8.取引と人質 version 23

2024/03/24 14:51 by someone
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8.取引と人質
「絶望、か――」
午後12時46分、英道大学の学生ホール。桧山初樹はノートパソコンを開き、事件に関する資料と顔を突き合わせていた。ネーゲル。既存の人知を超えた彼の存在は、自身の存在をコンピュータプログラム、或いは所謂AIに近いと例え、ブレスレットの持ち主、並びに知的生命を守る”プロテクト”と言った。
本来なら俄かには信じられない事象だが、実際に自分たちは小人の姿のネーゲルと会話し、また以前には健人と一体になった彼に助けられた。そう、彼が居なければ自分たちはあの時死んでいただろう。そして事件にのめり込んだ初樹こそが、健人と沢村智輝を危険に晒す結果を招いた。そのことが、初樹自身の心中を圧す。故に健人から連絡を受けた時、藁にも縋る思いでネーゲルに問いを投げかけた。その一部に対するネーゲルの回答は、初樹たちが見てきた一連の事象と概ね辻褄が合っていた。 

「一先ず俺が認知し、話せる情報は提供する。まずエクリプスが欲する養分。それは知的生命体の絶望じゃ」
「絶望?物理的だったり有機的とは言いにくいけど…」
「そういう器官や術ーー魔術ってもんがあるんよ。あれらは負の感情を宿した命を、悉く喰らう。そしてそこから、ある力を生成する」
先のネーゲルによる情報供与の際、確認された襲撃時のイメージに初樹は眉を寄せるが、すぐに目を見開いた。
「力って、まさか——」
「俺たちはカルナと呼んどる」
「事件と思われる現場には特殊な粒子が残ってて、被害者がいないのって…」
初樹の投げかけた言葉に、健人も釘付けになっていた。二人の様を見ながら、ネーゲルは首肯する。
「そう、終いには大半はエクリプスや影魔に、絶望に染まった命と存在を喰われて消失する。その粒子は恐らくカルナじゃ…言うなれば食った跡」
「そんな…」
「俺もお前も、それと同じ力を使ってるのか…?」
その言葉に、初樹は眩暈がする思いだった。傍らの健人も、口元を押さえ嗚咽を漏らしていた。
「影魔はこの一連のための暴力装置じゃ。知性体に負の感情を抱かせ、或いは煽る。そのための脅威を演出する役」
誤解すんな。俺らのは奴らとはアプローチが違う」
「どう違うんだよ」
「それは秘匿事項よ。話を戻すが、影魔はこの一連のための暴力装置じゃ。知性体に負の感情を抱かせ、或いは煽る。そのための脅威を演出する役」
「被害に遭った人や、一命を取り留めた人々を救う術は?」
「現段階では確立されていない」
現段階では確立されていない」
そこまで告げたネーゲルの表情はプログラムというにしても、初樹には苦々しさを滲ませているように見えた。

「…ふざけた話だ」
一連の情報の想起を、自身の感情が遮る。なぜ訳の分からない存在のために由紀は、妹は今も生死の狭間を彷徨っているというのか。あの子は何も悪いことをしていないはずだ。であるのに、なぜ連中の餌に狙われないとならなかったのか、そもそもそうなり得る絶望があったというのか。冗談ではない。このまま納得などできない。しかし、そこで自身のエゴと現実を自覚する。その感情のままに突っ走ることで、友を、関わる人々を巻き込むというのか。怒りと恐れに震える自分が、事件の資料を映したパソコンのディスプレイを睨みつけた。その背後を見つめる、黒コートの存在に気づくこともないまま——。

――――――――――――――――――――――――
 
「やってくれたものよ、エヴルア」
ゾルドーが歩きながら小さく呟く。その先は朝憬市北の町外れに位置する、小さな廃工場。
「こんなタイミングで消えるとか…いや、こんなタイミングだからかもね」
「ほう…我欲か、保身か」
「或いは両方。アイツ、何か知りすぎてた感もあるし」
