1 これは私たちが紡いだ希望の物語  No.1 1 / 3【A】 みんなに公開

2020年、4月16日。その日、朝憬市立朝憬英道大学二回生である花森健人は、同大学B棟3階、第2講義室にて行われる人体の機能と構造の講義に出席していた。
「…そのためICF、国際生活機能分類では…」
時間は11時57分。単調な講師の話と昼食までもたない空腹、そして気怠さ。既に講義に意識を集中させることが難しい。天を仰ぐように軽く首を逸らし、左目を瞬かせて再度講義を聴くよう努める。しかし、そこに加わる周囲の学生らの小声の数々が健人の意識をかき乱す。最早聴講することは投げ出して、彼は前方を向いて時間をやり過ごすことだけに注力していた。そんな折、彼の座す講義室中段の席の一つ前から、男子学生の二人組がある都市伝説を小声で話すのが聞こえてくる。
「また出たって、”赤髪の魔女”」
「お前好きだな、その与太話」
話を振った方の小柄な男子学生が「講義よりは面白いだろ」と渇いた笑みを浮かべて小声で話し続けた。
「それが諸星町の教会近くで怪物と争ってたってSNSでさ…」
「お前その感じ、特撮とかそういうもんの延長で見てんだろ。別に否定はしないけど、俺にそれを話されてもさ」
話を聞くガタイのいい男子学生がその大きな肩を竦ませ、呆れた口調で返す。
「なんだよ…なんか、イケてんじゃん。赤髪の魔女」
「お前、ミーハーだな…」
ガタイから小柄へ発された言葉に共感し、健人は小柄の方を冷ややかに見るものの、気が付けば講義よりもそちらの話ばかりを耳が拾っていた。最終的に講師が講義終了を告げると同時に、健人の胸中には苦い自己嫌悪が広がる。講師と学生らがそれぞれの荷物をまとめて講義室を後にする中、同じゼミに所属する友人——横尾和明が上の空である健人の下にやってきてその肩を叩いた。
「お疲れ、花っち」
「ああ、お疲れカズさん」
「どした?また夜更かしして絵でも描いてたのか?」
心ここに在らず。そんな健人のうだつの上がらない声に、和明は苦笑しながらその理由を問う。
「いや、それが…何て言うかさ…」
「うん、どした?」
「何で俺、この勉強してるんだっけって思ってさ」
話はそこで一瞬間が空いた。和明の口から「…え?」という一音だけがポツリと零れる。
「…とりあえず、まあ飯行く?」
「行く。腹減った」
怪訝な顔と共に言った和明の一言に即答し、健人は傍らのショルダーバッグを掴んで席を立った。

