モルの手記⑪ 不器用な少女 【A】 version 1

2021/10/28 19:07 by sagitta_luminis sagitta_luminis
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モルの手記⑪ 朝憬弓音

「じゃあ……私を殺して」

…バカなのかこいつは。
これまでに数え切れぬ絶望を見てきたが、自死を望む者は例外なくその根底にそこはかとない生存欲求を抱えていた。ところが、こいつは自分が死ぬ事で生存欲求が満たせるという。バカなのか。

——————————————————————————————

朝憬弓音は不器用な少女だった。
この朝憬市において、朝憬という姓はあまりにも有名である。由緒正しき名家の生まれである朝憬英治郎(えいじろう)が創立した私立学校、朝憬学園高校は県内でもトップクラスの名門校であり、数多くの著名人たちを輩出してきた。また英治郎の子や孫もみな朝憬学園を首席で卒業し、優秀な人材として世界中をまたにかけて飛び回っている。そんな超名門、エリートの一族として燕治郎の曾孫に生まれた朝憬弓音は、不器用な少女だった。

——————————————————————————————

朝憬弓音の不器用さは幼稚園の頃から顕著だった。いつもどこかぼーっとしており、先生の話を聞き流していることもしばしば。毎日のかけっこはいつもビリで、よく男子に泣かされていた。
この頃は英語とピアノ、幼児教室の3つにも通っていた。しかし、英語では終始ぼーっとしており、ピアノでは何度も同じ間違いをして先生に怒られ、幼児教室では終始無言なため先生から心配された。
“なんでできないのよ!やれって言ったらやりなさい!”

——————————————————————————————

基本的に無口で大人しく、手のかからない子ではあったが、なんの要求も口ごたえも言わず、まるでお人形のような幼少期を過ごした。
小学生になると少しは自我が芽生え始めたのか、夜遅くまで起きていたり、家にあるもので遊ぶようになった。しかし、就寝時間である夜9時を過ぎて起きていることがバレると新聞紙で頭を叩かれ、家の物を勝手に触ったことがバレると罵声を浴びせられ、時には手が出ることもあった。一方で、宿題が終わってないまま寝ていることがバレると、髪の毛を引っ張って起こされ、9時を過ぎていても無理やりやらされた。
“起きろよ。宿題もしてないやつが何寝てんだ。ほんとムカつく”

——————————————————————————————

誕生日は3/19なため、親は毎年誕生日プレゼントとして新年度の勉強道具や制服などを買い与えた。6歳の誕生日にランドセルを、7歳の誕生日にはバイオリンを買い与えた。
バイオリンはピアノがダメでも楽器が変わればできるかもしれないという親の願いであり、値段は100万をゆうに上回る代物。専属のバイオリン講師までつけてバイオリンの猛特訓が始まるも、そのハードさゆえに毎日終わった頃には疲れ果ててしまい、一週間も経たないある日、譜面台に足をからめて転倒しバイオリンを壊してしまう。焦った弓音は折れた指板をセロテープで繋ぎ合わせて練習を続けるも、音はもう出ない。そのことに気付いた親は激怒し、胸ぐらを掴んで怒鳴りあげ、頬を何度も叩き、罵倒し、蹴り飛ばした。
“○ねよ!いくらしたと思ってんだよ!○ぬまで働いて弁償しろ!”
“うっ…”
“まずは謝れよ!ごめんなさいも言えねえのか!”
“…ごめん、っなさい…‪…”
“はァ?聞こえてねえよ!”
“ごめんなさ…”
“聞こえてねえつってんだよ!!”

