1 絶対有神信仰による自己相対無化 — ラクになるには、死なずして無に近くなれ — みんなに公開

「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」(「自己相対化の大事な鍵」~ ETV「 こころの時代」)  
「・・・神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができます。人間的関わりや重荷や罪から解放されることを共に喜ぶこと。これがわたしにとっての礼拝の意味です。慰め主であり、賛美をゆるされる方をわたしは必要とします。」(~旧約学者・並木浩一氏)                                                      聖書の宗教すなわち一神教は、まずもって絶対なる神を信仰する宗教であることは、無教会派の指導者であられた矢内原忠雄氏が、「宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。」と述べておられ(~「日本精神への反省」)、また、ルター派神学校と京大哲学科で学んだ異色の神学者、元・日基教団の北森嘉蔵牧師が、「神が絶対者であるということは、神学の公理であります。」と述べておられることからも察せられます。                                      その絶対なる神を人生の基準とする限り、人間は自己を相対化する必要があります。それはどういうことでせうか…?その自己が、何かを絶対化し囚われている…偶像に支配されて苦しんでいるからです。人としてよりよく生きるために、囚われた自己を相対化することによって解放し、本来的自己を回復しなければなりませぬ。特に親とかマスメディアによる刷り込みによって思い込まされ、いわゆる世間的価値観として束縛された状態から解放されることです。これはメンタル問題におけるいわゆる認知の歪み・バイアスといわれる状態の改善ないしは、カルト教団における洗脳とかマインド・コントロールからの解放にも通じることです。キリスト教会では福音派によくみられる恫喝…そういう人はサタンの手下だとか悪霊にとり憑かれているとか、そんなことでは地獄に堕ちるぞとか、そうやって人を脅すことによって自分たちのドグマを信じ込ませようとするやり方から解放されるためでもあります。牧師との関係や同信者との関係も含めて、あらゆる人間関係は絶対化できないということです。いろんな意味で自己防衛するには、対人関係を相対化するために岩の土台の如く堅固な対神関係を有(も)つことがたいせつです。イエスは、「まことに汝らに告ぐ、我がため、福音のために、或は兄弟、あるひは姉妹、或は父、或は母、或は子、或は田畑をすつる者は」云々と(マルコ10:29他)、キリストとの関係においては家族関係さえ相対化すべきことを述べているし、自ら「わが母、わが兄弟とは誰ぞ」(マルコ3:33他)と言って家族関係を相対化し、父なる神との関係のみを絶対としておられます。人間にはどんなに親しい関係であっても相手が人間である以上、絶対化は許されません。親、兄弟であれ夫や妻であれ自由を束縛することがあるからです。これが赤の他人との関係ならなおさら相対化して然りであり、学校や職場の人間関係などは常に相対化しておくことが肝要です。いじめとかマウント取りなど不快な様相を呈する時、ふだんからその場での対人関係を相対化しきれていないと、たかが一時期の関係にすぎない人たちが、まるで自分の人生における幸不幸の運命を左右する権力者であるかのように思い込んで、その人たちの意地悪な態度に恐れをなして現実逃避のために引きこもってしまうとか、病に侵されて社会生活に滞りが生じてしまうとか、最悪の場合、あの世まで逃避してしまうことにもなりかねません。大局的視座に立って俯瞰的にみれば、たかが人生の中のほんの一時的な苦難に過ぎないというのに…です。だから人生の大局的視座に立つためには、宗教的境地として絶対神信仰を持つことの意義は、人命がかかっているのであればなおのこと、どんなに強調してもし過ぎることはありません。絶対神信仰にもとづいて特定の人間関係を相対化する大局的視座は、ストレスが深刻な問題となっている現代社会に生きるうえで、特にメンタルヘルスの観点においては心理療法などを学ぶよりも重要なことだと思います。認知行動療法とか何々療法とかいったところで無神論的・唯物論的立場の人が考案したものである場合は特に人間の観方が誤っていて、霊魂の存在が考慮されていないのですからおのずと限界があり、youtubeなどで一般的な精神科医やカウンセラーのような人たちの半信半疑で気休めのような話におつきあいして貴重な時間と費用を無駄にするリスクをとってまで学習して受けてみる余裕など無い人の場合は、臨床的には薬物による対処療法の方が確実性があってマシということもあり、じゃあこれが肩書に「スピリチュアル」等の語が付く人の話ならどうかと言えば、これまたニセモノとかインチキが多いなど詐欺被害リスクといった別の問題があるので警戒が必要になります。最も堅実なる自己防衛の方法は絶対神信仰にもとづいて人間社会を常に相対化することであり、どんなに魅力的で好ましい人物と知り合うことができたと喜ぶことがあっても、だからといって心を明け渡すようなことはしてはいけないということです。一方、とても苦手で嫌な相手と同じ環境で就学や就労を余儀なくされる場合、その環境が本人にとっての生活世界として意識の大半を占領してしまうこともあって、つまり、その嫌な相手の方も自分を嫌っており、しかもあわよくば致命的なダメージを与えてやろうと悪意の関心を持ち続けており、そんな一触即発の緊張関係がず~っと長く続いて、真綿で首を絞められるかの如く苦しめられてゆくやうに感じられることがありますが、そこには過去の被害によるトラウマから生じる妄想的な面もあるかも知れないし、若い人の場合は、これからの人生全体からみれば仮初に過ぎないと思えばよいです。