その右を歩くアゼリアは、その後も変わらずセーラー服の女子高生姿。ゾルドーは彼女を見やると一つ、息を吐いた。
「しかし、この景色にその服装というのは…疑わしくないか?」
「あなたには言われたくないことよ、神父様」
返ってきた当然の指摘に、ゾルドーも当然表情を変えることはない。
「…この場から消息を絶った、あの悪魔を恨むか」
「それが賢明ね。ホント引っ掻き回してくれるわ」
「それこそ、貴殿も例外ではないだろう。他者の影魔という群体に、自身のそれを紛れ込ませたスパイ行為。俺が知らぬとでも?」
「私、ねえ…それこそ穏便に上手くやりたいものだけど」
ゾルドーの眼が、僅かにアゼリアの方を見遣る。だがアゼリアはその視線を合わせることもしない。
「隠しもしないか。ならば懺悔の告白を薦めよう」
「生憎、間に合ってることよ。自分でそういうことを言ったら、いよいよだわ」
「…まあいい、私を巻き込ないならばな」
ゾルドーがそう告げると、やがて二人は歩を止めた。
「それはどうも、それじゃあーー」
そうして二人の翳した"石"から現れるは、無数の使い魔。その姿は包帯を思わせるボロ切れを纏った人型の異形。
「お行きなさい」
告げられた命に使い魔ーー影魔達は四方に散って行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「早退けしてぇ…」
安場佐田の勤務の小休止、健人は小さく呟いた。自身を維持していた緊張の糸は、連日の強いストレスの中で、もう限界に達しかねない。
"やっぱつけられとったか"
また自身の内から響く声が、鬱屈とした精神を削っていくのを感じていた。
「俺にはついにプライベートも無くなったか、え?」
"応じるなら、口を動かさんでもいい"
「俺には喋るなってか?」
"違う、念じたら俺には聞こえる。口を開けば、周りから疑われるのはお前じゃ"
既にしかめていた顔から口だけを閉じるも、到底納得できない。佐田はその後、商談で店を外した。しかし万一にも戻ってきた佐田や客に聞かれるわけにもいかない。
"お前、ブレスレット通じて俺の中にいたんだろ?上坂蓉子のこと、気づいてたのか?"
"半分ってとこじゃな。俺の勘が知らせとる。お前、色んな奴につけられとるぞ"
"なんで!?この上まだ何か他の奴がいるってのかよ…!"
血の気が一気に引いていった。息が上がり、悪心と怖気が走るまま、今尚その存在を認められないような小人に問う。
"ああ、全ては分からんが人間も、人間じゃないのもおるじゃろう"
眩暈がする。吐き気がし、神経は震えていた。知らず、息が苦しくなる。目の前の日常風景はその輪郭さえ怪しく、揺れていた。
"…俺、何かしたか?おい"
"お前、今朝は俺や奴らの存在に、「俺の現実」と言うとったろ?現実なんてそんなもんじゃ"
そんなあっけらかんとした言葉を受けたその瞬間、花森健人の身体は遂に店番の椅子から崩れ落ちた。
「なんだよ、それ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

"ボチボチこうなると思っとった。全く俺は…何しとんじゃろうな"
ネーゲルはそう独り言ち、一つ溜め息を吐く。やがて健人がーー否、健人の身体が目を覚ますが、その瞳が赤い光を放った。そしてズボンのポケットにあるスマートフォンを取り出し、桧山初樹に電話をかける。
「もしもし、花っち?」
電話越しの桧山初樹の声音は、どこか強張っている。少なからずネーゲルはそう感じた。
「いや悪いな、兄ちゃん。俺じゃ、ネーゲルよ。今、前みたいに花森健人を動かして話しとる」
「ーー花っちに何かあったのか!?」
「察してくれて助かる。疲労が貯まっとったみたいでな、倒れた。安場佐田っちゅう場所が分かるなら、医者呼んでくれんか?」
「わかった、すぐに呼ぶ!…ネーゲル、信じていいんだな?」
