0 第一章第二節「帰向」
黄昏とは。
陽が傾いて、光と闇が反転する時間帯のことだ。この世とあの世の境もあやふやになるどっちつかずの束の間の世界。輝かしい青空は妖しさを孕んだ茜色に飲み込まれ、手の届く距離に闇は迫る。
目の前にいるのは誰だ?親友?兄弟?相棒?愛おしい人?それとも己が殺したあの人か?
茜が彼らを嘲笑して、暗い喧騒が幕を開ける。間違えてはいけない。それはきっと地獄への近道。だからこうして確認するのだ。
お前は誰だ?、と。
╾───────╼
もし煉獄の炎があるのならこんな色であって欲しい。そう思うような空の色だった。
まるで大地を更生させるように燃え盛る太陽は最後の輝きとばかりにその身を焦がしている。
日本ではこの時間帯を逢魔時とも言うが、なるほど、これは妖も美しさに魅入られて出てくるわけだ。
頭の片隅で独り言ちながら、目の前のオネイロスに向かった。
No.A所属の死刑囚達は寂れた辺境の村に来ていた。村の復興なんて可愛らしい目的ではなく、勿論オネイロス討伐のためである。
ある時この村に迷い込んだオネイロスは次第に村人に寄生し、分裂を繰り返した。文明から切り離されたような村だ。発見は遅れ、やがてその村はオネイロスの住処と化した。せめて近場の村にまで被害がいかぬようここで食い止めねばならない。
「あークソ!ぶち殺してもぶち殺しても沸きやがる!」
「村の規模を考えたら当然だろうな。特に放置されていた期間とオネイロスの生体を考えれば、これだけの数が増えてもおかしくない」
「ま、ポイントは稼げるしある意味ラッキーだけどな!」
エメラルドに輝く瞳が蠢くオネイロスを捉える。果たしてそれが何体目であるかを考える間もなく、男は扱い慣れた鎌で一瞬にして核の繋がりを断った。生気を失った地面に転がり落ちる頭部にはもう目もくれず、飛び散った返り血を片腕で拭うと、次のオネイロスへと視線を向けた。それは間違っても小さいとは言えないような個体で、戦闘力もそれなりに保持していそうなことが伺える。
「デウィット!」
声をあげた男は腕に巻いた鎖を引き抜くと、思いきりオネイロスへ放った。勢いついた分銅が男の狙い通りオネイロスの体に当たると、流石に怯んだのかノイズ混じりの呻き声を漏らしながら一歩一歩と後ずさる。
「ああ、任せろ」
その隙を見逃すことはない。男の背後から飛び出してきた影が核を潰すかのように、力強くその胸を貫く。骨を模した巨大な鋏を呑み込んだオネイロスは抵抗する間も無く機能を失い、力なく項垂れる。そのまま鋏を引き抜けば、身体中に飛び散る返り血に顔を顰めて、デウィットは先程のマリアと同じように腕でそれを拭った。
同じようにまだ奥の方で屯する、何体ものオネイロスを二人は狩って行く。時に手分けして、時に協力し合う。そうして、あれだけ終わりがないように見えたオネイロスの群れが姿を消し、ようやく辺りに静寂が訪れた。
「サンキュー、デウィット。助かったぜ」
「いや、俺の方こそありがとう。ミアのおかげで、想定より早く終わったな」
「おう!まあ、一ヶ月以上相棒やってればコレくらいはトーゼンだな!」
マリアが白い歯を見せて、満足そうに笑いかける。合流した二人は返り血で酷い有様になっているものの、どちらも目立った怪我はしていないようだった。
デウィットもマリアの様子に微笑み返そうとして、何処かから感じる気配に体を震わせる。瞬間、遠くからカチャと微かに音が聞こえ、マリアが音の方を見つめて——。
「っ、……は?……オマエ、何、して」
マリアを庇うように、目の前に立ちはだかる大柄の男。デウィットは鋭い刃物すら中々通らない丈夫過ぎるほど丈夫な手袋で、その大きな掌で、弾丸を受け止めていた。掌に埋め込まれたそれは既に貫通していて、取ろうと動かせばどくりどくりと溢れ出る血液。そのなんとも言えない気持ち悪さは流石のデウィットにも拭いきれない。手にしていた鋏を二つ分解すると、思わず舌打ちをして銃声のした方へ駆け出して行く。マリアはその様子をただ呆然と見つめていた。
暫くして、戻って来たデウィットの鋏に付着していた血が比較的新しいことから、しっかりと仕留めて来たであろうことがわかる。マリアはデウィットの苦痛に歪みながらも、怪我を何一つ気にしていなさそうな様子に不機嫌そうに口を開いた。
「おいデウィット、オマエマジで何してんだよ!」
「何って、ミアを庇っただけだが。それより、ミアは怪我はないか?」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ!オマエのおかげで怪我はねぇけど、オレなんか庇って死んだらどうするつもりだったんだよ!」
「善人を庇って何が悪い?確かにこの先善人を守れなくなる可能性はあったが、ミアを失うよりはマシだろ?」
その言葉に、マリアの表情が途端に暗くなる。
「……そりゃ、確かに今死ぬ訳にはいかねぇし、デウィットには助けてもらった恩もあるけど……オレ、別に善人じゃねぇし。オマエの命かけてでも守られる筋合いなかっただろ」
マリアは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、デウィットから徐に視線を逸らす。周囲にオネイロスが存在しない今、沈黙した空間で風に揺られる木々の音が二人の耳を擽っている。
