超多様化の時代 #駄文 version 3

2016/11/22 21:36 by zk33 zk33
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超多様化社会の時代 #駄文
トランプ当選の件を見ながら、こんなことを考えていた。

https://twitter.com/zk33/status/796567466507980801

> トランプ当選の件を見ながら、格差やら何やらが進行して人々の多様性というか差異の振れ幅が大きくなればなるほど、自分の属するコミュニティの外にいる人の感情や行動の予測は難しくなりそう、みたいな事をぼんやり考えてる

あれこれ考えてみると、もしかして今「**超多様化社会**」とでも言うべき社会に到達しているのではないか。そんなことを考えあれこれ考えてみると、もしかして今「**超多様化社会**」とでも言うべき社会に到達しているのではないか。そんなことを考えたりしていた
国際化によ化のり。移民の増加。経済的格差り。情報化社会の進行よる情報格差の広がり男女のLGBTの受け入れ。都市部と田舎の情報量やライフスタイルの差異…。
今、世の中で現在進行形で起こってい様々な変は、「価値観多様化」につなるようのが非常多い
今、世の中で現在行形で起こっている様々な変化は「価値観多様化」産むようなのが非常に多い情報化が進んで界中情報が共有されたり、国際化がんだり、移民が増えれば文化的に多様性が増す。
人の寿命が伸びれば、若い人と老いた人との間に価値観のギャップが広がる。
収穫加速の法則に則って科学技術が進歩を加速すれば、知識を正しくアップデートしている人とそうでない人の間では様々な知識のギャップが大きくなる。
経済の規模が大きくなれば最も稼ぐ人とそうじゃない人ギャップが大きくなり、お金に対する考え方やライフスタイルのギャップが広がる。
インターネット活用している人とそい人と間では情報の格差広がり、知識のギャップが広がる
結果、生き方、価値観、ライフスタイル、色々なものがとても幅広くなっていっている。
同じ国に暮らしていても、アメリカンな暮らしをする人もいれば、和な暮らしをする人もいる。古臭い暮らしをする人もいれば、先進的な暮らしをする人もいる。
これほどまでに人の価値観・ライフスタイルが多様化している時代というのは、未だかつてなかったのではないだろうか。

日本で考えてみると、たとえば高度経済成長の時代というのは、「一億総中流」なんていう言葉があったように、みんなだいたい同じような人生を同じように生きていた。グラフ的に表すならこういう感じだろう。

古い時代はだいたいこん感じで、身分制度によって数パターンに分かれることはあっても、国家単位で見てそこに暮らす人の生き方に大きな幅はな古い時代はだいたい似たようものだ。身分制度によって数パターンに分かれることはあっても、国家単位で見てそこに暮らす人の生き方に大きな幅はなさそうだ
今の世の中、先進国は特にそうだと思うのだけど「多様性を受け入れる」方向で全てが進んでいる。グラフ的に描くならこうだろうか。
一方、今の世の中、先進国は特にそうだと思うのだけど「多様化する」「多様性を受け入れる」方向で全てが進んでいる。グラフ的に描くならこうだろうか。

今で中世みたいな暮らしをしている人いれば先進的な暮らしをする人もいる。価値観もどんどん広がってるし、マイノリティと呼ばれる人も受け入れられてきて多様化は恐らく現代の宿命のようなのだ。エントロピーみたいなもので、広がりきって安定すまでは増大するかない。

これは、今世相を考えた、どうしたってなる別にそれが悪いとだってわけじゃない。
都市にいるインテリ層が偉いわけでも正しいわけでもない。人そぞれ色々な向き不向きがあるように、合う暮らし人それぞれ全く違う。しがらみ多い田舎の暮しが肌に合人もいる、山の中で原始的な暮らしをしい人だっているだろう。

国際化が進んだり、移民が増えれば文化的に多様性が増す。
人の寿命が伸びれば、若い人た人と価値観ギャップが広がる。
収穫加速法則に則って科学技術が進歩を加速すれば、科学的な知識を正しくアップデートしている人とそでない人間では科学的知識のギャップが大きなる。
経済規模くなれば、最も稼ぐ人とそうじゃな人のギャップが大きくる。
インターネットを活用しているでない人との間では情報の格差が広がる、都市部と田舎では情報量やスピード感、人間関係の作り方など色々なものが違う多様性といは非常大事なもだし、よいもだと僕は思っている。実際、ど考えたって何年も前時代より、たさんやす時代にているとうし。