中高年者の場合は、何かしら不快な出来事が生じてもそこに囚われてはならず、人生の中では些細な問題に過ぎないのだと俯瞰的に相対化して思い流すことがメンタルヘルスでは有効かつ肝要です。                            とにかく、人間存在の全体的かつ根本的な救いは絶対神信仰によらずしては不可であると確信しています。戦争などの歴史上の悲劇はすべて、人間の自己絶対化から生じていると言っても過言ではなく、さらにその根本原因を問い詰めるとキリスト教でいわれる「原罪」に帰着します。これは聖書では神話によって物語られていますが、要は理屈を超えたところに人間世界の悪の原因があるということであり、その解消方法は絶対の創造主なる神との関係においてのみあるのです。                               ところで、「絶対的な神」が用語として用いられるのは、神の存在証明で有名な中世のカンタベリー大司教アンセルムスからであるそうです(~小川圭治著『神をめぐる対話』新教出版社 p62)。神とは、それよりもより大いなる(māiusは形容詞 māior「より大きい」の中性形)ものが考えられないような存在者であるが、もし、そうしたものが実在せず思考の中だけにあるのだとすれば、その時はそうした考えられているものの方が、より大いなるものになってしまう。しかし、これは矛盾である。神は思考の産物である観念よりもより以上のもの、すなわち実在するものである…といった論法はカントによって破られたとは云いますがヘーゲルは神を存在と概念とが一致した存在として了解していたそうだし、自分はアンセルムスの「それより〔偉〕大なものが何も考え得ない何か」(aliquid quo nihil maius cogitari possit)という神論は、存在証明としてではなく信仰告白として現代でも積極的に語られ得ると思っています。                                                                                    そのような大いなる神の絶対的人格を信じることなしに自己相対化しようとすればニヒリズムに陥る恐れがあります。苦しむ自己は無にしてゆくことが解決の近道ではありますが、そのためには有としての絶対他者が存在しなければ虚無でしかないのです。虚無となると人格崩壊、精神破壊の危険があるので、自己相対化は必ず絶対神信仰を前提としなければなりません。日本の記紀神話には人間を超越した創造主が存在しないので、日本人には人間が絶対化(神格化)される傾向があります。キリスト教においては人間を真に超絶した唯一絶対なる神が啓示において自己相対化したということが聖書の物語を通してわかります。神が啓示された範囲内でしか人間は神について知り得ることはありません。聖書は啓示それ自他ではなく、聖書は啓示の主旨を神話を通して伝えているのです。聖書で物語られているように、後悔して思い直したり妬んだりするような神が絶対であるはずがありませんよね。人間の肉体を持って民衆と飲食を共にするような者が絶対他者なる創造主であるはずがありません。しかし、だからと言って、聖書に描かれている神、証言されている神は相対的かつ有限な存在なんだ…ということではなく、本来は無限で絶対の存在である神が啓示において自己相対化し自己対象化して人格的存在となった、その神を神話によって比喩的、象徴的に物語っているのが聖書だということなのです。啓示なしに聖書はありませんが、聖書なしに啓示はその内容を人間に知られることはありません。時間的には啓示が聖書に先行するとは言え、事柄としては啓示と聖書との関係は「啐啄同時」。                                           聖書(の中の特に神話的物語)を科学的な客観的事実として、あるいは存在論的に理解しようとすると本質を見誤ったりドグマティズムに陥る危険があるので、信仰生活においては聖霊の大いなる運用により聖書学や宗教哲学などによる批判的解釈を学ぶことも大切です。聖書が示す神を「絶対存在」と言うこと自体も神の自己相対化によって言い得ることであるから、相対的かつ有限的なことであるというアポリアの事情が、日本人がキリスト教の神についてよく混同する人格神と擬人神との違いも含めて、以下の波多野精一氏の文言から感じ取れるのではないでせうか…。                                                                            「人格主義を擬人観と同一視することによって、人々は世界及び存在の理論的理解の立場に立ち観想者の態度を取りつつ宗教思想を取扱って居るのであるを示す。これは、パンテイスムの場合においてまたその他の場合においてしばしば論及した如く、宗教の本質に関する許し難き誤解である。(中略)人格主義の宗教は、世界と相並んで存在しつつそれを外部より押したり撞いたり細工したりする、一種の動物の姿に無上の歓びを覚える、気まぐれ者の夢ではないのである。(中略)観想の立場を取る者にとっては、『絶対者』も『無限者』も『一者』も等しく各一定の形相を有するもの、従って皆等しく有限的存在を保つものに過ぎないのである。」(『宗教哲学序論 宗教哲学』〔岩波文庫〕p310~311)                   
