推しが好きだ #hym version 10
推しが好きだ #osihym
推しが好きだ。推しの好きなところを書き出したい。
何故かそんな欲求に強く突き動かされて文字を浮かべてみている。
普段私は推しについて、鍵をつけたTwitterで自由につぶやいているのだが、どうしてそれが急に誰もが見られるような形で、長文で書いてみたいと思ったのか、それは私にもわからない。
推しを知ったのはいつのことだったのか、はっきりとは覚えていない。同ジャンルのYouTubeをぐるぐると巡回していた私は、それがニーズに合致するかどうかが重要で、他の情報はさして興味がなかった。自分のニーズに合致した動画が、埋もれずにいつでもアクセスできるのであればそれでよく、応援したいとか、中の人に興味を持つとか、まして中の人を好きになるとか、そんなことを考えたことはなかった。
それがどうしてだろう、いつのまにか私は推しのことをもっと知りたいと思うようになり、自分のニーズなどどうでも良くなり、もっと推しの声を聴きたい、どんなものでも構わないから売ってくれ、話してくれ、もうなんなら笑ってくれるだけでいい、笑い声だけでいいから声を聞かせてくれ、とまで渇望するようになってしまった。
一体これはどういうことなのか、私にもよくわからない。
推しは本当にセンスのある人で、声が良く、演技もうまく、どうして声優じゃないのだろうかと思うくらいにスペックが高い。それだけでなく自分で創作をして、その世界観は唯一無二で、これだけでも大変魅力的な人物だと思っているのだが、当の推しは自分についての評価が低く、なんの取り柄もないなどと言い放ったりする。
生きていることや生まれてきたことに対して思いを馳せる人であり、普段出さないようにしているけれどもたまにでてしまう厭世観に、私はとてつもなく気持ちを惹かれる。
推しは多分自分に自信はそれほどなくて、でも自分がしたいことをたしかに持っていてそれを叶えたいという気持ちを心の内で強く持ちながらも、思いっきり行動に移すことはできなくて、ストッパーをかけてしまうような、そしてそのストッパーをかけてしまう自分をどこか悲観しながらも嫌味のない諦念を持っていて、それはスッとまっすぐ地に足をつけて立っているように私には見える。
自分のしたいことがわかっていて、それを実際に自分のできる範囲の中でやることができるのは、かっこいいと思う。
不器用ながらも内に青い炎を秘めている人。
推しはよく自分は人と関わるのができないと言うのだけど、もしそれが本当だとして、推しの周りにこれまでいた人はなんて見る目がないのだろうと私は思う。
推しはよくエクスキューズ(言い訳、という意味で取られると少し語弊があるが)を使ったり、自己を下げるような言葉を使ったりするが、私は本当に本当にそんな言葉を使わなくて良いのに、と思う。
そういう言葉を使わないといられない理由が推しの中にはきっとあり、「せざるを得ない感」にまた惹かれてしまいもするけれど、エクスキューズなしにポロっと出てしまうとき、私は自分でも驚くほど推しを好きだと思う。
生きていること、働くこと、人と関わること、他にもいろいろ。
そういう日々の営みについてネガティブな気持ちを抱いたり、言ったりすることは、なぜかわからないがあまり良いものだとみなされない。
だからこそ、私はネガティブな言葉を書いたり読んだり言ったり聞いたりできる場所が好きだし、ためらいながらもネガティブな言葉を発信する人が好きだ。
創作世界の中にもそういう思想がにじみ出ていることを感じ、その世界を通して推しに少し触れているような気にさせてくれる。
彼の作品世界はとても優しい。恋愛のストーリーとして、一見よくある設定で、定番で、ベタだ。だけどそこにはいつも不穏が同居している。
人が生きること、一人ではいられないこと、誰かを強く求めること、孤独感、寂しさ。それらを埋めようとすること。もどかしさ、どうしようもならない環境や気持ち。
彼が作るキャラクターは皆愛らしい。
