霹天の弓 ー1章ー【第1話】 version 3

2019/02/07 15:33 by someone
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霹天の弓 ー1章ー 【第1話】 2節
ここに本文を入力 その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている両親を起こさぬように…目指す先は、この少女たちの家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が心羽の心中をざわつかせたが、両親も心羽のこの行為を理解しているし、夜着も厚手のものを羽織っている。風邪をひく心配もない。心羽は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の戸を開けた。
 その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている両親を起こさぬように…目指す先は、この少女たちの家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が心羽の心中をざわつかせたが、両親も心羽のこの行為を理解しているし、夜着も厚手のものを羽織っている。風邪をひく心配もない。心羽は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の戸を開けた。

 そこには星々がその輝きを放ち、数万光年と離れているであろう、この「ルクスカーデン」と呼ばれる地に、その光を届けていた。星々の輝きを見つめる中、心羽はひときわ美しく光を放つ七色の星を一つ見つける。その星は虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うようにその色彩を発しながらそこにあった。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。なぜこの光がここにあるのか…不思議さはあっても恐怖はなかった。何より、その温みある光に魅せられた心羽は、七色の星に手を伸ばす。届くはずのない手は虚空を掴むが、それでも瞬間、その輝きを手にしたように感じた彼女は思う。“この光をすべての人に見せたい“と。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。

 次の瞬間、そこから大きな鳥が羽ばたいた。紅の羽毛は、その身体全体を覆い、星と同じ七色がその翼に宿ったかのように光沢を放つ。胸の部位にも星を思わせる宝石の首飾りがかかり、頭の部位には、まだ何物にも染まっていない少女の清らかさを思わせる、純白の羽飾りが付いていた。鳥は七色の翼をたなびかせて、ルクスカーデン中を飛び回る。その胸の光を世界に示すように、その温みが、人々の心に安らぎと慈しみを与えますようにと———
七色の光を翼と胸に宿した鳥は、飛んでいる間、無意識ながら感じ取った。今の自分は心はそのままに、先ほどまでその身にあった人としての有限性を超越して、時間とこの世の果て———その真実を見つけることさえできる。そんな思いと、力に満ち満ちていた。その力の限り飛びたい。その果てまでこの心の羽を届かせてみたい。鳥は全力で飛んだ。

やがて訪れる朝日の上る時間。心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識は場だ少し微睡んでいるが、朝日の光が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射し、心羽の顔を照らす。その赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。ああ、目が覚めちゃった。素敵な夢だったのにな…心羽は眉根を寄せて朝日を少しだけ睨んだ。そうして横たえていた身体を起こそうとすると、右手に何かを持っていることに気が付いた。見るとその手の中に七色のペンダントがあった。虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うような色彩のそれは、心羽を驚愕させ、その意識を完全に覚醒させる。どういうこと⁉あれは夢だったんじゃ…自分のその行為が月並みなものと思いながらも、心羽は自分の頬を空いている左手でつねった。どうやら今、心羽のいるそこは夢ではないらしい。じゃあなんでこれが…その時下の階から誰かが階段で上がってくる足音が聞こえた。母の詩乃(しの)だ。心羽はふいにペンダントを自身の懐に隠し、部屋にやってくる詩乃を迎えた。
「心羽、朝ご飯出来たよ」愛娘を呼ぶ優しい声が部屋に届く。「うん、着替えてすぐ行くね」心羽の口からは咄嗟にそんな言葉が出た。

