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はしがき

ここに書くのは私がこれまで生きてきたことでの出来事についてだ。私は高校卒業後、就職する。本当は進学するつもりだったがある失敗をしてしまい就職にした。成功、失敗など今までの人生という括りにしてみれば今回の就職についてもそのうちの一つでしかない。だが、それがきっかけで自分が成長できたと感じることもある。今回私の自分史を書き記すことで自分の過去を思い出しさらに成長出来ればいいと考えている。

生まれてから幼稚園を卒園

2003年5月11日に誕生。幼稚園の時、年長組の時にお遊戯会で披露する劇の練習では振り返ってみると今までの人生の中で、特にキツく思い出したくない記憶のひとつだと思う。内容としてまず、ピノキオを劇としてやりました。私の役は敵役のリーダーとピノキオの父役をやりました。敵役の方の練習の時に先生がとても厳しく毎日のように怒鳴られて自分でできるようになるまでここから出るなと言われ誰もいない暗い教室に1人閉じ込められてました。当時の私はもう怖くて先生に話しかけられないほど追い詰められてたのを思い出します。その先生は他の人にも嫌われる事ばかりしていて親同士の話でちょっとした問題になっていた。

小学校と東日本大震災

小学校に上がり友達もできるようになってもうすぐ1年が経過するという時2011年3月11日東日本大震災が起きました。その頃私たちの学校は帰りのSHRをしている最中でした。今ではもう聞き慣れた地震警報の焦りを覚えるような音がその時は初めて聞いた音だったので最初はなんの音なのかわかりませんでした。警報の後にとても大きな地震が来て当時の私たちはパニックになり泣いて叫んでいる人もいました。その後を何回も余震が起き、小さい頃の私にとっては大きなトラウマになりました。これを機に私は地震に備えての準備をするべきだと思った。まだ家は準備をしていないのでこの先20年以内にまた大きな地震が来ると言われているので早めに備えをできるようにしたいと思った。小学二年生では算数の授業で掛け算九九を先生の前で一の段から九の段までを何も見ないで言う授業があり全員できるまでその先の授業にいかないというもので私はもの覚えが苦手なので最後の方まで終わらなくてプレッシャーをすごく感じたことを覚えています。小学三年生では初めての骨折という大怪我をしました。場所は左の前腕であり、折れたきっかけは外で走っている時に転んで全ての体重を左手で支えてしまったことです。その時から数時間は痛みは無く、だけど左手で物を持つということができませんでした。病院に行ってレントゲンをとったら折れてるし場所もズレてるとの事でした。この先がすごく記憶に残っているのが病院の先生は鉄の針のような物を私の左腕に刺して骨ごと動かしたのです。その前に腕を麻酔したから痛みはなかったけど見ている様はとても痛々しかったです。母が隣にいましたがとても険しい顔をしていたのを今でも覚えています。小学四年生はおそらく人生で1番ヤンチャしてた時期だと思っています。クラス替えで仲の良い友達がだいたい同じクラスに集まったことにより授業中でも大きな声で喋ってきたりしました。このため先生には何度も怒られペナルティを課せられたのを覚えています。ペナルティの内容は原稿用紙に漢字を1行ずつ書くものや放課後の掃除場所を2つやらされたりなどがありますが、1番辛かったのは校舎の一階、二階、三階を全て雑巾がけしてくるものでした。だいたい友達と一緒にペナルティをやるが、お互い息を切らせて必死にやっていました。小学五年生では林間学校で長野に山登りに行きました。当時の私は身体測定で太り気味の数値をだしてたぐらい太っていたので山登りは全然気乗りしませんでした。ですがいざ山に登ってみると辛いのはもちろんあるが、それ以上に楽しかったのを覚えています。私は、昔から綺麗な景色を見るのが好きなので上の方に行けば行くほど長めが良くなっていったので結果としてはとても良い物になりました。小学五年生になるとひとつ上の六年生の卒業式を在校生が送り出すということで歌の練習や楽器演奏練習などをしたのを覚えています。うちの小学校の音楽の先生はかなり厳しく毎回誰かを泣かせていました。卒業式の六年生入場の時にリコーダーで威風堂々を演奏することになっているが、リコーダーで高い音を出す所が難しく何度も失敗してました。1人ずつみんなの前でできてるか発表するというとても辛いことを音楽の先生は私たちにやらせていました。かなり練習をした私は合格をもらましたが、緊張のせいで失格の人が何人かいて10分おきにまた発表させられていて可哀想だと思いました。最近になって知ったのですがその先生今では保護者の訴えにより学校を辞めさせられたのかは、分かりませんが何か問題になって先生を辞めたそうです。今考えると確かに小学生に対してやりすぎな人だったので当然な結末だと私は思っています。小学校六年生では修学旅行で箱根に行きました。そこで色んな行事がありましたが特に記憶に残っているのがキャンプファイヤーと就寝時間です。キャンプファイヤーについてはそもそも私は焚き火すら見たこともやったこともないので高さ5mぐらいまで火が昇っているあの大きな焚き火は虜になるぐらい綺麗でした。燃え盛る炎の周りで音楽を流して踊るというものだったのですが私以外にもみんなテンションが上がっていて踊りどころじゃなくなっていて先生が焦っていたのを覚えています。就寝時間についてはキャンプファイヤーの後だったので私の班の部屋は夜遅くになっても皆起きていて暗い部屋の中でずっと喋っていました。結局夜中3時ぐらいにようやく眠りについたが、次の日の行事ごとには私の班の皆寝不足で元気が全くなかったです。小学校生活を振り返ってみて私はよく先生に怒られていたなと思いました。よく廊下に出されたり、計算ドリルをやらないでいたから放課後や夏休みに学校でやらされたり、だけどだいたい仲のいい友達と一緒にやっていてそれも楽しかったです。その頃は先生に怒られている時は地獄のような気分だったりしたけど今となっては全ていい思い出だと思っています。

