霹天の弓 ー1章ー【第1話】 修正 version 8

2019/04/28 12:37 by someone
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霹天の弓 ー1章ー【第1話】 修正
その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている両親を起こさぬように…目指す先は、この少女たちの家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。そうして風に吹かれながら、一人で静かに味わうその秘密の時間は、他の誰も知らない自分だけの一時なのだ。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が、家族に聞こえるだろうかと心羽の心中をざわつかせたが、何事もない様子を確認し、彼女は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の天窓を開けた。

そこには星々がその輝きを放ち、数万光年と離れているであろう、この「ルクスカーデン」と呼ばれる地に、その光を届けていた。星々の輝きを見つめる中、心羽はひときわ美しく光を放つ七色の星を一つ見つける。その星は虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うようにその色彩を発しながらそこにあった。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。なぜこの光がここにあるのか…不思議さはあっても恐怖はなかった。何より、その温みある光に魅せられた心羽は、七色の星に手を伸ばす。届くはずのない手は虚空を掴むが、それでも瞬間、その輝きを手にしたように感じた彼女は思う。“この光をすべての人に見せたい“と。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。

次の瞬間、そこから大きな鳥が羽ばたいた。紅の羽毛は、その身体全体を覆い、星と同じ七色がその翼に宿ったかのように光沢を放つ。胸の部位にも星を思わせる宝石の首飾りがかかり、頭の部位には、まだ何物にも染まっていない少女の清らかさを思わせる、純白の羽飾りが付いていた。鳥は七色の翼をたなびかせて、ルクスカーデン中を飛び回る。その胸の光を世界に示すように、その温みが、人々の心に安らぎと慈しみを与えますようにと———
七色の光を翼と胸に宿した鳥は、飛んでいる間、無意識ながら感じ取った。今の自分は、心はそのままに、先ほどまでその身にあった人としての有限性を超越して、時間とこの世の果て———その真実を見つけることさえできる。そんな思いと、力に満ち満ちていた。その力の限り飛びたい。その果てまでこの心の羽を届かせてみたい。鳥は全力で飛んだ。

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やがて訪れる朝日の上る時間。心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識はまだ少し微睡んでいるが、朝日の光が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射し、心羽の顔を照らす。その赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。ああ、目が覚めちゃった。素敵な夢だったのにな…心羽は眉根を寄せて朝日を少しだけ睨んだ。そうして横たえていた身体を起こそうとすると、右手に何かを持っていることに気が付いた。見るとその手の中に七色のペンダントがあった。虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うような色彩のそれは、心羽を驚愕させ、その意識を完全に覚醒させる。どういうこと!?あれは夢だったんじゃ…自分のその行為が月並みなものと思いながらも、心羽は自分の頬を空いている左手でつねった。どうやら今、心羽のいるそこは夢ではないらしい。じゃあなんでこれが…昨夜の夢の高揚を想起し、心羽の胸が高鳴る。それと同時に、このルクスカーデンの各市街に建てられた時計塔が、その鐘の音を響かせた。察するに一日の始まりを告げる「一の鐘」だろう。一日のうち九回鳴るこの鐘は、住民の生活に時を知らせ、その活動の基点となっている。その音が響いてすぐに、下の階から誰かが階段で上がってくる足音が聞こえた。母親の詩乃(しの)だ。心羽は不意にペンダントを自身の懐に隠し、部屋にやってくる詩乃を迎えた。
「心羽、朝ご飯出来たよ」
愛娘を呼ぶ優しい声が部屋に届く。
「うん、着替えてすぐ行くね」
心羽の口からは咄嗟にそんな言葉が出た。

夜着を着替えて一階にあるリビングに向かった心羽を待っていたのは、テーブルに置かれた朝食と、それを作った母。心羽と詩乃は互いに「おはよう」のあいさつを交わしながら、それぞれ椅子に腰かける。朝食は食パン一枚にウインナー二本、千切りのキャベツにスクランブルエッグである。詩乃が千切りキャベツをフォークで口に運びながら言った。
 「心羽は今日、アレグロ?」
「うん」心羽が千切った咀嚼した食パンを飲み込んで言う。
「それで今日楽しそうなんだ」
そう言ってにやついてみせる母に「それだけじゃないけどね」と笑んで返す心羽。
 「なに?何かいいことあったの?」
嬉しさを共有したいと詩乃は心羽に聞く。「内緒」とだけ心羽は答えた。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、落ち着いて話ができる自信がない。しかし、この不思議で心躍る夢は、落ち着いたら誰かと共有したい思いもあった。
「心羽は秘密が多いよね、お母さん寂しい」詩乃は愛娘の少し高揚した様子に、少しすねた演出と冗談を滲ませてそう言って、続ける。
 「でもいいことなんだったら大丈夫。あなたにはもう少し素敵なことがあっていいんだから」
こうした詩乃との他愛のない会話の中に、娘への心配りを心羽は見て取った。この〝大丈夫〟という言葉は、心羽と苦難も喜びも共有してきた詩乃が、その時々の娘の思いを汲みながらも、娘を信じる母としての覚悟と矜持を以て繰り出す、必殺の台詞であった。実際、心羽の中にスッと入ってくるこの無敵のまじないは、彼女が自身の困難を乗り越える糧として響いている。
「ありがと、お母さんの方はどう?今日手伝いとかいる?」
 「う~ん…こっちは今日、そんなに忙しくはないから。心羽は自分の今日をしっかりやってきなさい」
 「うん…ごめんね、気を遣わせて。お父さんにも…」
 進路も決めないまま学校を卒業してしまった心羽が、現在所属しているのは、7歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団のみという現状を、父の明(あきら)は心配していた。ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーである明は、仕事に忙殺されて家族との時間こそ取れなかったが、心羽を愛している意味でも、自分の娘であるという意味でも「自慢の娘」として信頼を置いているのだ。心羽もそれはわかる一方、父から過剰に期待されている気がして、後ろめたさや不安めいた感情が内在している。詩乃はそんな娘の思いを理解してか、敢えて心羽の言葉を否定した。
「何言ってるの、お父さんはお父さん、心羽は心羽。一歩ずつでも頑張ってるのは、あなたでしょ?」
 「…うん、ありがと」
 心羽は俯いていた顔をあげ、詩乃と目を合わせた。そうして互いに笑顔で応える。その母の言葉を素直に捉えたい。そして父や母、何より自分のために、自分の今日を良くしたいと心羽は思った。

