0 第一章第三節「嚆矢」

「今は皆忙しいからな。……あぁそうだ。せっかくの機会だ、キミとひとつ話したいことがあってね。」
楽しそうに目を細めるへストがこちらを見据える。そしてルカが口を開く前に再び問いかける。

「キミは考えたことがあるか?この世界が実は作り物でこの世界の外には別の文明と生物が存在し我々の世界を管理していると、ね」

「…はぁ?」
……急に何の話だ。思わずルカの顔が歪む。しかしそんな様子には目もくれずへストは話を続ける。

「そうだな…もっと具体的に説明しようか。例えば、つい数分前までこの世界は存在せず、我々は肉体と記憶を与えられた状態で今この瞬間に存在させられた。」

「我々には歴史がある。記憶がある。祖先が紡いできた物語が、今がある。しかしこれら全てが作り物でみなに等しく共通認識として植え付けられたものだとしたら?我々は一体何者なのだろうか」

_______目的に沿い等しく作られた命に、生など存在するのだろうか?

思わず口を噤む。自分がしてきたことは世界をほんの一瞬、揺らせたか否かのようなものだ。途中で投げ出せる規模は越えてしまった。そんな多くの命を、己の全てを犠牲にして得たそれがもし、もし全くの無駄だとしたら、自分は…

「太古の昔、神は初めに天と地とを創造した。」

唐突に始まったそれは、まるで歌でも歌っているかのようだった。

_____地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天と名づけられた。
夕となり、また朝となった。第二日である。

「…創世記、天地創造」

「あぁその通りだNo.11……いや、ルカ・エリオット。さすがは教祖様と言ったところか?」
手を叩く、乾いた音が辺りに響く。

「このように西洋の……いや、宗教の多くは一神教であり、且つ神は”世界の外”に存在する。我々は彼を認識することはなく、しかし彼はその一声で光をもたらし闇を支配する。水は暴れ種は選ばれ、より理想へと天啓を遣わす。大地をもって天に届くことはなく、しかし神夢は我々を天へと導いた」

意外だった。彼は宗教などといったものはむしろ毛嫌いしそうな人種だと思っていたから。なんて思っていればまるでその思考を読み取ったかのように、へストが笑みを浮かべる。

「意外か?ワタシがこういう話をするのが」
「…まぁ、リアリストで効率厨のアンタが1番嫌いそうじゃん」
「あぁ…なるほど。確かにキミのとこのような中途半端なものは嫌いだよ。」

……相変わらずいちいち癪に障る。

「しかし結局のところ、宗教もまた思想の一つだ。資本主義も社会主義も一種の宗教だとワタシは考える。故に多くが陋劣で醜い。……そこがいいという人間もいるがな」

個が存在するから思想が生まれ、思想が違うから争いが生まれ、争いが生まれるから個が生まれる。人間は高い知能と思考力を持ちながらもそれを繰り返す。そうして何度も何度も、何度も何度も何度も繰り返してやっとたどり着いた先には一体何が残っているにだろうか。
……たどり着くことすら出来ないのかもしれない。

「我々は何を持って個を個と認識しているのだろうか。肉体か?記憶か?それとも”心”か?肉体の場合、例え中身が違くともそれは同一人物と言えるのか。逆に記憶や心の場合、入れ物が変わったとしてそれは同一人物と言えるのか。複製はオリジナルと成りえないのか」

「なぁルカ・エリオット。キミは今、何を持って存在している?」

╾​───────╼

「皆さん、準備は大丈夫ですか?」

綺麗に整列した犯罪者達にパドラが声をかけた。血に塗れる前の制服に身を包み、ゴーグルをつけた彼らから返ってきたのは無言の肯定だ。

「では、今回の任務の説明をしますね」

パドラは手元のタブレットを操作して、そして顔を上げる。半分以上がゴーグルに覆われて見えないが、今までのどの任務の時より硬い空気を纏っているのが感じ取れた。

「今回の任務は今までと違い、都市部での大掛かりなものとなります。予め設置された爆弾が起動したのを合図に我々はテロを模して都市を襲撃、各自オネイロスを倒してください」

都市部の襲撃。今までよりも大きな任務。その驚きはどれほどのものだっただろう。一瞬だったかもしれないし、永遠に思えるほどのものだったかもしれない。とはいえ、思考を止めている時間はない。

都市部と聞いてそれぞれが思い浮かべるのは、高層マンションやビルといった建物、それから際限なく湧き出る人間だろう。仕事に向かう人、遊びに行く人、買い物に行く人......多くの人が密集する場所であることに違いはない。
もしその中に、オネイロスに寄生された人間が一人でもいたら?
人間に擬態して人間のように振る舞い、当たり前の生活をして数を増やし続けているとしたら、いったいどれだけの人がオネイロスに寄生されてしまっているのだろう。

「目的地はここから離れているので、移動時間もこれまでより多くかかります。把握しておいてください」

すらりとした手が真っ直ぐにあげられる。視線を集めたのは桜子だ。パドラが桜子の発言をを許可すると、彼女は口をきる。

「話の途中にすまない。今更かもしれないが、監査官は今どこに?今回の任務はパドラだけで進めていくのか?」

彼女の言う通り、その場にへストの姿はない。今までも任務の説明はパドラがしてきたが、そこにはたしかにへストの姿があった。彼がいないのは初めてのことだ。

「それなら…...」
「呼んだか?」

扉の奥から聞こえたのはへストの声。しかし、その声の位置にどこか違和感を感じる。ゆっくり姿を現した彼に、誰かが驚きの声をあげた。
彼自身の顔色が悪いわけでも四肢が欠損しているわけでもない。異常があるとするのなら一つ。彼がその身を預けている車椅子だろう。

「へストさん、それどうしたの?」
「今日は足の調子が悪くてね」

日常に流されて忘れがちになってしまうが、へストはもともと足が悪く杖を使用している。そんな彼が車椅子を使うことになんの問題もない。

「大丈夫なのか?」
「キミに心配されるほどじゃない、No.01」

車椅子を器用に操ってパドラの傍に来ると、二人は少しの会話の後死刑囚達に向き合った。彼らが並ぶ姿は見慣れたものだが、たった一つ違う要素が入るだけで全く知らないものになったようだ。

「ねえ、ちょっといい?」

なんでしょう、とパドラが答えたのはルカだった。

「都市部でのテロを模した襲撃、って言っても……この人数でやるつもり?」

その場にいた全員がハッとする。どうしてそんな簡単なことに思い至らなかったのか不思議になる。No.A所属の人間に対し、都市部に住む人間の人口を考えればあまりにも無謀な任務だ。もはや死ににいくのとなんら変わりはない。だが例え元死刑囚だろうと、死にたいだけの人間はMILに志願したりしないだろう。

「説明がまだでしたね。今回の任務はNo.B、No.Cの方々との共同任務になります。直接的に皆さんが交流をすることはありませんが………それだけ大掛かりな任務だということは、頭の片隅に置いておいてくださいね」

MILのオネイロス討伐のための部隊はNo.Aだけではない。今回に限った話ではなく、各地に出現するオネイロスの討伐もNo.Aだけでは手が回らないのだ。

「他の部隊の者達の顔も見えるのか?」
再び篝火が、今度は己のヘッドセットに手を当てながら質問をする。

「他のみなさんの顔は見えません。”コレ”の連携数には限りがありますので……ほら、私や他のスタッフの顔も見えないでしょう?それと同じです」
「見えないの、寂しいね…」
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ヴァンは眉をハの字に下げて悲しみを露わにした。そんな空気の中、ヘストが痺れを切らしたように口を開く。

「もういいか?ヘリの準備は整っている」
「そうですね。へストの言う通り、そろそろ向かいましょうか」

パドラが口元だけで笑みを作ると、彼もつられるようにして僅かに口角をあげた。その笑顔の真意は、誰にもわからない。

「それじゃあ、キミ達の活躍を期待しているよ」

╾​───────╼

都市部での戦闘は熾烈を極めるものだった。以前赴いた村などとは比べ物にならないほどの多くの人がオネイロスに寄生されている。傀儡も同然の状態。No.B、No.Cの人達と協力しているとはいえ、数の暴力は凄まじい。