多様化は現代宿命のようなもので、エントロピーみたいもので、広がりきって安定すは増大すかない。
しかしそ一方で、厄介事は確かに起こって。
さっきの図考えてみと分ることのだけど、「自分から遠人」が増えるのだ
別にそれが悪いことだってわけじゃない。
都市にいるインテリが正いわけじゃい。それぞれ色々な向き不向きるように、合う暮らしは人それぞれ全違うしがらみの多田舎の暮らしが肌合う人もいる原始的な暮らしをしたい人だっているだろう。
そういう多様性というは非常に大事ものだし尊重されるべきだと僕は思っている。実際、どう考えたって何年も前時代よ、たくさんの人が生きやすい時代になていると思うしも身近な人、自分属すコミュニティの事はよくわかるコミュニティにいる、「常識」が近い人ことは、うまく想像るだろう。
「一億総中流」時代1億人中かなりの部分の人が「常識の通じる相手」だたはずだ
かしそ一方で、厄介事は確かに起こってくる。
さっきの図で考えてみると分かることのだけど、
だが、価値観が多様化、価値観幅が広くなってくると、自の「常識」が通用しい範囲が大きくなっていく。

身近な人、自分が属するコミュニティの事はよくわかる。
でも、同時に、自分には分からない領域がどんどん大きくなっていく。価値観の「遠い」人がどんどん増えているのだ。

これは、ある意味では怖い。
世の中のたくさんの人の考えていることが全くうまく推測できなくなるのだ。すぐ隣に住んでいる人と、文化も価値観も違うなんて事が平気で起こりうる。

世界が多様化すればするほど、自分が理解できない人の数は増えていく。
世界が多様化すればするほど、自分がすんなり理解できない人の数は増えていく。
自分の所属するコミュニティの外側にある情報がうまく摂取できなくなり、正確な予測も難しくなる。「常識的に考えてこうだろう」という自分にとっての常識は、世界規模ではまったく通用しなくなるかもしれない。

実際に、トランプが当選するっていう事も、イギリスがEU離脱を選ぶことも、正しく予測できなかったわけだし。
実際に、トランプが当選するっていう事も、イギリスがEU離脱を選ぶことも、**メディア側にいるインテリ層は**正しく予測できなかった。インテリ層が正く把握できない範囲が大きくなっている、ということなのかもしれない
◇ ◇ ◇

世の中はまだまださらに多様化していくだろう。
自分の常識の通用しない相手と出会う事も今後たくさんありそうだ。

そういえばここ数年、「仲間」とか「絆」みたいな「コミュニティのど真ん中のほがウケてたのは、価値観が多様化する中で、どこか帰属意識とか「中心」みたいなものを見つけて安心たかったのではないか、なんてことを思ったりもするそういえばここ数年、「コミュニケーション能力を要求する話が目につくが、必要なのは「空気を読む」とかそういう能力でなく「常の違う人」どうに分かりあってうまくやってく力のかもしない。

また、「仲間」とか「絆」みたいな「コミュニティのど真ん中/中心」的なものがウケていたのは、価値観が多様化する中で、どこか帰属意識とか「中心」みたいなものを見つけて安心したかったのではないか、なんてことも思ったりもする。多様化の進行と流行るものを突き合わせてみると、結構面白いものが見えてきそうな気がする。

さて、価値観が大きく多様化した社会で、さて、国家規模での民主主義みたいなコンセプトはまともに機能できるのか。
これほど同じ国にいる人の間で価値観の違いが大きくなっていくと、過半数を取るというのも、その結果に納得してもらうのもとても難しくなっているように思うのだけど。
◇ ◇ ◇

トランプの件カリフォルニア州が独立しいなんていう話が出ていたけど、したらあれはある意味は正し考え方なのかもし価値観の人を集め都市や国作ったほ居心地良い都市/国なるだろし。

国家機能は最小化し、都市などのう少し細かい単位で権限を持つようにするか、都市はもっと個性を主張し価値観の合う人を集めるような形のほがいいでは、とか、ふと疑問に思っのだけど、こうて価値観が多様化した社会、国家規模での民主主義みたいなコンセプトはまともに機能できるだろう。
こほど同じ国にる人の間で価値観のが大きくなっいくと、過半数取るといのも結果納得してもらうのもと難しくなっていくように思うのだけど…      

トランプ当選の件を見ながら、こんなことを考えていた。

https://twitter.com/zk33/status/796567466507980801

トランプ当選の件を見ながら、格差やら何やらが進行して人々の多様性というか差異の振れ幅が大きくなればなるほど、自分の属するコミュニティの外にいる人の感情や行動の予測は難しくなりそう、みたいな事をぼんやり考えてる

