0 ZINEに書く予定だった文章 & 最近わたしが考えていること(前編+後編) みんなに公開
〜前編〜
今まで複数のissueのマーチに参加してきた。入管問題、パレスチナ、LGBTQ+関連。たぶん、そのくらい。マーチに参加したいという気持ちは常々にあるけれど、そもそも、わたしがマーチに参加するには、「参加できる条件/環境」が満たされている必要があるので、現実的には参加できるマーチは少ない。わたしにとって情報保障の有無が命と安全に深く関わるので、基本的にUDトークなどの情報保障がないマーチには参加しない。情報保障やバリアフリー情報の優先度を高く設定しているマーチは、運営のかたもそうだけど、参加者の安全を第一に考えているという表明のひとつだと思う。今まで参加してきたマーチ、そのどれもに思うことがあり、今日はそれを忘れないうちに書き留めていければと思う。
まず、マーチは当然だけれど、先頭にいる方々が歩き出すことで始まる。そのときにどこでも似たようなことが起こる。歩く速度だ。始まった途端「始まった!」「さあ、歩くぞ!」という気持ちになって意気込んで歩く方もいると思う。もしくは、緊張のあまりに、気持ちを落ち着かせるために足を動かす方もいれば、何も考えずに自分のペースで歩き出す方もいると思う。
冒頭では、参加者どうしの間隔をひらけるためにも、それがちょうどいいのかもしれない。けれど、先頭にいる方々の歩く速度が速ければ速いほど、後ろは前方を追いかけるのが大変になる。もし手で車椅子を動かす方がいたらどうだろう? ベビーカーや、重い荷物を持っている方は? 杖をつく方は? 体力が少ない方は? 足が弱い方は?
先頭で、なおかつ、始まったときだからこそ、歩く速度を、周りが「動き始めてる?」と思うくらい、ものすごーく遅くしてもいいかもしれない。警察が「もっとはやく!」と言ってきても知らんぷりをしていい。それは警察のご都合で、わたしたちにとっては知ったこっちゃではないのだ。
これを書いた日(2024年12月のいつか)のすこしまえに、参加したマーチでは、はやる気持ちを抑えながら、子どもの歩幅を意識してゆっくりと歩き続けた。ゆっくりと歩くことは思った以上に体力を使うし、気も使った。うしろにいた参加者がどんどんわたしを抜いていく。わたしはそれでもゆっくりと歩く。そうすると最終的に、わたしがいちばん最後のひとりになった。それだけではなく、前を歩いている存在たちとの距離もかなり離れており、途中から警察も私を参加者のひとりだということを、短い時間だが忘れていた。
そのとき、わたしはフラッグを持っていた。だからひとりの警察官は、ちらちらとわたしを確認していた。もし、フラッグを持たずに歩いていたらどのようになっていたのだろう? ゆっくりと歩く速度を変えずに、前を歩くマーチのみんなをみていて、そんなことを考えた。
ひとは、意外とうしろを振り向かない。前だけを見て歩き続けている。
わたしが書きたいことのひとつめ。
それが、たまにでもいいから、みんなでうしろを振り向いて、取り残されている存在がいないか確認しようよ、ということ。連帯は希望のひとつの形だというのなら、その希望をそれぞれの個のなかでも維持できるように、お互いに確認しあうのはどうかな。みんないることを確認しながら歩く。それもまた、安全を守ることに繋がるのだから。
ふたつめ。わたしはマーチの最中、みんながどんなふうに歩いているのかを知らない。雑談しながら歩いているのだろうか。わたしにとってのマーチは、集団でありながらも、わたしはそのなかで、ひとりでいるという感覚がある。理由のひとつに静寂があるからだ。
コールがきこえない。それはすなわち、連帯の気持ちがうまれにくい。コールを通し、名前も顔も知らない者どうしでも、どことなく絆がうまれるのだろうと思う。一体感や、心のなかで手を固く握り締めているような感覚があるのかもしれない。わたしはずっとつながれていないような冷たさを感じつづけている。
声をつかうこともしない。だから黙って歩く。言葉やプラカードをつかい、視覚的に呼びかけることはできる。それでも静寂は広がったままだ。だからある意味ではひとりで黙って前を見て、歩きつづけるわたしの姿には、言葉にはできないけれど、どことなく、強烈な印象をうける方もいるかもしれない。
ところで、ここまで読んでくれたあなたにひとつ問いかけたい。
もしわたしがスマートフォンを紛失したり、電池切れで、スマホがつかえない状況で、マーチからはぐれたとき、わたしとどう再び合流するのだろうか?
