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宗教改革者の歴史

一般に宗教改革は16世紀のルターがスタートと思われていますが、それまでにも、聖書そのものの教えに戻ろうと懸命に研究し、伝統教義の中で聖書に沿わない教えを勇気を持って指摘した人々がいました。その努力は9世紀ころには始まり、16世紀の「宗教改革」を経て今の時代に至るまで続いています。その歴史の一部を書いていきたいと思います。

初期の改革者たち

◎フランス、リヨンの大司教アゴバルドゥス(西暦779-840)
聖書の偶像崇拝禁止の教えに基づき、聖画像崇拝や聖人たちにささげられた祈りなどの教会の典礼に強く反対した。

◎イタリア、トリノのクラウディウス(9世紀初め)
(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Claudius_of_Turin)
聖人たちに対する祈り、聖遺物や十字架に対する崇敬行為などの教会の伝統は聖書に反するものであるとして批判した。クラウディウスは「最初のプロテスタント改革者」とも呼ばれている。

◎フランス、トゥールのベレンガリウス(11世紀)
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トゥールのベレンガリウス)
全質変化の教理(ミサの度にパンと葡萄酒がキリストの体と血に変わるという教理)に異議を唱え、キリストの死を記念するために使われるパンとぶどう酒は象徴的なものであり、それがキリストの肉体や血に奇跡的に変えられることはないと教えた。伝統教義に対する聖書の優越性を擁護し、1050年に異端として破門された。

◎フランス、ローザンヌのアンリ(12世紀)
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Henry_of_Lausanne
教会の典礼や当時の腐敗した宗教上位階制を大胆に批判するようになった修道士。信仰と崇拝の唯一の規範は聖書にあるとした。西フランスのルマンで伝道を開始し、その土地から追放されてから南フランス一帯で伝道を続ける。1148年に逮捕され、終身刑に処せられる。

ヴァルドとヴァルド派

◎フランス、リヨンの ヴァルド(ワルド)
(1140~1217頃)
(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peter_Waldo)

フランスのリヨンの裕福な商人で敬虔なカトリック信者であった。神に喜ばれるためにはどんなことをすべきか神学者である友人に助言を求めたところ、友人は、イエスが裕福な若者に述べた「完全でありたいと思うなら行って自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を持つようになるでしょう」というマタイ 19章21節の言葉を引用した。ヴァルドはこの助言を心動かされ、妻のために必要な物を備え、二人の娘を修道院に入れてから、二人の司祭に、福音書や聖書の他の部分をフランス南東部のプロバンスおよびドーフィネ州で話されている日常語に訳す仕事をゆだねた。この点で彼は聖書翻訳の草分け的存在である。

自分の所有物を貧しい人々に分け与え、聖書研究に着手。リヨンの街頭で伝道し、その住民に霊的に目覚め簡素な聖書的キリスト教に戻るよう勧めた。裕福な実業家として良く知られていたため、多くの人々が耳を傾け、ほどなくしてヴァルドに従うグループができる。それまで教会は聖書をラテン語以外の言語に翻訳することを妨げてきたため、人々は聖書を自分たちの言語で聞けることをとても喜んだ。ヴァルドと一緒に、人々の話す言語で聖書を教える業に一身をささげようとした人たちは「ヴァルド派」や「リヨンの貧者」として知られるようになる(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヴァルド派)

当然ながら、ヴァルド派の活動はカトリック教会に迫害されることになる。教皇ルキウス3世は1184年に彼らを破門。リヨンの司教は司教区から彼らを追放する。ヴァルド派はアルプス地方および南フランス一帯に身を潜めながら、行く先々で聖書を教えた。アンリの仲間たちなど伝統教義に異論を唱える他のグループの人々にも出会う。13世紀初頭にはヴァルド派は、フランスから北イタリア、ドイツ、オーストリア、ボヘミアにまで存在していた。ヴァルドはボヘミアで1217年に死去したと言われている。

「宗教上の真理の唯一の源は聖書にある」というのがヴァルド派の基本的な立場だった。暗黒時代にあって、真理を見つけるために最善を尽くした点で後の聖書の研究者たちの模範となっている。ヴァルド派は聖書をもとに、偶像崇拝、煉獄、マリア崇拝、十字架や聖遺物への崇敬行為、武器の使用などを避けた。

初期ヴァルド派は、伝道して聖書を教え、山上の垂訓と主の祈りに特に重きをおいた。主の晩餐を年に1度祝い、パンとぶどう酒を「象徴」として用いた。悔い改めない罪人を排斥し、高い道徳水準、正直に税金を納めることなどで良い評判を得ていた。