どさり、と桜子のそばでオネイロスが倒れ込んだ。複数の打撲痕が痛々しい。聞くまでもなく、彼女が倒したのだとわかる遺体だった。
そしてまた一体のオネイロスが彼女に向かう。一撃、二撃とかわして相手の隙を作ると、核と核を繋いでいる糸状のものに目がけてダガーを振りかぶった。しかし繋がりを絶つには至らない。動きは鈍くなりつつも、また向かってくるオネイロスに桜子はもう一度ダガーを振りかぶり、今度こそ核と核の繋がりを絶った。
無惨にも核は地面に転がり落ちる。少し進んだところでそれは止まり、オネイロスの体は音を立てて崩れ落ちた。
倒しても倒しても、オネイロスは数を増やして何度でも向かってくる。まるで終わりの見えない戦いだ。それでも彼らにはこの道しか進むことができない。
小さく息をして、横目で周囲を見渡す。

「...人間ほどの知能はなさそうだけど、仲間が殺されて怒っているのかな?」

桜子の周囲には無数のオネイロスが集まりつつあった。無闇に近づくことをせず、少しずつ距離を詰めている。先程オネイロスを殺した桜子を見て迂闊に近づいてはいけないと学習したのだろうか。
暫しの膠着状態。呼吸の音が死の合図になるのではないかと錯覚させる数秒間。その空間に亀裂をいれたのは、オネイロスでも桜子でもなかった。

瞬間、左後方からオネイロスの首が飛んでくる。飛んできた方を見れば、今度は焦ったような声が飛んできた。

「桜お姉ちゃん、危なかった…!」
「ヴァン!」

彼は桜子の無事を確認してすぐ、襲いかかってきたオネイロスの核めがけてノコギリを振り落とした。おそらくLv4、もしくはLv5と思われるオネイロスは地べたを這いずり、ヴァンの足を掴む。既に核を一つ潰されているとは思えない力の強さだった。
しかし好都合。ヴァンはノコギリを構え直すと、足元にあるもう一つの核に向けてノコギリを振り落とした。どこまでも赤い血が辺りに飛び散る。ヴァンの足を掴んでいた手は力なく地面に落ちて、確実にその命を終わらせた。

「オネイロスがいっぱいだねー!頑張らなきゃ!」

次いでやってきたのは色葉だった。両手にあるマチェットは血に塗れている。

「待て犬っころ!勝手に一人で行くんじゃねえ!」
「えー?ミアくんが遅いんじゃないの?」

色葉に追いついてきたのはマリアだ。戦場であるというのにぎゃあぎゃあと言い合いをはじめる姿に、桜子は苦笑した。

「喧嘩、良くない…」
「まあ、喧嘩するほどなんとやら……って言うからね。とはいえ、その呼び方はどうかと思うぞ?」
「うっせーババア!」

間髪入れずに桜子のゲンコツがマリアに落とされる。

「イッテェー!!!」
「私はまだ二十代だと言っただろう!」

今度はマリアと桜子の言い合いが始まった。止まらないやり取りにヴァンはオロオロするばかりだ。

「ここ、オネイロスいっぱい、危ないよ…!」
「ああそうだったね。すまない。こんなことをしている場合ではなかったね」

頭を撫でられたヴァンが僅かに綻んだところで、桜子は拳に嵌めたナックルを握り直した。色葉とマリアもそれぞれの武器を構える。少しばかり緩んでいた空気が引き締まった。

「こんだけいりゃあ楽勝だな!」

マリアの振るう鎌が、手近なオネイロスの核を破壊した。死ぬこともできずに苦しみに悶え、その場に留まっている。ぼたぼたと血溜まりを作り、動かないそれにマリアはもう一度鎌を振るった。
四人は次々とオネイロスを倒していった。核を潰し、繋がりを断ち、ポイントはどんどん加算されていく。どんどんどんどん、オネイロスという命の灯火が消えていく。

一つ息をついて頬を伝う血液をマリアが拭っていると、突然背後から腕を引かれる。油断した、オネイロスか。そう思ったが、視界の端に映るのは暖かい赤と優しい緑の髪。
考えなしに前線に突っ込んではとっつまえて引き止めていた彼女だ。自身の腕を引いたのは乙宮色葉、その人だ。
もしかしたら、今更自分の扱いが気に入らないと邪魔でもしに来たのかもしれない。咄嗟にそんなことを考えたが、すぐに思考は引き戻される。何が何だかわからないまま、声をあげた。

「っなにすん____」

ぱっと花が咲くように。花火が空高く打ち上がるように。

.........ぐっと堪えるような声と同時に、赤い赤い血が舞った。

は?という気の抜けた感想がでた。目の前の現実を受け入れる前に直感で理解した。

ヘッドセット越しでもわかる。痛みに堪える声。表情。自分はまた、庇われたのだ。また、自分の代わりに人が傷ついたのだ。

「っおい!乙宮!」
「だいじょーぶっ!」

とてもかすり傷とは言えない怪我を負っていた。断続的に痛みがあるだろうに、なんともなさそうな顔で彼女は動く。その向こうにLv4相当と思われるオネイロスの姿があった。おそらくマリアを狙ったのだろうが、邪魔をされて激昂したのか標的を色葉に変えていた。
寸でのところで屈み、一撃目を避ける。そのまま左手に持ったマチェットで足を切りつけた。運良く太い血管を切ったのか、思いきり血が吹き出す。それは勢いのまま色葉のヘッドセットを汚し、彼女の制服を汚した。
人間の体を乗っ取ったオネイロスにも痛覚はあるのか、動きの悪くなったオネイロスを再度切り付け、右手のマチェットで核と核の繋がりを切り落とす。ごとり。重力に従いあっけなく落ちる頭部は見ていて恥ずかしい。
ふう、と息をついた彼女の様子はたいして変わらないように思える。しかし、その表情に滲み出る感情は、とても一つの命を摘み取ったとは思えないものだった。
何事もなかったように戦闘に加わろうとする彼女を、マリアが襟を掴んで引き止めた。
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「おい!」
「ん?どうかした?」
「どうかしたじゃねぇだろ!」

色葉はマリアの言葉の意味がわからないといったふうに首を傾げた。それを見た彼は行き場のない感情を乱雑な叫びに変換。今度は呆れたようにため息をつく。

「あー……さっきは助かった。けどこれ以上戦いに参加するなら、先に手当してからにしろ」
「えー?大丈夫だよ!ほら」

そう言って色葉が見せた傷口は確かに命に関わるほどのものではない。同じ場所に攻撃をくらわない限りは、この戦闘の間はもつはずだ。
だが、それを免罪符に処置を怠れば悪化するのは目に見えている。そうなった場合辛いのは彼女の方だ。

「つべこべ言わずに大人しくしろ!」
「もー!大丈夫だって言ってるのに!」

だんだんムキになってきたのか、少しばかり語気が強まる。それでもやはり戯れのような空気がそこにはあり、二人の関係性が表れていた。

「またやっているのか……」

桜子が呆れたように呟くと、オネイロスの首を飛ばしたヴァンが何事だと顔をあげる。
最終的に色葉が彼からの手当を受けることで決着がついたようだ。その間二人を守るようにして桜子とヴァンが立ち回り、手当を終えた彼女は彼にお礼を言って、元気に戦闘に舞い戻った。
マリアはまた彼女の手綱を握るために追いかける。同じように彼女を「犬っころ」と呼び、桜子に注意され悪態をつき、仲のいい口論が再戦しかける。ヴァンがそれを止めて、今度こそ四人はオネイロス討伐のための戦いに帰っていく。
マリアは静かに敵を見つめた。その表情はどこまでも固い。握りしめられた拳は血に塗れてている。その手が優しい青に包まれたとて、彼の心が安らぐかどうかは、わからない。

╾​───────╼

「……っ!マドレーヌ、後ろだ!」

クルスヴァイスは声を張り上げる。叫びは空間を縫うようにしてマドレーヌを刺激し、身の危険を回避するように身体を捩らせた。僅かに当たらないものの、後一歩でも遅ければ致命傷を喰らっていたであろう力強い一撃に肝を冷やし、その思考を一瞬にしてないものと考えるよう頭を振った。キッ、とオネイロスを睨みつける。まるで貫いてしまうのではないかと錯覚する程に、強く、強く。しかし口元は愉悦を隠すことなく、確かに弧を描いていた。
既に元の色を失くした愛用の斧を握り締め、大きく振りかぶる。風を切る音と共に振り下ろされたそれはオネイロスの頭部を深く突き刺した。そこに抱えていた核は一瞬にして破壊され、切り口からは尋常ではない量の血が吹き出している。マドレーヌはその返り血を気にする素振りも見せず、立て続けに周囲を彷徨うオネイロスの頭を、首を、胴を、生命を断ち切る。散り散りになった身体。置き去りにされた武器。それらを踏みつけて、また新しい命を奪ってゆく。それがヒーローの使命であるからと疑いもせず。

