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霹天の弓 ー1章ー【第2話】
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その時、私は歩み出した。引き返すことの許されない道を——— 七色の光の中から薄紅の羽衣を纏った心羽の姿が現れるとともに、止まっていた時が動き出す。振り上げられた怪物———影魔の爪。それをいなすように心羽の左腕が翳される。それと同時に突き出されるように放たれた右腕の掌底。その一陣の衝撃が、眼前の敵を確かに捉え、不意を突く形で一撃を与えた。どうなってる⁉その場にいた誰もがその光景に目を疑う。先の瞬間まで無力に打ちひしがれ、理不尽な暴力にさらされそうになっていた少女が、あまりに急激に姿を変化させ、理不尽に反抗する力を行使している。彼らが知っている現実において、基本的にあり得ないものだったその事象は、絶体絶命のこの状況において、驚愕に値するものだった。心羽が遥香を始めアレグロの面々を見やると、遥香が見開いた瞳を心羽に向け、言葉を発する。「こっちゃん…なの?」 「うん、私も何が何だか…」心羽にも状況が飲みこめない。自分があんな怪物を吹き飛ばせるなんて…「でも大丈夫」やることはさっき決めた。〝やりたい(守りたい)ようにやる(守る)だけ〟だ。 「みんな、離れてて」——— 「離れてって…君はどうするんだ!」 広夢がそう問うた瞬間、影魔が心羽たちのもとに突撃してくる。 瞬間、心羽の脳裏に〝声〟から伝えられるイメージが浮かんだ。そのイメージの通りに、彼女は左手を胸から左肩の方へ、虚空を切り払うように勢いよく振りかざす。そうして弧を描くように結ばれた炎の軌跡が、弓の形に形成されると、火の粉が舞う中、心羽は右手でその弓を取った。柄の部分を振るい、影魔から放たれる爪の一閃を受け止める。 「こいつの目的は私なの、だから早く」 「…くそっ!」 団員を守ることのできない悔しさを、広夢が声と表情に滲ませる。遥香の心中も、迫りくる恐怖と、それを親友の献身に背負わせた安堵と罪悪感に塗りたくられる。しかし走る脚を止めることはできなかった。二人は離れていた集会所前の楽団員たちと合流するが、心羽を一人残すことに戸惑いを見せる彼らに、遥香が一呼吸してはっきり告げる。 「…離れてるしかできなくても、私、せめてこっちゃんを見てます!」 その言葉に、「…強制はしない。ただ…女の子が、大切な仲間が頑張ってるのに、僕はやっぱり、逃げることはできない…」と広夢が心羽の方を向き直って見つめながら、ポツリと呟く。彼の表情こそ、その大きなハットに遮られて見えないが、二人の言葉に確かな覚悟を見出した楽団員たちが「俺も」「私も」「…逃げても追いつかれちゃ同じだ」「確かに」———と口々に続く。 「みんな、ありがとう…」遥香は心羽の親友として、心からの感謝を述べ、視線を心羽に移した。 影魔の爪と鍔迫り合いとなる心羽の弓。しかし爪の一撃を堪えた弓もじりじりと迫る圧力は心羽に焦燥を抱かせる。対して優位性を見せる影魔はそのどす黒い声を響かせた。 「そう、元より本命はお前のカルナだ、羽の使者…他は所詮、雑味でしかない」 「どういうこと⁉なんでこんなこと…」 辛うじて迫る爪の圧を往なしたものの、瞬時に影魔の動作は次の攻撃に移ってくる。一合、二合、三合。心羽は弓の柄でそれをどうにか往なし、問う。 「私は争う気なんてない…こんなことやめて!」 「〝贄〟の分際で…囀るな」 撥ね付けられたその返答と共に、弓を弾き飛ばした影魔は、瞬時に身体を回転させ、その捻りを加えた尻尾と蹴りで心羽を薙ぎ払う。だがカルナの解放により向上した動体視力と身体能力で、心羽はそれを寸でのところで後方に跳んで避けた。しかし着地の際の脚が地面に着くか否か———影魔はそのタイミングを逃さない。