——————————————————————————————

中学年にあがると学力の差が点数に出るようになり、弓音に学力がないことを親が知ると、家庭教師を4人もつけて、毎日日替わりで弓音を勉強漬けにした。この時の弓音は他に書道、水泳、バレエを習っており、その合間に家庭教師が入るため弓音に休憩時間はほぼなかった。そのせいか学校で授業中に居眠りすることも多くなり、ますます学力は低下。前回より点数が低かった日は罰として一週間晩ご飯抜きになった。朝憬が超名門であることを理解しだした同級生たちからもからかいの対象になり、寝ている間にノートに落書きされる、筆記用具を取られるといったいじめに発展した。親に言えば居眠りしていることがバレてしまい、もっと殴られるだけなのでとても相談なんかできず、先生はその授業態度やテストの点からやる気のない子として見ているが、仮にも朝憬の姓を持つため下手に言及できず、放置状態だった。
弓音は自身が名門の生まれであることは親から口を酸っぱくして言われ、幼少期からそのことは理解していた。名門のプライドに傷をつけたら怒られることも。もし朝憬の一族がいじめにあっているなんて知られては大変なことになる。そのため、誰にいじめのことを聞かれても、私はされてないとごまかすようにしていた。
この頃の弓音は怒られたくない一心で、自分のミスを必死にごまかしたり、テストの点などはすぐバレるにも関わらず、嘘をついて偽った。どうしようもないその場しのぎでも、あとの自分がもっと酷い目に遭わされようと、とりあえずいま目の前にある苦しみから逃れるためならどんな嘘だってついた。
“おい吐けよ!今食ったもん吐けよオラ!!お前さっき84点って言ったよな!?このテスト用紙は56点って書いてあるぞ!?どーいうことだよ!”
“ごめんなさい…”
“ごめんなさいじゃねぇ!嘘ついたまま平気な顔して飯食いやがって!このクズが!卑怯者がァ!”
“お願いだから、もうお腹を殴るのはやめて…”

——————————————————————————————

高学年になると、ついに私にも友達ができた。その子は月野莉音(つきのりおん)といって、特別支援級に通っているため教室で起きている私へのいじめのことは知らなかった。どこか不思議な感じの男の子で、男の子だけれど男の子じゃないような、形容しがたい独特なオーラを纏っていた。
普段は穏やかで、静かに絵を描いている莉音くんは、私の前でだけ笑顔を見せた。一緒にトランプで遊んだり、教室のオルガンを鳴らして遊んでいるうちに仲良くなり、支援級の先生から許可をもらって、休み時間は支援級で一緒に過ごすようになった。莉音くんはオリジナルの言葉遊びや手遊びを教えてくれて、毎日新しい、世界で2人だけの遊びをした。莉音くんはなぜか、私を取り巻く環境のことや、私が過ごしてきた過去のことについては一度も話題に出さなかった。“朝憬”という姓に至ってはなんの関心も持ってなさそうだった。ただ「今楽しいか」、それだけを聞いてくれた。それが私にはすごく居心地がよかった。莉音くんといる間だけ、私は“朝憬弓音”を忘れて、“莉音くんの友達”でいられた。支援級ではいじめられることもないし、大好きな莉音くんの傍にいられるし、それはもう素晴らしい時間が流れた。
ある日、莉音くんはプレゼントをくれた。綺麗な箱にリボンがしてあって、「ここで開けられると恥ずかしいから、家に帰ってから開けてみて」と言われた。その日はじめて、家に帰るのが楽しみで仕方がなかった。
家に帰り早速開けてみると、中には何枚もの紙を組み合わせて作った、精巧でカラフルな鞠の折り紙だった。そのまま売り物にできそうなクオリティだけど、手先が器用な莉音くんのことだからきっとお手製に違いない。私は鞠を自分の机の上に飾った。贈り物は莉音くんを近くに感じられて、もうたまらなかった。ところが、親が帰ってくるなり鞠の折り紙に気付かれてしまった。
「なんだこの折り紙?学校で作ったのか?学校は遊ぶところじゃないぞ」
「違うの!それは私が作ったんじゃなくて…友達にもらったの」
「お前、勝手に友達なんか作って…お前のできの悪さが世間に知れたらどうする」
「えっ…」
「その子は誰だ。どんな子だ?名前を言え」
嫌な予感しかしない。もし相手が特別支援級の子だなんて知られたら…。適当に嘘をつきたいけど、パッと名前が浮かばない。莉音くん以外に生徒の名前を知らない…
「早く言えよ。名前も答えられない奴なのか?」
「…っ、月野莉音…くん…」
「チッ、男か」
親は悪態をつきながら出ていった。