困ったように眉を下げたデウィットが風穴が開いた手でマリアの頬に触れようとして、その状況を思い出し止める。しかし長く続いた沈黙を破ろうと口を開いた。
「ミアが自分を善人だと思わなくても、それでも俺にとってミアは善人で……例えそうでなくなったとしても、命をかけて守りたい人だと思っている。だから俺は、何を言われてもミアを守るよ。それは覚えておいてくれ」
デウィットが切なそうに目を細めると、渋った様子を見せていたマリアも納得はせずとも頷いた。そのまま、逸らしていた視線を今度は先程触れられかけた掌に向ける。開いた傷からは未だ血が止まることなく滴り、既に返り血で汚れていた手袋や制服を更に色濃く濡らしていた。
「……とりあえずオマエのその手、早くどうにかしようぜ。見ててすげー痛々しい」
「しばらく放っておけばそのうち治ってるだろ。あまり気にするな」
「んな訳ねぇだろ、バーカ。変な菌でも入ったらどうすんだよ。なんならその前に血なくなってもしらねぇぞ」
「そこまでは言い過ぎだと思うが……」
徐々に調子を取り戻しつつあるのか、その口角を上げて揶揄うような表情や言い回しが普段のマリアを彷彿とさせた。デウィットは不思議そうに掌を見つめて、すぐに柔らかく表情を緩める。
それはマリアが傷一つなく笑っていることへの安心から来るものだった。
「あー、うるせぇうるせぇ!つべこべ言わねぇでさっさとヘリ戻るぞ!」
「おい、ミア」
マリアはデウィットの腕を掴むと、制止も聞かず来た道を早足で戻って行く。力を入れていたせいで、最初こそ牛の歩みのように全く動かず目の前から文句や呻き声が聞こえて来たが、大人しく抵抗を止めればその声も次第になくなった。
デウィットはその中で、いつか同じようなことがあったと遠い過去を思い出す。
あの日もデウィットは助けた女の子に腕を引かれていた。実際は怪我などしていない掌を手当てする為に。……昔と違うのは、今回は本当に怪我をしている所だろうか。
「……懐かしいな」
「あ?なんか言ったか?」
意図せず口から溢れた声に反応して、歩みはそのままに顔を少しだけ後ろに向けてマリアが様子を伺う。
「いや。少し、昔を思い出していただけだ」
「……ふーん」
「向こうについたら話そう。ミアに聞いて欲しいんだ」
普段からデウィットに関心を持ってくれる彼には、それすらも知って欲しいと思ったのだ。一番と言っていい大切な思い出を大切な相棒に話した時、彼はどんな反応をくれるだろうか。
沈みかけの暖かな色に照らされ、踏みしめた道に影を落としながら二人は木々を抜けて行った。
╾───────╼
「ベアル、そっちはどう?」
「ちょうど終わったところだ」
血の滴るワイヤーをしまうと、いつもの拘束をつけていないルカの方へ駆け寄った。
「こっちも大丈夫。念の為もう少し見てくるよ」
了承の返事を聞いて、まだ入っていない家屋の深部へと歩みを進める。所々に残る生活感が生々しい。この家屋の主はおそらくLv5のオネイロスに寄生されていたのだと思われた。
ふと何かを見つけ、拾い上げる。それは二人の男女が握手をしている写真だった。やや汚れているがなんてことない普通の写真かと思ったが、注目すべきはそれに写る女性である。
「…パドラちゃん?」
自信に溢れた表情をした彼女は、MILの監督補佐をしているパドラにそっくりな人であった。パドラの目元こそ見たことはないが、それを抜きにしてもそっくりである。
辺境の地、この寂れた村にはオネイロスの討伐のために来た。説明された任務にも矛盾はなかった。......任務がなければ、ここに来ることもこれを見つけることもなかっただろう。これは偶然か?それとも.........。
じっと写真を見つめていると、ある事に気がつく。
「このロゴ......」
手にした写真の、二人の奥にある文字。どこか見覚えがあった。どこで見たか記憶をたどってみるも、思い出すことができない。すると背後からベアルがやって来る。
「何かあったのか?」
と言って自身の手元を覗き込んだ。写真を見るなり首を傾げ、監督補佐官殿?と呟く。
「これはどうしたんだ?」
「そこで見つけてね。ベアルは何か知ってる?」
「俺は何も.........いや、」
言葉を止め何か思案するような仕草をすると、写真の奥、文字に指を向けてこう言った。
「......これに、少し見覚えがある気がする」
「...ベアルも?」
「も、と言うことはルカも知っているのか?」
「俺も見覚えはあるんだけど、思い出せなくてね〜」
ベアルに向けてひらひらと写真をふりおどけているが、ルカのその心の内は読めないものがあった。パドラと思わしき女性と、知らない男性。男性の方はこの家屋の主だろうか。更にその奥の見覚えのあるロゴ。状況を推察するのであれば、相応の立場に就いている二人が何かしらの利害の一致により契約を結んだ、とも考えられた。少なくとも二人の間に友好的な気配は感じられる。...しかし、どちらにしろこの写真から得られる情報は少ない。引っかかりを覚えるのには十分だとしてもそれ以上の成果はない。このロゴについて思い出せれば話は好転するかもしれないが、やはりすぐには難しいだろう。
「行くよ、ベアル」
「写真はいいのか?」
「持って行ったところで、どうせ身体検査で取り上げられるでしょ」
写真が地面に落とされる。