伝統教会から「異端」とされ、激しく迫害されたが、真理を追い求め、聖書の翻訳、聖書への回帰、簡素なクリスチャンの生き方の点で草分けとも言える存在となる。2015年に教皇フランシスコはカトリックによるヴァルド派への迫害について謝罪した。今では初期ヴァルド派は、中世の宗派の中で最も古典的、福音主義的であり、聖書主義の特性から「宗教改革の先駆者」と評されているため、教会史では特に覚えておきたい存在です。

14世紀~15世紀の改革者たち

◼️イギリス
◎ジョン・ウィクリフ(1330ごろ-1384年)(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョン・ウィクリフ)
「宗教改革の明星」と呼ばれる。カトリックの司祭で英国オックスフォードの神学教授だった。教会の職権乱用問題、修道会の腐敗、全質変化などに反対する考えを書き著わし、そのような事柄を戒めた。

キリスト教信仰の教義の源泉は聖書のみであるとし、カトリックの教義は聖書から離れていると批判した。 聖書を教える点での教会の怠慢について率直な態度を取った。「この国の教区の教会に信頼できる聖書1冊と福音書の信頼できる解説書があって司祭がそれらをよく調べ神の命令を人々に教えてくれればよいのだが!」と述べたことで知られている。そのような目的で、晩年の何年間かはラテン語ウルガタ訳聖書の英訳の仕事に従事した。そして仲間の助けを得て英語の最初の全訳聖書を出版した。

ウィクリフの著作や聖書の一部は「貧乏司祭」と呼ばれる伝道者たちの一団によって英国中で頒布された。そのように呼ばれたのは、質素な衣服を着て、持ち物を何も持たずに、はだしで伝道したためだった。また「祈りや賛歌を口ずさむ者」という意味のオランダ語に由来する「ロラード派」(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ロラード派)
と呼ばれた。1395年、彼らは「ロラード派の論題12ヶ条」をウェストミンスター大聖堂の扉に掲示し、教会の腐敗、聖職者の独身性、悪魔払いの儀式、死者への祈り、偶像崇拝、戦争、中絶を批判した。彼らは千年王国も信じていた。数年のうちにその人数は相当の数になり、国民の少なくとも4分の1は彼らに賛同していたと言われている。

彼らは教会により激しく迫害された。ウィクリフは支配階級の間で著名な人物だったため保護されたが、ロラード派たちは英国のヘンリー4世の治世中に異端者として投獄され、拷問され、火刑にされた。

後にプロテスタント運動が英国に波及すると、潜伏していた彼らはプロテスタントに吸収された。バプテスト教会や清教徒のような英国プロテスタントとロラード派の間に見られる類似点から、ロラード派の思想の一部が影響を及ぼしたのではないかと考えられている。

◼️ボヘミア(現在のチェコ)
(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Bohemian_Reformation)

◎ヤン・フス(1369-1415)
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヤン・フス)
ボヘミア(チェコ)のカトリック司祭で、プラハ大学の総長だった。プラハ大学はウィクリフがかつていたオックスフォード大学と繋がっていたため、フスはウィクリフの本を読むようになり、彼の強い影響を受けた。聖書を読むことの重要性を強調し、免罪符の売買などのローマ教会の慣行を非難した本を書く。

人が本当に聖職者といえるかどうかは、その人が本当に神の言葉を説いているかどうかで判断すべきであり、教皇や司教が承認したかどうかは重要ではないと説いた。また、聖書を支持する点で妥協せず「誤っている教皇に反抗するのは、キリストに従うことである」と述べた。さらに、真の教会は、教皇やローマの権力組織とは全く異なる、選ばれた人々の集まりであり、それはキリストの花嫁であると説いた。

1414年のコンスタンツ公会議で異端者として有罪宣告を受けた。「間違った生き方をするよりは,潔く死ぬほうが勝っている」と述べ、自分の主張を撤回しようとしなかったために翌1415年に刑柱に付けられて焼き殺された。1990年に教皇ヨハネパウロ2世はフスの改革者としての再評価を述べ、1999年には「フスに課せられた過酷な死に深い哀惜の意を表明する」との声明を読み上げた。ここにフスの名誉は回復された。

◎ペトル・ヘルチスキー(1390-1460)
(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Petr_Chelčický)
ボヘミア(現在のチェコ)の聖書学者、キリスト教指導者となった。文豪トルストイは彼のことを「中世最大の偉人」と絶賛している。

原始キリスト教の復興を目指し、「聖書のみ」を指針として平和主義のもとで改革を訴えた。暴力的な運動を展開し始めたフス派と違い、クリスチャンは報復することなく迫害を受け入れるべきだと教えた。防衛戦でさえ悪であり兵士は殺人者にすぎないと考えた。