「…………、読んでくれた?」
翌朝、莉音くんに会いに行くと、いつになく照れくさそうに聞かれた。「なんのこと?」と返すと、莉音くんは昨日のプレゼントの説明をしてくれた。あの鞠はくす玉のように下から開く仕組みになっていて、その中にメッセージカードを入れていたという。その説明も、箱の底部分に書かれていたらしい。全く気付かなかった。朝から早速、今日も帰るのが楽しみで仕方なくなってしまった。
しかし家に帰ると、先に親が帰っていて、机の上に鞠はなかった。
「お父さん、机にあった鞠は…」
「ああ、捨てた。月野莉音とかいう奴、特別支援級に通ってる障害者だろ?そんな奴と関わってお前の頭がもっと悪くなったらどうする。すぐに別れろ」
「そんな……」
心臓が痛いくらいにきゅっとなる。私の人生で唯一の宝物は、たった一日で失われてしまった。メッセージカードを楽しみに帰ってきたのに、読めずじまいのまま。あげくに大好きな人を障害者と罵られ。
「返事は?」
「おい、返事をしろ」
「いいか、もう関わるな。わかったら返事!」
返事をしないことが、精一杯の抵抗だった。返事をしたら、全て失う気がした。莉音くんのことだけは、嘘をつきたくない…!
「言うこと聞かないなら一週間晩飯抜きな」
「…っ、………………………………はい…」

———翌朝。莉音くんに別れ話なんてできるわけもなく。帰ったら読む約束をしていた鞠のメッセージカードは、読まれる前に捨てられてしまった。なんて、言える訳もなく。
莉音くんは私の家庭環境を知らない。正直に事情を全て話したら、なんて思われるかわからない。
読んだ、と嘘をついて過ごす莉音くんとの時間は、はじめて居心地が悪かった。これまで何度も嘘をついてきたけれど、こんなにも辛くて苦しい嘘ははじめてだった。親にも別れたと嘘をつき、それからもしばらくは莉音くんと一緒にいたけれど、2人でいる時間はバランスを崩した独楽のようにどこかぎこちなく、莉音くんはいつも笑顔を向けてくれるけど、私は次第に莉音くんの気持ちがわからなくなり、心の距離はすごく離れてしまっていた。
「今楽しいか」という問にも、嘘をついてしまった。
私は不器用だ。嘘を積み重ねなければ生きていけない。嘘をつけば全て壊れてしまう。変なところで涙が出てくる。目の前に莉音くんはいるのに、もう二度と会えないくらいに悲しい。

ある日、莉音くんがはじめて私のことを聞いた。内容は「チョコは好きか」。私は驚いて、聞き返してしまった。「どうして?」
莉音くんは毎年バレンタインに、お世話になった人たちに手作りチョコレートを振舞ってるらしい。私はもう、贈り物は勘弁だった。失わなきゃいけないものを貰えない。
「チョコは嫌い」
私はまた嘘をついた。

バレンタインデー当日の放課後。支援級に入ると、莉音くんが先生や支援級の子供たちにチョコレートの包み紙を渡している姿が目に入った。莉音くんは私に気がつくといつもより嬉しそうに笑顔を見せ、私にも包み紙を渡してきた。
「はいこれ、弓音ちゃんに。ハッピーバレンタイン!」
「えっ、でも私、チョコ嫌いって…」
「だから悩んだんだよね。でもどうしても渡したかったから、代わりにクッキーを焼いてきたの。特別だよ」
「………」
思わず顔が赤くなる。飛び跳ねてしまいそうな気持ちを必死に抑え、両手で顔を覆い、しゃがみこむ。私の小さな嘘なんか、莉音くんの大きすぎる気持ちの前には通じなかった。
「ごめんなさい…私、それ受け取れない…」
「え……もしかしてクッキーも嫌いだった?」
私は首を振る。クッキーを嫌いだと言ったところで、莉音くんは私への贈り物を諦めないだろう。第一、男の子なのにホワイトデーじゃなくバレンタインにチョコを渡してる。1ヶ月早いのはそんなに早く渡したかったから…?なんにせよ、またホワイトデー辺りに理由をつけて渡してくるに違いない。
「ちがうの…」
「じゃあ、どうして…?」
差し出された莉音くんの手を振り払う。
「私、莉音くんのこと好きじゃないから…!」
「えっ」
静まり返る学級。息苦しくなり、沈黙を破って立ち去る。零れる涙を拭いながら廊下を駆け抜ける。胸が痛い。好きな人からの好意を自分の手で引きちぎるような、そんな痛みがする。つらい。莉音くんに諦めてもらうためについた嘘は、私の心すらも深く抉っていった。もう二度と戻れない。取り返しがつかない。後悔しても遅かった。ごめんね莉音くん。莉音くんごめんね…私が馬鹿で不器用だったばっかりに…。
生まれ変わったら、来世でまた逢いたいな…。

