鴉と火の鳥 No.1 1/2 【B】 version 105

2022/04/16 06:25 by someone
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鴉と火の鳥 No.1 1/2
その日、夢から目覚めた花森健人の一日は自室のベッド上で吐く溜息から始まった。
「腰痛い」
小声で呟くそんな言葉と共に、気だるげにその長身を起こしながら、健人は被さっていた掛け布団を捲る。直後に再度「さむ…」と独り呟くも、枕元にあるスマートフォンの画面を点けた。すぐさまディスプレイが表示され、そのロック画面に日時が表示される。2020年4月11日、午前6時半。4月と言えど、未だ寒波がある時期。朝日も昇り始めた時間の薄暗さの中、健人は自宅二階に位置する自室を出て、一階へと階段を降りて行った。
一階の暖房を点けて部屋を暖め、健人はキッチンで朝食を作ると、リビングにて目を伏せた表情でこれを食す。ご飯とウインナー、パックの刻みキャベツと卵焼きを口に入れていると、一階の奥に位置する部屋から戸を開けて、健人の母である純子が出てきた。
「おはよう、健」
「おはよう」
朝の挨拶を交わしながら、母と子が互いの顔を見合わせる。純子は目を擦り、健人の朝食を見ながらその隣——リビングの食卓に着くと、「今日も寒いね」と切り出した。
「土曜日だけど、朝から講義なの?」
「まあね、その後”あさひろば”」
健人は溜息を含ませながら返した。その様に、純子は少しだけ顔に憂いの皺を寄せる。それと共に、ほんの一瞬会話に間が空いた。
「急ぎすぎてない?病み上がりなのに…」
発された純子のそんな言葉に、健人は苦笑しつつも応える。
「まあ、一応単位のためだし、昼すぎまでだから。とりあえず母さん、コーヒーでも飲む?」
その顔のまま言った健人に反応は遅れるも、純子は一旦は「うん」と頷いた。それと同時に父の哲也が健人と同様に二階の自室から降りてきた。白髪交じりの顔で「おはよう」と挨拶する哲也の右手には既にコーヒーカップが握られている。
「二人とも調子どう?」
その様子を伺う言葉に「私はよく寝れたよ」と返す純子と共に、健人も母へのコーヒーを淹れながら微笑を称えて言った。
「うーん、俺はちょっと腰痛いかな」

—————————————————————————————

同日午後8時。朝憬市(あかりし)朝陽町の住宅街にある一件家。齢40過ぎに差し掛かった夫婦が朝の身支度を済ませ、その一日を始めようとしていた。
仕事に向かう夫の忠司が自室のクローゼットからスーツを羽織る。クローゼットの鏡には、眉根が寄せられ、しかめられた顔が映っていた。その後玄関まで自身を見送る妻の洋子に、忠司は一つ聞いた。
「裕也は?」
「…そろそろ起きると思う」
沈んだ声音で洋子が言った。夫婦の一人息子の裕也は夫婦が玄関で声や音に対し、自室のベッド上で身を竦ませていた。引きつった表情と共にその息が上がっていく。
「…そうか…”あさひろば”は行けそうか?」
忠司が靴を履いて整えながら、再度問う。一瞬その問いに少しだけその目を落とすも、すぐにその目は夫を見つめなおし、洋子は言葉を返した。
「あの子自身が、判断するよ」
そんな母としての洋子の言葉に窘められた忠司は「…そうだな」と返事し、一つ息を吸って玄関のドアを開けて仕事へと出ていった。

自室まで響く一連の声や音が止み、パジャマ姿の裕也は上がった息を整える。一方でその瞳は虚ろであり、その身体の動作の一つ一つは重く、鈍い。
「…なんで俺なんだ…」
ポツリと呟かれた思い。それと共に涙が一つ頬を伝い、落ちる。それは誰にも気づかれることなく、未だ閉ざされた暗い部屋の中に溶けていった。

—————————————————————————————

「…そのためICF、国際生活機能分類では…」
朝憬英道大学B棟第2講義室にて、健人は客員講師の講義に出席していた。だが真剣に講師の話を聞いているわけではない。講義室の窓際に位置する長机に座しながら、下を向いてその手に持ったスマートフォンのゲームをしていた。そのため時折顔を上げて辺りを見渡す。周囲の学生らは小声で私語をしている者も多く、真剣に講義内容をノートに取っている者は半数いるかどうかだった。そんな中にあって、講師は淡々の一応の講義内容を機械的に発している。健人は再度下を向きながらため息を吐き、スマートフォンの置いた指をせわしなく動かしていた。ただ、それだけの時間が過ぎていく。
「めんどくさ」
誰にも聞かれない小声で、健人はそう呟いた。呟いたのととほぼ同時に右前方に座る学生たちの小声が、ふと耳に入る。
「また出たって、”赤髪の魔女”」
「お前好きだな、その与太話」
話を振った方の小柄な男子学生が「講義よりは面白いだろ」と渇いた笑みを浮かべて小声で話し続けた。
「それがここから近いんだよ、朝陽町の教会の近くで怪物と争ってたってSNSでさ…」
「お前その感じ、特撮とかそういうもんの延長で見てんだろ。別に否定はしないけど、俺にそれを話されてもさ」
話を聞くガタイのいい男子学生がその大きな肩を竦ませ、呆れた口調で返す。
「なんだよ…なんか、イケてんじゃん。赤髪の魔女」
「多分、お前はダサいけどな…」
ガタイが小柄に毒づくと共に、健人は小柄の方を冷ややかに見ていた視線を外してスマホゲームを一度閉じると、SNSアプリを立ち上げて検索ワードを入力する。
”赤髪”と”魔女”、そして”怪物”——
そうして検索すれば、拾えた投稿は二十余件。二年ほど前から、この朝憬で噂される人を襲う怪物。これに対抗している少女について述べる言葉がスマートフォンに映し出される。顔の見えない投稿主らが記したそれは、この少女を英雄視するものや、その存在を訝しむもの、どうして戦っているのかと考察するもの等と様々だった。依然として視線を下に向いてそれらを流し見ているうちに、ある画像付きの投稿に目が留まる。
”これ、噂の怪物と赤髪の魔女じゃね…見ちゃったよ…”
その書き込みに添付された画像は、暗い時間に咄嗟に撮影されたもので、街灯の薄明りが撮影者の周囲の路地をどうにか照らしていた。そこから上空へと向けられたアングルに、輪郭が見える程度だったが、小さな人型から昇る赤い灯のような光と大きな青黒い何かが交錯している。健人は人型の赤い灯を注視すると、その目を細めた。