クリスチャンは神と隣人を愛さなければならず、それが人々を回心させる方法であると信じた。いかなる種類の強制も悪であり、キリスト教徒は政治闘争に参加すべきではないと主張した。イエスと福音が平和の模範であるとした。1440年に「信仰の網」(チェコ語)という本の中に自分の教えを記した。

彼の活動はチェコ兄弟団(ボヘミア兄弟団)(https://kotobank.jp/word/チェコ兄弟団-851139#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88) に受け継がれる。
(https://de.m.wikipedia.org/wiki/Böhmische_Brüder#Geschichte)
その教えと生き方の特徴は、初期キリスト教会の規律を重視した宗教的見解として知られている。行政関係の仕事を避け、宣誓は行わず、軍務に服することもしなかった。伝道にも熱心であった。ルターより早く万人祭司説を唱え、聖霊を神の力とみなし、三位一体説を退けた。彼らの信条は「Acta Unitatis Fratrum」というチェコ語の文章にまとめられた。

後にこのグループは2つに分かれ、兄弟団の当初の教えを厳格に守ろうとした少数派は迫害され、派としては消滅した。一方、多数派は当初の信条を捨ててチェコ・ウトラキストと連合し、それが現在のモラヴィア教会 となった。

◼️イタリア
◎ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジロラモ・サヴォナローラ)
イタリア、フィレンツェの聖マルコ修道院のドミニコ会修道士。教会と国家双方の腐敗を戒めた。ルネサンスの華美で軽薄な風潮に反発し、厳格な信仰に戻るべきであると考えた。

キリスト教による神権政治を樹立しようとした。市民の贅沢を戒め、不道徳とされる絵などを没収して焼き捨てるという「虚飾の焼却」を実施した。しかし、彼の厳しい政治は次第に市民の反発を受け、ローマ教皇庁やドミニコ派と対立していたフランチェスコ派の宣教師たちの反発も強まり、1497年頃に教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを異端であるとして破門した。フィレンツェ市民はマルコ修道院に押し寄せ、サヴォナローラを捕らえて引き立て、裁判かけて有罪にし、焚刑に処した。

彼の最後の言葉は「私の主は私の罪のために死んでくださった。私はこの貧弱な命をその方のために喜んで捨てないのでしょうか」であったと言われている。後にルターは彼について「反キリストは、この偉大な人物の記憶が消え去り、また呪われることを願った。しかしながら、見よ、彼は生きており、その記憶は祝福されている」と述べたとされる。

16世紀の改革者たち

◎マルティン・ルター(1483-1546)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マルティン・ルター
1517年にドイツで宗教改革を開始した人。聖書中心主義、信仰義人説を掲げた。アウグスティノ修道会士、ウィッテンベルク大学の神学教授。

ドミニコ托鉢修道会の修道士ヨハン・テッツェルが免罪符を多くの人に売りさばくのを見たルターは、その売買への批判をする。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に「95ヶ条の論題」と呼ばれる質問状を張り出したといわれる。(最近の研究では、この日付には決定的な証拠はなく、また張り出されたのではなく、書簡という形で送付されたという説が有力)

「95カ条の論題」はラテン語で書かれていたが、その内容はドイツ語に翻訳されて全国に広がり、大きな反響を呼び起こし、宗教改革の幕開けとなった。その主張は、人は信仰によってのみ義とされる(信仰義認説)のであり、贖宥状を買うことによってではないという点にあった。

神聖ローマ帝国の皇帝カール5世は教会の論争を収束させようとヴォルムス帝国議会を召集、ルターを呼び自説の放棄を迫った。自説の撤回を求められたルターは「聖書と明白な道理によって納得させられない限り、何事も取り消さない」と述べ、教皇と公会議の権威を認めないと公言し、最後に「ここにわたしは立つ」と言ったという。カール5世はルターを「異端者」と断定し帝国追放の刑を宣言した。

その後ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれ、聖書のドイツ語訳を完成させた。このルター訳はグーテンベルクの活版印刷機によって印刷されたため広く普及し、宗教改革の民衆への広がりの一因となった。ルター訳の聖書が普及することで、近代ドイツ語の統一に寄与したとも言われている。

この宗教改革運動は一般の人々から非常な支持を得たため、1526年に皇帝はドイツの各州にルター派もしくはカトリックのいずれかを自由に選択する権利を認めた。しかし1529年に皇帝がその決定を翻したため、一部のドイツ諸侯が抗議した。そのため、宗教改革運動を表わすプロテスタント(抗議者)という名称が造り出された。ドイツの多くの州がルターの側に付き,スカンディナビアの諸州もそれに倣い、ルター派プロテスタント教会の形成につながった。