暫くして、漸く周囲を見回す余裕を持ったマドレーヌは、近くで同じようにオネイロスと戦いを交えているクルスヴァイスに視線を向けた。修復されたとはいえ、例の腕が気がかりだったのだ。
しかしそれは杞憂に過ぎなかった。クルスヴァイスは後遺症をものともせず、両手に構えた大剣を横に一薙する。その強大な力と風圧に圧倒され倒れ込む者、慌て逃げ出そうとする者が後を経たない。それを易々と見逃す程甘くはなく、大剣に引っ張られゆったりと助走をつけながらも走り出した。今度は縦に一線を切り込み、一体、また一体と体力を奪ってゆく。その度にノイズが混じった幾数もの叫び声が耳をつんざき、身体の奥深くに反響した。

マドレーヌは視界の先で繰り広げられる安定した光景に安堵を覚え、自らの方に集中しようとして――気付く。

「クルちゃん、あれ!」

クルスヴァイスに届くよう声をあげ、遠くを指さす。マドレーヌが指した先。そこにいたのはなんてことない、ただのオネイロスだ。……それが思わず腰を引かせる程の体躯且つ、Lv5相当であることを除けば。

「はあ!?なんだあれ、デカ過ぎんだろ!」

周囲にいるオネイロスに混じり異彩を放つその存在の両手には、クルスヴァイス並でこそないがそれでも十分に巨大な剣が握られていた。幾度となく対峙したことはあれど、ここまでの図体を持つオネイロスをそうは見ない。辺りの空気が重々しく張り詰める。緊張感からか身が引き締まり、ピンと背筋が伸びる。
オネイロスは視界にクルスヴァイスを映すと、勢い任せに駆け出した。足音を重く響かせる。小石を何度か蹴る音が届く。クルスヴァイスの脳裏には、確かに危険信号が出ていた。
風の流れに身を委ね、一歩を強く踏みしめて、オネイロスは血液一滴つかない真っさらな剣をクルスヴァイス目掛けて振り下ろす。身を守ろうとクルスヴァイスが咄嗟に大剣を顔の前に構えると、金属同士がぶつかる甲高い音が耳をじんわりと痛めつけた。
ありったけの力を込めて押し込められる。それに抗うように、クルスヴァイスも力を込めている筈、その筈だ。しかし、一度切り離された片腕が感覚を狂わせる。まるで腕が機能をなくし、脱力しているかのように錯覚する。そんなこと、ある訳がない。現にこの腕は未だ痺れを伴っている。神経が今も尚繋がれていることなどわかっているのに!
圧迫感に押しつぶされる。喉が獣のように声をあげる。後ろへ徐々に身体を退け反らせて。

「ぐ、ぁ、やべ……っ、!」

コンクリートの僅かな窪みに足を取られた。バランスを崩したクルスヴァイスは硬い地面に勢い付いて腰を下ろす。日の光に照らされ稲妻のように輝いていた大剣は、轟音を立ててクルスヴァイスの手の届かない影へと放られる。目の前にはオネイロス。動きがやけに緩やかだ。
じり、と近寄られる。オネイロスが、自身に影を作る。今度こそ、と言わんばかりにギラつく瞳。再び振り上げられた、煌めく銀の剣。近くに聞こえるマドレーヌの怒号を背に、目を閉じる。
そうして彼は、二度目の死を覚悟した。

……空を切る音。
……何かを掠める音。
……ぴちゃと跳ねた音。
……ノイズ、それから息を呑む音。

――――そして、誰かの呻き声。聞こえるはずのない、その声。

ふと掛けられた体重に心臓が跳ね上がり、驚きから目を開けた。

どくりどくりと波打つ鼓動。視界はターコイズとまだらに染め上げられた赤色。身動きがとれないでいれば、すぐにふわりと軽くなり、視界が開け光が差し込んだ。あまりの眩しさに目を細める。慣れれば、人影の正体が明らかとなった。

そこに、マドレーヌが表情を僅かに歪ませながらも笑みを向けているではないか。

「大、丈夫?」

思考が、追いつかない。しかし事実、クルスヴァイスはマドレーヌに助けられたのだと状況が表していた。マドレーヌは傷を負ってはいないのだろうか。不安になり、まだ心なしか呆けながらもクルスヴァイスは問いに答えようと口を開く。

「俺は大丈夫、助かった……、けど、それよりアンタの方こそ怪我してねぇか!?」
「マドレーヌはヒーローだもん、こんなのなんてことないよ!」

明るく身体を動かして見せるマドレーヌに無理をしている様子がない、とは言えない。しかし実際そこまで傷は深くないのだろう。痛みをそれほどこらえているようには見えず、クルスヴァイスはやっと張りつめていた息を吐いた。
それでも問題が解決したわけではない。オネイロスは息を荒くし、現在進行形で二人を狙っている。マドレーヌは立ち上がると首を後方に傾け、ヒーローと呼ぶには似つかわしくない悪い顔を向けた。

「それより、クルちゃんを傷つけようとしたオネイロスちゃんにキツーいお仕置きをしてあげないとね!」
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言うが早いか斧を持ち直す。いつ襲い掛かってくるか分からない。マドレーヌはじぃ、と慎重にオネイロスの動向を伺う。
その様子はどこか焦りに満ちている。恐らく二人掛かりは分が悪いと踏み、短期で決めるつもりだったのだろう。しかし予期せぬマドレーヌの登場が手元を狂わせてしまった。考えが確かであれば、知能や感情がそれなりに備わった個体であると予測できる。すぐにでも二人を倒したくて仕方がないだろう。

想像通り、先に痺れを切らしたのはオネイロスの方だった。雄たけびを上げながらマドレーヌへ突進してくるそれは剣を構え、心臓を目指していた。当たってしまうのではないか、といった恐怖心がひやりとマドレーヌの背筋を凍らせる。しかし冷静さを欠いたオネイロスの攻撃は簡単に避ける事が出来、マドレーヌは反撃の隙を探した。
だが相手も考えなしではない。斧を振るう際、必ず何処かに隙が生まれてしまうことを理解している。長時間にわたって戦闘を繰り広げているせいもあるだろうか、マドレーヌが作る隙を見逃さず、オネイロスはマドレーヌの攻撃を体躯に見合わぬ機敏さでかわした。

「もう!全然当たんない!」

拮抗した戦いが続く。マドレーヌの方が体力面において分が悪く、このままであれば先に動けなくなるのは彼女の方に違いない。
クルスヴァイスは暫し考えたのち立ち上がると、放られた大剣を拾い上げた。その固定部分を外すと大剣は姿を変え、少し奇抜な二本の剣となる。クルスヴァイスは一本を地面に置いたまま。もう一本を左手に持つと、少し躊躇いを含み、そして駆け出した。

「……っ!俺がアイツを引き付ける!後は頼むぜ!」
「えっ、ちょっとクルちゃん!?」

足音が軽快にリズムを刻み、剣の重みが軽減されたおかげか先程とは比べ物にならない速さでクルスヴァイスはオネイロスに突撃してゆく。オネイロスもその予想外の行動に驚きを隠せず、時が止まったかのように動き出す事が出来ない。そりゃさぞかし好都合だ、とクルスヴァイスは最後の一歩を飛び込むように歩みだした。狙うは、その腕。

「おらッ!」

太陽の下。輝きを帯びた稲妻が放つは、まるで閃光。前に、前にと急かし突き出した刃は肉を断つかの如く腕を貫いた。金属と地面が接触する。呻くオネイロスは行動をすることなく痛みに悶えているが、万が一反撃されることを危惧し僅かに血液が付着した銀の剣を足で蹴りつけた。それはガラガラガラと音を立てて回転し、オネイロスの遥か遠くへ位置する。
攻撃手段を失ったオネイロスはせめて逃げ出そうと身を捩った。しかし、クルスヴァイスが作った隙を無駄にし、悪をのさばらせるマドレーヌではない。
マドレーヌはクルスヴァイスに被弾しないよう、後ろから核を破壊しに掛かる。斧を構え、核と核の繋がりを目掛け、勢い良く、振りかぶる。けれども分厚いそこはそう簡単に切れはしない。だからマドレーヌは、繋がりを断ち切るまでその手を止めない。

