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褪せる
ねえ、また忘れてる、と声をかけると、三井さんははっとして、色を思い出した。オレはそれを見て安心して、また手元の雑誌に目を落とした。三井さんはこのところ、たまに自分の色を忘れてしまう。
色を忘れると、三井さんはうっすら透ける。さっきも油断していたから、ダイニングチェアの背が透けて見えていた。外にいるときは気を張っているからなのか、透けることはないらしい。ただ、オレと暮らすこの家に居るときだけ、三井さんは色を忘れて透けてしまう。
「うっかりしてたわ」
後頭部をガシガシと掻いて、三井さんはうし、と気合いを入れ直すみたいな声を出した。そうするとさっきより輪郭がはっきりしたようになり、色も濃くなった気がする。
「しっかりしてよね」
三井さんの胸のあたりに拳を当てて、オレは噛んで含めるみたいにして言う。三井さんはおう、と締まりの無い返事をして、へら、と笑った。
初めて三井さんが色を忘れてしまったのは、今日とおなじようにダイニングテーブルに座ってコーヒーを飲んでいるときだった。さっきまでどうでもいいことを話して笑っていたのに、ぼや、と三井さんの色が褪せた。右手に持った黄色いマグカップの色だけがくっきりと鮮やかで、オレは何度か瞬きをした。自分の目が霞んだのだと思ったのだ。でも、マグカップの黄色ははっきりと確かで、三井さんの色彩だけがどこかぼんやりとしているのだった。
「みついさん?」
確かめるように名を呼ぶと、三井さんはちょっとだけ首を傾げてこちらを見た。そのときにはもう、色は元に戻っていた。オレは気のせいだと思い、肩の力を抜いた。
けれどそれからも、三井さんはたまに自分に色がついているのを忘れてしまったように褪せた。元々とてもくっきりした人だから、色が褪せるととても寂しくなる。声の大きさも、心なしかちいさくなった気すらする。色って大切なんだなあ、とオレは思う。なんというか、存在そのものって感じだ。
それが何度か続いて、オレはついに我慢できなくなって三井さんに言ってみた。三井さん、色薄くなってるけど、大丈夫? 三井さんの指の長い手を指し示しながらそう言うと、三井さんはあら、と目を瞬かせた。オレが声をかけたからか、色はもう元に戻っていた。手のひらをグーパーとさせてから、三井さんはオレの方を見た。
「なんか、褪せてたな」
「うん。こないだもちょっと褪せてたよ」
まじか、と三井さんは目を瞠って、それから嫌そうに顔をしかめた。高校時代に赤木のダンナに小言を言われたときみたいな顔で、オレはちょっとだけ笑ってしまう。
「こういうのって、何科に行けばいいんだろうな」
「病院?」
「そ。腹が痛けりゃ内科だし、怪我すりゃ外科だろ。色が薄くなったら、何科なんだろうな」
「眼科?」
確かに病院で何科にかかればいいのか分からず、オレは首を傾げて言った。三井さんは考えている様子でうーん、と唸って、違うんじゃねえ? と賢しげな感じに言った。
「眼科は見る方が行くんだろ。見られる方は違えと思うんだよな」
それもそうだとオレは思い、一緒にしばらく考えてみたけれど、結局何科に行けばいいのかは分からないままだった。これでもし練習中や試合中に色が褪せてしまったら大事になると思っていたのだけれど、今のところそれはどうやら心配要らないらしい。オレとしても、三井さんがオレの知らないところで褪せてしまったら嫌なので、それは助かるなあと思っている。
三井さんが色を忘れてちょっと透けてしまっても、三井さん自体が減ったりする訳ではないようで、触った感じにはなんの変化もない。このあいだ透けたときに手を握ってみたけれど、感触も温度もいつも通りだった。手のひらが薄くて、すこし乾いた三井さんの手。ボールばっかり触っているから、指は節が目立つ。オレと比べると、随分白く見えた。色が褪せると、なおさらそう思う。あんまり褪せて色が戻らなくなったら困るので、オレはその手をぎゅっと握った。ぎゅぎゅっと力を込めたので、褪せる前よりも色がしっかりしたような気がした。