今回、絶対神を信知するにあたって出エジプト記3章5節を挙げた理由は、聖書には神の絶対性を直接的に示す聖句は無いが、宗教学者の波多野精一氏は「実在的絶対的他者なるものの特質」として「神聖性」を挙げているように、物語られている状況としては、モーセが初めて神の顕現に接する神聖なる体験をした箇所が相応であると思ったからです。そして、この出エジプト記3章のモーセが召命を受ける神聖なる場所ホレブ(シナイ)山の場面が、旧約聖書において原初的な「聖なるもの(sacrum)」の何かを伝えていると云われているからです(関根正雄著『古代イスラエルの思想』講談社学術文庫 p88参照)。                                                                                                                                                                                                                  さて、冒頭に掲げて引用した文章では、「神」を「絶対」ではなく「絶対的」な存在であると言われています。厳密には、「絶対」なる神は相対である人間には対象として認識できない…否、そのようにも言えない何かであり、しいて言えば「無」とか「空」と表現されることになります。形而上学的思弁では、「絶対」は「無限」であり外部が存在しない…神は「遍在」することになり、神は万物の中だと言えるし、万物は神の中とも言えます。つまり神は万物に宿ると同時に万物を包むという内在と超越の両方を意味します。これが『汎神論』(Pantheism)と呼ばれるスピノザの思想ですが、私見では『汎在神論』(Panentheism)とも関連すると思われます。そのスピノザの神は唯一の実体であり、人間は神の存在の仕方を表現する様態です。様態は個物としての本質を持っており、神の変状であり神の一部ともいわれますが、各々が神であるというわけではありません。スピノザの思想は本人自身は認めてはいないにもかかわらず一般的に「汎神論」だと云われますが、私見では、山川草木悉皆仏性といった仏教的意味のそれとは違うし、キリスト教系神秘主義とも全く違うようです。                                         「絶対的」と言うふうに、「絶対」の比喩的意味で表現される方が論理的には適切ですが、宗教においては客観的事実だけがすべてではなく、言わば心霊上の事実とか信仰の真実といった実存的な事柄があるので、キリスト教的には信仰告白の表現として「絶対的」という言葉で創造主なる神を賛美することはあり得るわけです。私自身は、信仰対象である神について「絶対」という言葉を用いますが、それは信仰告白の表現としてだけではなく、形而上学的思弁として、「絶対」で「無限」で「唯一の実体」である創造神が、啓示において自己相対化…自己対象化した姿が聖書に描かれ物語られている神だと信じているからです。歴史的現実に関わる神は相対性をかかえて全能を制限している有限神です。それが聖書の神エホバ(ヤハウェ)であり、教義的には父と子と聖霊の三位一体の神ということになります。これは絶対なる神が自己相対化することによって生じたもので、神本来の姿…実相ではありません。父とか子とか…、生まれるとか発出するとか…、そういうもの言いからして比喩なのです。                                               ところで、新約聖書学者の荒井献氏は次のように述べておられます。
「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ、イエスはこの神を、いかなる場合にも自己の振舞を正当化する手段として引き合いに出さなかったのである。従ってイエスは、自己絶対化の手段として機能してくる神の律法や神殿に対して、徹底的に拒否的行動をとらざるをえなかった。それは決して『神の権威』に基づく行動ではなく、---神によって相対化された---ただの人としての行動なのである。」(『イエスとその時代』岩波新書 p185)                                               私があることでバプ連所属の神学者である寺園喜基牧師に質問したことへの返答で言われていた表現として重要に思った言葉は、「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」というものでした。荒井献氏は上記のとおり『イエスとその時代』において、「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ」云々と語っておられます。寺園牧師が「神の存在・人格は機能論に解消されてしまう」と言われた文脈での対象は荒井氏の著書ではなく、まったく別の人の論文でしたが、上記の『イエスとその時代』における荒井氏の文言もまた、神論が機能論に解消されているとの批判に該当する面があると言えるでしょう。
小田垣雅也氏は上記の荒井氏の文言について次のようにコメントしておられます。
「荒井献教授によれば、聖書学的に言って、イエスにとって神はもろもろの存在者を相対化する視座であったとされる。その視座を喪った時、人間は自分の理念で宗教性を神として立てる。イエスにとって、神は人間のすべてを相対化すると共に、人間を根元的に支える存在の根拠であったと言う。そしてこのような神理解は、人格神としての神理解には盛り切れないように思われる。」(「哲学的神学と神」~山本和編『現代における神の問題』創文社 p163~164)
