8.取引と人質 version 12

2023/10/26 19:52 by someone
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8.取引と人質
耳を疑った。一般社会で活躍しているであろう、目の前の美女ーー上坂蓉子から告げられた言葉。それは出会ってすぐの彼女に抱いた第一印象から、あまりにもかけ離れた浮世離れに過ぎる単語だった。
怪物の都市伝説、そして連続失踪事件。確かに健人も関わっているところではある。だが寝耳に水の形で、如何にも自分が関わっている前提でされたその質問は、知らず健人を揺さぶった。
「あなたは一体ーー」
「それは私も思うところだけど…さっき言った通り、私は彼の都市伝説と連続失踪事件を追っているんです」
「…そもそも、その都市伝説ってなんすか。それと俺がどうして結び付くんです?」
「簡単な話ですよ。事件を調べてるのは、あなた達だけじゃないんだから」
「だから何で俺たちが調べてるってーー」
「"俺たち"?」
上擦った声、言動に出たボロをすかさず上坂は捕えて健人を揺さぶる。健人の意識は思考が固まる自身を感じていた。
「動揺することないですよ、私はもうあなた達の存在は認知している」
「…どうしてわかった?」
「まあ、それはこちらにもツテがあるというだけの話。それにあれだけ派手に暴れていればね」
これまでの戦闘場面を想起すれば、確かに白昼堂々戦っていたこともあった。しかし何より、自分達に辿り着くに至った"ツテ"の存在が、健人の心中を重くする。
「一応、雑誌社の委託で私がこのお店の取材に来たのは本当だけど、本命はあなたとの取引に来た」
「取引?」
「私は故あって、この怪事件の真実を追ってる。私の持ってる情報では、あなたかあなたのお友達は、それに近づき得る人間なの」
「どういう意味だよ、それ」
涼しく告げた上坂を睨み、怒りを込めて言い放つ。このところ訳のわからないうちに話を勝手に進められている。腹を割って話せた人のそれならともかく、殆どがそうだ。いい加減にしてくれ。
「そんな風に言われても、少なくとも事実はそういう状況」
「…要求と対価は?」
「要求は怪事件の取材として、私をあなた達の活動に同行させて欲しい。対価は私の持ってる情報。どう?あなた達にも無益でないと思うけど」
沈黙ーー。簡単には口を開けない。本来なら俺は、平穏な日常に戻りたいだけだ。クソみたいにつまらない日々のそれではあっても、人の悲痛と異形との暴力にのめり込むつもりはこれっぽっちもない。
「…一度持って帰るのは?友達も関わる以上、俺一人で決められない」
「いいわ。じゃあこれ、私のプライベートの連絡先。信頼の証、或いは担保ってことで」
差し出されたメモを一先ず受け取るが、この後に初樹と一連の整理をしなければならないことを思うと、健人の心中は鬱々としていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「やってくれたものよ、エヴルア」
ゾルドーが歩きながら小さく呟く。その先は朝憬市北の町外れに位置する、小さな廃工場。
「こんなタイミングで消えるとか…いや、こんなタイミングだからかもね」
「ほう…我欲か、保身か」
「或いは両方。アイツ、何か知りすぎてた感もあるし」
その右を歩くアゼリアは、その後も変わらずセーラー服の女子高生姿。ゾルドーは彼女を見やると一つ、息を吐いた。
「しかし、この景色にその服装というのは…疑わしくないか?」
「あなたには言われたくないことよ、神父様」
返ってきた当然の指摘に、ゾルドーも当然表情を変えることはない。
「…この場から消息を絶った、あの悪魔を恨むか」
「それが賢明ね。ホント引っ掻き回してくれるわ」
「それこそ、貴殿も例外ではないだろう。知性的に過ぎるのも、身を滅ぼすか?」
「私、ねえ…それこそ上手くやりたいものだけど」
ゾルドーの眼が、僅かにアゼリアの方を見遣る。
「隠しもしないか。ならば懺悔の告白を薦めよう」
「生憎、間に合ってることよ。自分でそういうことを言ったら、いよいよだわ」
「…まあいい、私を巻き込ないならばな」
ゾルドーがそう告げると、やがて二人は歩を止めた。
「それはどうも、それじゃあーー」
そうして二人の翳した"石"から現れるは、無数の使い魔。その姿は包帯を思わせるボロ切れを纏った人型の異形。
「お行きなさい」
告げられた命に使い魔ーー影魔達は四方に散って行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「早退けしてぇ…」
安場佐田の勤務の小休止、健人は小さく呟いた。自身を維持していた緊張の糸は、連日の強いストレスの中で、もう限界に達しかねない。
"やっぱつけられとったか"
また自身の内から響く声が、鬱屈とした精神を削っていくのを感じていた。
「俺にはついにプライベートも無くなったか、え?」
"応じるなら、口を動かさんでもいい"
「俺には喋るなってか?」
"違う、念じたら俺には聞こえる。口を開けば、周りから疑われるのはお前じゃ"
既にしかめていた顔から口だけを閉じるも、到底納得できない。佐田はその後、商談で店を外した。しかし万一にも戻ってきた佐田や客に聞かれるわけにもいかない。
"お前、ブレスレット通じて俺の中にいたんだろ?上坂蓉子のこと、気づいてたのか?"
