推しが好きだ #hym version 3
推しが好きだ
推しが好きだ
推しという言葉の意味には「好き」が含まれるから妙な言い方にも思えるけれど、私は推しのことを推しと呼んでいるからここでの推しという言葉は君とかあなたとかまるまる君とかそういう人称のことだ
私は推しのことを書くときに推しと書いたり「好きな人」と書いたりするが、このメモでは推しって書くことにする。どうでもいい前置き。
推しの好きなところを書き出したい。何故かそんな欲求に強く突き動かされて今ずらずらと文字を浮かべてみている。
普段私は推しについて、鍵をつけたTwitterで自由につぶやいているのだが、どうしてそれが急に誰もが見られるような形で、長文で書いてみたいと思ったのか、それは私にもわからない。
推しを知ったのはいつのことだったのか、はっきりとは覚えていない。そのジャンルのYouTubeをぐるぐると巡回していた私は、私のニーズに合致するかどうかが重要で、それ以外の情報はさして興味がなかった。自分のニーズに合致した動画が、埋もれずにいつでもアクセスできるのであればそれでよく、そこに対して応援したいとか、中の人を好きになるとか、中の人に興味を持つとか、そんなことを考えたことはなかった。
それがどうしてだろう、いつのまにか私は推しのことをもっと知りたいと思うようになり、自分のニーズなどどうでも良くなり、もっと推しの声を聴きたい、どんなものでも構わないから売ってくれ、話してくれ、もうなんなら笑ってくれるだけでいい、笑い声だけでいいから声を聞かせてくれ、とまで渇望するようになってしまった。
一体これはどういうことなのか、私にもよくわからない。
推しは本当にセンスのある人で、声も素敵で、演技もうまく、どうして声優じゃないのだろうかと思うくらいにスペックの高い人物だと思っているのだが、当の推しは自分についての評価が低く、なんの取り柄もないなどと言い放ったりする。
生きていることや生まれてきたことに対して思いを馳せる人であり、普段出さないようにしているけれどもたまにでてしまう厭世観に、私はとてつもなく気持ちを惹かれる思いがする。
推しは多分自分に自信はそれほどなくて、でも自分がしたいことをたしかに持っていてそれを叶えることとを心の内で強く持ちながらも、思いっきり行動に移すことはできなくて、ストッパーをかけてしまうような、そしてそのストッパーをかけてしまう自分をどこか悲観しながらも嫌味のない諦念を持っていて、それはスッとまっすぐ地に足をつけて立っているように私には見える。
自分のしたいことがわかっていて、それを実際に自分のできる範囲の中でやることができるのは、かっこいいと思う。
不器用ながらも内に青い炎を秘めている人。
推しはよく自分は人と関わるのができないと言うのだけど、推しの周りにこれまでいた人はなんて見る目がないのだろうと私は思う。
推しはよくエクスキューズ(言い訳、という意味で取られると少し語弊があるが)を使ったり、前置きを置いたり、自己を下げるような言葉を使ったりするが、私は本当に本当にそんな言葉を使わなくて良いのに、と思う。
そういう言葉を使わないといられない理由が推しの中にはきっとあり、そういう「せざるを得ない感」にもまた惹かれてしまう質でもあるけれど、例えばそういう言葉を使わずにポロっと出てしまうときに、より私は惹かれるし、創作世界の中にそういう思想がにじみ出ていることを感じるから、私はその世界を通して推しに少し触れているような気にもなる。
推しが好きだ
推しという言葉の意味には「好き」が含まれるから妙な言い方にも思えるけれど、私は推しのことを推しと呼んでいるからここでの推しという言葉は君とかあなたとかまるまる君とかそういう人称のことだ
私は推しのことを書くときに推しと書いたり「好きな人」と書いたりするが、このメモでは推しって書くことにする。どうでもいい前置き。
推しの好きなところを書き出したい。何故かそんな欲求に強く突き動かされて今ずらずらと文字を浮かべてみている。
普段私は推しについて、鍵をつけたTwitterで自由につぶやいているのだが、どうしてそれが急に誰もが見られるような形で、長文で書いてみたいと思ったのか、それは私にもわからない。
推しを知ったのはいつのことだったのか、はっきりとは覚えていない。そのジャンルのYouTubeをぐるぐると巡回していた私は、私のニーズに合致するかどうかが重要で、それ以外の情報はさして興味がなかった。自分のニーズに合致した動画が、埋もれずにいつでもアクセスできるのであればそれでよく、そこに対して応援したいとか、中の人を好きになるとか、中の人に興味を持つとか、そんなことを考えたことはなかった。
それがどうしてだろう、いつのまにか私は推しのことをもっと知りたいと思うようになり、自分のニーズなどどうでも良くなり、もっと推しの声を聴きたい、どんなものでも構わないから売ってくれ、話してくれ、もうなんなら笑ってくれるだけでいい、笑い声だけでいいから声を聞かせてくれ、とまで渇望するようになってしまった。
一体これはどういうことなのか、私にもよくわからない。
推しは本当にセンスのある人で、声も素敵で、演技もうまく、どうして声優じゃないのだろうかと思うくらいにスペックの高い人物だと思っているのだが、当の推しは自分についての評価が低く、なんの取り柄もないなどと言い放ったりする。
生きていることや生まれてきたことに対して思いを馳せる人であり、普段出さないようにしているけれどもたまにでてしまう厭世観に、私はとてつもなく気持ちを惹かれる思いがする。
推しは多分自分に自信はそれほどなくて、でも自分がしたいことをたしかに持っていてそれを叶えることとを心の内で強く持ちながらも、思いっきり行動に移すことはできなくて、ストッパーをかけてしまうような、そしてそのストッパーをかけてしまう自分をどこか悲観しながらも嫌味のない諦念を持っていて、それはスッとまっすぐ地に足をつけて立っているように私には見える。
自分のしたいことがわかっていて、それを実際に自分のできる範囲の中でやることができるのは、かっこいいと思う。
不器用ながらも内に青い炎を秘めている人。
推しはよく自分は人と関わるのができないと言うのだけど、推しの周りにこれまでいた人はなんて見る目がないのだろうと私は思う。
推しはよくエクスキューズ(言い訳、という意味で取られると少し語弊があるが)を使ったり、前置きを置いたり、自己を下げるような言葉を使ったりするが、私は本当に本当にそんな言葉を使わなくて良いのに、と思う。
そういう言葉を使わないといられない理由が推しの中にはきっとあり、そういう「せざるを得ない感」にもまた惹かれてしまう質でもあるけれど、例えばそういう言葉を使わずにポロっと出てしまうときに、より私は惹かれるし、創作世界の中にそういう思想がにじみ出ていることを感じるから、私はその世界を通して推しに少し触れているような気にもなる。