朝食の後、それぞれ身支度を終えて、詩乃は朝食の後片づけを始める。心羽は白いブラウスとベージュのミニスカートに、黒いタイツとショートブーツの姿。トランペットをケースに入れ、アレグロ楽団の次の講演に向けた練習を行うため、自宅のあるルクスカーデン二番街から、楽団の集会所のある三番街へ向かった。その胸には、先のペンダントを着けて。
春を迎えた街は、道端の木々は生い茂り、その葉は日に照らされ深緑に色づいている。人々はのんびりと毎日の暮らしを営みながらも、それぞれが日々の仕事に精を出す。古代都市の神秘性をそのままに、森と川と、古い城と街が調和したこの風景を作りだしている土木・建設。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品まで生み出している職人。治安維持・法体系から生活福祉といった、人々のニーズに応答した民主的な社会体系は、明のような役所の役人や、公から委託された民間団体が担う。他にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる人が自身の職に対する誇りや矜持、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交う。
そんな光景———街並みの中を、心羽は歩きながら目を細め、見つめる。特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。自分が彼らから取り残されているような思いが彼女の中にはあった。自分はこの景色の中に、真に属してはいない———そんな言いようのない感情から気持ちを切り替えたころには、彼女の歩みは二番街と三番街の境に差し掛かっていた。

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ルクスカーデン三番街のとある一角、大通りから、東に二百メートルほど進んだところにアレグロ楽団の集会所はあった。石造りで出来たその大きな建物は、その土台を地面から少し高くして建造されており、その構造は気品ある佇まいを演出している。そこから演奏の練習をする種々の楽器の旋律が響く。心羽はその響きあう音の中でトランペットを吹いていた。
 「うん、それぞれのパートも良くなってる。それと、中盤にもう少し、荘厳さを表現したいんだ。」
 一しきり演奏を終えた後、黒く丈の長いニットコートを着流した指揮者が言った。楽団の長である広夢(ひろむ)である。その言葉に「はい」と楽団員たちが返事をする。
「だから、中盤からは音を大きく盛り上げて演出できればと思います。みんなの音は凄くいいから、僕の指揮の課題でもある」
広夢も自らの課題を認め、言葉を発する。この口下手な楽団長は、話し方こそつぶやくようなそれであったが、その言葉の端々から、そこはかとなく誠実さが垣間見える。そんな団長の姿勢を、楽団員たちは慕っていた。心羽もその一人である。
 「焦らないで行きましょうよ、ヒロさん」
楽団員の一人が言った。「そうだよ」数人がそれに続く。それに少し笑んで広夢も応える。
 「そうだね、僕らの音は一つずつ練習してできるものだし」
  心羽はこうした一人ひとりの姿勢が、音楽を楽しみつつもより良いものを目指すアレグロを形成している大きな魅力と感じていた。そんな思いを想起した故か、そんな自分と同様に、広夢に憧憬の眼差しを向ける同年代の少女のいる左斜め前を、心羽はふと目で追う。やがてその視線に気づいた様子の少女———遥香(はるか)はその手に持つアルトサックスを少し傾けて、トランペットの心羽の方に振り返る。そんな二人の目が合い、互いに少しはにかんだ、柔和な笑みを浮かべた。
「じゃあ、もう一回いこうか」
広夢のその声を受けて、楽団員全員が各々の楽器を構え直す。心羽と遥香も慌てて広夢のいる正面に向き直した。この楽団には、一人ひとりの懸命さと柔軟さがある。それが他の団員と相互作用し、メリハリとなって機能している。心羽と遥香の二人は、そんなアレグロの雰囲気が好きだった。