"半分ってとこじゃな。俺の勘が知らせとる。お前、色んな奴につけられとるぞ"
"なんで!?この上まだ何か他の奴がいるってのかよ…!"
血の気が一気に引いていった。息が上がり、悪心と怖気が走るまま、今尚その存在を認められないような小人に問う。
"ああ、全ては分からんが人間も、人間じゃないのもおるじゃろう"
眩暈がする。吐き気がし、神経は震えていた。知らず、息が苦しくなる。目の前の日常風景はその輪郭さえ怪しく、揺れていた。
"…俺、何かしたか?おい"
"お前、今朝は俺や奴らの存在に、"俺の現実"と言うとったろ?現実なんてそんなもんじゃ"
そんなあっけらかんとした言葉を受けたその瞬間、花森健人の身体は遂に店番の椅子から崩れ落ちた。
「なんだよ、それ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

"ボチボチこうなると思っとった。お嬢、ホントにこいつで良かったんですかい?"
ネーゲルはそう独り言ち、一つ溜め息を吐く。やがて健人がーー否、健人の身体が目を覚ますが、その瞳が赤い光を放った。そしてズボンのポケットにあるスマートフォンを取り出し、桧山初樹に電話をかける。
「もしもし、花っち?」
電話越しの桧山初樹の声音は、どこか強張っている。少なからずネーゲルはそう感じた。
「いや悪いな、兄ちゃん。俺じゃ、ネーゲルよ。今、前みたいに花森健人を動かして話しとる」
「ーー花っちに何かあったのか!?」
「察してくれて助かる。疲労が貯まっとったみたいでな、倒れた。安場佐田っちゅう場所が分かるなら、医者呼んでくれんか?」
「わかった、すぐに呼ぶ!…ネーゲル、信じていいんだな?」
こちらに疑義を抱くも、それは健人を案じる故だろう。その上で話に応じてくれたことに、ネーゲルがどこか安堵する。
「俺は寧ろ、そう聞いてくれた兄ちゃんをこそ今は信じる。少なくとも、な」
そんなネーゲルの言葉に、感嘆する初樹の声がスマートフォンの向こうから聞こえた。しかしその直後、事態が急変する。
「えっーー黒コート!うああぁ!!」
激しい揉み合いの音が一瞬強く響き、初樹が不意を突かれたことを伝えた。
「どうした兄ちゃん!大丈夫か!?」
ネーゲルは強く呼び掛ける。しかしーー
「ーーああ、連れ合いならたった今、俺が人質に取った」
続いてスマートフォンから響いたのは、暗く響く男の声。
「お前、前のアイツか」
「ご名答。こういうことは主義ではないが、以前この小僧らにしてやられた、意趣返しというところか」
表情が歪む。それは花森健人のものか、ネーゲルという者の感情か、彼ら本人にも今は判別する余裕は無かった。
「人質というなら、要求ないし取引でもあるんじゃろ?さっさと言え」
「決まっているだろう?プロテクトーーいや、敢えてこちらもネーゲルと呼称しよう。要求は貴様の宿る秘宝。そのブレスレットだよ」
逡巡と思案に一瞬空白が生まれる。だが間髪入れず黒コートはネーゲルへの恫喝に吠えた。
「貴様が応じぬなら、貴様の宿主にでも相談しようか?ああ!?聞こえるかイレギュラー!俺は今ここで、貴様の友を八つ裂きにすることもできるぞ!!」
方や疲弊に昏倒し、方や人質に取られた今、判断出来るのは自身しかいない。プログラムとしてのネーゲルの回答は、当然静観しかあり得なかった。花森健人とブレスレットが、敵の手に落ちるわけにはいかない。確かに健人にとって数少ない光である友を犠牲にすることは、彼自身を崩壊させかねない。
だが、"護るものがある存在"としてもこの選択を間違えられない。
「…応じーー」
言いかけた、その時だった。目の赤い光は失せ、その瞬間だけは心身の主導権がネーゲルのコントロールを離れた。
「ーーてやる。ハッサンに手を出すな」
「ほう、殊勝な…」
「ハッサン傷つけたら殺す。八つ裂きじゃ済まさねえ」
「言ってくれる…その口調、イレギュラーに変わったか。まあいい、取引の場面は追って人質に伝えさせる」
「待て!!」
健人の制止を意に介さず、通話は切れた。
「ネーゲル」
敢えて怒りに口を動かし、ハッキリと告げる。
「今度俺が共に居たい人を、売るようなことしたら、お前も消し飛ばすから覚えてろ」