—————————————————————————————

同日正午、朝憬市中央部駅前の街中。そこに位置する朝憬市市役所のエレベーター内で、黒コートを羽織った男と茶髪のスーツ姿の男が乗り合わせた。
「首尾はどうか?」
先にエレベーターに乗っていた黒コートが言った。
「問題ない、4階も制圧だ。後は俺たちが上で号令すれば、儀式の第一段階は完了する」
3階から乗り合わせた茶髪が黒コートからの問いに応じ、続ける。
「しかし、人間のコミュニティはどこも風通しが悪いが…”ここ”の奴らは特にだな」
茶髪の言葉に何も返すことなく、黒コートはその憮然とした表情を保つ。茶髪はそんな黒コートを一瞥しながら話し続けた。
「どいつもこいつも、あんたみたいに陰気な面だ。その目や意識は仕事と液晶画面ってのとを行ったり来たり…物事や自分に意味を求める割には、随分…薄っぺらい」
「そして、お前のような者がその皮肉を肴に酩酊するわけか」
その一瞥と揶揄に返す刀で差し込まれた黒コートの応答に、茶髪は口角を上げた。
「何が悪い。旨いもんに酔うのは、奴らもやってる。笑って生きるための秘訣だぞ」
茶髪のその一連の動作を見向きもせず、黒コートは一言こう告げる。
「話が浅い」
茶髪が黒コートのその言葉を鼻で嗤うと同時に、「5階です」とアナウンスが鳴ってエレベーターのドアが開く。二人がそこを出ると共に市役所ビルの警報が鳴り響いた。動揺した市役所職員らがエレベーターに向けて駆けてくるも、茶髪はその様に笑みを零し、黒コートはその誰とも目を合わせることはない。その直後、職員らは皆一様に倒れ伏していった。

「まあ、細かいことではあるな——」

—————————————————————————————

「東さんが市から来ないけど、一先ず始めましょうか」
午前の講義を終え、健人は朝憬市朝陽コミュニティセンターで行われる、あるボランティア事業に参加していた。”あさひろば”と名付けられたその事業は、市と共同で子ども食堂と学習支援を行っている。その事業主の一人である小田井は、利用者である子供達やボランティアたちの手前、その感情を露骨に態度に出すことこそないが、市からの共同事業者である東が時間になっても来ないことをボヤいていた。この日の参加児童は11人、学習支援のボランティアは7人。普段はここで子供達自身が活動記録ファイルを管理用ケースから各々取って行く。そしてボランティアと交流しながらその学習を進めるが——
「じゃあ今日ファイルどうすんの?」
市役所でケースを保管している東が不在であるため、そんな声が多動な様子の子供から挙がった。
「ファイル今日は書かないでいいよ、まあやれるだけ机着いてみな」
「マジダリい」
小田井やボランティア等と子供達は、そんな言葉を交わしつつもそれぞれの組み合わせに落ち着いていく。そんな中、健人も誰かと組み合わせになるべく視線を配らせながらも大部屋をうろつくも、組み合わせからは溢れていた。小田井の呆れ顔が一瞬目に入る。
「裕也、花森君と組むか?」
そうして健人は、小田井の提案に力なく頷く菱川裕也という中学生の少年との組み合わせになった。

裕也と健人は一先ず学習机に着くも、裕也はそれ以上動こうとしない。教材も拡げることなく、ナップサックに入ったままだ。対面に座る健人もまた、その様を一瞬見やると机の白さに目線を落とす。時折周囲のボランティアや小田井にその様を怪訝に見られ、二人から交互に溜息が漏れた。
「…ボランティアがそれでいいの?」
沈黙を破ったのは裕也のそんな一言だった。健人は一度周囲を見回してから裕也に返す。
「まあ、どうなんだろう。マズいだろうけどな…君の方はどう?」
裕也は健人の方を見るも、すぐに視線を落として沈黙した。その様子に「あ…」と健人は零すと、補足の言葉を続ける。
「えっと…”やらないと”っていうよりも”今、勉強をやりたいのか”って意味でどうか聞いた」
裕也はその目だけを上に——健人の方に一瞬向けた。健人の視線も裕也に少し向く。それから再度目を伏せ黙りこくった裕也に、健人は「…無理に言わなくてもいい」と再度言葉をかけた。
「裕也君がやりたくないとか、言いたくないならそれも君の気持ちだ。何より…君の話だからさ」
「…なんだよその言い方」
返事そのものは静かなものの、裕也は顔をしかめて鼻筋を震わせながら健人を睨みつける。
「”君の話”ってなんだよ…だったら最初から放っとけよ」
その張り詰めた裕也の様は周囲にも伝わり、ボランティアや子供の視線が健人と裕也の様子を窺うも、健人は裕也の方だけを見つめる。裕也の息は上がっており、その身体は心なしか震えていた。
「…やめよう。君は多分、今は休んだ方がいいと思う」
「は?なんだよそれ…勉強しなきゃいけないんだろ?」
休息を提案するも、矢継ぎ早に吐き出されたその言葉に、健人はすぐに返答することは出来ず、発した裕也自身も狼狽しながらそのまま口を閉ざす。
「言い方が悪かったら謝る。でも君にとっていい方を選んでくれたらいい」
健人は一呼吸おいてそう伝えたのを最後に何も言えず、裕也も感情の収まりがつかない状態では勉強などままならない、互いが蟠りを抱え、あさひろばでの前半の学習時間は過ぎていった。