小田垣氏は、荒井氏にとってのイエスの神を「もろもろの存在者を相対化する視座」として解しておられますが、荒井氏は、イエスの神は「自己相対化の視座」だったと書いておられます。「もろもろの存在者を相対化する」ということと「自己相対化」ということ、この違いはけっして小さくはないでしょう。但し、自分としては両面が必要であると思います。自己を相対化するだけでは救いにはなりません。絶対神信仰は自己を相対化すると同時に社会的価値観を相対化するのです。従って富や名誉といった人間の普遍的価値に縛られて苦しんでいた自分が、内からも外からも相対化されて解放されるのです。学校や職場などの小さな社会の人間関係に囚われて、その中での自分への評価に一喜一憂し、自分の存在意義の有無や自分の全人生の意義が、その小さな社会での評価へ集約されているかの如き錯覚に陥って我を見失ってしまっている時に、そのように迷いの中にある自分をその人間関係もろともにまるっと相対化し放棄することによって本来の自分の実質を回復するのです。そのためには絶対神信仰を確立しなければなりません。そうでなければどんな思想を持っても、特に無神論的立場では、社会で猛威を振るうさまざまな偶像を相対化する機能を持ち得ないので理想論にとどまり、現実的で積極的な展開は難しいと思います。そもそも絶対神信仰を言わずに「自己相対化の視座」を強調するような思想は、しょせん余裕あるエリート知識人由来のものであると自分は思います。すくなくとも自己を相対化するなんて一般庶民にはなじまない感じがします。自由主義経済大国である日本のメディア的価値観に支配された社会の現実においては、自己は進化し実現されるべきものではあってもけっして相対化や否定されるべきものではありません。そのようなものは、すでに70年代に終了した若者たちの政治的なお祭り騒ぎで観念的に言われていた言葉の残滓に過ぎないのです。人間を超えた絶対神信仰においては、自己を相対化し人間社会の価値観を相対化するのは何のためか?…ということが明確にされていなければなりません。人間の相対化ないしは自己相対化はそれ自体が目的ではなく、むしろ人間個々の…自分自身のかけがえのない実存を尊重して平和で豊かな人生を共に歩んでゆくための道、幸せに生きるための手段なのです。この目的と手段を取り違えると宗教は宗教でなくなり、左翼イデオロギーに侵されるような、おかしなことになります。聖書の福音主義信仰は、歴史的に偶像化されている諸々の社会的価値を相対化し、穏健な仕方で改良してゆくことが目的です。荒井氏は次のように述べておられます。                                         「私にとって神は私自身を相対化する視座ですので、そういう意味で私の信仰の対象としての、イエスを媒介として信ずる神というのは、私にとって唯一絶対の存在でありまして、そういう意味では、いわゆる宗教多元主義は採りません。ただ、それは、あくまで私にとって絶対なのであって、あるいは私の立場を共有する共同体にとって絶対なのであって、客観的に絶対であるという意味ではありません。客観的に絶対であると言ったら、自分を、あるいは共同体を絶対化してしまいます。ですから私は、私の信ずるキリスト教は限りなく相対性の中にありますけれども、私自身の責任をもって、そのうちの一つを選び取ります。」(~特別講演会 2014年5月31日「キリスト教の再定義に向けて ー 新約聖書学の視点から ー 」)https://www.keisen.ac.jp/extension/pdf/pdf_christ_140705.pdf                                    相対主義はその主義も相対化しているなら主義にはならないといったアポリアに陥ります。絶対神信仰はそのような相対主義ではなく、形而上学的には創造神のみを唯一の実体とみなし絶対とみなして被造物はすべて相対化するわけですが、問題はその絶対なる「神」はいかにして認識されるのか?ということと、相対的存在である人間によって認識された「神」は絶対ではあり得ない…ということです。そこでキリスト教神学ではキリスト論と救済論が、神論と創造論よりも中心に位置することになるわけです。そして旧約のイスラエルの民は絶対神信仰を生きていましたが、それって拝一神教と云われるものであり、けっして自分たちの信仰を絶対化するものではないのです。しかしだからといって何でもアリの多神教的融和志向とは対極であり、自分たちの共同主観においては聖書が示す創造主を本来的に唯一絶対とする信仰的立場ですから、貫くべきところは貫くのです。この点は現代社会で応用すべきことであり重要ですが、ここではこれ以上はふれません。とにかく、この投稿に対してありふれた一神教批判に見られるようなことを投げてきても、そういった理屈はすでに乗り越えられているので無駄だということです。そこはいっさい妥協せず拝一神教なので頑なに貫き通すだけです。相対主義とカン違いちないように…。これは絶対主義か相対主義かといったアレかコレか100か0かの極端な思考で論じられるべき問題ではなく、むしろ中庸を心がけるべき問題です。                                                                                                                           さて、およそ人間にとって絶対的人格の存在を要請せずにはおれない理由は、人間社会の中に相対的な物事が絶対化され、そこから倫理的秩序を破壊する力が生じて猛威を振るうといった宿業があるからでせう。要するに権力志向です。所謂、ファシズム…独裁主義がその典型です。古来、相対の絶対化という歴史的・社会的現象の猛威に対して人間がなし得る最大の防衛が、人間を超えた絶対他者を信仰することだったのです。それなしには人間は堕落して本来的人格を維持できません。そして自我の外に立つ絶対他者を信仰するからこそ自分自身を相対化する(…自己否定に非ず!)ということができるわけです。それが上に引用した「イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであった」ということに通じると思います。人間の相対化は自己相対化を抜きにしてはあり得ないのです。その理想型がイエス・キリストの「謙卑」とか「自己無化」とも訳される「ケノーシス」であり、「己を空しうし」(ピリピ2:7)に由来するイエスの生き様です。これは自尊心を棄てるということではなく、人間に先天的に備わっている自尊心は保持しつつも、信仰によって承認欲求を制限して用いてゆくということでせう。日本では稀有の女性宗教哲学者として知られる花岡(別名:川村)永子先生の言葉も引用致します。                                       