その日を最後に、弓音が支援級に立ち寄ることはなくなった。休み時間を教室で過ごすようになるといじめも復活した。痛みを伴う悪質な嫌がらせも多かったけど、あの日の引き裂かれるような痛みに比べれば全然なんともなかった。

——————————————————————————————

6年生のある夜。晩ご飯が抜きになった日は、親が寝静まった夜中に起きてきて冷蔵庫を漁るのが習慣になっていた。ところが、今日はリビングの電気が点いており、両親の話し声も聞こえたため、息を潜めて廊下に待機することにした。2人はいつになく真剣に話し合っており、弓音は耳を疑った。
「なんで弓音だけあんなにも出来が悪いなんだ…長男はもうすぐ早稲田を卒業するってのに…恥ずかしくないのか」
「そうよねぇ…もう6年生なんだし、朝寝坊だとか授業中の居眠りだとか、はしたないことはやめればいいのに…」
「真面目にやらないから点数も低いわ、要領も悪いわ、あげくに嘘まで平気でつく卑怯者に育っちまって、もう手に負えないんだよ…」
「それに、これ以上朝憬の名に泥を塗るわけにはいかないわ…」
そんな話を延々としていた。弓音は聞いているうちに壁にもたれかかってうたた寝してしまい、後で見つかった両親に叩き起こされた。

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「じゃあ……私を殺して」

…バカなのかこいつは。
これまでに数え切れぬ絶望を見てきたが、自死を望む者は例外なくその根底にそこはかとない生存欲求を抱えていた。ところが、こいつは自分が死ぬ事で生存欲求が満たせるという。バカなのか。

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朝憬弓音は不器用な少女だった。
この朝憬市において、朝憬という姓はあまりにも有名である。由緒正しき名家の生まれである朝憬英治郎(えいじろう)が創立した私立学校、朝憬学園高校は県内でもトップクラスの名門校であり、数多くの著名人たちを輩出してきた。また英治郎の子や孫もみな朝憬学園を首席で卒業し、優秀な人材として世界中をまたにかけて飛び回っている。そんな超名門、エリートの一族として燕治郎の曾孫に生まれた朝憬弓音は、不器用な少女だった。

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朝憬弓音の不器用さは幼稚園の頃から顕著だった。いつもどこかぼーっとしており、先生の話を聞き流していることもしばしば。毎日のかけっこはいつもビリで、よく男子に泣かされていた。
この頃は英語とピアノ、幼児教室の3つにも通っていた。しかし、英語では終始ぼーっとしており、ピアノでは何度も同じ間違いをして先生に怒られ、幼児教室では終始無言なため先生から心配された。
“なんでできないのよ!やれって言ったらやりなさい!”