こちらに疑義を抱くも、それは健人を案じる故だろう。その上で話に応じてくれたことに、ネーゲルがどこか安堵する。
「俺は寧ろ、そう聞いてくれた兄ちゃんをこそ今は信じる。少なくとも、な」
そんなネーゲルの言葉に、感嘆する初樹の声がスマートフォンの向こうから聞こえた。しかしその直後、事態が急変する。
「えっーー黒コート!うああぁ!!」
激しい揉み合いの音が一瞬強く響き、初樹が不意を突かれたことを伝えた。
「どうした兄ちゃん!大丈夫か!?」
ネーゲルは強く呼び掛ける。しかしーー
「ーーああ、連れ合いならたった今、俺が人質に取った」
続いてスマートフォンから響いたのは、暗く響く男の声。
「お前、前のアイツか」
「ご明察だ。こういうことは主義ではないが、以前この小僧らにしてやられた、意趣返しというところか」
表情が歪む。それは花森健人のものか、ネーゲルという者の感情か、彼ら本人にも今は判別する余裕は無かった。
「人質というなら、要求ないし取引でもあるんじゃろ?さっさと言え」
「決まっているだろう?プロテクトーーいや、敢えてこちらもネーゲルとでも呼称しようか。要求は貴様の宿る秘宝。そのブレスレットだよ」
逡巡と思案に一瞬空白が生まれる。だが間髪入れず黒コートはネーゲルへの恫喝に吠えた。
「貴様が応じぬなら、貴様の宿主にでも相談しようか?ああ!?聞こえるかイレギュラー!俺は今ここで、貴様の友を八つ裂きにすることもできるぞ!!」
方や疲弊に昏倒し、方や人質に取られた今、判断出来るのは自身しかいない。プログラムとしてのネーゲルの回答は、静観か。花森健人とブレスレットが、敵の手に掛かるわけにはいかない。だが健人にとって数少ない光である友を犠牲にすることは、彼自身を崩壊させかねない。護る者として生まれた以上、何を護るとするかという選択を間違えるわけにはいかなかった。
「…応じーー」
回答を告げようとした、その時だった。目の赤い光は失せ、その瞬間だけは心身の主導権がネーゲルのコントロールを離れた。
「ーーてやる。ハッサンに手を出すな」
「ほう、殊勝な…」
「ハッサン傷つけたら殺す。八つ裂きじゃ済まさねえ」
「言ってくれる…その口調、イレギュラーに変わったか。まあいい大事な人質だ、手は出さぬさ。取引の場面は追って伝える」
「待て!!」
健人の制止を意に介さず、通話は切れた。
「ネーゲル」
敢えて怒りに口を動かし、ハッキリと告げる。その眼は虚ろながら激情に震えていた。
「今度俺が共に居たい人を、売るようなことしたら、お前も消し飛ばすから覚えてろ」
しかし強く言い放った言葉にネーゲルもまた皮肉を返す。
"…言うとることに見合う力を持ってから言え。阿呆が"
「てめえ…!」
尚も唇を震わせるも言葉が出てこず、朦朧としていた健人の意識は再度絶ち消えた。その時彼に聞こえたのは、ネーゲルが今一度発した一言。
"悪いようにはせんよ。俺も全く不本意じゃあるがな"
しかしその意味は、以前と異なり憮然と聞こえた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その後午後18時38分、ネーゲルは花森健人の肉体を少しでも休めた後、そのまま上坂蓉子とファミリア朝憬北店で対面していた。
「お返事、早かったですね。花森さん」
「さっきお互いタメ語で話したし、健人でいいすよ」
時間が限れている。焦れったい敬語で話していることさえもどかしかった。
「そう、じゃあ健人くん。この電話は私との取引に応じてくれたと解釈していいの?」
「その前に、一つ聞きたいことがある」
「何?」
コンマ一秒にも満たぬ間に赤く光る目。それが僅かに細められ、声のトーンが一つ下がった。再現としてはまずまずではあるだろう。
「上坂さんは…」
「私も蓉子でいい」
「蓉子さんは、気づいてるか?今俺たちがーー」
「追跡されていること?」