持ち帰ってパドラに鎌をかけるのもいいが、不確定要素が多い以上どう転ぶかわからない。自分だけならともかく、ベアルも写真を見てロゴにも見覚えがあるというのなら巻き込んでしまう可能性が高い。...それは駄目だ。ベアルを危険な目にあわせることはできない。そんな目にあうのは自分だけでいい。
「行こう、ルカ」
「そうだね」
ベアルに同意して立ち上がると、唐突に平衡感覚が狂ったような感覚がして彼を引き止める。
「?……今何か…」
「ベアル!」
彼も何か違和感を感じたようだった。そしてルカにはこの感覚に覚えがあった。咄嗟にのばされた手はベアルに届く前に轟音に飲み込まれ、降り注ぐ瓦礫は砂埃をあげる。このままでは自身の身さえ危ないと判断したルカはその場を急いで離れた。その間にも異常は加速し、怒号をあげ続けている。もう一度呟かれた名前に、返事はこない。
╾───────╼
その異変に真っ先に気がついたのは桜子だった。周りにいる死刑囚達が立ち尽くす中、咄嗟に声をあげる。
「地震だ!全員伏せろ!」
凛とした声と共に地鳴りが酷くなる。大気が揺れ、家屋は軋んで悲鳴をあげた。
死刑囚達の国籍はバラバラ。災害意識の差はどうしようもなく、彼女や色葉といった特定の国の出身者は対応が早かった。それに対し、母国であまり地震のなかった者は呆然と佇んだ。さていったい緊急事に適切な動きができるのは全体の何%だと言われていたか。
しかし幸いとでも言うか、彼らは普通などという基準から外れた犯罪者である。大半はパニックになることもなく桜子の指示に従い、そうでない者も周囲の真似をして一難が過ぎ去るのを待った。
「なかなか収まらないね…」
マドレーヌがぽつりと呟いた。
彼女の母国ではなかなか地震はおきない。水害や暴風といったほうがまだ身近にあるだろう。慣れない災害。しかもオネイロス討伐中という予期せぬ事態は、体を揺らすと同時に彼女の心も揺らしていた。色葉はそんなマドレーヌの様子を見て声をかける。
「マデリン、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
不安定な揺れの中、マドレーヌはいつも通りのにこやかな笑みを見せた。
そんな普段通りであるはずの彼女がそう見えないのは気のせいだろうか。
「もうちょっとこっちに来て。そこだと危ないかも」
「えー?大丈夫じゃない?」
「油断は禁物だよ!」
彼女は色葉の言葉に大人しく従い、ぎゅっと身を寄せる。
僅かに揺れは収まりつつあり、マドレーヌはゴーグル越しに周囲を見回した。散らかる瓦礫と動きが鈍いオネイロス、それから自分達が倒したオネイロスの死骸。
そこに魔法陣はなく、子供の屍もなく、ましてや兄の死骸などあるはずもなかった。遠い昔の炎の熱さを感じた気がして、無意識に手が火傷痕に向かう。
………違う。
目の前に広がる光景は、どの情報もかつて自身が過ごした村ではないのだと告げている。当たり前だった。もう二度とあんなことおこらないように、マドレーヌが全部燃やしたんだから。
きっとこの村で過ごしていた人達はいい人だったと思う。悪魔崇拝なんてしていなかった。……けれど、オネイロスに寄生されてしまった。そうなってしまっては、元に戻す方法が見つかっていない以上被害を出さないようにするしかない。その為のMIL。その為の自分達死刑囚。頭でも心でもわかってはいるけれど、なんとなく普段と同じだけの力を発揮できている気がしなかった。
「マデリン」
「ん?シキちゃんどうしたの?」
色葉が彼女の名前を呼ぶと、マドレーヌの両手をとって彼女自身の鮮やかな髪に触れさせる。手袋越しに触れる髪は、切り落とされたあの日より少し伸び始めていた。
「私はマデリンのお兄ちゃんの代わりにはなれないけど、一緒にゲームしたり一緒にお喋りしたりはできるからね!何かあったら頼って!」
そう言って、一切の曇りのない笑顔が咲いた。それは決して沈まない太陽のようであり、暗闇に負けずチカチカと夜空に瞬く星のようでもある。その美しさは紛うことなき親友の姿であった。彼女はくすりと笑い、「シキちゃんはマドレーヌのお兄じゃなくて親友だからね!」と返す。
きらりと反射する宝石の笑顔は茜を纏い美しく、暗くなりつつある周囲に光が散りばめられるようだった。
けれど太陽は沈むのだ。
「そろそろ大丈夫そうかな……?」
色葉がおそるおそるといった様子で体を起こし周囲を見渡した。本格的に日が暮れ始め、視界が悪くなり始めている。ぬらりと肌にまとわりつく闇が、粘度を増しながら足元に絡まりつく。マデリン、と可愛らしい笑顔で親友は自身の愛称を呼んだ。
そして言葉が続く前に、カラリと小さな瓦礫が二人の間に降ってくる。それは本当に小さな小さな瓦礫。ゆるりと次第に粉が舞い、マドレーヌは上を見上げる。
まさに今、大きな瓦礫が色葉に降り注ぐところだった。
空中に浮かぶそれは実際にはそんなことはあり得ないとしても、スローモーションのようにゆっくりと落ちてくるように感じた。時が止まったようだった。とはいえ、確実に質量を伴っている。当たれば怪我をするのは簡単に想像がつく。………ううん、それで本当にすむだろうか。もし変なところをぶつけたら、死んでしまうのではないか。嫌な想像が止まらない。だというのに、色葉は気づいていない。…数秒もしない内に自身の命がなくなるかもしれないという事実に、気づいてない!
