「すごく真面目で優秀な、努力家でした」
真壁咲良という人、そして沢村智輝が彼女を愛したということ。その話は、そんな言葉から始まった。
「ただ、彼女はその生真面目で優しい笑顔の裏で、周りに心を砕きすぎていたんです。けれど私は、彼女のそんな笑顔から好きになってしまった人間だった」
沢村は眉をひそめる。またその言葉から彼の葛藤と沈痛が垣間見えた。そしてそれは、健人の内の"ある記憶"を揺さぶる。
"この夜にあなたが私に優しくしてくれたこと、覚えててねｰｰ"
だが、想起される思い出に今は頭を振り、息を吸った。神経は未だ張り詰めていたが、尚も沢村の言葉に注意を向ける。
「彼女を楽にしてあげたい反面、彼女の抱える思いを置いて先走って口を出したり、思い詰めてすれ違ったり。互いに苦しんでいました」
「彼女を楽にしてあげたい反面、その思いを置いて先走って口を出したり、思い詰めてすれ違ったり。互いに苦しんでいました」
「…事件が起きた頃合いは、どうでした?」
「二人とも、疲弊していました」
初樹が間合いを見て差し込んだ問いに対し、沢村は一つ間を置いて答えた。続く応答には嗚咽にも似た小さな溜め息が混じる。
「そして事が起きて…足元から何かが崩れ去った思いでした。けれど警察の方に、私から彼女と私の抱えている苦痛を話すことは躊躇われた」
「そして事が起きて…足元から何かが崩れ去った思いでした。けれど警察の方には、この事は殆ど言えなかった」
「それって、どうしてｰｰ」
健人が躊躇いの理由を聞いたその時、沢村は表情を歪ませながらもポツリと答えた。
「きっと、疲弊していた。私はその時…その一瞬だけ、世間体を気にしたんです」
「きっと、私はその時…その一瞬だけ、全てから逃げ出したくなったんです。彼女や私が、彼らにどう見られるかも含めて」
沢村の肩が、震えた。それが伝える彼の自責の念に、健人はかける言葉が見つからない。
「それで世間体って言っても…」
「うん、それは失踪届けと併せて、家族がするような話でもある」
辛うじて絞り出した健人の言葉と、初樹からの疑問に、沢村は目を伏せる。そして静かにこう言った。

「いえ、あのご家族は全ては話さなかったでしょう。咲良はいつか言っていました。"家族は私のことは何もないとしてる"って」

健人は驚愕に目を見開いた。家族に起きた病を認められないというのは、精神のそれに於いては時にある話だ。専攻していた学問の性質上、そう理解はしていた。しかし、家族のことだ。まるで臭い物に蓋をするその考えに、健人は顔を歪めた。
「そういうことですか…真壁さんの母親の、自責の理由。読み違えていた」
健人は驚愕に目を見開いた。家族に起きた病を認められないというのは、精神のそれに於いては時にある話だ。専攻していた学問の性質上、そう理解はしていた。しかし、家族のことだ。まるで臭い物に蓋をするようなその考えに、健人は顔を歪めた。
「そういうことですか…真壁さんの母親の、焦燥の理由。苦痛を認めきれなかったんだ」
初樹もまた、得心しながらも眉根を寄せる。その生真面目さ故に心が疲弊した彼女を、支えようとした者も、支えることが出来た者もいなかった。その事実に健人の感情は沈む。初樹の表情も重かった。
「ですが何より、彼女の家族が彼女の困難を認めなかったとしても、私が彼女から一瞬でも逃げようとしたことは、言い訳できない。内心、その狭間で揺らいでいたあの時は、安場佐田のご主人に、諌められた思いでした」
「ですが何より、彼女の家族がどうだとしても、私が一瞬でも逃げようとしたことは、言い訳できない。内心、その狭間で揺らいでいたあの時は、安場佐田のご主人に、諌められた思いでした」

