0 「無くてならぬもの」 — 対神関係の楽しみとメンタルヘルス ― みんなに公開

「主、答へて言ひ給ふ『マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』。」(ルカ10:41~42)
                    
旧約聖書学者の並木浩一氏は「人格神」を信じる理由の一つとして、「神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶこと。これがわたしにとっての礼拝の意味です。慰め主であり、賛美をゆるされる方をわたしは必要とします。」と述べておられます。今の時代、並木氏の如く神賛美によって「この世の問題や悲しみや傷を相対化」して「人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶ」という、そんな神との関係を楽しむことは困難な状況があります。というのは、もちろん庶民の信徒たちも忙しく日々の暮らしに追われていますが、説教者である牧師さんも(言い方は悪いですが周囲に対するアリバイ的またはパフォーマンス的な意味も含めて…)なにかとせわしなく働いているからです。牧師が何をそんなに働いているのかといえば、本務である肝心な説教の準備とかではなくて、教会関係の雑用はまだよいとしても、一般的には社会的な活動、政治的な活動が目立ちます。私が初めて教会(伝道所)に赴任して少し経った時のこと、神学校の先生だった牧師にあることで電話をしたところ、君は今そこでどんな働きをしているのか?と問われ驚きました。「なに言ってんだ、福音伝道に決まっとるべ」と言いたいところでしたが、失礼なもの言いだと思い控えました。結局、その時言われた「働き」とはどういうことだったのかはわかりませんが、自分では察しはついています。教会が建てられてある地域社会における市民運動とか何らかの奉仕活動に関わることや、路上生活者のサポートとしての炊き出しや夜回りなど、何にしてもとにかく社会的活動ってことです。自分でも例えば所謂ホームレス(…ハウスレス)の人が訪ねて来られたら値引き弁当を買い与えたり、煎餅布団ではあるが貸して宿泊させたり、場合によっては現金の援助もするなど自分なりの対応はしていたわけですが、わざわざ自分の方から出て行くことまではしていませんでした。路上生活者の問題にかぎらずいろんなことが社会にはあるので、そういったことに関わっているかという意味で神学校の先生は「どんな働きをしているのか?」と問うてきたのでしょう。しかし神学校の教師がまず言うべきはそこではないと思います。無論、礼拝関係の仕事以外の活動は無用だと言うのではなく、順番が違うのではないの?と思うのです。まずはマリアのようにしっかりと腰を落ち着けて聖書を開き、資料などもきちんと読んで消化して説教の準備をして、それから外に出て行くなら行かれたらよいのでは…?ということです。古いと言われるでしょうが、昔の教会では土曜日はできるだけ牧師を煩わせるな…特に電話をかけて相談などするな。相談事があるなら、月曜は休ませて火曜日以降にせよ…という暗黙のルールがありました。説教準備にはかなりの労力と時間がかかることは当然だと思われていたからです(…今ではネットでも資料を得られますが、昔はほとんどの資料は書物なので、説教作成の参考書を買う費用もけっこうかかりました)。実際には週の半分以上の時間を説教準備に使うことはザラだったのです。牧師イコール説教者といったイメージも強くありましたし…。説教準備における最低限度の作業として、決められた聖書テクストを原典にあたり、訳も一つではなく個人訳や英訳を含めていくつかの訳を読み比べ、注解書も何冊か読み比べて主旨を整理しながら、説教の主題に即した原稿を入念にチェックしながら推敲してゆくというだけでも短時日で仕上げられるものではありません。ところが牧師によっては社会活動の方が優先で、その余った時間で説教準備をするか、最悪、ストックしている説教を推敲はおろか、じっくり読み返すこともなく、そのまま礼拝で用いるといったこともあるようで、ある教会の牧師などは附帯施設の仕事が忙しいために準備時間が十分とれないためか、いつも説教は短く、最後は「神の愛」を言って締めるというワンパターンでした。なんでも神の愛を言えば済むってものではないわけですが、会衆からのクレームを最小限度に抑えるうえでは、そういうやり方もありなのかなあと思った次第です。でもこれでは説教というには非常にしょぼすぎます。そんなことでは講解説教などはとうてい期待できません。                                         さて、この聖書箇所ですが、わかりやすくてなおかつ意味深いということでよく説教されますね。マルタとマリアの姉妹がイエスの訪問を受けた時のエピソードです。