「___っ、シキちゃん!」
咄嗟にシキちゃんの体を押した。なだれ込むように地面に倒れ込み、突然のことにシキちゃんは目を見開いている。
「どうした!?」
派手な音に驚いたのか、桜子が駆け寄ってくる。
崩れ落ちた瓦礫は地面に落ちた衝撃で割れているものもあり、改めて見るともしもの未来が脳内によぎって恐怖を煽る。
「ああ、瓦礫が降ってきたのか。地震がおこってすぐはこういうこともあるからね。二人とも怪我は?」
「私は大丈夫…でもマデリン、血が………」
そう言って手を伸ばすと、色葉の手袋が鮮血で染まる。彼女を庇った際に瓦礫が頭に当たっていたらしく血を流していた。
「だ〜いじょうぶ!こんなのなんともないから!」
からりとした笑顔には鮮紅色が張り付き、痛々しい印象を与えた。
「止血をしつつ、他の皆と合流しよう。この辺りにもまだオネイロスがいるかもしれないから、二人は私の後についておいで」
桜子の言葉を受けてマドレーヌは立ち上がるが、足元がおぼつかず不安になる様子だった。それを慌てて色葉が支える。
「ごめんね、本当に大丈夫…?油断は禁物なんて言ったの私なのに......」
「ちょっとふらついただけだよ!大丈夫、私は、ヒーローだからね!」
申し訳なさそうに項垂れる彼女にマドレーヌは尚も笑ってみせた。強がっているようにも見える笑顔だが、痛ましいようには感じられなかった。
「二人とも、こっちだ!こっちの方が障害物が少ない」
桜子の指示に従って二人は歩みを進めていく。
私はヒーローになるんだ。だからその為に邪魔なものは殺すけど、シキちゃんは邪魔なんかじゃない。痛くないわけじゃないけど、シキちゃんを助けられて良かったと思ってる。
......ねぇ、おにい。マドレーヌ、ヒーローになるからね。
彼女は静かに、ヘッドセット越しに右目に触れた。
╾───────╼
同時刻、少し離れた所に三人の姿があった。そのうちの一人、三つ編みの青年は全身血に塗れている。本人の体には目立った傷がないことや、なんともなさそうに振る舞うその様子から全て返り血であることがわかる。そばには彼と似た髪の色をした女性と、白い髪の男性が揃って歩みを進めていた。
「二人と合流できて良かった。ルカとはぐれてしまったから………」
「ああ、それでお一人でいたんですね。これがあるとはいえ、暗いものは暗いですし…」
そう言ってユハニはヘッドセットを指さした。眠眠はその会話を聞いているのだろうが、表情は変わらない。そして更に少し進むと、ユハニがあれと声を上げる。後ろにいた二人が彼の言葉に反応して前を覗くと、そこには見覚えのあるノコギリがある。しかし、その持ち主の姿がどこにも見えない。
「これ、ヴァンの……」
眠眠がしゃがんで血が付着したノコギリを拾い上げる。ベアルも同じようにノコギリを覗き込んだ。市販で売られているようなものとは違う特徴的なそれは、オネイロス討伐の任務でいつもヴァンが使用している武器である。
すると、何かに気づいたユハニがまた声をあげる。
「これは……血の跡、ですね」
彼の視線の先には確かに血痕らしきものが点々と続いていた。奥へ奥へと続いているそれは、闇の深いところへ誘われているような気がして不気味に思われた。
「…行ってみますか?」
「ユハニがいくなら、俺もついていこう」
「眠眠も行くよ」
彼は二人の意見を聞くと、僅かに不安を滲ませながら血痕を辿った。ベアルは万が一に備えてワイヤーに手をかける。ユハニと眠眠の武器はこの状況ではいささか不利だ。十分に警戒をして進んでいく。そして先頭を進んでいたユハニがあっと声をあげる。
「ヴァンくん!」
そこには負傷し血を流すヴァンがいた。敵ではないとわかり、ベアルはワイヤーから手を離す。
「大丈夫ですか?怪我が酷いですね……」
「う゛ぅ.........」
ユハニが彼の背中に手を添え起き上がらせる。
「止血をしないと......」
そう言ってユハニがヴァンに触れようとすると、「触るな!」と手が振り払われた。
「でもヴァンくん、傷が......」
「いい、オレに近づくな!」
まるで手負いの獣のような態度にユハニは少し戸惑うが、彼の裏人格なのではないかと検討をつける。おそらくそれは当たっていて、ヴァンは眠眠がノコギリを持っているのを見ると荒々しく取り返した。普段の姿を知っている者からすると違和感の残る行動だ。ユハニはできだけ優しく声をかける。
「......ヴァンくん、大丈夫です。僕らは敵じゃありません。どうか僕達に怪我の手当をさせてくれませんか?」
しばらくして、返答のないまま彼の体が脱力する。突然のことに三人は驚くが、すぐにいつもの声で「......ユハニ先生?」と呼ぶ声が聞こえて三者三様に胸を撫で下ろした。裏人格の彼自身、強く警戒していたわけではなかったようだ。主人格の彼が怪我を負い危機に瀕したことで、一時的に交代していたのだろう。
話を聞くと、どうやら地震がおこった時に負傷し、且つノコギリを見失ってしまったらしい。そして安全地帯を求めて武器とは真逆の方向へ進み、ここで意識を失った。
「ごめんなさい、ありがとう」
「気にしないでくださいね。また戻ったら腕相撲しましょう?今度こそ勝ちますよ!」
「うん、楽しみ......!」
すっかりいつものヴァンに戻ったところで、これからどうするかという話し合いになった。ひとまず皆との合流を目指すことになりそうだが、そこでヴァンが呟いた。
