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「三位一体」説と聖書

三位一体説は多くのキリスト教会の基本的な教義となっています。その教義は「御父ヤハウェと御子イエスと聖霊の3者はそれぞれ唯一の神の中の位格であり、それらは同質、同等、永遠の存在である」というものです。

では「三位一体」の教義は本当に聖書の教えなのでしょうか。考察しましょう。

唯一の神とは?

聖書の神は「唯一の神」であると書かれています。これは旧約聖書も新約聖書も変わらず、「唯一の神」としています。ただお一人です。

申命記6:4 「イスラエルよ聽きけ我われらの神かみヱホバは惟ただ一ひとりのヱホバなり」
唯一の神の名前は「エホバ」「ヤハウェ」などと訳されています。

1コリント8:4-6 「さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」

このように新約聖書においても、唯一の神は「父」であることがはっきり述べられています

イエスがみ父に祈られた通りです
「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなた(御父)と、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」ヨハネ17:3

◎創世記1:26では「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とある。なぜ「われわれ」なのか

三位一体の神は一人なので「われわれ」と複数形にはなりません。もしそうならその時点で多神教になってしまいます。「唯一まことの神」ではなくなります。

その答えは聖書を詳しく見ると分かります

箴言8:22~31にある「わたし」はみ子のことで、み子の言っている言葉であると初期クリスチャンや使徒教父すべては理解していました。22節では「神が初めにわたしを造った」とあります。み子は神が一番初めに造られた創造物であるということです。そして30節では「わたしは神のかたわらで名匠となった」とあります。なぜ名匠なのか? 答えは、神の横ですべての被造物を巧みに造ったからです。つまり、創世記1:26で神は「われわれ」と言っています。み父がみ子に語りかけていました。だから複数形「われわれ」となるのです。

このことはコロサイ1:15,16にも示されています。「御子は見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先だって生まれた方である」とあります。「生まれた」とあります。神には始めがありませんので「生まれる」ことはありえません。「すべてのものより先に生まれた」はギリシャ語では「πρωτότοκος」で、「初子」という意味です。この言葉の通り、御子は神が一番初めに生み出された初子であることが示されています。

そして、続く16節には「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」とあります。 このとおり、神はみ子によって、つまりみ子を用いて、他のすべての物を造られました。しかもここの最後の「御子のために」とあるのは、とても興味深いことです。み父がみ子を愛しておられ、み子が創造の業を楽しめるように願ってそれを委ねられたことが読み取れます。

創世記1:1の「はじめに神は天と地とを創造された」の「神」はなぜ複数形なのでしょうか。繰り返しますが、複数では「神々」になってしまいますので、聖書の唯一神と矛盾します。一人の神である三位一体とも矛盾します。

ヘブライ語は威厳を表すために複数形を用いることがあります。例えば、創世記42:30ではヨセフのことが「君」と呼ばれていますが、この「君」は複数形です。威厳を表すための複数形です。聖書には同じ理由で単数のものに複数形を使っている箇所が他にもあります。

ちなみに、ギリシャ語には、威厳を表すための複数形という使い方はありません。それで、七十人訳聖書の翻訳者たちは創世記1:1の「神」を単数形「θεὸς」と正しく訳しています。複数形ではありません。このことからも、ここでの「神」が複数を表していた訳ではないことが分かります。

◎「父と子と聖霊との名によって」(マタイ28:19)について

ここでの「名」は単数形です。しかし他の箇所、例えば創世記48:16の「アブラハムとイサクの名」の「名」も単数形です。だからといってアブラハムとイサクが一体だった訳ではありません。

この節とコリント第二13:14には、神とキリストと聖霊が出てきます。

これらの節は、読み手が「この3つがすべて神であり、一体であり、同等である」と思えるような意図で書かれているでしょうか。それとも、その3つの存在が、どれも重要で不可欠な存在であることを強調しているでしょうか

マクリントクとストロングによる「聖書、神学、教会に関する著作百科事典」によると、これらの節は「言及されている3つの主体があることを証明するに過ぎず、それだけでは、それらが同等の神々しい栄誉を持っていることを証明するものではない。… それらを取り上げただけでは、三者の位格性も、同等性や神性のいずれも決定的に証明するものとはならないであろう」と書いています。

つまり、三者が並列されているだけでは、それらがすべて同じ存在であるとは言えないということです。例えばアブラハム、イサク、ヤコブの三者は幾度も並列で出てきますが、それはこの三者が一体で同じ存在であるということではなく、三者が共に重要な存在であったことを示しています。

でも仮に後代のキリスト教権威者が「アブラハム、イサク、ヤコブの三者は実は同じ存在であり、位格が違うだけである」という教えを作り、それが"正当な教義である"とされたなら、この三者が並列で挙げられている箇所は、その裏付けとして用いられるでしょう。でも実際はそうではありません。

