0 初恋クソボケベクターくん
「おれ好きな人ができたんだけどさぁー、おまえは女子に何されると嬉しい?」
学校の帰り道、夕焼けが眩しい川の土手を並んで歩いていると何気なく言われた。
「………」
なにか返そうと横を向いた。口を動かした。が、音が発せられず閉じてしまう。原因は突如襲った痛みだった。動く心臓が無理矢理押さえつけられたように窮屈で、喉が毒を飲んだように焼け付いて、うまく音が発せられなかったのだ。その後何度も声を出そうとしたが疼痛に阻まれ、幾度文章を組み立てようとが混乱で頭に浮かばず、意味を成さなかった。
「…おいベクター、なんか反応してくれよ」
痺れを切らされ催促される。そうだ。返答しなくては会話として不自然だ。ここで受け答えができないと良くない。何が良くないかは分からないがとにかくうまくない。俺は正体不明の焦りに駆り立てられ、苦痛に逆らいながらようやく言葉を発せた。
「……えぇ?! そうかそうか、あの遊馬ちゅわんも恋するお年頃なんですね! 予想外すぎて何言っていいか分かんなかったわ、ギャハハハハ!!」
腕を大げさに広げて、人をなめ腐ったように嗤う。
「けどおまえみたいな男女(おとこおんな)に好かれるなんてそいつも災難だな! 可哀そうだからさっさと身ィ引いてやれよ、自覚あんだろ?」
矢継ぎ早に罵倒して、人の気持ちなんて知りもしないで。なかなか引かない痛みで普段よりずいぶんと苦労した。
俺の全否定に、やや苛立った様子で遊馬は応えた。
「自覚あるから聞いてんだろ! で、どうなんだよ?」
「だーれが教えるかよ! 玉砕覚悟で突っ込んで、ワアワア泣いて帰ってくるとこが楽しみだってのにぃ!」
ああ、それがいい。成就してメデタシメデタシなんぞ吐き気がする。傷心のコイツをさらに追い詰めて、音の鳴るおもちゃとして遊んだほうが面白いに決まっている。
「分かっちゃいたけど性格わりーなぁ! ちょっとは応援してくれてもいいだろー?」
「俺になに期待してんだよアホくせー!」
抗議する遊馬をケラケラ笑い飛ばしてやった。
よく回る口。滑り出す嘲笑。そうだこれでいい。ベクターという存在はこうなのだ。だから未だ身体が鈍痛に支配されているのも、きっとそういう日なだけだった。
『おまえを一人になんかしない。おまえはおれが守ってやる……!』
そう口にし、ドン・サウザンドに吸収されそうになった俺の手を掴む。安全な場所に居たというのにそこから飛び出して、地面に必死にへばりつき、自身も巻き添えになると涙しながら。
それでも、アイツは決して恐怖を口にしなかった。
それでも、アイツは決して俺の手を離さなかった。
──その感触を、今でも覚えている。
確かめるように、日が落ち暗くなった天井に手を翳した。
今日日、ナッシュとメラグを除いたバリアン七皇はトロンの城に住んでいた。「色々あったけど、それでもバリアン世界で彷徨っていた僕を助けてくれたのはベクターだったから」とは城主の言だ。そうしてヌメロンコードによる再編後の世界において、身寄りのない俺達はここに住み、遊馬達と同じ学校に通っていた。数ヶ月前までは世界の命運をかけて戦っていたというのに、今では板書に教科書と格闘する日々。あまりの落差に風邪を引きそうになる。
変化した事といえば俺の心境もだった。ドン・サウザンドに心臓を売り飛ばすほどに抱いた遊馬への殺意も、国王時代から掲げたナッシュ討伐への意欲も、再編後の世界で目を覚ませば綺麗さっぱり無くなっていた。
だからといって他と迎合しようとは露ほどに思えず、相変わらず俺の口は他人への揶揄を紡いだ。しかしこれまた飽いてしまったのか味気なく、唯一面白味がある遊馬以外と話す気になれなかった。遊馬は良い。これほどに打てば響く人材は見つけられそうにない。