「なんか最近花っち、ボーっとしてること多いけど…さっき言ったの、深刻なやつ?」
「深刻、なのかな?それもぼんやりしててさ」
英道大学の学食。その食堂にて、熱い醤油ラーメンに息を吹き掛けて冷ましながら和明が言った。健人は唐揚げ定食のキャベツを貪る合間にそれに応える。どんぶりから立ち上る熱い湯気に和明の眼鏡が曇った。
「モラトリアムだな~」
「俺もそう思う…まあ、そういう奴もいるさ」
和明の感想の一言に対し、健人は苦笑しつつ応え、唐揚げを口に入れた。肉の旨味と油、柔らかさに、続くご飯が大口を開けた中へと消えていく。ラーメンを啜る和明の眼鏡は未だに曇っていた。やがて咀嚼と嚥下を一先ず終えると、健人はふと口を開いて努めて軽い口調で話し始める。
「自分が信じてたものが、ここしばらくわからなくてさ」
「ここしばらくってどれくらい?」
「2年ちょい」
和明の持った箸の先が、ラーメンのスープに浸かったまま止まった。
「…長いな、ていうか高校からか。信じてたものって、どんなのか聞いてもいい?」
そう問う和明に対し、健人は僅かに俯いてラーメンのどんぶりに視線を外した。しかしその目の端には、眼鏡の向こうで和明の目が少し動くのが見えた。
「人を思ってた自分、かな」
その言葉に、和明は一瞬だけ眉根を寄せる。健人もドリンクのウーロン茶にしか手が伸びなかった。
「…深刻じゃん」
「やっぱ?」
「少なくとも、確かに学業の目的には関わるな…」
ラーメンを置いて、真剣な表情を浮かべる和明。その姿は、健人の胸に一瞬沈鬱なものを抱かせた。あまり考えたくないし、あまり考えさせたくはない。気が付けばウーロン茶だけがますます消費されていった。
「逆にさ、人を思ってた切っ掛けって、何かあった?」
やがて繰り出された言葉に対してバツの悪さを感じ、遂に健人の手が止まる。続けられる話題から、胸の内に仕舞った思いに関して問われ、健人は困惑を抱いた。それが不意に顔に出る。
「…悪い、花っち。大丈夫か?」
健人は自分がどんな顔をしているのか、それさえ取り繕えなかった。恐らくぎこちなく笑う事しかできなかったのだろう。和明のこちらを見遣る神妙な表情から、そのことを感じ取った。
「ああ、大丈夫。ちょっと考えちゃってさ」
「ごめん。ベタだけど、何か力になれないかと思ってな」
「いや、切っ掛けは…まあ、いくらかあるんだけど」
顔が伏せられ、僅かに瞳が沈む。箸も手もやはり動かない。思考が止まり、ただ一つの言葉が健人の口から零れ落ちた。
「思い出していいものなのかな?」
「それは少なくとも、花っちが決めること、だよな…ただ花っち、何か納得してないだろ?」
「…わかる?」
「花っち、顔に出やすいし、それがあって話してくれたんじゃないかって思って」
そう言うと和明はレンゲでスープを啜る。どんぶりから立ち上る湯気は収まり始めていた。健人はその様をチラと見る。同時に和明によって観察され、言語化された”納得していない”という表現が、自身の内で反響するのを感じた。それに小さく2、3回頷くと、健人はようやく冷めた唐揚げ定食へと再度箸を進める。
「足しになったら良かったんだが…深堀りしすぎたかな」
「いや、まだそういう部分があるの、わかるよ。助かる、カズさん…一先ず食うか」
健人からの言葉を受けて、和明もまた頷いた。そうして彼もまた、伸びてしまったラーメンを啜った。
 
そこは何処かの廃工場。暗がりの中で佇む長髪の男が、羽織っている黒コートを翻して振り向く。そこにはクモを思わせる異形の人型があった。今まさに天井から垂らした糸を右手で握り、クモはスルスルとその場に降り立つ。
「アハト…情報部の君が私に言伝か。どういう風の吹き回しだ」
黒コートは憮然として言った。クモ——アハトを半ば睨みつけるように、鋭い眼をそちらに向ける。
「ヴェムルア様、まずはこちらの要請に応じてくださり感謝致し…」
「下らん前置きはいい。状況を説明してもらおう」
自身の謝辞を切り伏せられたアハトは一瞬、反応の間を開けた。しかし黒コート——ヴェムルアがそれに構うことは無く、その態度を崩すことも無い。アハトは鼻を鳴らしながらも、静かに説明を始めた。
「我々が予ねてから追っておりました、さるアズが見つかりました」
「私にそれを狩れと?」
「ええ、まあ半分はお察しの通りです。奴らは何かと面倒ですから、これを押さえて頂きたく」
事務的に響くアハトの言葉に、事務的に上役としての返しをするヴェムルア。アハトの即答にヴェムルアは自身の内で独り言ちる。この場をいち早く去りたいのは貴様だけではない。
「私以外に適任がいるだろう?」
「そこは個にして一軍に匹敵する力を誇る、ヴェムルア様にとの声が上がりまして」
「ただの閑職だ。余計な飾り立てをするな」
そう言って尚も食い下がるヴェムルアに、遂にアハトも溜息を隠さなくなった。アハトは携えた情報端末を起動させると、ヴェムルアに向けて一歩進み、虚空に映し出された電子文書を彼に突き出す。そこに表記されたものを見遣ると、ヴェムルアは目を見開いた。その様に肩を竦めるも、すぐにアハトはヴェムルアの目を見据えて告げる。
「事態は急を要します。我々全体に関わる」
ヴェムルアは一瞬目を伏せた後、アハトの丸く黒い四つ目を真っ直ぐに見るとこう返した。
「…了解した。それで、このアズの女は何者だ?手元の情報は全て寄越せ」
電子文書の上に重ねて表示される画像には、標的たる美しい女の姿が小さく表記されていた。