あれこれ考えてみると、もしかして今「超多様化社会」とでも言うべき社会に到達しているのではないか。そんなことを考えたりしていた。

今、世の中で現在進行形で起こっている様々な変化は、「価値観の多様化」につながるようなものが非常に多い。

情報化が進んで世界中の情報が共有されたり、国際化が進んだり、移民が増えれば文化的に多様性が増す。
人の寿命が伸びれば、若い人と老いた人との間に価値観のギャップが広がる。
収穫加速の法則に則って科学技術が進歩を加速すれば、知識を正しくアップデートしている人とそうでない人の間では様々な知識のギャップが大きくなる。
経済の規模が大きくなれば、最も稼ぐ人とそうじゃない人のギャップが大きくなり、お金に対する考え方やライフスタイルのギャップが広がる。
インターネットを活用している人とそうでない人との間では情報の格差が広がり、知識のギャップが広がる。

結果、生き方、価値観、ライフスタイル、色々なものがとても幅広くなっていっている。
同じ国に暮らしていても、アメリカンな暮らしをする人もいれば、和な暮らしをする人もいる。古臭い暮らしをする人もいれば、先進的な暮らしをする人もいる。
これほどまでに人の価値観・ライフスタイルが多様化している時代というのは、未だかつてなかったのではないだろうか。

日本で考えてみると、たとえば高度経済成長の時代というのは、「一億総中流」なんていう言葉があったように、みんなだいたい同じような人生を同じように生きていた。グラフ的に表すならこういう感じだろう。

古い時代はだいたい似たようなものだ。身分制度によって数パターンに分かれることはあっても、国家単位で見てそこに暮らす人の生き方に大きな幅はなさそうだ。

一方、今の世の中、先進国は特にそうだと思うのだけど「多様化する」「多様性を受け入れる」方向で全てが進んでいる。グラフ的に描くならこうだろうか。

多様化は恐らく現代の宿命のようなものだ。エントロピーみたいなもので、広がりきって安定するまでは増大するしかない。

別にそれが悪いことだってわけじゃない。
都市にいるインテリ層が偉いわけでも正しいわけでもない。人それぞれ色々な向き不向きがあるように、合う暮らしは人それぞれ全く違う。しがらみの多い田舎の暮らしが肌に合う人もいるし、山の中で原始的な暮らしをしたい人だっているだろう。

多様性というのは非常に大事なものだし、よいものだと僕は思っている。実際、どう考えたって何年も前の時代より、たくさんの人が生きやすい時代になっていると思うし。

しかしその一方で、厄介な事は確かに起こってくる。
さっきの図で考えてみると分かることなのだけど、「自分から遠い人」が増えるのだ。

誰しも身近な人、自分が属するコミュニティの事はよくわかる。
近いコミュニティにいる、「常識」が近い人のことは、うまく想像できるだろう。
「一億総中流」の時代なら、1億人中のかなりの部分の人が「常識の通じる相手」だったはずだ。

だが、価値観が多様化し、価値観の幅が広くなってくると、自分の「常識」が通用しない範囲が大きくなっていく。

これは、ある意味では怖い。
世の中のたくさんの人の考えていることが全くうまく推測できなくなるのだ。すぐ隣に住んでいる人と、文化も価値観も違うなんて事が平気で起こりうる。

世界が多様化すればするほど、自分がすんなり理解できない人の数は増えていく。
自分の所属するコミュニティの外側にある情報がうまく摂取できなくなり、正確な予測も難しくなる。「常識的に考えてこうだろう」という自分にとっての常識は、世界規模ではまったく通用しなくなるかもしれない。

実際に、トランプが当選するっていう事も、イギリスがEU離脱を選ぶことも、メディア側にいるインテリ層は正しく予測できなかった。インテリ層が正しく把握できない範囲が大きくなっている、ということなのかもしれない。

◇ ◇ ◇

世の中はまだまださらに多様化していくだろう。
自分の常識の通用しない相手と出会う事も今後たくさんありそうだ。

そういえばここ数年、「コミュニケーション能力」を要求する話が目につくが、必要なのは「空気を読む」とかそういう能力ではなく、「常識の違う人」とどうにか分かりあってうまくやっていく力なのかもしれない。

また、「仲間」とか「絆」みたいな「コミュニティのど真ん中/中心」的なものがウケていたのは、価値観が多様化する中で、どこか帰属意識とか「中心」みたいなものを見つけて安心したかったのではないか、なんてことも思ったりもする。多様化の進行と流行るものを突き合わせてみると、結構面白いものが見えてきそうな気がする。

◇ ◇ ◇

で、ふと疑問に思ったのだけど、こうして価値観が多様化した社会で、国家規模での民主主義みたいなコンセプトはまともに機能できるのだろうか。
これほど同じ国にいる人の間で価値観の違いが大きくなっていくと、過半数を取るというのも、その結果に納得してもらうのもとても難しくなっていくように思うのだけど…。