他人への害意を失くしたのは、アイツとの会話でしか楽しみを見出せないのだって、それもこれも遊馬のせいだった。俺はあそこで道連れを嫌がった奴に手を離されて、結局自分が一番かと侮辱しながらしこりを残すつもりだった。だのに返ってきた言葉は「守ってやる」という正反対のもの。それ以降も恨み言を一つも零さず俺に纏わりついてくる。こうも予想外の事が立て続けに起きてしまっては悪逆非道のベクター様の調子が狂うのも仕方がない。
ならばアイツには俺を救い出そうとした責任がある。想い人なんてものに時間を割いてしまっては俺様の娯楽が減ってしまう。だから失恋させてもう一度遊馬の顔を悲痛に歪ませてやろう。
よからぬ事を見つけたと、上げた手を握りしめ口角を釣り上げた。
────────────
「わぁ!」
そう間抜けな声と共に派手に転んでやった。手に持っていた先公に届けるプリントはブチまかれ、目の前の人間を白い山にした。
「し、真月……」
頭に載った紙を取りながら遊馬はにわかに震え出す。
「すみませんすみません遊馬さん! 僕はよかれと思って……」
しかしこうすれば一発だ。涙交じりの上擦り声と申し訳なさそうに組んだ両手、止めにと潤んだ上目遣いを見せてやれば、たちまち遊馬は苛立ちを引っ込めて困ったように眉を下げる。
「あー分かった分かった。一緒に拾おうな真月」
そう言いながら動き始めた姿に下を向いてほくそ笑んだ。遊馬は未だに真月に弱いらしく、演じれば思い通りに動いた。それが愉快で俺は学校では間抜けな道化をそのまま通した。遊馬を助けようと取り巻き共が寄ってくるのもいつも通りだ。遊馬が誰かに懸想しようと変わらない。コイツは相変わらず俺の人形だと再確認出来て満足した。
「何ニコニコしてんだ真月」
「はい。遊馬さんが手伝ってくれることが嬉しくて」
ほんと嬉しい限りだよ。お人好しの度が過ぎて頭沸いてんじゃねぇの?
拾うだけでなく運ぶのも手伝うと遊馬はそのまま職員室まで着いて来た。わざとなのか学ばないのか、次はどんな迷惑をかけようかと思案する。
「お、シャーク! もう学校来れるようになったんだな!」
が、それは奴に遮られてしまう。廊下を一人歩くナッシュを見つけるや否や、遊馬は嬉しそうに駆け寄った。
アストラル世界の新たな戦いにて、もう何度目か分からない病院送りを喰らったナッシュだったが、残念ながら退院したらしい。小さく溜め息をついて二人に近づく。
「遊馬、お前相変わらずベ、…真月を引き連れてるんだな」
そうナッシュは言うと、遊馬の横に着いた俺をチラリと見た。声に非難の色は不思議と無く、単に事実を確認しただけらしかった。ムカついた。コイツは俺が何をしたか忘れたのか。
「おう。前の戦いに協力してくれたし、もう真月は大丈夫だぜ」
ムカついた。帰って来た当初は俺をやや警戒していた遊馬だったが、戦いで俺が協力してからというものの全く警戒をしなくなった。遊馬以外も概ね同じ反応だ。
ナッシュに至ってはもっと前のヌメロンコードを巡る戦いで、俺を倒した後は許している様子だった。遊馬とナッシュの戦いのさ中、俺の魂はアンブラルにいた。ぼやけた意識の狭間、ナッシュが必死にバリアン七皇が宿るオーバーハンドレッドナンバーズを守ろうとする様を俺は確かに見た。
キメェ。遊馬もナッシュも、その取り巻きも。恐怖と疑念の眼差しが常の国王時代からの落差に、俺は居心地が悪くて仕方なかった。
「真月、これからもこの調子でな」
ナッシュのお節介な物言いに抗議すべく睨め付けてから、ああそうだと言い放ってやった。
「知ってますか神代先輩。遊馬さんに好きな方ができたそうですよ!」
学校では相変わらず被っているいい子ちゃんの仮面で明るく振舞う。大きめの声量を出して廊下の注目を集めると、たちまち遊馬は焦りだした。
「げぇ! デカい声で言うなよ、人がたくさんいるだろ」
「はは、よかれと思って! もしかして遊馬さんの好きな方というのは神代先輩だったりします?」
言い終えた途端、慣れない感覚がまた俺を襲う。好いた奴がいると聞かされた時と同じ締め付けだった。俺の密かな動揺は他所に、遊馬は案外冷静に受け答えをした。
