆に説得する方向へ導くしかないということですかね。それはともかく、この世に起こる…多くの人間にとって医学の進歩のように良いと思われることも、戦争のように悪いと思われることも…万事が創造主なる神の絶対主権の外ではあり得ないということであり、悪の直接的原因は人間の罪ですが、それと矛盾することなく、最終決定者はあくまで神であるということです。その意味では、「エホバの証人」さんの大望も、我々の希望も、神の御意志にかかっているので成るようにしか成りませんが、その中でも信徒は時の流れに身をまかせておればよいわけではなく、心の内に住む聖霊の働きを受けて活動への意欲をかきたてられるので自ずと主体的・能動的に信仰を働かせてゆきます。さて、そこからが問題で、「エホバの証人」(JW)さんがいわゆる「カルト」の特徴である洗脳とかマインド・コントロールの要素をどれだけ持っておられるのか…?という問題に絞られてゆくわけです。組織としての自己検証が期待されます。強制的信仰は神の御意志ではないはずです。神は我々に自由意志を与え、その主体的決断と実行もまた聖定の中で活かして下さいますが、他人に何かを(物理的であれ心理的であれ…)強制する権利は与えられていません。法の支配の下では軍隊でさえ強制には制限があり、ましてや法を超えた絶対的主権を信じる以上、この世の権力さえ持っていない一般信者が、いかに宗教的理由であろうとも強制など許されないことです。「受け入れたくないならエホバの証人でなくなることも選択できます。神との関係や信仰は人それぞれで、エホバの証人も殆どのことは聖書の原則に基づいて各自が決定できる訳ですが…」・・・この自己決定権が神の絶対的主権のもとで保障されてこそ聖書的人権ですね。日本社会では憲法を金科玉条の如く言って(ほんとはそこまで大切に思っていなくても政争の具に利用して)そこで保障されている人権を盾に、好き勝手なことを言う活動家や政治家も少なくなく、そういう勢力にキリスト教会も迎合したり利用されている面もあろうかと思いますが、神の絶対主権にもとづかない人権を尊重すれば、結局、集団的エゴイズムのようなイデオロギーでしかないことは言うまでもありません。広義の無神論者、無宗教者の人権イデオロギーが日本社会を侵食してきた観さえあると思うのは、昭和の時代を生きた者には少なくないはずです。そのような社会を改善するためには、何よりも唯物論的環境に置かれている若者たちに造り主を正しく知らせてゆくことが肝心であり、そのためには従来の非聖書的な教理を批判したりすることが自分の活動主題なので、「エホバの証人」さんなどとも是々非々で連帯してゆきたいので、陰ながら見守ってゆきたいと思います。https://www.youtube.com/watch?v=jJOEfbSvuHE&t=211s                                                                                                                                  【エホバの証人】「教えは間違っている」現役幹部・信者ら激白“輸血拒否”の実態と教団への疑念|社会部 松本拓也記者https://www.youtube.com/watch?v=ZylL6c4sJ98                                                                                                                          

  • noah noah

    ご理解とアドバイスに感謝いたします。医学界では私達のことを発端として無輸血治療が議論されてきており、あのような論文も出されるようになりました。「今後は無輸血治療が標準になるだろう」と述べる文献まで出てきていますので期待は持てますが、日本は医学面ではかなり保守的ですので、日本での一般的な認知にはかなりの時間を要するかもしれません… とにかくできるだけ多くの医師に受け入れていただくために啓蒙活動はしておりますので、辛抱しつつ機を待ちたいと思います。 >いざ問題が起きても『私たちは強制していないので』というやり方をしている。でも信者側は、血の問題で妥協をすれば排斥処分になる可能性が高いので身動きが取れない。 このコメントを述べたのがどなたかは分かりませんが、私達としてはその認識とは違っていまして、ご存知かもしれませんが、エホバの証人になるには、かなりの期間聖書を学び、そのとき神の血に対する見方、それに対するエホバの証人の態度をしっかりと知っていただきます。その上で、自分がそれを受け入れたいかどうか検討し、それを自分で受け入れる人がエホバの証人になる訳です。受け入れたくないならエホバの証人でなくなることも選択できます。神との関係や信仰は人それぞれで、エホバの証人も殆どのことは聖書の原則に基づいて各自が決定できる訳ですが、淫行、偶像崇拝、血を取り入れる等の重要なおきてについては、信仰の間違いない一致を重要視しておりますので、そこを受け入れることができる人だけが成員となっています。 医師たちの葛藤については、確かに医師は「命を救うこと、一秒でも寿命を長引かせること」をモットーにしておられる訳で、そのことに感謝しなければなりませんが、以前yhwhist2023様も書かれていたように、それぞれの生命観はそれだけではないことが日本の医師に広く理解され、一般的になるなら、今のような報道ではなくなるものと思うところです…