健人が日原望結と数年ぶりに再会したのは、その二日後——4月18日のことだった。場所は朝憬市駅前にある喫茶店アコール。モダン建築を取り入れたシックな佇まいを感じさせるその店内で、健人はレギュラーサイズのコーヒーを啜る。時間は午後14時半前。奥の席に座る健人は、キッチンと同居したレジカウンターの方を時折目で追っていた。そうしていると待ち合わせの時間である15時半ちょうど、懐かしい待ち人が店内に入ってくる。セミロングの髪と丈の長いワンピース姿で現れた日原望結は、最後に会った時と殆ど変わらない、柔らかで美しい印象だった。レジカウンターで注文を済ませ、席を探す彼女はすぐに健人を見つけると、会釈しながらこちらに歩み寄る。
「お久しぶりです、ご無沙汰してます」
「こんにちは、健人くん。お久しぶりです」
健人の挨拶はどこかぎこちなさがあった。ぎこちないながらも、柔和な笑みと挨拶を返す望結を壁際のソファに誘う。そして健人の方は椅子に掛けるも、余裕はすぐになくなっていた。
「ありがとう、今も親切だね」
「いや…」
「でも緊張してる」
微笑んで言われたその言葉に、健人も知らず苦笑した。誤魔化すようにコーヒーを一口啜る。
「俺、顔に出ますからね」
「だけど繕いすぎるよりいいよ」
「…変わってないっスね」
健人の癖を、肯定的に言い換えた望結のその様に、そんな言葉が微笑と共に口をついて出た。「そうかな?」と続く言葉と、首を傾げ、目を細める彼女の所作に、今もどこか惹き付けられる。
「健人くんはあれから、どう?メールしてくれた時は、”人を大切に思えない”って書いてたけど」
「ああ、そうだ。すみません。えっと、どう言ったもんかな…」
今日ここに来たそもそもの目的を思い返す言葉に、意識が現実へと引き戻される。最近の自身の状況は既にメールしていたが、そこに至るまでの苦難は割愛していた。
「…あれから、色々あったんです。でも一番は、自分と人に疲れちゃったみたいで、面倒くせえって」
「…それだけのことが、あったんだね」
「それこそ、繕いすぎたのかな?俺」
そう、繕っていただけだ。優しい人間になりたかったはずだった。だから福祉という人の生活の困難と幸福に関わる学問を専攻した。
「友達と話して、日原さんみたいになりたかったのを思い出したんです。だから、今また会えれば、何か見えるかなって」
だが実際は、そういう自分――正義漢を気取り、酔っていただけの話だ。しかし今、そんな酩酊にさえ自身が疲れ果てている。でありながら未だに、優しさに焦がれた記憶は、酷い二日酔いのように自身の内にこびりつき、同時に腐臭を発していた。或いはさながら酒臭さか。思いの外、饒舌に話す自身に驚きながらも、健人は望結にそれまでの自身のことを話し始めた。