「ちげーって、デタラメ言うなよ」
「でもほら、会えてすごく嬉しそうでしたし」
「なんでも結びつけんなよ」
シャーク違うからな、 と困ったように笑って遊馬は締めた。ナッシュは面倒事に巻き込まれたと顔を顰めていた。
しかしすぐ態度に出るアホ遊馬からして、ナッシュが件の人物でないことは本当らしい。正直意外だった。最後の最後までバリアンとなったナッシュを引き戻すことに腐心していたところから、最有力候補と考えていた俺の目論見は外れた。
「神代先輩、遊馬さんの思い人に心当たりはありませんか?」
しっしと鬱陶しそうにナッシュが手を振る。
「なんでそんなに気になるんだよ」
「それはもちろん、相手を調査して協力するためです!」
そりゃあもちろん、相手を調査して邪魔するためだよ。遊馬が誰かとくっついたところを想像すると幸せオーラで反吐が出そうなんだよ。
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その後、遊馬は一度断ったというのにしつこく男に好かれる方法とやらを聞いてきた。
「俺本気だからさ! ベクターが直すべきと思うとこは遠慮せず教えてくれよ!」
十数日間休まず聞かれたせいで耳にタコが出来そうだった。そも本気なら相談相手を致命的に間違えている、本人に聞いてこい、お前に出来っこない、全ての拒否を跳ねのけてくるのだから溜まったものでない。折れるしかなかった。
「ああもうしつけーな!!
……そうだな、まずはところ構わず跳ねるのをやめたらどうだ? スパッツだから恥ずかしくないとか言ってたが、普通にはしたねーぞ」
「そ、そうなのか? じゃあやめるよ」
遊馬は驚くほど素直で、その日からどんなにテンションが上がろうが地面と足が離れることはなくなった。
「胃袋を掴めって言うだろ? 料理を覚えてみるのは?」
「了解了解、やってやるぜ!」
その後、遊馬は必ず自分と俺の分の弁当を用意するようになった。俺ではなく例の奴に渡せと言っても恥ずかしいの一点張りだった。
「いつも私服がズボンにジャケットで女っ気がないんだよなー」
「うーん、小鳥に選んでもらうか」
休みの日に会う時は遊馬はスカートを履いて来るようになった。ズボンを履くとしてもショートパンツ。他に着るものはワンピースやら肩出しやら。とにかく男物は一切着なくなった。
「一番のネックは口調だよな。なんにしてもその男口調で台無しだぜ」
「なら今日から“俺”をやめる!」
病気なのかとか無理をしなくていいと周りからは心配されたが、遊馬は頑なだった。ちなみに口調のモデルケースは小鳥と思われる。
「私、他にはなにを変えたほうがいいと思う?」
「いや、もういいもういい……」
すっかり変化を遂げた遊馬に、先に音を上げたのは俺だった。どうせすぐに嫌になるという計画は外れ、遊馬は俺の思いつきに全て従ってしまった。
「ほんと? これで私好かれるかな……?」
照れくさそうに、それでいて成長が誇らしいと遊馬は確認してくる。
「俺の知ったこっちゃねぇ」
なにもかも気に食わない。自分の思い通りになっているというのに、むしろ苛立ちを感じる。雌へ変貌する遊馬を俺は辟易としながら眺め続けた。
俺の方はというと、ナッシュへの予想が空振りしてから何日も遊馬と行動し、奴の行く先々で片っ端から「好きな奴はお前か」問答を吹っかけた。しかしIII、鉄男、アリト、ギラグ、ドルベ、ミザエル、その他クラスメイト…誰に対しても遊馬の反応は薄かった。ならば学校にいない奴かと気付かれないよう尾行したが、俺が知っている連中としか会わなかった。隙を見てD・ゲイザーをこっそり覗いたが、登録された連絡先も俺の知る人間しかいない。数人聞き覚えのない男の名前があったので電話をかけてみたが、全員親戚だった。遊馬と勘違いした野郎達は開口一番に久しぶりと話しかけてくる。遊馬の最近できたという口振りからして状況が嚙み合わなかった。
