1 聖書と血 みんなに公開
聖書と血
聖書では『血を避けない』という神のおきてが何度も出てきます。
それを、血を口から取り入れなてはいけないという意味にとらえる人も多くいます。でもクリスチャンは、口からだけでなく血管に直接血を入れること、つまり輸血も避けるべきだと考えます。このメモでは、その理由を書いていきたいと思います。
初めて神が血の扱い方について述べられた箇所を挙げます。
創世記 9:3-4 「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。 ただし、肉は 命である血を含んだまま食べてはならない」
この時、ノアの大洪水後に人類に肉食が許された時、同時に「血を食べてはならない」という命令が与えられました。これはノアと彼の子孫つまりノア以降の全人類への命令でした。生き物の肉や他の部分は食べることが許されましたが、血だけは許されませんでした。
でも、なぜ神は血を食べてはならないと命じられたのでしょうか。 神は「なぜ」血を食べてはならないのかも教えられました。
神は「命である血」とおっしゃいました。つまり、血は人から見れば体の中にある赤い体液に過ぎませんでしたが、神から見たらそれは「命」(ヘブライ語では「魂」)を意味していました。
ですから、この時に神は、単に人間の健康のためにとか感染症を防ぐために「血を食べてはいけない」という掟を与えられたのでなく、血に対するご自分の見方を明らかにされた ということではないでしょうか。神にとって、血=「魂」「命」であり、神聖なもの、命の与え主のものなので、それを人間が自分のために取ってはならない 、神に帰さなければならない ということです。
そのことは神の民イスラエルの律法においても再度確認されました。律法からは更に深く血に対する神の見方を知ることができます。
レビ記 17:10-12
「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。 血はその中の命によって贖いをするのである。 それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない」
ここでも、血が「生き物の命」を表すゆえに、それを食べてはいけないと命じられています。
さらにここで神は「血を与えたのは、祭壇の上で命の贖いのためである。血はその中の命によって贖いをする。それゆえだれも血を食べてはならない」とおっしゃいました。ここでは、血がなぜそれほど神聖な扱いを要するのかが更に明らかにされました。
血は「贖いをするためのもの」つまり人間の罪を贖う力を持つものとして取り分けられた ということです。
もちろんイスラエル人はほふった動物の血をいつも祭壇に捧げる訳ではありませんでしたが、いかなる血も「贖いをするためのもの」を表すため、食べることはもちろん、自分の用のために取ってはならず、必ず「地面に」注ぎ出さなければなりませんでした。(レビ17:13。申命記12:16。12:24。申命記15:23をご覧ください)
では、神が「贖いをするためのもの」と言われたその血は何を表していたのかというと、ただの犠牲の動物の血ではありませんでした。律法で定められた贖いのための血はすべて一人の血を予表していました。そうです、人類の贖いとなったイエス・キリストの尊い血です。
それで、血を食べたり、自分のために取って使う者は、神から見て、神の子羊が流す贖いの血 という極めて神聖な備えに対する重大な不敬を示すことにもなりました。 血を地面に注ぎ出さないなら極刑を神により定められた理由がここで分かります。
その後、イエス・キリストがその贖いの貴重な血を流してくださり、その血の価値を天の神のもとに差し出され、罪の許しがもたらされることとなりました。
「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」ヘブライ人への手紙 9:11-12
そしてその後も、初代教会の会議において異邦人のクリスチャンに対しても、使徒たちは聖霊の導きによって再度同じ掟を与えました。
「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 … 偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」使徒言行録 15:23, 29
やはり「血を避けなさい」と命ぜられました。律法はキリストの犠牲によって取り除かれましたが、「命である血」を避けなさい という掟は、ノアの時代からずっと人類に対する変わらない神の見方、命令であり、律法が除かれた後も神の民は守るべきものである ということが明らかにされました。クリスチャンは「アブラハムの時代から厳格に守られてきた割礼すら守る必要はないが、血を避けるべきであるという神の掟は守るべきである」 と使徒たちは命じた訳です。
それで、この聖霊による命令は、1世紀だけだなく、その後の教会において長年重要視されてきました。
たとえば2世紀のエウセビウスもクリスチャンが血を食べないことを述べています。後の7世紀のクニセクスト評議会(https://www.newadvent.org/fathers/3814.htm)の第67項において、クリスチャンは血を食べてはならないこと、食べるものは破門となること確認されました。その約200年後にも使徒15:29の命令が守られていた記録も残っています。
ちなみにテルトリアヌスによると「異教徒が治療のために血を用いるがクリスチャンはそうしない」と書いています。さらにクリスチャンは迫害のときに踏み絵のように血を出されて試されたとも書いています。
このように、長年にわたりクリスチャンはいかなる理由でも、たとえ命が懸かっていても、使徒たちの教えに従って決して血を食べなかったことが分かります。