"だったら少しは覚悟決めて強くなれ、半端者が…ほいじゃが今だけは、少し休め"
「ああ!?ハッサンが危ねえのに、てめえ…!」
その言葉を言いきる前に、朦朧としていた健人の意識は再度絶ち消えた。その時彼に聞こえたのは、ネーゲルが今一度発した一言だった。
「悪いようにはせんよ。店長には謝らにゃならんかもだが」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

上坂蓉子のスマートフォンに着信が入る。非通知の番号であったが、彼女は躊躇いなく応答した。
「はい、上坂です」
「もしもし、さっき安場佐田で話した花森ですが」
「早かったですね、花森さん」
時間が限れている。焦れったい敬語で話していることさえもどかしかった。しかし確かめなければ。
「さっきお互いタメ語で話したし、健人でいいすよ」
「そう、じゃあ健人くん。この電話は私との取引に応じてくれたと解釈していいの?」
「ああ、でも一つ聞きたいことがある」
「何?」
赤く光る目が僅かに細められ、声のトーンが一つ下がった。再現としてはまずまずではあるだろう。
「上坂さんはーー」
「私も蓉子でいい」
「蓉子さんは真実に辿り着いて、どうしたいんだ?」
一瞬空いた間に、相手を推し量る。程なくそれを破った蓉子の言葉には、静かな熱が宿っていた。
「…ある情報のために殺された人がいる」
「復讐?」
「違う、これは継承。その人が絶望しながらも追いかけた真実、発しようとした言葉を、私が記事として形にする。それが私の決めた、私の覚悟」
どこか淡々と語られながら、激情を思わせさえする熱は、上坂蓉子が継承とした覚悟そのもの。そして返す刀で彼女問われる。
どこか淡々と語られながら、激情を思わせさえする熱は、上坂蓉子が継承とした覚悟そのもの。そして返す刀で彼女から問われる。
「あなたはどう?どうしてこの短時間で取引に応じたの?一蓮托生だから、聞いとかないと」
「…守らなきゃいけない人がいる」
それは共通の回答だった。現在の花森健人、そしてネーゲルという二者にとって、唯一共通する一線。
「それは、覚悟の言葉と取っていい?あなたの状況に直面して尚、譲れないこと?」
「少なくとも、アイツはそう言った。なら俺もそうしないといけない。そのためならーー」
使えるものは全部使う。初対面すら成立していないマスコミであろうと、実力行使であろうと。覚悟と言えるものがあるとすれば、それだけだ。
「わかった、充分よ。それで何があったの?」
スマートフォンから聞こえる蓉子の声音は、既に臨戦態勢を思わせるものだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして数時間後である5月17日、午前2時42分。朝憬市西部に位置する廃ビルの屋上にて、ネーゲルは黒コートと対峙していた。悪魔の背後には気を失った初樹の姿が掲げられ、十字に拘束されている。
「悪く思うな。手段は選べんのでな」
黒コートはそれだけ言うと、携えた石から無数の影魔を喚び出し、ネーゲルへとけしかけた。
「ーー殺せ」      

耳を疑った。一般社会で活躍しているであろう、目の前の美女ーー上坂蓉子から告げられた言葉。それは出会ってすぐの彼女に抱いた第一印象から、あまりにもかけ離れた浮世離れに過ぎる単語だった。
怪物の都市伝説、そして連続失踪事件。確かに健人も関わっているところではある。だが寝耳に水の形で、如何にも自分が関わっている前提でされたその質問は、知らず健人を揺さぶった。
「あなたは一体ーー」
「それは私も思うところだけど…さっき言った通り、私は彼の都市伝説と連続失踪事件を追っているんです」
「…そもそも、その都市伝説ってなんすか。それと俺がどうして結び付くんです?」
「簡単な話ですよ。事件を調べてるのは、あなた達だけじゃないんだから」
「だから何で俺たちが調べてるってーー」
「"俺たち"?」
上擦った声、言動に出たボロをすかさず上坂は捕えて健人を揺さぶる。健人の意識は思考が固まる自身を感じていた。
「動揺することないですよ、私はもうあなた達の存在は認知している」