では有名人のような遠い存在かと思いD・ゲイザーの検索履歴をまた隠れて漁ったが、特定の誰かに執着している様子はさっぱりなかった。一瞬俺が見逃していただけで相手は女なのかとも思った。しかし男である自分にアドバイスを求める理由がなく、選択肢からはすぐ消えてしまった。
大変困った。あらゆる可能性を探ったというのに一切手掛かりが掴めない。俺の日常のささやかな楽しみのため、恋路をブッ潰してやるという意欲は燃えているというのに。
「一体誰なんだよ……」
「一体どこからそのやる気は湧いてくんだよ」
居候している城の庭で成果の無さに不貞寝をしていると、見たくもない青紫が視界に入った。
「遊馬から聞いたぞ。アイツが話しかけた男全員に俺と同じ質問をしたってな」
なんで一番めんどい野郎にチクってんだよ。
「それをわざわざ言うためにここへ? バリアンのリーダーも今じゃすっかり暇人だなぁ」
IVに会いに来たついでだ、とナッシュは俺の横に無造作に座った。本来の用事も気色悪いぞテメェ。しかし指摘されない点からして、跡をつけたことや電話のことはバレていないようであり、ひそかに胸を撫で下ろした。
それはそれとして盛大に不快感を顔に表してやったが、構わず話しかけられる。
「ところでこれも遊馬に聞いたんだが、お前毎日学校に来てるんだってな。真月のフリも疲れるだろうによく来る」
「そりゃあ遊馬で遊ぶためだよ。娯楽がなきゃ生きてる意味がないだろ?」
遊馬がよく滞在する場所が学校だ。アイツは頭の出来が悪いためドジが発生する所でもある。授業は嫌になるが絶好の観察場所でもあった。
「それ、遊馬がいないと生きてけないってことか?」
寝そべる俺をナッシュは覗き込んできた。視界いっぱいに奴の引き攣った嘲笑が入ってくる。
「あぁん?」
明らかな敵対心に地を這うような声が出た。ナッシュは小馬鹿にしたように続ける。
「人間界に戻ってからというものの、お前はずっと遊馬にべったりじゃねーか。まああんな風に助けられちゃ気持ちは分からなくもないが」
言っているうちにツボに入ったのか、くつくつと笑い始めた。
「なにが可笑しい。そもそもあっちから寄って来るだけだ」
上体を起こし凄んでみてもまるで効果はない。
「気付いたんだよ俺。天邪鬼なお前にやり返すなら悪事を指摘するよりこっちの方がいいって」
ついに声を上げはじめ、耳障りな笑いを届けてきながらぴたりと顔を指差された。
「もたついてないで早く囲っちまったらどうだ?」
「黙れテメェ…ッ!」
戯言しか垂れ流さない口ごと掴んで地面に叩き付けてやった。一瞬ナッシュは怯んだが衝撃を無視してしつこく笑い続ける。
囲えばいい、遊馬無しでは生きていけない。まるで俺が遊馬を求めているかのような言い回しに虫唾が走る。馬鹿言うな。それは心中覚悟で俺を引っ張り上げようとした向こうの方だ。
しかし相手にしなければすむというのに、俺はなにをそんなにムキになっているのか。ナッシュの思惑通りに感情を発露させられている事態にさらに怒りが募る。
再び沸いた殺意で窒息死させてやろうか、と口と鼻を塞ぐべく再度組みかかった。しかしナッシュは「これくらいはやり返さないとな」としつこく抵抗し、「弁当旨かったか」「あの服の趣味はお前か」と不愉快な事を次々と口遊み続けた。俺とナッシュの攻防は騒ぎに気付いたIVが止めるまで続いた。
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「ベクター、今週のお弁当は何がいい?」
そうして遊馬の告白を聞いた川の土手に戻る。
学校帰りで二人きり。太陽から放たれる赤と黄と橙の熱線。状況は前と変わらないというのに、俺は大きな隔たりを感じざるを得なかった。
「ベクターって全然好みを教えてくれないんだもん。私おかず選びに困っちゃうよ」