その後、休憩を兼ねての食事の時間になると、子供たちはコミュニティセンターの一階にある食堂へと駆け込んでいく。しかし裕也は学習机に上体を突っ伏したまま動くことは無い。
「悪い、ちょっと外すな」
健人は沈んだ表情でそこから一度外すと、小田井の下へと向かい裕也の状況を報告しに向かう。その様を少しだけ顔を上げた裕也の視線が追っていた。しかし間もなく健人が戻ると、その顔は再度伏せられる。
「…先に食堂、行ってる。気が向いたら食べに来な」
顔に物憂げな皺を寄せるも、それだけ告げると健人は大部屋を後にした。

—————————————————————————————

食堂では随時、子供たちが昼食を摂り始めていた。メニューはご飯とアジのマヨパン粉焼き、菜の花の御浸し、金平ごぼう、デザートにオレンジゼリー。青少年特有の喧騒がけたたましく聞こえる中、ゼリーから食べる下級生の男児、騒ぎながら食べるヤンキー風の少女、がっついて食べる身体の細い少年に、箸が進まない女児と、皆この食事に対する反応は様々である。
健人が食堂に入るのとほぼ同時、部屋の奥からこちらを一瞬見やった高校生の少年——中畑伸弥の方からその気配は感じ取れた。
「お前が肩パン乗らねぇから、ボランティア来たろうが」
「いや、そんなこと言ったって…」
活動ファイルを子供の後で書く学習担当ボランティアが多いため、彼らの多くは最初に食堂に降りて来ないことから、一部の高学年が高圧的に迫って、他の子の分を取り上げることがある。この時間の最大の問題であるが、隠れて行われるその行為に、充分な場数が踏めていないボランティアだけでは対処が難しい。
こちらを注意を払いながらも、伸弥はその逆立たせた金髪とスカジャンを見に纏った高身長で、自身の一つ年下のおとなしい少年にプレッシャーを与えながら、何事かを話している。

一先ずは給仕担当のボランティア——住民活動の婦人達から昼食の乗ったトレーを受け取りつつ、健人はアイサインでこの時も行われようとしている搾取について共有した。本人たちで解決できるか様子を見つつも、必要なら介入する。その意識の共有は上級生らに向けた無言の働きかけでもあった。しかしそれも虚しく伸弥は少年から「肩パン不戦敗」と称して食事の一部を取り上げようとする。
目の前で進んでしまう状況に健人は怯むも、溜め息混じりに「ああ、もう」と小さく発しながら伸弥と少年の元に向かった。
「面倒起こすな中畑」
「は?何お前、俺何かした?」
慎弥からの反応は惚けて話を誤魔化す類のものだった。その一方でこちらを睨む目には、所謂不良少年特有の威圧感が込められる。その圧に対する弱さが一瞬の深呼吸に混じるも、健人は辛うじて言葉を紡ぐ。
「…肩パンとか聞こえた。年下の子とか相手に成立しないだろ」
「コイツも乗ってたさ、なあ」
少年の方に話が向く。慎弥の声はその奥に効かせる凄みを増していた。
「…あ…えっと…」
気圧された様子の少年は辛うじて口ごもるものの、慎弥が彼の方を目を見開いて見る。
「脅したり、人の飯取るようなケチなことするな」
押し通される前に健人が言葉を絞り出すも、その下唇は若干震えていた。
「ははっ、何言ってんのお前…言い掛かり、うぜえな」
嘲笑の言葉と共に「早く失せろや」と続けられる。膠着状態。向けられる悪意に健人は一瞬沈黙するも、収まらない震えも隠さずに一つ嗤ってポツリと言った。
「…だからクソ人間の相手はウンザリなんだよ——」
落ちくぼんだその目が慎弥の顔から外され、周囲の注目もその混沌の様も、受け容れることは無い。ただ茫然と虚空を見つめる。
「そのキモい言い方ウケるわ」
鼻で嗤ってそう言うと、一瞬慎弥も健人も沈黙する。だが次の瞬間、遂に慎弥は立ち上がって胸倉を掴んできた。
「マジ、殺すぞシャバ僧…!」
「うるさいな、もう俺に面倒寄越すな」
「お前から首突っ込んだろうが、ガイジが!」
ドスの効いた怒声。その大声と共に慎弥の筋肉質な腕が健人の身体を揺らす。力なく、落ちくぼんだ目は、尚も慎弥を見ることは無い。
「…まあ、”お前らの話”だもんな」
「消えろ!クソガイジ!」
罵声と共に慎弥は健人を突き飛ばした。健人の身体はそこから一、二歩後ずさると、そのまま踵を返して食堂を出る。その時大声を聞きつけた様子の小田井や、数人のボランティアが食堂の出入り口に駆け付け鉢合わせた。
「花森くん、何があった」
「彼らに聞いてください」
顎を僅かに慎弥の方に向け、それだけ告げると健人はその場から去ろうとするも、小田井がそれを制する。
「そういうわけにはいかんだろ、君」
「対処丸投げしといて、よく言う…退いて下さい」
「…最低限の責任も持てないなら、もう来ないでいい」
「もう結構です」
最後は小田井が言い切るまで待たず、その身を躱して健人は自身の荷物を取りに二階の大部屋に向かった。