 夜着を着替えて一階にあるリビングに向かった心羽を待っていたのは、テーブルに置かれた朝食と、それを作った母。心羽と詩乃は互いに「おはよう」のあいさつを交わしながら、それぞれ椅子に腰かける。朝食は食パン一枚にウインナー二本、千切りのキャベツにスクランブルエッグである。詩乃が千切りキャベツをフォークで口に運びながら言った。
「心羽は今日、アレグロ?」「うん」「それで今日楽しそうなんだ」そう言ってにやついてみせる母に「それだけじゃないけどね」と笑んで返す心羽。
「なに?何かいいことあったの?」嬉しさを共有したいと詩乃は心羽に聞く。「内緒」とだけ心羽は答えた。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、落ち着いて話ができる自信がない。しかし、この不可思議で素敵な夢は、落ち着いたら誰かと共有したい思いもあった。
「心羽は秘密が多いよね」詩乃は愛娘の少し高揚した様子に、少しすねた様子で言った。
「でもいいことなんだったら大丈夫。あなたにはもう少し素敵なことがあっていいんだから」
そう続ける詩乃との他愛のない会話の中に、娘への心配りを心羽は見て取った。この〝大丈夫〟という言葉は、心羽と苦難も喜びも共有してきた詩乃が、その時々の娘の思いを汲みながらも、娘を信じる母としての覚悟と矜持を以て繰り出す、必殺の台詞であった。実際、心羽の中にスッと入ってくるこの無敵のまじないは、彼女が自身の困難を乗り越える糧として響いている。
「ありがと、お母さんの方はどう?今日手伝いとかいる?」
「う~ん、こっちは今日は…そんなに忙しくはないから。心羽は自分の今日をしっかりやってきなさい」
「うん…ごめんね、気を遣わせて。お父さんにも…」
進路も決めないまま学校を卒業してしまった心羽が、現在所属しているのは、7歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団のみという現状に、父の明(あきら)は驚きを隠せなかった。ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーである明は、仕事に忙殺されて家族との時間こそ取れなかったが、心羽を愛している意味でも、自分の娘であるという意味でも「自慢の娘」として信頼を置いているのだ。心羽もそれはわかる一方、父から過剰に期待されている気がして、後ろめたさや不安めいた感情が内在していた。詩乃はそんな娘の思いを理解してか、敢えて心羽の言葉を否定した。
「何言ってるの、お父さんはお父さん、心羽は心羽。一歩ずつでも頑張ってるのは、あなたでしょ?」
「…うん、ありがと」
心羽は少し伏せた顔をあげ、詩乃と目を合わせた。そうして互いに笑顔で応える。その母の言葉を素直に捉えたい。そして父や母、何より自分のために、自分の今日を良くしたいと心羽は思った。

 朝食の後、それぞれ身支度を終えて、詩乃は朝食の後片づけを始める。心羽はトランペットをトランクに入れ、アレグロ楽団の次の講演に向けた練習を行う、ルクスカーデンの三番街へ向かった。その胸には、先のペンダントを着けて…暦は5月になったばかりで、道端の木々は生い茂り、その葉は日に照らされ深緑に色づいている。人々はのんびりと毎日の暮らしを営みながらも、それぞれが日々の仕事に精を出す。古代都市の神秘性をそのままに、森と川と、古い城と街が調和したこの風景を作りだしている土木・建設。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品まで生み出している職人。治安維持・法体系から生活福祉といった、人々のニーズに応答した民主的な社会体系は、明のような役所の役人や、公から委託された民間団体が担う。他にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる人が自身の職に対する誇りや矜持、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交う。
そんな光景を、心羽は目を細めながら見つめる。特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。自分が彼らから取り残されているような思いが彼女の中にはあった。