「申し上げにくいのですが、彼女が失踪したのです」
「ですが、何か言いにくい思いもあったのでしょう?」

沢村のその言葉に、健人は彼と出会った時の佐田が、憮然としていたことの意味を理解した。あんな状況で佐田にできる返答は、あれが最大限のものだっただろう。
「そのことを受けて思いました。私は彼女を幸せに出来なかったとして、何を差し置いてでもこれだけは、譲れない。逃げられないと」
「それで、思ったんです。私は彼女を幸せに出来てなかったとして、何を差し置いてでもこれだけは、譲れない。逃げられないと」
だから彼はその後、本気で彼女の真相と向き合うために、安場佐田であのロケット二つを買った。その文脈がようやく読み取れた。
「まして、あんな異形の存在が咲良の命に関わっているとなれば、尚更なんです。こんな思いが、花森さんの問いかけへの回答になっているかは解りませんが…」
「まして、あんな異形の存在が咲良の命に関わっているとなれば、尚更なんです。これは私の思いであって、花森さんの問いかけへの回答になっているかは解りませんが…」
そう語る沢村の顔、覚悟が刻まれた瞳には、真摯な光が宿っていた。その光を見て、健人は自問する。
"ならば自分はどうだ?"
左手のブレスレットに目を向ける。友から渡されたそれは、怪物に抗う力を花森健人に与えた。そのことが意味するものが何か。自分はそれから、逃げられるだろうか。"あの時の友の優しさ"に、目を背けられるだろうか。自分はなぜ、このブレスレットを着けているのか。初樹や沢村も、逃れられない中で足掻いている。俺はどうする?俺はｰｰ。
「…俺も、逃げられないか」
「花っちｰｰ」
「巻き込んだのは一つ貸しだぞ、ハッサン…やれるだけやってみるさ」
強く閉じた目を開き、告げた言葉。それに初樹が強く頷いた。その様に沢村は一つ息を吸い、感謝を述べる。
「ありがとう。花森さん、桧山さん」
「…沢村さんに、お返しするものがあったんです」
静かに頷いて返し、健人はそう告げると、真壁咲良の指輪を送り主である沢村の前に置いた。それを見る沢村の顔は、物悲しいようにも、慈しんでいるようにも見えたが、その全てを窺い知ることだけは出来なかった。

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5月3日、午後18時38分。朝憬市中央区某所にて、サクラの怪物は再度動き始めた。健人が斬った左腕は既に再生している。ある方向へと一直線に、跳ぶように向かっていき、たどり着いた先は、本日休館となっていた件の図書館の駐車場。そこにはｰｰ。
「彼の下へは行かせない」
既に夜色の衣に身を包み、顔に黒いマスクを着けた花森健人が立ち塞がっていた。
既に夜色の衣に身を包んだ花森健人が立ち塞がっていた。

「けど具体的にどうする?これから先…」
先のファミリア朝憬東店での話の直後、仕切り直しに健人が今後の展望について切り出した。頻回飲んでいたアイスコーヒーは既に空になっている。
「俺としては、ここで攻めたいと思っている」
「攻める…というと?」
早速初樹がプランを話し始め、続く沢村からの疑問に応えた。
「今のところ、俺たちは連中に不意を突かれて動いている。でもここでは、こちらからあのサクラに迫り、更なる真相に近づきたいということです。花っちがダメージを与えた今がチャンスだ」

サクラがすぐに花吹雪の中に消えた。同時に健人は振り向き様に剣を振るう。それがサクラの移動先を捉え、一撃を与えた。
サクラが呻き、怯みながらも左腕の樹木を伸ばす。そしてそれをしならせ鞭のように振るって健人の存在を払わんとする。しかし樹木の鞭を躱すと同時に、夜色の衣から放たれた魔装具が光弾を射ち、これを焼いた。サクラが狂った叫びを上げる。
その不快さに健人が眉を寄せた。しかしそれも一瞬。続けて剣を打ち込まんと、一気に距離を詰める。抵抗するサクラが繰り出す花吹雪の爆発は、左手のブレスレットが展開した障壁を以て凌いでいく。そのまま猛りと共に突進してサクラを弾き飛ばした。再び追い詰められ、倒れ込んだサクラは狼狽していたが、そこを逃すまいと健人は剣の切っ先を向ける。
「これ以上の抵抗は無駄だ」
そう告げる健人の目は、マスクの奥でほんの一瞬だが僅かに揺れた。
そう告げる健人の目は、ほんの一瞬だが僅かに揺れた。