—————————————————————————————

二階の大部屋に戻ると、裕也だけが未だ学習机にいた。健人の気配に気づいた瞬間、彼は少し起こしていた上体を再び突っ伏してしまう。健人はそこから目を逸らし、伏せると「悪い。後半の勉強、見れなくなった」とだけ告げる。そのまま学習机の脚元に置いた自身のバッグを肩に掛けて去ろうと一歩、二歩とだけ進んだ。だが、そこから脚が動かない。裕也の収まらないすすり泣きが、僅かに聞こえた。思わず目を閉じ、ゆっくりと開ける。
「…さっきの、”君の話”って言い方…自分に言い聞かせてるんだ。人と話すの、距離感しんどいから」
どうにか言葉を紡ぐも、突っ伏した裕也は反応しない。その空白を埋めるように「うまく言えなくて悪い」と繋ぐ。健人の表情は顰められ、歪んでいた。
「ただ…君の話だからこそ、君がどうするか選んでいいんだ。自分を守る意味でも」
独り言めいた呟きを言い終わると共に、顔を裕也の方をほんの僅かに向けるも、独り言であるが故にその動きは途中で止まる。
「…俺は…何も選びたくない、今は…」
裕也が少しだけ顔を上げ、その意思をポツリと言葉とした。その言葉に健人はもう少し顔を傾ける。だがさめざめと泣いた顔を見ることなく、その意思をただ肯定する。
「それでいいさ」
裕也の瞳は僅かに揺れ、身体の力は虚脱しているものの、その涙と鳴き声は僅かに収まっていた。
その静寂が合図だった。健人は顔を正面に戻す。
「じゃあ」
そう言ってあさひろばを後にする健人のその表情は、裕也からははっきりとは見えなかった。しかしその背を、裕也は静かに見送っていた。大部屋のあった二階から階段を下り、一階の玄関からコミュニティセンターを出ると、健人は天を仰ぎ見る。いくつか白い雲が混ざる青空の向こう——その光に向けて目を細めた。
「俺はやっぱ出涸らしだ…ミユ姉」

—————————————————————————————

裕也は大部屋の窓、カーテンに指す陽の光を静かに見つめていた。空腹に腹の音は鳴るも、その身は今しばらく動くことは無い。ただ、その上体は起こされており、すすり泣くよりも思案のために目線を上にする。やがてその様子も「今は選ばない」という呟きと共に、スマートフォンを見る格好に変わった。そうして動画視聴アプリを開き、宛てもなくその見出しを流し見るも、すぐにあるニュース速報の動画に指が止まった。

”朝憬市行政組織に対するテロ行為が発生。地元メディアが緊急発表——”

「えっ——」
驚嘆した裕也は動画の再生アイコンをタップする。その時、”それ”は彼の背後——他に誰もいないはずの大部屋の壁際に現れた。ボリュームを絞った広告動画の音が、スマートフォンから辺りに流れる。その音を聞きながら、”それ”は裕也の背に迫ると彼の右肩に異形の顔を寄せ、壮年の男性を思わせる低い声で日本語を話しだした。
「いきなりですが、私…」
「っ…!なんだお前っ!」
裕也は驚愕に息を飲み、直後に大声を上げると椅子が倒れるのも構わずその身を翻して立ち上がる。スマートフォンが床に落ちるも、再生されたニュース動画の音声が響いた。
”今日の正午、朝憬市全域の市役所並びに警察所が同時多発的に謎の集団に襲撃される事件が発生しました…”
戦慄に強張る身体。その足が一歩半後ずさり、知らず息が上がる。
「これは失礼…こういうことは驚かせてこそと思いまして…」
「何だよ、これ」
人ならざる者が人の言葉を、社会性ある丁寧な物腰と共に発している。その立ち振る舞いには一種のユーモアさえあったが、姿かたちは人間による創造した仮装や着ぐるみとは一線を画していた。美しい"オオカミ"、そして何処か人を思わせる異形。しかしその身体の造りは人間のそれとも、オオカミのそれとも明らかに異なっている。
「あ~…いきなりですが私、知的生命体の世界はいい加減さとつまらなさで出来てると思うんです」
「…は?」
顔を引きつらせながらも、裕也は疑問を提示すると共に、床に落ちたスマートフォンを見た。その画面の向こうでは、未だアナウンサーがニュース原稿を読み上げている。
”主犯と思われる人物らの犯行声明も発表されており、政府はこの事態をテロ行為として…”
「…まさか…」
「ああ、それ…そうですね、先ほど私たちがやりました」
事態に気づいた裕也に対してオオカミは頷くも、「これでは話が進まない」と続けながら肩を竦め、改めて一方的に話し始めた。
「とにかくまあ、知的生命体は個体数が多いものですから、発する言葉や行動もそれぞれいい加減でつまらない」
「何言って…」
「覚えがありませんか?私には聞こえるんですよ、君の叫びが…そんな不確かな世界が、”怖い”んでしょう?そして人間のつまらなさに、君は失望している」
裕也の目が見開かれた。この不可思議な状況に混乱し沈黙こそするも、その瞳をオオカミから外すことが出来ない。ただ、浅い呼吸が繰り返される。
「君にとって学校という箱庭は敵地だ。そこでの無責任な行為や言葉は、自分や自分と似た人を常に傷つけ脅かす。それ以外の場所も基本、似たようなもの」
「何が言いたいんだ…」
「恥ずかしがることはありませんよ。生命体にとって恐怖もまた、必要な反応です。そして私と、私の話す君の本心、どちらも怖れる君は…確かにいる」
「うるさいっ!」
よろめき、倒れながらも叫ぶ裕也にオオカミは淡々と歩を詰める。「どうかお静かに…」そう言いながらも獲物を追い詰める狩人の歩みは裕也の眼前に迫り、その頭を大きな異形の左腕が掴んだ。
「放せっ!やめろ!!」
「自身を脅かすものへの恐怖の度合いが、君は人より少し大きいというだけ…もっともそんな君自身が君を更に追い詰めているようですが」
掴んだ左手が裕也の頬を撫でる。金縛りにあったように身動きが取れないその様を見つめながら、オオカミの言葉は続く。
「そうして塒に籠っても、仮初の安心は形ばかり…」
「それを嗤う他者と自身。その虚しさに君は縛り付けられている。心の在り処を見失う。そんな君を他人(ヒト)の記憶は揶揄した、”ただ、逃げている”と——」
収まったはずの涙が零れる。しかし何故か叫ぶこともできない。呼吸は益々早くなり、その目には”怒り”が宿る。
「クソッタレな話だ。綺麗にしないとね…自分が醜悪になってでも」
「さあ、君が…君こそが選ばなければ——この絶望を」
頷いた裕也の胸元に空いた虚空に、オオカミの爪が突き立てられた。