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演奏の練習が一段落ついたところで、楽団員はそれぞれ休憩をとっている———心羽はそのタイミングで、集会所近くの喫茶店「カフェ・すてら」の隅の席で、遥香と共にコーヒーを飲んでいた。天井の丸いペンダントライトが、屋内の少し陰った雰囲気に映え、木造の机や椅子の与える印象はレトロでありながらどこか味わいを演出している。二人はシロップで甘くし、その上にクリームを乗せたコーヒーを啜る。甘さと暖かさと香しさが鼻腔と口を潤す中、自分たちの演奏を振り返るとともに、「広夢さん、素敵だよね。頑張ってる」だとか「最近どうしてる?」などと他愛のない話をする。それが彼女たちの日常における楽しみの一つだった。
「最近さ…どうしよっかなって思うことがあって」
その話題は心羽がふと言ったそんな一言から始まった。
「ん~、なになに?」
遥香は少し間の抜けた返事をしながらも、首を傾けその言葉と心羽に関心を向ける。
「うちのお父さん政治家だから、後継ぎとかなくてさ…みんな働いてる歳なのに、あたしだけすることないなぁって」
心羽はクリームが残りわずかになったコーヒーをスプーンでかき混ぜながら少しだけ目を伏せて話す。
「そっか…こっちゃんは跡継がないの?」
そんな遥香の素朴な問いに心羽は少し驚いて、「えっ」と口から言葉が付いて出た。
「政治家」
「う~ん、そんなにやろうと思わないかな…話が大きすぎするし」
ルクスカーデンの若者たちは、学校を卒業後、家業を継ぐことが多い。だが心羽としては、流石に父の跡を担うには、政治家は大きすぎる仕事だという印象だった。もちろんすぐに継げるわけがないことは理解していたが…何より自由がないという思いが心羽の中で強かった。それがわかる一方、最適解が見いだせない遥香は、「あ~」と感嘆の語を発したが、少し間が空く。それを埋めるように遥香はコーヒーを一口啜ると、やがて口を開いた。
「う~ん、そんなにやろうと思わないかな…話が大きすぎするし、自由なさそうだし」
ルクスカーデンの若者たちは、学校を卒業後、家業を継ぐことが多い。だが心羽としては、流石に父の跡を担うには、政治家は大きすぎる仕事だという印象だった。もちろんすぐに継げるわけがないことは理解していたが…何より自由がないという思いが心羽の中で強かった。長く彼女と話してきた経験からそれがわかる一方、最適解が見いだせない遥香は、「あ~」と感嘆の語を発したが、少し間が空く。それを埋めるように遥香はコーヒーを一口啜ると、やがて口を開いた。
「…アレグロは?」
「ん?」
「続けるよね?」
そう問うとともに、遥香は少しだけ身を乗り出して心羽の顔を覗く。
「もちろんそれは続けるよ!」
「なら、いいじゃん。人生楽しむのって大事だよ」
遥香の言葉は、それはいい意味であっさりした考えだと心羽には捉えられた。自分もそれは大事にしたいからだ。ただ、同時に一つ聞きたいことが出てくる。
「…はるちゃんは楽しんでる?教会のお仕事」
その言葉を受けて、遥香も考えながら、彼女なりの見解を述べる。敢えて精一杯ではないと、軽口を演出して。
「まあ、あー楽しい!ってだけでもないけどさ」
遥香はそのミディアムストレート、パステルブルーの髪を耳元で掻き上げて応える。彼女も少しだけ目を伏せて。
「そうなんだ…」
ただ、楽していけるって思うんだ。仕事はその手段少し淡々とし様子を醸し出しな遥香コーヒー飲み終える。そうして「あ、神様へのリスペクトはあね」と付け加そうて少し二人で笑た。
「そっか…」
遥香のそんな言葉も、答えの一つと感じる心羽。ただ、どこか彼女ように割り切れない自分もいた。か、「働く以上は」と意義を求める自分がいる。遥香は心羽のその様子を察しつつ、次の言葉を探す。やがて強引な切り出し方ではあるが、話のきっかけを…見つけた。
神様へのリスペクトもそこまでない…親が教会してるからで自分がシスターなんて、していのかって思うしね」
「はるちゃも、悩ましいね心羽は顔をあげて遥香を見やったが、彼女気丈に言葉続ける。
でもいいこともるよ教会に来人たちにもよくしてもってるし…そんなに、簡単には言ないかもあたのことも、こちゃんのことも」
遥香のそんな言葉も、答えの一つと感じる心羽。ただ、どこか彼女ように達観して考えられない自分もいた。どこ自身が無い一方でそれだけ生業に意義を求める自分がいる。遥香は心羽のその様子を察しつつ、次の言葉を探す。やがて強引な切り出し方ではあるが、話のきっかけを…見つけた。
 「こっちゃん、そのペンダント、綺麗」
遥香は心羽が胸にかけたペンダントの煌めきに、その薄紫の瞳を輝かせ、微笑みながら言った。「ありがとう」心羽も笑みとお礼を返す。そして自分を機にしてくれる遥香の思いを感じると同時にハッとした。今朝の夢の話を、共有したいと思える人がここにいる———
「今朝ね…」
胸の高揚感が思い出したようにまたやってくる。
「素敵な夢を見てさ。その中で私、鳥になってた」
 心羽がそれだけ言って、これからする話を整理する。その一瞬、間が空くも、彼女の思いを理解した遥香が、長いパステルブルーの髪を揺らして応える。
「…そいえば、前に言ってたよね。〝鳥になって飛びたい“って」
その言葉に心羽は、夢の内容について続ける。
 「うん、虹みたいに綺麗な星が光ってて、それを掴んだら、鳥になってたんだ。このペンダント、その星のみたいな色してて…」
そこまで話して心羽は一瞬口ごもる。
 「こっちゃん?」
 「気に入って、今朝買っちゃった」

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こうしてそれぞれ思い思いに過ごす時間は、唐突に破られる。心羽たちの場合は、集会所近くにある三番街の時計台から、ゴンゴンとけたたましい音で警鐘が鳴らされたのが、その始まりだった。
 「この鐘って…」「何かあった?」「地震じゃないみたいだし…火事?」その物々しい気配に、心羽と遥香はそれぞれ状況予測を口にして、店内の窓から外を見る。そこには声を挙げて逃げ惑う人々がいた。「すてら」店内の客も同様にその光景を見て事態の異様さを感じとる。年配の店主が店の玄関を開き、「何があったんだい」と逃げ行く人の一人に問うたのと同時に「化け物だ!化け物が人を襲ってる!早く逃げろ!」と叫ぶ声が店内に響いた。
その声に「なんだよ、おい…」「逃げた方がいい」「早く行こう」客たちもとにかく店から出ようと玄関に押しかけ、店を出ていく。そんな事態の混乱に心羽は心身が固まったようになってしまう。言いようのない不安と焦燥に神経が尖る感覚、それに伴う動悸。自身でも恐怖を抱いていることがわかる。恐ろしい何かが、来る———
「こっちゃん…こっちゃん!」
遥香の呼びかけにようやく我に返る心羽。
「あ…ごめん、はるちゃん」
「早く行って、集会所のみんなにも知らせよう」
心羽はようやく返事するも、遥香は矢継ぎ早に言った。
 「お客さん、早く行って!私が店を離れられん!」
責任感と焦燥感を滲ませた店主の言葉が響くと、「ごめんなさい」と「ありがとう」をそれぞれ店主に告げて二人は「すてら」を飛び出した。
方々に散って逃げる人の動きに、どう逃げるべきかの判断が難しい。その混乱に表情を歪ませた遥香が、駆け出しながら言った。
 「どっちに逃げる!?とりあえず集会所!?」
 「うん、みんなが逃げてる方向的に、集会所の方は大丈夫だと思う…」
心羽がようやく動いた頭で必死に目の前の状況を分析して返す。
 「わかった、行こう」
二人はパニックの中を懸命に走る。しかし姿も見ていない、状況も理解しきれないにも係らず、こうして逃げ回るのに、心羽はどこか戸惑いを抱く。駆ける足は止められぬ一方で、そう思って彼女はほんの一瞬、後ろを振り返る。そうして見た光景は、緊迫感故におぼろげではあったものの、確かに彼女の目に焼き付く。襲われた人が倒れ伏す様と、その向こうに浮かぶ——異形の怪物の姿。瞬間、抱いた感情は嫌悪感と恐怖。その思いに心羽の身はすくみ、瞳が震える。そうして倒れ行く人々を背に逃げることしかできぬ状況に、何よりも強く思ったのは———
〝あの人たちに、手を伸ばせない〟
そんな無力感と悔恨だった。