「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。フィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/                                                   一般的にキリスト教の神は人格神であると云われ、全知全能であり絶対であると思われていますが、聖書には神を「絶対」であると書いた箇所は皆無です。自分が最も聖書を体系的に理解して信仰を告白していると直観している「ウェストミンスター信仰基準」でも神について「絶対」と訳される表現を用いているのは「信仰告白」の第2章「神について、また聖三位一体について」の1で、「最も絶対的で」だけであり、その参照聖句は出エジプト記3:14になっています。残念ながら、この箇所と「絶対的」とは直結しません。
旧約学者の並木浩一氏は次のように述べておられます。               「神と人間とは違います。一方は創造者、一方は被創造者です。人間を神格化することはできません。それにも拘わらず、神が神でありたもうことを語るということは、神が神でありたもうがゆえに人間、一人の人間が神によって大事にされていることを語ることになるのです。これが聖書の根本のメッセージです。」(~『旧約聖書の基本的感覚』)
これは当然のことであり全く問題ないのですが、私信においては神の絶対性について極めて否定的です。率直に次のように書いて下さいました。事後承諾で引用させて頂きます。
<「絶対」という言葉はヘブライズムには馴染まないと思います。私は旧約聖書には神の「絶対」を指示する言葉を見出すことができません。問題となるのは「神の唯一性」(例えば、イザヤ43:11)ですが、それは「人間の業と思いを完全に超えた」という意味であると説明できますね。人間が神に対して取るべき態度は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)です。神を絶対者と見なすなどということはどこにも記されていません。新約聖書でも事情は同じでしょう。「絶対」は抽象的な哲学概念だと私は理解しています。「絶対矛盾の自己同一」なんかその典型ですね。これ以上のことは、私には言えません。>                         上記の文言の中にもあるとおり、聖書では神を「唯一」であると述べているので、「絶対」はその「唯一」ということから敷衍してのことであろうと解し得るかのようにも思われますが、旧約聖書の申命記6章4節の「唯一」(エハード)の歴史的由来については、「唯一絶対」の「唯一」という意味ではない可能性が高いようです。「ヤハウェは唯一」というのは、神々の中でホンモノの神はヤハウェだけといった排他的意味ではなく、お釈迦さまの天上天下唯我独尊ではないけど、「あなたという人はこの世界にひとりだけ」といった意味のようです。
< 神一般がひとりしかいないということではなく、あくまで「ヤハウェという神」がただひとりだ、ということである。(中略)このことが初期の申命記運動で強調された背景として、二つのことが考えられる。一つは、それが祭儀集中と関連する可能性である。すでに述べたように、申命記運動の柱の一つは、各地の地方聖所を廃止して、エルサレム神殿にヤハウェ祭儀を限定するという祭儀集中であった(中略)初期申命記運動は、「ヤハウェがただひとり」であることを強調することにより、それに対応して聖所も唯一であるべきだ、と主張したものと思われる。すなわち、「我々の神ヤハウェ」は「エルサレムのヤハウェ」ただひとりだ、ということなのである。一部の研究者は、このような主張を「単一ヤハウェ主義(モノ・ヤハウィスム)」と呼ぶ。もう一つの可能性は、前八世紀の末にイスラエル北王国がアッシリアによって滅ぼされたこととの関連性である。(中略)今やユダ王国自体が唯一の「イスラエル」にならなければならなかった。その際に、ヤハウェという神の共通性が重要な役割を果たしたと考えられる。(中略)この二つのいずれの場合においても、「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、拝一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教的だからである >(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房p271~276)
元・農伝神学校校長で日基教団所属の旧約聖書学者の高柳富夫牧師も次のように端的に述べておられます。                                         「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教や自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」(~『農村伝道神学校学報』第165号に掲載の「神とは何か」)