「地震、すごかった、皆、心配………」
ヴァンの言葉は多かれ少なかれその場の全員が思っていることだった。建物が倒壊するほどの地震というのは彼らが体験したことのないものであり、そもそも災害は人の力が及ばないものである。飼い犬などが地震がおこる前にしきりに吠えると言ったことはあっても、人間にそんな機能はない。この寂れた村では警報が鳴ることさえなく、二次災害の危険もある。
「俺達も眠眠がいなかったら危なかった」
「日本は地震が多い国ですからね。本当に助かりました」
「ここまで大きいのは眠眠もはじめてだったけど」
そうは言うものの、彼女のその冷静な態度は周りの人に落ち着きを与えている。災害時に落ち着いて正しい行動をとれる人間は多くない。
「ねぇ、早く合流しない?」
「ああ。きっとルカも皆のところにいるだろうからな」
「はぐれたんだっけ?」
二人は会話をしながら、その後をヴァンがついて行く。
「......ユハニ先生?」
なかなかついて来ないユハニに、ヴァンが振り返って首を傾げた。彼は進行方向とは真逆を見て何かを考えているようだった。ヴァンが彼の服の裾を引っ張ると、我に返って慌てている。
「すみません、今行きますね」
「...どうかした?」
「いえ......僕は途中までエリスと一緒にいたので、少し心配で」
苦笑しながらヴァンと並んで歩いた。眠眠とベアルの話し声でさえ静けさに溶けていきそうな空気が、そこには流れていた。
「オレも、心配な人、いる」
一緒、とヴァンは笑った。つられてユハニも一緒ですね、とくすくす笑った。楽しげな二人の笑い声は、ゆったりと闇が浸透して消えていった。
╾───────╼
日は暮れきった。暗闇が世界を支配していた。
静まり返った辺りにはオネイロスの姿はおろか生き物の気配すらなく、倒壊した建物は世界が滅んでしまったのではないかと錯覚させる。ヘッドセットに搭載された暗視機能は、鋭く胸を刺す現実を脳に伝えていた。
「………っ」
酩酊するような痛みに思わず呻きをあげる。地震が起きる前にはなかったはずの怪我をしているのがわかる。頭から流れる血がヘッドセットを汚して視界も良くない。.........たしか、自分はユハニと一緒にいたはず。ひとまず起きあがろうと体をよじると、異変に気づいた。
体が動かない。…否、倒れてきた瓦礫に埋もれている。事態の深刻さが跳ね上がった。足が嫌な痛み方をしているが、おそらく抜け出せなくはない。とは言えこの状態でいたのがどれくらいの時間なのかもわからず、怪我の状態も悪い。はやく助けを呼ばなければと思った瞬間、今度は手をひかれた。視線の先には、気を失っているだろうクルスヴァイスの姿があった。自身と同じく瓦礫に埋もれて身動きは取れそうにない。固く閉じられた赤い目の代わりとでも言うのか、血で汚れて痛々しい。
「起きてクルスヴァイス!!!ねえ!!!」
そうして何度か声をかけると、苦しげに呻き声をあげつつ彼の瞼があがる。最初は焦点があっていなかったそれも次第に彼女の姿を捉えた。
「エリス…?」
どこか壊れてしまったのだろうか。ノイズのはしる視界は暗く、彼女を歪め、血に濡れたその姿が酷く不安を煽る。
「良かった……目が覚めた?」
彼女はわかりやすくホッとした表情になると、すぐに切り替えて彼に言葉をかける。
「お互いに無事......とは言い難いけど、とりあえずは大丈夫そうね。......今の一番の問題はこれかしら」
そう言って彼女は自分の左腕に視線をやった。つられてクルスヴァイスも視線をやると、制服に付属されている腕輪がくっついてしまっていた。淡く光るそれのついた腕を小猫が少し動かせば、クルスヴァイスの腕も同じように動く。
「なんだこれ……ぜんっぜん離れねえ」
「…はあ。後で戻ったらへストとパドラに文句言ってやりましょ」
誤作動なのか何をしても外れる気配はない。あいている方の手でなんとかしようと格闘するも、作りがしっかりしているので壊すこともできず諦める方が早かった。
「助けを呼んだ方が早くねえか?」
「まず人の気配がないもの。通信機も壊れちゃったみたいだし…敵がいないだけ幸運ね。私達でなんとかするしかないわ…......」
そう言う彼女の言葉には疲弊が混ざり始めていた。こうしている間にも二人の体力は削れていき、気力も奪われていく。悠長にしている時間はないのだと簡単に想像がついた。
「なあ、そっちは瓦礫から抜け出せるか?」
「そうね……足はやられてるけど、抜け出すだけなら」
幸い彼女は成人女性にしては小柄なため、二人のくっついた腕輪さえなければなんとか抜け出すことはできそうであった。クルスヴァイスはその返答に笑みを作ると、こう言い放った。
「じゃあさ、俺の腕切って助けを呼んできてくれないか?」
それを聞いて、彼女は目を見開いた。
「......は、何言ってるの!?」
「俺は瓦礫から出られねぇし......かと言ってエリスもこれが邪魔で動けないだろ?」
絶句するしかなかった。彼の言うことは確かにその通りであるが、簡単に自身の腕を切り落とす選択なんて普通はできやしない。第一、死刑囚だらけのMILの中では珍しい善良な彼にそんなことはしてほしくなかった。嫌。そんなことしなくたっていいじゃない。
「馬鹿!そんなことしなくたっていいじゃない!」