「それでは、いただきます——」

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その日、夢から目覚めた花森健人の一日は自室のベッド上で吐く溜息から始まった。
「腰痛い」
小声で呟くそんな言葉と共に、気だるげにその長身を起こしながら、健人は被さっていた掛け布団を捲る。直後に再度「さむ…」と独り呟くも、枕元にあるスマートフォンの画面を点けた。すぐさまディスプレイが表示され、そのロック画面に日時が表示される。2020年4月11日、午前6時半。4月と言えど、未だ寒波がある時期。朝日も昇り始めた時間の薄暗さの中、健人は自宅二階に位置する自室を出て、一階へと階段を降りて行った。
一階の暖房を点けて部屋を暖め、健人はキッチンで朝食を作ると、リビングにて目を伏せた表情でこれを食す。ご飯とウインナー、パックの刻みキャベツと卵焼きを口に入れていると、一階の奥に位置する部屋から戸を開けて、健人の母である純子が出てきた。
「おはよう、健」
「おはよう」
朝の挨拶を交わしながら、母と子が互いの顔を見合わせる。純子は目を擦り、健人の朝食を見ながらその隣——リビングの食卓に着くと、「今日も寒いね」と切り出した。
「土曜日だけど、朝から講義なの?」
「まあね、その後”あさひろば”」
健人は溜息を含ませながら返した。その様に、純子は少しだけ顔に憂いの皺を寄せる。それと共に、ほんの一瞬会話に間が空いた。
「急ぎすぎてない?病み上がりなのに…」
発された純子のそんな言葉に、健人は苦笑しつつも応える。
「まあ、一応単位のためだし、昼すぎまでだから。とりあえず母さん、コーヒーでも飲む?」
その顔のまま言った健人に反応は遅れるも、純子は一旦は「うん」と頷いた。それと同時に父の哲也が健人と同様に二階の自室から降りてきた。白髪交じりの顔で「おはよう」と挨拶する哲也の右手には既にコーヒーカップが握られている。
「二人とも調子どう?」
その様子を伺う言葉に「私はよく寝れたよ」と返す純子と共に、健人も母へのコーヒーを淹れながら微笑を称えて言った。
「うーん、俺はちょっと腰痛いかな」

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同日午後8時。朝憬市(あかりし)朝陽町の住宅街にある一件家。齢40過ぎに差し掛かった夫婦が朝の身支度を済ませ、その一日を始めようとしていた。
仕事に向かう夫の忠司が自室のクローゼットからスーツを羽織る。クローゼットの鏡には、眉根が寄せられ、しかめられた顔が映っていた。その後玄関まで自身を見送る妻の洋子に、忠司は一つ聞いた。
「裕也は?」
「…そろそろ起きると思う」
沈んだ声音で洋子が言った。夫婦の一人息子の裕也は夫婦が玄関で声や音に対し、自室のベッド上で身を竦ませていた。引きつった表情と共にその息が上がっていく。
「…そうか…”あさひろば”は行けそうか?」
忠司が靴を履いて整えながら、再度問う。一瞬その問いに少しだけその目を落とすも、すぐにその目は夫を見つめなおし、洋子は言葉を返した。
「あの子自身が、判断するよ」
そんな母としての洋子の言葉に窘められた忠司は「…そうだな」と返事し、一つ息を吸って玄関のドアを開けて仕事へと出ていった。

自室まで響く一連の声や音が止み、パジャマ姿の裕也は上がった息を整える。一方でその瞳は虚ろであり、その身体の動作の一つ一つは重く、鈍い。
「…なんで俺なんだ…」
ポツリと呟かれた思い。それと共に涙が一つ頬を伝い、落ちる。それは誰にも気づかれることなく、未だ閉ざされた暗い部屋の中に溶けていった。

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「…そのためICF、国際生活機能分類では…」
朝憬英道大学B棟第2講義室にて、健人は客員講師の講義に出席していた。だが真剣に講師の話を聞いているわけではない。講義室の窓際に位置する長机に座しながら、下を向いてその手に持ったスマートフォンのゲームをしていた。そのため時折顔を上げて辺りを見渡す。周囲の学生らは小声で私語をしている者も多く、真剣に講義内容をノートに取っている者は半数いるかどうかだった。そんな中にあって、講師は淡々の一応の講義内容を機械的に発している。健人は再度下を向きながらため息を吐き、スマートフォンの置いた指をせわしなく動かしていた。ただ、それだけの時間が過ぎていく。
「めんどくさ」
誰にも聞かれない小声で、健人はそう呟いた。呟いたのととほぼ同時に右前方に座る学生たちの小声が、ふと耳に入る。
「また出たって、”赤髪の魔女”」
「お前好きだな、その与太話」
話を振った方の小柄な男子学生が「講義よりは面白いだろ」と渇いた笑みを浮かべて小声で話し続けた。
「それがここから近いんだよ、朝陽町の教会の近くで怪物と争ってたってSNSでさ…」
「お前その感じ、特撮とかそういうもんの延長で見てんだろ。別に否定はしないけど、俺にそれを話されてもさ」
話を聞くガタイのいい男子学生がその大きな肩を竦ませ、呆れた口調で返す。
「なんだよ…なんか、イケてんじゃん。赤髪の魔女」
「多分、お前はダサいけどな…」
ガタイが小柄に毒づくと共に、健人は小柄の方を冷ややかに見ていた視線を外してスマホゲームを一度閉じると、SNSアプリを立ち上げて検索ワードを入力する。
”赤髪”と”魔女”、そして”怪物”——
そうして検索すれば、拾えた投稿は二十余件。二年ほど前から、この朝憬で噂される人を襲う怪物。これに対抗している少女について述べる言葉がスマートフォンに映し出される。顔の見えない投稿主らが記したそれは、この少女を英雄視するものや、その存在を訝しむもの、どうして戦っているのかと考察するもの等と様々だった。依然として視線を下に向いてそれらを流し見ているうちに、ある画像付きの投稿に目が留まる。
”これ、噂の怪物と赤髪の魔女じゃね…見ちゃったよ…”
その書き込みに添付された画像は、暗い時間に咄嗟に撮影されたもので、街灯の薄明りが撮影者の周囲の路地をどうにか照らしていた。そこから上空へと向けられたアングルに、輪郭が見える程度だったが、小さな人型から昇る赤い灯のような光と大きな青黒い何かが交錯している。健人は人型の赤い灯を注視すると、その目を細めた。