言葉に躊躇いがなく、思い切りがいい。ネーゲルは小さく頷きつつ、蓉子の器量に感心した。
「問題ない。あなた達の存在に近づけば、予見できたことよ。あなたこそ、さっきとは違う人みたいに冷静ね」
「状況が状況なだけにね。焦りはするけど」
見抜かれている。そう直感しながら自嘲した。それはそうだ。プロテクトである自分が動き、こうも舞台に上がるなど、基本的に望ましくなど到底ない。だが、今はーー
「助けてほしい。俺の友人、桧山初樹が敵に拐われた」
他に方法がない。今動けるのは自分だけ。そして小声で求める助けに、蓉子の目が僅かに揺れる。
「彼の携帯の位置情報は当然切られていたし、ここに来る前、彼が直前にいた市街地にも行ったけど追跡できる情報はなかった。それに敵に関する情報はこちらは大枠しか持ってない」
まして相手の出方など分からなかった。先の戦闘ではネーゲルが黒コートを上回ってはいた。それ故に黒コートは初樹という人質を取ったことは想像に難くない。しかしそれだけとは思えなかった。策を巡らせ、磐石の態勢でこちらを圧すことは十二分に考えられる。
「事態に風穴を開け得るとすれば、俺たち以外に事件を追っている蓉子さんの持つ情報が、一番可能性が高いと思った。追跡者が何者かも定かでない中、尚更な」
こちらの話を終えると、思案を巡らせているのだろう蓉子は僅かな間閉口し、やがて質問を投げ掛けた。
「私も一つ聞く。私が知り、推測し得る限り、健人くんの状況ならもう投げ出していてもおかしくない…どうして足掻いているの?」
「…守らなきゃいけない人がいる」
それは共通の回答だった。現在の花森健人、そしてネーゲルという二者にとって、唯一共通する一線。
「それは、覚悟の言葉と取っていい?ここに来て尚、譲れないこと?」
「少なくとも、アイツはそう言った。なら俺もそうしないといけない。そのためならーー」
使えるものは全部使う。ネーゲルとしては初対面すら成立していないマスコミであろうと、実力行使であろうと。覚悟と言えるものがあるとすれば、それだけだ。
「やれるだけ、何だってするさ」       

「絶望、か――」
午後12時46分、英道大学の学生ホール。桧山初樹はノートパソコンを開き、事件に関する資料と顔を突き合わせていた。ネーゲル。既存の人知を超えた彼の存在は、自身の存在をコンピュータプログラム、或いは所謂AIに近いと例え、ブレスレットの持ち主、並びに知的生命を守る”プロテクト”と言った。
本来なら俄かには信じられない事象だが、実際に自分たちは小人の姿のネーゲルと会話し、また以前には健人と一体になった彼に助けられた。そう、彼が居なければ自分たちはあの時死んでいただろう。そして事件にのめり込んだ初樹こそが、健人と沢村智輝を危険に晒す結果を招いた。そのことが、初樹自身の心中を圧す。故に健人から連絡を受けた時、藁にも縋る思いでネーゲルに問いを投げかけた。その一部に対するネーゲルの回答は、初樹たちが見てきた一連の事象と概ね辻褄が合っていた。

「一先ず俺が認知し、話せる情報は提供する。まずエクリプスが欲する養分。それは知的生命体の絶望じゃ」
「絶望?物理的だったり有機的とは言いにくいけど…」
「そういう器官や術ーー魔術ってもんがあるんよ。あれらは負の感情を宿した命を、悉く喰らう。そしてそこから、ある力を生成する」
先のネーゲルによる情報供与の際、確認された襲撃時のイメージに初樹は眉を寄せるが、すぐに目を見開いた。
「力って、まさか——」
「俺たちはカルナと呼んどる」
「事件と思われる現場には特殊な粒子が残ってて、被害者がいないのって…」
初樹の投げかけた言葉に、健人も釘付けになっていた。二人の様を見ながら、ネーゲルは首肯する。
「そう、終いには大半はエクリプスや影魔に、絶望に染まった命と存在を喰われて消失する。その粒子は恐らくカルナじゃ…言うなれば食った跡」
「そんな…」
「俺もお前も、それと同じ力を使ってるのか…?」
