1 餘燼
その日、黑家はずいぶん陽気な空気に包まれていた。
広大な敷地に鬱蒼と茂る自然の雰囲気と、人工的に作り出された湿気をかき消すように、饗宴が開かれている。
あの末妹が悪癖の調整こそまだ未熟であれど、今回の仕事から多大に金を引っ張ってきたからだった。
決め手は薬指だった。
犬は、主に結婚を求められた。そして、それに直ぐ応じた。婚約の指輪が欲しいと主が言うから、二人で選んで買って、お互いの指に贈りあった。指を絡め、視線を交え、幸福の絶頂であったとき――主が、この犬を「旦那様」と呼んだ。
何度も軋んだ寝台の上、気に入っていた上等な寝間着がすっかり黒く染められて、あたりに鉄臭さが満ちたころに犬は正気に戻ったのだ。いいや、醒めた――冷めた――といっていい。
犬は、无貌《Wúmào》である。
貌がありすぎて、無い――命じられた役を完璧に演じ切ることのできる、名役者であった。もちろん犬に自覚はないが、備わった権能である。
それは、伸ばした集中力と家への忠誠が演技の土台を強固に作ったがゆえに成立する自己暗示であった。
主が恋人になれというのなら、そう演じてやる。この世でとびきり甘い時間と、理想の役割を果たしていただけだ。それが仕事で、主となった尽くす対象が喜ぶのなら、その通りにやってのけた。
ただ、今回は――集中が切れるのが、遅れてしまったのがよかったらしい。
今までは主らが、この犬を“上”に乗せるようなことがあったら、直ぐに興奮して貌を砕いてしまっていた。
犬にとって人間との序列は信頼関係を作るうえでの重要な点だ。そこに揺らぎを感じたら、犬は序列づけを行わねばならない。しかし、今回の主は違った――元から、“幼かった”。
年齢は犬のほうが少し上だったが、主は背伸びがしたいようだった。
立派な大人になったから、過保護な親の元を飛び出して、一人で親らのように成り上がってみせる。それが孝行というものでしょうと語る口ぶりは、おおよそ普段の傲慢で、勝手気ままなお嬢様のそれから出てくるとは思えないほど揺らぎのない決意があった。
肌を重ねて溶け合うように主と交わった後、腕に抱きながら眠るのを待っていると、そんな彼女の武侠めいた一面が見れるのだ。
犬も感慨深いものがあった。本にはない、人間の情緒というものをまざまざと見るのはこれが初めてのことである。
「ご立派です」と額に口づけると、擽ったそうにした主が愛おしいものだった。
この主が幼かったから、そして、友人と呼べるような外部の繋がりもなかったから――犬に、そんな中身――よわさ――を見せていたから、犬は覚えたての愛を持って、彼女の背を支える日々を受け入れ、その笑顔に喜んでいた。
犬には、青い主に対して深い共感とともに、まぎれもなく忠義があり、尊敬があったのだ。
しかし、この犬は、无貌《Wúmào》であった。
例にもれず、やはり主はこの犬に夢中になりすぎた。
最初こそ、かわいいものだった。恋人のふりをすることは明確な目的があったのである。
主は強い能力を持つことを隠したがった。所詮無知で、少し頭の回る程度の小娘だと“ナメて”かかられるほうが良いのと言うから、犬はそれに従って彼女の演出役に回った。
――真実として、この主は体が弱かった。体を要所で機械化させたものの、あまりに強い力に体が耐えられないようである。力を振るわせればあっという間に階層を駆けあがるだろうが、寿命を極端に縮ませるか、二度と立ち上がれなくなるかもしれないリスクを考えれば、実力はにおわせる程度でよかったのだ。
この犬との交わりも、最初はただの戯れだった。「お得だから使わないと」と薄っすら酒に酔いながら、面白半分に命令した彼女を、犬が拒否できるわけもない。
最初こそ口づけを拒否していたというのに、うだる暑さのなかたまたま触れ合ったのが、きっかけになってしまったのかもしれなかった。
一度はずれた枷があらゆるものを引きずり倒していく。主は、自分が何故この階層に在るのかを忘れてしまっていた。ただ、この犬をすっかり自分の手の中におさめないと気がすまなくなっていた。
初めての友人であり、初めての理解者であり、初めての――家族以外に、愛してしまった命である。
部下たちの冷ややかな目線を気にすることもなかった。
型落ちの彼らにとっては、主の出自を羨むほかない。そして、犬にも同じ目が向けられていたが、――どこか、それが同情に代わる出来事がよく起きるようになっていた。それが、この関係の終わりと、組織の破滅が近いことを悟ったものも出始めたのは、このころである。
犬は主に忠実であった。あり続けていた。
主が目的を失っても、犬は支え続けていたのだ。やはり二人で寝るとき、きまって親のことを主が語っていたからだ。
忠義とはまるで呪いのようである。人生に深く刺さったそれが、愛の色を得て同情と共感をより深くする。犬は、すっかり自分が主の“加害欲”を煽っていたことなど、知る由もなかった。
主はとうに狂っていたのだ。
親の話をし続けるのは、自分に覚悟を問うための儀式であったというのに、この犬を縛るための作業になっていた。