  • 毎度、御返答ありがとうございます。共通理解が多々あるようなので希望が持てます。要は、日本社会がnoahさんたちの考え方をどこまで受容できるようになるか?ですね。いわゆる「エホバの証人輸血拒否事件」の判決は医師側の説明義務違反と患者の意思決定権侵害についての主旨であって、無輸血うんぬんといった医療処置の正当性を認めるものではないので、そこはきちっと区別して認識すべきことであり、無輸血うんぬんはあくまで日本では医学界や厚労省が認めなければ社会的には通用しませんね。  > 輸血しないことは自殺行為という迷信はまだ広いためなかなか難しいのですが、子供に輸血しないで見殺すというのは全くの誤解である点を皆様にご理解いただけるようさらに努める必要感じています。・・・まずはJWの本国アメリカ(の特にJWと関係あるペンシルベニア州やニューヨーク州)での動きが参考にはなりますが、日本在住の信者の場合、すべては日本社会における医学的知見と法的判断にかかっていますね。日本の場合は厚労省なり医師会なりがどこまで理解し決断できるかですね。コンセンサスってやつです。もちろん輸血の必要がない治療では無輸血は当然であり、問題なのは輸血が必要との判断の場合。「エホバの証人」さんたちも輸血に関する一般社会の考えを「迷信」と言われる以上、医療関係や法律関係の賛同者を集めて啓発活動を推進しないとおかしいと思います。それもマスメディアに取り上げてもらわないと効力はありません。そしてJW本部も無輸血の実現に向けて政治への働きかけをしてゆかれなければ現実的とは言えないし、そうされているのかどうかは知りませんが、自分たちは賛成も反対もせず静観するしかないでしょう。それが自分たちの「エホバの証人」さんに対する誠実な態度ではないかと思います。結局、政治家が採用しない問題は社会的に実現する可能性は無いも同然なので、ひとつの宗教の教義うんぬんにとどまらない民事的な事柄として広く社会で議論されるように働きかけてゆかれるべきことだろうと見ています。そして、この輸血問題が社会的にクリアーされる日が来れば、もはや「エホバの証人」をカルトと呼ぶ人は少数派になるのでしょう。 「エホバの証人、現役信者:『そういった子どもに親の宗教信条を押し付けて、輸血というのは拒否すれば死に至ることもあるわけなので、そういった子どもに輸血を拒否させて、もし死なせてしまうならそれは殺人と同じなんじゃないかなと私は思う』『(Q.事実上の強制?)そこが巧みなやり方というか、いざ問題が起きても『私たちは強制していないので』というやり方をしている。でも信者側は、血の問題で妥協をすれば排斥処分になる可能性が高いので身動きが取れない」https://www.youtube.com/watch?v=wagaV931314                「通常行 え る 治療 (輸血 )を行 え な い ま ま患者が 死 に ゆ く の を見守る こ とに な る 医療従事者の 苦悩は どう癒 され る の で あ ろ うか。平野判事補 は、結果的 に患 者 を見殺 し にす る事態が 発生 し た場合、誠実な 医師ほ ど 良心の苦悩に直面する ことや 、医師に と っ てトラ ウマ テ ィ ッ クな経験 に な る お そ れ が ある」云々。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabedit/20/1/20_KJ00007630176/_pdf/-char/ja