「ころす、ころすころすころす!ころす!」

顔に大量の飛沫が掛かる。マドレーヌの絶叫が響く。オネイロスの悲痛な叫びを脳裏に焼き付ける。何度も、何度も、切って、切って、切って!……あ、落ちた。

ころころ、ごろり。頭部が転がる。切断面から流れ出る赤が、道を描く。息絶えた。完全に息絶えたのだ。死の恐怖から解放される。クルスヴァイスは頭部との縁を絶った胴体、腕の部分からそれを引き抜くと、しゃがみ込み、長い長い息を吐く。緊張感が解けたのか、漸く表情に安堵が浮かんだ。
当のマドレーヌは何事もなかったかのように鮮血に塗れた斧を引きずり、顔面の血液はそのままにゴーグルだけ袖で豪快に拭うと、クルスヴァイスに顔を向ける。

「クルちゃんったら!無茶するんだから!もう!」
「それは……わりぃ。いやでもアンタだって無茶しただろ?」
「えー、だ、だってクルちゃんが死んじゃうかもしれなかったし……」
「あー……それじゃあお互いさまってことで!はいこの話終わり終わり!」

語気が弱くなるマドレーヌを気にして、クルスヴァイスは半ば強引に話を切った。いずれにせよ、この話題に関してはどちらも互い様だ。

「さーてと、とりあえず倒すもんも倒したしみんなのとこ戻るかー」
「うんうん!ヒーローにも休息は必要だからね!」

マドレーヌは感情をその身で表現するように元気よく両手を握りしめる。皆を照らす太陽のような笑顔が、血に塗れたその顔を気にもさせない。そんなマドレーヌの様子に釣られ白い歯を見せたクルスヴァイスはうんと背伸びをして、剣のもう半分を拾いに戻る。元の形に戻った大剣を右手に持ち、コンクリートと擦り合わせながら歩みを進め始めた。
ガラララと周囲に響く固い物が触れる音を後方で耳にして、徐々に広がってゆく違和感にクルスヴァイスは人知れず目を細める。そこに痛みはない。しかし先程クルスヴァイスを苦しめたこの腕が伴う痺れが、あの暗闇の中に抱いた恐怖を思い起こさせた。

瓦礫の下、繋がれた二人の腕。抜け出す事の出来ない己の体が彼女の足を引っ張った。荒く切断された切り口から溢れる深紅を否が応でも捉える。助けを呼びに向かった彼女を待つ間、何もできない自分が酷く惨めに思えた。
しかし、彼女――“エリス”がいなければ、自分は今この場に立つことが出来ているだろうか。助けが来るかもわからない静けさが漂う闇の中、一人で何が出来たというのか。
果たしてその出来事は不幸だったのか。……それとも、幸運だったのだろうか。

「……エリス」

その名を思い浮かべ、口にして、クルスヴァイスの歩みは速度を落とした。まるで泥濘に足を取られたかのように。
本来であれば、仲間である彼女を先に思い出さなければならない。だというのに、クルスヴァイスの脳裏をよぎったのは自身を映す、ルビーのようにキラキラと輝いた瞳。ふわりと揺れる艶やかな黒髪。年相応というのだろうか、屈託なく希望に満ち溢れた表情を見せた幼い姿。
思い出したくもない。けれど思い出さずにはいられない、そんな年端も行かない少女の存在だった。エリスは必ず家族に会えるのだと信じていたに違いない。……そんな希望も、すぐに打ち砕かれてしまったのだが。

脳内でクラシックが流れ、止まない。それは実際に再生されているのではないかと疑う程に鮮明だった。絶望に染まった彼女の泣き顔が忘れられない。“赫”の瞳が己を捉えて離さない。まるで奥底の、本当の自分を見られているよう。
……本当の自分とはなんだろうか?頭の深部に突き刺されたような痛みが増してゆく。クルスヴァイスは咄嗟に俯き、こめかみを押さえた。

「クルちゃん?」

そんな様子に気が付くと、一足早く前方を歩いていたマドレーヌは踵を返しクルスヴァイスを下から覗き込んだ。
大量の汗を吹き出しながら、何かに耐えるように目を強く瞑るその姿に驚愕の眼を向ける。まるで正常とは言い難い姿に「クルちゃん」と再びマドレーヌが呼びかけた。
その声に漸く反応したのか、クルスヴァイスはぱちと瞳を見開く。炎のように燃え盛る赤は心なしか陰り、呆けてマドレーヌを見つめる。しかし実際に捉えているのは、マドレーヌではなく空虚でしかなかった。

「どうしたの?ついにクルちゃんもマドレーヌに見惚れちゃった?でもごめんね、マドレーヌにはヴァンちゃんがいるから……」

その視線が熱を持たないと知っていて、マドレーヌはクルスヴァイスを揶揄うような言葉を選ぶ。遊びを持った言葉にクルスヴァイスの意識は現実に戻り、影を見せていた表情は急速に熱を帯びた。

「え?……あ、いや、わりぃ!なんでもねぇっていうか、ちょっと考え事してただけっていうか!ほんとに!なんでもねぇから!」
「……ふうん?」

煮え切らないクルスヴァイスの返事に違和感こそ覚えはしたものの、マドレーヌはそれ以上追及することを良しとはしない。代わりに何を思ったのか、未だ困惑しつついるクルスヴァイスの両頬を上に引っ張った。にへら、と不格好な笑顔が出来上がる。

「あ!?な、にゃにふゆんやよまほれーぬ、いへぇはろ!」
「ふふーん、クルちゃんの笑った顔が見たいから笑わせてるの!……うん、やっぱりこっちのクルちゃんも可愛い!」

マドレーヌの奇行に更に混乱を極めたクルスヴァイスは、驚きに体を震わせる。今日はこんなことばかりだ、と頭の片隅で思考した。次第に変な笑いがこみ上げてきて、クルスヴァイスは持ち上げられた口の隙間から小刻みに空気を吐き出す。

「……ははは、は、あはは!なんだそれ!へんにゃやつ!」

呂律は上手く回らないが言いたいことは伝わったようで、マドレーヌは口元から手を離すとぷくぅと頬を膨らませる。そこから大変不満そうな感情を読み取ることは容易かった。

「へんじゃないもん!マドレーヌはマドレーヌだもーん!」
「そんなのわかってるって、ふ、く、はは……あー、笑った笑った!心配かけて悪かったよ、マドレーヌ。ほら、さっさといこーぜ!」

相も変わらずけたたましい音を奏でる大剣をリードよろしく引きずって、クルスヴァイスは今の今まで何事もなかったかのように、自然と口角を上げ走り出す。遠くから「待ってよ!」と叫ぶ声と軽やかな足音。風が靡く環境音を耳にして、血に塗れた道を駆け抜けた。

いつしか脳内を突き刺すようにぐるりと回り続けたクラシックが、鳴りを潜めていたことに彼は気が付いただろうか。

╾​───────╼

「...早く誰かと合流した方がいいね。眠眠達じゃ相性が悪いから」
「そう......ですね。とはいえ、この状況では.........」

建物の陰から大通りを覗き見ると、たくさんのオネイロスがひしめいていた。とてもじゃないが対応しきれる数とは思えない。二人の武器は遠距離攻撃に特化したもので、ただでさえ懐に入られると弱い。近距離をカバーできる味方がいない以上、無闇に攻撃して居場所を知らせるのは得策ではなかった。

「ここでじっとしててもどうにもならないよ。皆オネイロスを倒すので手一杯。眠眠が前に出るから、ユハニさんは後ろから援護して。せめてベアルかエリスと合流しよう」
「女性にそんなことさせられません!それなら僕が前へ……」
「ユハニさんより眠眠の方がいいよ。大丈夫。ミアさんにも教えてもらったから」