同情を煽り、尊敬を得て、美しい貌の怪物を支配するためにいくらでもわがままを与える。まるですべてに意味があるようにして、何も考えさせないようにしていた。
犬は主の狂気に合わせて同じ深度で狂っていたものの、世界が――あまりに暑かった。
主が昼寝をしている間、犬は日陰に蹲っていたところを見た手下も少なくない。凡そ、犬がひどく苦しそうな貌をしているのを見て、気を利かせられる誰かが水を持ってきた。
主は体が弱い。だから、冷房を嫌ったのだ。すぐに体が冷えてしまうことを嫌がって、ただ空気の巡りをよくするだけの循環機のみで過ごしている。
しかし、犬は――この身体には、鍛え上げた筋肉が詰まっている。人間以上に発熱するから、しょっちゅう頭が茹だりそうだった。
黒い体毛は熱を吸収する。真っ暗な体の中身は熱に弱い。だから、条件はそろってしまっていた。
主が求める己であり続けるための集中が、これ以上継続できなかったのだ。
十二時の鐘が鳴る。
主を殺して、犬は初めて自分の両目から熱い涙が、ぼろぼろと零れ落ちたのを知った。
それから、獣のような唸り声を上げながら、死体をまさぐった。いい加減、こうなってしまった人間というのは戻らないと身に染みている。だから、真っ先に二人の痕跡が何より濃いものを探した。
左手の薬指に、お互いの指輪がある。わざわざ金までかけて、お互いの生体認証機能までつけた特注品だ。
それに、口づけて。
――根元まで口に入れたら、容易く噛みちぎる。
少し口の中で弄んでから、呆然とした口の端にぶら下げるようにして、咥えて出て行った。
いつも通りの道を往く。家に帰る前に、寄る場所があった。
それもまた、仕事の裡である。
電子の数字と名前、そして顔のデータが上空に並べられ、常にそれらが入れ替わる。数字は特に変動が激しく、リアルタイムに更新していくのだ。
紅牌市場――半合法の、参加型監視システム場である。
相互監視社会が深まるエリアでは、その日暮らしの人間たちの稼ぎ処としても名高ければ、上階層たちの悪趣味な娯楽施設でもあった。
社会が消費したい者たちを吊るし上げ、長く生き延びるかどうかを賭けることもあれば、どの流派が生き残るかも予想することがある。
全身義体であれば、どこまで残るかの破壊率すら遊びになった。
ここにあるのは、淘汰の娯楽化である。
そんな施設に、黑家の末妹が来ることは月に一度あるかどうかだったが、入り口に立てば大歓迎の文字と共に、直ぐ道に繋げられた。
悪趣味な死の賭けの管理者がぎょっとしたのは、無理もあるまい。
血まみれになってほかの層から、“あの”末妹が降りてきたと聞いたときは、しめしめと揉み手を隠しもしなかったものだ。愚かなあれに知恵などあるまいと思って、いつも通り懸賞の大部分を懐に入れてみせ、次は何を手に入れようかと欲を巡らせていたというのに、それは血泥にまみれたまま屋敷に上がってきた。
――一層、悲哀を深くして。
そんな情緒があったことにも驚いたが、今回は個人証明できるもの――証拠――を持ってきたのだ。
黑家の犬を買う人間など、ろくなものではない。それこそ、娯楽に使われて当然だ。
武侠の社会において、もっとも唾棄されるべき小悪党か、己に焦った未熟者しか彼らを雇いたがらなった。尤も、この犬だけは事情が違ったが。
己の指にも嵌めていた輪っかをためらいなく抜いて見せて、それも添えてくる。
「这个……也换成钱吧。」
か細い声に、被せるようにして意を唱えようと管理者は口を開いた。この犬が愚かであることは知っていたのだ。いくらでもだまして、己を肥やすことには余念がない。
しかし、今回はそうはいかなかった――口を開いて、aの音を出したならば忽ち、鋭い鋼の爪先が咥内に入っていたからだ。
犬は、此度は金の入った袋を持ち帰らなかった。
額が大きすぎるから、家宛ての銀行にそのまま送金されることになった。
もう顔も思い出せないが、愛した女はよく、両親のことを自慢していたと思う。
めいいっぱいに愛されて育ててもらったから、少なくとも二人にはお金を稼げるようになって、かけてもらったぶん以上に返してあげたいの――そう、微睡みつつも、どこか泣きそうになりながら語っていた香りを思い出していた。
それも、家の敷地に入るころにはかき消える。すべて、強い香で塗り替えられた。
なぜならば、長兄が珍しくこの犬を出迎えたからだ。
「お前、ようやく色仕掛けを覚えたのか」
冗句交じりに話しながら、大きな掌が末妹の頭を撫ぜる。兄の手は犬のそれほど細かい動きはできないが、五指に分かれた先端には肉球がそれぞれついており、柔らかなものだった。
同じ血が流れる体温が齎すのは、安心である。長い旅を終えて、ようやく息が深く吸えた。狂気で満ちていた頭が、静寂を取り戻す。
ああ、――愛とは、こうも金になるのだ。
兄が喜んでくれる。家のためになる。祖のためになる。
呪いめいた祖先崇拝が蔓延る血の家に受け入れられて、ようやく犬は笑った。
「好!うまくできました!」