ルクスカーデン三番街から北西約250㎞先に位置する山岳地帯「七英雄の丘」、そこに建てられた〝遺跡〟に彼ら四人はいた。石を素材にして建造されたその内部は暗く、四人はそれぞれ手に持ったランプで辛うじて自身の眼前を把握している状態である。殆ど互いの姿は見えず、その背格好しか判別できないが、彼らはその声音からそれぞれの存在を把握する。やがて一人の男の影が、ランプを掲げて遺跡内の壁に円形に描かれた七つの紋章を見つける。日、月、火、水、木、金、土を思わせるそれを一つずつ確認し終えた彼は、ランプに照らされた白衣を翻す。そうして背後の三人に向けて言った。
「これのようですね、では始めましょう。」
その言葉に一人が白衣の方に向けて歩みながら返した。
「この先にあるものが、お前に御しきれるかな」
白衣の持ったランプが揺れて、その闇色のフードを照らす。遺跡の作る影とその闇色は同化したように見える。
「それ、冗談にしても笑えない」三人のうちの一人、ソプラノの少女の声がそう響く。
「俺は可能性の話をしているだけだ」闇色が振り返ってソプラノに返した。声の主は赤いポンチョに包んだ身を斜に構えるが、闇色は無視する。
「なんでもいい、早くしろ」少女の隣に控えていた大柄の男が言った。憲兵服に帯刀した刀の鯉口を左手の親指で切っている。その殺気を、白衣が右手を掲げて制し、言った。
「御せなければ、それまでだっただけの話です。些末なことですよ」
「大した自信だ」
白衣の言葉にそれだけ言い放った闇色は、黒い宝石が埋め込まれたチョーカーを首から外し、それを持った右手に軽く力を籠める。
「さあ、目覚めろ。人の心、その影に潜む魔物」
そう唱えた闇色の右手にどす黒い力の奔流が現れる。そうしてその手を七つの紋章に翳した次の瞬間、紋章が輝きを放った。しかし、やがてどす黒い力に浸食されるように紋章の輝きは徐々にその黒に染まる。
「時間が惜しいので早くしてしまってください」
「簡単に言ってくれる」白衣の言葉に闇色はいらだった様子で言った。
浸食が進む。紋章が黒に染まる。それに伴って遺跡全体が揺れ始める。
「来ますね、各々、臨戦態勢を」白衣が笑みながらそう告げた。同時にソプラノと憲兵の姿が変わる。抵抗するように輝く紋章の光に照らされたのは、赤い拘束具と翼がその身に宿った少女の姿と、牙のような大きな突起を全身に巡らせた人狼の姿だった。
やがて紋章の抵抗の光が完全に浸食の闇に飲まれる。そうしてその〝封印〟は、破られた。

三番街のとある一角、大通りから、東に二百メートルほど進んだ住宅地付近にアレグロ楽団の集会所はあった。石造りで出来たその大きな建物は、その土台を地面から少し高くして建造されており、その構造は気品ある佇まいを演出している。そこから演奏の練習をする種々の楽器の旋律が響く。心羽はその響きあう音の中でトランペットを吹いていた。
「うん、それぞれのパートも良くなってる。それと、中盤にもう少し、荘厳さを表現したいんだ。」
一しきり演奏を終えた後、指揮者兼、楽団の長である広夢(ひろむ)が言った。「はい」楽団員たちが返事をする。
「だから、中盤からは音を大きく盛り上げて演出できればと思います。ただ、それぞれの旋律は凄くいいから、僕の指揮の課題でもある」広夢も自らの課題を認め、言葉を発する。この口下手な楽団長は、話し方こそつぶやくようなそれであったが、その言葉の端々から、そこはかとなく誠実さが垣間見える。そんな団長の姿勢を、楽団員たちは慕っていた。心羽もその一人である。
「焦らないで行きましょうよ、ヒロさん」楽団員の一人が言った。「そうだよ」数人がそれに続く。それに少し笑んで広夢も応える。
「そうだね、僕らの音は一つずつ練習してできるものだし」
心羽はこうした一人ひとりの姿勢が、音楽を楽しみつつもより良いものを目指すアレグロを形成している大きな魅力と感じていた。