「…どうしてわかった?」
「まあ、それはこちらにもツテがあるというだけの話。それにあれだけ派手に暴れていればね」
これまでの戦闘場面を想起すれば、確かに白昼堂々戦っていたこともあった。しかし何より、自分達に辿り着くに至った"ツテ"の存在が、健人の心中を重くする。
「一応、雑誌社の委託で私がこのお店の取材に来たのは本当だけど、本命はあなたとの取引に来た」
「取引?」
「私は故あって、この怪事件の真実を追ってる。私の持ってる情報では、あなたかあなたのお友達は、それに近づき得る人間なの」
「どういう意味だよ、それ」
涼しく告げた上坂を睨み、怒りを込めて言い放つ。このところ訳のわからないうちに話を勝手に進められている。腹を割って話せた人のそれならともかく、殆どがそうだ。いい加減にしてくれ。
「そんな風に言われても、少なくとも事実はそういう状況」
「…要求と対価は?」
「要求は怪事件の取材として、私をあなた達の活動に同行させて欲しい。対価は私の持ってる情報。どう?あなた達にも無益でないと思うけど」
沈黙ーー。簡単には口を開けない。本来なら俺は、平穏な日常に戻りたいだけだ。クソみたいにつまらない日々のそれではあっても、人の悲痛と異形との暴力にのめり込むつもりはこれっぽっちもない。
「…一度持って帰るのは?友達も関わる以上、俺一人で決められない」
「いいわ。じゃあこれ、私のプライベートの連絡先。信頼の証、或いは担保ってことで」
差し出されたメモを一先ず受け取るが、この後に初樹と一連の整理をしなければならないことを思うと、健人の心中は鬱々としていた。

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「やってくれたものよ、エヴルア」
ゾルドーが歩きながら小さく呟く。その先は朝憬市北の町外れに位置する、小さな廃工場。
「こんなタイミングで消えるとか…いや、こんなタイミングだからかもね」
「ほう…我欲か、保身か」
「或いは両方。アイツ、何か知りすぎてた感もあるし」
その右を歩くアゼリアは、その後も変わらずセーラー服の女子高生姿。ゾルドーは彼女を見やると一つ、息を吐いた。
「しかし、この景色にその服装というのは…疑わしくないか?」
「あなたには言われたくないことよ、神父様」
返ってきた当然の指摘に、ゾルドーも当然表情を変えることはない。
「…この場から消息を絶った、あの悪魔を恨むか」
「それが賢明ね。ホント引っ掻き回してくれるわ」
「それこそ、貴殿も例外ではないだろう。知性的に過ぎるのも、身を滅ぼすか?」
「私、ねえ…それこそ上手くやりたいものだけど」
ゾルドーの眼が、僅かにアゼリアの方を見遣る。
「隠しもしないか。ならば懺悔の告白を薦めよう」
「生憎、間に合ってることよ。自分でそういうことを言ったら、いよいよだわ」
「…まあいい、私を巻き込ないならばな」
ゾルドーがそう告げると、やがて二人は歩を止めた。
「それはどうも、それじゃあーー」
そうして二人の翳した"石"から現れるは、無数の使い魔。その姿は包帯を思わせるボロ切れを纏った人型の異形。
「お行きなさい」
告げられた命に使い魔ーー影魔達は四方に散って行った。

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「早退けしてぇ…」
安場佐田の勤務の小休止、健人は小さく呟いた。自身を維持していた緊張の糸は、連日の強いストレスの中で、もう限界に達しかねない。
"やっぱつけられとったか"
また自身の内から響く声が、鬱屈とした精神を削っていくのを感じていた。
「俺にはついにプライベートも無くなったか、え?」
"応じるなら、口を動かさんでもいい"
「俺には喋るなってか?」
"違う、念じたら俺には聞こえる。口を開けば、周りから疑われるのはお前じゃ"
既にしかめていた顔から口だけを閉じるも、到底納得できない。佐田はその後、商談で店を外した。しかし万一にも戻ってきた佐田や客に聞かれるわけにもいかない。
"お前、ブレスレット通じて俺の中にいたんだろ?上坂蓉子のこと、気づいてたのか?"