———————————————————————————

全速力で走る二人だったが、怪物はこちらを視認してからは動きが速くなり、どんどん近づいてきている。どうしてこっちに…そんな思いを抱きつつも、その脚を止めるわけにはいかず、もはや話す余裕もないまま走り続ける。息が苦しい、でもこんな距離じゃあ隠れても引きずり出されるだけだ。
 集会所にたどり着いたのは、それから1分後のことだったが、二人には何時間にも感じられた。集会所の前には広夢たち数人の楽団員が既に逃げようと身構えているのが見えた。そこでとうとう疲弊した脚がもつれた遥香が転倒してしまう。
 「はるちゃん!」
心羽が声を上げて遥香に身を寄せる。心羽も遥香も、心身とも限界を迎えていた。二人は迫りくる怪物に弾かれたように視線を向ける。この世に悪魔がいるとするならこんな風貌なのだろう。大きく開かれた口や眼光は、獲物を狙う獅子をどこか思わせる。体躯は2メートル近くあろうか、その全身は突起のような皮膚に覆われている。そして鋭い爪や尾は恐竜に近いものを想起させた。
 「羽の使者よ、そのカルナをよこせ」
 「えっ」
怪物の言い放ったその言葉に、驚愕と恐怖が心羽の身を疾走する。
このまま二人ともやられる———その場にいた誰もがそう思ったその時「やめろぉっ!」と大声を上げながら広夢が怪物に突進する。
しかし、怪物はそれを意に介さず、微動だにしないまま言い放った。
 「こんなものか」
 「喋った、うわあっ!」
 怪物が話したその言葉に驚愕する間もなく、広夢はその爪で薙ぎ払われてしまう。
 「広夢さんっ!」
 「…早く行くんだっ!」その身を案じる遥香の声に、広夢が強い叫びで返す。その右肩は負傷し、血が流れていた。
 「…邪魔だ」
どす黒い声を響かせ、怪物は右腕を大きく振りかざす。そこにいた楽団員数名も、広夢も、遥香も、そして心羽も、ここまでかと思われた。必死でこらえていた恐ろしさに、手の届かない悔恨に心羽はついに悲鳴を上げる。それに呼応するように彼女のペンダントが———その眩い七色の星が、抵抗の意思を光として強く放った。

———————————————————————————

 瞬間、周囲の動きが止まった。いや、周囲どころか自分の体も動いていない。意識はある…つもりだ。だが自分も周りも動かない。時間が止まったように心羽には感じられた。
〝…なに、これ?私、死んじゃった…?〟
〝ううん、死んでないよ〟
〝…誰?〟
心羽は不意に聞こえたその声に驚き、問う。
〝私は、あなたに夢の続きを見せる者。あなたは、夢を叶える力を持った者〟
〝…どうゆうこと?この怪物と関係あるの?夢を叶えるって...!?〟
言いながら心羽はこの理不尽かつ不可解な状況に困惑する。
 〝落ち着いて聞いて。あれは、人の心の影に潜む魔物———〝影魔〟。あいつはあなたのような強いカルナを持つ者を狙ってここに来た。〟
 〝…影魔にカルナって何!?どうして私なの!?なんでこんな…〟
眼前に迫る戦慄した光景、緊迫した状況に、心羽の困惑は止まらない。
〝...少し深呼吸しようか。肩の力を抜いて...〟
その〝声〟はこの戦慄に似合わないくらいに妙な落ち着きを孕んでいた。心羽は、ある種呆気に取られてしまう。
〝…あまりこうして時間は止められない…生きた屍になりたくないでしょう?〟
ここで平静を失ったところで、碌なことにならないようだ。そう告げられた今、その上で取れる選択肢は———少し平静を取り戻す。張り詰めた緊迫感から落ち着きを取り戻すよう、勤めて深呼吸をしてみる。スー、ハー...
〝あなた素直だね…少しホッとした〟
〝声〟にはそう言われたものの、そうしないとどうしようもない状況。心羽は〝...それで、私はどうしたらいい?〟と問いただす。
今にも攻撃される寸前、身を押しつぶすほどの恐怖心は確かにある。ただ、「夢の続き」と確かに言った、この〝声〟の真意がどこにあるのか———状況はまだ飲み込めないけれど、これがあの夢の続きだとしたら...あの輝きを、もう一度味わえるのなら...心羽の胸の高鳴りが、恐怖心に打ち勝った。
〝...もうすぐ時間が動きだす。あなたがどうしたいのか、その思いのままにペンダントに触れて、カルナを解放して。それはあなた自身に宿った力〟