ユハニが納得した様子はなかったが、眠眠は大通りの方へ駆け出していく。一番近くにいたオネイロスが足音に気づく。だが、先に弓を構えた眠眠の方が早かった。その手を離れた矢は寸分違わずオネイロスの核を貫いた。しかし弱い。矢が刺さったままこちらに手を伸ばしてくる。自らの敵に一矢でも報いようと必死なようだ。
そんな様子を気にもとめずに、眠眠は躊躇なく、もう一度矢を放った。血に汚れたその手が眠眠に触れることはなかった。
とはいえ、眠眠が倒したのはたった一体に過ぎない。手が届くか届かないかの距離にまだオネイロスはいる。これではもう弓を使えない。彼女は携帯していた短刀を取り出した。勿論、遠距離の攻撃が専門の彼女にはその場しのぎにしかならないだろう。例えマリアから戦闘のイロハを教えてもらっていたとして、実戦経験がなければ心許ないものだ。それをわかっていたとしても、この状況ではやらざるを得なかった。

ほんの僅かな緊張を抱えてはいるが、彼に教えてもらったことを思い出せば自然と落ち着いた。焦っているわけでも油断しているわけでもない。いい緊張感だった。

短刀でオネイロスを殺すには技術が伴わない。しかし身動きを取れなくするくらいなら。せめて二人どちらかでもこの場所を通り抜けられるよう道をつくろうと、比較的オネイロスの数が少ない場所を瞬時に探し出した。そう考えている間にもオネイロスは彼女を捉え、襲い掛かろうとする。核を破壊こそ出来ないが、近い場所を目掛けることで少しでも動きを封じようと考え、身を守るようにオネイロスよりも早く下部の核を目掛け眠眠は短刀を突き刺した。
ユハニは先陣切って駆け出した眠眠をなぞるように、その周囲にいるオネイロスに攻撃させないように矢を放つ。精度良く次々と頭部の核を破壊していくユハニは、活発に蠢くオネイロスから眠眠を守ることに集中するあまり、彼女が対応したオネイロスにまで気を配る事が出来なかった。

眠眠の足が、弱ったオネイロスにつかまれる。火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか、その手はどれだけ振り解こうとも離すことを知らない。時間のロスとなりはするが、仕方なくその手を切りつけようと下を向いて、肩に痛みが走る。別のオネイロスが攻撃を仕掛けたのだ。眠眠は肩を抑え、しゃがみ込んでしまう。その様子に気が付いたユハニは眠眠の足をつかむオネイロスの手を貫き、立て続けにもう一体のオネイロスの核を破壊した。
更に威嚇するように矢を放つ。ぞろぞろと散るオネイロスの姿を見て、ユハニは肩を押さえる眠眠に近寄り、様子を伺った。

「ごめん、ユハニさん」
「いえ、後は任せてください」
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眠眠のおかげで、未だ蠢くオネイロスの集団は数を減らさないものの、それなりに戦う能力を失っている。今なら後方を何とかすれば、道が開けるかもしれない。眠眠の代わりに前に出たユハニは、遠くを目掛けて矢を放った。飛行する矢を避けようと、オネイロスは僅かながらに道を開ける。その隙を縫って、ユハニは弓を片手に持ちながら眠眠の手を引く。眠眠は驚きながらも抵抗することなく、長い髪を揺らした。
こちらへ向かってくるオネイロスの猛攻をかいくぐり、時には弓本体をも巧みに扱い、オネイロスに打ち込む。

彼らにも死にたくないという感情はあるのだろうか。知能、感情、その他多くの実態がわからないオネイロス。しかし、生き物である以上『子供』のオネイロスは存在するはず。ユハニの視界の端には、まるで親子のような体格差のある二人のオネイロスが写り込んでいた。本来なら殺さねばいけないものだ。けれど足を止めるわけにもいかず、今はただ生き残り皆と合流することだけを考えた。

大通りを抜けた先、ユハニの視界の端に映ったのは小さな子供。オネイロスに寄生されていない子供だ。周囲に親の姿はない。そして、その子供に覆い被さり今にも危害を加えんとするオネイロス。寄生されたのは男性だろうか、比較的大きな体が影を作る。無骨なその顔に感情はない。子供は座り込んだまま動かない。
半ば条件反射のように矢をつがえる。後ろにいた眠眠の驚いた表情が視界の端に映った。極度の集中。視界が前方のオネイロスだけを捉える。全てがスローモーションのようだった。狙うは頭……ではなく頭部より強度の低い首、核の繋がり。

放たれた矢が頬を掠める。そのまま矢は狙い通りまっすぐと吸い込まれるように核の繋がりを、命を絶つ。ぱっと花が咲くように、赤が広がる。
躊躇なく矢を構え、放つことができる距離だ。ユハニ自身が返り血を浴びることはなかったが、子供はその柔い頬や服を赤く染め、呆然としていた。
このオネイロスに寄生された人類のなかで、はじめて見つけた子供だ。なんとかして保護しなければ。いつオネイロスがここにくるかわからない。そう思い、ユハニは子供に駆け寄った。その後を眠眠が追いかける。

「もう大丈夫ですよ」

膝をついて目線をあわせ、できる限り優しい声で安心させるように話しかける。そして、血に塗れた手を差し出した。

「____!!!」

…ところが、子供は何かを叫んで後ずさる。その表情は恐怖一色に染まっており、ユハニは思わず戸惑った。行き場のない手が空を彷徨った。

「眠眠達のこと怖いんじゃない?目の前でオネイロスを殺してるし、顔もちゃんと見えないし」

後ろから助言が降ってくる。言われれば確かに、例え自分を助けるための行動だったとしても、目の前で生き物を殺す大人は恐ろしいだろう。やはり、迅速にこの子を保護するには、自分達が味方であると伝える他なさそうだ。

「ヘッドセットは……」

相手の顔がわからないのも、子供にとっては怖いだろう。犯罪者は顔を隠して素性を隠すし、目は口ほどに物を言うなんて言葉もある。コミュニケーションを取る上で、顔は情報の宝庫だ。

「ここならまだオネイロスもいないし、眠眠が見張ってるよ。ちょっとだけとったら?」
「ありがとうございます。…じゃあ、お言葉に甘えて」

そうして、ユハニはヘッドセットを外した。

まず最初に目に飛び込んできたのは、荒廃した土地。崩れ落ちた瓦礫と、飛散する血液。大都市のコンクリートジャングルで温められた空気が彼の頬を撫でる。久しぶりに直に感じる陽光は少しだけ眩しい。

「さあ、もう大丈夫です。ここは危ないですから、僕についてきてください」

口元に笑みを作って、今度は助けるのだと誓って。
彼は、子供の顔を見た。
目を合わせて、敵ではないと示したかった。それだけの行為だ。子供の警戒が解けてついてきてくれれば、すぐにヘッドセットを付け直すつもりだった。自身の危険も顧みずヘッドセットを外した彼は教師の鏡だ。きっとその行為は正しかった。その行為だけなら、賞賛されるべき行動だったのだ。

……ユハニが見たのは、殺したオネイロスと同じ顔をした子供の素顔だった。

思考が止まる。反射的に目を見開く。何が、何が起きている?理解が追いつかない。

「こないで!あっちいって!」

いや、いや!
その子供が繰り返すのは拒絶を示す言葉ばかり。壊れたロボットのように、何度も何度もユハニを拒絶する。

オネイロスは、人間に寄生する生き物だ。人間に寄生し、数を増やしていく生き物だ。優秀な脳が、最悪を導き出す。

自分が今殺したのは、この子供の父親なのだと。

理解した途端、吐き気がした。なんとか喉元で抑える。仕方がないことだ。オネイロスに寄生された親の側にいては、子供まで危ない目にあう。子供を想う親であればそんなことは望まないだろう。ユハニは正しかったのだ。
だが、自分の父親を殺した男にいったい誰が懐くというのだろう。差し伸べた手は間違いなく悪魔の手だった。子供の父親の血液に代わって、嫌な汗が頬を伝う。呼吸が浅くなっていくのに比例して、心臓の音は強くなっていった。

ユハニの動きが止まったのを確認すると、子供は勢いよく走りだす。その先にあるのは勿論オネイロスの遺体。もとい、子供の父親の遺体。
ユハニはゆるゆると顔をあげた。

「............は、」

今度こそ、ユハニは本当に何もわからなくなった。

「ママ!ママ!おきて、ママぁ......」

おきて、ママ。泣きじゃくりながらそう繰り返すオネイロスの遺体は、女性のものだった。見間違えようがない。女性らしい丸みを帯びた体と、スカート、長い髪。
おかしい。自分が見た時と違う。別の遺体と入れ替わった?そんなはずは無い。女性に突き刺さる矢は確実に自分のものだ。自分が放ち、殺したのだ。
崩壊し始めた思考をなんとか戻して、今とさっきとで何が違うか考えた。......ヘッドセットだ。

