0 創造に先立つ絶対神の自己限定 みんなに公開

クリスチャンが世界の歴史的現実を神学的に理解するうえで再重要となる視点が、全能なる創造主の自己限定とか自己抑制ということだと思います。以下、モルトマン著『創造における神』(新教出版社 p135~136)と、北森嘉蔵著『日本基督教団信仰告白解説 』(増補改訂版 / 日基教団出版局 p59頁以下)からの引用です。                                     「アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、世界の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも『外』を持ったのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限定となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。しかし事実、神の外を考える次のような一つの可能性がある。すなわち、創造に先立つ神の自己限定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神御自身の『外の』世界を創造するためには、無限なる神は前もって有限性に対して、御自身の中の場所を明け渡したに相違ない。神のこのような御自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかけることのできる場所を明け渡す。全能と遍在の神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する」(以上)                                              「一つ明らかなことは、神はその全能をば人間に対しては抑制したもうたということであります。この『抑制』によってこそ、人間は自然物と区別される自由な人格的存在として造られ得たのであります。神がその全能を自然物に対するごとく人間に対しても貫徹しようとしたもうたなら、人間も自然必然性のうちに取り入れられて、『神の像』としての人格性はもち得なかったでありましょう。しかし、神は人間だけを他のいっさいの被造物と区別して、人格的存在 —— 自由な愛の主体として造りたもうたのであります。」(以上)                                                 前者では「創造に先立つ神の自己限定」という表現が、後者では神の「抑制」という表現が見られます。また、大木英夫牧師も次のとおり述べておられます。「神認識とは、対象化されない神がみずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」(『人類の知的遺産 72 バルト』講談社 p228~229)                             これって人間に対して霊である超絶神が御自身を啓示なさるにおいて神御自身が自己を対象化し、有限・相対化したということを意味します。聖書に物語られている創造主なる神は、使徒信条にあるとおり「天地の造り主、全能の父なる神」として成立しているかのようですが、そもそも「人間の堕罪が起こったということは、実質的な意味において、神の全能が否定に直面した」ということ、人間の「罪は、神の全能を否定するものであるからこそ、まさに罪なのです」ということで、「神の全能を貫こうとすれば人間は死なねばならず、これは人間を生かそうとする神の愛と矛盾してくること。『全能なる父なる神』がそれだけでは完結しえない真理である」ということであり、それゆえに御子キリストの受肉の出来事が起きた・・・つまり「『全能の父なる神』の真理は、御子イエス・キリストの真理によってのみ完結され貫徹されうる」ということ、「父なる神(創造秩序)の真理がキリスト論(和解秩序)のうちに包まれて成り立つ」ということです。この「包まれて」という点が北森神学におけるロジック(というかマジックというか…)の最大の特徴です。外なるものが内に包み込まれてまうのです。使徒信条の第一項である「天地の造り主・全能の父なる神」への信仰は、第二項である「我らの主イエス・キリスト」への信仰に依存し従属するということにもなるわけです。それは北森神学における三位一体論が、主としてギリシャ教父による古典的三一論に対抗して「キリスト論的三一論」と言われているように(『神学入門』p37~39参照)、三位一体の神論がキリスト論に包まれ吸収されてもうて、異端である父神受苦説と混同される原因にもなっとるわけです。そして、全能の父なる神の創造主としての固有の意義が喪失し、北森牧師の「神の痛みの神学」のロジックが、神の愛から脱落した罪人を内包するとかいったことで「神の外」があることを前提とする点では神の「遍在」を否定する異端に近いということにもなります。                                              「教授によれば、神の諸属性は改めてキリストの出来事、神の痛みから解釈されねばならない。神の痛みは、神の 外 (extra)にあるものを神が包むことなのであり、神に対する人間の反逆や罪は神の 外 、すなわち、神の全能・全知・遍在の 外 にあるものなのである。そういう 外 の性格をもつものこそが、神の痛みによって包まれるものなのである。もしもこの 外 なる性格が人間の罪から失われるとすると、神の痛みから真剣さが失われてしまう。北森教授がここで展開した神の有限性は、全く人間の罪とそれに対する神の救いとに絞られたものであるが、しかし、とにかくここには、伝統的な教理の中で説かれた神の全能・全知・遍在の否定が見られる。」