演奏の練習が一段落ついたところで、楽団員はそれぞれ休憩をとっている——心羽はそのタイミングに集会所近くの喫茶店、「カフェ・すてら」の隅の席で、自身と同年代の少女———遥香(はるか)と共にコーヒーを飲んでいた。天井の丸いペンダントライトが、屋内の少し陰った雰囲気に映え、木造の机や椅子の与える印象はレトロでありながらどこか味わいを演出している。二人はシロップで甘くし、その上にクリームを乗せたコーヒーを啜る。甘さと暖かさと香しさが鼻腔と口を満たす中、自分たちの演奏を振り返ったり、「広夢さん、素敵だよね。頑張ってる」などと他愛のない話をする。それが彼女たちの日常における楽しみの一つだった。
「こっちゃん、そのペンダント、綺麗」遥香は心羽が胸にかけたペンダントの煌めきに、微笑みながら言った。「ありがとう」心羽も笑みとお礼を返す。と同時にハッとした。今朝の夢の話を、共有したいと思える人がここにいる———「今朝ね…」胸の高揚感が思い出したようにまたやってくる。「素敵な夢を見たの。その中で私、鳥になってた」
心羽がそれだけ言って、これからする話を整理する。その一瞬、間が空くも、彼女の思いを理解した遥香が応える。「そっか、前にも言ってたもんね。〝鳥になって飛びたい“って」
その言葉に心羽は、夢の内容について続ける。
「うん、虹みたいに綺麗な星が光ってて、それを掴んだら、鳥になったんだ。このペンダント、その星のみたいな色してて…」そこまで話して心羽は一瞬口ごもる。
「こっちゃん?」
「気に入って、今朝買っちゃった」

こうしてそれぞれ思い思いに過ごす穏やかな時間は、唐突に破られる。心羽たちの場合は、集会所近くにある灯台からけたたましい音で警鐘が鳴らされたのが、その始まりだった。
「この鐘って…」「何かあった?」「地震じゃないみたいだし…火事?」その物々しい気配に、心羽と遥香はそれぞれ状況予測を口にして、店内の窓から外を見る。そこには声を挙げて逃げ惑う人々がいた。「すてら」店内の客も同様にその光景を見て事態の異様さを感じとる。年配の店主が店の玄関を開き、「何があったんだい」と逃げ行く人の一人に問うたのと同時に「化け物だ!化け物が人を襲ってる!早く逃げろ!」と叫ぶ声が店内に響いた。その声に「なんだよ、おい…」「逃げた方がいい」「早く行こう」客たちもとにかく店から出ようと玄関に押しかけ、店を出ていく。そんな事態の混乱に心羽は心身が固まったようになってしまう。言いようのない不安と焦燥に神経が尖る感覚、それに伴う動悸。自身でも恐怖を抱いていることがわかる。恐ろしい何かが、来る———
「こっちゃん…こっちゃん!」遥香の呼びかけにようやく我に返る心羽。
「あ…ごめん、はるちゃん」
「早く行って、集会所のみんなにも知らせよう」心羽はようやく返事するも、遥香は矢継ぎ早に言った。「…うん」
「お客さん、早く行って!私が店を離れられん!」責任感と焦燥感を滲ませた店主の言葉が響くと、「ごめんなさい」と「ありがとう」をそれぞれ店主に告げて二人は「すてら」を飛び出した。

方々に散って逃げる人の動きに、どう逃げるべきかの判断が難しい。その混乱に表情を歪ませた遥香が、駆け出しながら言った。
「どっちに逃げる⁉とりあえず集会所⁉」
「うん、みんなが逃げてる方向的に、集会所の方は大丈夫だと思う…」心羽がようやく動いた頭で必死に目の前の状況を分析して返す。
「わかった、行こう」二人はパニックの中を懸命に走る。しかし姿も見ていない、状況も理解しきれないにも係らず、こうして逃げ回るのに、心羽はどこか違和感を抱く。駆ける足は止められぬ一方で、そう思って彼女はほんの一瞬、後ろを振り返る。そうして見た光景は、緊迫感故におぼろげではあったものの、確かに彼女の目に焼き付く。襲われた人が倒れ伏す様と、その向こうに浮かぶ——異形の怪物の姿。瞬間、抱いた感情は嫌悪感と恐怖。その思いに心羽の身はすくみ、瞳が震える。そうして倒れ行く人々を背に逃げることしかできぬ状況に、何よりも強く思ったのは———
〝あの人たちに、手を伸ばせない〟
そんな無力感と悔恨だった。
      