このように、聖書には神が「絶対」であると(訳される言葉としては)書かれてはいないが、事柄としては「唯一」と訳される言葉(=「エハド / ヘイス」)があるのだから、よく「唯一絶対」と云うように、神が「唯一」だと言われていることは神が「絶対」であることの根拠としても使えるのでは…?と誰でも思いつくわけですが、神学的にはそう単純な話ではないのです。それなのに改革派神学校を出た牧師でさえがそんな安易な考えで聖書が神を絶対的存在として示していることの根拠だと言うなさけなさ。神学的にはむしろ、「絶対」は「哲学的な表現」としてネガティブにみられる傾向があります(一例として、矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』⦅新教出版社⦆p47参照)。                                                           日基教団所属の組織神学者であった野呂芳男牧師も、「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを峻別した上で、「神」は前者だと言っておられます(~「神学研究四十五年 ――最終講義」1991年1月17日 於. 立教大学チャぺル)。また、次のような文言もあります。「絶対的なものという言葉は哲学的概念であって、相対的なものという概念と対になる。もしも神を絶対であると言うならば、その神は一存在(a being)ではあり得ない。なぜなら一存在は、他の諸存在と並んで存在するに過ぎない一つの相対的存在であるからである。したがって神を絶対的なものとすると、どうしてもその神は存在者ではなく、ティリッヒの言うように、諸存在を存在させるような存在の力、あるいは、そこからすべての存在するものが出てきて、またそこへ帰って行くような存在の根底とならざるを得ない。私のようなプラトン的キリスト教の延長線上にある実存論的神学の立場から言うと、このような絶対としての神は無であり、不条理であるに過ぎないのである。」(~『民衆の神 キリスト 実存論的神学 完全版』ぷねうま舎 p335)
前述のとおり、無教会派の指導者であり、戦後は東大総長も務められた矢内原氏は本居宣長批判の文脈において、「神としての必要の特質の一つは絶対といふことである。」と述べておられます(前掲論文)。そして北森牧師は、古典的三一論において用いられた「神は母ではなく父であるとか、女性でなく男性であるとか、という相対的なかたちにおいてでなく、男性・女性、父・母という相対性を超越した絶対的なかたちで表現されるべきではなかろうか、という疑問も当然とりあげられるでありましょう。」と述べて、「この表現が適切であるからではなくて、まったくそれを言表せずに置いてはならないからである」というアウグスティヌスの言葉を引き、神に父とか子とかがあるというのは、それが適切だからそういう表現を用いるのではなく、そういう言葉ででも言わなければ沈黙するよりほかしかたがなくなるから止むをえずそういう表現を用いるのだ…とアウグスティヌスが言ったと伝えています(『神学入門』新教出版 p74~76)。しかし北森氏のように「神」が「痛」むなどといった擬人的表現を使用することからして、「神が絶対者である」という「公理」に反することではないのだろうか?…という疑問も生じます。私見では、聖書における神の絶対性は客観的ではなく、拝一神教における拝一的絶対性として、あくまで一つの共同体の中での絶対であるから、(共同)主観的絶対です。絶対神観は排他的宗教の特徴として批判されることを考慮するなら、拝一神教的観点からも神の「絶対」性は「相対的絶対」性(という表現が誤解を招くなら)あるいは「主観的絶対」性であるということになります(この場合の「主観」は単なる主観ではなく「共同主観」)。「相対的絶対性」ということはどこかで八木誠一氏も書いておられましたが、今は忘れているので、後で思い出したら編集で引用して書き込みたいと思います。とにかく、神の「絶対的絶対」性ないしは「客観的絶対」性は宗教間対立を生む独裁的神観として否定される時代です。                                            無教会派のクリスチャンであり(宗教)哲学者であられた量義治氏は次のように述べておられます。                                                      「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(~『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p236)                                        そもそも量氏の神観ってどんなんだろう…と思って見てみますと、引用が前後して恐縮ですが次のように書いてありました。                                        「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(前掲書 p108~109) 