夜、ベッドサイドのオレンジ色のぬるい光に照らされた三井さんは、陰影がくっきりしていてとても深い色に見える。しゅっと流れる眉や、高い鼻梁、秀でた頬の影たちが、三井さんの色かたちを克明にする。ごくりと動いた喉仏が、今もまた三井さんの存在を確かなものにした。オレはそれがうれしくて、尖った喉をべろりと舐める。しょっぱい肌の、生命の味がする。
オレの上に覆い被さった三井さんのはだかの体は、うっすらと汗をかいている。ライトを受けて、筋肉の凹凸がぬるりと光る。とてもきれいだと思い、オレは三井さんをひっくり返して上に乗っかった。
「乗ってくれんの?」
「うん」
好色そうに笑った三井さんは、ゆすゆすと腰を揺すった。オレは不安定な体の上で腰をくねらせてバランスを取る。オレの腕を掴んだ三井さんの手を辿って、前腕から二の腕、肩と順番に手を這わせていく。暗闇の中の薄ぼんやりした明かりに照らされて、三井さんの確かな生を感じた。今は褪せないで。そう思いながら、オレは三井さんの上に乗っかって喉を逸らす。放埒の瞬間まで、三井さんの体はくっきりとそこにあった。
「なんで褪せちゃうんだろうね」
ソファにだらしなく伸びた三井さんの手をもてあそびながら、オレは聞くともなしに聞いた。床に敷かれたラグに座って、三井さんの太ももに頭を乗せる。しっかりと筋肉の乗った、張りのある脚の感触。こんなにも確かなのに、どうして褪せたりするんだろう。
なんでだろうなあ、と三井さんも困ったみたいに言った。さっきもすこし色が薄くなって、オレはあわてて声をかけたのだった。
「褪せてるとき、どんな感じすんの?」
さらに尋ねると、三井さんはうーん、と考え込んだ。
「どんな感じっつってもな。おまえに言われるまで薄くなってんのも気付かねえくらいだし、気ィ抜けてんのかもな」
「それで透けてたらどうしようもねーだろ。気ィ張っとけよ」
これ以上色が薄くなって、見えなくなったりしたら大変だ。オレは真剣にそう思って言ったのに、三井さんはふ、と鼻から抜けるみたいに笑った。長い指が、オレの頬を辿る。オレはさ、と三井さんはゆったりした調子で言う。
「オレ、おまえの前でだけは褪せたりしたくねえのに、おまえの前以外でそんなふうになれる気しねえとも思うんだよな」
それから三井さんはちょっとはにかんだみたいに笑って、オレの頬をつつく。
「おまえに呼ばれて色ついてんの思い出すの、悪くねーぜ。なんか気合い入る」
オレは心配しているというのに、当の本人はこんな調子だ。オレは呆れて、三井さんの腿にぐりぐりと後頭部を押し付ける。
「もしオレがいないときに色が褪せちゃって、そのまま透明になっちゃったらどうすんだよ。オレ気付かないかもよ」
ふざけたような感じで言ったけれど、もし本当に三井さんが透明になってしまったら、オレはどうしたらいいんだろう。そんなことを思っていたら、三井さんは体を起こして、オレを後ろから抱きしめた。乾いた手のひらが、オレの目元を覆う。
「もしオレの色が褪せて見えなくなったら、こうやっておまえのこと抱きしめるから、オレのこと呼んでくれよ。おまえに呼ばれたら、絶対見えるようになっから」
耳のそばで囁くように言うものだから、三井さんの声が頭の中に直接響くみたいに聞こえる。低くてなめらかな声だ。あたたかく湿った呼気が頬に触れる。オレは手を伸ばして、三井さんの髪をかき混ぜた。短い髪。案外柔らかくて、汗をかくとすぐにへたってしまう。体に回る、長い腕。この腕が、この世界でいちばんきれいなシュートを打つことを知っている。背中に当たる体温が、規則正しく打つ心音が、これ以上なく三井さんの存在を伝えてくる。目を閉じていたって、三井さんはそこにいる。こんなにも鮮やかに。
なら、大丈夫だ、とオレは思った。色が褪せたところで、三井さんの存在は鮮やかなままなのだから、何も心配することはない。見えない視界の中で、くっきりとする三井さんの姿を感じて、オレはひっそりと笑う。とても安心した気分だった。
それからしばらくして、三井さんの色が褪せることはなくなった。結局何科に行けばいいのか分かんないままだね。そう言ったオレに、三井さんはおかしそうに笑った。その笑顔はもしかしたら、以前よりもくっきりと鮮やかなのだった。
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