イエスキリストが全能の神であるということは聖句で本当に確認できるのか。キリストは全能の神だったか

三位一体擁護者は「キリストは神と同じ属性を持っている」と理解しています。例えば、 全能(マタイ28:18)、全知(コロサイ2:3)、偏在(マタイ28:20)、不変性(ヘブル13:8)、 自存性(ヨハネ5:26)、聖性(ルカ1:35)、愛(1ヨハネ3:16)、永遠(ミカ5:2)」と書かれていました。これらの聖句が本当にみ子が全知全能のみ父と同じ属性を持っていたことを示しているか、それぞれの聖句の文脈や意図をきちんと考慮するなら答えが分かります。

マタイ28:18でイエスは「私はすべての権威をゆだねられた」とおっしゃっています。「すべての権威」をたしかにお持ちです。しかし「ゆだねられた」ということは、ゆだねた方がいることを示しており、イエスがすべての権威を持っていなかった時があることを示しています。ですからこの節はイエスの全能性をむしろ否定しています。
 
コロサイ2:3には「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」とあります。この節はどのような意味でしょうか。ヨハネ14:6でイエスは「わたし​は​道​で​あり,真理​で​あり,命​です。わたし​を​通し​て​で​なけれ​ば,だれひとり​父​の​もと​に​来る​こと​は​あり​ませ​ん」とおっしゃっています。人間が真理とみ父に近づくにはみ子について知ることが不可欠である、ということです。み子の内には真理が秘められているということです。み子が全知であることを述べているのではありません。

その点でとても重要な聖句ですが、マルコ13:32やマタイ24:36でイエスは終末の大艱難について「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と述べられました。み子が知らないことがあり、み父とは別の存在であることをはっきりと示されました。ここでみ子の全知は否定されています。

マタイ28:20でイエスは「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と言われました。文脈を見るとわかるように、ここでイエスは、終わりの時まで世界中で福音を伝える弟子たちを励ますためそのようにおっしゃいました。イエスはいつの時代も天から弟子たちを助けることができるということです。ご自分の偏在性を突然述べたのではないことは明らかです。

ヘブル13:8には「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。これは天に行かれたみ子の性質が今後変わってしまうことがないということを示しています。

ヨハネ5:26には「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」とあります。イエスははじめからこの特別な「命」を持っておられたのではないとおっしゃいました。み父から特別な「命」を授けられたことが分かります。前後の5:21,22,27,28,29から、イエスがみ父から、​永遠の命​を​人間​に​与える​権威​と、死者​を​復活​さ​せ​て​命​を​与える​権威を与えられたことが分かります。また、ヘブライ7:16にあるように「朽ちることのない命」を与えられました。もし聖書どおり解釈し、み父がみ子にそれをお与えになったのであれば、当然ながらみ父とみ子は優位性の点で異なっています。

ちなみに、続くヨハネ5:30でみ子は「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と述べて、ここでも、み子がみ父とは別の存在であり、み父に従属していることを示されました。

ルカ1:35には「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とあります。この通り、み子はみ父と同じく聖なる者でありますが、神の子です。ペテロ第一1:15,16ではイエスの弟子もみ父と同じように「聖なる者とならなければならない」とあります。イエスも人間も、神と似た神聖さを身につけることができることが分かります

ヨハネ第一3:16では「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」とあります。み子はみ父の愛を完璧に反映されました。自己犠牲の愛です。み父は最愛の子を犠牲にしてくださいました。み子は自分の命を犠牲にしてくださいました。だからといってみ父とみ子が一人の神ということではありません。み子はみ父の愛に完全に倣っているのです。私達の模範であり、私達もその愛を示さなければならない。これはクリスチャンにとって最も大切なことです。

ミカ5:2はイエスについて「イスラエルを治める者があなたのうちから わたしのために出る。 その出るのは昔から、いにしえの日からである」とあります。この「いにしえの日」と訳されている言葉はヘブライ語「オーラーム」です。この言葉は厳密には「永遠」という意味ではなく「不特定の長い時」を意味します。(「永遠」はヘブライ語「アド​」)例えば創世記6:4の「昔」やヨシュア24:2の「昔」はこの「オーラーム」です。それで、ミカ5:2の「いにしえの日」はみ子が遠い昔から存在していることを示してはいますが、神と同じように永遠の過去から存在しているとを述べている訳ではありません。