「ほら、パドラだってなんともなさそうにしてるんだから、大丈夫だって」
思い出すのはあの洞窟での戦闘。両腕を失ったはずの彼女は、今もMILで元気に働いている。もし切り落としたとしても大丈夫だと、彼はそう言いたいのだろう。…でも、治るからといっても、痛いことに変わりがないのを私は身に染みて知っている。
「頼むよ」
そう言って笑みを浮かべた。自分が死ぬかもしれないというこの状況において、それでも彼はいつものように笑って見せた。
胸が詰まる思いだった。しかし時間もない。あいている方の手でクルスヴァイスの指に触れて、ゆるく握った。彼が笑うのなら、それでいいのならとエリスも笑いかける。
「......わかったわ」
╾───────╼
闇より濃い不安が心に重くのしかかる。
例えるなら、蛇に丸呑みにされる子猫。鋭い牙で肉を裂かれることもなく、ただ巨大な闇に飲み込まれ心が押し潰されていくような感覚。決して致命的な傷はないはずのに、どうしようもない恐怖と絶望が自身の心を蝕んでいる。天涯孤独、この世界にたった一人きりの気分だ。
早く助けを呼ばなければいけないのはわかっているのに足が重くて仕方ない。立ち止まりたい。体に残る傷は痛くてたまらないし、なんだかもう疲れきってしまった。
けれど立ち止まることは許されない。助けは呼べない。例えもう自分の心が潰れかかっているのを自覚していようとも。
自身の左腕にくっついている彼の腕に触れると、彼女は小さくごめんと呟く。
「.........泣かないって決めたもの」
再び顔を上げた時、まるで何事もなかったかのようないつも通りの彼女がそこにはいた。駆け出した足には痛みが走っているはずなのに、それをものともせずに進み続ける。おそらくへスト達がいる場所を目指せば皆集まっているだろう。そうすれば皆助けてくれる、クルスヴァイスは助かるはずだ。絶対に死なせちゃいけない。死んで欲しくない。
息を切らして進んでいくと、目的の場所が見えてきた。そこには既にマリアやデウィット、ルカといったMILのメンバーが集まっている。エリスは苦痛に耐えるようにして、近くにいた桜子の傍により、縋るように服の裾を握った。
「っ、へスト!」
彼は端末から目を離し、視線をエリスに向ける。へストのみならず、ただ事でない様子の彼女にそれぞれが注目した。
「......クルスヴァイスが、瓦礫に埋もれて動けない。腕輪がくっついて離れなかったから腕も切り落とした。...早く助けないと死んじゃう」
見れば彼女の左腕には人間の肘から下程度の腕がくっついており、その手袋の色は黄色だ。No.Aの死刑囚の中で黄色の手袋をつけているのは一人しかいない。
エリスのもたらした思いがけない凶報にデウィットが口を開きかける。しかしそれはへストの指示にかき消された。
「パドラ、No.05、No.09の救出に向かってくれ」
「わかりました!」
桜子は突然へストに呼ばれた自身の番号に僅かに驚いた様子だった。が、すぐに持ち直し微笑を浮かべ、任された任務に対して「ああ、わかったよ」と返答した。
場所を教えてくれますか?とパドラに聞かれ説明をしていると、デウィットが進みでた。
「俺も行こう」
「はぁ!?」
隣にいたマリアが信じられないといったふうに声をあげる。
「怪我してんのに何言ってんだオマエ!」
「だが、二人だけでは少し不安が残るだろう」
「そうだな、No.04も向かうといい。No.12は待機だ」
有無を言わさぬへストの態度にマリアは閉口した。パドラに急かされ離れていくデウィットの背中を見つめていることしかできなかった。
「大丈夫?」
「あ?ああ.........」
「......そう」
それだけ言うと、ちょうど眠眠、ベアル、ヴァン、ユハニの四名が合流し、一気にざわめかしくなる。ベアルはルカの元へ、ヴァンはマドレーヌのところへ。それぞれ無事を報告し合う中、エリスとマリアは安堵とは程遠い空気を纏っていた。
「エリス!無事で......どうかしましたか?」
「...なんでもないわ」
声をかけてきたユハニ、眠眠の二名を横目で見るとすぐに視線を外した。普段から口数が多いわけではないものの、それにしてもそっけない彼女の態度に二人は首を傾げた。
╾───────╼
「クルスヴァイスくん、今お時間いいですか?」
そう声をかけたのはパドラだった。いつも通り目元は見えないまま端末を持っている。特にすることもなかった彼は、珍しいなと思いながらもそれに応じた。立ち上がり、ついて来いと言わんばかりに先に進む彼女の後ろを雛鳥の如くついて行った。
「どうかしたんすか?」
「少し用事があって......腕の方は大丈夫ですか?」
彼の右腕は任務で一度切断されている。しかし、今パドラの後ろを歩くクルスヴァイスの右腕は変わらずそこにあった。一度完全に体から離れたなどとは到底思えない。
「大丈夫すよ!まぁ痺れとか痛みは残ったけど、なんとかなります!」
「やっぱり残っちゃいましたか.........」
申し訳なさそうにする彼女に、クルスヴァイスが遠慮がちに尋ねた。
「あの、エリスの足って......」
パドラはああ、と言って今ここにいない彼女の姿を思い浮かべる。あの後、彼女も一時的に立つことすら困難な状態に陥っていた。そのことを誰かから聞いたのだろう。