「でも、あのサクラは言葉が通じそうにないぞ。それに、またあの黒コートの男が来る可能性もある。そうなると俺も抑えられない」
健人の思考が、先のファミリアでの会話を再度想起する。
「黒コートの男というのは…」
「怪物を指揮している奴がいるみたいなんです。そいつも昨日、現れて」
無視出来ない彼の存在に、健人の胃が萎縮した。自身の身の内が狭まる嫌な感覚が上る。
「待ってください。その人物が事に関わっている可能性は?」
「かなりあると思います。ただ、無茶苦茶強い」
飛んできた沢村からの疑問に答えるも、事はそう簡単にはいかない。あの凄まじい膂力は、口にする健人自身を戸惑わせた。だがそんな時、思案に閉口していた初樹が口を開く。
「…花っち、悪いが戦ってもらえるか?先にサクラを抑えよう」
「それは出来なくはないと思うけどｰｰ」
「だが倒しはしない。言い方は悪いが人質に取る」
初樹の賢しく、狡猾な面が顔を覗かせ始めた。それは彼の口から飛び出してくるには意外に過ぎ、また物騒な言葉。
「人質って言うと…」
「黒コートの男に対してだよ」
しかしそれは、彼の怪物たちと渡り合うには必要な策だと、どこか理解できた。
「奴は昨日の戦いで花っちの前に立ち塞がって、サクラを庇って去っていった。なら恐らく、その損失は奴にとってはマイナスなんだ」
「なるほど。そこでサクラを盾に、その人物から真相を引き出すわけですか」
「ええ、上手くいけば真壁さんに辿り着くこともできる」
沢村が息を飲み、初樹も強く頷いた。だがこの危険な綱渡りに、健人は未だ強い懸念を示す。
「けどそうなると、黒コートとの交戦も避けられないんじゃないか?アイツは一対一でも危険だ。退路も考えとかないと」
そう言葉にするうち、健人の脳裏は先の英道大学での黒コートとの競り合いを想起していた。奴は衆目に晒されることを忌避していた。ならばｰｰ。
「…人混みの中まで逃げればいい」

「花っち!」
「黒コートは、来るでしょうか…?」
周辺に控えていた初樹と沢村が健人の近くに駆け寄る。瞬間、サクラは沢村に強く反応するも、健人の剣がそれ以上を許さない。緊張感と静寂が、駐車場を包んでいた。しかし、それも程なく破られる。
「お招き頂いたとなれば、参上しようか」
不意に黒い何かが、その場に舞い降りてきた。健人は直感的に理解する。奴が来たｰｰ。
「二人とも下がって!」
闇色を纏った腕から放たれた焔を弾かんと、剣を振るう。だが攻撃として速く重いそれは、爆ぜた瞬間に健人を大きく怯ませた。黒コートは不遜に鼻を鳴らす。
「そうでなくてはな」
「なんで"これ"を狙う?真壁さんはどこだ!?」
健人がブレスレットを翳しつつ食ってかかり、黒コートに問い質した。
「なぜ俺が、それに答えなければならない」
「こっちにはお前の眷属が居る」
そう啖呵を切りながらも、健人の息は上がる。対する黒コートは、一瞬サクラを見遣ると大きく溜め息を吐き、その眼をぎらつかせて一言告げた。
「それは、宣戦布告という解釈で相違ないか?」
言葉に留まらぬ圧力。そして溢れる暗い超常の力。その威圧と恐怖に健人は足がすくんだ。初樹も、沢村も、同様に気圧され、身を震わせている。
「嘗められたものよ。ならばこちらも、ここで刈り取るまで」
続く黒コートの言葉に、自身が息を飲む音が聞こえた。戦慄に目を見開く。だがそんな怖気の中にあって、背後の沢村から怒りの叫びが強く響いた。
「咲良に何をしたんだ!彼女を返せ!!」
「そんな叫びしか出ないか」
「ふざけやがって…!」
黒コートが渇いた嘲笑を浮かべると共に、沢村の顔が憤怒の形相へと変わる。
「味は粗雑になるか…まあいい、貴様らの覚悟に応じ、真実を聞かせようか」
「味は粗雑になるが…まあいい、貴様らの薄っぺらい覚悟に応じ、真実を聞かせようか」
「ｰｰ逃げて!」
サクラの異形に向け、黒コートがその右手を翳した。辛くも健人が反応するが、既にサクラは止まらない。樹木による刺突が沢村に迫る。
「真壁咲良は、既に死んでいる。俺の命故に、その影魔が殺した」
「真壁咲良は、既に死んでいる。死を欲した魂故に、その影魔が食んだ。俺の命でな」
瞬間、身を裂く真実と痛みに沢村智輝の目から光が失われるのを、健人と初樹は確かに見たｰｰ。