(~論文「今日における神観の一問題」)https://noro.eucharistia.tokyo/category/new topics/?arc=%2F%2Fnoro.eucharistia.tokyo%2Farchives%2Fyoshionoro%2F1977kamikan.html                                          宗教改革者マルティン・ルターの「十字架の神学」を「『神論』と結びつけて、『苦しみたもう神』を宣明する」(『今日の神学』p222)というのが現代における「十字架の神学」神論である…という点に自分は、いかに「キリスト」教とは言え、キリスト論が神論を吸収するという大いなる無理を感じます。要するに「三一論的『十字架の神学』という立場」(~北森氏著『自乗された神』〔日本之薔薇出版社〕p158)というのがクセモノなのです。神学の素人である信者をあざむくマジック・ロジックなのです。その背景にはルター自身は斥けた「神義論=弁神論」という思弁があります。三位一体論においては各位格としての固有性があるわけですが、北森神学では「子」が「父」と「聖霊」だけではなく「子」自身をも包み込んで解消させてまうのです。すると「子」の十字架刑死において「父」なる神も苦しめられ殺されてまうことになります。不受苦不死の神がでっせ~!それは誤解や。各位格の固有性があるので「子」は死んでも「父」は死なん。痛むだけや。…と北森氏は言いますが、北森牧師と同じく日基教団所属の神学者であった野呂芳男牧師は広い意味では北森氏の三一神論も父神受苦説に入ってまうと指摘してます(父神受苦説=天父受難説。様態論の異端であり、サベリウス主義では、「子なる神が十字架にかけられたとき父もまた十字架にかけられ死なれたとの主張」⦅~山本和編『現代における神の問題』〔創文社〕所収喜田川信氏の論文「三位一体の一考察」p129⦆。正統的キリスト教の元祖とも言えるアタナシウスは、北森嘉蔵牧師によって「アタナシウスの神学においてはこの『外』の契機がいささか不明瞭であり、『父神受苦説』ないしサベリウス主義への傾向をもっていた事は、教理史家の指摘するところである(中略)。これ一方では、アタナシウスがアリウスを相手としたために生じた反動であり、他方、アタナシウスが十字架の真理より出発せずして受肉から出発したための抽象性である。」と言われている⦅『今日の神学』p34⦆。その指摘した北森牧師自身の神学も、テルトゥリアヌスによれば「父神受苦説」に当たると野呂牧師から指摘されているのだから、神学などは何が正統で何が異端かなんて明確な線引きは困難ってことだらあ)。                               「北森教授はご自分の立場は、父なる神ではなく子なる神が犠牲の死の苦しみを休験するのだから父神受苦説ではないと言われる。成程これは父神受苦説をどのように定義するかに依存することではあるけれども、少くともテルトリアヌスによれば、北森教授の立場も父神受苦説に含まれてしまう。」(~野呂牧師の論文「今日における神観の一問題」)                                               十字架刑で殺されたイエスは父なる神と同一であったとするのだから神殺しの思想ということになる。それが野呂牧師をして北森牧師の神観が「有限の神」に接近したと指摘せしめた所以です。「少くともある時期に、北森教授は、われわれが通称で 有限の神 (a finite God)と呼ぶものに接近されたが、もしも今日この時期の思想が開花しておれば、歴史の中に神の摂理的な知恵や力が予想できなかった事柄、神といえどもどうしようもない事柄が生起し得ることとなり、そのために神が痛み苦しむということがあり得る訳である。」(野呂牧師、前掲論文)                                          そしてその関連で前述のとおり「遍在」の否定ということが出てきます。すなわち野呂牧師は、北森神学が「遍在」の教理に反することを指摘しており、私もこの点は北森神学の組織神学としての最大の欠陥やと思います。しかし北森神学を批判した野呂神学も「有限の神」を語り、神観については(哲学的)「絶対」ではなく「究極」を語る非全能神観の立場ゆえにしょせん同じ穴のムジナであり、その分、神学的信用は落ちます。一方、北森神学の苦しみ痛む神という観方を好評価しつつも十字架の神学としての不徹底さを批判したのが日本バプ連の寺園基喜牧師です。以下、「苦難に立ち向かう能力とビジョン」(日本キリスト教社会福祉学会・特別講演、2007年6月)から引用。「北森氏は非常に感動的な仕方で、神の痛みを語ります。それはある意味で、苦しまない神ではなくて、苦しむ神の語りであります。それは素晴らしい事です。北森先生はこういう文章を『神の痛みの神学』の中に書かれますが、ちょっと引用しますと、『我々は神の御心をつぶさに知り、神の深き所まで極め、福音の心を洞察せねばならぬ。』 ではその福音の心とは何かというと、彼は記します。『私にはこの福音の心は、神の痛みとして示された。』 福音の心は神の痛みとして示された。そう語られるのであります。そして『ギリシア人の心は神の痛みを見る目に欠けていたし、ギリシア哲学・形而上学に影響されたキリスト教神学も、この神の痛みを忘れている。すなわち苦難の神を語ろうとしていない』と批判されるのであります。それは素晴らしいことだと思います。しかしながら、この『神の痛み』というのを説明するに先生は、日本語の『辛さ』という言葉で置き換えられます。辛さというのは、他者を愛して生かすために、自己を苦しめ、死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死な占める、ということです。(中略)辛さというのは、ここでは父親の君主への忠誠心を語っているにすぎないのであって、いわば中世的な封建主義的な忠誠心を語っているにすぎないのであって、殺されゆく子の痛みということは、もう少し徹底して言われるべきではないのか。辛さと痛みというのは、果たして十分機能しているのか。だから北森神学において、神の痛みはどこまで徹底して十字架の神学なのかという事を、疑問に思うのであります。」云々。いずれにせよ、このように十字架のキリストを中心とする神学はどうしても不受苦的神観(テモテ第一6:16)に反対の論調になります。本来は不受苦不死である神が受苦された旨を聖書が物語っているとすれば、それこそ自己限定による以外にはあり得ません。