機械越しに見た景色は本当かどうかわからない。だが今見ている景色は本物だ。大粒の涙を零し、汚れるのも厭わず母親に縋りつく子供は、紛れもない現実の光景。
ゔ、と思わず口を抑える。吐き気が込み上げてくる。助けたかった、知らなかった、それは言い訳にならない。

一つ、変わらない事実があるとするのなら。
僕がこの子に与えたのは、希望でも救いでもなく、絶望であるということだろう。

╾​───────╼

「あー!もう!めんどくさいわね!!!なんでこうも蛆虫みたいにでてくるのかしら!?ユハニはどこに行ったのよ!」

周囲の喧騒に負けじと声を張り上げたのは、三節棍を構えたエリスだった。延々と湧き出るオネイロスに嫌気がさしてきたらしい。どこにも見当たらない相棒の名前を叫び、鬱陶しそうに近くのオネイロスに向かって三節棍を振りまわす。殺すには至らないものの牽制としては十分だった。

「ユハニさんもなんだかんだ今まで生き残ってこれたんだから、そんなに心配しなくても大丈夫でしょ」
「そういう問題じゃないの!そう言うルカはなんで私に着いてくるのよ」
「まだ完璧には治ってないんだろ?小猫の方が放っておけないだろ」

横目で見つめたのは彼女の足。以前の戦闘で負傷したことを言っているのだろう。ルカはくるくると手元でナイフを遊ばせつつ、エリスと会話を続ける。彼女は、他に誰もいないのをいいことに本名を呼んでくる彼に顔を顰めた。言い直させるのも面倒だ。

「......まぁ、そうね。でも戦闘に支障はないわよ」
「俺が来なかったら危なかったのに?」
「うるさいわね!」

八つ当たり気味に三節棍を振るい、オネイロスの核に命中させる。大きな体がぐらりと揺れた。体制を崩したところにルカがナイフで核を破壊、完全に機能を停止した。

「も〜…あと何人……」
「さすがに多いね」
「こんな時にあんたの相棒様はどこ行ったの。今一人になるのは得策じゃないでしょ」
「安心してよ。ちゃんとこっちに向かってきてる。そう指示したからね」

エリスはふうんと相槌を打った。その声色に興味関心と言った類のものは待ったく感じられない。同じ部隊に所属する者としてはそっけない態度だが、彼女がベアルのことを毛嫌いしていることを鑑みると、むしろ破格の対応と言っていいだろう。
そして、現実はアニメーション作品のようにはいかない。敵キャラが都合よくヒーローの会話が終わるのを待ってくれたりはしない。もしそんなことがあれば、それは己の力を過信した愚か者だという証明になる。オネイロスは愚かではなかった。
会話の途中、Lv.5のオネイロスがルカに向けて刃をふるう。それは寄生された人間の体躯に合わせた大きく鋭いもので、ルカの持つナイフでは受けることができない。それを理解している彼は一歩下がって攻撃を交わした。しかし、オネイロスは刃を切り返して間髪入れずに二撃目をいれる。またしても一歩下がった彼は傷こそ作らなかったものの、刃先が髪を掠めた。

「やるね」

彼とて後手にまわっているばかりではない。自身が優位だと勘違いした一瞬の隙を彼は見逃さなかった。隠し持っていたナイフを取り出し、オネイロスの腕を切りつける。怯んだ様子で一歩後退、しかしルカが手首を捻り刃が落ちる。もう一度握り直したナイフで確実に核を一つ潰すと、もう片方の核も潰そうとナイフをふるう。

......が、オネイロスはルカを突き飛ばし、剣を拾いあげた。自分達には理解できない言葉を発すると、力の限りルカの腕を切りつける。体制の整っていなかった彼はまともに攻撃をくらい、顔を顰めた。

「ちょっと何してるのよ!しっかりしなさいよね!」
「はは、安心してよ。こんなのじゃ俺は殺せないからね」
「落ちぶれるの早いわよ」
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それに、とルカが続ける。
瞬間、オネイロスの核と核の間……繋がりが途切れ、首が落ちる。ルカや、ましてやエリスは何もしていない。

「ルカ、大丈夫か?」
「大丈夫。いいタイミングだったよ」
「そうか。それなら良かった」

血の滴るワイヤーを回収しながら、ベアルが建物の影からでてきた。それを見たエリスは顔を顰めて舌打ちをする。隠す気はなさそうだった。

「……ああ、ワイヤーね。そういうこと。たまには役にたつのね」
「ベアルは優秀だよ、エリス」

ベアルはできる限りエリスの視界に入らないようにルカの後ろに隠れた。とはいえ、当のエリスはルカの言葉にさえ無視を決め込む始末だ。何が彼女をそこまでさせるのだろうか。

「向こうは終わった。後はどうすればいい?」
「そうだな……」

ルカが周囲を見渡すが、ちらほらとLv3のオネイロスがいるだけで、作戦や指示などなくても殺せるであろうことが明らかだった。

「指示待ち人間はすぐ死ぬわよ。ルカもそろそろ甘やかすのやめたら?」
「エリス」

嗜めるようにルカが名前を呼ぶ。それにさえ、「何よ」と反抗的な態度を示した。三節棍を構えた彼女は二人を気にせずオネイロスに向かった。

「どうしてこんなに嫌われているんだろう……俺は知らないうちに何かしてしまったんだろうか………」
「あの子にも事情があるからね。あんまり気にしすぎるのも良くないよ」

ルカのフォローにベアルが相槌を打つ。表情は変わらないものの、ベアルの沈んだ心は緊張を解いた。僅かに緩んだ二人の空気はどこまでも血に塗れて美しい。
そして後は残りのオネイロスを掃討するのみ。さあ行こうかというところで、ベアルの方を振り向いたルカが顔色を変えた。

「ベアル後ろ!」

ルカの声に、振り向きざまワイヤーを放つ。ほとんど条件反射だった。手馴れたそれは後ろに立っていた黒髪の青年…否、オネイロスの首を正確にとらえた。と、同時に視界がズレる。オネイロスの手がヘッドセットに触れる。

スローモーションのようにゆっくりと、まるで見せつけるかのようにそれはベアルの目に映った。ヘッドセットのズレた先、視界に移る黒髪は赤く、こちらを真っ直ぐに見つめる瞳は自分とよく似た黄色。
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「やっとみつけ________」

しかしその言葉が最後まで紡がれることはなかった。溢れ出すように血がべアルを赤く、赤く染める。

「ベアル!」

動けない。脳裏に焼きついた赤が離れない。ルカの声が遠く感じる。
ヘッドセットが外れた開放感と、いつまでもこびりつく赤が。
あっけなく首が落ちる。ベアルと同じ顔をしたオネイロスの頭部がごろりと転がる。赤い髪だ。

「間に合ったか…怪我もなさそうだね。………ベアル?」

様子のおかしい彼に気づいたルカが声をかける。先程の彼の叫び声につられたのか、エリスもそばに来ていた。
何も喋らない彼に首を傾げていると、そこに別のオネイロスが奇襲をかける。落ちていた剣を拾い、三人に向かって振り上げる。太陽の光を受けて、大きな影が三人を包んだ。重力に任せて落とされる剣。ルカとエリスは上手く避けたが、放心していたベアルが一歩遅れる。

「ぁ、」

ぷつり。あっけなく落ちる三つ編み。それは先程のオネイロスの頭と似ていた。似ているだけで決して同じではないが、たちまち短髪になった彼の髪は血で赤く染まっている。
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やはり似ていた。どこまでも、どこまでも。予感は確信に変わっている。鏡を見ているのと変わらない同じ顔。自分は実の兄を殺したのだ。
すかさずエリスが三節棍を振り上げる。右手で二節目、左手で三節目を持ち、全身を使ってオネイロスの頭部に一節目を叩きつける。倒れ込んだオネイロスに、すかさずルカがナイフで核と核の繋がりを絶った。