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「ハッサン、逃げろ!」
「ハッサン、人混みまで逃げろ!」
「でもｰｰ」
「早く!!」
振り向き様に自身の口から響く怒号。それと共に健人は黒コートに背を向け、サクラに斬りかかる。しかしあまりに速く跳躍してきた黒コートが、その片腕で剣を防いだ。
振り向き様に自身の口から響く怒号。それと共に健人は黒コートに背を向け、サクラに斬りかかる。しかしあまりに速く跳躍してきた黒コートが、携えた槍で剣を防いだ。
「…挑んでおいてそれか!」
ドスの効いた黒コートの声と共に、放たれた拳が健人の腹を抉った。身体が不意に跳ね上がる。だが次に健人が視認したのはｰｰ。
「ｰｰよくも咲良を!!」
死に行く自身に絶叫し、絶望しながら尚も愛する人のための怒りに吼えた男。彼が見舞われた理不尽そのものに、踠きながら殴りかからんとする最期の姿だった。死んでしまう。ただ愛する人と幸せになりたかっただけの人が。
絶望に突き落とされながら、尚も愛する人のための怒りに吼えた男。彼が見舞われた理不尽そのものに、踠きながらも殴りかからんとする姿だった。死んでしまう。ただ愛する人と幸せになりたかっただけの人が。
「やらせるかぁ!!」
その時だった。絶叫すると共に、今一度健人を取り巻く世界が、失速した。否、健人自身が加速し、駆け出していた。そして走り抜けると共に黒コートとサクラに向け、剣を真一文字に薙ぐｰｰはずだった。
その時、絶叫すると共に今一度健人を取り巻く世界が、失速した。否、健人自身が加速し、駆け出していた。そして走り抜けると共に黒コートとサクラに向け、剣を真一文字に薙ぐｰｰはずだった。
「どうした…何かしたか?」
黒コートから瞬時に伸びた異形の左腕が、今度は加速する健人の剣を掴んでへし折った。驚愕に息を飲む間もなく、そのまま膝で蹴り上げられる。そして闇色の焔を携えた掌底が強く放たれ、健人を弾き飛ばした。だが止まるわけにはいかない。自身の加速から周囲の時間に戻る中、すぐに顔を上げる。だが超常の力と光の中、サクラが馬乗りになるそこに、既に沢村の姿は見えなかった。
何も聞こえない。黒コートは眉も動かさず、初樹は泣いていた。沢村の命が泡沫と消える。そして超常の力の奔流の中で、サクラの挙動が恍惚と揺らめいた。阿鼻叫喚の叫びが、その夜を震わせたのは午後18時56分のことだった。
黒コートから瞬時に伸びた異形の左腕が、今度は加速する健人の剣を掴んでへし折った。驚愕に息を飲む間もなく、そのまま膝で蹴り上げられる。そして闇色の焔を纏った槍の一閃が健人を斬りつけ、その身を弾き飛ばした。だが止まるわけにはいかない。臆する身を奮い立たせ、尚も速度を上げて駆け出さんとしたその時ｰｰ。
「流石にこれはマズいじゃろ」
「えっ…」
何処からか、声がした。
「身体貸せ、悪いようにはせん」
その声が自身の内に鳴動したものと気付いた時には、健人の身体はブレスレットから発した光に包まれていた。