  • noah noah

    yhwhist2023 様 子供のしつけに関して豊かなご経験をお持ちなのですね。教えてくださりありがとうございます。輸血についての誠実で当然のご意見、感謝してお受けします。私も逆の立場なら同じことを述べると思います。親ならば子供の命を守るためにできる限りのことをしたいと思いますから。 ところで、医学的なことになりますが、今は心臓切開術を含む複雑な手術も無輸血で行うことができます。また緊急時ですが、一般にはヘモグロビン値10で輸血が必要とされていますが、前にお伝えした近年の研究は大人も子供もそれ以下でも輸血が必要ないことが明らかになっています (しかし論文にもあるように、その事実を医師たちに認めさせることはなかなか難しいですし、報道関係者にはなおさらです) 失血時にこわいのは血圧低下によるショックです。それを防ぐのに第一にすべきは体液量の回復ですから、止血と共に、無血性輸液、鉄分製剤、へマセル、エリスロポエチン、高濃度酸素などを用いて治療することができます。セルサルベージなども受け入れることもできます。私たちはそのような「治療」を求めています。 輸血しないことは自殺行為という迷信はまだ広いためなかなか難しいのですが、子供に輸血しないで見殺すというのは全くの誤解である点を皆様にご理解いただけるようさらに努める必要感じています。
    私たちは、神がノアに与えられたおきて、またイスラエルにも、クリスチャンにも再度与えられた神の非常に重要なおきてに従いたいと誠実に願っております。神は血を命と見ておられるからです(レビ17:14) 使徒たちと聖霊によるおきては、血を取り入れることを偶像崇拝や淫行と同列に置いています。この神のお考えを、私たちは真剣に受け止めております (使徒15:28,29) かのエウセビオスは、初期クリスチャンのある少女が拷問により死ぬ時「クリスチャンは理性を持たない動物の血を食べることを許されていない」と述べたと記録しています。異教徒たちは血によってクリスチャンを試しました。「血を避ける」ことを初期クリスチャンが命を懸けて守っていたことがうかがえます… しかし今は「輸血を避ける=死を選ぶ」ではありません。むしろ他の治療方法、多くの場合輸血よりも身体に良い治療方法を求めているだけなので、皆様にも私たちの考えをご理解していただくよう努めたいと思っております。それに致しましても、yhwhist2023様が正義感に基づく忌憚ないアドバイスをしてくださったことに改めて感謝申し上げます…

  • >基本的にはお尻ペンペンでした  …<「エホバの証人」“児童虐待” 「ムチ」「輸血拒否」の実態とは 元2世信者・現役幹部などが証言 >(日テレNEWS)とあるように、この番組で取材に応じている女性は、ムチ打ちの話をしているので、それなら虐待かと思う人がいるでしょうが、尻を叩く程度なら昭和の時代の親なら虐待なんて思わなかったし、子どもだってそうです。自分などは親父から殴られることも珍しくはありませんでした。昨今は親が甘やかしすぎるのかなにか知りませんが、学校の教師も子どもたちに対して道徳教育ができていないのは学校教育の劣化と言えばそれまでですが、尻叩き程度のことまで大げさに虐待だの体罰だのと騒ぎすぎる世の中の風潮のせいかもですね。子どもは体で教えられなければしつけにならないことがあり、経験者として言えば、学校の部活とかなら少々の体罰的指導なしには強くならないという面もあります。そういうのは学問的理屈ではなく実際の経験知によることなので、それぞれの親や指導者にまかせればいいと思います。怪我する程の暴力はダメですが、軽い平手打ちくらい指導の一環で済む話です。「エホバの証人」における「児童虐待」の実態がすべて加害事件とまでは言えないということであるなら、私にとって「エホバの証人」の「カルト」性…反社会性というものは、わが子に輸血が必要な時に輸血をするか否かという問題に集約されます。これについては対話と啓発が必要になると思います。いかなる宗教であれ、人命より大切なことはないわけで、イエスも「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」と言ったように、「血を避けなさい」という聖書のおきての重要性は人命の尊さにまさるものではないということ、輸血せずにわが子を見殺しにしてもよいというようなことが、聖書の真実の教えであるかどうかをよくよく考えてほしいと思っています。自分ならそのような宗教は救済宗教とは認めません。わが子を見殺しにすることを命じるような教えとか戒めを有する宗教などには自分が所属する意義を認めないし、社会的にも排除されるべきだと思います。エホバの証人の信者さんたち!あなたたちこそ「目ざめよ‼」  それはともかく、テレビその他のメディアによく出た、あの統一教会信者2世の女性は、自分を「宗教2世」と言っていましたが(あるいは「宗教3世」と言う者もいるようですが…)、上記の番組で「被害者」の女性が「『エホバの証人』3世」と言われているように、(元)統一教会信者2世のあの女性も正確に「(元)『統一教会』信者2世」と名乗らないといけないと思います。その点は釈徹宗先生もETVの「こころの時代」(宗教は女性と子どもを抑圧する?| 宗教と家庭・性・子ども |「徹底討論 宗教と“カルト”」シリーズvol.3 )で言っておられました。反社会的集団の「統一教会」信者の2世が自分を「宗教2世」などと名乗ったら、普通の、カルトではない宗教の2世信者は、自分たちが属している宗教を、統一教会なんかと一緒にしないでくれ…と思うでしょう。特に伝統宗教とカルト宗教とを一緒にして「宗教」と呼ぶなんて、伝統宗教の信者に対してとても失礼なことです。テレビ局は、そんなこともわからない人たちが番組を制作しているんですからなにをかいわんやです。この点は私もテレビ局に問合せたりしたのですが、世間ではカルト教団の信者の子も「宗教2世(3世)」で通用してるからいいだろう…みたいな主旨の、実に不真面目な回答が来て、自分はあらためてテレビをはじめとするメディアというのは信用ならんなあ、諸刃の剣だなあ…、と思いました。ある立場の人にとっては、テレビなどのマスメディアは自分の人権を擁護する側に立つ場合と反対に自分の人権を傷つける側に立つ場合とがあるんだな…と実感しました。      