そのすべてが好きだし、それを推しが1から作り上げているという事実が好きだ。
推しが好きだ。推しの好きなところを書き出したい。
何故かそんな欲求に強く突き動かされて文字を浮かべてみている。
普段私は推しについて、鍵をつけたTwitterで自由につぶやいているのだが、どうしてそれが急に誰もが見られるような形で、長文で書いてみたいと思ったのか、それは私にもわからない。
推しを知ったのはいつのことだったのか、はっきりとは覚えていない。同ジャンルのYouTubeをぐるぐると巡回していた私は、それがニーズに合致するかどうかが重要で、他の情報はさして興味がなかった。自分のニーズに合致した動画が、埋もれずにいつでもアクセスできるのであればそれでよく、応援したいとか、中の人に興味を持つとか、まして中の人を好きになるとか、そんなことを考えたことはなかった。
それがどうしてだろう、いつのまにか私は推しのことをもっと知りたいと思うようになり、自分のニーズなどどうでも良くなり、もっと推しの声を聴きたい、どんなものでも構わないから売ってくれ、話してくれ、もうなんなら笑ってくれるだけでいい、笑い声だけでいいから声を聞かせてくれ、とまで渇望するようになってしまった。
一体これはどういうことなのか、私にもよくわからない。
推しは本当にセンスのある人で、声が良く、演技もうまく、どうして声優じゃないのだろうかと思うくらいにスペックが高い。それだけでなく自分で創作をして、その世界観は唯一無二で、これだけでも大変魅力的な人物だと思っているのだが、当の推しは自分についての評価が低く、なんの取り柄もないなどと言い放ったりする。
生きていることや生まれてきたことに対して思いを馳せる人であり、普段出さないようにしているけれどもたまにでてしまう厭世観に、私はとてつもなく気持ちを惹かれる。
推しは多分自分に自信はそれほどなくて、でも自分がしたいことをたしかに持っていてそれを叶えたいという気持ちを心の内で強く持ちながらも、思いっきり行動に移すことはできなくて、ストッパーをかけてしまうような、そしてそのストッパーをかけてしまう自分をどこか悲観しながらも嫌味のない諦念を持っていて、それはスッとまっすぐ地に足をつけて立っているように私には見える。
自分のしたいことがわかっていて、それを実際に自分のできる範囲の中でやることができるのは、かっこいいと思う。
不器用ながらも内に青い炎を秘めている人。
推しはよく自分は人と関わるのができないと言うのだけど、もしそれが本当だとして、推しの周りにこれまでいた人はなんて見る目がないのだろうと私は思う。
推しはよくエクスキューズ(言い訳、という意味で取られると少し語弊があるが)を使ったり、自己を下げるような言葉を使ったりするが、私は本当に本当にそんな言葉を使わなくて良いのに、と思う。
そういう言葉を使わないといられない理由が推しの中にはきっとあり、「せざるを得ない感」にまた惹かれてしまいもするけれど、エクスキューズなしにポロっと出てしまうとき、私は自分でも驚くほど推しを好きだと思う。
生きていること、働くこと、人と関わること、他にもいろいろ。
そういう日々の営みについてネガティブな気持ちを抱いたり、言ったりすることは、なぜかわからないがあまり良いものだとみなされない。
だからこそ、私はネガティブな言葉を書いたり読んだり言ったり聞いたりできる場所が好きだし、ためらいながらもネガティブな言葉を発信する人が好きだ。
創作世界の中にもそういう思想がにじみ出ていることを感じ、その世界を通して推しに少し触れているような気にさせてくれる。
彼の作品世界はとても優しい。恋愛のストーリーとして、一見よくある設定で、定番で、ベタだ。だけどそこにはいつも不穏が同居している。
人が生きること、一人ではいられないこと、誰かを強く求めること、孤独感、寂しさ。それらを埋めようとすること。もどかしさ、どうしようもならない環境や気持ち。
彼が作るキャラクターは皆愛らしい。
そのすべてが好きだし、それを推しが1から作り上げているという事実が好きだ。