当然ながら、わたしは耳がきこえない。だから、みんなが名前を呼んでも、言葉の通り、わたしには届かない。
こんなエピソードがある。わたしがちいさいとき、家族とお祭りかなんかに出かけていたときだ。あるとき、家族がわたしがいないことに気がつき、慌ててわたしの名前を呼んだ。家族は青ざめた。どう探せばいいか分からないからだ。耳がきこえない。声での呼びかけができない。目で探すしか他ならない。結局そのときは、わたしはずっと家族を追いかけて、家族の足元にずっと立っていた。家族がそれに気づいた形で、事なきをえた。家族が叫んでいるそばにいても、わたしは呼ばれていることに気が付かない。はぐれることは、生き別れ、または、死だ。
想像してみてほしい。耳がきこえないちいさな子どもがマーチに参加していたらどうだろう。ましてやマーチは道路を歩く。車もいるし、自転車もいる。場合によっては、人がたくさんいるところもあれば、人気が全くないところもある。
警察に従わずにゆっくりと歩くこと。警察は耳がきこえない存在や、体力がない存在や、車椅子の存在など、マイノリティを想定していない。または、考慮をせずに「はやく」と言うことが多い。だから警察に従わずにゆっくりと歩くこと。そして、ときどきでもいいから、うしろを、まわりを見て、確認すること。
それが、みんなの安全を守ることにつながると思う。ひとりにさせないこと。それがやさしさのひとつであり、重要で、大切なことだとわたしは思う。
マーチのとき、よく思う。もしわたしが一番うしろにいたとして、歩みを止めたら、気づく方はどれほどいるのだろう。と。
〜後編〜
渋谷のパレスチナマーチに参加する前、わたしにはいくつか不安があった。
それは前編にも書いたことも含まれているのだけれど、やはり一番の不安は「助けを呼べない」要因のように思う。
たとえば、わたしには数名仲間がいて、その方々には直接助けを呼ぶことができるけれど、その方々以外には呼べないかもしれない。
これは初めてマーチやデモにひとりで参加する方々にも同じことが言えるのではないだろうか。運営メンバーが固定メンバーだとしても、それは「=助けを呼ぶことができる」ということにはつながらない。
ずっと方法を考え続けている。どうしたらこのハードルを下げることができるのだろう。となりが名前も顔も知らない方だとして、わたしはどうしたらその方に助けを呼ぶことができるようになるのだろう?
まず、対人関係でコミュニケーションを取りやすい状況とそうでない状況がある。それは心理状態もそうだけれど、身体状態や物理的状態もある。
たとえば、
・めまいが突然発生して、スマホをさわれなくなったとき
・スマホが突然壊れて咄嗟に伝える方法を失ったとき
・心理的にパニックになって文字がうまく打てなくなったり、そもそもそんな余裕がないとき
・そもそも知らない方に話しかけること自体ができないとき
など。
ほかにも様々な理由で助けを呼ぶことができないという方もいることだろうと思う。声が出ない方や、言語の壁によって助けてほしいことが伝えられなくて……みたいなことが起こりえる方だってきっといるだろう。
そんなとき、どうしたらいいのだろう。スマホ以外に対応できる方法も必要におもう。
ずっと方法を考えているけれど、意外とアイデアが出てこない。マインドマップ型思考のわたしの頭から出た唯一のアイデアは、全員「SOSカード」を持つのはどうだろう、ということだった。紙で印刷してもいいかもしれない。それぞれ数枚持っておいて、もしだれかが忘れていたら持っているカードをあげておく。これもまた安全点呼の一部になるような気もした。
ほかになにかいいアイデアがあるなら、それを試してみるのもいいかもしれない。
じつはわたしが一番恐れているのは、警察とのトラブルだ。だけれどもマーチ中には警察に抵抗している。歩くスピードをあえて遅くすることも抵抗のひとつだ。
警察とのトラブルがなぜ怖いのかというと、コミュニケーションが大きな要因だ。耳が聞こえないということを伝えたあと、筆談をしてくれるかどうかも確信はない。それに、わたしのコミュニケーションは声ではなく、主に手と腕で行われる。だからもし手と腕を動かないようにさせられたら、わたしには発言権を奪われたということに等しい。こういったリスクがいちばん不安が大きい。対応する方法や、対処する方法が全く思い浮かばないのも理由のひとつだ。
