フッリーヤ・ビント・ハーリドの経歴 version 12
フッリーヤ・ビント・ハーリドの経歴
フッリーヤ・ビント・ハーリドの経歴について
彼女は√エデン出身者ではない。√ドラゴンファンタジーに近いが、しかしそうではない特殊な√の出身者である。本稿では、そんな彼女の経歴をグレゴリオ暦に従って述べる。だが、わたしはこの経歴を、彼女が生まれた地域の歴史のなかに位置づけたい。そこで、いまからわたしは、これを試みるとする。
まずイスラームの誕生から現在に至る1400年ほどの歴史は三つの時期に分けられる。一つ目は古典期(7世紀から13世紀半ば)。イスラームの勃興から始まり、モンゴルの侵入によりアッバース朝が崩壊するまでである。二つ目は中世(13世紀半ばから18世紀)。モンゴルの侵入から始まり、ヨーロッパによる実質的な植民地体制下に組み込まれるまで。三つ目は近現代(18世紀から現在)。植民地体制に組み込まれてから現在までである。
フッリーヤは古典期に誕生した。古典期は正統カリフ時代(632年から661)、ウマイヤ朝時代(661年から750年)、アッバース朝(750年から1258年)と区別される。彼女はアッバース朝の生まれである。この時代は、カリフ制度に注目して四つに区別されることがある。第一期(750年から850年)は、カリフの支配がこの大帝国の全域に及んでいた時代である。第二期(850年から950年)は、カリフの支配がそれほどには及んでいないが、しかしウンマの長として尊重されていた時代である。第三期(950年から1050年)は、カリフの鼎立などが生じる時代である。第四期(1050年から1258年)はスルタン制などが生じる時代である。
フッリーヤは第一期に生まれた。この時期は四つに区別されることがある。創業とバグダッド建設の時代(750年から775年)、黄金時代(775年から809年)、内紛と統一の時代(809年から833年)、翻訳の時代(833年から850年)である。彼女は黄金時代に生まれた。この時代はカリフに注目してマフディーの時代(775年から785年)、ハーディーの時代(785年から786年)、ハールーン・アッ=ラシードの時代(785年から809年)に区別できる。
彼女はハールーン・アッ=ラシードの時代に生まれた。この時代の始まりの年にハールーン・アッ=ラシードが即位し、その日にマラーズィル(イラン系女奴隷)から息子が生まれ、アブドゥッラーと名付けられる。その翌年は何事もなく過ぎたが、787年にまた息子が生まれた。彼はアル・マンスールの孫娘、ズバイダから生まれた。ムハンマドと名付けられた。アブドゥッラーとムハンマドは成長し、一方はマームーン、もう一方はアーミーンとして内戦を繰り広げる事になる。が、いまは関係がないので割愛しよう。
次男が生まれたその翌年、ハーリドというアラブ人の下に、耳飾りを付けた娘が生まれる。それがフッリーヤである。すなわち、彼女は古典期アッバース朝第一期黄金時代ハールーン・アッ=ラシードの御代に、彼の次男が生まれた年の翌年に誕生したことになる。
彼女が生まれたのは、平和の都(バグダッド)の自宅であった。すくすくと育ち、803年にティグリス川沿いの別荘でコールドスリープ。2023年に眠りから覚めた。眠りから目覚めると、そこはひどいことになっていた。なんと水没していたのである。別荘が水中にあって、地上と変わりなくあるのは、別荘にかけたお陰だろう。彼女はそう思いながら悶々と数日を過ごし、えいやと√エデンに移動する。そのあとはいろいろあって、どこぞの高校に通っている、という次第である。
彼女が生まれたのは、平和の都(バグダッド)の自宅であった。彼女はすくすくと育ち、803年の初頭にティグリス川沿いの別荘でコールドスリープした。ちょうどハールーンが宰相とその一門を皆殺しにしたのも、同じ年の初頭であった。驚くべき偶然である。