私見では、「自我の内に吸収され解消される」といった神観は、たとえば遠藤周作氏の『沈黙』に示されているような…、特に次のような文言に感じとられます。                                              「私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。」(~『私にとって神とは』光文社)                                        後半の「目に見えぬものに背中に手を当てられて」云々は神観に他力的で他者性を感じられるので、自我の内に吸収されるとは感じられませんが、問題であるのは前半の「その人の中で、その人の人生を通して働く」という感覚です。『沈黙』の主人公・ロドリゴ神父の最後の言葉は、遠藤氏が「『おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない』と書いた」と述べておられますが正確には、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」というセリフです。「私の今日までの人生があの人について語っていた」という意味は、「神」(とイエスとの区別は判然としないが…)はロドリゴの人生を通して語っていたのであって「沈黙」してはいなかったということだと思われます。ロドリゴと神なりイエスとは人格的に区別されてはいますが、かなり神秘主義的な匂いが濃厚な神観だと感じられました。
また、小田垣雅也氏の哲学的神学にも、自我に吸収されているような神観を感じました。
「絶対他者なる神は、人間の立てた仮構である人間中心的主観―客観的認識構図の対象である神、人間の主観による認識の対象としての神ではなくて、つまり一つの存在者として人間に認識された神、さらに言えば、信仰の『対象』としての神ではなくて、その認識をも超えた、その意味で、人間の認識にとっては絶対無としての神になるほかはありません。それが絶対他者としての神でしょう。(中略)そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ』(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。また西谷博士こうも言っています。(絶対無理解に関して)『徹底した生成の世界がそのままで、一種の完結性を持ってくること、生成が生成そのものとして、一種の存在という意味を持ってくるというべき世界であると』(西谷啓治「虚無と頽廃」上田閑照編『宗教と非宗教の間』、岩波現代文庫、二〇〇一年、一一八頁)。ほぼ同じことを鈴木大拙禅師も、『存在は生成であり、生成は存在である』と言っています(T. Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions Book, 1968, p.111)。このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。」(~小田垣雅也氏のみずき教会での説教「復活について 」)                             事実上、「(絶対)他者」の実在を否定する小田垣氏の考え過ぎとも思われる思想については、次の野呂芳男氏の批判は的を射ていると思われます。
「 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は『無』である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんの『主観-客観図式』による思索への嫌悪は、『我-汝』の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる『主観-客観図式』による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの『主観-客観図式』による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に『主観-客観図式』の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は『主観-客観図式』の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。」(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)
また、前に引用した旧約聖書学者の高柳富夫牧師の以下の文言も広い意味では、「自我の内に吸収され解消される」思想ないしは「汝を失った神学」と言えるかも知れません。                                         「神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエスが神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」
ここからはまた、量義治氏の『宗教哲学入門』の内容に戻ります。量氏は「絶対者による救済」という項目のもとで、「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調おられます。そしてさらに、「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」と指摘しておられますが(前掲書 p292~293)、この点、量氏は神論においては西田幾多郎氏はもちろん西谷啓治氏やその影響を受けた小田垣雅也氏など「有」より「無」に偏向した立場を超えていると思います。但し神学的には、三位一体論を「絶対有即絶対無」と解してクリアーできるかどうかは疑問です(前掲書p231~235参照)。それはともかく、「宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは『神聖性』である、と。」(前掲書 p109)との言葉から、聖書において神の絶対性を現わしている箇所として、神聖なるホレブ山(=十戒授与のシナイ山の別名)でモーセに対する初の神の語りかけの場面を選びました。岩波書店版(木幡藤子、山我哲雄 訳)では、3章5節は「彼は言った。『ここに近づくな。足から皮草履を脱げ。あなたが立っているところは聖なる大地なのだから』。」となっています。「彼」は「神=ヤハウェ」です。