"半分ってとこじゃな。俺の勘が知らせとる。お前、色んな奴につけられとるぞ"
"なんで!?この上まだ何か他の奴がいるってのかよ…!"
血の気が一気に引いていった。息が上がり、悪心と怖気が走るまま、今尚その存在を認められないような小人に問う。
"ああ、全ては分からんが人間も、人間じゃないのもおるじゃろう"
眩暈がする。吐き気がし、神経は震えていた。知らず、息が苦しくなる。目の前の日常風景はその輪郭さえ怪しく、揺れていた。
"…俺、何かしたか?おい"
"お前、今朝は俺や奴らの存在に、"俺の現実"と言うとったろ?現実なんてそんなもんじゃ"
そんなあっけらかんとした言葉を受けたその瞬間、花森健人の身体は遂に店番の椅子から崩れ落ちた。
「なんだよ、それ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

"ボチボチこうなると思っとった。お嬢、ホントにこいつで良かったんですかい?"
ネーゲルはそう独り言ち、一つ溜め息を吐く。やがて健人がーー否、健人の身体が目を覚ますが、その瞳が赤い光を放った。そしてズボンのポケットにあるスマートフォンを取り出し、桧山初樹に電話をかける。
「もしもし、花っち?」
電話越しの桧山初樹の声音は、どこか強張っている。少なからずネーゲルはそう感じた。
「いや悪いな、兄ちゃん。俺じゃ、ネーゲルよ。今、前みたいに花森健人を動かして話しとる」
「ーー花っちに何かあったのか!?」
「察してくれて助かる。疲労が貯まっとったみたいでな、倒れた。安場佐田っちゅう場所が分かるなら、医者呼んでくれんか?」
「わかった、すぐに呼ぶ!…ネーゲル、信じていいんだな?」
こちらに疑義を抱くも、それは健人を案じる故だろう。その上で話に応じてくれたことに、ネーゲルがどこか安堵する。
「俺は寧ろ、そう聞いてくれた兄ちゃんをこそ今は信じる。少なくとも、な」
そんなネーゲルの言葉に、感嘆する初樹の声がスマートフォンの向こうから聞こえた。しかしその直後、事態が急変する。
「えっーー黒コート!うああぁ!!」
激しい揉み合いの音が一瞬強く響き、初樹が不意を突かれたことを伝えた。
「どうした兄ちゃん!大丈夫か!?」
ネーゲルは強く呼び掛ける。しかしーー
「ーーああ、連れ合いならたった今、俺が人質に取った」
続いてスマートフォンから響いたのは、暗く響く男の声。
「お前、前のアイツか」
「ご名答。こういうことは主義ではないが、以前この小僧らにしてやられた、意趣返しというところか」
表情が歪む。それは花森健人のものか、ネーゲルという者の感情か、彼ら本人にも今は判別する余裕は無かった。
「人質というなら、要求ないし取引でもあるんじゃろ?さっさと言え」
「決まっているだろう?プロテクトーーいや、敢えてこちらもネーゲルと呼称しよう。要求は貴様の宿る秘宝。そのブレスレットだよ」
逡巡と思案に一瞬空白が生まれる。だが間髪入れず黒コートはネーゲルへの恫喝に吠えた。
「貴様が応じぬなら、貴様の宿主にでも相談しようか?ああ!?聞こえるかイレギュラー!俺は今ここで、貴様の友を八つ裂きにすることもできるぞ!!」
方や疲弊に昏倒し、方や人質に取られた今、判断出来るのは自身しかいない。プログラムとしてのネーゲルの回答は、当然静観しかあり得なかった。花森健人とブレスレットが、敵の手に落ちるわけにはいかない。確かに健人にとって数少ない光である友を犠牲にすることは、彼自身を崩壊させかねない。
だが、"護るものがある存在"としてもこの選択を間違えられない。
「…応じーー」