その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている両親を起こさぬように…目指す先は、この少女たちの家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が心羽の心中をざわつかせたが、両親も心羽のこの行為を理解しているし、夜着も厚手のものを羽織っている。風邪をひく心配もない。心羽は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の戸を開けた。

そこには星々がその輝きを放ち、数万光年と離れているであろう、この「ルクスカーデン」と呼ばれる地に、その光を届けていた。星々の輝きを見つめる中、心羽はひときわ美しく光を放つ七色の星を一つ見つける。その星は虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うようにその色彩を発しながらそこにあった。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。なぜこの光がここにあるのか…不思議さはあっても恐怖はなかった。何より、その温みある光に魅せられた心羽は、七色の星に手を伸ばす。届くはずのない手は虚空を掴むが、それでも瞬間、その輝きを手にしたように感じた彼女は思う。“この光をすべての人に見せたい“と。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。

次の瞬間、そこから大きな鳥が羽ばたいた。紅の羽毛は、その身体全体を覆い、星と同じ七色がその翼に宿ったかのように光沢を放つ。胸の部位にも星を思わせる宝石の首飾りがかかり、頭の部位には、まだ何物にも染まっていない少女の清らかさを思わせる、純白の羽飾りが付いていた。鳥は七色の翼をたなびかせて、ルクスカーデン中を飛び回る。その胸の光を世界に示すように、その温みが、人々の心に安らぎと慈しみを与えますようにと———
七色の光を翼と胸に宿した鳥は、飛んでいる間、無意識ながら感じ取った。今の自分は心はそのままに、先ほどまでその身にあった人としての有限性を超越して、時間とこの世の果て———その真実を見つけることさえできる。そんな思いと、力に満ち満ちていた。その力の限り飛びたい。その果てまでこの心の羽を届かせてみたい。鳥は全力で飛んだ。

やがて訪れる朝日の上る時間。心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識は場だ少し微睡んでいるが、朝日の光が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射し、心羽の顔を照らす。その赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。ああ、目が覚めちゃった。素敵な夢だったのにな…心羽は眉根を寄せて朝日を少しだけ睨んだ。そうして横たえていた身体を起こそうとすると、右手に何かを持っていることに気が付いた。見るとその手の中に七色のペンダントがあった。虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うような色彩のそれは、心羽を驚愕させ、その意識を完全に覚醒させる。どういうこと⁉あれは夢だったんじゃ…自分のその行為が月並みなものと思いながらも、心羽は自分の頬を空いている左手でつねった。どうやら今、心羽のいるそこは夢ではないらしい。じゃあなんでこれが…その時下の階から誰かが階段で上がってくる足音が聞こえた。母の詩乃(しの)だ。心羽はふいにペンダントを自身の懐に隠し、部屋にやってくる詩乃を迎えた。
「心羽、朝ご飯出来たよ」愛娘を呼ぶ優しい声が部屋に届く。「うん、着替えてすぐ行くね」心羽の口からは咄嗟にそんな言葉が出た。