「安心してください。日常生活に支障はありません。でも、おそらく走ったせいでしょうね。クルスヴァイスくんと同じで痺れや痛みが残っているようですが、なんとかすると言っていました」
二人とも頼もしい限りですね!と明るい声があがる。一方で、クルスヴァイスはその表情に影を落とした。エリスを走りに行かせたのは自分だ。ああするしかなかったとはいえ、そのせいで消えない痛みが残ってしまったのかと思うと沈まずにはいられなかった。
「......あれ、へスト?」
「デウィット!」
突き当たりをまがると、何やら話していたらしいへストとデウィットがいた。デウィットはクルスヴァイスに気付いた途端、嫌そうに顔を顰める。
「なんの話してたんだ?」
「……魚の話だ。ここで採れる魚は全部マズイっていうな」
魚?そんな話をする程二人は仲が良かったか?と不思議に思いつつ、へストとパドラの会話が終わるまで大人しくしていた。
「まだ時間がかかる。No.09、それまで手伝ってこい。場所はパドラが案内する」
「ついてきてくださいね〜!」
端末を掲げて自身の存在をアピールするパドラ。太陽のような彼は、その姿に思わず笑顔を浮かべて彼女について行った。
╾───────╼
「失礼する。所長に連れてくるよう指示された。No.A-03 安定眠眠はいるか」
そんな声とともに男が二人、部屋に入ってくる。一人は銃を手に持ち、頭からつま先までフル装備のいかにも軍人といった出で立ちの男。横にいるもう一人は白衣を着た研究者らしき人物だ。顔にはパドラとよく似たヘッドセットが着いている。
名前を呼ばれた眠眠が近づくと軍人らしき男は何かを探るように全身に目を通す。
「…頭のそれは置いていけ」
そう言ってアイマスクを指さされる。
「え、でもいつもはつけてても何も…」
「命令に逆らうな」
有無を言わさぬその圧に言われた通り渋々外すと、心配そうにこちらに視線を向けるユハニにそれを預ける。「心配しないで、待ってて」と眠眠はは一言声を掛けて、研究者らしき男達とその部屋を後にした。
「………これ…」
ふと、立ち止まって見上げる。視線の先には何やら文字の書かれた大きな金属プレートが掲げられていた。
「あぁこれ?この施設の運営だね〜。所長こういうの嫌いだけどやっぱ金出して貰ってる以上はね〜……しかも今は連携もとってるし」
白衣の男がなんてことないように答える。
一番上のロゴはこの施設のものだろう。しかしへストやパドラが持っていたタブレットに書かれたロゴとはどこか違う気もする。
「下のは?」
「左上がLG…ラハムグループ、その横はメレク社、んで下のロゴはアプロシステムコンポレーション…アプスーってみんな略すけどね。その横はその他企業や法人団体。LGとアプスーくらいは聞いたことあんじゃない?」
LGは余程の辺境地でなければほとんどの人が知ってる世界的大企業だ。医療や教育機関など、多くの分野において名が知れ渡っている。アプスーの方はロゴを見た記憶がある。あれは確か薬品だったか……。
「そういえばMILってなんの略称なんですか?」
ふと疑問に思ったことを述べる。
「え?聞いてないのー?そりゃあMythology In…」
「おい、おしゃべりはそこまでにしろ。着いたぞ」
言葉が遮られる。気付けば目の前には厳重そうな扉があった。白衣の男は気にした様子もなくはいはい、と答えると横の操作パネルを入力していく。
「こちら警備班0-34。No.A-03、安定眠眠を連れてまいりました」
「こちら医療研究班4-96。開扉許可をお願いします」
最初に軍人らしき男が扉に向かい声をかける。続くように先程まで楽しそうにお喋りをしていた白衣の男が固い声色で口を開く。
数秒の間、ピッと音がしたかと思えば何層にも連なった扉が開かれてゆく。扉の奥で複数のモニターを見つめるへストと画面越しに目が合ったような、そんな気がした。
╾───────╼
途中で用があるというパドラと別れ、代わりだという似た格好をした女性に案内された先は真っ白な部屋だった。中央を見るからに分厚いガラスで仕切られそこは面会室を彷彿とさせる。こちら側には背もたれのないシンプルな丸椅子と、白と黒のスイッチのようなものが2つ付いたテーブル。ガラスを隔てた向こう側には向かい合うようにして椅子と俯いた状態でそこに座る少女、それから頭上にあるモニターのみであった。近づいてよく見ればどうやら少女が座っているのは拘束椅子らしく手足や腕、更には胴体までもがベルトでしっかりと固定されていた。異様なその光景に動けずにいると、気配に気づいたのか少女が顔を上げる。
「…だれ?」
どこかにスピーカーでもあるのだろうか、やや舌足らずなその幼い声はガラス越しでもクリアに届いた。
「…ぁ、えっと…俺はクルスヴァイス。アンタなんでそんなことになってんの?」
「わたしエリス!ここで病気の治療をしたらママとパパに会えるって言われたから待ってるの!あなたがお医者さん?」
なんの偶然か。綺麗な黒髪を揺らして笑うエリスと名乗ったその少女は元気よくそう答えた。頭に浮かんだ彼女とは違う、キラキラとした優しい赤の瞳がこちらを見つめる。
否定をしようとしたところで頭上から先程案内してくれた女性の声に遮られる。
『時間になりましたので始めます。No.A-09、椅子に座り白いボタンを押してください。』