〝私は...〟
〝私は、この状況から広夢さんを、はるちゃんを救いたい。影魔から、アレグロのみんなを守りたい〟

あの星の、七色の光が心羽を包み込む。
そうして時が動き出すと、光の中から薄紅の羽衣を纏った炎の天女——羽の使者が、その姿を現した———

———————————————————————————
      

その明け方は雲一つなかった。まだ人々が眠りの中にあるその時間、少女は自身の部屋からそっと抜け出した。同じ屋根の下で寝ている両親を起こさぬように…目指す先は、この少女たちの家の屋上で、少女———心羽(ここは)は眠れぬ夜、いつも屋上から夜空の星を眺めて過ごす。そうして風に吹かれながら、一人で静かに味わうその秘密の時間は、他の誰も知らない自分だけの一時なのだ。彼女は二階にある自分の部屋の傍に位置する、その梯子から屋根裏部屋へ上がる。木製の梯子がギシギシと響く音や、屋根裏部屋の戸の開く音が、家族に聞こえるだろうかと心羽の心中をざわつかせたが、何事もない様子を確認し、彼女は屋根裏部屋のさらに上にある、屋上の天窓を開けた。

そこには星々がその輝きを放ち、数万光年と離れているであろう、この「ルクスカーデン」と呼ばれる地に、その光を届けていた。星々の輝きを見つめる中、心羽はひときわ美しく光を放つ七色の星を一つ見つける。その星は虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うようにその色彩を発しながらそこにあった。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。なぜこの光がここにあるのか…不思議さはあっても恐怖はなかった。何より、その温みある光に魅せられた心羽は、七色の星に手を伸ばす。届くはずのない手は虚空を掴むが、それでも瞬間、その輝きを手にしたように感じた彼女は思う。“この光をすべての人に見せたい“と。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。

次の瞬間、そこから大きな鳥が羽ばたいた。紅の羽毛は、その身体全体を覆い、星と同じ七色がその翼に宿ったかのように光沢を放つ。胸の部位にも星を思わせる宝石の首飾りがかかり、頭の部位には、まだ何物にも染まっていない少女の清らかさを思わせる、純白の羽飾りが付いていた。鳥は七色の翼をたなびかせて、ルクスカーデン中を飛び回る。その胸の光を世界に示すように、その温みが、人々の心に安らぎと慈しみを与えますようにと———
七色の光を翼と胸に宿した鳥は、飛んでいる間、無意識ながら感じ取った。今の自分は、心はそのままに、先ほどまでその身にあった人としての有限性を超越して、時間とこの世の果て———その真実を見つけることさえできる。そんな思いと、力に満ち満ちていた。その力の限り飛びたい。その果てまでこの心の羽を届かせてみたい。鳥は全力で飛んだ。

———————————————————————————

やがて訪れる朝日の上る時間。心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識はまだ少し微睡んでいるが、朝日の光が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射し、心羽の顔を照らす。その赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。ああ、目が覚めちゃった。素敵な夢だったのにな…心羽は眉根を寄せて朝日を少しだけ睨んだ。そうして横たえていた身体を起こそうとすると、右手に何かを持っていることに気が付いた。見るとその手の中に七色のペンダントがあった。虹のようにグラデーションを描き、かつ水が揺蕩うような色彩のそれは、心羽を驚愕させ、その意識を完全に覚醒させる。どういうこと!?あれは夢だったんじゃ…自分のその行為が月並みなものと思いながらも、心羽は自分の頬を空いている左手でつねった。どうやら今、心羽のいるそこは夢ではないらしい。じゃあなんでこれが…昨夜の夢の高揚を想起し、心羽の胸が高鳴る。それと同時に、このルクスカーデンの各市街に建てられた時計塔が、その鐘の音を響かせた。察するに一日の始まりを告げる「一の鐘」だろう。一日のうち九回鳴るこの鐘は、住民の生活に時を知らせ、その活動の基点となっている。その音が響いてすぐに、下の階から誰かが階段で上がってくる足音が聞こえた。母親の詩乃(しの)だ。心羽は不意にペンダントを自身の懐に隠し、部屋にやってくる詩乃を迎えた。
「心羽、朝ご飯出来たよ」
愛娘を呼ぶ優しい声が部屋に届く。
「うん、着替えてすぐ行くね」
心羽の口からは咄嗟にそんな言葉が出た。