瞬間、爪を正面に翳したまま影魔は突っ込んでくる。心羽は弓の柄で繰り出される斬撃を防ぐも…その衝撃までは防ぎきれない。 「きゃあっ!」心羽は悲鳴を上げながらアレグロの皆の前まで吹き飛ばされる。このままじゃやられちゃう…眼前の敵はその獅子の顔を微動だにすることなく、淡々と獲物を追い詰めんと迫りよる。竦み上がるこの感覚———ああ、贄とはそういうことか…これは狩り、これはきっと彼ら自身を満たすための行為、そういう習性、そして私たちは…心羽に底知れない恐怖と絶望が押し寄せる。コワイ...紅い瞳は見開かれ、弓を持つ手の力が抜けていく。足が竦み、座り込んだまま立ち上がれない。影魔は更に距離を詰める。心羽は強くなる恐怖に息をのみ、そのまま後ずさりしかできず、追いつめられ... 「こっちゃん!」 後ろから響く声…はる…ちゃん…心羽は思わず振り返る。そこには遥香だけでなく、楽団員の皆がこちらを見ていた。自分と同じように眼前の敵に震えても、それでも今この瞬間、自分を思い、ここにいてくれている。 「見てるだけだけど...目を逸らしたりしない、応援してるよ!」遥香はそう言いながら、胸元に置いた右手を、ギュッと結んだ。 あの手の動きは...『信じてるよ』の合図。公演前の緊張してる時にも、気持ちが通じなくて喧嘩した時にも、その合図でふたりは励まされ、互いの心を結び、仲直りしてきた。 そんな遥香が、みんなが後ろにいる。誰ひとり巻き込むわけにはいかない...もうやるしかない。たとえ異形でも、生きているものを傷つけるのは抵抗があったけど、それも言っていられない。体勢を立て直した心羽は反撃に転じるべく、刀を中段に構えるように、両手で弓を持ちなおした。 「がんばって!」遥香や楽団員たちの声が聞こえてくる。 「戯れ言もそこまでにしておけ」 影魔が心羽を飛び越え、その魔手がアレグロの団員たちに伸びる。瞬間、皆その身を竦ませ悲鳴を上げるも、その時心羽が大きく飛びあがり、そのまま弓で影魔を叩き落とした。その背には一対の白い翼が広がり、輝きと共にはためいている。 着地と共に翼の存在に気付いた心羽は、夢で見た鳥の翼を想起する。あの七色の光とは異なるが、確かに自身の背に翼が生えている。一瞬驚き、不思議な印象こそ抱いたものの、嫌な感覚はしない。どこか高揚感さえある。 わかりやすい力の発現、その変化に打ち震えているのか、それとも…その答えは後ろを振り向いた時、すぐに分かった。アレグロの皆の一瞬だけ見せた安堵した表情、そしてその翼を見た遥香が、薄紫の瞳を震わせながら言った、「綺麗…」という言葉——— 『違う、私やれてる…今守れたんだ。守りたい意思に、この力が…翼が応えて、〝守らせてくれたんだ〟』その思いに心羽の心中は一瞬、感激に打ち震える。 しかし、いつまでも浸っているわけにもいかない。影魔が起き上がりきっていない今が好機であるからだ。心羽の右腕に嵌められた、紅の鳥を象った小手が熱を発し、右手に炎が宿る。 「やあぁ!」 それを投げる心羽の動作に合わせて、炎は収束し、球状の光弾となって放たれた。空気との摩擦でさらに燃え上がる炎の光弾を、影魔が辛うじて防ごうとするも、直撃した瞬間に爆発した衝撃も相まって、不安定な体制のまま、影魔が呻きながら更に後方へ吹き飛ばされる。 その隙を逃さず追撃すべく、彼女は左手を前方に掲げ、右手には火柱を携える。やがてその火は収束し、矢の形を成して対となる弓と組み合わせられる。体勢を直した影魔が、先ほどまで獲物だったはずの少女を再度視認した時には、そうして引き絞られた弓矢が放たれていた。 「ぐ…あああぁぁ!」放たれた矢が影魔の身を炎に包む。その爆風と苦悶の絶叫、数分前までには考えられなかったことだったその光景が、心羽に驚きと恐れを同時に抱かせその身を震わせた。だがすぐに震えは、その意味を変える。