言いかけた、その時だった。目の赤い光は失せ、その瞬間だけは心身の主導権がネーゲルのコントロールを離れた。
「ーーてやる。ハッサンに手を出すな」
「ほう、殊勝な…」
「ハッサン傷つけたら殺す。八つ裂きじゃ済まさねえ」
「言ってくれる…その口調、イレギュラーに変わったか。まあいい、取引の場面は追って人質に伝えさせる」
「待て!!」
健人の制止を意に介さず、通話は切れた。
「ネーゲル」
敢えて怒りに口を動かし、ハッキリと告げる。
「今度俺が共に居たい人を、売るようなことしたら、お前も消し飛ばすから覚えてろ」
"だったら少しは覚悟決めて強くなれ、半端者が…ほいじゃが今だけは、少し休め"
「ああ!?ハッサンが危ねえのに、てめえ…!」
その言葉を言いきる前に、朦朧としていた健人の意識は再度絶ち消えた。その時彼に聞こえたのは、ネーゲルが今一度発した一言だった。
「悪いようにはせんよ。店長には謝らにゃならんかもだが」

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上坂蓉子のスマートフォンに着信が入る。非通知の番号であったが、彼女は躊躇いなく応答した。
「はい、上坂です」
「もしもし、さっき安場佐田で話した花森ですが」
「早かったですね、花森さん」
時間が限れている。焦れったい敬語で話していることさえもどかしかった。しかし確かめなければ。
「さっきお互いタメ語で話したし、健人でいいすよ」
「そう、じゃあ健人くん。この電話は私との取引に応じてくれたと解釈していいの?」
「ああ、でも一つ聞きたいことがある」
「何?」
赤く光る目が僅かに細められ、声のトーンが一つ下がった。再現としてはまずまずではあるだろう。
「上坂さんはーー」
「私も蓉子でいい」
「蓉子さんは真実に辿り着いて、どうしたいんだ?」
一瞬空いた間に、相手を推し量る。程なくそれを破った蓉子の言葉には、静かな熱が宿っていた。
「…ある情報のために殺された人がいる」
「復讐?」
「違う、これは継承。その人が絶望しながらも追いかけた真実、発しようとした言葉を、私が記事として形にする。それが私の決めた、私の覚悟」
どこか淡々と語られながら、激情を思わせさえする熱は、上坂蓉子が継承とした覚悟そのもの。そして返す刀で彼女から問われる。
「あなたはどう?どうしてこの短時間で取引に応じたの?一蓮托生だから、聞いとかないと」
「…守らなきゃいけない人がいる」
それは共通の回答だった。現在の花森健人、そしてネーゲルという二者にとって、唯一共通する一線。
「それは、覚悟の言葉と取っていい?あなたの状況に直面して尚、譲れないこと?」
「少なくとも、アイツはそう言った。なら俺もそうしないといけない。そのためならーー」
使えるものは全部使う。初対面すら成立していないマスコミであろうと、実力行使であろうと。覚悟と言えるものがあるとすれば、それだけだ。
「わかった、充分よ。それで何があったの?」
スマートフォンから聞こえる蓉子の声音は、既に臨戦態勢を思わせるものだった。

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そして数時間後である5月17日、午前2時42分。朝憬市西部に位置する廃ビルの屋上にて、ネーゲルは黒コートと対峙していた。悪魔の背後には気を失った初樹の姿が掲げられ、十字に拘束されている。
「悪く思うな。手段は選べんのでな」
黒コートはそれだけ言うと、携えた石から無数の影魔を喚び出し、ネーゲルへとけしかけた。
「ーー殺せ」