夜着を着替えて一階にあるリビングに向かった心羽を待っていたのは、テーブルに置かれた朝食と、それを作った母。心羽と詩乃は互いに「おはよう」のあいさつを交わしながら、それぞれ椅子に腰かける。朝食は食パン一枚にウインナー二本、千切りのキャベツにスクランブルエッグである。詩乃が千切りキャベツをフォークで口に運びながら言った。
「心羽は今日、アレグロ?」
「うん」心羽が千切った咀嚼した食パンを飲み込んで言う。
「それで今日楽しそうなんだ」
そう言ってにやついてみせる母に「それだけじゃないけどね」と笑んで返す心羽。
「なに?何かいいことあったの?」
嬉しさを共有したいと詩乃は心羽に聞く。「内緒」とだけ心羽は答えた。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、落ち着いて話ができる自信がない。しかし、この不思議で心躍る夢は、落ち着いたら誰かと共有したい思いもあった。
「心羽は秘密が多いよね、お母さん寂しい」詩乃は愛娘の少し高揚した様子に、少しすねた演出と冗談を滲ませてそう言って、続ける。
「でもいいことなんだったら大丈夫。あなたにはもう少し素敵なことがあっていいんだから」
こうした詩乃との他愛のない会話の中に、娘への心配りを心羽は見て取った。この〝大丈夫〟という言葉は、心羽と苦難も喜びも共有してきた詩乃が、その時々の娘の思いを汲みながらも、娘を信じる母としての覚悟と矜持を以て繰り出す、必殺の台詞であった。実際、心羽の中にスッと入ってくるこの無敵のまじないは、彼女が自身の困難を乗り越える糧として響いている。
「ありがと、お母さんの方はどう?今日手伝いとかいる?」
「う~ん…こっちは今日、そんなに忙しくはないから。心羽は自分の今日をしっかりやってきなさい」
「うん…ごめんね、気を遣わせて。お父さんにも…」
進路も決めないまま学校を卒業してしまった心羽が、現在所属しているのは、7歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団のみという現状を、父の明(あきら)は心配していた。ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーである明は、仕事に忙殺されて家族との時間こそ取れなかったが、心羽を愛している意味でも、自分の娘であるという意味でも「自慢の娘」として信頼を置いているのだ。心羽もそれはわかる一方、父から過剰に期待されている気がして、後ろめたさや不安めいた感情が内在している。詩乃はそんな娘の思いを理解してか、敢えて心羽の言葉を否定した。
「何言ってるの、お父さんはお父さん、心羽は心羽。一歩ずつでも頑張ってるのは、あなたでしょ?」
「…うん、ありがと」
心羽は俯いていた顔をあげ、詩乃と目を合わせた。そうして互いに笑顔で応える。その母の言葉を素直に捉えたい。そして父や母、何より自分のために、自分の今日を良くしたいと心羽は思った。

朝食の後、それぞれ身支度を終えて、詩乃は朝食の後片づけを始める。心羽は白いブラウスとベージュのミニスカートに、黒いタイツとショートブーツの姿。トランペットをケースに入れ、アレグロ楽団の次の講演に向けた練習を行うため、自宅のあるルクスカーデン二番街から、楽団の集会所のある三番街へ向かった。その胸には、先のペンダントを着けて。
春を迎えた街は、道端の木々は生い茂り、その葉は日に照らされ深緑に色づいている。人々はのんびりと毎日の暮らしを営みながらも、それぞれが日々の仕事に精を出す。古代都市の神秘性をそのままに、森と川と、古い城と街が調和したこの風景を作りだしている土木・建設。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品まで生み出している職人。治安維持・法体系から生活福祉といった、人々のニーズに応答した民主的な社会体系は、明のような役所の役人や、公から委託された民間団体が担う。他にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる人が自身の職に対する誇りや矜持、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交う。
そんな光景———街並みの中を、心羽は歩きながら目を細め、見つめる。特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。自分が彼らから取り残されているような思いが彼女の中にはあった。自分はこの景色の中に、真に属してはいない———そんな言いようのない感情から気持ちを切り替えたころには、彼女の歩みは二番街と三番街の境に差し掛かっていた。

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ルクスカーデン三番街のとある一角、大通りから、東に二百メートルほど進んだところにアレグロ楽団の集会所はあった。石造りで出来たその大きな建物は、その土台を地面から少し高くして建造されており、その構造は気品ある佇まいを演出している。そこから演奏の練習をする種々の楽器の旋律が響く。心羽はその響きあう音の中でトランペットを吹いていた。
「うん、それぞれのパートも良くなってる。それと、中盤にもう少し、荘厳さを表現したいんだ。」
一しきり演奏を終えた後、黒く丈の長いニットコートを着流した指揮者が言った。楽団の長である広夢(ひろむ)である。その言葉に「はい」と楽団員たちが返事をする。
「だから、中盤からは音を大きく盛り上げて演出できればと思います。みんなの音は凄くいいから、僕の指揮の課題でもある」
広夢も自らの課題を認め、言葉を発する。この口下手な楽団長は、話し方こそつぶやくようなそれであったが、その言葉の端々から、そこはかとなく誠実さが垣間見える。そんな団長の姿勢を、楽団員たちは慕っていた。心羽もその一人である。
「焦らないで行きましょうよ、ヒロさん」
楽団員の一人が言った。「そうだよ」数人がそれに続く。それに少し笑んで広夢も応える。
「そうだね、僕らの音は一つずつ練習してできるものだし」
心羽はこうした一人ひとりの姿勢が、音楽を楽しみつつもより良いものを目指すアレグロを形成している大きな魅力と感じていた。そんな思いを想起した故か、そんな自分と同様に、広夢に憧憬の眼差しを向ける同年代の少女のいる左斜め前を、心羽はふと目で追う。やがてその視線に気づいた様子の少女———遥香(はるか)はその手に持つアルトサックスを少し傾けて、トランペットの心羽の方に振り返る。そんな二人の目が合い、互いに少しはにかんだ、柔和な笑みを浮かべた。
「じゃあ、もう一回いこうか」
広夢のその声を受けて、楽団員全員が各々の楽器を構え直す。心羽と遥香も慌てて広夢のいる正面に向き直した。この楽団には、一人ひとりの懸命さと柔軟さがある。それが他の団員と相互作用し、メリハリとなって機能している。心羽と遥香の二人は、そんなアレグロの雰囲気が好きだった。