姉のマルタは世話好きで社交的な性格だったのか、客人のイエスをもてなそうとせわしく立ち働きます。これと対照的なのが妹のマリアです。彼女はイエスの足もとにどっかりと座って、神のことばを傾聴します。もしかしたら空気よめないタイプだったのかも知れませんが、逆にそれが良かったようです。マルタは手伝おうとしない妹に腹を立て、イエスに不満をぶつけます。私は姉のマルタの気持ちもわかるのです。イエスから見れば、姉のマルタのタラントもちゃんと評価しているけど、それと優劣を比較するということではなくオンリーワン的意味で、妹のマリアの気は利かないけどみことば傾聴の態度…どっしりと腰を落ちつけて神賛美による自己解放を喜び楽しむこともまた、彼女にとっては必要な賜物だと評価したわけです。現代社会ではあきらかに姉のマルタのような人が求められるのであり、妹マリアのようなKY的な人は排除的扱いを受ける傾向にあると感じます。現代の社会生活では特にコミュニケーション能力がたいせつですが、マリアはその点ではネガティブなタイプに入るでしょう。しかしそれでも彼女には神との関係を楽しむというかけがえのない才能が与えられていて、それによって彼女は生きてゆけたのです。姉のマルタのように仕事のできる人、心乱しながらも他人の世話をする社会的能力が高い人にとっては不要であっても、妹のマリアのような人にとっては福音を受けて生きるために必要なタラントだったのです。だからそれを彼女から取り上げるということは、本人にとって死刑宣告に等しいのです。イエスがマルタに対して言った「多くのことに心を煩わせ、かき乱されている」ということが、私たちが生きている社会の現実だという点では、その言葉の意味は、私には労りのような愛情のようにさえ感じられた次第です。                                               ところで、これまた、めっちゃ古いけどどうしたん?と言われるかも知れませんが、高倉徳太郎牧師は「造られたものの存在の意義は創造主なる神を礼拝するためにある。人生の究極目的は 神を知り、神を楽しみ、神を崇め神に服従し奉仕するにある」と述べています(『全集 5』193頁)。神への服従とか奉仕はキリスト教ではよく言われることでせうが、「神を楽しむ」(fruitio Dei)というのは教会で耳にすることはあまりないと思います。この言葉、アウグスティヌスあたりに由来するようですが、あるカルヴァン研究者が「厳格な高倉が『神を楽しみ』と言う表現を用いていることは注目に値する。」と述べているように、神を楽しむ…すなわち神との関係を楽しむというのは不謹慎な感じも受けるのでしょうが、それくらい信者の信仰生活においては重要なことなのです。説教という働きは、まさに会衆個々人に、これまでの1週間の歩みにおける対神関係の楽しみに気づかせることであり、また、これからの1週間の歩みにおける対神関係の楽しみを期待させることでもあると思います。そういうことが牧師にとっては何より時間と労力をかけてなすべきことではないかと思います。姉のマルタのように、みことば傾聴以外のことで思い煩いながら教会に仕え、会衆に喜ばれようとすることも、承認欲求に支配される煩悩人間の現実としてはわかるのですが、やっぱりマリアの態度の方が牧師にとっても会衆にとっても優先すべきことなのです。「無くてならぬものは多からず、唯一つのみ」というのは、イエスがマルタに言われたことを巧くまとめて書かれているのであり、セリフとしては「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を煩わせ、かき乱されている。しかし必要なのは〔ただ〕一つなのだ。」(岩波版 佐藤研訳)ということです。「必要」と訳されているのは「クレイア」という言葉です。これは織田昭氏の小辞典によりますと「(特定の)務め、任務」をも意味するとのこと。今の多くの教会では、牧師も信徒とも、教会にとって第一の務め・任務は何かを、マリアに見習って考えてみるべきではないでしょうか?自分は、対神関係を楽しむことに尽きると思います。対人関係はその後です。自分自身の心に神を楽しみ喜ぶ心なくして、社会に向けて福音(喜びの音信)を伝えることなどできないでせう。                                     ちなみに最後の「奪ふべからざるものなり」と訳されたところは原文では未来形になっておりますが、佐藤研訳の注では「命令的ニュアンスを含む」と言われています。その点では、同じ新改訳でも2017最新版の「取り上げられることはありません」よりは旧版の「取り上げてはいけません」の方がよいでせう。

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