旧約学の大家、関根正雄氏は『古代イスラエルの思想』(講談社学術文庫)の中で、「『出エジプト記』第三章の燃える茨の中に神が現れたというのは、自然物を介しての神の顕現でパナンテイスム的といってよいであろう。」云々と述べておられます(p86)。パナンテイスム(Panentheism)とは「汎在神論=万有在神論」であり、パンテイスム(Pantheism)すなわち「汎神論」と区別されます。カタカナで表記するなら「パナン」ではなく「パネン」とする方がよさそうです。関根氏の「汎在神論」理解は必ずしも正確とは思えませんが、「旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。」と述べておられます(p87 ※「越えて」は「超えて」と書く方がよさそう)。                                   ちなみに、御子息の関根清三氏は次のように述べておられます。
「我々が神と呼んでいるその絶対的なものが一体なにものなのか、それは我々には分かりません。分かりませんけれども、それが絶対的なものとしてあるということは、また他方気がついてみれば、はっきりしたことです。独断的な言い方しかできないことを私は恥じますけれども、しかし証言しておかなければならないことです。私自身、私を根底から生かしめている、その根拠としての絶対的なものを、あるとき経験し、そしてその同じ根拠によってあなたも、この人もあの人も生かされているということが見えました。この人は生かされていることに気がついている、あの人は気がついていない、そういったことまでよく見えました。我々の人生の様々な体験は相対的なもので夢幻かもしれません。しかし、このような絶対的な根拠によって生かされているという事実だけは、全く絶対的なことである。これは間違えようのないことである。何かそう思い込もうとして思っているのでもないし、そう信じたいから信じているのでもない。あるいは何か感覚がおかしくなってそういう幻を見ているのでもない。全く明晰判明にそのことが事実だということを体験したことがあります。もちろん体験は風化いたします。そのような体験も次第に薄れて行き、そしてまた新しく体験するということが、あるいはまた起こるかもしれません。しかしいずれにせよ、そのことは事実として体験されるのだということを、私は申しておきたいのです。恐らく旧約聖書の創造物語なども、こうしたリアリティをどうにかしてあの時代なりの言葉で描き取ろうとした、そういう試行錯誤の産物だろうと私は理解しています。(中略)ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。」(『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書〕p77~80)                                          そして、この本の中で、「有的な神をもう少し無的に解したらどうだろうか」と述べておられますが(p133)、御父上の関根正雄氏は次のように述べておられます。                     < 我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(~『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p133~134)                                             このような存在根拠としての絶対性として「神」のリアリティを求め感じる人は少なくないでせう。自分はそういう存在論的意味よりも認識論的意味で…あらゆる物事を相対化し得る視座として求めるのです。それが社会生活…特に対人関係でのメンタルヘルスに実効性があるからです。                                            哲学の生涯学習に大きな貢献をなさった渡邊二郎氏は、「日本に西洋哲学が受け容れられ、またキリスト教が広まってゆくに従って、次第に、絶対者としての神の存在という観念が、人々の間に浸透し、人々に信仰心を呼び起こ」したと述べておられますが(『現代人のための哲学』放送大学教育振興会 p240 )、「絶対者としての神の存在という観念」を受容し得たその「人々」というのは富裕層のクリスチャンなど一部の知識人に限られていたのではないかと私には思われます。そもそも19世紀前半の「神天聖書」および後半の「ブリッジマン・カルバートソン版」および明治元訳をはじめとして、翻訳聖書が Godを「神」と訳してきたことについては大いに問題があることは確かであり、「神」は人名にもあるので、自分としては使用に当って「創造神」とか「絶対神」というふうに、そういった「神」ないしは神社神道の「神」などと混同されないような工夫が必要だと心がけてはいますが、昨今のメディアにおいて人間に関して「神」という語が実に軽薄な使われ方をするのを見聞きするたびにますますその思いを強くします。                                    いずれにしても渡邊氏は終わりの方で、「私たち人間のうちには、現実を見る冷徹な眼差しと同時に、大いなる生命の源泉、正義と幸福の主、永遠の平安と救済を司どる絶対者への希求が、熱い情意の坩堝のなかで沸騰している。」と語り(前掲書 p257)、最後は、「私たちは、自己のさまざまな存在経験を通じて、最後には、絶対者と向き合いながら、みずからの人生の幕を閉じねばならない。私たちの自己は、その究極において、神の影と接して成り立っていると言わねばならないであろう。」と結んでおられます。

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