中学校入学から卒業まで

初めての中学校生活での初めての中間、期末テストでは小学校の頃の気分で取り組み順位が下から10番目ぐらいでとても焦っていたの思い出します。内容も難しく、わからなくて眠くなり授業内容が頭に入らないといったことがよくありました。順位が下から10番目をとったのが一年の三学期末のテストであり、それまでは半分より少し下ぐらいだったが、三学期末ではさすがに勉強しようと思いました。中学校一年生では冬の学校という行事があり長野県に行きスキー教室を行いました。人生で初めてのスキーだったのですごく楽しみにバスでの移動時間を過ごしてたのを覚えています。ですが、実際には高い所から滑るのに恐怖を感じ、なかなか上達しませんでした。スキー教室二日目は猛吹雪になり前が見えなくなることがすぐあったのでその日も楽しさより怖さが勝ってスキーと言えるほどの滑りは出来ませんでした。ですが三日目は天気も晴れて気温も少し暖かく滑りやすい日だったので楽しく滑り、自由時間では友達と速さで競い合うぐらいにまで上達出来ました。家はスキーはしない人達なので友達たちとこれから先、大人になったらスキーや旅行に行きたいと思います。

足のケガとピョンチャン冬季パラリンピック

私は中学ではバスケットボール部に入っていました。中学二年生の三月、いつもどうり朝練をしていたら部員と大きく接触し相手は何も怪我はなかったけど私はかなり深く足をくじいてしまいました。今でもよく覚えてりますが、その時足からゴリッという鈍い音がはっきり聞こえたのです。その日はアドレナリンがでていたからか分かりませんが足は痛いけど歩くことが出来ました。ですがその次の日、起床しトイレに行こうとすると私は倒れました。足を見てみると色は真っ赤に、形は歪に膨らんでいて私は歩くことができなかったのです。病院に行ってレントゲンをとってみると結果は靭帯断裂、筋肉がぐちゃぐちゃになりところどころちぎれていました。ですが幸いな事にこれは治るものであり、一ヶ月ギプスをすれば歩けるようになると言われました。ですが私の心は絶望のままでした。なぜなら私は部活内でキャプテンを任されており、もうすぐ中学校総合体育大会が控えているため練習に力を入れていたからです。バスケットボールは少しでもやらない日が増えるとシュートの感覚がずれ、入らなくなることが多いのです。それが一ヶ月も続くとシュートどころか体力も筋力も下がってしまうので私はその当時かなり折れていました。そんな時にテレビではピョンチャン冬季パラリンピックが開催していたのです。私はオリンピック、パラリンピックは競技を問わず見るのが好きなので何もやることが出来なかった私はそれを見ていました。そこには足の捻挫どころか、下半身不随の人、足がそもそも無い人などが、車椅子バスケットボールでとても力強いプレイをしていました。それを見て私はこの人たちに比べたら自分の怪我なんて可愛いものだと思い勇気をくれました。テレビの向こうでは自分の体が不自由で落ち込んでいるどころか怪我をする前の私以上に楽しそうに、けれど真剣にバスケットボールをしている選手の姿を見て元気を貰えました。それからは結局怪我が長引いて復帰してもあと一週間で学総という状態でした。ですが夜一人でランニングをしたり筋トレをしたりしてできるだけ体を元に戻そうとしました。結果的には試合には2分しか出ることが出来ず奥歯を噛む形ではありますが復帰を果たし諦めずにコートの中でバスケットボールを楽しむことが出来ました。