     
                     

  • noah noah

    エホバの証人について誠実で率直なご指摘をありがとうございます。実は私もJW2世ですが、言うことを聞かなかったときに親にお尻を叩かれましたね笑。当時のエホバの証人でもお尻を叩かない親もいました。各家庭の子供の育て方は違いましたね。40年から50年前、体罰が当たり前のようになされていた時代でした。報道などで、尻を叩くと言うことを宗教のせいだ虐待だと短絡的にたたくのはどうかと感じますね。もちろんそれが本当の虐待とまでいくなら話は全く違いますが、基本的にはお尻ペンペンでしたから、親の愛として受け止められたら訴えている子供たちも感謝の気持ちも沸いてくるのではと思っています。ここ最近は社会的にも体罰自体が非とされるようになりましたから、JWの親も同じだと思いますが… 。 輸血に関しては、ご存知のように「血を避けなさい」という聖書のおきてを重要視している訳ですが、子供に良い治療を施したいという親の気持ちは変わりませんし、神から与えられた命を大切にするのは当然だと思います。今は輸血死のリスクもようやく知られてきましたので、それらを踏まえてベストな判断をする必要があると思います。医学資料になりますが載せさせていただきます https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/iyaku/kenketsugo/2j/dl/2j-c_0071.pdf&ved=2ahUKEwjl1vCZ9_b8AhUaH3AKHULQB_AQFnoECAsQAQ&usg=AOvVaw2hL6nwrYsGnpnWraCGOsCr

    https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v12/n7/%E8%BC%B8%E8%A1%80%E3%82%92%E6%B8%9B%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%A6%E5%91%BD%E3%82%82%E6%95%91%E3%81%86/64894

    いずれにしましても、報道内容も神学も皆様にしっかりと根拠を伝えることが課題だと感じております

  • >とかく私たちエホバの証人は「異端」とされ排除されがちですが…  はい、その点が、自分は一般のプロテスタント信徒とは立場を少し異にする点です。今の時代、宗教界において排除すべきは「異端」ではなくて「カルト」だと思うからです。一般社会ではもちろん、キリスト教界内部でも「異端」と「カルト」を混同している人たちが多く、またキリスト教会においても、この両者を適切な定義によって区別し得ているかと言えば大いに疑問です。また、現状では実際に「異端」を自教団から追放する,排除するといったことをやっているところは、すくなくともプロテスタントには珍しいと思うし、社会が民主化されて思想・信条の自由が保障され、内心の自由が尊重され、多様な価値観が認められている現代においては、一教団の内部においても信条や教義理解の違いなどは、指導者・教職者にとっては資格の問題にもなるので重要事項ではありますが、一般信徒にとっては「異端」であるか否かなど、入会において審問的なことがある場合でも形式的な意味しか持っていないと考えます。と言うのは、教会が「異端」を審問して刑罰に処していた時代と違って、科学が発達して信徒の教養と情報量が格段に増えている現代においては昔のようなわけにはいきません。宗教界においても教典解釈であれ何であれ、多数の信徒が各人の意思を抑制せずして大部分での一致を得ること自体、土台無理であって、言わば最大公約数的共通理解での一致を図ることが現実的だからです。そうであれば各人の信仰内容を厳密に測って「正統」か「異端」かを吟味することなど不可能だし、そのような必要もありません。日本のプロテスタント教会の多くは、従来、いわゆる「エホバの証人/JW」(法人名:ものみの塔聖書冊子協会)や「モルモン教」(法人名:末日聖徒イエス・キリスト教会)を、「統一教会」(法人名:世界基督教統一神霊協会、[現]世界平和統一家庭連合)と同列で「異端」として扱ってきました。しかし「統一教会」は他の2者と比べて反社会性が高く、明らかなる「カルト」です。「エホバの証人」をカルトと言って被害を訴える人々の中にはおもに児童虐待の指摘が見られますが、それが「カルト」と認定されるだけの反社会的行為としてどのように客観化し得るかが問題です。すくなくとも自分は、「エホバの証人」がいわゆる「カルト」とみなされる要素を有するとしても、「統一教会」や「オウム真理教」などと比べれば、その反社会性ははるかに軽いと想像します。そしてその程度の「カルト」性ならおそらく自分からみればマスコミが「反社会」的と大騒ぎするほどの加害問題は出てこないと思うので、「エホバの証人」が自己修正して「非カルト」化しようと思えばできる程度のことだろうし、そうしてくれるものと楽観し期待します。要は子どもをムチ打つようなことをしなくなればいいし、輸血拒否問題もすくなくとも未成年については教義に関係なく輸血はするということにすればOKでしょう。それくらいの柔軟性と自己改革能力は、どんな組織であっても社会に存続しようと思えばやるべきだし、その気になればすぐにやれることです。そもそも時代にかかわらず、およそ救済宗教を名乗れるだけの宗教団体は自浄作用あってのものです。「モルモン教」ともなれば「カルト」とは思っていません。ただし「異端」の程度では「モルモン教」の方が「エホバの証人」より上だと感じます。と言うのは、肝心の信仰対象である「神」が「モルモン教」の場合はあまりに非聖書的であり異教的だからです。旧「統一教会」は「異端」としても「カルト」としても、諸宗教の中で突出していたと言えるでしょう。