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同日正午、朝憬市中央部駅前の街中。そこに位置する朝憬市市役所のエレベーター内で、黒コートを羽織った男と茶髪のスーツ姿の男が乗り合わせた。
「首尾はどうか?」
先にエレベーターに乗っていた黒コートが言った。
「問題ない、4階も制圧だ。後は俺たちが上で号令すれば、儀式の第一段階は完了する」
3階から乗り合わせた茶髪が黒コートからの問いに応じ、続ける。
「しかし、人間のコミュニティはどこも風通しが悪いが…”ここ”の奴らは特にだな」
茶髪の言葉に何も返すことなく、黒コートはその憮然とした表情を保つ。茶髪はそんな黒コートを一瞥しながら話し続けた。
「どいつもこいつも、あんたみたいに陰気な面だ。その目や意識は仕事と液晶画面ってのとを行ったり来たり…物事や自分に意味を求める割には、随分…薄っぺらい」
「そして、お前のような者がその皮肉を肴に酩酊するわけか」
その一瞥と揶揄に返す刀で差し込まれた黒コートの応答に、茶髪は口角を上げた。
「何が悪い。旨いもんに酔うのは、奴らもやってる。笑って生きるための秘訣だぞ」
茶髪のその一連の動作を見向きもせず、黒コートは一言こう告げる。
「話が浅い」
茶髪が黒コートのその言葉を鼻で嗤うと同時に、「5階です」とアナウンスが鳴ってエレベーターのドアが開く。二人がそこを出ると共に市役所ビルの警報が鳴り響いた。動揺した市役所職員らがエレベーターに向けて駆けてくるも、茶髪はその様に笑みを零し、黒コートはその誰とも目を合わせることはない。その直後、職員らは皆一様に倒れ伏していった。

「まあ、細かいことではあるな——」

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「東さんが市から来ないけど、一先ず始めましょうか」
午前の講義を終え、健人は朝憬市朝陽コミュニティセンターで行われる、あるボランティア事業に参加していた。”あさひろば”と名付けられたその事業は、市と共同で子ども食堂と学習支援を行っている。その事業主の一人である小田井は、利用者である子供達やボランティアたちの手前、その感情を露骨に態度に出すことこそないが、市からの共同事業者である東が時間になっても来ないことをボヤいていた。この日の参加児童は11人、学習支援のボランティアは7人。普段はここで子供達自身が活動記録ファイルを管理用ケースから各々取って行く。そしてボランティアと交流しながらその学習を進めるが——
「じゃあ今日ファイルどうすんの?」
市役所でケースを保管している東が不在であるため、そんな声が多動な様子の子供から挙がった。
「ファイル今日は書かないでいいよ、まあやれるだけ机着いてみな」
「マジダリい」
小田井やボランティア等と子供達は、そんな言葉を交わしつつもそれぞれの組み合わせに落ち着いていく。そんな中、健人も誰かと組み合わせになるべく視線を配らせながらも大部屋をうろつくも、組み合わせからは溢れていた。小田井の呆れ顔が一瞬目に入る。
「裕也、花森君と組むか?」
そうして健人は、小田井の提案に力なく頷く菱川裕也という中学生の少年との組み合わせになった。

裕也と健人は一先ず学習机に着くも、裕也はそれ以上動こうとしない。教材も拡げることなく、ナップサックに入ったままだ。対面に座る健人もまた、その様を一瞬見やると机の白さに目線を落とす。時折周囲のボランティアや小田井にその様を怪訝に見られ、二人から交互に溜息が漏れた。
「…ボランティアがそれでいいの?」
沈黙を破ったのは裕也のそんな一言だった。健人は一度周囲を見回してから裕也に返す。
「まあ、どうなんだろう。マズいだろうけどな…君の方はどう?」
裕也は健人の方を見るも、すぐに視線を落として沈黙した。その様子に「あ…」と健人は零すと、補足の言葉を続ける。
「えっと…”やらないと”っていうよりも”今、勉強をやりたいのか”って意味でどうか聞いた」
裕也はその目だけを上に——健人の方に一瞬向けた。健人の視線も裕也に少し向く。それから再度目を伏せ黙りこくった裕也に、健人は「…無理に言わなくてもいい」と再度言葉をかけた。
「裕也君がやりたくないとか、言いたくないならそれも君の気持ちだ。何より…君の話だからさ」
「…なんだよその言い方」
返事そのものは静かなものの、裕也は顔をしかめて鼻筋を震わせながら健人を睨みつける。
「”君の話”ってなんだよ…だったら最初から放っとけよ」
その張り詰めた裕也の様は周囲にも伝わり、ボランティアや子供の視線が健人と裕也の様子を窺うも、健人は裕也の方だけを見つめる。裕也の息は上がっており、その身体は心なしか震えていた。
「…やめよう。君は多分、今は休んだ方がいいと思う」
「は?なんだよそれ…勉強しなきゃいけないんだろ?」
休息を提案するも、矢継ぎ早に吐き出されたその言葉に、健人はすぐに返答することは出来ず、発した裕也自身も狼狽しながらそのまま口を閉ざす。
「言い方が悪かったら謝る。でも君にとっていい方を選んでくれたらいい」
健人は一呼吸おいてそう伝えたのを最後に何も言えず、裕也も感情の収まりがつかない状態では勉強などままならない、互いが蟠りを抱え、あさひろばでの前半の学習時間は過ぎていった。