その言葉に、初樹は眩暈がする思いだった。傍らの健人も、口元を押さえ嗚咽を漏らしていた。
「誤解すんな。俺らのは奴らとはアプローチが違う」
「どう違うんだよ」
「それは秘匿事項よ。話を戻すが、影魔はこの一連のための暴力装置じゃ。知性体に負の感情を抱かせ、或いは煽る。そのための脅威を演出する役」
「被害に遭った人や、一命を取り留めた人々を救う術は?」
「…現段階では確立されていない」
そこまで告げたネーゲルの表情はプログラムというにしても、初樹には苦々しさを滲ませているように見えた。

「…ふざけた話だ」
一連の情報の想起を、自身の感情が遮る。なぜ訳の分からない存在のために由紀は、妹は今も生死の狭間を彷徨っているというのか。あの子は何も悪いことをしていないはずだ。であるのに、なぜ連中の餌に狙われないとならなかったのか、そもそもそうなり得る絶望があったというのか。冗談ではない。このまま納得などできない。しかし、そこで自身のエゴと現実を自覚する。その感情のままに突っ走ることで、友を、関わる人々を巻き込むというのか。怒りと恐れに震える自分が、事件の資料を映したパソコンのディスプレイを睨みつけた。その背後を見つめる、黒コートの存在に気づくこともないまま——。

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「やってくれたものよ、エヴルア」
ゾルドーが歩きながら小さく呟く。その先は朝憬市北の町外れに位置する、小さな廃工場。
「こんなタイミングで消えるとか…いや、こんなタイミングだからかもね」
「ほう…我欲か、保身か」
「或いは両方。アイツ、何か知りすぎてた感もあるし」
その右を歩くアゼリアは、その後も変わらずセーラー服の女子高生姿。ゾルドーは彼女を見やると一つ、息を吐いた。
「しかし、この景色にその服装というのは…疑わしくないか?」
「あなたには言われたくないことよ、神父様」
返ってきた当然の指摘に、ゾルドーも当然表情を変えることはない。
「…この場から消息を絶った、あの悪魔を恨むか」
「それが賢明ね。ホント引っ掻き回してくれるわ」
「それこそ、貴殿も例外ではないだろう。他者の影魔という群体に、自身のそれを紛れ込ませたスパイ行為。俺が知らぬとでも?」
「私、ねえ…それこそ穏便に上手くやりたいものだけど」
ゾルドーの眼が、僅かにアゼリアの方を見遣る。だがアゼリアはその視線を合わせることもしない。
「隠しもしないか。ならば懺悔の告白を薦めよう」
「生憎、間に合ってることよ。自分でそういうことを言ったら、いよいよだわ」
「…まあいい、私を巻き込ないならばな」
ゾルドーがそう告げると、やがて二人は歩を止めた。
「それはどうも、それじゃあーー」
そうして二人の翳した"石"から現れるは、無数の使い魔。その姿は包帯を思わせるボロ切れを纏った人型の異形。
「お行きなさい」
告げられた命に使い魔ーー影魔達は四方に散って行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「早退けしてぇ…」
安場佐田の勤務の小休止、健人は小さく呟いた。自身を維持していた緊張の糸は、連日の強いストレスの中で、もう限界に達しかねない。
"やっぱつけられとったか"
また自身の内から響く声が、鬱屈とした精神を削っていくのを感じていた。
「俺にはついにプライベートも無くなったか、え?」
"応じるなら、口を動かさんでもいい"
「俺には喋るなってか?」
"違う、念じたら俺には聞こえる。口を開けば、周りから疑われるのはお前じゃ"
既にしかめていた顔から口だけを閉じるも、到底納得できない。佐田はその後、商談で店を外した。しかし万一にも戻ってきた佐田や客に聞かれるわけにもいかない。
"お前、ブレスレット通じて俺の中にいたんだろ?上坂蓉子のこと、気づいてたのか?"