夜着を着替えて一階にあるリビングに向かった心羽を待っていたのは、テーブルに置かれた朝食と、それを作った母。心羽と詩乃は互いに「おはよう」のあいさつを交わしながら、それぞれ椅子に腰かける。朝食は食パン一枚にウインナー二本、千切りのキャベツにスクランブルエッグである。詩乃が千切りキャベツをフォークで口に運びながら言った。
「心羽は今日、アレグロ?」「うん」「それで今日楽しそうなんだ」そう言ってにやついてみせる母に「それだけじゃないけどね」と笑んで返す心羽。
「なに?何かいいことあったの?」嬉しさを共有したいと詩乃は心羽に聞く。「内緒」とだけ心羽は答えた。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、落ち着いて話ができる自信がない。しかし、この不可思議で素敵な夢は、落ち着いたら誰かと共有したい思いもあった。
「心羽は秘密が多いよね」詩乃は愛娘の少し高揚した様子に、少しすねた様子で言った。
「でもいいことなんだったら大丈夫。あなたにはもう少し素敵なことがあっていいんだから」
そう続ける詩乃との他愛のない会話の中に、娘への心配りを心羽は見て取った。この〝大丈夫〟という言葉は、心羽と苦難も喜びも共有してきた詩乃が、その時々の娘の思いを汲みながらも、娘を信じる母としての覚悟と矜持を以て繰り出す、必殺の台詞であった。実際、心羽の中にスッと入ってくるこの無敵のまじないは、彼女が自身の困難を乗り越える糧として響いている。
「ありがと、お母さんの方はどう?今日手伝いとかいる?」
「う~ん、こっちは今日は…そんなに忙しくはないから。心羽は自分の今日をしっかりやってきなさい」
「うん…ごめんね、気を遣わせて。お父さんにも…」
進路も決めないまま学校を卒業してしまった心羽が、現在所属しているのは、7歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団のみという現状に、父の明(あきら)は驚きを隠せなかった。ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーである明は、仕事に忙殺されて家族との時間こそ取れなかったが、心羽を愛している意味でも、自分の娘であるという意味でも「自慢の娘」として信頼を置いているのだ。心羽もそれはわかる一方、父から過剰に期待されている気がして、後ろめたさや不安めいた感情が内在していた。詩乃はそんな娘の思いを理解してか、敢えて心羽の言葉を否定した。
「何言ってるの、お父さんはお父さん、心羽は心羽。一歩ずつでも頑張ってるのは、あなたでしょ?」
「…うん、ありがと」
心羽は少し伏せた顔をあげ、詩乃と目を合わせた。そうして互いに笑顔で応える。その母の言葉を素直に捉えたい。そして父や母、何より自分のために、自分の今日を良くしたいと心羽は思った。

朝食の後、それぞれ身支度を終えて、詩乃は朝食の後片づけを始める。心羽はトランペットをトランクに入れ、アレグロ楽団の次の講演に向けた練習を行う、ルクスカーデンの三番街へ向かった。その胸には、先のペンダントを着けて…暦は5月になったばかりで、道端の木々は生い茂り、その葉は日に照らされ深緑に色づいている。人々はのんびりと毎日の暮らしを営みながらも、それぞれが日々の仕事に精を出す。古代都市の神秘性をそのままに、森と川と、古い城と街が調和したこの風景を作りだしている土木・建設。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品まで生み出している職人。治安維持・法体系から生活福祉といった、人々のニーズに応答した民主的な社会体系は、明のような役所の役人や、公から委託された民間団体が担う。他にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる人が自身の職に対する誇りや矜持、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交う。
そんな光景を、心羽は目を細めながら見つめる。特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。自分が彼らから取り残されているような思いが彼女の中にはあった。