その後、休憩を兼ねての食事の時間になると、子供たちはコミュニティセンターの一階にある食堂へと駆け込んでいく。しかし裕也は学習机に上体を突っ伏したまま動くことは無い。
「悪い、ちょっと外すな」
健人は沈んだ表情でそこから一度外すと、小田井の下へと向かい裕也の状況を報告しに向かう。その様を少しだけ顔を上げた裕也の視線が追っていた。しかし間もなく健人が戻ると、その顔は再度伏せられる。
「…先に食堂、行ってる。気が向いたら食べに来な」
顔に物憂げな皺を寄せるも、それだけ告げると健人は大部屋を後にした。

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食堂では随時、子供たちが昼食を摂り始めていた。メニューはご飯とアジのマヨパン粉焼き、菜の花の御浸し、金平ごぼう、デザートにオレンジゼリー。青少年特有の喧騒がけたたましく聞こえる中、ゼリーから食べる下級生の男児、騒ぎながら食べるヤンキー風の少女、がっついて食べる身体の細い少年に、箸が進まない女児と、皆この食事に対する反応は様々である。
健人が食堂に入るのとほぼ同時、部屋の奥からこちらを一瞬見やった高校生の少年——中畑伸弥の方からその気配は感じ取れた。
「お前が肩パン乗らねぇから、ボランティア来たろうが」
「いや、そんなこと言ったって…」
活動ファイルを子供の後で書く学習担当ボランティアが多いため、彼らの多くは最初に食堂に降りて来ないことから、一部の高学年が高圧的に迫って、他の子の分を取り上げることがある。この時間の最大の問題であるが、隠れて行われるその行為に、充分な場数が踏めていないボランティアだけでは対処が難しい。
こちらを注意を払いながらも、伸弥はその逆立たせた金髪とスカジャンを見に纏った高身長で、自身の一つ年下のおとなしい少年にプレッシャーを与えながら、何事かを話している。

一先ずは給仕担当のボランティア——住民活動の婦人達から昼食の乗ったトレーを受け取りつつ、健人はアイサインでこの時も行われようとしている搾取について共有した。本人たちで解決できるか様子を見つつも、必要なら介入する。その意識の共有は上級生らに向けた無言の働きかけでもあった。しかしそれも虚しく伸弥は少年から「肩パン不戦敗」と称して食事の一部を取り上げようとする。
目の前で進んでしまう状況に健人は怯むも、溜め息混じりに「ああ、もう」と小さく発しながら伸弥と少年の元に向かった。
「面倒起こすな中畑」
「は?何お前、俺何かした?」
慎弥からの反応は惚けて話を誤魔化す類のものだった。その一方でこちらを睨む目には、所謂不良少年特有の威圧感が込められる。その圧に対する弱さが一瞬の深呼吸に混じるも、健人は辛うじて言葉を紡ぐ。
「…肩パンとか聞こえた。年下の子とか相手に成立しないだろ」
「コイツも乗ってたさ、なあ」
少年の方に話が向く。慎弥の声はその奥に効かせる凄みを増していた。
「…あ…えっと…」
気圧された様子の少年は辛うじて口ごもるものの、慎弥が彼の方を目を見開いて見る。
「脅したり、人の飯取るようなケチなことするな」
押し通される前に健人が言葉を絞り出すも、その下唇は若干震えていた。
「ははっ、何言ってんのお前…言い掛かり、うぜえな」
嘲笑の言葉と共に「早く失せろや」と続けられる。膠着状態。向けられる悪意に健人は一瞬沈黙するも、収まらない震えも隠さずに一つ嗤ってポツリと言った。
「…だからクソ人間の相手はウンザリなんだよ——」
落ちくぼんだその目が慎弥の顔から外され、周囲の注目もその混沌の様も、受け容れることは無い。ただ茫然と虚空を見つめる。
「そのキモい言い方ウケるわ」
鼻で嗤ってそう言うと、一瞬慎弥も健人も沈黙する。だが次の瞬間、遂に慎弥は立ち上がって胸倉を掴んできた。
「マジ、殺すぞシャバ僧…!」
「うるさいな、もう俺に面倒寄越すな」
「お前から首突っ込んだろうが、ガイジが!」
ドスの効いた怒声。その大声と共に慎弥の筋肉質な腕が健人の身体を揺らす。力なく、落ちくぼんだ目は、尚も慎弥を見ることは無い。
「…まあ、”お前らの話”だもんな」
「消えろ!クソガイジ!」
罵声と共に慎弥は健人を突き飛ばした。健人の身体はそこから一、二歩後ずさると、そのまま踵を返して食堂を出る。その時大声を聞きつけた様子の小田井や、数人のボランティアが食堂の出入り口に駆け付け鉢合わせた。
「花森くん、何があった」
「彼らに聞いてください」
顎を僅かに慎弥の方に向け、それだけ告げると健人はその場から去ろうとするも、小田井がそれを制する。
「そういうわけにはいかんだろ、君」
「対処丸投げしといて、よく言う…退いて下さい」
「…最低限の責任も持てないなら、もう来ないでいい」
「もう結構です」
最後は小田井が言い切るまで待たず、その身を躱して健人は自身の荷物を取りに二階の大部屋に向かった。