イエスご自身が自ら神であると宣言されたか

出エジプト3:14=ヨハネ8:58か
ヨハネ 8:58の表現は,出エジプト 3:14で用いられている表現とはかなり異なっています。出エジプト3:14の「「わたしはある」という者が私をあなた達に遣わされた」の「わたしはある」と訳されているのは「エゴーエイミ」「I am~」ではなく、 「ο ων 」「ホ オン」です。一方、ヨハネ8:58でイエスは「私は……いる (l am)」という表現を使いました。この文脈は明らかに、イエスがこの表現を名もしくは称号としてではなく,ご自分が人間となる前に存在していたことを示しています。ですから,多くの聖書翻訳はこのように訳しています。

「イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」 口語訳

「アブラハムが生まれるずっと前から、わたしはいるのです。これは、まぎれもない事実です」リビングバイブル

「イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」JA1955

「イエス​は​言っ​た。「はっきり​言っ​て​おき​ます​が,アブラハム​が​存在​する​前​から​私​は​い​ます」新世界訳

このように,ここで使われているギリシャ語の本当の考えは,イエスがアブラハムが生まれるよりずっと前から存在していたということです。文脈はこのような理解が正しいことを示しています。このときユダヤ人たちは、イエスが「自分はヤハウェである」と言ったからではなく、まだ50歳にもなっていないのに「アブラハムを見たことがある」と主張したので,彼を石打ちにしようと思いました。

イエスの死後、弟子たちはイエスを神であると認めているのでしょうか

マタイ28:17〜19でイエスは自分が神であることを述べているのではなく、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と述べています。神からすべての者を治める権威を授けられたということを述べています。

ヘブル1:1-6の1-4節にはこうあります「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」

この部分を読んで、「神とみ子は同じ存在だ」と言っていると取れるでしょうか。それとも、「神はみ子を用いて万物を造られ、み子をご自分の栄光を反映させる代理者また代弁者として地に遣わし、その後天のご自分の右に座らせ、天使たちより高い地位を与えた」と取れるでしょうか。

明らかにこの聖句は、み父とみ子が別の存在であり、み父はみ子を用いて万物を創造させることまでさせられ、ご自分の栄光をみ子が反映するようにさせられたことを示しています。

さらに、ヘブル1:6には「神は、その長子を世界に導き入れるに当って「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」 と言われた」とあります。もしみ父とみ子が同一ならこうなるはずです「神は、ご自分が世界に入るにあたって「神の御使たちはことごとく、私を拝すべきである」でも違います。ここで、神は天使たちに「み子を拝しなさい」と命じられたとあります。明らかにみ父とみ子は別の存在で、み父はみ子をそのように高められたことが分かります。

また、ここで「拝する」と訳されているギリシャ語はプロスキュネオーです。この語は、ある人の前に平伏してその足や衣のへりや,地面に口づけする習慣を示すのに用いられました。マタイ 14章33節では弟子たちがイエスに対して行なった事を表わすのにこの語が用いられています。プロスキュネオーは、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の創世記 23章7節ではアブラハムが取り引きを行なっていた人々に対して当時の習慣に従って行なった事を描写するのに用いられています。列王第一 1章23節では,ダビデ王に近寄った時の預言者ナタンの行為を述べるために使われています。

それで、この節のプロスキュネオーを,ある訳では「敬意を払え」(新英訳聖書),「前で身をかがめよ」(アメリカ訳)などと訳しています。天使たちが高い地位に置かれたみ子を(神として崇拝するのではなく)深い敬意を払うよう神は天使に命じられました。

ピリピ2:9~11には「神はみ子を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」とあります。

ここでもやはり、「神がみ子を高く引き上げた」とあるように、み父がみ子を高い存在にあげられたことがはっきり示しています。もし三位一体説の言うように、み父とみ子が同等であったなら、この時点でみ子はみ父よりも高い地位になってしまいます

さらに、「あらゆる人がイエス・キリストを神であると告白して」とではなく、「あらゆる人がイエス・キリストを主であると告白して、父なる神に栄光を帰するためである」とはっきりと書かれています。人は、神の代理者み子イエスを主として従うときに、そのイエスをあらゆる人の上に高められた父なる神に栄光を帰すことができるということです。

◎イエスキリストは造られたか?