次の瞬間、爆炎の中から影魔が語り掛けてきたのだ。「…やってくれるな、羽の使者…」 まだ倒れていない…心羽もアレグロの面々も、炎に身を焦がし、怨嵯の声を上げる獅子の顔に戦慄する。だがその時、影魔の動きが止まった。虚空を見つめた後に顔を伏せる。そして舌打ち交じりに言い放った。 「所詮は使い走りか…この場はここまでだ。」 「えっ?」 「我が名はジャヌス、この炎の礼は必ずさせてもらおう…」 それだけ言い残し、影魔———ジャヌスは、夕焼けの影にその身を溶け込ませ消えていった。 どういうことかはわからない。何が起きているのかも。急にカルナとか影魔とか聞かされても…でもそんななかで、あんなに立ち回れる自分がいて、もう何が何だか…だけど…薄紅の羽衣が消え、元々の服装に戻る。その脚から力が抜け、そのまま崩れ落ちてしまうも、その身を支える手があった。ふらつく意識の中、その手に目を見やる心羽だが、すぐに誰の手かわかった。駆けよってくれた遥香の手だ。 「ありがとう」 その淡い紫の瞳に、安堵と感謝を精一杯込めて、遥香は言った。そんな遥香の手に心羽は自分の手を重ねる。心羽はその時の遥香の言ってくれた言葉と、その手の温みを忘れたくないと強く願う。 「私こそ、ありがとね」 広夢やアレグロの団員たちも心羽のもとに駆け寄る。「心羽ちゃん…」「大丈夫?」「ケガはない?」心配を声に滲ませて、心羽をいたわる様子の団員たち。 何が何だかだけど…だからこそ、今はこの熱だけ持っていよう。守れたんだ。この熱は、守れたことの証明。届いた手の温み…だから…心羽は口元に微笑を湛えて「怖かったぁ」と告げる。その表情とは裏腹の言葉に、皆少しだけ笑った。 ルクスカーデン三番街と四番街の境、人気のないとある路地裏。宵闇の影に文字通り溶け込ませたジャヌスの身が、足元からゆらゆらと起き上がる。先ほど受けた命により撤退したが、合流するポイントはここだったはずだ。彼は先の命の主の気配を探る。 「戦闘の素人にああも簡単に押されるなんて…それでも旧文明で脅威とされた存在なの?」 先の戦闘の様を揶揄する言葉と共に現れたのは、髪の長い黒フードの女。 「目的は果たしたはずだ。羽の使者…そのカルナの覚醒と、スペックの把握」 対してジャヌスは無感情に返す。 「…確かに、よくやってくれた。問題はここから。こうしてルクスカーデンの人間には、異形の怪物の存在が認識された。」 状況の整理もあってか黒フードは説明口調で語るが、ジャヌスは意に介さぬ体でそれに返答する。 「あとは使者の存在か」 「刈り取ってばかりだと、刈られる方も疲れちゃうからね。というわけで次にあなたにお願いしたいのは———」 「使者となる者の探索」 ジャヌスが矢継ぎ早に返答する。それを受けて無粋だといわんばかりに黒フードは「…正解、じゃあよろしく」とだけ結んだ。 「…ふん、とんだ茶番だ」 「もう一度、あの洞穴にぶち込まれたい?」 ジャヌスを睨む黒フードの声は、明らかに怒気を孕んでいた。だが対するジャヌスはそれを些末としているのか、余裕のある様を演出して続ける。 「そう逸るな、利害は一致しているのだから」 「…そうね、でも貪るカルナはほどほどになさい」 こんな面倒な手合いの相手などそもそも私には向かない。なぜ彼は私にこんな指令役などさせているのか…黒フードはそんな思いのまま路地裏から出ていった。 「とにかくこんな事態になったんじゃ、明日の練習は中止だな…」 先の戦闘の後、ルクスカーデン三番街大通りにて———大きなハットを深めに被り直した広夢が言った。 「そうですね…そりゃ、これじゃあ…」 楽団員の一人が肩を落として言った。他の団員も続く。 「他の皆の安否も気にかかります」 皆、友人や仲間たちの心配するのも無理はない。広夢はそう感じ、続けて提案する。 「この三番街の役所に、何か他の皆の安否につながる情報がないかどうか、明日調べに行こうと思うんだけど、一緒に行く人はいるかな?」 