隣の人間から飛び出す女口調に未だ全く慣れない。というか今の状態で好かれたとして、果たしてそれは本当に恋とやらが叶ったと言えるのだろうか。遊馬という人間はガサツでおよそ女らしいとは言えず、デュエルとお友情にしか興味がない馬鹿であるからこそ遊馬であって…。
「なあ遊馬」
そこまで考えてふと思った。
「なに? 食べたいもの決まった?」
「お前、俺のアドバイスに全て従ったよな。弁当も俺の分だけ毎回用意する。おまけに休みの日には俺の所へ通い詰めだ」
たっぷり間を取り、執拗に語尾を伸ばして、人の神経を逆撫でする技術を総動員して言ってやる。
「……もしかしてぇー? 遊馬ちゃんの恋い慕う白馬の王子様っていうのはぁ〜、俺だったりぃーー?? ………なーんちゃって!!アヒャヒャヒャヒャ!」
整理すれば状況証拠だけは揃っている。俺を選ぶ物好きなんているはずがないが、なんてミラクル。さあどんな反応が返ってくるかとチラリと見やった。
が、横に遊馬はいなかった。勢いのままぐるりと後ろを向けば、俯いてその場に立ち止まる奴がいる。
「おいなにして…」
「………………ああ、そうだよベクターおまえだよ!! おれが好きなのはおまえなんだよぉ!!!」
突然耳をつんざく怒声が放たれた。顔を真っ赤にし震え、せっかく被った女の体裁もかなぐり捨てて、喉が潰れんばかりに声を張り上げる。
「は…………俺?」

あらゆる想定の外から放たれた叫び声に、俺は間抜けな声しか出せなかった。そんなものはお構い無しに遊馬は捲し立てる。
「お、おまえがアストラル世界の戦いでまた裏切ったフリをして、敵に味方したと思ったら中からおれ達のサポートして……それがスゲーカッコよくて、なによりベクターはおれが信じた真月でもあったと思うと嬉しくてよ…。それで、テレビで直接相手に恋愛相談してみるといいって言ってたから……」
つっかえながらも堰を切ったように思いを告げられる。みるみる頬が紅潮するのは目の前の人間だけと思いたい。だから相変わらず俺は人を食った物言いをする。
「……ていうフリかぁ? 騙して実は違うとかサルガッソの意表返しとか? ハハ、遊馬も俺に似て趣味が良くなったもんだ!」
そうだ。こう返答しなくてはベクターらしくない。こんな垢のついた吐露で顔を赤らめるのも、逸る呼吸で滑らかに受け答えができないのだって何かの間違いなんだ。そう思わなくてはとてもやっていけない。
しかし、そのひん曲がった根性は完膚に叩き潰される。
「………違う、本当だもん……。じゃなきゃこんなに頑張って女子になろうとしないもん……」
目を潤ませながら零された、掠れた呟きで。
嗚呼、また胸を圧迫し、喉を焼く痛みがする。心臓は肋骨を折るような勢いで暴れ出し、体は鉄を流し込まれたように熱くてたまらなかった。だが今回は痛みに付随する感情が違う。気に食わない、認められないというものではなく、心の底から湧き出る歓喜と安堵だった。
心底つまらなかった好かれる努力とやらも俺の為と思えば、たちまちコイツに尽くされたという優越感に変わった。俺に割く時間が少なくなっているという憂いも、全てが吹き飛びどうでもよくなってしまった。
───だって仕方がないだろう。初めてだったんだ。他人を害し、利用するだけの俺に、命を投げ出して駆け寄る人間は。そんな存在、気の遠くなる生で一人しか居なかったんだ。ならばそいつなしで生きられなくなってしまうのは当たり前じゃないか。
「……俺も好きだよ」
突いて出るように思いが溢れた。消え入りそうで、いっそ聞こえなくていいのに、しっかりと相手の耳には届いてしまったらしい。
目の前には顔がみるみる華やいでいく遊馬がいる。どこか遠くの場所にいる気分で他人事のようにそれを見る。
俺はあの日手を掴まれた。そしてとっくに、心までもが捕らえられていたんだ。
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