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演奏の練習が一段落ついたところで、楽団員はそれぞれ休憩をとっている———心羽はそのタイミングで、集会所近くの喫茶店「カフェ・すてら」の隅の席で、遥香と共にコーヒーを飲んでいた。天井の丸いペンダントライトが、屋内の少し陰った雰囲気に映え、木造の机や椅子の与える印象はレトロでありながらどこか味わいを演出している。二人はシロップで甘くし、その上にクリームを乗せたコーヒーを啜る。甘さと暖かさと香しさが鼻腔と口を潤す中、自分たちの演奏を振り返るとともに、「広夢さん、素敵だよね。頑張ってる」だとか「最近どうしてる?」などと他愛のない話をする。それが彼女たちの日常における楽しみの一つだった。
「最近さ…どうしよっかなって思うことがあって」
その話題は心羽がふと言ったそんな一言から始まった。
「ん~、なになに?」
遥香は少し間の抜けた返事をしながらも、首を傾けその言葉と心羽に関心を向ける。
「うちのお父さん政治家だから、後継ぎとかなくてさ…みんな働いてる歳なのに、あたしだけすることないなぁって」
心羽はクリームが残りわずかになったコーヒーをスプーンでかき混ぜながら少しだけ目を伏せて話す。
「そっか…こっちゃんは跡継がないの?」
そんな遥香の素朴な問いに心羽は少し驚いて、「えっ」と口から言葉が付いて出た。
「政治家」
「う~ん、そんなにやろうと思わないかな…話が大きすぎするし、自由なさそうだし」
ルクスカーデンの若者たちは、学校を卒業後、家業を継ぐことが多い。だが心羽としては、流石に父の跡を担うには、政治家は大きすぎる仕事だという印象だった。もちろんすぐに継げるわけがないことは理解していたが…何より自由がないという思いが心羽の中で強かった。長く彼女と話してきた経験からそれがわかる一方、最適解が見いだせない遥香は、「あ~」と感嘆の語を発したが、少し間が空く。それを埋めるように遥香はコーヒーを一口啜ると、やがて口を開いた。
「…アレグロは?」
「ん?」
「続けるよね?」
そう問うとともに、遥香は少しだけ身を乗り出して心羽の顔を覗く。
「もちろんそれは続けるよ!」
「なら、いいじゃん。人生楽しむのって大事だよ」
遥香の言葉は、それはいい意味であっさりした考えだと心羽には捉えられた。自分もそれは大事にしたいからだ。ただ、同時に一つ聞きたいことが出てくる。
「…はるちゃんは楽しんでる?教会のお仕事」
「まあ、あー楽しい!ってだけでもないけどさ」
遥香はそのミディアムストレート、パステルブルーの髪を耳元で掻き上げて応える。彼女も少しだけ目を伏せて。
「そうなんだ…」
「神様へのリスペクトもそこまでないし…親が教会してるからで自分がシスターなんて、していいのかって思うしね」
「はるちゃんも、悩ましいね」
心羽は顔をあげて遥香を見やったが、彼女は気丈に言葉を続ける。
「でもいいこともあるよ、教会に来る人たちにもよくしてもらってるし…そんなに、簡単には言えないかも。あたしのことも、こっちゃんのことも」
遥香のそんな言葉も、答えの一つと感じる心羽。ただ、どこか彼女ように達観して考えられない自分もいた。どこか自身が無い一方で、それだけ生業に意義を求める自分がいる。遥香は心羽のその様子を察しつつ、次の言葉を探す。やがて強引な切り出し方ではあるが、話のきっかけを…見つけた。
「こっちゃん、そのペンダント、綺麗」
遥香は心羽が胸にかけたペンダントの煌めきに、その薄紫の瞳を輝かせ、微笑みながら言った。「ありがとう」心羽も笑みとお礼を返す。そして自分を機にしてくれる遥香の思いを感じると同時にハッとした。今朝の夢の話を、共有したいと思える人がここにいる———
「今朝ね…」
胸の高揚感が思い出したようにまたやってくる。
「素敵な夢を見てさ。その中で私、鳥になってた」
心羽がそれだけ言って、これからする話を整理する。その一瞬、間が空くも、彼女の思いを理解した遥香が、長いパステルブルーの髪を揺らして応える。
「…そいえば、前に言ってたよね。〝鳥になって飛びたい“って」
その言葉に心羽は、夢の内容について続ける。
「うん、虹みたいに綺麗な星が光ってて、それを掴んだら、鳥になってたんだ。このペンダント、その星のみたいな色してて…」
そこまで話して心羽は一瞬口ごもる。
「こっちゃん?」
「気に入って、今朝買っちゃった」

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こうしてそれぞれ思い思いに過ごす時間は、唐突に破られる。心羽たちの場合は、集会所近くにある三番街の時計台から、ゴンゴンとけたたましい音で警鐘が鳴らされたのが、その始まりだった。
「この鐘って…」「何かあった?」「地震じゃないみたいだし…火事?」その物々しい気配に、心羽と遥香はそれぞれ状況予測を口にして、店内の窓から外を見る。そこには声を挙げて逃げ惑う人々がいた。「すてら」店内の客も同様にその光景を見て事態の異様さを感じとる。年配の店主が店の玄関を開き、「何があったんだい」と逃げ行く人の一人に問うたのと同時に「化け物だ!化け物が人を襲ってる!早く逃げろ!」と叫ぶ声が店内に響いた。
その声に「なんだよ、おい…」「逃げた方がいい」「早く行こう」客たちもとにかく店から出ようと玄関に押しかけ、店を出ていく。そんな事態の混乱に心羽は心身が固まったようになってしまう。言いようのない不安と焦燥に神経が尖る感覚、それに伴う動悸。自身でも恐怖を抱いていることがわかる。恐ろしい何かが、来る———
「こっちゃん…こっちゃん!」
遥香の呼びかけにようやく我に返る心羽。
「あ…ごめん、はるちゃん」
「早く行って、集会所のみんなにも知らせよう」
心羽はようやく返事するも、遥香は矢継ぎ早に言った。
「お客さん、早く行って!私が店を離れられん!」
責任感と焦燥感を滲ませた店主の言葉が響くと、「ごめんなさい」と「ありがとう」をそれぞれ店主に告げて二人は「すてら」を飛び出した。
方々に散って逃げる人の動きに、どう逃げるべきかの判断が難しい。その混乱に表情を歪ませた遥香が、駆け出しながら言った。
「どっちに逃げる!?とりあえず集会所!?」
「うん、みんなが逃げてる方向的に、集会所の方は大丈夫だと思う…」
心羽がようやく動いた頭で必死に目の前の状況を分析して返す。
「わかった、行こう」
二人はパニックの中を懸命に走る。しかし姿も見ていない、状況も理解しきれないにも係らず、こうして逃げ回るのに、心羽はどこか戸惑いを抱く。駆ける足は止められぬ一方で、そう思って彼女はほんの一瞬、後ろを振り返る。そうして見た光景は、緊迫感故におぼろげではあったものの、確かに彼女の目に焼き付く。襲われた人が倒れ伏す様と、その向こうに浮かぶ——異形の怪物の姿。瞬間、抱いた感情は嫌悪感と恐怖。その思いに心羽の身はすくみ、瞳が震える。そうして倒れ行く人々を背に逃げることしかできぬ状況に、何よりも強く思ったのは———
〝あの人たちに、手を伸ばせない〟
そんな無力感と悔恨だった。