彼女は2023年に眠りから覚めた。眠りから目覚めると、そこはひどいことになっていた。なんと水没していたのである。別荘が水中にあって、地上と変わりなくあるのは、別荘にかけたお陰だろう。彼女はそう思いながら悶々と数日を過ごし、えいやと√エデンに移動する。そのあとはいろいろあって、どこぞの高校に通っている、という次第である。
【参考】
東長 靖、イスラ-ムのとらえ方 (世界史リブレット 15)、山川出版社、1996/11/25
フッリーヤ・ビント・ハーリドの経歴について
彼女は√エデン出身者ではない。√ドラゴンファンタジーに近いが、しかしそうではない特殊な√の出身者である。本稿では、そんな彼女の経歴をグレゴリオ暦に従って述べる。だが、わたしはこの経歴を、彼女が生まれた地域の歴史のなかに位置づけたい。そこで、いまからわたしは、これを試みるとする。
まずイスラームの誕生から現在に至る1400年ほどの歴史は三つの時期に分けられる。一つ目は古典期(7世紀から13世紀半ば)。イスラームの勃興から始まり、モンゴルの侵入によりアッバース朝が崩壊するまでである。二つ目は中世(13世紀半ばから18世紀)。モンゴルの侵入から始まり、ヨーロッパによる実質的な植民地体制下に組み込まれるまで。三つ目は近現代(18世紀から現在)。植民地体制に組み込まれてから現在までである。
フッリーヤは古典期に誕生した。古典期は正統カリフ時代(632年から661)、ウマイヤ朝時代(661年から750年)、アッバース朝(750年から1258年)と区別される。彼女はアッバース朝の生まれである。この時代は、カリフ制度に注目して四つに区別されることがある。第一期(750年から850年)は、カリフの支配がこの大帝国の全域に及んでいた時代である。第二期(850年から950年)は、カリフの支配がそれほどには及んでいないが、しかしウンマの長として尊重されていた時代である。第三期(950年から1050年)は、カリフの鼎立などが生じる時代である。第四期(1050年から1258年)はスルタン制などが生じる時代である。
フッリーヤは第一期に生まれた。この時期は四つに区別されることがある。創業とバグダッド建設の時代(750年から775年)、黄金時代(775年から809年)、内紛と統一の時代(809年から833年)、翻訳の時代(833年から850年)である。彼女は黄金時代に生まれた。この時代はカリフに注目してマフディーの時代(775年から785年)、ハーディーの時代(785年から786年)、ハールーン・アッ=ラシードの時代(785年から809年)に区別できる。
彼女はハールーン・アッ=ラシードの時代に生まれた。この時代の始まりの年にハールーン・アッ=ラシードが即位し、その日にマラーズィル(イラン系女奴隷)から息子が生まれ、アブドゥッラーと名付けられる。その翌年は何事もなく過ぎたが、787年にまた息子が生まれた。彼はアル・マンスールの孫娘、ズバイダから生まれた。ムハンマドと名付けられた。アブドゥッラーとムハンマドは成長し、一方はマームーン、もう一方はアーミーンとして内戦を繰り広げる事になる。が、いまは関係がないので割愛しよう。
次男が生まれたその翌年、ハーリドというアラブ人の下に、耳飾りを付けた娘が生まれる。それがフッリーヤである。すなわち、彼女は古典期アッバース朝第一期黄金時代ハールーン・アッ=ラシードの御代に、彼の次男が生まれた年の翌年に誕生したことになる。
彼女が生まれたのは、平和の都(バグダッド)の自宅であった。彼女はすくすくと育ち、803年の初頭にティグリス川沿いの別荘でコールドスリープした。ちょうどハールーンが宰相とその一門を皆殺しにしたのも、同じ年の初頭であった。驚くべき偶然である。
彼女は2023年に眠りから覚めた。眠りから目覚めると、そこはひどいことになっていた。なんと水没していたのである。別荘が水中にあって、地上と変わりなくあるのは、別荘にかけたお陰だろう。彼女はそう思いながら悶々と数日を過ごし、えいやと√エデンに移動する。そのあとはいろいろあって、どこぞの高校に通っている、という次第である。
【参考】
東長 靖、イスラ-ムのとらえ方 (世界史リブレット 15)、山川出版社、1996/11/25