「少しでも情報が欲しいし…」「私も行きます」 その場にいた団員たちのうち4名が立候補するのを見て、心羽と遥香も互いを見やり、続こうとする。 「広夢さん、私たちも…」 だが広夢はそれを制した。 「いや、心羽は疲れてるだろ。変身して、あんな戦いをしたんだから、もう充分だよ」 「でも…」 心羽が言いかけたのを敢えて遮って広夢が続ける。 「遥香もなるべく付いててあげてほしい」 「…わかりました」 どういうことなのか…何か意図的な思いを感じ取りながらも心羽と遥香は一先ず広夢に押されてその言葉を受け入れる。 「…じゃあ、今日はこれで解散だ。みんなくれぐれも気を付けて早く帰ってほしい。」 「広夢さん、どうしたんだろう?休ませようとしてくれるのは嬉しいけど」 その後、夜を迎えようそしているルクスカーデン二番街と三番街の境、遥香の家の近くまで、心羽と遥香は並んで歩く。その最中、心羽はふとそんな疑問を口にした。 「…守ろうとしたのかも?」 「守る?」 遥香の唱えた仮説は心羽の想像とは違っていたため、思わず復唱する。 「うん、こっちゃんが変身をしたのは、怪物が現れた直後だったでしょ?」 「うん」 「あの場にいたのは殆ど私たちだけだった。こっちゃんを知っている私たちなら、誤解することはないけど…あの怪物とこっちゃんの変身を、無関係じゃないって疑う人もいると思わない?」 「あっ…」 心羽はハッとした。そうだ、「あいつは私を狙ってる」と伝えたのは他でもない自分自身ではないか。説明困難な声に導かれ、説明困難な力を手に、それを行使していたのは、戸惑いながらも確かにそうだったのは、私自身だ。 「こっちゃんが大変な思いをするかもしれない…それを危惧してたんじゃないかな」 そう言って、遥香はパステルブルーの髪を揺らしながら、その薄紫の瞳を真っ直ぐ心羽に向ける。心羽はなぜかその目を見返すことができず、目を伏せる。 「…そんなに心配すること?」 「人一倍、団員思いだからね、広夢さん…きっと心配だったんだよ」 「そっか…」 そこまで深く考えていたことに、内心驚いた。私はただ、みんなを守るための力だと思っていた。誤解を与えるような力だなんて思いもしなかった。ただ… 「こっちゃん、顔に出てるよ」 「えっ」 「もー、分かりやすいんだから。ほんとは広夢さんの話、納得できないんでしょ?」 心羽は黙って頷く。本当に遥香は察しがいい。彼女の見立ては確かだろう。実際、自分の思いとしては彼女の言う通りだ。飲み込みきれない。 「色んなことができそうかもって思いはあるんだ…だって私、あんなに立ち回れたんだよ。皆を守ることもできたし…それに、誤解が生まれたって、正せばいいじゃんね」 ふと口から零れた、それは心羽自身の自然な思い。そこに気付くまでは悩みやすいけれど、気付くことが出来たなら…こっちゃんは強くなれる。遥香はそれを知っていた。 「うんうん、こっちゃんらしい答え。でも、その力がなんなのかはっきりしないうちは、広夢さんの判断が正しいと思うよ」 だから彼女の強さを支持するとともに、その視点も遥香は補完する。そして心羽は、そんな遥香に応え、前に進もうと更に自身の意見を洗練させる。 「…そうだ、はるちゃん!この力について調べてみない?どういうものかはっきりさせようよ!」 そんなやり取りが二人とも心地よく、互いを高揚させる。 「あっ、それ私が言おうとしてたのに〜!」 「ふふっ。やっぱり考えてること一緒だね。明日、練習ないし公園で集まろうよ!」 今、ふたりの息が揃ってる。はるちゃんといるとそう感じることがよくある。この力も今はよくわからないけれど、2人の好奇心にかかれば何だってできそうな気がした。
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