「髪が……いや、ベアルが無事で良かった」

ルカのほっとしたような声とは裏腹に、誰からも反応は返ってこない。不審に思いながら、ルカはベアルのヘッドセットを拾い上げ、彼に渡した。

「ほら、早くつけなよ。いつオネイロスに寄生されるかわからない」
「ちがう、ルカ、おかしい」

動揺の中、ベアルは必死に訴える。

「おかしいんだ。ヘッドセット越しで見るのと今の景色が違う。俺は、だって、知らなかった、これは違う、兄さんじゃ、俺の兄さんは、」
「ベアル!落ち着いて」

錯乱し始めたベアルにルカが優しく声をかける。そしてしばらく考え込んだ後、ヘッドセットに手をかけた。

「待ちなさいルカ!それを外したらオネイロスに……」
「いや、きっと大丈夫」
「やめてルカ!」

エリスの静止を聞かず、彼もヘッドセットを外す。……やはり、何も起こらない。広がる景色に眉を顰め、落とされた赤髪の首を見た。

「……どういう…」
「…ルカ?」

呟いた言葉は後少しのところでベアルに届かない。聞き返すと、珍しく動揺した顔でルカが言い放った。

「…オネイロスに寄生された人間は、目が充血したり鼻血がでたり、血涙があったりするはず。………でも、この首にはない」
「……それは」
「……ただの人間ってことだよ。オネイロスに寄生なんかされてないんだ」

ひゅ、とベアルが息をのむ。つまり、どういうことだ?いやだ、違う、俺は、つまり。

「っベアル!!」

ぐい、と力の限り引っ張られ、思わずルカの胸元にとびこむ。同時に、鋭い金属音。何事だと思い見てみれば、数秒前まで自分のいた場所に三節棍がふりおろされていた。
……え?

「ああ、ああもう、最悪。ほんとに最悪。なんで皆、ひどい、どうして」

ぶつぶつと何かを繰り返している彼女の手には、三節棍。それはそうだ。三節棍なんて特殊な武器を扱うのは、この場に一人しかいない。

「エリス、どういうこと」

ルカが咎めた。今まで彼女がかけられたことのない、厳しい感情が込められていた。彼は、今の一撃が確実に殺す気だったのだと察しているのだろう。

「夢が見たかったの……。だって現実は辛いから、辛すぎたから、どうしようもなかったから!!!誰も助けてくれなかったじゃない!気づかなかったじゃない!!なんで今更なの!?遅いのよ!ずっとずっとおかしかったじゃない!!!」

突然子供のように叫び出すエリス。まるで会話になっていない。彼女はヘッドセットをつけたまま、「こんなことになるなら殺しておけば良かった」と呟いた。先程の言動を考えると、ベアルのことだろうか。…と思えば、「違う、私は悪くない、ごめんなさい許して」と呟き出す。
何かがおかしいのは既に気づいていた。ベアル殺害未遂と、絶妙に合わない会話。ルカの言葉に反応したとしても、内容が不自然だ。何か含みを感じる、『知っている』側の発言ではないだろうか。

「…エリス、何か知っているのか?」
「………ええ。知ってるわよ」
「何を知っている?」
「なんでわかんないのよ。やっぱり落ちぶれたわね、あんた」

沈黙が流れる。なにも言わないまま、親の敵を見るように睨みつける。視線に籠るのは憎悪と少しの悲しみ、そして諦め。

「…知りたいの?」
「ああ」
「最低。大っ嫌い。ルカもあんたも。夢さえ見せてくれないなんて」

何度罵倒してもルカの目は揺るがない。次第に泣き出しそうな顔をして、彼女はか細く口を開いた。

「あーあ。あんた達さえここで死んでくれれば私は幸せなままでいられたのに。………いいわよ。教えてあげる。ほんとのこと、わたしが知ってる限り、全部」

深く息を吸って、彼女は二人に向き合った。表情からは一切の感情が消え、底冷えする何かが空気を包んだ。

「あんた達が悪いの。おかしいとこなんていくらでもあったのに、思考放棄してへストの駒に成り下がったんだわ。思い出しなさいよ。へストは最初に言ってた。あんた達、一度でも自分の目でオネイロスをみたことある?オネイロス、いると思ってる?」

「ねえ、自分の目で見て、自分で考えたこと、ある?私達、今まで何を殺して何を救ってきたのかしらね。この人殺し!」

ヘッドセット越しの冷たい視線が、二人を捉えて離さない。

╾​───────╼

街の中心では彼らがオネイロスと戦いを交えているのだろう。遠くから武器のぶつかり合う音を耳に、デウィットは一人喧騒から離れた場所、人気の少ない路地へ足を運んでいた。かといって、全くオネイロスがいないという訳でもない。その背後には既に彼の手によって討伐されたオネイロスの死体が積み上げられていた。
デウィットはその死体をないもののように扱い、へストに命じられた役割と淡々とこなす。工具を使った作業はあまり得意ではないが、流石に慣れたもので任務はあっけなく終わりを告げた。

さて、この後はどうしようか。へストからの命は完遂したのだ。このまま拠点へ帰っても誰も咎めはしないし、今尚響く音の方へ足を踏み出し彼らの輪の中に入っていってもいい。思考を巡らせるデウィットは、恐らく気を緩ませすぎていた。

オネイロスが地面を蹴ったのだと察知し、後ろを振り向いた頃には、既にその姿は目の前にあった。一体を取り残していたのか、それとも中心部から逃げてきたのかは定かではない。そんなこと問題にもならない。
ただ自分は過ちを犯したのだと悟り、悔いる。デウィットの愛用している鋏は地面におざなりにしたままだ。それを握り、身構えるにはどうしても時間が足りない。なにより、視界の右側に映る先端から目を離すことが出来なかった。

「あ゛、ぐ、」

差し込んだ現実が、理想を穿つ。速度を持った刃がぐじゅりと主張する不快感。世界が半分ひび割れて、ぽっかりと開いた穴から涙のようなものが頬を伝う。血だ。透き通った空から、血の雨が流れているのだ。
それらの正体を認識してしまえば最後、自覚した脳は急速に本来成されるべき処理を始め、激痛がデウィットを襲い始めた。耐え難い痛みに、ヘッドセット越しに手を当てる。耐えるように腕をきつく握りしめる。
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一先ず、安全を確保しなければ。オネイロスを倒さなくては。早く、早く、早く!
歯を食いしばり落とした鋏を拾い上げると、核の存在など忘れ間髪入れずその腹に突き刺した。オネイロスの口から液が漏れる。そんなの気にしていられない。ぐりと掻きまわすように抉れば、オネイロスは掠れた声を上げ、返り血の付いた震える手を腹に当てる。どうやら鋏を引き抜きたいようだが、すぐに脱力すると腕を揺らす。体重が掛けられた様子を見ると、やっと絶命してくれたようだ。さっと勢い強く鋏を抜き取る。どさりと息を失った体が地面に崩れ落ちた。

汗が滲む。頭が白で埋め尽くされる。左目だけで見る世界はそう普段と変わらないのに、不思議と何処かが違って見える。否、そんなことを考えている場合ではない。オネイロスを倒した今、まずどうするべきかを思考しなくては。回らない脳を無理くりに回転させて、考える。考える。考える。ああ、そうだ。とにかく止血だ。このままであれば失血して死にかねない。それほどなのだ。この色は。空を染め尽くすほどに、赤い。

後でへストにとやかく言われそうだと、どうでもいいことを思い浮かべる。けれど命には変えられない。苛立ちを込めてやや乱暴にヘッドセットを外し、投げ捨てる。そして近くに落ちていた、誰の物かもわからないナイフを拾い上げ制服を裂くと、頭部に巻き付け結んだ。果たしてこれが止血の役割を成せているのかデウィットには知る由もないが、しないよりは遥かにマシだろう。

……未だ刺激が走りながらも、漸く冷静さを取り戻す。まるで自分らしくないと我が身の行動を振り返ったが、欲の浅い自身でも危機的状況に陥れば生存本能が機能するのだと知れただけ、新しい収穫だったようにも思う。
他にも倒すべき敵がいないかと見渡すが、誰もいない。やはり辺りは“人間”の山で溢れかえっていた。そのどれもこれもが悲愴を纏い、絶望に苦しんだ顔を見せている。肉眼で見るその光景は先程とはとても似つかず、まるで夢でも見ていた気分だ。しかしデウィットはそんなものには目を向かない。向ける必要がない。それがどんな顔をしていようとも、彼は悪人に興味などないのだから。固く目を閉じる。

デウィットが愛する善人たちは今頃、どうしているのだろうか。
結局デウィットが優先するのは自身ではなく善人で、その身の心配を無くした途端、考えるは善人ばかり。このまま彼らの元へ向かおうとも考えたが、この視界では逆に足でまといになるだけだ。デウィットは逸る気持ちを抑えると渋々踵を返し、拠点へと向かった。