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全速力で走る二人だったが、怪物はこちらを視認してからは動きが速くなり、どんどん近づいてきている。どうしてこっちに…そんな思いを抱きつつも、その脚を止めるわけにはいかず、もはや話す余裕もないまま走り続ける。息が苦しい、でもこんな距離じゃあ隠れても引きずり出されるだけだ。
集会所にたどり着いたのは、それから1分後のことだったが、二人には何時間にも感じられた。集会所の前には広夢たち数人の楽団員が既に逃げようと身構えているのが見えた。そこでとうとう疲弊した脚がもつれた遥香が転倒してしまう。
「はるちゃん!」
心羽が声を上げて遥香に身を寄せる。心羽も遥香も、心身とも限界を迎えていた。二人は迫りくる怪物に弾かれたように視線を向ける。この世に悪魔がいるとするならこんな風貌なのだろう。大きく開かれた口や眼光は、獲物を狙う獅子をどこか思わせる。体躯は2メートル近くあろうか、その全身は突起のような皮膚に覆われている。そして鋭い爪や尾は恐竜に近いものを想起させた。
「羽の使者よ、そのカルナをよこせ」
「えっ」
怪物の言い放ったその言葉に、驚愕と恐怖が心羽の身を疾走する。
このまま二人ともやられる———その場にいた誰もがそう思ったその時「やめろぉっ!」と大声を上げながら広夢が怪物に突進する。
しかし、怪物はそれを意に介さず、微動だにしないまま言い放った。
「こんなものか」
「喋った、うわあっ!」
怪物が話したその言葉に驚愕する間もなく、広夢はその爪で薙ぎ払われてしまう。
「広夢さんっ!」
「…早く行くんだっ!」その身を案じる遥香の声に、広夢が強い叫びで返す。その右肩は負傷し、血が流れていた。
「…邪魔だ」
どす黒い声を響かせ、怪物は右腕を大きく振りかざす。そこにいた楽団員数名も、広夢も、遥香も、そして心羽も、ここまでかと思われた。必死でこらえていた恐ろしさに、手の届かない悔恨に心羽はついに悲鳴を上げる。それに呼応するように彼女のペンダントが———その眩い七色の星が、抵抗の意思を光として強く放った。

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瞬間、周囲の動きが止まった。いや、周囲どころか自分の体も動いていない。意識はある…つもりだ。だが自分も周りも動かない。時間が止まったように心羽には感じられた。
〝…なに、これ?私、死んじゃった…?〟
〝ううん、死んでないよ〟
〝…誰?〟
心羽は不意に聞こえたその声に驚き、問う。
〝私は、あなたに夢の続きを見せる者。あなたは、夢を叶える力を持った者〟
〝…どうゆうこと?この怪物と関係あるの?夢を叶えるって...!?〟
言いながら心羽はこの理不尽かつ不可解な状況に困惑する。
〝落ち着いて聞いて。あれは、人の心の影に潜む魔物———〝影魔〟。あいつはあなたのような強いカルナを持つ者を狙ってここに来た。〟
〝…影魔にカルナって何!?どうして私なの!?なんでこんな…〟
眼前に迫る戦慄した光景、緊迫した状況に、心羽の困惑は止まらない。
〝...少し深呼吸しようか。肩の力を抜いて...〟
その〝声〟はこの戦慄に似合わないくらいに妙な落ち着きを孕んでいた。心羽は、ある種呆気に取られてしまう。
〝…あまりこうして時間は止められない…生きた屍になりたくないでしょう?〟
ここで平静を失ったところで、碌なことにならないようだ。そう告げられた今、その上で取れる選択肢は———少し平静を取り戻す。張り詰めた緊迫感から落ち着きを取り戻すよう、勤めて深呼吸をしてみる。スー、ハー...
〝あなた素直だね…少しホッとした〟
〝声〟にはそう言われたものの、そうしないとどうしようもない状況。心羽は〝...それで、私はどうしたらいい?〟と問いただす。
今にも攻撃される寸前、身を押しつぶすほどの恐怖心は確かにある。ただ、「夢の続き」と確かに言った、この〝声〟の真意がどこにあるのか———状況はまだ飲み込めないけれど、これがあの夢の続きだとしたら...あの輝きを、もう一度味わえるのなら...心羽の胸の高鳴りが、恐怖心に打ち勝った。
〝...もうすぐ時間が動きだす。あなたがどうしたいのか、その思いのままにペンダントに触れて、カルナを解放して。それはあなた自身に宿った力〟

〝私は...〟
〝私は、この状況から広夢さんを、はるちゃんを救いたい。影魔から、アレグロのみんなを守りたい〟

あの星の、七色の光が心羽を包み込む。
そうして時が動き出すと、光の中から薄紅の羽衣を纏った炎の天女——羽の使者が、その姿を現した———

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