ルクスカーデン三番街から北西約250㎞先に位置する山岳地帯「七英雄の丘」、そこに建てられた〝遺跡〟に彼ら四人はいた。石を素材にして建造されたその内部は暗く、四人はそれぞれ手に持ったランプで辛うじて自身の眼前を把握している状態である。殆ど互いの姿は見えず、その背格好しか判別できないが、彼らはその声音からそれぞれの存在を把握する。やがて一人の男の影が、ランプを掲げて遺跡内の壁に円形に描かれた七つの紋章を見つける。日、月、火、水、木、金、土を思わせるそれを一つずつ確認し終えた彼は、ランプに照らされた白衣を翻す。そうして背後の三人に向けて言った。
「これのようですね、では始めましょう。」
その言葉に一人が白衣の方に向けて歩みながら返した。
「この先にあるものが、お前に御しきれるかな」
白衣の持ったランプが揺れて、その闇色のフードを照らす。遺跡の作る影とその闇色は同化したように見える。
「それ、冗談にしても笑えない」三人のうちの一人、ソプラノの少女の声がそう響く。
「俺は可能性の話をしているだけだ」闇色が振り返ってソプラノに返した。声の主は赤いポンチョに包んだ身を斜に構えるが、闇色は無視する。
「なんでもいい、早くしろ」少女の隣に控えていた大柄の男が言った。憲兵服に帯刀した刀の鯉口を左手の親指で切っている。その殺気を、白衣が右手を掲げて制し、言った。
「御せなければ、それまでだっただけの話です。些末なことですよ」
「大した自信だ」
白衣の言葉にそれだけ言い放った闇色は、黒い宝石が埋め込まれたチョーカーを首から外し、それを持った右手に軽く力を籠める。
「さあ、目覚めろ。人の心、その影に潜む魔物」
そう唱えた闇色の右手にどす黒い力の奔流が現れる。そうしてその手を七つの紋章に翳した次の瞬間、紋章が輝きを放った。しかし、やがてどす黒い力に浸食されるように紋章の輝きは徐々にその黒に染まる。
「時間が惜しいので早くしてしまってください」
「簡単に言ってくれる」白衣の言葉に闇色はいらだった様子で言った。
浸食が進む。紋章が黒に染まる。それに伴って遺跡全体が揺れ始める。
「来ますね、各々、臨戦態勢を」白衣が笑みながらそう告げた。同時にソプラノと憲兵の姿が変わる。抵抗するように輝く紋章の光に照らされたのは、赤い拘束具と翼がその身に宿った少女の姿と、牙のような大きな突起を全身に巡らせた人狼の姿だった。
やがて紋章の抵抗の光が完全に浸食の闇に飲まれる。そうしてその〝封印〟は、破られた。

三番街のとある一角、大通りから、東に二百メートルほど進んだ住宅地付近にアレグロ楽団の集会所はあった。石造りで出来たその大きな建物は、その土台を地面から少し高くして建造されており、その構造は気品ある佇まいを演出している。そこから演奏の練習をする種々の楽器の旋律が響く。心羽はその響きあう音の中でトランペットを吹いていた。
「うん、それぞれのパートも良くなってる。それと、中盤にもう少し、荘厳さを表現したいんだ。」
一しきり演奏を終えた後、指揮者兼、楽団の長である広夢(ひろむ)が言った。「はい」楽団員たちが返事をする。
「だから、中盤からは音を大きく盛り上げて演出できればと思います。ただ、それぞれの旋律は凄くいいから、僕の指揮の課題でもある」広夢も自らの課題を認め、言葉を発する。この口下手な楽団長は、話し方こそつぶやくようなそれであったが、その言葉の端々から、そこはかとなく誠実さが垣間見える。そんな団長の姿勢を、楽団員たちは慕っていた。心羽もその一人である。
「焦らないで行きましょうよ、ヒロさん」楽団員の一人が言った。「そうだよ」数人がそれに続く。それに少し笑んで広夢も応える。
「そうだね、僕らの音は一つずつ練習してできるものだし」
心羽はこうした一人ひとりの姿勢が、音楽を楽しみつつもより良いものを目指すアレグロを形成している大きな魅力と感じていた。