喫茶店アコールの付近に位置するさるホテルの一階、ガラス張りにされたフロント隅のソファに黒コートの男——ヴェムルアが座していた。その右の手元にはアハトと同型の情報端末を潜ませ、また左手を耳元に当てている。そこに着けられているイヤホンは擬態の一つだった。しかしその口は動かされることはない。
「首尾はどうかね?」
「ええ、”糸”と”チビたち”は張り巡らしておりますよ」
念波を通じ、ヴェムルアが語り掛けると、アハトの返事が内に響いた。
「擬態もせずによくやる」
「伊達や酔狂で情報部に所属しているわけではありません」
「状況は?」
アハトの軽口を流しながら、ヴェムルアはアコールの方へと振り向き、その鋭い目を向ける。
「若い男と話しています」
「男?情報にはないぞ」
「彼女のかつてのクライアントと見えます。この星では彼女は…」
「理解している。話の内容もカウンセラーだったそれか」
「ええ、そのようです」
所謂人生と心理の相談役。知性体のつまらぬ足掻きの生んだ商売の一つ。それ以外の認識も感慨も大して持ちはしない。しかし——。
「面倒ですな」
「ああ。夜には一人になるか…」
「…仮にそうなり得ない場合は?」
「下世話な愚問だ。だがそうなら男をダシにでもすればいい」
標的は聡明な女だ。低俗なロマンスに身を投じるタイプではない。情報を踏まえれば、それは容易に想像できた。だが不利な選択肢は一つでも減じ、有用な手札は増やしておくのがヴェムルアという者の主義だった。
「ほう…」
「追加の手当は出そう。君も付き合え」
アハトに男を人質として押さえさせておき、使えるカードでなければ切って捨てればいい。
「私の仕事の範疇をそろそろ越えるのですが」
「情報部に昇格を打診してもいい」
「私程度の要領では、責が増えるより更なる食事を頂きたいですな。構いませんか?」
「…ああ、口利きはしてやる。動いたらすぐに私を呼べ」
人を食ったような物言いをするクモに辟易しながらも、ヴェムルアはそれに応じる。種全体の危機を回避するための少々の痛手だ。そう解しつつヴェムルアは念話を切った。

「多分、健人くん…どこかで今も、自分に多くを求めてるんじゃないかな」
一通り、その後の自身について話したところで空いた間に、望結からの言葉が差し入れられた。しかし、健人は彼女を見返すことができない。醜い。自分はついぞ、この人のような美しい笑顔は出来なかった。
「…そうなんすよね。止まれなかった」
「私みたいになりたかったのって…あなた自身や周りの現実を、許せなかったんじゃないかな?」
「そうですね、そういうところです」
痛いところを突かれ、健人はつい矢継ぎ早に返答する。その後の言葉を待つ望結に、健人は瞳を伏せながらも静かに言った。
「色々、許せなかった…自分とか、色々」
「うん…」
頷き返す望結は両手でカップを持つと、冷めたコーヒーを啜る。健人のカップは既に空だった。沈黙による静寂が、周囲の喧騒を置いて二人を包む。だが、日原望結はその後、尚も言葉を紡いだ。それは、彼女自身の”驕り”に対しての懺悔だった。
「多分、私もその中に入ってる。それは私にも責任がある」
「違う!日原さんは…ミユ姉は俺と一生懸命話してくれた。だから…絶対違う」
反論しながらも、健人の目は明らかな動揺に泳いでいる。何でそんなこと言うんだミユ姉…やめて。
「…ずっと思ってたことがあるの。私は健人くんのことを、どこまで思えてたのかな?って」
「…どういうことですか?」
一番暴かれてはいけない人に、秘したい部分を明らかにされる。その恐れに健人の心身は震える。しかし望結は遂に、健人が秘しながらも苦悶していた部分を代弁した。
「私は、飾り付けた言葉をあなたに掛けてしまっていたから」
”大丈夫だよ”、”健人くんも、笑顔やってみよ”、”青空見てるとさ、何かいいなって”——。
代弁した言葉と共に、脳内ではかつての望結の声がこだまする。かつて憧れていた美しい笑顔。しかし今、その憧れは泡沫へと消え失せ、丸め込んでいた自身の内の暗さが、言葉となって響いた。不意に視界が涙で歪む。
”何が大丈夫なんだよ”、”笑うことまで頑張りたくねえよ”、”俺はその青空に潰されそうだ”——。
それは、あの頃確かに日原望結に憧れながらも、確かに健人に内在していた歪んだ感情だった。
「ごめんなさい。私もまた、あなたを追い詰めてた」
「…今更、謝らないでくださいよ。あの頃、俺のこと置き去りにしておいて…!」
目が潤み、知らず息が上がる。張り詰めた感覚に構わず、健人は憧れの象徴たる人へ、遂に自分自身をぶつけた。しかし日原望結という憧れというベールを剥いだ向こうには、ただ花森健人の虚しさが胸の内を漂う。
「帰ります」
「やっと聞けた…今のが、健人くんの本心だよね?」
「俺の本心を、勝手に決めないでください。俺は、俺はあなたに…追いつきたかったんだ」
その言葉を最後に健人は立ち上がると、悲痛に顔を歪めたままアコールを後にした。店を出てすぐに、ごく小さな蜘蛛が、自身のパーカーに張り付いたことに気づかぬままーー。