  • noah noah

    もしオープンチャットにご参加くださることがおありでしたら、チャットで用いられているお名前をこちらにて教えてくださいましたら、私の励みとなります。私は「Noah」で参加しております。 あちらでもお会いできることを楽しみにしております…

  • noah noah

    yhwhist2023様 早速のお返事に感謝いたします。とかく私たちエホバの証人は「異端」とされ排除されがちですが、yhwhist2023様が偏見なく交流してくださることに心より感謝申し上げます。私としても今回 yhwhist2023様のように、聖書から父子従属を論じられるプロテスタント教会の方と出会ったのは初めてで、とても嬉しく感じております。オープンチャットの方も前向きに検討してくださりありがとうございます。このオープンチャットにはヘブライ語、ギリシャ語による聖書を研究されている方々もおられます。キリストが「造られた」か「生まれた」かはさておき、まずは唯一まことの神についての真理を、聖書を愛する多くの方々に知っていただく点でyhwhist2023様の働きに期待しております

  • noah様、御返答頂き感謝申し上げます。私はあらゆる立場の方々に対して是々非々で応じているので、JWの方々に対しても共感し合える点では交流したいと思っています。その点で今回、noah様との接点が得られたことは主の恵みであると思います。父子従属が聖書的真理であることの確信を強めることができました。ご案内下さった「キリスト教全般 聖書の学び 聖書探求」への参加も前向きに検討してみたいと思います。

  • noah noah

    yhwhist2023様 コメントいただいたNoahでございます。こちらの考察を読ませていただきました。 聖句や多くの文献より、父子従属が全く聖書的であることを示してくださいました。創造主はみ父であり御子は仲介者である、御子の権威はみ父から与えられたもので、最後には全てをみ父に返し、全ては父なる神のものとなる。そして何より、唯一まことの神はみ父である。全くその通りです。多くの根拠を基に書いてくださり、ありがとうございます。
    私はエホバの証人ですから、御子はみ父による創造のみ業の初めと解釈しています(箴言8:22-31。コロサイ1:15) しかしヘブライ1:3,4が述べる通り、神の本質を完全に表しておられるお方であると信じています。「神の子は,神の栄光を反映し,神の本質を完全に表していて,力強い言葉によって全てのものを支えています。そして,私たちを罪から清めた後,天で威光に輝く神の右に座りました。 こうして神の子は天使たちよりも優れた名を与えられ,天使たちに勝る者となりました」
    ところで、私は今LINEのオープンチャット「キリスト教全般 聖書の学び 聖書探求」に参加しております。プロテスタントの方によるオープンチャットでして、「キリスト教」教派の垣根をこえて聖書そのものから 聖書の真理を探すという趣旨でなされています。ほとんどの方はプロテスタントで、カトリックの方も少々、エホバの証人は私ともうお一人だけです。このオープンチャットで私は少しでもみなさんが聖書の真理に戻れるよう(あくまで私の知識と解釈の範囲内ですが) 父子従属の正しさについて論じようのしてきたのですが、多くの方は御子をみ父と全く同等と見ておられたり、ヤハウェはイエスであるとの理解のため、難しく感じております。 もし可能でしたら、深い知識を持たれるyhwhist2023様にもこのオープンチャットにご参加いただけるなら、(もちろん私との解釈は違うことは存じておりますが) まずは他の皆様の新たな発見と真理探求の一歩になるかと思いました… またよろしければご一考くださいませ

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