◎フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フルドリッヒ・ツヴィングリ)
スイスの改革者。クリスチャンにとって唯一の権威は神の言葉であり、聖書こそ聖書を解釈するものであると教えた。ヘブライ語とギリシャ語の学者でもあった。

同時代のルターと多くの点で意見が一致し、司教の独身性、マリア崇拝、免罪符の販売を批判した。しかしルターよりもさらに踏み込んで、像や十字架の使用を非とした。

ルターとの決定的な違いは、ルターがミサにおけるパンとぶどう酒にはキリストの体と血が奇跡的に含まれていると唱えたのに対し、それはイエスの体と血の象徴であるとしたことだった。この点で2人は決別した。

今からちょうど500年前の1523年、チューリヒ市会議においてが公開討論の議題として67か条を提出し、教会の代表者と対峙し勝利する。その結果、チューリヒでの改革が促進された。ミサの代わりに主の晩餐が行われるようになり、結婚する修道女や司祭も現れるようになった。あまり知られていないが、彼はルターよりも早く聖書をドイツ語に翻訳した。今ではチューリッヒ聖書として知られている(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/チューリッヒ聖書)

彼のグループは後にカルバン派と合流し、改革派教会の基礎となった。また彼のグループの中で幼児洗礼を認めないグループが分かれ、それが再洗礼派(アナバプテスト派)となった。再洗礼派はバプテスマは信仰を持った大人にしか施すべきでないとし、幼児の時にバプテスマを受けた人にも大人としてのバプテスマを施していたので「再洗礼派(アナバプテスト)」と呼ばれた。(https://kotobank.jp/word/再洗礼派-68020#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.2)

彼らは信仰を否定する人を教会から出し、その人が悔い改めたなら復帰が許された。世俗的政治や戦争に関わることも兵役に就くこともなかった。質素な生活を送り、高い道徳規準を持っていることで知られた。とりわけ主の晩餐を特別なものとして取り決めた。チェコ兄弟団と同じく、カトリックからの流れを受けた三位一体説を否定するグループも現れたことが知られている。

当時のカトリックや他のプロテスタントから迫害され、ヨーロッパの他の国やアメリカへ逃れた。メノー派、フッター派は再洗礼派の流れを汲む。

◎ジャン・カルヴァン (1509-1564)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジャン・カルヴァン#ミシェル・セルヴェの処刑
フランス出身。ルターの聖書主義、ツヴィングリの福音主義などの影響を受け、1540年代にスイスのジュネーヴで宗教改革を実践、改革派を指導した。

彼の思想は、ルターの聖書中心主義とともに、ツヴィングリの福音主義を発展させ、またエラスムスの人文主義の影響を受けていた。彼の独自性の強い主張は、予定説といわれる理論。予定説とは、すべての物事は神の業であるという考えを突き詰め、人の救済も、その人の信仰の努力ではなく神によってあらかじめ定められているという信条で、人は神から与えられた現世の職業を含めたすべてに対して誠実に生きることを説いたものであった。このカルヴァンの思想は、西ヨーロッパの商工業者に広がり、資本主義社会の形成の背景となったと言われている。

パリで新教徒迫害が強まったため、カルヴァンはスイスのバーゼルに逃れて、1536年に「キリスト教綱要」を発表し、ジュネーヴで改革を実行し始める。

ジュネーヴでは1541年から14年にわたり市政の実権を握り、いわゆる神権政治という厳格な教会改革と政治改革を実行した。彼は反対派を捕らえて火刑にするなど厳しい宗教統制を行った。例えば、ヨーロッパで初めて血液循環について書いた医師また神学者のミシェル・セルヴェが三位一体説を批判する説を発表すると、彼を異端として火刑にした。(1903年に長老派教会はこの出来事の贖罪としてセルヴェのために彼が火刑にされた教会に碑を建てている)

1559年にはジュネーヴ学院 (現在のジュネーヴ大学)を設立し、改革理念を学んだ青年を育て、布教者としてフランスに派遣し、カトリック教会批判を展開し、改革派の拡大に努めた。カルヴァンの教えはフランスではユグノー、オランダではゴイセン、スコットランドでは長老派、イングランドでは清教徒(ピューリタン )などと呼ばれるようになった。

(宗教革命まとめ https://www.y-history.net/appendix/wh0903-025.html )

このように、宗教改革は長い時間をかけて、様々な国で行われてきました。それは、ローマ帝国によって世俗化し聖書から逸脱したカトリック教会の伝統に対して、聖書そのものの中に真理を見い出だそうとする人々の命をかけた闘いの歴史だったのです。この闘いはその後も続いており、真理を見出そうする人々の不断の努力により聖書の真理はますます明らかになっています 🌿

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