アコールから飛び出した健人は、そのまま足早に最寄りの朝憬駅へと向かう。外は既に夕焼けと宵闇が入り混じる17時38分。こんなはずではなかった。何も日原望結と話したからといって、”人を大切に思う”ことを簡単に思い出せるなどと思ってはいなかった。ただ、何か取っ掛かりか、前に進む新たな切っ掛けかだけでも掴めないか。そんな思いで、数年閉ざしてきた彼女への連絡手段を引っ張り出し、メールした。少なくとも応じてくれた彼女に、”置き去りにされた”などどいう言葉を投げつけるためではなかったはずだ。にも拘らず、自身の内の暗さに過剰反応して告げた言葉は、そんな恨みがましい部分の本心。訳も分からず泣けてきた。街の、それも人通りの多い駅の改札近くで、大の男が泣く姿を晒すなど、最早どうしようもないじゃないか。どうにか堪えようとする。しかし駅のホームで足が止まった瞬間、止めどなく涙は頬を伝った。
「どうして、どうして俺…」
”健人くんの笑顔を見たいから…良かったら一つずつ、お話ししない?”
”大丈夫、ちゃんと見てるよ”
”健人君は、大切なことを手放さないように頑張ってる”
”だから私は、そんなあなたの味方でありたい”
掛けてもらってきた言葉が今になって胸を揺さぶった。屈折した少年だった自分には、確かに望結の飾り付けた言葉を”綺麗事”と跳ねつけ、常にそうあり続けたあの美しさが、最早脅威に思えた時もあった。しかしそうした自身の感情を置き去りにされてしまっていたとして、尚もどこかであの美しさに後ろ髪を引かれ続けた。それは何故か。簡単なことだった。
「…俺、ミユ姉のこと…」
伝えなければ。自分はあんな美しさなんて持ち得なかったとしても。何でミユ姉のように誰かを大切に思えるようになりたかったか、伝えなければ。腐った自分の慟哭や悲哀をぶつけて終わりなんて御免だ。あんな言葉のまま、俺があの人を置き去りにするなど冗談ではない。辺りは本格的に暗くなり始めた18時24分。健人は望結に向けて今一度、メールを認め始めた。

”さっきはごめんなさい、ミユ姉。悲しませることを言ってしまいました。確かにミユ姉の言葉が重荷な時があったのはそうです。でも、それでも俺は、あなたがカッコよくて素敵な人だって思ったから、ミユ姉に追いつきたかった。俺にとってミユ姉の優しさは、ヒーローみたいなそれだったんです。また、日を改めて伝えたいことがあります。見苦しいことをしておいて言えたものではないですが、どうかその時は伝えさせてやってください。今日は本当に、すみませんでした。”

電話番号は探し当てることができなかったため、彼女への連絡手段はこれしかない。祈る思いで健人はスマートフォンに表示されるメールの送信ボタンを押す。そうして帰路に向かう電車の中で、月と星の光る夜空を眺め、自身の憧れの始まりを反芻していた。

その後、日原望結からの連絡はないまま、三日が経った4月21日の夜。事が起きたのは、英道大学での講義を適当に聞き流し、自身のアパートへの帰路に着いた時のことだった。自転車を漕ぎながらも、返信が来ていないか気になった健人は、道の傍らに自転車を停め、スマートフォンを取り出す。メールアプリの更新ボタンを押し、数秒の読み込みの後に表示される"新着メールはありません"のメッセージと同時に、健人は小さく溜め息を吐いた。やはりそれだけ酷い思いをさせたのか。そんな考えに心中を掻きむしられる。しかし、それだけのことをしたなら、尚更彼女の返答を待たねばならない。何よりも、彼女は誠実な人だ。そう自らに言い聞かせてスマートフォンの画面を消し、顔を上げて再度自転車を漕ぎ出そうとする。だが街灯に照らされる目先の道を見たその時――。