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基本的に無口で大人しく、手のかからない子ではあったが、なんの要求も口ごたえも言わず、まるでお人形のような幼少期を過ごした。
小学生になると少しは自我が芽生え始めたのか、夜遅くまで起きていたり、家にあるもので遊ぶようになった。しかし、就寝時間である夜9時を過ぎて起きていることがバレると新聞紙で頭を叩かれ、家の物を勝手に触ったことがバレると罵声を浴びせられ、時には手が出ることもあった。一方で、宿題が終わってないまま寝ていることがバレると、髪の毛を引っ張って起こされ、9時を過ぎていても無理やりやらされた。
“起きろよ。宿題もしてないやつが何寝てんだ。ほんとムカつく”

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誕生日は3/19なため、親は毎年誕生日プレゼントとして新年度の勉強道具や制服などを買い与えた。6歳の誕生日にランドセルを、7歳の誕生日にはバイオリンを買い与えた。
バイオリンはピアノがダメでも楽器が変わればできるかもしれないという親の願いであり、値段は100万をゆうに上回る代物。専属のバイオリン講師までつけてバイオリンの猛特訓が始まるも、そのハードさゆえに毎日終わった頃には疲れ果ててしまい、一週間も経たないある日、譜面台に足をからめて転倒しバイオリンを壊してしまう。焦った弓音は折れた指板をセロテープで繋ぎ合わせて練習を続けるも、音はもう出ない。そのことに気付いた親は激怒し、胸ぐらを掴んで怒鳴りあげ、頬を何度も叩き、罵倒し、蹴り飛ばした。
“○ねよ!いくらしたと思ってんだよ!○ぬまで働いて弁償しろ!”
“うっ…”
“まずは謝れよ!ごめんなさいも言えねえのか!”
“…ごめん、っなさい…‪…”
“はァ?聞こえてねえよ!”
“ごめんなさ…”
“聞こえてねえつってんだよ!!”

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中学年にあがると学力の差が点数に出るようになり、弓音に学力がないことを親が知ると、家庭教師を4人もつけて、毎日日替わりで弓音を勉強漬けにした。この時の弓音は他に書道、水泳、バレエを習っており、その合間に家庭教師が入るため弓音に休憩時間はほぼなかった。そのせいか学校で授業中に居眠りすることも多くなり、ますます学力は低下。前回より点数が低かった日は罰として一週間晩ご飯抜きになった。朝憬が超名門であることを理解しだした同級生たちからもからかいの対象になり、寝ている間にノートに落書きされる、筆記用具を取られるといったいじめに発展した。親に言えば居眠りしていることがバレてしまい、もっと殴られるだけなのでとても相談なんかできず、先生はその授業態度やテストの点からやる気のない子として見ているが、仮にも朝憬の姓を持つため下手に言及できず、放置状態だった。
弓音は自身が名門の生まれであることは親から口を酸っぱくして言われ、幼少期からそのことは理解していた。名門のプライドに傷をつけたら怒られることも。もし朝憬の一族がいじめにあっているなんて知られては大変なことになる。そのため、誰にいじめのことを聞かれても、私はされてないとごまかすようにしていた。
この頃の弓音は怒られたくない一心で、自分のミスを必死にごまかしたり、テストの点などはすぐバレるにも関わらず、嘘をついて偽った。どうしようもないその場しのぎでも、あとの自分がもっと酷い目に遭わされようと、とりあえずいま目の前にある苦しみから逃れるためならどんな嘘だってついた。
“おい吐けよ!今食ったもん吐けよオラ!!お前さっき84点って言ったよな!?このテスト用紙は56点って書いてあるぞ!?どーいうことだよ!”
“ごめんなさい…”
“ごめんなさいじゃねぇ!嘘ついたまま平気な顔して飯食いやがって!このクズが!卑怯者がァ!”
“お願いだから、もうお腹を殴るのはやめて…”