――その身の劣化には抗えない。善を柔く包み込む穏やかな青は、やがて黒く染まるのだ。

╾​───────╼

あたりは静寂に包まれていた。

………否、静寂などどこにもない。助けを求める恐怖に染った人の声。思考を放棄し捧げられる神への祝詞。母親を失った子供の泣き声。土埃を上げながら崩れ落ちる瓦礫達。遠くから消防や救急車の到着を知らせるサイレンの音。喧騒が、混沌がそこにはあった。

しかしそれでも静寂だと錯覚してしまうほどの緊張が、その場を支配していた。後から合流したマドレーヌや篝火達も最初こそ明るく声をかけたがその空気に気圧され、黙る他なかった。

早急に治療が必要そうな者もいるが皆、誰一人欠けることなくその場にいた。武器を手に持ち、血に濡れ佇むその姿は誰がどう見ても異質であったがこの混沌を生み出した彼らにあえて関わろうとする者などただ一人もいなかった。
やがて轟音と共に前方に影が落ちる。程なくして大型ヘリがニ機、三機と着陸した。しかし皆の顔に安堵が浮かぶことはなく、むしろ緊張が深まるばかりであった。

「……おや、誰がゴーグルの着脱許可をした?」
へストが降りてくる。任務前と変わらず、車椅子に乗ったその姿で。
しかし普段であれば不機嫌な顔ですぐにでも拘束具を作動させているであろうに、何故か楽しそうに笑みを浮かべるだけであった。

「聞こえなかったか?何故、”ソレ”を外している?」
誰も答えない。パドラですら口を閉ざしていた。時が止まっているようだった。

「……どういうことか説明してくんない?」
最初に沈黙を破ったのはルカだった。その鋭い双眸がへストを見据える。
しばしの沈黙、そして

「……あぁ、そうか。……はっ、はは、アハハっ!そうか、そうかそうか!」
隠すように口元に手を当てているもその笑みは溢れて止まらない。ふらりと立ち上がる。若干ふらつく足はそのままに、彼は歓喜の笑みを浮かべその場をフラフラとさ迷い歩く。雲の隙から光が差し込み、彼を照らす。まるで舞台の上で一人舞うように、狂気じみた彼の笑い声は辺りに響き渡る。

「……はぁ、なるほど。やっと気づいたんだな。”今回は”早かったなぁ、パドラ?」
パドラが静かにへストの後ろへと移動する。正面を向いているが例えその顔を覆うヘッドセットがなくとも、目が合ってるようには感じなかった。固く口を閉ざしへストの問いに答えることもない。

「そうだな、ワタシは回りくどいことは嫌いなんだ。端的に言おう」
へストはそんなパドラを気にした様子もなく彼らを見据える。笑みこそ浮かべてはいるがその表情に感情はない。

「オネイロスなんて生物は”存在しない”」

何が起きたのか、何を言われたか理解する間もなく、積み上げてきた全てが足元から崩れ落ちる。そう錯覚してしまうほどにその事実は重く、そして確かに彼らの心を揺らした。

「そもそもキミ達は疑問に思わなかったのか?寄生しても特に凶暴になったりもしない、特殊なカメラ越しでしか認識出来ないという存在に。仮に居たとして、たったそれだけの存在に世界が協力してわざわざこんな死刑囚共を用いると、本気で思っていたのか?」

「じ、じゃあ、俺たちが殺していたのは…」

顔面蒼白のまま言葉を発したのはマリア。しかしその先は続かない。言わないのか、言えないのか、言いたくないのか。それとも現実を受け止めたくないのだろうか。目をそらしても、すぐ隣で見つめているのは非難の目だ。果たして彼は耐えられるか。

「強いて名付けるとすればどこにでもいる一般市民だな。人間と呼ぶには些か愚かな家畜同然の有象無象…」

ふと物音がした。
音の出処に目を向ければ青年が瓦礫の下から抜け出そうともがいているところだった。僅かに見える服装から察するに一般市民なことに間違いはない。最初の爆破を近くで喰らったのだろうか、顔は焼け爛れとても機能してるようには見えなかった。思わず、と言ったようにパドラや篝火が駆け寄ろうとする。しかしそれより早く、その青年の眉間の中心に寸分の狂いなく穴が空く。僅かに遅れ発砲音が辺りに響き渡る。
いつの間にかへストの手には拳銃が握られていた。間違いなく彼が発砲したのだろう。その証拠に僅かだが筒先からは硝煙が上がっている。相当の精度だ。例え軍人だろうとあそこまで正確に狙い撃つことが出来るだろうか。

言葉を失うしかない。絶望なんて言葉で済ませていいのかわからない光景が、視覚や聴覚を支配する。じわりと滲む痛みが、苦しみが、ありとあらゆる負の感情が、もう修復不可能になる寸前まで来ようとしている。逃れられるのは何人になるだろうか。

「今回は、ってどういう意味ー?なんでこんなことしたの?」
血に濡れたショッキングピンクの髪を揺らして乙宮が尋ねる。この状況においても尚彼女は変わらない。人殺しが趣味の彼女には些細なことなのだろう。

「あぁ、それはキミ達がこの事実を知るのが二度目、と言うだけだ。……だがまぁその反応を見るにキミはリセットしなくても良かったかもしれないな」
なんてことないようにへストは告げる。それはつまり自分達はこの約半年の間だけでなく、更にもっと長い期間、罪のない一般人を大量に殺していたという証言であった。それを聞いて顔色を悪くする者もいれば、呆然と思考を止める者もいた。エリスは顔を背けて黙り込む。それは今までしてきたような、現実から目を背ける行為と同じだ。彼女が望んだ夢はもう覚めたというのに。裏切り続けた報いか、彼女の異変に寄り添う者はいない。

「ワタシはこの世界の在り方に呆れているのだ。人間とはもっと高度な思考と発想を有し、それを効果的に使用することの出来る生き物である。しかし現実はどうだ!人間以下の無能ばかりが権力を握り、統治し、新たな無能を生み出す。本当に愚かな者ばかりだ。果たしてあれらが”人間”と呼べるのか?」

「そこで我々は考えた。嘗て我々の祖先がそうしてきたように、今こそ時代を、世界を改革すべきだと!」

そう、全てが嘘。
各国の協力などない。なぜならオネイロスは存在しないのだから。あるのは一つの正義と、それに同調する民だけ。

「東洋の神を知っているか?我々の神が”在る”とすれば、彼らは”成る”のだそうだ。世界の外に位置し世界を做る神、それから世界に位置し世界を創る神。…まあ、キミ達の多くは理解し難いだろうな」

「文明は常に“川 -アプスー-”と共にあった。ならば我々が!その“門番 -ラハム-”としてこの世界の全てを精査すべきだと、そう考えたわけだ。それが我々MIL、Mythology Institution Laboratory。人々は我々を『神話機構』と呼ぶ。光をもたらし、種を征し、理想へ導く天啓……我々は神になるのだ」

任務を終えたNo.B、No.Cの隊員達が集まってくる。中にはヘッドセットが壊れているもの、今すぐにでも治療するべきな状態にある者もちらほらといる。しかし一様にして彼らはへストの後ろへと並ぶ。彼らはこの事実を知っていたのだろうか、知っていてあちらについているのだろうか。それとも…

「……テロとやってる事一緒じゃない」
眠眠が思わずと言ったように口を開く。再び信じていたものに裏切られたその表情は混乱と恐怖に染まっている。

「テロだと?あぁ確かに、何も知らないキミ達からしたら我々のやり方はテロやクーデターのように一方的な暴力に見えるだろう。しかし何時だってその背には策略と陰謀があるのだ」

大きな野望は時としてエゴよりも醜く、醜悪だ。例えば圧倒的な力と名声を、信頼を持った組織、そしてその人物から「一緒に世界を変えよう。キミの力が必要だ」と言われ、果たして何割の人間が頷かずにいられるだろうか。例えば貧しい発展途上国が、例えば世界征服を目論む政治家や政府が、その誘いを受けたとしたら___

「……さてここでキミ達に選択肢をやろう。このまま我がMILの手となり足となり、この停滞した世界を清く正しいモノにするか。それとも」
へストがその銃口を真っ直ぐ正面に向ける

「今ここでリセットされ、完全なる傀儡となるか」

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