目の前に、悪魔がいた。

「…っ!」
不意に動きが止まった。さながら金縛りのそれだが、訳がわからない。目の前のこいつは何だ、何者だ?だが得体の知れない圧を放つ存在への疑問を発するよりも前に、息を飲む健人に異形の左腕が迫った。叫びと大声を上げるも、その手に口ごと頭を掴まれ、音が出てくることは無い。自転車が足元で倒れる音だけがそこに響いた。
「…なん、で」
「囀るな。騒がれると困る」
辛うじて発した健人の言葉に対し、悪魔はそう告げると、即座にその胸に”爪”を突き立てた。瞬間、花森健人の意識は暗転した。
そこにあったのは泣いている誰か、嘲笑する者、叱責する者、口を閉ざす者。曇る表情、怒りと嘆き。微笑む日原望結。示された小さな光を追う花森健人。垣間見る欺瞞に笑う人、自身の醜悪。狂乱と諦観。そして…小さな光の先にあった、街を見下ろす展望台と赤髪の少女。そこで少女の口が何かを伝えようと動かされる。
「…なた……たしの――」
しかしノイズが走ったように上手く聞き取れない。展望台の光は大きくなり、見えるもの全てを眩しく塗りつぶしていく。そして泣いていた誰かの声が、今一度響いた。
「もう、全部終わるか?」
そこで頷いても良かった。だがしかし、首を振る。頷くにも首を振るにも、理由はそれなりにあった。ただ、決め手になったのは先のノイズ。きっとその向こうの言葉こそが、ついに手放してしまった大切なもの。それがわからないまま終わるなんて…!
「なら、足掻いてみせろ」
そんな誰かの言葉と共に、光はその色を赤く変えた。

悪魔の爪が突き立てられた筈の健人の胸。そこからもまた赤い光が発し、彼の内から溢れ出ていた暗い汚濁を払う。それと共に、健人の身体はその構成を変えていく。
「…っ!貴様…」
悪魔はすぐに爪を宿した右腕を引こうとするも、既に腕は光に焼かれ、粒子となって拡散していく。悪魔は脅威と苦悶に声を上げるも、引きずり込まれる右腕を自らの左腕で切り落とした。それと同時にクモの異形が悪魔の下に降り立ってその名を呼んだ。
「ヴェムルア様!」
「アハト、手を貸せ!…全く、やってくれたな…!」
それだけ言葉を交わし、異形二人は赤い光を見る。やがてその発光現象が収まった向こうには、花森健人だった存在が、甲虫を思わせる装甲を纏って佇んでいた。

//モルです。暗い話なのは全然問題ないです!健人の考え方や価値観には影が落ちてるので、その断片だけでも描写できれぱキャラに深みが生まれてよきです。ただ、健人の過去をばらすのは時期尚早な気がします。読み手に過去がわかってしまうとその深みがなくなってしまう…多少大げさにでも、過去についてはぼかしながら会話を描写することは可能でしょうか…
//モルです。とても良い感じです!エクリプスの会話を挟んで過去をぼかすのも想像だにしない切り口ですごく感心してます。健人と望結の関係も、健人が望結を通して抱いていた想いも、それが今も健人に影を落としていることも、絶妙な描写加減でとても惹き付けられます…! エクリプス陣営に残業や昇給の概念が出てきたのはびっくりだったけど…‪w エクリプスってお金もらえると嬉しいんでしょうか…? この辺は一考の余地がありそうですね…
/ギルです。一連の表現をモルに買ってもらえて良かったです。でも頂いたエクリプスの昇給とかの表現については、ちょっと言葉を変えました。それと、和明との会話を追加しています。また追ってこの後をさらに展開していきますねw
/以下、ギルの追記です。少し開けてしまいましたが、予定と少し描写を変えました。できるだけ不自然さを無くしたかったがためです。というのも…その後、花森健人は日原望結が好きだったことを思い出し、それを伝えようとするも、彼女は殺められる。(実際は不明?)⇒最後に送ったメールから、健人に日原望結が消えたことを察知されることをエクリプスらは危惧する。⇒そうして健人は、事前にアハトの子グモが張り付いていたことから居場所を辿られてしまう。⇒襲撃され、後の展開へ。というイメージで書きました。

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