演奏の練習が一段落ついたところで、楽団員はそれぞれ休憩をとっている——心羽はそのタイミングに集会所近くの喫茶店、「カフェ・すてら」の隅の席で、自身と同年代の少女———遥香(はるか)と共にコーヒーを飲んでいた。天井の丸いペンダントライトが、屋内の少し陰った雰囲気に映え、木造の机や椅子の与える印象はレトロでありながらどこか味わいを演出している。二人はシロップで甘くし、その上にクリームを乗せたコーヒーを啜る。甘さと暖かさと香しさが鼻腔と口を満たす中、自分たちの演奏を振り返ったり、「広夢さん、素敵だよね。頑張ってる」などと他愛のない話をする。それが彼女たちの日常における楽しみの一つだった。
「こっちゃん、そのペンダント、綺麗」遥香は心羽が胸にかけたペンダントの煌めきに、微笑みながら言った。「ありがとう」心羽も笑みとお礼を返す。と同時にハッとした。今朝の夢の話を、共有したいと思える人がここにいる———「今朝ね…」胸の高揚感が思い出したようにまたやってくる。「素敵な夢を見たの。その中で私、鳥になってた」
心羽がそれだけ言って、これからする話を整理する。その一瞬、間が空くも、彼女の思いを理解した遥香が応える。「そっか、前にも言ってたもんね。〝鳥になって飛びたい“って」
その言葉に心羽は、夢の内容について続ける。
「うん、虹みたいに綺麗な星が光ってて、それを掴んだら、鳥になったんだ。このペンダント、その星のみたいな色してて…」そこまで話して心羽は一瞬口ごもる。
「こっちゃん?」
「気に入って、今朝買っちゃった」

こうしてそれぞれ思い思いに過ごす穏やかな時間は、唐突に破られる。心羽たちの場合は、集会所近くにある灯台からけたたましい音で警鐘が鳴らされたのが、その始まりだった。
「この鐘って…」「何かあった?」「地震じゃないみたいだし…火事?」その物々しい気配に、心羽と遥香はそれぞれ状況予測を口にして、店内の窓から外を見る。そこには声を挙げて逃げ惑う人々がいた。「すてら」店内の客も同様にその光景を見て事態の異様さを感じとる。年配の店主が店の玄関を開き、「何があったんだい」と逃げ行く人の一人に問うたのと同時に「化け物だ!化け物が人を襲ってる!早く逃げろ!」と叫ぶ声が店内に響いた。その声に「なんだよ、おい…」「逃げた方がいい」「早く行こう」客たちもとにかく店から出ようと玄関に押しかけ、店を出ていく。そんな事態の混乱に心羽は心身が固まったようになってしまう。言いようのない不安と焦燥に神経が尖る感覚、それに伴う動悸。自身でも恐怖を抱いていることがわかる。恐ろしい何かが、来る———
「こっちゃん…こっちゃん!」遥香の呼びかけにようやく我に返る心羽。
「あ…ごめん、はるちゃん」
「早く行って、集会所のみんなにも知らせよう」心羽はようやく返事するも、遥香は矢継ぎ早に言った。「…うん」
「お客さん、早く行って!私が店を離れられん!」責任感と焦燥感を滲ませた店主の言葉が響くと、「ごめんなさい」と「ありがとう」をそれぞれ店主に告げて二人は「すてら」を飛び出した。

方々に散って逃げる人の動きに、どう逃げるべきかの判断が難しい。その混乱に表情を歪ませた遥香が、駆け出しながら言った。
「どっちに逃げる⁉とりあえず集会所⁉」
「うん、みんなが逃げてる方向的に、集会所の方は大丈夫だと思う…」心羽がようやく動いた頭で必死に目の前の状況を分析して返す。
「わかった、行こう」二人はパニックの中を懸命に走る。しかし姿も見ていない、状況も理解しきれないにも係らず、こうして逃げ回るのに、心羽はどこか違和感を抱く。駆ける足は止められぬ一方で、そう思って彼女はほんの一瞬、後ろを振り返る。そうして見た光景は、緊迫感故におぼろげではあったものの、確かに彼女の目に焼き付く。襲われた人が倒れ伏す様と、その向こうに浮かぶ——異形の怪物の姿。瞬間、抱いた感情は嫌悪感と恐怖。その思いに心羽の身はすくみ、瞳が震える。そうして倒れ行く人々を背に逃げることしかできぬ状況に、何よりも強く思ったのは———
〝あの人たちに、手を伸ばせない〟
そんな無力感と悔恨だった。