しかしいかに全能とは言え、本来からして受苦し死に得る神、そして実際に御子の十字架刑においてそうなった神を説く神学には絶対神観は認められません。広い意味で「有限の神」を説く神学に入る立場は、元々、相対的かつ有限なる神を観る神学だということになります。そのような神観ないしは神学は根本的意味での人の救いには役立ちません。まずもって頌栄すなわち創造主なる神の絶対的主権への賛美を信仰告白として語らないところに(人格的対象として信仰されてきた)『神』の『死』を強調する現代思想ないしは神学の深刻な闇があります。福音書において主イエス・キリストは、父なる神の全能を補完する存在ではなく、むしろ『人には能はねど、神には然らず、夫れ神は凡ての事をなし得るなり』(マルコ10:27他)と言われているとおり、むしろイエスは子として父なる神の全能を確信し、その絶大なる力に依拠して活動され、派遣者である父なる神の栄光を現わされたのです。北森神学などが主張するように、御父は御子に依存し従属しているわけではなく、むしろ御子の方が御父に対して、従属的に依拠しておられるわけです。たしかに「天地の造り主、全能の父なる神」は、その全能を抑制なさり啓示において歴史的現実に働く神として自己限定なさいました。だからこそ聖書に物語られて私たちの認識の対象になっているわけです。創造主は御父のみであり、青野太潮先生の論文で、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)と言われているとおり、御子は創造主ではありません。これはギリシャ語「ディア」(英語の through に相当)に注目することによって言えることです。コリント第一8:6やコロサイ書1:16で、御子「により、によって」(口語訳)造られた旨が言われているので、御子が創造主かとカン違いされますが、この「~により、~によって」は英語では by ではなく、throughに相当し、要するに御子は創造の媒介者・仲介者です。これはヘブル書1:2「神は(中略)御子によって、もろもろの世界を造られた。」に明らか。創造の主体はあくまで「神」であって「御子」に非ず!ここでも「~によって」は、throughなり。ヨハネ福音書1章3節「すべてのものは、これによってできた。」(口語訳)の「これ」は「言(ことば)」であり御子ですが、この「~によって」(διά / through)に明示されているとおりです(3節は、岩波書店版ヨハネによる福音書⦅小林稔訳⦆では、「すべてのことは、彼を介して生じた」)。                             「『主』(キュリオス)という称号の中には、つねに神の尊厳と支配や超地上的な力が、またしばしばキュリオスの名で呼ばれる神性の救済力が含まれている。けれども、唯一の真の神は世界の創造者であり(中略)キリストは創造の仲立ち(コロ一16)であり、かつキリスト者の仲立ちであって、集会は彼によって成るのである。(中略)パウロがここでキリストの先在と世界創造における仲立ちとを教えていることは明らかである。キリストはまさに仲立ちとして、かつ永遠の神の子として主なのである。」(NTD註解Ⅰコリ8:6 p143)                                       上記引用の文言中、御子イエス・キリストが繰り返し「仲立ち」と言われていることに注意を要します。                                        それにしても、神学の営みも神が自己限定しておられなければあり得ないことです。御父は御子にこの世の全権を委譲し、御子は終末に御父に服従して全権を返上なさいます(Ⅰコリ15:28)。使徒パウロが「キリストは神のものなり」(Ⅰコリ3:23)とか「キリストの頭は神なり」(Ⅰコリ11:3)と述べているにもかかわらず教義においては御父が御子と「同等」とされるのも(使徒信条やニカ・コン信条のような最もエキュメニカルな信条では「同等」は用語としても事柄としても告白されていません。西方教会のアタナシオス信条のような形而上学的思弁も甚だしき二義的な信条で言われているだけで)御父の自己抑制・自己限定において教会を導く聖霊のはたらきによるものであり、そこに御子の所謂「ケノーシス」(自己空化)論も根拠づけられて然りでせう。しかし啓示が神のすべてを知らしめるものではありません。啓示を超えた神秘については人知では計り知れない定めとして、御意は成るべくして成るものとして賛美し祈るのみです。それは人間の歴史的現実を神学的に理解する要諦です。苦難の中での唯一の希望は創造主なる神の御意志が基本的に愛であるということ、そして全能ゆえに救済は必ず成るということです。創造主なる神はノアの箱舟の洪水の出来事の後で、人のゆえに大地を呪うことはすまい、あらゆる生き物を撃ち滅ぼすことはすまいと約束なさったお方です。そこで人心の企ては若い頃から悪いといわれています。性悪的人間観とみてもよいでしょう。洪水によってきよめられなかった人心の悪が世界の歴史に悲劇を残してきました。創造主の全能の抑制によって自由を手に入れた人間は、その代わりに苦難を避けることはできません。マスメディアが世論をバックにつけて絶大な権力を獲得した現代社会において、人権尊重の訴えは無論大切ではありますが、創造主の絶対的主権を無視しての人権イデオロギーでは社会秩序に混乱を招きます。                                         以上の主旨も含めて、最後に日本では稀有の女性宗教哲学者である花岡先生の言葉を引用しておきます。                                                       「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(花岡永子「発題Ⅰキリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006)

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