中学校三年の体育祭

私は足の怪我をしている状態で中学校生活最後の体育祭を迎えました。男子は組体操をするが、私は参加することができません。代わりに先生から組体操の太鼓の役割を半強制的に任されました。最初はとても嫌でした。1番目立つ朝礼台に立って大声で組体操の技を叫びながら太鼓を激しく叩くことなんて自分には出来ないと思っていたからです。当然練習も体育の時間外でも私だけやらされ、朝は皆が登校する時間よりも前に行き、帰りは皆が下校したあとも校庭で練習をさせられました。ですが本番の日にはそれなりには良い仕上がりになり組体操を終えた後には私に向けて観客が大きな拍手をしてくれました。あまりにも大人数に拍手をされたので逆に照れくさくなり下を向いてました。ですが悪い気はしません。この経験がこれから先の私の人生において大きな自信に繋がったので太鼓をやることが出来て良かったと思います。

春日部工業高校へ入学

私の小学校と中学校は他の地域と違い9割の人が同じ小学校から中学校に来ました。だから友達関係についても何も問題はなかったのですが、逆に知らない人だらけの教室に慣れていなく、入学当初の私は緊張と不安で息苦しかったです。部活も友達を作るために入ったと言っても過言ではありません。ですが、嬉しいことに新入部員の中で私と同じクラスの人が多かったのでクラス内に解け込めるのも早かったです。そこからは友達がさらに友達を連れて来てその人とも仲良くなりの繰り返しで入学してからすぐに緊張や不安は無くなり、楽しく高校生活をスタートすることが出来ました。

高校生活とコロナウイルス

私たち高校二年生は皆一学期はだいたい家で過ごしました。理由は新型コロナウィルスです。感染力の強さとその強力さで自粛は当たり前だと思い私を最初は怯えて生活していました。ですが、自粛期間が終わり学校が再開する時にはむしろもっと続いて欲しいと思ってました。学校が始まってからは自粛が無くなったとはいえ、外出は控えるようにと世間が言っているので、友達とも遊ぶことが出来ず、退屈でした。コロナウイルスの影響で授業は進むペースがとても早く、理解力が乏しい私はついていくのに必死でした。自粛明けの最初のテストはまだ怠けが取れず順位が3位から7位に落ちてしまい、とても焦っていました。次のテストからは気合を入れて授業に取り組んだので順位を戻すことが出来たのですが体力はかなり落ちて、そのままの状態でずっといるので三年の体力テストは散々な結果でした。私は就職するのですが力仕事も当然やらされるので体力や筋力は現役の頃ぐらいにまで戻さないといけないと思いました。

あとがき

私の今までの人生は自分には悔いの残らないようにやりたい事をなりふり構わずやってきました。その結果成功したことや失敗して悔しかったことなどが数え切れないほどありました。ですが、それもいい経験、勉強にもなることがわかりました。自分が得意なこと、不得意なことなどもそこからわかり、このことを就職してから良い方向に活かせるようにきたいと思います。

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コメント(1)

  • someone

  • someone

  • tamaki

    がむしゃらに取り組めるのも、学生の特権ですね。お遊戯会や九九の暗記など、読んでいて懐かしいと共感できる箇所がありました。私もまだまだな立場です。共に自分を高めていきましょう。