これは一体なんなのか。戸惑うクルスヴァイスにもう一度同じアナウンスが繰り返される。目の前の少女は「早くママとパパに会いたいな」なんて呑気なことを言っている。
立っていてもしょうがない。クルスヴァイスは椅子に座ると指示通り白いボタンを押した。すると少女側にあるモニターがついたのだろうか少女の顔が僅かに照らされる。リラックスさせるためか何処からかクラシックが流れる。
「問題に答えればいいのね!任せて、わたし勉強は得意なの!」
そう言って少女は自信満々に回答する。正解だったのかかすかにピンポーンという音が聞こえた。
そんな調子で少女は次々と正解を答えていく。自分は一体何をさせられてるのか。そもそもこれは何なのか。クルスヴァイスがそんな疑問を口に出そうとした時、ブーッとやや大きな音が響いた。
『No.A-09、黒いボタンを押してください』
この状況に飽きだしていたクルスヴァイスは言われるがままに黒いボタンを押す。その瞬間
「っい”、たい!」
目の前の少女の体がびくりと大きく揺れた。
続けて2回、3回。その度に彼女の体は大きく跳ね、悲鳴が上がる。問題が切り替わったのか、突然の痛みに顔を俯かせしくしくと泣き出す少女をモニターが再び照らす。
「…え、え?!ねぇどういう…」
『10秒が経過しました。黒いボタンを押してください』
思わず立ち上がり入ってきた扉を見つめるクルスヴァイスを気にもとめずアナウンスの平坦な声が響く。
「はぁ?!押すわけねぇだろ!それよりなんだよ今の!」
『命令に従ってください。黒いボタンを押してください。』
「だから説明しろってっ」
ビーッ、とブザーのような音がする。悲痛な叫びに振り返れば少女は拘束されたその小さな体を限界まで反らせガクガクと激しく痙攣していた。開ききった瞳からはとめどなく涙が溢れる。細く白い首筋をさらけ出し痛い、痛いと繰り返し泣き叫ぶ声が止まらない。
『黒いボタンを押しなさい。あなたに逆らう権限はありません。これは命令です。』
感情のない、平坦なアナウンスが繰り返される。徐々に大きくなる悲鳴。共鳴するかのようにラストスパートにかけテンポを上げて流れるクラシックが酷く不愉快だ。
「…っなんなんだよ!これ!」
やや乱暴に黒いボタンを叩く。
___全てが停止する。
耳障りなクラシックも、繰り返されるアナウンスも、機械の音も。音を発するのは目の前の泣いている少女だけ。
やがて再びモニターが少女を照らす。そこから先は同じことの繰り返しだった。彼女が間違えたら黒いボタン。響く悲鳴。優雅なクラシック。機械じみたアナウンス。間違える回数が増えていく少女。徐々に大きくなる悲鳴。呑気なクラシック。無感情なアナウンス。痛みに苦しみ泣き叫ぶ悲鳴、悲鳴、悲鳴。
ボタンを押せば痛みが彼女を襲う。命令に背けばより長くより強力な痛みが、小さな彼女の体を襲う。
選択肢など最初からなかった。
目を背けることは許されなかった。
絶望に染まる彼女の顔をただひたすら見続けた。
それを何回も、何回も、何回も何回も何回も繰り返した。
……どのくらい経ったのだろうか。ふと耳慣れない機械音がしたかと思えば少女の拘束具が外れていた。もう座ってる力もないのか、重力に従いどさりという重い音と共に体が地に伏せた。動けずにいる二人を置いて、モニターが切り替わる。一際明るく、彼女を照らす。
「……ぇ」
酷使された少女の細い喉から、掠れた声が漏れる。
モニターに釘付けになった少女の濡れた瞳が徐々に見開かれる。
クルスヴァイスが何も声をかけられずにいると椅子を支えにふらりと少女が立ち上がる。そのまま覚束無い足取りでガラスまで近寄り、クルスヴァイスをじっと見つめる。
「……ぇが、………んだ…」
「…え?」
座っているクルスヴァイスより頭の高い少女は彼を見下ろしながら言葉を繰り返す。
「……お前がっ、お前が弟を!ママとパパを殺したんだ!!」
かすれた叫び声が響く。
「お前が!!お前のせいだ!!!殺す!殺してやる!!弟を返せ!ママとパパを返して!!」
殺す、殺すと少女は叫ぶ。血走った瞳が、絶望に満ちた濡れた赤い目が、殺意に満ちた表情が、悲惨な叫び声が、血が滲んでもなお叩きつけられる拳が、彼を捕らえて離さない。赤が彼を責め立てる。
男が少女の部屋に入ってくる。マスクで覆われたその顔からは何も伺えない。そっと腰から拳銃を引き抜くと、未だ男の侵入に気付いていない少女の後頭部に標準を合わせ、引き金を引く。
『実験を終了します。体外にオネイロスの反応無し。No.A-09は指示に従い退出してください。』
赫が彼を、責め立てる。
╾───────╼
「待たせてすまなかった。予定より早くNo.A-09が来ていたようだ。」
そう言って中へと進む視線の先には緑の鋭い瞳でこちらを見つめる黒髪の青年、ルカ・エリオットがいた。
「…ふむ、バイタル問題なし。接続も良好、キミは優秀だね」
珍しく機嫌の良さそうなへストがモニターを見ながらそう述べる。
「…それはドーモ。なんでアンタがやるわけ?効率悪くない?」
対照的に機嫌の悪そうなルカが口を開く。
「今は皆忙しいからな。……あぁそうだ。せっかくの機会だ、キミとひとつ話したいことがあってね。」
ルカの瞳に映るへストはそう言うと、楽しそうに目を細めた。
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