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二階の大部屋に戻ると、裕也だけが未だ学習机にいた。健人の気配に気づいた瞬間、彼は少し起こしていた上体を再び突っ伏してしまう。健人はそこから目を逸らし、伏せると「悪い。後半の勉強、見れなくなった」とだけ告げる。そのまま学習机の脚元に置いた自身のバッグを肩に掛けて去ろうと一歩、二歩とだけ進んだ。だが、そこから脚が動かない。裕也の収まらないすすり泣きが、僅かに聞こえた。思わず目を閉じ、ゆっくりと開ける。
「…さっきの、”君の話”って言い方…自分に言い聞かせてるんだ。人と話すの、距離感しんどいから」
どうにか言葉を紡ぐも、突っ伏した裕也は反応しない。その空白を埋めるように「うまく言えなくて悪い」と繋ぐ。健人の表情は顰められ、歪んでいた。
「ただ…君の話だからこそ、君がどうするか選んでいいんだ。自分を守る意味でも」
独り言めいた呟きを言い終わると共に、顔を裕也の方をほんの僅かに向けるも、独り言であるが故にその動きは途中で止まる。
「…俺は…何も選びたくない、今は…」
裕也が少しだけ顔を上げ、その意思をポツリと言葉とした。その言葉に健人はもう少し顔を傾ける。だがさめざめと泣いた顔を見ることなく、その意思をただ肯定する。
「それでいいさ」
裕也の瞳は僅かに揺れ、身体の力は虚脱しているものの、その涙と鳴き声は僅かに収まっていた。
その静寂が合図だった。健人は顔を正面に戻す。
「じゃあ」
そう言ってあさひろばを後にする健人のその表情は、裕也からははっきりとは見えなかった。しかしその背を、裕也は静かに見送っていた。大部屋のあった二階から階段を下り、一階の玄関からコミュニティセンターを出ると、健人は天を仰ぎ見る。いくつか白い雲が混ざる青空の向こう——その光に向けて目を細めた。
「俺はやっぱ出涸らしだ…ミユ姉」

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裕也は大部屋の窓、カーテンに指す陽の光を静かに見つめていた。空腹に腹の音は鳴るも、その身は今しばらく動くことは無い。ただ、その上体は起こされており、すすり泣くよりも思案のために目線を上にする。やがてその様子も「今は選ばない」という呟きと共に、スマートフォンを見る格好に変わった。そうして動画視聴アプリを開き、宛てもなくその見出しを流し見るも、すぐにあるニュース速報の動画に指が止まった。

”朝憬市行政組織に対するテロ行為が発生。地元メディアが緊急発表——”

「えっ——」
驚嘆した裕也は動画の再生アイコンをタップする。その時、”それ”は彼の背後——他に誰もいないはずの大部屋の壁際に現れた。ボリュームを絞った広告動画の音が、スマートフォンから辺りに流れる。その音を聞きながら、”それ”は裕也の背に迫ると彼の右肩に異形の顔を寄せ、壮年の男性を思わせる低い声で日本語を話しだした。
「いきなりですが、私…」
「っ…!なんだお前っ!」
裕也は驚愕に息を飲み、直後に大声を上げると椅子が倒れるのも構わずその身を翻して立ち上がる。スマートフォンが床に落ちるも、再生されたニュース動画の音声が響いた。
”今日の正午、朝憬市全域の市役所並びに警察所が同時多発的に謎の集団に襲撃される事件が発生しました…”
戦慄に強張る身体。その足が一歩半後ずさり、知らず息が上がる。
「これは失礼…こういうことは驚かせてこそと思いまして…」
「何だよ、これ」
人ならざる者が人の言葉を、社会性ある丁寧な物腰と共に発している。その立ち振る舞いには一種のユーモアさえあったが、姿かたちは人間による創造した仮装や着ぐるみとは一線を画していた。美しい"オオカミ"、そして何処か人を思わせる異形。しかしその身体の造りは人間のそれとも、オオカミのそれとも明らかに異なっている。
「あ~…いきなりですが私、知的生命体の世界はいい加減さとつまらなさで出来てると思うんです」
「…は?」
顔を引きつらせながらも、裕也は疑問を提示すると共に、床に落ちたスマートフォンを見た。その画面の向こうでは、未だアナウンサーがニュース原稿を読み上げている。
”主犯と思われる人物らの犯行声明も発表されており、政府はこの事態をテロ行為として…”
「…まさか…」
「ああ、それ…そうですね、先ほど私たちがやりました」
事態に気づいた裕也に対してオオカミは頷くも、「これでは話が進まない」と続けながら肩を竦め、改めて一方的に話し始めた。
「とにかくまあ、知的生命体は個体数が多いものですから、発する言葉や行動もそれぞれいい加減でつまらない」
「何言って…」
「覚えがありませんか?私には聞こえるんですよ、君の叫びが…そんな不確かな世界が、”怖い”んでしょう?そして人間のつまらなさに、君は失望している」
裕也の目が見開かれた。この不可思議な状況に混乱し沈黙こそするも、その瞳をオオカミから外すことが出来ない。ただ、浅い呼吸が繰り返される。
「君にとって学校という箱庭は敵地だ。そこでの無責任な行為や言葉は、自分や自分と似た人を常に傷つけ脅かす。それ以外の場所も基本、似たようなもの」
「何が言いたいんだ…」
「恥ずかしがることはありませんよ。生命体にとって恐怖もまた、必要な反応です。そして私と、私の話す君の本心、どちらも怖れる君は…確かにいる」
「うるさいっ!」
よろめき、倒れながらも叫ぶ裕也にオオカミは淡々と歩を詰める。「どうかお静かに…」そう言いながらも獲物を追い詰める狩人の歩みは裕也の眼前に迫り、その頭を大きな異形の左腕が掴んだ。
「放せっ!やめろ!!」
「自身を脅かすものへの恐怖の度合いが、君は人より少し大きいというだけ…もっともそんな君自身が君を更に追い詰めているようですが」
掴んだ左手が裕也の頬を撫でる。金縛りにあったように身動きが取れないその様を見つめながら、オオカミの言葉は続く。
「そうして塒に籠っても、仮初の安心は形ばかり…」
「それを嗤う他者と自身。その虚しさに君は縛り付けられている。心の在り処を見失う。そんな君を他人(ヒト)の記憶は揶揄した、”ただ、逃げている”と——」
収まったはずの涙が零れる。しかし何故か叫ぶこともできない。呼吸は益々早くなり、その目には”怒り”が宿る。
「クソッタレな話だ。綺麗にしないとね…自分が醜悪になってでも」
「さあ、君が…君こそが選ばなければ——この絶望を」
頷いた裕也の胸元に空いた虚空に、オオカミの爪が突き立てられた。

「それでは、いただきます——」

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