さて、その後 世界では、血を食べるだけでなく、血を血管に直接注入する輸血が行われるようになりました。初めの輸血の記録は15世紀に遡るようです。
では自分が、「血は命である」 ゆえに神に返すべきであるという神の見方を知り、血を食べることを断固拒否していた当時のクリスチャンだとします。輸血という療法が行われるようになり、世の人々がそれを行っているのを見た時、どう思ったでしょうか。「神は血を食べることは禁じたけれど、血管に血を入れることは禁じていない。神はそれを見てもなんとも思われないはずだ。だから輸血は問題ない」と考えたでしょうか
そう考えた人もいるかもしれません。でもそう考えなかった人もいました。17世紀の複数の著書によると、クリスチャンの医者や学者の中にも「輸血は神の掟に逆らっている」という考えの人たちがいました。
例えば、イタリア人で医師であったバルトロメオ・サンティネリはこう述べました。「血の使用を禁ずる命令の目指すところは,人は血を食べるべきではないというだけのことかもしれず,その理由でその禁令は我々の目的と関係が少ないように思われるかもしれぬが,それでも,その禁止命令の目的は今日の輸血と相いれない。ゆえにそれを行なう者は慈悲を垂れる神に逆らっているように思われる」(バルトロメオ・サンティネリ著「輸血に対する反論,すなわち,個人から個人へ血液を注入する手術に対する反駁」1668年,130,131ページ)
デンマーク人の学者トーマス・バルトリンも1673年に次のように書きました。「近年,かけ出しの医師が行なう輸血手術には目に余るものがある。切開した血管を通して,強壮剤ばかりでなく,動物の温血を病人の心臓に注入したり,人から人へ輸血したりしているからである。……実際,識者のエルショルツ(「ニュー・クリスタ」,第7章で言及)は弁明として,使徒たちの布告は事実口から血を食べることに関してであり,血管による注入に関しては全く述べられていないと理解されねばならないが,取り入れるどちらの方法も,その血によって病人の体に養分を与え,健康を回復させるという目的では同一である,と述べている」(トーマス・バルトリン著「血の禁令に関する医学的論考」1673年,11ページ)
そして私もこう考えます
「神は人類に、血は命であるゆえに食べてはならないとおっしゃった。命である血の唯一の使用は、罪を贖う犠牲として神に捧げられるためだけに用いられた、決して血を私用してはならなかった。そしてクリスチャンにも再び血を避けなさいと命じられた。だから、神はずっと、血を命、神聖なもの 、ご自分のものと見ておられる。だから私は、血を食べることも、他の方法で自分のために取ることもできない。輸血もそうだし、動物や人間の血を用いたどんなものも自分のものにすることはできない。神から見て血は命を表すため、神に返すべきだ」
と考えております。いかなる方法であっても血を自分のために取り入れるなら、神を不快にさせてしまうと。
このような訳で、私は輸血をしません。もちろん命は神からの贈り物ですから大切にしたいと思っています。それで血を使わない別のあらゆる方法を使って治療していただきたいと願います。
以上は私(やエホバの証人)の聖書からの血に対する見方です。
ここまで読んでくださりありがとうございました🌿
◎文献
「クリスチャンは理性を持たない動物の血でさえ食べることを許されていないのに、どうして子供を食べたりするだろうか」―「教会史」(V.I.26)エウセビオス著(3世紀)
「私達は普通の食物に動物の血をさえ含めていないからである。それゆえに、わたしたちは絞め殺されたもの、独りでに死んだものを避けるのである。それはたとえ肉の内部にあって見えないとしても、何らかの点でその血によって汚されることがないようにするためである。あなた方はクリスチャンを試す時、血の一杯入ったソーセージを差し出すが、もとよりあなた方は、クリスチャンの間でそれが禁じられていることを十分承知している。だが、あなた方はクリスチャンに罪を犯させたいと思っているのである」ー「弁明」(IX.13-14) テルトゥリアヌス著(2世紀)
「人間を打ち殺すのを見ることも聞くこともわたしたちには許されていない。わたしたちは人間の血を避けたいという気持ちが非常に強いので,食事の際にも食用にされる動物の血を避ける」―「オクタウィウス」(XXX,6)
使徒 15章28,29節の「血を避けなさい」をクリスチャンが守っていたことを裏付ける二世紀および三世紀の他の参考資料。
オリゲネスの「ケルススへの反論」VIII,29。
「マタイ伝注解」XI,12。
クレメンスの「師範」II,7。
「ストロマテイス」IV,15。
「クレメンス説教集」VII,4,8。
「クレメンスの承認」IV,36。
殉教者ユスティヌスの「対話」XXXIV。
キプリアヌスの「論文」XII,119。
「十二使徒の教え」VI。
「聖使徒たちの規定」VI,12。
ルキアノスの「ペレグリヌスの死について」16。
https://plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/99/jbisi.htm
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21978873/
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17663857/
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17056333/
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/20813584/
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