"半分ってとこじゃな。俺の勘が知らせとる。お前、色んな奴につけられとるぞ"
"なんで!?この上まだ何か他の奴がいるってのかよ…!"
血の気が一気に引いていった。息が上がり、悪心と怖気が走るまま、今尚その存在を認められないような小人に問う。
"ああ、全ては分からんが人間も、人間じゃないのもおるじゃろう"
眩暈がする。吐き気がし、神経は震えていた。知らず、息が苦しくなる。目の前の日常風景はその輪郭さえ怪しく、揺れていた。
"…俺、何かしたか?おい"
"お前、今朝は俺や奴らの存在に、「俺の現実」と言うとったろ?現実なんてそんなもんじゃ"
そんなあっけらかんとした言葉を受けたその瞬間、花森健人の身体は遂に店番の椅子から崩れ落ちた。
「なんだよ、それ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

"ボチボチこうなると思っとった。全く俺は…何しとんじゃろうな"
ネーゲルはそう独り言ち、一つ溜め息を吐く。やがて健人がーー否、健人の身体が目を覚ますが、その瞳が赤い光を放った。そしてズボンのポケットにあるスマートフォンを取り出し、桧山初樹に電話をかける。
「もしもし、花っち?」
電話越しの桧山初樹の声音は、どこか強張っている。少なからずネーゲルはそう感じた。
「いや悪いな、兄ちゃん。俺じゃ、ネーゲルよ。今、前みたいに花森健人を動かして話しとる」
「ーー花っちに何かあったのか!?」
「察してくれて助かる。疲労が貯まっとったみたいでな、倒れた。安場佐田っちゅう場所が分かるなら、医者呼んでくれんか?」
「わかった、すぐに呼ぶ!…ネーゲル、信じていいんだな?」
こちらに疑義を抱くも、それは健人を案じる故だろう。その上で話に応じてくれたことに、ネーゲルがどこか安堵する。
「俺は寧ろ、そう聞いてくれた兄ちゃんをこそ今は信じる。少なくとも、な」
そんなネーゲルの言葉に、感嘆する初樹の声がスマートフォンの向こうから聞こえた。しかしその直後、事態が急変する。
「えっーー黒コート!うああぁ!!」
激しい揉み合いの音が一瞬強く響き、初樹が不意を突かれたことを伝えた。
「どうした兄ちゃん!大丈夫か!?」
ネーゲルは強く呼び掛ける。しかしーー
「ーーああ、連れ合いならたった今、俺が人質に取った」
続いてスマートフォンから響いたのは、暗く響く男の声。
「お前、前のアイツか」
「ご明察だ。こういうことは主義ではないが、以前この小僧らにしてやられた、意趣返しというところか」
表情が歪む。それは花森健人のものか、ネーゲルという者の感情か、彼ら本人にも今は判別する余裕は無かった。
「人質というなら、要求ないし取引でもあるんじゃろ?さっさと言え」
「決まっているだろう?プロテクトーーいや、敢えてこちらもネーゲルとでも呼称しようか。要求は貴様の宿る秘宝。そのブレスレットだよ」
逡巡と思案に一瞬空白が生まれる。だが間髪入れず黒コートはネーゲルへの恫喝に吠えた。
「貴様が応じぬなら、貴様の宿主にでも相談しようか?ああ!?聞こえるかイレギュラー!俺は今ここで、貴様の友を八つ裂きにすることもできるぞ!!」
方や疲弊に昏倒し、方や人質に取られた今、判断出来るのは自身しかいない。プログラムとしてのネーゲルの回答は、静観か。花森健人とブレスレットが、敵の手に掛かるわけにはいかない。だが健人にとって数少ない光である友を犠牲にすることは、彼自身を崩壊させかねない。護る者として生まれた以上、何を護るとするかという選択を間違えるわけにはいかなかった。
「…応じーー」
回答を告げようとした、その時だった。目の赤い光は失せ、その瞬間だけは心身の主導権がネーゲルのコントロールを離れた。
「ーーてやる。ハッサンに手を出すな」
「ほう、殊勝な…」
「ハッサン傷つけたら殺す。八つ裂きじゃ済まさねえ」