箴言8:22についてははじめに書きました。新改訳は「造られた」というところを「得ておられた」と訳していますが、聖書学者たちは、文脈からして,「創造された」と訳出するほうがよいことを認めています。それで今はほとんどの聖書翻訳は「造られた」と訳しています。み子が神によって創造されたことをはっきりと示しています。

コロサイ1:15についても上に書いたとおりです。み子は神の「初子」とありますから、神がはじめに造られた方です。どちらの聖句もメインテーマは「イエスキリストが創造主である」ということではなく、「イエスキリストが一番初めに造られた」ということです。

「キリスト」という称号の意味について考えましょう。イエスは名前ですが、キリストは名前ではありません。称号です。「キリスト」はギリシャ語で文字通りには「油注がれた者」という意味があり、「任命された者」という意味です。(昔の王様は任命された時に、頭に油を注がれたのでこのような意味があります)「任命された者」なので、当然任命する方がいるはずです。それがみ父です。イエスキリストはみ父に任命されて人類を救うために地に来た方です。

イエスは御父のことを「私の神」と呼んでいる

復活後のイエスはこう述べました。
ヨハネによる福音書‬ ‭20:17‬ ‭「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』」

天に上られた後も同じです
‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭3:2‬ のイエスの言葉
「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭3:12‬のイエスの言葉 ‭「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。」

エフェソの信徒への手紙‬ ‭1:17‬ ‭「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし…」

このように聖書は繰り返し、神は唯一であり、そのお方は私たちの神であり、またイエスの神でもあることをはっきり示しています。また、み子イエスはみ父の代理として創造の業を行い、その後、み父のご意思に従って地に降りて死なれ、み父によって復活させられ、み父によってとても高い地位に高められた、と教えているのです

聖霊とは?

亡くなったイエスを誰が復活させたのかについて、使徒2:24は「神はこのイエスを死から解き放って、よみがえらせたのである」と述べています。この通り、み父なる神がみ子を復活させられました。その後、33節には「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」とあります。イエスは昇天してみ父の右に戻られました。そして、「聖霊を受け、わたしたちに注いだ」とあります。

聖書で「霊」はヘブライ語では「רוּחַ」ギリシャ語で「πνεύματος」で、もともとは「息」「風」「送り出された力」という意味があります。それで、神の霊とは神が送り出された力のことです(創世記1:2では、地球創造のときに「神の霊が地を覆っていた」とあります。神の力が地に働いていたということです)

使徒2:33でペテロが言った通りです。神はイエスにご自分の霊を授け、ペンテコステのときに、クリスチャンに注がれました。その結果、彼らは聖霊に満たされ、いろんな言語で話し始めました。聖霊が神なら、神がイエスに聖霊を授けたり、クリスチャンに注いだりする必要があるでしょうか

聖書では多くの場合「神の霊」「ヤハウェの霊」(「主の霊」) となっています。1ヵ所「イエスの霊」がフィリピ1:19で出てきますね。でも聖書には「聖霊の神」「聖霊なる神」という表現は全くありません。それは後に作り出された表現です。

日本語の多くの訳では、霊があたかも人格を持つかのように「御霊」と訳されています。これは誤解を招きます。ギリシャ語には本来そのような敬語表現は使われていません。コリント二3:17は「主は霊です。主の霊のあるところには自由があります」(口語訳等)

それで、聖書も原始クリスチャンも教父たちも、それが神だとは一度も述べてません。例えば2​世紀​の​殉教​者​ユスティヌス​は、聖霊​は『神​の​活動​の​一​形態』で​ある​と​教え​まし​た。ヒッポリュトス​も​聖霊​を​性格​を​有する​もの​と​は​みなし​ませ​ん​でし​た。4世紀になってはじめて聖霊が人格を持つ「神」とされました。

聖霊について文献もこう書いています。

「風に似た、目に見えない無形の強力な力」(「新約聖書用語解説辞典」W・E・バイン)

「旧約は明らかに神の霊を位格とは見ていない。神の霊は神の力にすぎない。それが時々神とは異なる存在として表わされているにしても、それはヤハウェの息が外面的に働くからである」「新約の聖句の大部分は神の霊のことを、ある者としてではなく、あるものとして示している。このことは霊と神の力とが並行関係にある対句の中では特にそうである」(新カトリック百科事典1967年版 第13巻)

「新約聖書では大体、旧約と同様、霊は神のエネルギーもしくは力として述べられている」(カトリック辞典)

人は聖霊に満たされたり、聖霊に動かされたり、聖霊に助けられたりします。それはすべて、御父ご自身が、ご自分の力をわたしたちに送ってくださっているということです。

クリスチャンは「聖霊の神」を呼ぶように命じられていません。イエスは、御父に聖霊を求めるなら、それは与えられると教えられました。

‭‭ルカ11:10‭-‬13‬ ‭「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」

何より、イエスは天に上られる直前に、使徒たちに聖霊が何かについてはっきりとこうおっしゃいました。
‭‭「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」ルカ ‭24:49‬ ‭

聖霊とは、神の「息」つまり見えない力のことです。それを受けられるのは素晴らしいことです。

以上のように、聖書を詳しく調べると、「御父」と「御子」と「聖霊」の三者が同等、同質、全能者であるという三位一体説が聖書の教えではないは明らかになります。その教義は4世紀に作り出され、ローマカトリック教会の教えとなりました。

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