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高学年になると、ついに私にも友達ができた。その子は月野莉音(つきのりおん)といって、特別支援級に通っているため教室で起きている私へのいじめのことは知らなかった。どこか不思議な感じの男の子で、男の子だけれど男の子じゃないような、形容しがたい独特なオーラを纏っていた。
普段は穏やかで、静かに絵を描いている莉音くんは、私の前でだけ笑顔を見せた。一緒にトランプで遊んだり、教室のオルガンを鳴らして遊んでいるうちに仲良くなり、支援級の先生から許可をもらって、休み時間は支援級で一緒に過ごすようになった。莉音くんはオリジナルの言葉遊びや手遊びを教えてくれて、毎日新しい、世界で2人だけの遊びをした。莉音くんはなぜか、私を取り巻く環境のことや、私が過ごしてきた過去のことについては一度も話題に出さなかった。“朝憬”という姓に至ってはなんの関心も持ってなさそうだった。ただ「今楽しいか」、それだけを聞いてくれた。それが私にはすごく居心地がよかった。莉音くんといる間だけ、私は“朝憬弓音”を忘れて、“莉音くんの友達”でいられた。支援級ではいじめられることもないし、大好きな莉音くんの傍にいられるし、それはもう素晴らしい時間が流れた。
ある日、莉音くんはプレゼントをくれた。綺麗な箱にリボンがしてあって、「ここで開けられると恥ずかしいから、家に帰ってから開けてみて」と言われた。その日はじめて、家に帰るのが楽しみで仕方がなかった。
家に帰り早速開けてみると、中には何枚もの紙を組み合わせて作った、精巧でカラフルな鞠の折り紙だった。そのまま売り物にできそうなクオリティだけど、手先が器用な莉音くんのことだからきっとお手製に違いない。私は鞠を自分の机の上に飾った。贈り物は莉音くんを近くに感じられて、もうたまらなかった。ところが、親が帰ってくるなり鞠の折り紙に気付かれてしまった。
「なんだこの折り紙?学校で作ったのか?学校は遊ぶところじゃないぞ」
「違うの!それは私が作ったんじゃなくて…友達にもらったの」
「お前、勝手に友達なんか作って…お前のできの悪さが世間に知れたらどうする」
「えっ…」
「その子は誰だ。どんな子だ?名前を言え」
嫌な予感しかしない。もし相手が特別支援級の子だなんて知られたら…。適当に嘘をつきたいけど、パッと名前が浮かばない。莉音くん以外に生徒の名前を知らない…
「早く言えよ。名前も答えられない奴なのか?」
「…っ、月野莉音…くん…」
「チッ、男か」
親は悪態をつきながら出ていった。

「…………、読んでくれた?」
翌朝、莉音くんに会いに行くと、いつになく照れくさそうに聞かれた。「なんのこと?」と返すと、莉音くんは昨日のプレゼントの説明をしてくれた。あの鞠はくす玉のように下から開く仕組みになっていて、その中にメッセージカードを入れていたという。その説明も、箱の底部分に書かれていたらしい。全く気付かなかった。朝から早速、今日も帰るのが楽しみで仕方なくなってしまった。
しかし家に帰ると、先に親が帰っていて、机の上に鞠はなかった。
「お父さん、机にあった鞠は…」
「ああ、捨てた。月野莉音とかいう奴、特別支援級に通ってる障害者だろ?そんな奴と関わってお前の頭がもっと悪くなったらどうする。すぐに別れろ」
「そんな……」
心臓が痛いくらいにきゅっとなる。私の人生で唯一の宝物は、たった一日で失われてしまった。メッセージカードを楽しみに帰ってきたのに、読めずじまいのまま。あげくに大好きな人を障害者と罵られ。
「返事は?」
「おい、返事をしろ」
「いいか、もう関わるな。わかったら返事!」
返事をしないことが、精一杯の抵抗だった。返事をしたら、全て失う気がした。莉音くんのことだけは、嘘をつきたくない…!
「言うこと聞かないなら一週間晩飯抜きな」
「…っ、………………………………はい…」

———翌朝。莉音くんに別れ話なんてできるわけもなく。帰ったら読む約束をしていた鞠のメッセージカードは、読まれる前に捨てられてしまった。なんて、言える訳もなく。
莉音くんは私の家庭環境を知らない。正直に事情を全て話したら、なんて思われるかわからない。
読んだ、と嘘をついて過ごす莉音くんとの時間は、はじめて居心地が悪かった。これまで何度も嘘をついてきたけれど、こんなにも辛くて苦しい嘘ははじめてだった。親にも別れたと嘘をつき、それからもしばらくは莉音くんと一緒にいたけれど、2人でいる時間はバランスを崩した独楽のようにどこかぎこちなく、莉音くんはいつも笑顔を向けてくれるけど、私は次第に莉音くんの気持ちがわからなくなり、心の距離はすごく離れてしまっていた。
「今楽しいか」という問にも、嘘をついてしまった。
私は不器用だ。嘘を積み重ねなければ生きていけない。嘘をつけば全て壊れてしまう。変なところで涙が出てくる。目の前に莉音くんはいるのに、もう二度と会えないくらいに悲しい。