「言ってくれる…その口調、イレギュラーに変わったか。まあいい大事な人質だ、手は出さぬさ。取引の場面は追って伝える」
「待て!!」
健人の制止を意に介さず、通話は切れた。
「ネーゲル」
敢えて怒りに口を動かし、ハッキリと告げる。その眼は虚ろながら激情に震えていた。
「今度俺が共に居たい人を、売るようなことしたら、お前も消し飛ばすから覚えてろ」
しかし強く言い放った言葉にネーゲルもまた皮肉を返す。
"…言うとることに見合う力を持ってから言え。阿呆が"
「てめえ…!」
尚も唇を震わせるも言葉が出てこず、朦朧としていた健人の意識は再度絶ち消えた。その時彼に聞こえたのは、ネーゲルが今一度発した一言。
"悪いようにはせんよ。俺も全く不本意じゃあるがな"
しかしその意味は、以前と異なり憮然と聞こえた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その後午後18時38分、ネーゲルは花森健人の肉体を少しでも休めた後、そのまま上坂蓉子とファミリア朝憬北店で対面していた。
「お返事、早かったですね。花森さん」
「さっきお互いタメ語で話したし、健人でいいすよ」
時間が限れている。焦れったい敬語で話していることさえもどかしかった。
「そう、じゃあ健人くん。この電話は私との取引に応じてくれたと解釈していいの?」
「その前に、一つ聞きたいことがある」
「何?」
コンマ一秒にも満たぬ間に赤く光る目。それが僅かに細められ、声のトーンが一つ下がった。再現としてはまずまずではあるだろう。
「上坂さんは…」
「私も蓉子でいい」
「蓉子さんは、気づいてるか?今俺たちがーー」
「追跡されていること?」
言葉に躊躇いがなく、思い切りがいい。ネーゲルは小さく頷きつつ、蓉子の器量に感心した。
「問題ない。あなた達の存在に近づけば、予見できたことよ。あなたこそ、さっきとは違う人みたいに冷静ね」
「状況が状況なだけにね。焦りはするけど」
見抜かれている。そう直感しながら自嘲した。それはそうだ。プロテクトである自分が動き、こうも舞台に上がるなど、基本的に望ましくなど到底ない。だが、今はーー
「助けてほしい。俺の友人、桧山初樹が敵に拐われた」
他に方法がない。今動けるのは自分だけ。そして小声で求める助けに、蓉子の目が僅かに揺れる。
「彼の携帯の位置情報は当然切られていたし、ここに来る前、彼が直前にいた市街地にも行ったけど追跡できる情報はなかった。それに敵に関する情報はこちらは大枠しか持ってない」
まして相手の出方など分からなかった。先の戦闘ではネーゲルが黒コートを上回ってはいた。それ故に黒コートは初樹という人質を取ったことは想像に難くない。しかしそれだけとは思えなかった。策を巡らせ、磐石の態勢でこちらを圧すことは十二分に考えられる。
「事態に風穴を開け得るとすれば、俺たち以外に事件を追っている蓉子さんの持つ情報が、一番可能性が高いと思った。追跡者が何者かも定かでない中、尚更な」
こちらの話を終えると、思案を巡らせているのだろう蓉子は僅かな間閉口し、やがて質問を投げ掛けた。
「私も一つ聞く。私が知り、推測し得る限り、健人くんの状況ならもう投げ出していてもおかしくない…どうして足掻いているの?」
「…守らなきゃいけない人がいる」
それは共通の回答だった。現在の花森健人、そしてネーゲルという二者にとって、唯一共通する一線。
「それは、覚悟の言葉と取っていい?ここに来て尚、譲れないこと?」
「少なくとも、アイツはそう言った。なら俺もそうしないといけない。そのためならーー」
使えるものは全部使う。ネーゲルとしては初対面すら成立していないマスコミであろうと、実力行使であろうと。覚悟と言えるものがあるとすれば、それだけだ。
「やれるだけ、何だってするさ」