耳が聞こえないということは、少なからずとも、情報が入ってくるまでにタイムラグがあるという現実がある。これまたちょっとむずかしい。
それから、また別のエピソードを書くと、わたしは救急車のサイレンも聞こえないというのもまた一側面としてある。だから「救急車が通るから急いで!」という情報が入らず、それに気がつかず、ゆっくりと歩いてしまうこともある。救急車を邪魔したい気持ちは一切ないので、この場面に遭遇した時は本当に胸が痛む。
ほんとうにごめんなさい……。
先ほど書いたフロート車のときも、マーチのような感じで歩いていた。そのとき、わたしが工夫していたのは、マーチの構成。
これが参考になるかどうかは分からないけれど、当時工夫したことをここに書いておこうと思う。
マーチは1列4名(●◯◯●)で構成した。外側●にマジョリティ性が高い方にいてもらうようにした。(障害のない方、声でコミュニケーションが取れる方など)内側○はマイノリティ性が高い方にいてもらうことにした。(車椅子の方、ろう者、警察が怖い方など)
当時、一番前にマイノリティ性が高い方々にいてもらった。(これは真似をしなくてもいいかも?)理由は一番前に手話通訳の方と、コールの書かれたスケッチブックを持った方にいてもらったから。
(ちなみに一番後ろは大きな音が苦手な方々のための静かゾーン。)
とある仲間は、「複数人で持つ大きいバナーが先頭にある(自然と歩調が遅くなる)のはペースを守るのに良いなと思いました」とおっしゃっていたので、いろんな工夫を取れそうな予感がした。
ちなみにわたしはコールの拍に合わせたアクション、たとえばクフィーヤを回したり、腕をあげたりするなど、が好きなのだけれど、これも聴者の協力がないとできない。(リズムが分からないから)
だからだれか目の前でコールの拍を目で見て分かるように教えてくれるパフォーマーのような方々がいたらいいな、とおもったりした。願望ともいいます。その横に、そのときのコール拍を教えてくれるスケッチブック掲げる、または、首にかけてる方とかもいたらいいかもしれない。
というのも、コールの拍が急に変わると追いつけない。「!?」とびっくりする。
そういう意味で、コールの拍や分かりやすいリズムはアクセスがしやすい方法なんだという気づきもあった。
今まで合唱デモをしてきたけれど、Viva Palestinaがいちばん分かりやすく、参加しやすかった。ほかは正直分かりづらくて、途中から参加を諦めることが多々あった。(「無……観客モード」みたいになった。)
おそらく、手拍子がしやすいのがアクセスしやすいリズムや拍なのかもしれない。わたしには分からないけれど……。
こういったあらゆる方面での不安や心配事、それから感想や意見やフィードバックは集めてみると良いのかもしれない、とも思ったりした。
集まった情報は団体内部に留めておくのではなく、オープンソースのように共有しあうのがいいようにも思う。
アンケートフォームをつくるのもありかもしれないし、または、Miroのようにそれぞれが自由に書きこめて、付箋を貼るように公開してくれるようなサービスがあるなら、利用してもいいのかもしれない。
ここまで色々と書いたけれど、最後まで読んでくれた方々にはありがとうございます。
わたしには信じていることがあって、それは、だれかひとりの不安や障壁が取り除かれることは、わたしを含めたみんなの不安や障壁を取り除くことにつながって、結果全体的にもより良い影響が広がるということ。
エレベーターもスロープもUDトークもそういうことなんじゃないかな。
だから、不安を書くことに不安を感じていたけれど、もし書くことでなにか気づきを与えられたり、より良くなるためのきっかけになるかな、ということを願いながら書いてみました。
仲間に直接伝えることもできたけれど、そうすると、属人的になってしまったり、その仲間に負担をかけ続けてしまうことになるかもしれないことを考えると、それはどうしてもわたしが望むことではなかった。
負担をかけることは避けたいし、そして何よりも、運営メンバーだから、ではなく、参加者としても、そうでなくても、みんなに伝えられたら良いなと思っての投稿でした。
最後に、話が急に変わってしまうけれど、
情報保障とバリアフリーは
人権/いのちの権利。
このことが本投稿でも伝わったらいいなとも思いました。
長くなりましたが、以上です。(ぺこり)
aoi
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