ある日、莉音くんがはじめて私のことを聞いた。内容は「チョコは好きか」。私は驚いて、聞き返してしまった。「どうして?」
莉音くんは毎年バレンタインに、お世話になった人たちに手作りチョコレートを振舞ってるらしい。私はもう、贈り物は勘弁だった。失わなきゃいけないものを貰えない。
「チョコは嫌い」
私はまた嘘をついた。

バレンタインデー当日の放課後。支援級に入ると、莉音くんが先生や支援級の子供たちにチョコレートの包み紙を渡している姿が目に入った。莉音くんは私に気がつくといつもより嬉しそうに笑顔を見せ、私にも包み紙を渡してきた。
「はいこれ、弓音ちゃんに。ハッピーバレンタイン!」
「えっ、でも私、チョコ嫌いって…」
「だから悩んだんだよね。でもどうしても渡したかったから、代わりにクッキーを焼いてきたの。特別だよ」
「………」
思わず顔が赤くなる。飛び跳ねてしまいそうな気持ちを必死に抑え、両手で顔を覆い、しゃがみこむ。私の小さな嘘なんか、莉音くんの大きすぎる気持ちの前には通じなかった。
「ごめんなさい…私、それ受け取れない…」
「え……もしかしてクッキーも嫌いだった?」
私は首を振る。クッキーを嫌いだと言ったところで、莉音くんは私への贈り物を諦めないだろう。第一、男の子なのにホワイトデーじゃなくバレンタインにチョコを渡してる。1ヶ月早いのはそんなに早く渡したかったから…?なんにせよ、またホワイトデー辺りに理由をつけて渡してくるに違いない。
「ちがうの…」
「じゃあ、どうして…?」
差し出された莉音くんの手を振り払う。
「私、莉音くんのこと好きじゃないから…!」
「えっ」
静まり返る学級。息苦しくなり、沈黙を破って立ち去る。零れる涙を拭いながら廊下を駆け抜ける。胸が痛い。好きな人からの好意を自分の手で引きちぎるような、そんな痛みがする。つらい。莉音くんに諦めてもらうためについた嘘は、私の心すらも深く抉っていった。もう二度と戻れない。取り返しがつかない。後悔しても遅かった。ごめんね莉音くん。莉音くんごめんね…私が馬鹿で不器用だったばっかりに…。
生まれ変わったら、来世でまた逢いたいな…。

その日を最後に、弓音が支援級に立ち寄ることはなくなった。休み時間を教室で過ごすようになるといじめも復活した。痛みを伴う悪質な嫌がらせも多かったけど、あの日の引き裂かれるような痛みに比べれば全然なんともなかった。

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6年生のある夜。晩ご飯が抜きになった日は、親が寝静まった夜中に起きてきて冷蔵庫を漁るのが習慣になっていた。ところが、今日はリビングの電気が点いており、両親の話し声も聞こえたため、息を潜めて廊下に待機することにした。2人はいつになく真剣に話し合っており、弓音は耳を疑った。
「なんで弓音だけあんなにも出来が悪いなんだ…長男はもうすぐ早稲田を卒業するってのに…恥ずかしくないのか」
「そうよねぇ…もう6年生なんだし、朝寝坊だとか授業中の居眠りだとか、はしたないことはやめればいいのに…」
「真面目にやらないから点数も低いわ、要領も悪いわ、あげくに嘘まで平気でつく卑怯者に育っちまって、もう手に負えないんだよ…」
「それに、これ以上朝憬の名に泥を塗るわけにはいかないわ…」
そんな話を延々としていた。弓音は聞いているうちに壁にもたれかかってうたた寝してしまい、後で見つかった両親に叩き起こされた。

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